『孫子』から学ぶインテリジェンス講座(7-最終回)▼

情報組織を運用するには経費を惜しむな

 『孫子』は戦いには金を惜しんではならないと次のように説いている。

「およそ師を興すこと十万、師を出すこと千里なれば、百姓の費、公家の奉、日に千金を費やし、内外騒動して事を操(と)るを得ざる者、七十万家。相い守ること数年にして、以て一日の勝を争う。而るに爵禄百金を愛(おし)んで敵の情を知らざる者は不人 の至りなり。……故に明主・賢将の動きにて人に勝ち、成功の衆に出づる所以の者は先知 なり。先知は鬼神に取るべからず。事にかたどるべからず。度に験(もと)むべからず。必ず人に取りて、敵の情を知る者なり。

これを訳すると以下のとおりとなる。

戦争には莫大な国家予算がかかり、国民に犠牲を強いる非常事態を数年間も続けることになるが、勝敗は一日の決戦で決まる。こうした費用を出し惜しみせずして、初めて七十万の軍隊を動かすことができる。

情報を取るためのスパイの活用にお金を惜しむことは、戦いに負けて結果的に民衆を苦しめることなる。 それなのに金を使うのを惜しんで、敵に関するインテリジェンスを得ようとしないのは、まったく愚かなる行為である。

ゆえに、聡明な君主や賢い将軍が兵を動かせば、敵に勝ち、成功を得ることで衆人よりも優れているのは、間者を利用して先に知るからである。先知は、祈祷や占などではなく、かならず人によってこそ、敵情を知ることができる。

諜報員をもっとも優遇せよ

また、『孫子』は「故に三軍の事、間より親しきは莫(な)し賞は間より厚きは莫(な)し、事は間より密なるはなし」(用間編)と述べている。

これは、だから、君主や将軍は、全軍の中でも間者(スパイ)を最も親愛し、恩賞は間者に最も厚くし、仕事上の秘密は間者にもっとも厳しく守らせる、という意味である。

戦国武将の織田信長は諜報・謀略を重視した。彼の名を世に知らしめたのは、なんといっても今川義元との桶狭間の戦いにおける大勝利である。

この戦いでは、信長は、なかなか義元の現在地が掴めなかった。そこに、梁田政綱(やなだまさつな)から「義元、ただいま、田楽狭間に輿(こし)をとどめ、昼食中」との情報を越した。これにより、信長は義元を奇襲により討つことに成功した。

信長は、功名第一は梁田、第二は義元に一番槍をつけた服部小平太、第三は義元の首をとった毛利新助(義勝)とした。奇襲のお膳立てをした梁田の諜報・謀略を最も重視したのである。まさに信長は『孫子』を実践したのである。

インテリジェンスは金がかかる

諸外国は情報機関の運用に膨大な費用を掛けている。米国の国家情報機関の予算は500億ドル以上(5兆円以上)。現在のわが国の国家情報機関の費用に関する具体的な情報は不明であるが、おそらく米国とは比べようもない。

情報機関の運用には不透明性がつき物であり、使途不明金もある。エージェントの運用資金などの詳細を明らかにすることはできない。使途不明金は許されないからとして、インテリジェンスにかかる経費が切り詰められれば、「爵禄百金を愛(ほし)んで、敵の情を知らざる者は不人の至りなり」ということになりかねない。まずは国家指導者には「インテリジェンスには金がかかる」ことを認識していただきたい。  

旧軍においては明石元二郎大佐の工作活動に百万円の国家予算を充当して、自由に使わせた。明石大佐は地下組織のボスであるコンヤ・シリヤクスなどと連携し、豊富な資金を反ロシア勢力にばら撒き、反帝勢力を扇動し、日露戦争の勝利に貢献しようとした。

当時の国家予算が2億5000万であったことから、渡された工作資金は単純計算では現在の2000億円を越える額であった。明石の活動に国家的支持が与えられていたことがうかがえる。

翻って、今日はわが国はどうだろうか? 十分に情報活動に経費を配当しているだろうか?情報活動に経費を配当し、情報要員を重視しているだろうか?

昭和期の日本軍において作戦重視、情報軽視の風潮が蔓延していたという。現在の自衛隊においてもしかりである。このことを深く認識しているようには思われない。

さいごに 

『孫子』が最も強調する点は「勝算もないのに戦うな」ということ、すなわち「戦わずして勝つ」ことである。このための不可欠な要素がインテリジェンスである。

インテリジェンスの役割は無用な争い回避する、あるいは「戦わずして勝つ」ことに寄与すること。つまり、相手国の意図、彼我の能力、環境条件などを把握し、外交によって相手国の譲歩を引き出すための条件を作為することである。

歴史に「仮に」ということはタブーであるが、先の大戦では旧軍が『孫子』を忠実に守り、インテリジェンスを軽視しなければ、敗戦を回避できたかもしれない。すなわち「五事七計」に基づいて、彼我の戦力分析を行えば、無用な戦争はしなかったかもしれない。

日清・日露戦争における勝利以後、わが国では攻勢・攻撃精神が強調され、インテリジェンス軽視という風潮が生起した。日清・日露戦争後の1907年の『国防方針』『用兵綱領』では「攻勢を本領」と確定し、かつ、1909年の『歩兵操典』においても攻撃精神が強調された。

こうした風潮のなかで『孫子』の解釈にも変化が生じたとして、大阪大学・大学院教授・湯浅邦弘氏は以下のように述べる。

「昭和初期から『孫子』を超えた『孫子』解釈が進められ、軍国日本が『孫子』に決別を告げた。……徹底した合理主義に貫かれた『孫子』を曲解し、誤読し、また無視しつつ、精神主義偏重の気風の中で『孫子』の名だけが担がれた。……『孫子』の「君命も受けざるところあり」(九変)が綱領や操典が記す独断専行の肯定に使われ、現実の旧軍の行動に則さない『孫子』の条文は部分否定された」と(湯浅『軍国日本と「孫子」』)。

さらに湯浅氏は、『昭和天皇独自録』から、昭和天皇の戦争分析、「大東亜戦争の遠因」の第一に「兵法の研究が不十分であった事、即(すなわち)、孫子の敵を知り、己を知らねば、百戦危(あや)うからずという根本原理を体得していなかったこと」をあげている。

兵法はその時代、時代に応じた解釈があってしかりであり、また実情に則して応用する必要がある。兵法をビジネスの世界に生かすことも大いに結構であろう。

しかし、必要なことは『孫子』の最大の本質は何かということである。すなわち、本質は「戦わずして勝つ」、次いで「勝ち易きに勝つ」ということであり、そのためにインテリジェンスを重視せよ、インテリジェンスにかかる経費を惜しむなということなのである。インテリジェンスを志す有為な諸氏には、是非このことを肝に銘じてほしい。

以上、『孫子』から、インテリジェンス関連の記述を抜粋しつつ、若干の解説を加えておいた。皆様におかれては、これ以外にも『孫子』からインテリジェンスに関する多くの知見を得ることができると思う。(了)

中国の統一戦線工作(2)

はじめに

今回は中国による統一戦線工作に基づく対日工作の歴史を語ります。なお、全体像を理解する上では、拙著『中国が仕掛けるインテリジェンス戦争』をお読みいただければと思います。

中国の今日の国家戦略・戦術を理解するためには、最低限、中国共産党の歴史については押さえておくことが必要であると、筆者は考えます。

▼統一戦線はソ連共産党の基本理念 

1917年11月、ホルシェビキは武力蜂起によって、権力を奪取しました(十月革命、この11月7日が、ロシア革命記念日)。 同日には最初のソビエト大会が開催され、政府である人民委員会議が成立、その議長(首相)にはウラジーミル・レーニン、外務人民委員にはレフ・トロツキー、民族問題人民委員にヨシフ・スターリンが就任します。

ソビエト政権はモスクワ近郊を制圧し、11月10日には左派社会革命党を政権に取り込みます。ここに統一戦線戦術の萌芽がみられます。そして、ボリシェヴィキは1919年に「共産党」に改称します。

1919年3月には、国際的な共産主義運動を指導する共産主義インターナショナル。コミンテルンが結成されます。これが、世界革命を指導する機関として動くことになります。   1921年のコミンテルン第3回大会において統一戦線が論議され、1922年の第4回で統一戦線が方針化します。

しかし、その後の革命輸出における進展は思わしくなく、やがて「世界革命近し」という情勢認識から、革命情勢の成熟には長い時間が必要だとの認識に変化します。そして1935年7月から8月にかけての第7回大会で、コミンテルンは「反ファシズム人民統一戦線を結成すべきである」という方針を打ち出しました。

つまり、ドイツにおけるナチスなどのファシズム(全体主義)の台頭とアジアにおける日本軍国主義による中国侵略に対し、共産党が単独で対決するのではなく、社会党や社会民主党、自由主義者、知識人、宗教家などあらゆる勢力と協力せよ、命じたのです。

この方針にもとづいて、フランスやスペインに人民戦線が結成されます。またアジアでは、中国共産党がこの路線に基づき、1935年8月の長征途中「抗日救国のため全国同胞に告げる書」という『八一宣言』を発表しました。これは、抗日民族統一戦線の結成を国民党などに呼びかけたものです。

このコミンテルンの動きを警戒した日本とドイツは1936年11月に日独防共協定を締結します。すなわち戦前のわが国は、統一戦線を明確な脅威と認識したのです。

▼中国共産党の統一戦線の歴史

1921年に産声を上げた中国共産党は、吹けば飛ぶような、ちっぽけな存在でした。だから、中国共産党は国民党に対して浸透工作をはかり、その内部を分裂させ、同調する者をシンパとして取り込むことで生存を維持するしかありません。

上述のように、コミンテルンの方針にもとづいて中国共産党1935年8月に八・一宣言を出し、抗日民族統一戦線の結成を国民党などに呼びかけます。 この方針が具体化されたのが1936年12月の西安事件です。中国共産党はこの事件を契機に、内戦停止と一致抗日で国民党と合意(第二次国共合作)しました。つまり、当面の主敵である日本軍を崩壊させるために国民党を友として結集したのです。

この一致抗日によって統一戦線に基づく対日工作が本格化します。1938年11月、毛沢東は「中国人、日本人、朝鮮、台湾人の統一戦線を設立し、日本軍国主義に対する共通の闘争を行う」との方針を決議します。

この方針が八露軍総政治部隷下の敵軍工作部に伝えられ、同工作部は日本兵捕虜を友人として扱い、自ら反戦陣営に転向させるよう画策しました。 日本軍捕虜扱いの基本方針は「日本兵は虐げられた大衆の子弟であり、日本の軍閥や財閥に騙され、強制されて我々に銃を向けているのである。したがって、いかなる殺傷ないし侮辱を行ってはならず、人道的に扱う」というものでした。

こうして人道的に扱われた捕虜のなかから自発的に反日組織が各地に続々誕生しました。これは、「少数の軍国主義と大多数の日本人民を区別せよ」とする「二分法」という戦術であり、「統一戦線」理論にもとづくものでありました。

以上をまとめますと、共産党が生存・発展していくなかでは周恩来らがソ連共産党の対外機関であるコミンテルンから学んだ統一戦線の実践がありました。それは政権を奪取する過程において巨大敵を駆逐・崩壊させるため、我が方の味方を固める、自己にとっての主敵をまず孤立・分立させて主敵から分離した者を友として広範囲に結集しようとするものです。

コミンテルンの戦術を、毛沢東が中国の実情を踏まえ、より洗練化したのが中国共産党の統一戦線工作だといえます。

▼統一戦線を支えた宣伝工作と「田中上奏文」

「統一戦線」を進めるための戦術となったのが宣伝工作です。中国共産党が国民党や地方軍閥に勝利するためには、あらゆる地位、階級、党派の区別なく「統一戦線」を結成する必要がありました。 そのため全民族の結集力を高めるための宣伝工作が重視されました。毛沢東は「全て政権を覆す者は、世論をつくり、イデオロギー面での工作を行わなければならない」と、その重要性を強調しています。

中国共産党による宣伝工作で無視できないのが、田中上奏文(たなかじょうそうぶん)です。これは昭和初期に米国で発表され、中国を中心として流布した怪文書です。 これは、第26代内閣総理大臣・田中義一が1927(昭和2年)に昭和天皇へ極秘に行った上奏文であるとされ、そこには中国侵略・世界征服の手がかりとして満蒙を征服する手順が説明されています。

