情報分析官が見た陸軍中野学校(5/5)

▼中野学校を等身大に評価する

 今日、どちらかといえば中野学校は実態よりも過大、誇大に捉えられています。他方で、中野学校を情報機関や謀略機関として誤認識し、それを各国の情報機関などと比較して「大したことはなかった」と過小評価することもあります。いずれも間違いです。

 中野学校を過大視し、今後の日本の情報組織や情報活動のあり方を模索するには中野学校に学べばよい、などの短絡的思考は禁物です。

 中野出身者や中野教育における優れた点が多々あったことは間違いありませんが、他方で、「中野学校がもう少し早くできれば、太平洋戦争は回避できた」かのような感覚論に基づく過大評価は問題の本質への理解を遠ざけます。

また、根拠に乏しい過大評価は、映画『陸軍中野学校』や小野田少尉にまつわる特殊事例が独り歩きし、中野出身者が北朝鮮情報機関を作ったなどの“都市伝説”や戦後の帝銀事件などの「国家重大謀略事件」に関与したなどの不確かな噂を広める原因にもなります。

だから、中野学校の誤認識を排斥し、現代的教訓を導き出すためには、まずは中野学校を等身大に評価することが必要不可欠なのです。

▼秘密戦の誤解を解く

 今日、秘密戦は中野学校で行なわれていた秘密戦技術、沖縄での遊撃戦、さらには登戸研究所(秘密戦研究所)による風船爆弾、偽札の製造、そして第七三一部隊が関与したとされる生物戦および化学戦など、さまざまに認識されています。

 森村誠一の『悪魔の飽食』(光文社)の信憑性はともかく、そこに描かれる第七三一部隊の暴虐性には目をそらしたくなるものがあり、ベストセラーとして多くの読者に悪辣なイメージを植えつけたことは間違いないでしょう。こうして、秘密戦とは絶対に許されない手段をもって、相手側の情報を盗んだり、目的達成の障害となる要人を暗殺したりする行為との印象が固まってきました。

中野学校や陸軍参謀本部では秘密戦を情報勤務の意味で使用し、それは諜報、宣伝、謀略、防諜の4つからなると定義していました。しかし、今日では秘密戦はさまざまな意味で使用されており、それらの違いを明らかにせず、メディアなどで混同して使用することは禁物です。これが、中野学校のイメージを貶め、現代に少なからぬ負の影響をもたらしています。

 だから私は本書では次のように主張しました。「秘密戦という一つの言葉をもって中野学校、登戸研究所、第七三一部隊が短絡的に連接される。中野学校の教育の一部をもって忌まわしい事実を強調する。秘密戦という後ろめたい隠微な言葉の響きとともに旧軍や中野学校が行なった情報活動が全否定される。このような何もかも一緒に関連づける粗雑な論理の延長線で、今日の情報に関する組織、活動および教育が否定されることだけは絶対に避けなければならない。周辺国が情報戦を強化しているいま、日本がそれらに対抗して本来行なうべき正当な情報活動まで制約を受けることがあってはならない。情報活動は国家が行なう正当な行為である。情報活動そのものを否定してはならないのである。」(本書引用)

▼根拠不明な謀略説を排除する

 さらに許しがたい状況は、書籍や雑誌で中野出身者が暗殺や毒殺、拉致などを働いたなどという記事がまことしやかに流布されていることです。

ただし、毒殺などは教育の中でわずかに教えられただけであり、所要の目的を達成するためには相当の訓練が必要となります。他方で、毒殺といえども、作戦との連接や所望の効果などを考えずに単に実行するだけであれば、当時の一般軍人や知識のある民間人でも実行は可能であったとみられます。

また中野学校では個人目的での謀略の使用は厳しく制限され、国家目的のため、さらにはアジア解放のための謀略に限定すべきであると教育されていました。要するに、さしたる根拠もなしに、安易に謀略事件と関連づけて吹聴すべきではないということを申し上げたいのです。