日本では偽書とされ、当時中国で流布していることに対して中国政府に抗議したところ、中国政府は機関紙で真実の文書ではないと報じました。しかし、その後の日中関係悪化にともない1930年代に、中国は 「田中上奏文」たるもの利用して「日本は満州侵略を企図し、世界征服を計画している」との反日宣伝工作を展開しました。

この反日宣伝を展開したのが国民党中央宣伝部です。しかし、実はこれを背後で利用・画策していたのが中国共産党であるとの説が強いのです。 前述の1938年の『八一宣言』のなかで「田中上奏文によって予定された、完全に我が国を滅亡しようという悪辣な計画は、まさに着々と実行されつつある」との国際宣伝に打って出ました。

この対日宣伝工作では郭沫若が重要な役割を演じました。郭は日本に留学していましたが、1937年に日中戦争が始まると中国に緊急帰国し、南京大虐殺を世に知らしめたティンパーリ著『戦争とは何か』の中国版の序文を書きました。文化人で著名な郭が序文を書いたことで、同著は北米における反日世論の形成に大いに貢献しました。

郭の緊急帰国に際しては駐日中国大使館参事官の王梵生が協力しました。王は国民党系列に属する「国際問題研究所」の所長として対日工作を仕切っていたのですが、なんと、彼は隠れ共産党員であったとされています。これが、背後で中国共産党が国際反日宣伝を展開していた、との説を裏付けているようです。 

▼日本に対する統一戦線工作

中国共産党による対日工作は、コミンテルンの弟弟子である日本共産党と連携しておこなわれました。その中心人物が日本共産党の野坂参三です。 野坂は1940年3月にモスクワから延安に移転し、そこで毛沢東と合流しました。

同年7月、野坂は中国共産党の支援を受けて「日本人民反戦同盟」の延安支部を結成し、これを起点に1944年4月には日本人による初の反戦組織である「日本人民解放連盟」を結成しました。同連盟は兵士向けの反戦宣伝ビラの作成・配布、心理戦の研究・教育などをおこないました。

中国共産党による反日宣伝工作は敵軍工作部によって行われました。敵軍工作部は、日本軍の切り崩しのための宣伝工作が執拗 におこないました。 敵軍工作部は、活字が読めない一般大衆や、中国共産党報道機関の活動を厳しく弾圧する日本軍占領地域に対してラジオ放送を重視しました。

そのため、1941年12月30日、中国共産党は延安新華広播電台を設立しました。これが、反日宣伝のための重要な拠点となりました。 ここでは野坂らの指導を受けた日本人女性などが雇用され、日本語で反戦を促す抗日反戦宣伝放送が行なわれたのです。

▼戦後における国際統一戦線の展開

日本軍降伏後は再び国民党を敵にし、広範囲に反蒋介石の「統一戦線」を結成し、国民党に勝利しました。 いわば主敵を潰すためならば、協力できるものならば誰とでも共闘するという戦略・戦術なのです。

このような発想が建国後の中国の外交政策に活用されました。これが「統一戦線」の国際版である「国際統一戦線」です。中国はまず「向ソ一辺倒」政策を打ち出し、ソ連を「友」とし、米国を最大の「敵」としました。

毛沢東はアジア、アフリカ、南米を米帝国主義と社会主義陣営の中間に位置する「中間地帯」に分類し、これに対する「統一戦線」を展開しました。つまり「中間地帯」に対して共産主義革命を輸出し、同地帯において「中国の友」を作ることで、米ソによる中国侵攻を阻止する緩衝地帯にしようとしたのです。

▼日本に対する革命輸出

日本も「中間地帯」に位置づけられました。1950~60年代、中国共産党は日本共産党、日本社会党などの親中政党を「友」とし、日本における共産主義革命を推進するための工作活動を展開したのです。

その革命輸出のための当初の担い手となったのが野坂です。野坂は1946年に帰国しますが、「統一戦線」理論を日本に持ち帰りました。 そして、日本社会党などと党派を超えた民主戦線の樹立を画策しました。つまり、これが、現在の日本共産党が行っている民主連合政府の樹立に向けた、統一戦線戦術の淵源なのです。

野坂による統一戦線の効果が表れ、1949年2月の総選挙では日本共産党は35名の議席を獲得しました。野坂が延安で学んだ「統一戦線」の教訓が生かされたのです。 これに自信を深めた野坂は、平和革命路線を強調しました。

しかし、当時、各国共産党を指導していたコミンフォルム(1943年に解体されたコミンテルンの後継)は1950年1月、『恒久平和と人民民主主義のために』という機関誌で、野坂の平和革命路線を痛烈に批判します。

これに対して日本共産党は、「コミンフォルムの批判は、日本の実情を考慮していない」として反発したが、中国共産党も『人民日報』の社説「日本人民解放の道」においてコミンフォルムを支持しました。

結局、日本はコミンフォルム批判を全面的に受け入れ、野坂は自己批判します。 かくして日本共産党はコミンフォルムの指示に基づき、米国の占領政策に対する全面的な非合法武装革命闘争を行なうことになったのです。 

▼現在も継続される対日統一戦線工作

現在、中国共産党の直属機構として中央統一戦線工作部があります。これは中国共産党と党外各民主党派との連携を担当する機構であると謳われています。その任務は、人民政治協商会議の運営、民主諸党派に対する指導など、国内や海外の民衆党派と連携して、宗教対策や華僑対策を行うものとされます。 

これだけ読むと、実にソフトイメージです。 しかしながら、民主諸党派とは、実際には中国共産党に協力する傀儡政党であり、一党独裁との批判を回避するための存在にしか過ぎません。

また、統一戦線工作部には諜報・工作部門としての役割があります。これまで香港の返還や新疆ウィグルの中国化さらには台湾統一などの工作を行ってきたことが判明しています。つまり、「戦わずして勝つ」式の中国領土の拡張や、少数民族地域における中国化を推し進めてきたのです。

まだ、皆様の記憶に新しいと思いますが、2015年7月、わが国の国会では安保関連法が可決されました。

これに対して、中国は国営『新華社通信』で、同法案が憲法違反などと指摘しました。 さらに「多くの日本人と良識ある知識人は苦い過去と同じ轍を踏みたくなく、日本政府の軍事政策の動向に強い警戒化を持っている」「日本軍国主義の侵略戦争は中国や他のアジアの国々に深刻な災難をもたらした。軍国主義化のなかで、多くの日本人が騙され戦争の犠牲者となった」などとコメントしました。(拙著『中国戦略悪の教科書』より抜粋)

これは、毛沢東時代の二分法を現在も適用していることの証左です。統一戦線が中国共産党の歴史的かつ伝統的に重みのある戦術であることがよくわかります。

(次回に続く)

『孫子』から学ぶインテリジェンス講座(6)

防諜の重要性

カウンター・インテリジェンスは対情報などと翻訳されるが、いまだわが国には定着していない。しかし、旧軍では防諜という用語があり、これがカウンターインテリジェンスの実態とほぼ同様なので、以下、防諜と呼ぶことにする。

防諜は相手国の情報機関による情報活動や各種工作から我の情報機関の要員や情報活動を防護するため、非公然な活動も含む組織的かつ積極的な活動である。旧軍における防諜は、諜報、宣伝、謀略とともに秘密戦を成していた。そして、防諜には消極防諜と積極防諜があり、消極防諜が前回(5)で言及した情報保全として理解していただければ、ほぼ問題はない。

第十三編「用間」では反間(二重スパイ)を最も重視せよといっている。 なぜならば、すでに述べたとおり五間の情報源の糸口は必ず反間によって得られるからである。 しかし、反間を最大限に優遇しなければならないもっと大きな理由は、反間がカウンターインテリジェン、すなわち防諜の最大の武器だからある。

アレン・ダレスは「二重スパイは防諜の最も特徴的な道具である」と述べている。 相手国の情報機関から、水面下での諜報や秘密工作を受けている場合、我が組織を防護するためには受動・防勢的な情報保全だけでは不十分である。相手国スパイが所属している情報機関の組織、活動方法及び活動目標を能動的に解明し、相手国の情報組織を破砕する必要がある。つまり、能動的な対抗策、すなわち防諜が必要となる。

諸外国はいずれも防諜を重視し、そのための専門組織を持っている。いくら対外情報収集機能が優れていても、相手側のカウンターインテリジェンス機能が強力な場合、我の情報活動は成果を挙げられない。相手国の組織にスパイを潜入させても、防諜機関によってスパイ網が解明、摘発され、逆に偽情報によって我が組織は壊滅的打撃を被ることになるからである。

相手国が隠密裏に浸透させるスパイ網を摘発する基本は、わが組織に浸透した敵側のスパイを寝返らせ、わが組織にひっそりと蔓延するスパイ網の存在を暴露させることが基本である。すなわち、『孫子』のいう反間の運用がもっとも有用なのである。

ところで、不穏なスパイに遭遇した場合、故意か過失は問わず、インテリジェンスを漏洩したものに対してどのように遇すればよいのだろうか? 

これに関して、「用間」では「間事未だ発せざるに而も先ず聞こゆれば、其の間者と告ぐる所の者と、皆な死す」と説く。つまり、スパイを運用する諜報・謀略活動が、未だ外部に発覚するはずのない段階で、他の経路から耳に入ってきた場合に、そのスパイとインテリジェンスを伝達してきた者は死刑にすると述べているのである。この厳しい防諜体制があってこそ、組織が守ることができるのである。

先の「海軍乙事件」では、事情聴取後、福留参謀長がフィリピンの第二航空艦隊長官へ、山本中佐も連合艦隊主席参謀に栄転した。なお、この人事措置には、海軍が秘密漏洩の事実がなかったことを公式に表明する意味もあったとみられている。 『孫子』と対比するならば、当時の日本軍の寄り合い主義と情報管理の甘さは大いに責められるべきであろう。太平洋戦争敗因の大きな原因として、末長く後世の記憶に留めておく必要があるといえよう。

反間のさらなる活用が秘密工作(謀略)

秘密工作を情報活動の範疇に含めるべきではないという議論はある。しかし、それは無理なことである。秘密工作は情報機関による活動がエスカレートする過程で生まれてきたものだ。 

また秘密工作は非公然、水面下で行われるのが原則だから公式の政府機関や軍事機関は使えない。したがって、CIAやKGBの例をあげるまでもなく、各国においては情報機関がしばしば秘密工作を担ってきた。伝説の元CIA長官のアレン・ダレスは、「陰謀的秘密工作をやるには情報機関が最も理想的である」と述べている。(アレン・ダレス『諜報の技術』)

つまり、情報組織から秘密工作という活動を除外することは不可能である。

史上最大の欺瞞工作

陰謀的秘密工作の醍醐味は敵をまんまんと欺くことである。つまり、敵に誤判断や錯誤をもたらし、『孫子』がいうところの「戦わずして勝つ」「勝ち易きにして勝つ」ということである。

この欺瞞工作を最も得意としていたのが第二次世界大戦時のイギリスの首相、ウィストン・チャーチル(一八七四~一九六五)である。彼がおこなった欺瞞工作でもっとも有名なのが「ミンスミート作戦」(挽肉作戦の意味)である。

この作戦は、連合軍の真の上陸目標であるシチリア島からドイツ軍の関心を逸らすために、正体不明の死体をイギリス軍将校に偽装し、彼が不測の事故に遭遇したという体裁をとった。つまり、イギリス軍将校が重要な機密書類を携行して運ぶ途中に航空機事故にあったように見せかけたのである。

もちろん、この機密書類はまったくの偽物で、ドイツ軍の関心をシチリアからバルカン半島に向けさせるよう緻密に偽装した作戦計画であった。イギリスはこの死体を、偶然にドイツ軍が入手するように、スペインのウェルバ沖の海岸から放棄した。それにドイツ側がマンマとひっかり、防御正面の重点を誤ったのである。

さらにおおがかりな欺瞞工作の成功事例が「ダブルクロス作戦」である。この作戦を取り仕切ったのは「二〇委員会」という組織である。二〇をローマ数字にすれば、XXとなる。すなわちダブルクロスである。 この作戦は、ドイツ軍のスパイを二重スパイとして活用する、ドイツ軍の暗号を解読するなどして、ドイツ軍が連合国の計画を誤って解釈するよう仕組むものであった。

ダブルクロス作戦の最大の成果とされるのが、ノルマンディー上陸作戦(一九四四年六月)である。この作戦は簡単に言えば、ドイツ側に対し、連合国の上陸正面がノルマンディー海岸(ポーツマス対岸)ではなく、カレー海岸(ドーバーの対岸)であるかのように錯誤させるための欺瞞工作である。そのため、上陸部隊による陽動作戦のほか、ドイツ側から寝返った二重スパイによって、「本格的な攻撃はカレー正面に対して行われる」との偽情報をドイツ軍上層部に流し続けたのである。

大掛かりなダプロクロス作戦が最後まで気づかれなかったのは、イギリスがひそかに実施していた、ドイツ暗号の解読(「ウルトラ」作戦)の成果による。 イギリスはドイツ暗号を解読している事実を秘匿するために、決定的な影響を及ぼさないレベルでの作戦上のミスを意図的に行った。

また、二重スパイを介して、差し障りのない真実の情報をドイツ側に与え、スパイが寝返ったことを秘匿した。そして、ここぞとばかりに〝乾坤一擲〟の欺瞞工作に打って出たのである。

一方でイギリスは、二重スパイに転向することを承諾しない者は容赦なく処刑した。このようにイギリス側の欺瞞工作は、諜報、防諜と一体になって行われるということを物語っているのである。 なお、第二次世界大戦時におけるイギリス軍の欺瞞工作については、吉田一彦『騙し合いの戦争史 スパイから暗号解読まで』において詳述されている。

インテリジェンスとは、対象国の意図や能力を明らかにすることだと思っている傾向が強い。それは重要なことであるが、一部である。 とくに塀のなかの情報分析官は、学者や研究者のように対象国のオシントを中心に、卓越した語学力を駆使して、対象国の意図を解明したがる傾向にある。いや、解明した気になる。

しかし、歴史は、多くの情報分析が不可視的な意図を分析して失敗し、そり失敗の原因の大きな要因が相手側の欺瞞であっことはわかっている。 塀のなかにいる情報分析官も、世の中がスパイ活動によって欺瞞工作を受けていることを理解すべきである。でなければ、偽情報に踊らされて、誤った分析することになる。

わが国が対米決戦を決めた、ハルノートの作成にはソ連の影がちらさていた。これにかかわる研究も進んでいる。当時のルーズベルト政権にはソ連のスパイ網が深く浸透していた。こうした歴史をもっと知る必要がある。自分で真実を研究する必要はないが知っておくことは大切である。

インテリジェンスのなかには敵を知る、己を知る、環境を知る、そして活動には知る、守る、知らせる(ミスリードさせる)さらには、通常の外交活動では対処できない水面下での問題解決を指向する活動まであることを忘れるべきではない。 

中国の統一戦線工作(1)

はじめに

先日、中国の「『統一戦線工作』が浮き彫りに」という米国からの記事(「古森義久のアメリカノート」、産経新聞、平成30年9月23日付)が掲載されました。 この記事は現在の米中戦争の深淵をとらえたものだと感心しました。

実は筆者は、2016年に『中国が仕掛けるインテリジェンス戦争』を上梓しましたが、ここでもこの統一戦線工作をひとつのメインテーマとして取り上げています。なお、現在の統一戦線のやり口については、拙著『中国兵法悪の教科書』で取り上げています。

それら詳細については拙著お読みいただければ嬉しいのですが、実は『中国が仕掛けるインテリジェンス戦争』においては対日統一戦線工作の歴史についてはあまり言及していません。それには、理由があったのですが、ここでは触れません。

その前に、古森記者の秀逸の二つの記事を引用して、統一戦線工作とは何か、中国が仕掛けている統一戦線の実態とはいかなるものか、その概要を理解することとしましょう。 これを理解すれば、貿易戦争と呼ばれる米中戦争の実態がより浮彫になるでしょう。

▼古森義久氏の「あめりかノート」

以下は古森氏の記事の引用です。なお、段落分けは筆者が独自に行っていますので、ご了承下さい。

中国の「統一戦線工作」が浮き彫りに ワシントンではいま中国に関して「統一戦線」という用語が頻繁に語られる。中国共産党の「統一戦線工作部」という意味である。本来、共産党が主敵を倒すために第三の勢力に正体をも隠して浸透し連合組織を作ろうとする工作部門だった。

「習近平政権は米国の対中態度を変えようと統一戦線方式を取り始めました。多様な組織を使い、米国の官民に多方向から働きかけるのです」   米国政府の国務省や国家情報会議で長年、中国問題を担当してきたロバート・サター・ジョージワシントン大学教授が説明した。

そんな統一戦線方式とも呼べる中国側の対米工作の特定部分がワシントンの半官半民のシンクタンク「ウィルソン・センター」から9月上旬に学術研究の報告書として発表された。 米国全体の対中姿勢が激変したからこそ堂々と出たような内容だった。 「米国の主要大学は長年、中国政府工作員によって中国に関する教育や研究の自由を侵害され、学問の独立への深刻な脅威を受けてきた」 こんなショッキングな総括だった。

1年以上をかけたという調査はコロンビア、ジョージタウン、ハーバードなど全米25の主要大学を対象としていた。アジアや中国関連の学術部門の教職員約180人からの聞き取りが主体だった。結論は以下の要旨だった。

・中国政府の意を受けた在米中国外交官や留学生は事実上の工作員として米国の各大学に圧力をかけ、教科の内容などを変えさせてきた。 各大学での中国の人権弾圧、台湾、チベット自治区、新(しん)疆(きょう)ウイグル自治区などに関する講義や研究の内容に対してとくに圧力をかけてきた。

・その工作は抗議、威嚇、報復、懐柔など多様で、米側大学への中国との交流打ち切りや個々の学者への中国入国拒否などを武器として使う。  この報告の作成の中心となった若手の女性米国人学者、アナスタシャ・ロイドダムジャノビク氏はこうした工作の結果、米国の大学や学者が中国の反発を恐れて「自己検閲」をすることの危険をとくに強調していた。

こうした実態は実は前から知られてきた。だがそれが公式の調査報告として集大成されて発表されることが、これまでなら考えられなかったのだ。 いまの米国の対中態度の歴史的な変化の反映だといえよう。さて、わが日本でのこのあたりの実情はどうだろうか。(以上、ワシントン駐在客員特派員・古森義久氏の記事からの抜粋)

▼「アメリカを侵す中国 その1 統一戦線工作」

また、古森氏は「アメリカを侵す中国 その1 統一戦線工作」と題する記事において、10月4日のワシントンのハドソン研究所でのマイク・ペンス副大統領の重要演説を引用して、次のように述べています。

アメリカの対中国政策が歴史的な変化を画した。そのうねりのなかで、中国がアメリカに対して仕かけているさまざまな工作が明らかとなった。新時代を迎えた米中関係の実態を、主として中国によるアメリカの内外の権益や秩序への侵食という観点から報告しよう。

アメリカのマイク・ペンス副大統領はトランプ政権全体を代表して10月4日、ワシントンのハドソン研究所で重要演説をした。「アメリカ政府の中国に対する政策」とずばり題された演説だった。

同演説はこれまでのアメリカの歴代政権が関与政策の下に中国と協力し、中国が国際社会のよき一員となり、国内の経済も豊かにし、やがては共産主義独裁を薄めて民主主義や人権尊重という普遍的な価値観を受け入れていく、という期待を持ってきた経緯を説明していた。だが、ペンス副大統領はこの米側の政策が失敗だったと宣言したのだ。

副大統領はそして中国共産党政権が国内の独裁を強めながら「国家の全機能」をあげてアメリカに挑戦し、高度技術や知的財産を盗み、アメリカの国内政治にまで干渉してきたと非難した。

ペンス副大統領は中国の軍事面での侵略的、膨張的な動きとして南シナ海での拡張、尖閣諸島への攻勢、日本を含むアメリカのアジア太平洋での同盟諸国への威圧、台湾への威嚇をも糾弾した。中国は要するにアメリカをアジアから追い出し、自国の非民主的な価値観に基づく覇権を確立しようとしているというのだ。

だが同副大統領はアメリカはもう中国の軍事、経済、政治すべての領域での無法な覇権拡大は絶対に許さないと言明した。核戦力の強化を含むトランプ政権の軍事力増強によって中国の軍事がらみの膨張は阻止するとも明言するのだった。もはや「米中冷戦」という表現が陳腐に響くような二大強国の新たな衝突とさえいえる。

こうした変化を迎えたアメリカの首都ワシントンでは「ユナイテッド・フロント」という言葉がしきりに聞かれるようになった。政府や議会、あるいは民間で、とくに中国にかかわるアメリカ側の関係者たちが熱をこめて、この用語を使うのだ。 この言葉は英語では「United Front」、つまり「統一戦線」という意味である。本来は中国語の英語訳で、中国共産党中央委員会に直属する機関の「統一戦線工作部」の名称なのだ。

そんな中国共産党の組織の略称がなぜいまのワシントンで頻繁に提起されるのか。この点にこそトランプ政権下のアメリカが中国に対して前例のない強硬姿勢を固めたという実態が象徴される。同時に中国のアメリカに対する敵意に満ちた策謀が米側にとっても明らかになった、ともいえる。

トランプ政権は中国に対する政策をオバマ政権時代とは根本から変えて、中国の無法な膨張を力さえも使って抑えこむという厳しい態度をとるようになった。中国をアメリカの基本的な国益や価値観を侵す潜在敵に等しい存在だとみる認識が定着したのだ。

この中国敵視の態度はトランプ政権だけではない。連邦議会でも中国への激しい警戒や対決の気運が広まった。共和党、民主党の区別なく、トランプ政権の対中姿勢がまだソフトすぎるという声さえ出るほどである。

いまのアメリカのこうした中国に対する強固な対決姿勢は最近の日本での動きとは対照的である。日本では中国との関係に「友好」とか「蜜月」などという表現さえが使われるようになった。中国の「一帯一路」構想にすり寄る動きさえが出てきた。中国のみせかけの微笑に引き寄せられた観がある。

だがアメリカ側は正反対に中国への非難や圧力をかつてないほどに強めるようになったのだ。その結果の一つとして登場してきたのが「統一戦線」という用語なのである。

共産党委員長が統一戦線に言及

以上、古森記者の秀逸な記事を引用しましたが、以下は、統一戦線の実態について筆者なりに解釈していることを説明したいと思います。

実は、統一戦線という言葉はわが国においても決して馴染のない言葉ではありません。 まずは、日本共産党における統一戦線について言及します。

日本共産党が統一戦線を堅持していることを明言していることを認識するためには、2016年8月7日の 共産党創立94周年記念講演での志位和夫委員長による演説がもっと良い事例でしょう。

志位委員長は同講演において、2016年7月10日の参議院選挙での好結果に意気揚々として、『野党共闘』が日本共産党綱領に謳われている『統一戦線』だと明言してたのです。以下、関連個所を引用しましょう。

みなさん。今回の野党と市民の共闘は、日本共産党の歴史でも、日本の戦後政治史でも、文字通り初めての歴史的な第一歩であります。(拍手)  日本共産党は、1961年に綱領路線を確定して以降、一貫して統一戦線によって政治を変えることを、大方針にすえてきました。  

1960年代後半から70年代にかけて、日本共産党が国政選挙で躍進するもとで、統一戦線が発展しました。ただ、この時期の統一戦線は、主に地方政治――革新自治体に限られており、国政での統一戦線の合意は当時の社会党との間で最後まで交わされず、国政での選挙協力もごく限定的なものにとどまりました。  

ところが、今回の参議院選挙ではどうでしょう。安保法制=戦争法案反対をつうじて広がった新しい市民運動に背中を押され、わが党が昨年9月19日に発表した「戦争法(安保法制)廃止の国民連合政府」の「提案」が契機となって、全国32の1人区のすべてで野党統一候補が実現し、11選挙区で勝利をかちとるという、全国規模での統一戦線、選挙協力が初めて現実のものとなり、最初の大きな成果を結んだではありませんか。(「そうだ」の声、大きな拍手)  