 中野出身者で御年99歳になられる牟田照雄先生は、筆者の知人でもある鈴木千春氏の取材に対して次のように述べられています。

 「スパイ学校という表現を筆頭に、中野学校を書いた書籍、雑誌は多いが間違いが多い。メディアやマスコミの無責任な憶測から、全く関係がないのに下山事件、白鳥事件まで中野学校にこじつけられ、非常に不愉快です。中野学校には裏切り者も犯罪者もいません。誤解と中傷に怒りを感じます。中野出身者は密かに熾烈に、黙々と国のために尽くしました。間違った情報が独り歩きし、私たちの『誠の精神』が踏みにじられています。これでは戦死した同志の英霊も安らかに眠れない」(本書引用)

 私たちは、牟田先生ほかの“声なき声”を重く受け止め、日本のために戦った英霊を慰め鎮めるためにも、いわれなき風説を排斥しなくてならないと思います。是非とも、できるだけ多くの方々に本書をお読みいただき、誤った認識が流布されることを一緒に防止していただけたらと心よりお願いしたいのです。

▼インテリジェンス・リテラシーの向上を目指して

 本書では組織や国家がインテリジェンス・リテラシーを高めるために秘密戦の研究は排除してはならないと述べました。ただし、これは謀略などの能力を保有せよ、という意味ではありません。諸外国がこれらの情報活動を活発に展開している現状では、防諜の観点からこれらの秘密戦を研究することは必要であるということを申し上げます。

今日、「超限戦」「ハイブリッド戦」「マルチドメイン作戦」など呼称はさまざまですが、平時と有事、正規と非正規、戦略と作戦・戦術のグレーゾーンでの戦いが注目されています。そして、わが国に対するかかる脅威が確実に高まっています。

ハイブリッド戦などの原点は秘密戦であると言ってもよいでしょう。今日、現代的視点で著されたハイブリッド戦などの関連書が陸続と刊行されています。

もちろんこのような関連書を参考にすることも重要ですが、私はその原点である秘密戦を今一度研究する意義が大きいとみられます。

本書では第1次世界大戦後の総力戦思想の誕生の中で、諸外国が秘密戦で火花を散らし、わが国も遅ればせながら秘密戦を重視した経緯についても詳述しています。ここには、なぜわが国が秘密戦で敗北したのかの原因を特定するヒントを掲載しています。

今日のハイブリッド戦への対応についても、かつての日本国あるいは日本人の宿痾(しゅくあ)ともいうべきある脆弱性を抱えているとみられます。つまり、秘密戦に関する歴史的検証を欠いた現代の視点だけの対応だけでは、某国からのハイブリッド戦などに対応することはできないと考えます。

 第二に、批判的思考で発信者の意図を推測することの重要性について強調しました。現在、さまざまな政治的意図を持った著書が出版されていますし、中野学校関連書の中にも真偽の怪しい情報が氾濫しています。

インターネット上ではフェイク・ニュースが氾濫しています。こうしたなか、我々には真実を選り分ける判断力が一層重要となっています。

 本書では、報道や記述に対して冷静に分析し、発信者の意図はどこにあるかを見極めることが重要になっています。本書では、3つの「問い」をもって情報(インフォメーション)を客観的かつ批判的に見ることがフェイク・ニュースに惑わされないための秘訣であることを述べました。

 こうした批判的思考を各人が身に着けることが、国家や組織のインテリジェンス・リテラシーを高める重要な一歩となると思います。

第三に、インテリジェンス・サイクルを確立することの必要性について強調しました。

 日本は米中ロという大国に囲まれ、かつ多くの資源を諸外国に依存しており、地政学的に見れば、日本ほど世界情勢を的確に見通す情報力が必要とされる国はありません。現代は不確実で先が見通せない時代にあって、インテリジェンスの重要性はますます高まっています。

中野学校が創設された当時も支那事変の泥沼化、欧州情勢の緊迫化、共産主義の浸透と国内テロの増加など、不透明な時代でした。

 こうしたなか、中野関係者は、将来を見据えて、海外情報要員の育成を決意し実行に移しました。彼らの決断力と行動力を教訓として、現在の国家組織や民間企業がインテリジェンスの重要性を認識し、良好なインテリジェンス・サイクルを確立していただきたいと思います。