この統一戦線は、まだ始まったばかりで、さまざまな未熟さを抱えておりますが、大いなる未来をもっているという希望を抱いてもよいのではないでしょうか。(「そうだ」の声、拍手)  

日本共産党綱領の統一戦線の方針が、国政を動かす、戦後かつてない新しい時代が始まっている――ここに確信をもって、開始された野党と市民の共闘をさらに前進させるために、あらゆる知恵と力をそそごうではありませんか。(「そうだ」「よし」の声、大きな拍手)

つまり、この時日本共産党は「統一戦線」により、民進党の内部分裂を横目にみながら、協力できる派閥を巧みに取り込み、自らの党勢拡大を推し進め、政権の座につく意気を示したのです。

統一戦線は党綱領に明記

日本共産党の綱領では、第4章「民主主義革命と民主連合政府」の(13)項に登場します。以下、引用します。

(13)民主主義的な変革は、労働者、勤労市民、農漁民、中小企業家、知識人、女性、青年、学生など、独立、民主主義、平和、生活向上を求めるすべての人びとを結集した統一戦線(とういつせんせん)によって、実現される。

統一戦線は、反動的(はんどうてき)党派とたたかいながら、民主的党派、各分野の諸団体、民主的な人びととの共同と団結をかためることによってつくりあげられ、成長・発展する。(以下、中略)

日本共産党と統一戦線の勢力が、積極的に国会の議席を占め、国会外の運動と結びついてたたかうことは、国民の要求の実現にとっても、また変革の事業の前進にとっても、重要である。(以下、中略)

日本共産党と統一戦線の勢力が、国民多数の支持を得て、国会で安定した過半数を占めるならば、統一戦線の政府・民主連合政府をつくることができる。日本共産党は、「国民が主人公」を一貫した信条として活動してきた政党として、国会の多数の支持を得て民主連合政府をつくるために奮闘する。(以下、中略)

 このたたかいは、政府の樹立をもって終わるものではない。引き続く前進のなかで、民主勢力の統一と国民的なたたかいを基礎に、統一戦線の政府が国の機構の全体を名実ともに掌握(しようあく)し、行政の諸機構が新しい国民的な諸政策の担い手となることが、重要な意義をもってくる。(以下、略)

また、党綱領第5章「社会主義・共産主義の社会をめざして」では、さらに将来、社会主義・共産主義の社会への前進をはかる段階でも、「社会主義への前進の方向を支持するすべての党派や人びとと協力する統一戦線政策を堅持」すると明記しています。

つまり、統一戦線とは、政権を奪取するための戦術であり、必要とあれば、どのような勢力とも連携するというものです。まずは、統一戦線により、 政府・民主連合政府を樹立し、最終的には日本共産党の独裁体制を成就すると解釈できます。

以上、現在の米中戦争のなかで注目されているキーワード、すなわち統一戦線は特段の珍しい用語ではありません。わが国の政党である日本共産党の党綱領に明記された用語であり、現執行部が政権奪取に向けて保持し続けている戦術であるということです。

まずは、今回はこの点を押さえていただきたいと思います。次回は統一戦線の歴史についてお話ししたいと思います。

(次回に続く)

『孫子』から学ぶインテリジェンス講座(その5)

第13編用間の5つのスパイ

第13編「用間」では、「故に間を用いるに五間あり、・・・」として、以下五種類の間(スパイ)に区分している。

1)「郷間」:敵国及び第三国の一般大衆から情報収集を行うスパイ

2)「内間」:敵国の官僚、軍人などを誘惑して秘密情報を収集するスパイ

3)「反間」:敵国のスパイが我が方に寝返ったスパイ (二重スパイ)

4)「死間」:自らを犠牲にして、敵側に浸入して、偽情報を自白して、相手側を撹乱させるスパイ

5)「生間」:は、最終的に生きて敵側から重要な情報を持ち帰るスパイ

最も重要なスパイは反間

なかでも孫武が重視するのが「反間」(二重スパイ)である。 孫武は「必ず敵人の間ありて、我を関するものを索め、よりてこれを利し、導きてこれを舎す、故に反間を得て使うべきりなり」と述べている。

これは、敵の間者としてわが国の様子をうかがっている者を必ず探し出し、何らかの切欠を求めてこれと接触し、あつく賄賂を与えて、わざと求める情報を与え、よい家宅に宿泊させて、ようやく反感として用いることができる、との意味である。

さらに「五間の事、主必ず之を知る。之を知るは必ず反間に在り。故に反間は厚くせざるをべからざるなり」と述べる。これは、五とおりの間者からの情報を君主は必ず知っておかなければならないが、それらの情報源の糸口は必ず反間によって得られるから、反間をもっとも優遇しなければならない、との意味である。

情報活動の種類

情報活動はこれらの五種類のスパイを駆使して行われる。つまり、それぞれの「間」は、以下のように、情報活動の区分にもなる。

「郷間」:一般の情報収集活動

「内間」:非公然の諜報活動、すなわちスパイ活動

「反間」:敵国のスパイ(二重スパイ)を寝返らせ、我の偽情報を意図的に流し敵の誤判断や官民の離間を謀る宣伝謀略

「死間」:自らを犠牲にして、命と引き換えに敵国を油断させ真実の目的を達成する謀略

「生間」:本国と敵国と行き来し、情報を報告・通報する通信活動 このように情報活動には様々な形があるが、それは国家目的の遂行という一点に収斂される。

『孫子』ではこれらを同時に投入しなければならないとしている。しかも、その存在やそれぞれの活動を敵にも味方にもしらせないことが重要だとし、それを「神紀」(神妙で秩序正しい用い方)と称している。

元CIA長官のアレン・ダレスは、「神紀」を「多数の糸からできた魚網が結局は一本の細い綱で結ばれている」と喩えている。

 情報保全の重要性

情報活動には積極的活動と消極的活動とがある。 積極的活動には、情報を収集・処理してインテリジェンスを生成する活動のほか、相手側の意図を破砕し、我の思うとおりに誘導し、我の利する活動を積極的に行わせる秘密工作がある。

一方の消極的活動は、情報あるいはインテリジェンスを守る活動であり、厳密には情報保全(Security Intelligence)とカウンターインテリジェンス、(Counter Intelligence、以下、防諜と呼称)に区分される。

このなかで情報保全は、敵対者などから秘密文書などを窃取されないように管理するなど公然的かつ受動的な活動である。 まずは、情報保全について、『孫子』から教訓事項を汲み取ることにしよう。

目立つ行動はするな

第四編「軍形」では、「善く守る者は九地の下に蔵(かく)れ、善く攻める者は九天の上に動く。故に能く自ら保ちて勝を全うするなり」と述べている。つまり、巧みに戦うものは、大地の奥深くに潜行して、好機を見て表に出て決戦を行うのであって、自軍を敵の攻撃から保全することが重要であると説いている。むやみやたらに「目立つ行動をするな」との行動保全の戒めである。

人にはいらない情報を与えるな

同じく第八編「九地」には、「知りがたきこと陰のごとし。良く士卒の耳目を愚にして、告ぐるに言を以てすること勿れ」がある。これは、将軍が物事を整斉とおこなうためには兵士を統制して無用な混乱を避けなければならず、それゆえに「将軍が何を考えているのかなどのハイレベルな情報を兵士に与えるな」、「与えれば怖気づいて逃げる兵士もいる」という意味である。 この戒めは、米国など重視される「知る人ぞ知る」(「NEED TO KNOW」の原則)と相通じるものがある。

無形が保全の境地

第六編「虚実」では「無勢で多勢に勝つ」方法を追求している。つまり「人を致して人に致されず」として、戦い方によっては、自らが受動に陥ることなく、自らが主導権を握り、敵を意図どおりに操り、我の兵力を手中して敵を攻めることで無勢であっても多勢に勝つことができることを説いている。

このために「故に兵を勝たすの極は無形に至る。無形慣れれば、則ち深間も窺うこと能わず。形に因りて勝を錯(お)くも、衆は知ることは能ず」と述べます。つまり、主動性を発揮するためには、態勢を敵から悟られないようにしなければならない。

隠せば、深く入り込んだスパイや、智謀の優れた者でも我の企図を解明することはできないということを極意として強調している。

さらには「夫れ兵の形は水に象(かたど)る」「故に兵に常勢なく、水に常形なし。能く敵に因りて変化して勝ちを取る者、これを神と謂う」と述べている。

つまり、「軍の態勢は水のようなもので、軍の態勢は一定ではなく、水の流れは一定ではない、敵情のままに従って変化して勝つのが神業である」と説いているのである。 これらは、我の行動を無形の境地に高め、敵から保全することが、主導性を確保する秘訣であることを強調しているのである。

真珠湾は保全の勝利

そうはいうものの、我は大部隊の配置や行動のすべてを隠すことはできない。できるのは、その全貌と企図である。 1941年12月、日本海軍ははるか遠くの真珠湾を攻撃した。

艦隊は無線封止、艦船部隊の無線呼び出し富豪の変更、九州方面の基地航空部隊と艦隊による偽交信を行い、ひそかに千島択捉島単冠湾に集結し、攻撃目標と攻撃時間を保全した。

米軍は、戦争が起こるとは予想していただろうが、その場所が真珠湾だとは予測できなかった。 また、米側は日本海軍の暗号を解読できず(反対論はあり)、日本南侵(タイ、ビルマ、シンガポール)を信じていたため、ハワイだとは想像しなかった 。

つまり、真珠湾攻撃の成功は、我の全貌と企図を隠した保全の勝利であった。

敵対勢力は市政に身を隠す

毛沢東は抗日戦争で農村ゲリラを組織し、「遊撃戦」と称するゲリラ戦を展開し、「遊撃戦」論で「人民は水であり、解放戦士は水を泳ぐ魚である」と語り、人民の大会の渦の中で自己の組織を保全することを得策とした。

このことは逆に、我々の社会や組織に敵対勢力が浸透している可能性を示唆している。そして、敵対勢力は重要人物の獲得や、作戦計画などの重要書類を虎視眈々と収集しているということである。

我がその危険性に気が付き、われの重要な資源を防護しなければ、情報戦に勝利することなど論外だ、ということである。

わが旧軍のお粗末な組織保全

 これに関して、旧軍の情報管理はまことにお粗末であった。 1944年3月31日、連合艦隊がパラオからミンダナオ島のダバオに退避する古賀峯一司令長官(大将)以下が搭乗した一番機が墜落(殉職)。二番機に搭乗していた福留繫参謀長(中将)、山本祐二作戦参謀(中佐)以下は墜落を免れてセブ島沿岸不時着した(海軍乙事件)。

福留参謀は反日ゲリラの捕虜となり、作戦計画、暗号書などの機密文書を収めた鞄を奪われた。その後、機密文書はゲリラの手から米軍に渡り、米国で翻訳されたのち、前線の米太平洋艦隊やその指揮下の第三艦隊に回送され、「あ」号作戦(マリアナ沖会戦)などに活用されたという。

なお米軍は、日本軍を安心させるためか、計画書などの原紙は鞄に戻し、セブ島近海に潜水艦から投棄したという。

一方の福留参謀以下は日本陸軍の治安維持部隊に救出され帰国し、福留、山本両氏は事情聴取で「機密入りの鞄は海中に投棄した」として、紛失したことは隠匿した。 このことが、それ以降の日米戦争において、日本軍を劣勢に追いやった大きな原因の一つとなったのである。

わが国の情報史(19)   

日露戦争の勝利の要因その1 -日英軍事協商と通信網の整備- 

日露戦争の勝利の要因

日露戦争の勝利について、著名な兵法家である大橋武夫は自著『戦略と謀略』(1978年)において、以下の6つの要因を挙げている。 (1)英国との同盟(1902年) (2)開戦から始められた金子堅太郎の終戦工作 (3)高橋是清の資金獲得とロシアに対する資金枯渇  (4)明石元二郎(大佐)の謀略工作 (5)特務機関の活動(青木宣純) (6)奉天会戦、日本海海戦の勝利

その後の日露戦争史の研究によって、明石大佐の謀略工作に対する否定な見方や、特務機関の活動効果に疑義を呈する意見も出てきている。 ただし以下の点についてはほぼ異論があるまい。

(1)日英同盟が、露仏同盟によるフランスの参戦とロシアに対する戦争協力を抑制した。 (2)日英軍事協商によりグローバルな戦略的インテリジェンスを獲得し、それが開戦当初から着手された終戦工作とあいまって、わが国の勝利に貢献した。  つまり、日英同盟による協力体制と、日英軍事協商による情報体制が日露戦争の最大の要因であった。

日英同盟の背景

日本が英国との間で同盟を締結できた理由について、当時の地政学的環境よりひも解けば、まずロシアの拡張主義が挙げられる。

ロシアの極東進出により、英国は清国の東北部での経済利益が阻害されることを警戒したのである。 また、ロシアによる南下政策により、英国のトルコに対する影響力が低下することも懸念された。  

こうしたロシアの拡張主義に対して、英国は当初、米国やドイツとの同盟を模索したのであるが、両国が英国との同盟に前向きでなかった。 そのため、ロシアの極東進出を警戒する日本との利害が一致し、英国はわが国との同盟へと向ったのである。 なお、日英同盟締結の陰で柴五郎中佐の八面六臂の活躍があったことについてはすでに『わが国の情報史(18)』において触れた。

日英軍事協商の締結

とくに日英同盟に基づき、水面下での日英軍事協商が締結されたことは、日露戦争勝利の大きな要因であった。 日英同盟成立から約4か月たった1902年5月14日、海軍横須賀鎮守府内で英国側からブリッジ東洋艦隊司令長官、日本側から山本権兵衛海相、陸軍からは田村怡与造参謀本部次長、福島安正同第二部次長らが出席して「日英軍事協商」の秘密会議が開催された。

続いて7月7日にはイギリス陸軍省で伊集院五郎海軍軍令部次長、福島第二部長らが出席して「日英軍事協商」が合意された。 この協商では「両国は、ロンドン・東京の日英公使館付海陸軍武官を通して、すべての情報を相互に自由に交換する」「両国の公使館付武官はいずれの任地でも自由に情報を交換する」などが規定された。

これによって、日本陸軍は、ロンドン駐在陸軍武官の対ロシア戦略情報とインド方面のロシア陸軍の情報などが人手可能となった。

この協商の具体的な合意事項は、おもに海軍の協力が中心の、次の「陸海軍協約」八項目であった。 (1)共同信号法を定めること。 (2)電信用共同暗号を定めること。 (3)情報を交換すること。 (4)戦時における石炭(日本炭、力ーディフ炭)の供給方法を定めること。 (5)戦時陸軍輸送におけるイギリス船の雇用をはかること。 (6)艦船に対する入渠修繕の便宜供与をはかること。 (7)戦時両国の官報をイギリスの電信で送付すること。 (8) 英国側は予備備海底ケーブルの敷設につとめること。

これらの協定をみてわかるとおり、過半が通信関連の事項であった。つまり日英の参謀本部のトップは、きたるべき日露戦争は、「情報戦争」「インテリジェンス戦争」であるという共通認識を持っていたのである。

児玉源太郎の活躍

児玉源太郎

当時、英国は世界の全海域に海底ケーブルを施設し、ロシア海軍の動きを察知していた。そうした英国から「日英軍事協商」により、インテリジェンスの全面協力がうけられるようになった意義は大きい。 日露戦争前には、わが国は大陸と日本の間の海底ケーブルを敷設し、インテリジェンスの連絡体制を確保した。これに最大の貢献したのが児玉源太郎である。

日本最初の海底ケーブルは1871年、大北電信会社によって長崎~上海間及び長崎~ウラジオストック間に敷設された。 さらに1883年、大北電信会社は呼子(よぶこ、佐賀県の最北端にあった町、現在は唐津市呼子町)~釜山間にも海底ケーブルを敷設した。

しかし日清戦争後、児玉は呼子~釜山間の海底ケーブルは軍が独占できなかったため、ここを切られたら通信が途絶えてしまうことを警戒した。 また、大北電信はデンマークの会社であり、その背後にロシアが存在していたため、情報が筒抜けになることが懸念された。

そこで児玉は独力で海底ケーブルを本土から台湾(基隆)、本土から朝鮮半島・中国まで施設し、世界中にはりめぐらせた英国の世界通信ネットワークとの連接はかった。同時に、無線通信の有用性を認識し、艦艇~艦艇、陸上~艦艇の間の無線通信連絡を確保した。

なお川上操六も、日清戦争直前に東京・下関間の直通電信線、釜山~京城問の電信線を最初に提案し、児玉が先頭に立って敷いた九州~台湾間海底ケーブルにも川上が深く関与した。

こうしてロンドンでもスピーデイーに日露戦争の全情報を収集できる態勢が整備された。東京とロンドン間の電報は、東京→九州(大隅半島)→台湾(キールン)→ 台湾(淡水)→福建省(復讐)と伝達され、イギリスの植民地の香港を介して、南シナ海からボルネオを経由し、マラッカ海峡を通り、インド洋を横断して紅海から地中海に抜け、 そしてロンドンへという経路で伝達された。

バルチック艦隊が喜望峰やインド洋を周回している情報はイギリスのインド府政庁により、ロシアに秘密で次々に日本に送られた。 「明石工作」の暗号電報も施設した回線を経由して東京に速報されたのであった。

日英同盟から得たインテリジェンスの恩恵

わが国は日英同盟から、いかなるインテリジェンスの恩恵を受けたのか、ここでひとまず整理しておこう。 日露が開戦すると、英国は22人の観戦武官を戦場に送り込んで情報を収集し、日英両国に伝達した。「明石工作」の暗号電報も、施設した回線を経由して東京に速報された。

英国における情報活動では、 宇都宮太郎(1861年~1922年、中佐)・在英陸軍武官と同鏑木誠(1857年~1919年、大佐)・海軍武官の活躍があった。 とくに、宇都宮中佐は当時、英陸軍参謀本部作戦部のエドワード・エドモンズ少佐と親交を深めていた。エドモンズ少佐は当時、世界中からロンドンに集まってくる各国の陸軍情報を英参謀本部内で掌握できる立場にあった。 エドモンド少佐から得たロシア陸軍部隊の動向を宇都宮中佐は逐次、東京に報告した。

宇都宮太郎

それに基づき、大本営が満州の露軍兵力を算定し、英陸軍情報は参謀本部の作戦計画策定に寄与したとされる。  宇都宮太郎・在英陸軍武官と同鏑木誠・海軍武官の活躍が顕著であった。

こうしたグローバルな情報収集・連絡態勢の確立によって、わが国は戦場、世界各国のわが国公使館、英国大使館などから、様々なレベルの情報を入手した。これらの情報を処理して得たインテリジェンスは、政府や大本営における的確な情勢判断と戦略の構築に寄与したと考えられる。

鏑木誠

グローバルな情報収集体制の確立

日露が開戦すると、英国は22人の観戦武官を戦場に送り込んで情報を収集し、日英両国に貴重な情報を伝達した。 英国における情報活動では、 日英同盟による政治協力体制と日英軍事協商によるグローバルな情報収集体制により、わが国は戦局を判断するためのインテリジェンスを獲得した。

なかでも、英国で得られた情報を迅速に大本営と満州軍総司令部に伝達するための通信連絡体制を早くから構築していた点が、日露戦争における勝利要因であった。

このほか、ロシアと同盟国にありながら複雑な思想を秘めていた独・仏の情報も得られた。 とくにロシア宮廷や軍内部の情報はこのルートから入手できた。さらには、世界中に張り巡らされているユダヤ・コネクションから貴重な情報が得られた、という。

戦争開戦後は、各国がロシア側に派遣した観戦武官、新聞・通信社を通じて貴重な戦術情報を入手した。 また、軍と官が一体となった各国の在外公館による密接な協力があった。ロンドンの林公使、パリの本野一郎公使、スペインの新井書記官などは、バルチック艦隊の極東回航の状況に対する詳細な情報に入手して日本に報告したという。

『孫子』から学ぶインテリジェンス講座(4)

兆候を把握することの重要性

インテリジェンスは戦略レベルと作戦・戦術レベルの二つに区分される。ここでは、便宜上、前者を「戦略的インテリジェンス」、後者を「作戦的インテリジェンス」と呼称する。

前者は相手側が何を考えているのかをじっくりと観察する余裕がある。しかし、後者にはそんな余裕はない。そこで後者の主眼は「敵が何をしようとしているのか」「次にどのようなことが起こるのか」を瞬時に判断することになる。

そのためには状況(情勢)の変化を探知することが重要になってくる。 このような観点から第九編「行軍」では、「およそ軍をおき敵を相(み)る」として、我が軍がよい地形を確保して敵情を偵察することの重要性を説いている。

その上で、敵情を見抜くための「三十三の相(見方)」をあげている。

たとえば、「多数の木立がざわめくのは敵が森林を移動している」「あちこちに草を結んで覆いかぶせているのは我に伏兵の存在を疑わせる」「草むらから鳥が飛び立つのは伏兵が潜んでいる」「砂塵が高く舞い上がるのは戦車部隊が来ている」「砂塵が低く垂れ込めているのは歩兵部隊が進撃している」「軍使の言い方がへりくだっているのは我を不意に急襲する準備をしている」「軍使の言い方が強硬で進攻するように見えているのは密かに退却を準備している」などである。

こうした「相」のなかで、現在進行形の行動を裏付けるものが「証(証拠)」であり、次なる行動を示唆するものが「兆候」である。これらに着目することが状況の変化を探知する秘訣である。

「兆候」とは「物事の前触れ」であり「予兆」「前兆」ともいう。たとえば「地震雲が発生する」「深海魚やイルカなどの浜へ打ち上げられる」「ネズミなどの動物が起きて動き出す」「温泉の泉質が変わる」などの自然現象は大地震の前兆・兆候だといわれている。

これらの「兆候」から「大地震が起きて、津波災害などが発生する公算が大でうる」などのインテリジェンスを生成し、しかるべき部署に伝達(配布)すれば、被害を局限することができるであろう。

同様に戦場においても、さまざまな「兆候」を分析し、「敵が何をしようとしているのか」「何ができるのか」などを先行的に判断できれば、我は敵に対する主導性を確保でき、有力な対抗策が打てることになる。

先の『孫子』の例では、「砂塵が高く舞い上がるのは戦車部隊の来襲の兆候である」ととらえ、対戦車火器や対戦車地雷を配置して戦車部隊を迎撃する準備をする、「軍使の言い方が強硬で進攻するように見えているのは退却の兆候である」ととらえて、わが部隊を集結させて敵軍を追撃する準備を行うことになろう。

物事が起きるには、タイムラグの長短はあれども、必ず何らかの兆候がある。たとえば敵が近々戦争を開始しようとすれば、物資の事前集積、情報収集機の活動の活発化、通信量の増大などの変化が現出するであろう。一方、攻撃の直前ともなれば「無線封止」により通信量が激減するといった変化が現れるかもしれない。

第二次世界大戦中、米海軍で対日諜報を担当していたE・M・ザカリアス(元米海軍少将)は、日米開戦前に日本が米国を奇襲する寸前の兆候として、「あらゆる航路からの日本商船の引き揚げ」と「無線通信の著しい増加」を挙げました。日本の攻撃に特徴的な兆候として「ハワイ海域における日本潜水艦の出没」を挙げた。

こうした「兆候」が起こることを予め予測して「兆候リスト」を作成し、実際に起こった「兆候」と、起こらなかった「兆候」を分析して、敵の意図及び行動を判断することが、正確なインテリジェンスを生成する秘訣である。

とくに作戦的インテリジェンスにおいては極意であるといえる。 このことは『孫子』の時代も今も、安全保障であろうがビジネスの世界であろうが全く変わらないのである。

兆候を重視する

「兆候」と対比する概念に「妥当性」がある。戦略レベルのものを「戦略的妥当性」、戦術レベルのものを「戦術的妥当性」と呼称して区分することもある。 「妥当性」とは端的には「その戦略や戦術が目的に合致しているか?」「戦略・戦術が可能か?」などということである。

「戦術的インテリジェンス」では「兆候」と「妥当性」が競合した場合には「兆候」が優先される。なぜならば、「兆候」は可視的(目に見える)であるのに対し、「妥当性」は不可視的であり、その評価には時間と労力がいっそうかかるからである。

戦況が次々と推移する戦場での行動決心には一刻の猶予も許されない。だから目に見える「兆候」から、あらかじめ準備した基準に則り、敵の行動を見積もることが重要である。これが「作戦的インテリジェンス」における「兆候」重視の根拠である。

妥当性を重視する

他方、「戦略的インテリジェンス」においては、かならずしも「兆候」が優先されるとはかぎらない。戦略レベルの判断ミスは作戦・戦闘では挽回できない。だから敵の欺瞞や偽情報を排除して、敵の行動などをより慎重に判断すべきだからだ。

いくら戦争開始を示す事前の「兆候」があったとしても、相手側の戦略や戦術が著しく「妥当性」を欠く場合、「兆候」は欺瞞、偽情報として処理するというのが「妥当性」評価の考え方である。

また見積もりにも時間的に余裕があるから、慎重な判断が可能になる。よって、相手国の企図や行動を「妥当性」という評価尺度で慎重に見極めることが肝要なのである。

堀栄三の活躍

堀栄三

『大本営参謀の情報戦記』の著者で太平洋戦争時に大本営情報参謀であった堀栄三中佐はフィリピン島における米軍の上陸地点の見積りを命じられた。その際、堀氏はラモン湾(東海岸)、バダンガス(マニラの南方)、リンガエン湾(ルソン北部西海岸)の三か所に絞って分析を行なった。

米軍機の航跡とその頻度、写真偵察と思われる行動と大型機の出現頻度、ゲリラや諜報の活発度、潜水艦による物資・兵器・兵士の揚陸、抗日運動の状況など各種の「兆候」を分析して、堀氏は「上陸地点はラモン湾とリンガエン湾、むしろ兆候的にはラモン湾」と評価した。 

しかし、堀氏は自らがマッカーサーになったつもりでもう一度見積を見直したのである。つまり、①米軍がフィリピン島で何を一番に求めているか(絶対条件)、②それを有利に遂行するにはどんな方法があるか(有利条件)、③それを妨害しているものは何であるか(妨害条件)、④従来の自分の戦法と現在の能力で可能なものは何か(可能条件)と四つの条件に当てはめて再考したのである。

そして最終的に「リンガエン湾に対する上陸の可能性が大」と評価し、見事に的中させた。すなわち堀中佐は、米軍の戦略・戦術的な「妥当性」を重視して見積を的中させた。

妥当性を判断する4つの基準

一般的に「妥当性」を評価する基準としては適合性、可能性、受容性および効果性の四つがある。それぞれの基準の意義は以下のとおりである。

1)適合性:その戦略構想が戦略目標達成にどれほど寄与できるか?

2)可能性:自己の内部要因がその戦略行動を可能にするか?

3)受容性:戦略構想実施によってえられる損失または利益が戦略意図の要求度に対して許容できるか?

4)効果性:戦略構想が実施に移された場合、全般戦略および他の関連する戦略にどれほどの貢献ができ、またはどれほどの影響を及ぼすのか?

相手国の行動等を評価するうえで、上記の四つの基準に当て嵌めて考察することを是非とも推奨する。

因果関係は意外なところに!

因果関係とは何か

物事を考える上では、因果関係という概念が重要となります。 たとえば、「Xが殺害された」という事象と、「YはXに恨みを持っていた」という関係は、原因と結果という因果関係の可能性があります。

つまり、「Xを殺害したのは誰か」という質問に対して、「Yが殺害した」という仮説を立て、それを立証するために、Yの殺害動機という証拠を探り、因果関係を立証することになります。

以前にこのブログ(「さくらももこさん、ご冥福をお祈りします」)で書きましたが、因果関係とよく似たもので相関関係という概念があります。

「AとBにはなんらかの関係がある」ことを「AとBは相関関係にある」といいます。 相関関係と因果関係はしばしば混用されます。しかし、相関関係は物事の将来を予測することも、現実の問題の原因を探ることもできません。

しかし、因果関係を探る重要な糸口を掴むことができます。 そのために相関関係から因果関係を立証することが重要なのです。

因果関係を立証する

相関関係から因果関係を立証するための手法は以下のとおりです。 ①相関関係にありそうな事象をアトランダムに列挙する。 ②列挙した事象のなかから、原因が先で結果が後であるという時系列的な関係がある事象に着目する。 ③その関係には別の原因が存在していないことを証明する。つまり、疑似相関でないことを証明する(下記参照)。

この際、AとBの2つの相関関係がある事象において①AがBが引き起こした、②BがAを引きこ起こした、③CがAとBを引き起こした、④AとBとの関係は単なる偶然である。以上の4つの関係を考察する必要があります。

ここで疑似相関には注意が必要です。上述の③が疑似相関に当たります。たとえば、アイスクリームの売り上げと、クーラーの売り上げは連動しています。しかし、 アイスクリームがクーラーの売り上げに影響を与えるのではありません。実は、 これは夏の暑さという別の要因が関係しています。

因果関係は意外なところにある

真の因果関係を見つけ出せない原因を探りますと、想像力の欠如や思い込みがしばしば原因となってり有力な仮説が立てられていないことが多々あります。

1990年代初頭の米国の事例をあげましょう。当時の米国では過去10年間、犯罪を増える一方でありました。専門家は、今後はこれよりも状況は悪くなると予測しました。しかし、実際には犯罪が増え続けるどころかぎゃくに減り始めてしまったのです。すなわち、未来予測を誤ってしまったのです。

「なぜ犯罪率は減ったのか?」という質問に対して、「割れ窓理論」に基づく警察力の増加や厳罰化、銃規制、高景気による犯罪の減少などの仮説があがりました。 しかし、そのような対策を行っていないところでも犯罪は減ったのです。

そこで調査したところ、予想もしなかった因果関係が明らかになったのです。それは「中絶の合法化」でした。 この因果関係を簡略化して示すと次のとおりです。貧しい家庭→未婚の女性の妊娠・出産が増加→貧困による子育て放棄、虐待、教育放棄→未成年者が犯罪予備軍→犯罪の増加でした。

当時の米国では長らく妊娠中絶は違法でした。 しかし、米国では1960年以降、性の解放の観点から、シングルマザーや中絶も1つの選択肢とされました。そして、歴史的に有名な1973年の「ロー対ウェイド判決」で、最高裁は7対2で憲法第14条に基づき、中絶禁止を憲法違反であると判定しました。 すなわち人工中絶法が設定されたのです。

つまり、この時期以降、貧しい未婚家庭に育った妊娠女性が子供を産まなかっくてもよくなったのです。その結果、1990年代に若者の犯罪予備軍が減り、犯罪率が減り始めたのです。

人工中絶法を巡る米国社会

しかし、それで人工中絶が米国社会から容認されたか、というとそうではありません。上記の人工中絶が犯罪率を低下させるという事実が分かったことで、ぎゃくに人工中絶がクローズアップされ、それに対する反対運動が起こりました。その結果、1990年代以降、ふたたび人工中絶の数は減っていきました。

今日、米国社会は、人工中絶を認める判定の逆方向に向かっている傾向があります。

最近では、全米で州レベルでの中絶禁止法案が 記録的な勢いで 通過しています。宗教の権利に基づき、女性の選択の権利を制限した6月30日のホビー・ロビーおよびコネストガ・ウッドの聴聞での最高裁の判定はその極端な例です。

キリスト教信者の人口層が多い米国は、社会の隅々で宗教団体が著しい影響を与えています。特に女性の避妊や中絶に関して、政治家も様々な角度から影響を及ぼしています。

トランプ米大統領は、選挙戦で人工妊娠中絶をした女性には「何らかの形で罰があるべきだ」と発言して、他の候補者たちから非難の声が上がり、同氏は発言を事実上、撤回しました。

一方、 このような社会の変化に反応し、選択の権利を主張する女性の声も高いようです。 カリフォルニアなどでは、中絶へのアクセスを拡大するため、7年ぶりの新しい州法を制定しました。

NHK連続テレビ小説 『半分、青い。』から「マザーズ」へ

NHK連続テレビ小説『半分、青い。』が終了してしばらくたちましたが、筆者はこれの“ネタバレ” をネット上で探していて、ある記事に辿りつきました。

このドラマでは、主人公の鈴愛(永野芽郁)が癌になった母・晴(はる、松雪泰子)のため、幼馴染の律(りつ、佐藤健)はなき母・和子(わこ、原田知世)に何もしてあげられなかったことから、“そよ風の扇風機”を発明し、その名前を「マザー」と命名します。

二人の母親への感謝と愛情が一杯つまったすばらしい作品でした。

一方、中京テレビ報道局が2011年から7年にわたり取材・放送してきたドキュメンタリーが「マザーズ」です。筆者は「マザー」から「マザーズ」に行きついたわけです。

マザーズの記事を引用

「マザーズ」 の記事を引用します。

「予期しない妊娠に直面したとき、あなたはどんな選択をするでしょうか。 厚生労働省のデータによると、1年間に行われる人工妊娠中絶の件数は16万8015件(平成28年度)。「育てられない」多くの命がある、残酷な現状です。

その一方で、「中絶はできない」と揺らぐ女性たちもいます。 病院のベッドに横たわる、お腹の大きな少女。中学2年生の綾香さん、14歳です(仮名・年齢は取材当時)。綾香さんのお腹の中には、出産間近の新しい命が宿っていました。 若くして母となった綾香さん。お腹の赤ちゃんの父親も、同じ中学生でした。

予期せぬ妊娠や病気、経済的な困窮で子どもを育てられない、子どもを虐待してしまうなど、様々な事情により、実の親による子どもの養育が難しいことがあります。そのようなとき、実の親に代わって、温かい家庭環境の中で子どもを健やかに育てるために、特別養子縁組や里親などの制度があります。」

特別養子縁組に注目

生みたくても産めない人、積極的に社会進出したいために子供を持つことを選択しない人、誤って妊娠して人工妊娠中絶をする人、人はそれぞれさまざまです。

残念ながら、シングルマザーズによる子育ては社会に良い面ばかりをもたらしません。しかし、わが国が少子高齢化に向かうなか、 子供は国家成長の礎であり、国の宝なのです。このことを正面から向き合ってみることが重要です。

少子高齢化の対策には、外国人労働者への入国拡大、定年の延長、AI社会への発展など、さまざま健闘されいます。一方で「育てられない」ということと、「子供ほしい」という両者の条件を、完全には程遠いとはいえ、充たすものが特別養子縁組や里親の制度 ということになるのでしょう。

シングルマーザーズに対する社会支援を充実させる一方で、特別養子縁組なと゛の制度強化に注目する必要はおおいにありそうです。

わが国の情報史(18) 

明治最高のインテリジェンス将校

明治の軍政・軍令のオールスターズ

柴五郎

明治時代の軍政・軍令のオールスターズは戦国時代の武将オールスターズと同様に、愛国心、個性、人間的魅力、戦略眼、情報センスなど、なにをとっても傑出した強者ぞろいである。

現在、米中関係、米朝関係が変動期にあるが、それにともないわが国も対中政策や対北朝鮮政策をどのように規定していくのかの岐路に立ちつつある。

今の世の中に、彼らの一人でも現存していたならば、わが国はどうなっただろうか?そして、わが国が直面している難局にいかなる意思決定を下すのか、実際に見てみたいきがする。

まず筆者独自の選択で、最初に明治の軍政・軍令における偉人を列挙したい。

・第一世代(幕末維新の功労者) 勝海舟(1823~1899)、西郷隆盛(1828~1877)、大久保利通(1830~1878)、木戸孝允(1833~)、坂本龍馬(1836~1867)

・第二世代(日清戦争の功労者) 山県有朋(1838~1922)、樺山資紀(1837~1922)、大山巌(1842~)、伊藤博文(1841)、陸奥宗光(1844~1897)

・第三世代(日露戦争の功労者) 桂太郎(1848~1913)、川上操六(1848)、乃木希典(1849~1912)、山本権兵衛(1852〜1933)、福島安正(1852~1919)、児玉源太郎(1852~1906)、田村恰与造(1854~1903)、明石元二郎(1864~1919)

日清戦争の功労者

日清戦争開戦時の組閣の主要メンバー(主として軍政・軍令)は、総理大臣・伊藤博文(52歳)、外務大臣・陸奥宗光(49歳)である。 戦後の下関条約においても、日本側代表としてこの両名が清国側の李鴻章との交渉に臨んだ。

他方、陸海軍に目を転じてみると、陸軍省は陸軍大臣・大山巌(大将、51歳)、陸軍次官・児玉源太郎(少将、42歳)である。大山は西郷隆盛、従道兄弟の甥にあたり、1884年に桂太郎や川上操六を引き連れて欧州視察に赴き、その後の陸軍をドイツ流に改めた人物である。児玉は日露戦争で大活躍することになるが、すでに42歳の若さで陸軍次官のポストにつき、早くも頭角を現していた。

作戦指揮を司る参謀本部においては、参謀総長・有栖川宮熾仁親王(大将、59歳)、参謀次長・川上操六(中将、45歳)という陣容であった。参謀総長は皇族職であるので、実際に陸軍の指揮運用は川上が全権を握っていたことになる。

日清戦争の派遣軍については、第1軍司令官が山県有朋(大将、56歳)、第2軍司令官が大山巌(兼務)である。 当時、桂太郎(中将、46歳)は第1軍の第3師団長、乃木希典(少将、44歳)は第2軍の歩兵第1旅団長であった。

この中では、第1軍司令官の山県が圧倒的な存在感を放っていた。彼はすでに陸軍の大御所、陸軍最大の実力者であり、大山や川上のはるか上に聳え立つ存在であった。 山県は1889年に第1次山県内閣を組閣した内閣総理大臣経験者である。

そのような山県がなぜ前線の司令官になったか、それは山県自らが第1軍司令官に就任することを熱望したからである。山県は「敵国は極めて残忍の性を有す。生擒となるよりむしろ潔く一死を遂ぐべし」と訓示しているから、死をかけて戦地に赴いたのであろう。

山県が率いる任務は平壌から北京を攻略することであり、大山率いる、遼東半島から北京を目指す第2軍の側背掩護が任務であった。配下の野津道貫が率いる第5師団によって早々に平壌を陥落させるなど戦果はあげたが、これで満足する山県ではない。 なんと山県は第2軍よりも先に北京を攻略したくなったのである。

山県は優れた戦略家であり、情報政治家であったが、自信過剰で、功名心にかられた自我意識の強い人物であった。 川上は、長老の山県が派遣軍の司令官につくことに正面から異を唱えることはできなかったが、山県が大本営の方針どおりに動かないことを最初から懸念した。

結局、山県自身は体調を崩し、1984年11月に明治天皇に「病気療養のため」という勅命で戦線から呼び返され、12月に帰国している。しかし実はこれを表向きであって、独断専行する山県を、山県とともに現地に赴いていた桂太郎と川上が、内密に申し合わせて、山県を退けたという理由が正しいようである。 桂は山県の申し子であったが、これが原因で、以後は関係が悪くなったとされる。

一方の海軍は海軍大臣・西郷従道(大将、51歳)、海軍軍令部長・樺山資紀(中将、56歳)、連合艦隊司令長官・伊東祐亨(いとう ゆうこう、51歳)という陣容であった。

川上は、大本営が設定されると、海軍軍令部長である同郷の樺山を事実上統制し、日清戦争における陸海軍の作戦全般の指揮を担当した。日清戦争における勝利の最大功労者である川上は、清国をはじめ全世界に諜報網を展張し、作戦と情報を一体運用した。これが勝利を呼んだのである。

北進事変が勃発

日清戦争に勝利したわが国は旅順の割譲を受けるが、これがロシアを刺激し、ロシアはフランス・ドイツ両国を誘って同半島の返還を日本に要求した。いわゆる三国干渉である。 日本はしぶしぶこの干渉を受け入れたが、臥薪嘗胆を合言葉に、軍備の拡張に走ることになった。

一方、日清戦争によって清国の弱体ぶりを知った欧米列強は、あいついで清国に勢力を設定した(中国分割)。ドイツは山東半島の膠州湾、ロシアが遼東半島の旅順・大連、イギリスが九龍半島・威海衛、フランスが広州湾を租借した。

こうした状況で1900年、清国では「扶清滅洋」をとなえる義和団を称する秘密結社が勢力をまし、各地で外国人を襲い、北京の列国公使館を包囲した。  清国の西太后がこの叛乱を支持して1900年6月21日に欧米列国に宣戦布告したため国家間戦争となった。いわゆる北清事変である。

日本を含む列国13カ国は、連合軍を派遣し、義和団を北京から追って清国を克服させた。 この時、わが国は、福島安正少将を指揮官とする第五師団約8000名を派遣して、欧米諸国との連合軍を構成して8月には首都北京及び紫禁城を制圧した。同年10月、第5師団の指揮下にあった混成1個旅団により清国駐屯隊を設置し、在留邦人の保護に当たらせた。これが新たな諜報活動の拠点になった。

ロシアとの対立と日英同盟の締結

北清事変を機にロシアは中国東北部(満州)を事実上占領し、同地における独占的権益を清国に承認させた。ロシアの脅威は朝鮮半島に南下し、やがて日本に及ぶことになる。日露の関係は刻一刻と深刻化の様相を呈した。 その牽制の大きな手段となったのが1902年の日英同盟である。

日英同盟はやがて日本がロシアと戦うことを想定して結ばれた軍事同盟であった。日本はイギリスの後ろ盾によって、中型の「大国」としての地位を固めることに成功した。 1904年、わが国はロシアとついに衝突する。そして奇跡的に勝利する。

その最大の成功要因はとりもなおさず日英同盟であった。 そして、その日英同盟を締結した影の功労者が、世界から今日も称賛されて止まない、明治日本が生んだ傑出した一人のインテリジェンス将校であった。それが「コロネル・シバ」と列強から称賛された柴五郎である。

柴五郎の生い立ち

陸軍大学を出ずに陸軍大将まで上り詰めたのは後にも先にも柴しかいない。柴はそれほど傑出した将軍であり、彼のほとんどの経歴はインテリジェンス将校としてのものである。 では早速、柴の経歴をみてみよう。

柴は1859年1月、会津藩士・柴佐多蔵の五男として生まれた。会津では藩祖・保科正之の精神を受け継ぎ、「武士道」が盛んなところであった。 明治の偉人はいずれも江戸時代の武士道精神の教育により、傑出した人物へと成長したが、柴もまた武士道によって育てられた一人である。

さらに会津藩は、1868年1月の鳥羽伏見の戦いで、薩摩と長州の策略で新政府軍の朝敵となった。こうした会津藩にあって、柴の反骨精神と負けず魂が育まれたのである。 その後、柴は藩校・日新館に学び、青森県庁の給仕につくが、上京の念は立ちがたかった。

やがて1873年(明治6年)に陸軍幼年学校に入校、1877年に陸軍士官学校に進んだ。 士官生徒第3期の同期には、上原勇作元帥や内山小二郎・秋山好古・本郷房太郎の各大将がいる。彼らとの交流も柴の人生に大きな影響を与えた。

 インテリジェンス将校として歩み始める

1884年、陸軍中尉に進級し、同年10月に清国福州の駐在を命じられた。これがインテリジェンス将校としての柴の船出であった。 当時、清国とフランスとの間で戦争が勃発した。この戦争は仏領インドシナ(ベトナム、カンボジア、ラオス)と清国との国際紛争に端を発し、清国軍が仏領深く侵入してフランス軍を破り、その兵士たちを捕えて虐殺したことから全面戦争に発展していた。

柴は世界の戦争というものに直接接したことで、インテリジェンス将校としての大きな財産が築かれることになる。 柴は福州での3年間の滞在により、軍事に関する知識、清国の暮らしや考え方をまなび、中国語や英語にも精通した。 1887年4月、柴に対して北京駐在の命令が下った。柴はたちまち北京においても民情の収集にあたった。さらには、天津、満州、朝鮮半島も視察して、地域情報を蓄えていった。

1894年3月にイギリスの在日本公使館附武官心得を命じられたが、同年7月に日清戦争が生起した。そこで同年9月に日本帰国し、大本営で、清国本土上陸作戦の計画に携わることになる。ここでは、中国通の柴のインテリジェンスが大いに役立った。 下関条約締結後の台湾の陸軍参謀に命じられ、さらに柴の対外インテリジェンスは研ぎ澄まされる。

1896年、ふたたびイギリス公使館附陸軍武官として、イギリスに赴任、1898年(明治31年)5月の米西戦争においては、観戦武官としてアメリカにも派遣された。 柴は、このアメリカ出張で、のちに日露戦争の日本海海戦で大活躍する秋山真之と会う。真之は柴の陸軍士官学校同期の秋山好古の実弟である。 柴はアメリカ陸軍を、真之はアメリカ海軍を視察した。彼らのインテリジェンスセンスからして、おそらくは、ここでアメリカが将来の日本の敵になる可能性を感じ取ったのであろう。

義和団の乱が勃発

1900年2月、柴にイギリスから清国への転属が命じられた。そこで直面することになったのが北清事変である。 当時、義和団の狼藉は日増しに高まっていた。同年5月、義和団の乱が起こる。暴徒が各国の大使館を取り囲み、日本公使館書記生やドイツ公使が殺害された。 北京の各公使館の代表者がイギリス公使館に集まり、義和団についての話し合いがもたれた。柴はこの会議に参加した。 各国は北京で籠城して戦うことを決意した。

その警備の総指揮官をオーストリア公使館附武官のトーマン中佐に決めたが、彼の判断ミスが続いた。 そこで、軍人出身のイギリス公使のクロード・マクドナルドが後任の総指揮官に就任した。

そのマクドナルドが関心を持ったのが、柴であった。マクドナルドは柴を五か国の指揮官に命じた。 柴は事前に北京城およびその周辺の地理を調べ尽くし、さらには間者を駆使した情報網を築き上げていたのである。義和団によるキリスト教虐殺を逃れてきた総勢3000人を収容確保したのも柴の判断であった。

柴の活躍は各国の称賛

大松明則『歴史は鏡なり』では、柴の活躍振りを以下のように紹介している。

イギリス公使館の書記生であったランスロット・ジャイルズは日記で、「日本軍が最も優秀であることは確かだし、ここにいる士官のなかでは柴中佐が最優秀と見做されている。日本軍の勇気と大胆さは驚くべきものだ。わがイギリス水兵が、これに続く。しかし、日本軍は、ずば抜けて一番だと思う」と記している。

『北京籠城』を書いたピーター・フレミングは「日本軍を指揮していた柴中佐は、籠城軍のどの士官よりも有能で経験も豊かであった。誰からも好かれ日本の勇気、信頼性、そして、明るく、籠城者一同の称賛の的となった。籠城に関する数多い記録の中で、直接的にも間接的にも、一言の非難をあびていないのは、日本人だけである」と書いている。

さらに、アメリカ人女性・ポリー・C・スミスも、「柴中佐は小柄で素晴らしい人だった。彼が交民港で現在の地位をしめるようになったのは、一つに彼の智力と実行力によるものです。今では、すべての国の指揮官が柴中佐の見解と支援を求めるようになったのです」と語っている。

柴の活躍が日英同盟をもたらす

北清事変後、柴はイギリスのビクトリア女王をはじめ各国政府から勲章を授与された。『ロンドン・タイムス』はその社説で「籠城中の外国人の中で、日本人ほど男らしく奮闘し、その任務を全うした国民はいない。日本兵の輝かしい武勇と戦術が、北京籠城を持ちこたえさせたのだ」と記した。 なお、柴自身はアメリカ軍人が最も勇敢だったと評している。冷静で謙虚な柴の性格をうかがわせる。

イギリス公使マクドナルドは、共に戦った柴と配下の日本兵の勇敢さと礼儀正しさに大いに心を動かされ深く信頼するようになった。1901年の夏の賜暇休暇中に英国首相ソールズベリー侯爵と何度も会見し、7月15日には日本公使館に林董を訪ねて日英同盟の構想を述べ、以後の交渉全てに立ち会い日英同盟締結の強力な推進者となった。 このことから柴は日英同盟のきっかけをつくった影の立役者として評価されているのである。

柴のその後の活躍

なお、柴の活躍はとどまらず、陸軍大佐に順調に進級し、日露戦争では野戦砲兵第15連隊長として出征した。 1906年3月、イギリス大使館附の辞令が発せられ、7月ロンドンに着任した。 その後、しばらくは閑職につくが、1914年(大正3年)5月に第12師団長に栄転し、1919年(大正8年)8月には陸軍大将に進級し、同年11月、台湾軍司令官に進んだ。

なお、1945年(昭和20年)、太平洋戦争敗戦後に身辺の整理を始め9月15日に自決図った。自殺は老齢のため果たせなかったが同年12月13日、その怪我がもとで病死する。最期まで武士道精神を貫いたインテリジェンス将校、それが柴五郎大将であった。

現在の防衛駐在官制度

柴は中尉から中佐まで海外に勤務した。そこで世界を見て、語学を学んだ。しかし、大正、昭和と時代が下ると、駐在武官は出世の一つのキャリアとなり、柴や明石のようにずっと海外における情報勤務について、実務をつうじて対外インテリジェンスの感性を練磨するということはなくなった。

この弊害を是正するため、転属のない駐在武官を輩出する試みが陸軍中野学校の創設の目的でもあった。しかし、こうした構想への着手が遅すぎ、結局、陸軍中野学校は本来の目的を達成することなく、大東亜戦争の開戦によって、ゲリラ戦教育へと変化を遂げた。つまり、「戦わずして勝つ」を信条とする秘密戦の教育がゲリラ戦へと変わったのである。

現在の自衛隊もしかりである。2013年のアルジェリア事件により、防衛駐在官が増員されたが、必ずしも情報の経験者が配置されているわけではない。 むしろ、防衛駐在官は出世のための“箔付け”という意味合いが大きい。

防衛駐在官の増員が「情報収集能力を強化しています」という政府の詭弁以上のものにするためには、防衛駐在官制度の見直しなどやるべきことは多々あろう。その一つには、柴や明石のような、明治期のインテリジェンス将校の育成要領、陸軍中野学校の当初の構想などにも学ぶ必要があるのではないだろうか。

『孫子』から学ぶインテリジェンス講座(3)

戦争判断のための能力判断とは

孫武は、「それまだ戦わずして廟算して勝たざる者は、算を得ること少なければなり。算多きは勝ち、算少なきは勝たず。しかるをいわんや算なきにおいてをや。我これをもって勝負を知る」(始計編)と述べている。

これは、「戦う前に彼我の国力を算定・比較し、勝算が少なければ負ける。まして勝つ要素が全くないのに戦争をすることは愚かである」ということだ。 この彼我の国力・軍事力を算定し「戦う前に勝敗を知る」ということが、平時におけるインテリジェンスの大きな目的である。

では、彼我の国力・軍事力を算定するにはどのような要素を見ればよいのであろうか? これに関して『孫子』では、前述のとおり、「五事七計」を以って「敵と我の何れが優れているか」、「何れが適切に行われているか」などを比較し、総合的に「我は戦争すべきか、回避すべきか」を判断せよ、と言っているのである。

インテリジェンスの構成要素

現在は、『孫子』の時代とは戦略環境が大いに異なっている。戦いは戦場における双方の軍事力の交叉には限定されない。よって、これら五つの基本要素は時代によって変化・発展するものと解するべきであろう。

現代戦は総力戦であるので、相手国の意図や能力を解明するためには、軍事力、経済力、科学技術力、政治力、社会力、心理力、地理的条件、その他のありとあらゆる事項の評価が必要となる。 しかし、評価要素があまりにも広範・多岐に及べば、分析が煩雑となり評価判断ができなくなる。したがって、これらの数を限定し、体系化する必要がある。

こうして限定・体系化されたものを、インテリジェンスの世界では「インテリジェンスの構成要素」(以下、「構成要素」と呼称)と呼んでいる。そして、構成要素に基づいて全般情勢を把握することを環境把握あるいは環境分析(エンバイラメンタル・スキャニング)という。

環境分析とはなにか

環境分析は、自分の記憶や知識を体系的に整理し、彼我の全般情勢、国力の優劣などを把握する上で有用な初歩的かつ基盤的な分析手法でもある。 今日の米国情報機関では「構成要素」を人物(Biographic)、経済(Economic)、社会(Sociological)、運輸・通信(Transportation&Telecommunications)、軍事地誌(Military Geographic)、軍隊(Armed Force)、政治( Political )、科学技術(Science)の八項目とし、その頭文字をとって「BESTMAPS」としている。

英国情報機関では、社会(Social)、技術(Technological)、環境(Environmental)、軍事(Military)、政治(Political)、法(Legal)、経済(Economic)、安全保障(Security)の頭文字をとって「STEMPLES」としている。

このほか、外交(Diplomatic)、情報(Information)、軍事(Military)、経済(Economic)の頭文字をとった「DIME」なども全般情勢・態勢などを把握するための有力な視座となりえるであろう。

情勢に応じてた戦略・戦術判断とは

見積り(Estimate)とは、将来における情勢の推移を予測することである。つまり、敵及びその他の関係勢力がいかなる意図及び能力を形成し、どのような行動方針を打ち立てるか、などを予測することである。

日本兵法研究会会長・家村和幸氏は、「始計」では、「五事七計」「廟算」「勢」という三つの戦略・戦術的判断があり、それぞれに「情報(Intelligence)」「意思決定(decision Making)」「行動(Action)」の「IDAサイクル」が繰り返されていると論じている。(家村和幸『図解 孫子兵法』)

① 「五事七計」

家村氏の解釈によれば「五事七計」とは「戦争をするのか、しないのか」の戦略的判断、「廟算」とは戦争に勝つための戦略・戦術的判断、「勢」とは臨機の戦術的判断である。

『孫子』が想定する戦争は敵を屈服させるために敵国に攻め込む侵略戦争であり、今日のわが国が巻き込まれる戦争は「専守防衛」に基づく国土防衛戦争という違いはある。しかし、いずれにおいても『孫子』と同様の戦略的・戦術的判断が繰り返されることに異論はない。

情報部署は、その各段階・各レベルにおいて、目的に適合した「見積インテリジェンス」を戦略策定・作戦実施部署に提供することになる。 ここでは、戦争の前段階におこなわれる「五事七計」と「廟算」に絞って、わが国のどのような「見積インテリジェンス」を生成するのかを考察してみよう。

まず「五事七計」では、「戦うべきか、戦わないか」の戦略的判断が求められるが、これはわが国の平時における国家戦略の選定段階に相当しよう。 つまり、この段階での情報部署は、紛争を中心にわが国を巡る国際情勢を幅広く考察し、それらの情勢推移を見通して、その変化傾向や変化を促す影響要因(ドライビングフォース)などを明らかにすることになる。

すなわち、国内外の動静と相互関係を明らかにし、「紛争が生起する可能性があるのか」「侵略事態が起こり得るのか」「起こりえる可能性のあると侵略事態の特性、生起条件は何なのか」「これがわが国の国益にいかなる影響を及ぼすのか」、などを見積もることになるであろう。

こうして生成された「見積インテリジェンス」は、ハードパワー及びソフトパワーを併用して戦争を抑止する抑止戦略に、万一の侵略事態対処に備えての国防体制の構築などに活用されることになる。 なお、わが国では、この段階で生成するインテリジェンスを一般に「情勢見積」と呼んでいる。これは国家最高レベルの「見積インテリジェンス」であって、内閣官房の統制で各省庁の情報組織などが協力して生成することになる。

② 「廟算」(びょうさん)

「廟算」とは、戦争を決めた相手に対して、開戦に先立ち、祖先の霊廟において作戦会議を行うことである。『孫子』では「それ未だ戦わずして廟算するに、勝つ者は算得ることを多きなり。未だ戦わずして廟算するに、勝たざる者は得ることすくなければなり」(始計)と述べる。つまり、敵を具体化し、敵に対し我の勝ち目を見出すための作戦会議を行うのである。

たとえば、ある国の侵略意図が顕著になった段階では、我が国は国家安全保障会議を開催し、そこで具体的な防衛作戦計画などが詰められることになる。 この時の「見積インテリジェンス」は、「五事七計」の時に比べ、彼我との関係から、より詳細かつ具体的に見積もることになる。この見積もりを先ほどの「情勢見積」と区別して、「情報見積」と呼ぶ。

仮に中国を侵略国と想定すれば、「中国あるいは中国軍はいかなる意図、能力を有しているのか。またどのような行動を取るのか」「米国、その他の第三国及び国内の反対勢力はどのような行動をとるのか」「中国の軍事行動にはどのような税弱点があるのか」「それが我が国の防衛作戦に如何なる影響を及ぼすのか」「我が国が乗じる中国の弱点は何か」などを詳細に見積もることになる。

これは、関係省庁の協力を得て、防衛省や自衛隊最高司令部等が中心となって見積もることになるであろう。

③ 「勢」

「勢」の段階における見積りは、戦場における臨機の戦術的判断に資するものである。これは「態勢見積」と呼ばれる。(家村和幸『図解 孫子兵法』)

第四編「軍形」では彼我の戦闘力を比較して勝利をえるための考慮要素として、「兵法は、一に曰く度(たく)、二に曰く量、三に曰く数、四に曰く称、五に曰く勝。地は度を生じ、度は量を生じ、数は称を生じ、称は勝を生ず。故に勝兵は鎰(いつ)を以って銖を称(はかる)がごとく、負兵は銖(しゅ)を以て鎰を称るがごとし」と述べている。

ここでいう「度」とは戦場の広さ・遠近を測ること、「量」は戦車・武器・弾薬の量を計算すること、「数」は度や量と関連して兵数(動員可能な兵士の数)を計算することである。そして「称」が彼我の兵数・戦力を総合的に計算して優劣を判定し、「勝」が結論として、すくない兵力でどのよう勝利するかという勝利の法則を見出すことである。

「態勢見積」の主眼は、我がまず負けない態勢を確立し、その上で主導性を発揮して敵に対して「勝ち易きに勝つ」という必勝の態勢を終始保持することにある。 わが国の防衛作戦を例にとれば、情報部署は侵攻正面の敵の兵力量、編組(敵部隊の侵攻態勢)、敵の攻撃・侵攻の時期および方向、火力や予備兵力を運用する時期・場所・要領、彼我戦力の比率、などを臨機応変に見積もることになろう。当然、作戦部隊の大小に応じて、その情報部署が行う「態勢見積」の対象、範囲などは異なることになる。

正確な戦略的判断により勝利した日露戦争

1904年の日露戦争は、正確な戦略的判断により勝利することができた。その前の日清戦争(1894年)では、川上操六・中将(参謀本部創設の父、のちに大将)が、戦争前年の1893年、清国と朝鮮を視察し、「先制奇襲すれば清国への勝利は間違いない」と確信を得て帰国した。

しかし、日清戦争とは異なり、日露戦争では、明治天皇が戦争の決断に際して落涙されたという。 そこで、当時の児玉源太郎満州軍総参謀長は、彼我の国力を比較・算定したうえで、わが国は完全勝利することできないと判断し、短期決戦で、有利になった段階で終戦に持ち込む算段をした。すなわち「六分四分」の勝負に持ち込むことを計画した。

そして、盟友の杉山茂丸や桂太郎首相秘書官の中島久万吉に終戦のための情報収集を依頼し、奉天会戦の勝利後には、元老や閣僚たちに対する終戦説得工作を開始した。 こうしたインテリジェンスと戦略の連携により、わが国はロシア領土内に侵攻することもなく、米国による和平仲介によってやっとのことで勝利し得たのである。まさに『孫子』の兵法が実践で生かされたといえる。 

勝算のない戦いをした太平洋戦争

他方、先の太平洋戦争では、日米開戦後の見通しについて、当時の近衛文麿首相から質問を受けた山本五十六・連合艦隊司令長官は、「是非やれといわれれば、初めの半年や一年は、ずいぶんと暴れてごらんにいれます。しかし、二年、三年となっては、全く確信を持てません」と述べた。  つまり、初めから勝算のない戦いをしたのであった。まさしく、この時のわが国は、「敗兵は戦いて、しかる後に勝ちを求む」(謀攻編)であったのである。