情報分析官が見た陸軍中野学校(4/5)

▼中野学校とスパイは映画の幻影

 中野学校の精神綱領には次のように書かれていました。「秘密戦士の精神とは、尽忠報国の至誠に発する軍人精神にして、居常積極敢闘、細心剛胆、克く責任を重んじ、苦難に堪え、環境に眤(なず)まず、名利を忘れ、只管(ひたすら)天業恢弘(てんぎょうかいふく)の礎石たるに安んじ、以て悠久の大義に生くるに在り」(本書引用)

 中野学校の教官であった伊藤貞利は精神綱領を次のように解説しています。

 「精神綱領による秘密戦士の精神とは君国に恩返しをするために私心をなくして命を捧げるという『まごこころ』から出る軍人精神である。常日頃、ことを行うにあたっては積極的に勇敢に、こまかく心をくばると同時に大胆に、責任を重んじ、苦難にたえ、自主性を堅持し、物心の欲望を捨て去り、ひたすら世界人類がそれぞれ自由に幸せに生きることができる世界をつくるという天業を押し広める土台石にとなることに満足し、たとえ自分の肉体は滅びても、精神は普遍的な大きな道義の実現を通して悠久に生きるということである」(本文引用)

太平洋戦争の中期以降、中野学校の教育は秘密戦士から遊撃戦士の育成に大きく舵を切ることになりますが、「秘密戦士として名利を求めない」という一期生の精神は代々受け継がれ、中野教育の伝統になりました。

秘密戦も遊撃戦も突き詰めれば孤独な戦いです。だから、人間の真心の交流という精神要素が求められるのです。

軍人には命を賭して国家・民族の自主自立を守るという崇高な使命があり、それにふさわしい栄誉が与えられます。

しかし、秘密戦士には軍人としての栄誉は与えられず、任務の特性上、その功績を表に出せず、時として犯罪者の汚名を着せられ、ひそかに抹殺される可能性すらあります。

 さらに中野出身者には残置諜者として、「外地に土着し、骨を埋める」ことが求められました。親の死に目にも遭えず、自身も人知れずに死んでいく運命にあったのです。だから、精神綱領では「環境に眤まず、名利を忘れ」の精神が謳われました。

 戦争末期の学生が受けた精神教育の大綱は「一、謀略は誠なり」「二、諜者は死なず」「三、石炭殻の如くに」の三つでした。まさに「石炭殻の如く」人知れず、「悠久の大義」に生きるための精神を涵養する教育が行なわれたのです。

▼生きて生き抜いて任務を果たす

 上述の「諜者は死なず」について解説を加えます。戦陣訓では、「生きて虜囚の辱めを受けず」と述べられています。しかし、秘密戦士は任務を達成するために「生きて生き抜かなければならない」と教えられました。これは武士に対する忍者の心構えと類似しています。

 一期生に忍術を講義した藤田西湖は次のように語ったといいます。

 「武士道では、死ということを、はなはだりっぱなものにうたいあげている。しかし、忍者の道では、死は卑怯な行為とされている。死んでしまえば、苦しみも悩みもいっさいなくなって、これほど安楽なことはないが、忍者はどんな苦しみをも乗り越えて生き抜く。足を切られ、手を切られ、舌を抜かれ、目をえぐり取られても、まだ心臓が動いているうちは、ころげてでも敵陣から逃げ帰って、味方に情報を報告する。生きて生きて生き抜いて任務を果たす。それが忍者の道だ」(本書引用)

 また、二期生の原田統吉は以下のように述べています。

「『生きて虜囚の辱めを受けず』という戦陣訓の言葉を地上白昼の正規戦争の戒律だとすれば、秘密戦の戒律はちょうどそれを裏返したものだと考えていいでしょう。『生きろ、あくまでも生きて戦え、虜囚となろうとも生きて戦いの機会を狙え、恥を恐れるな、裏切者の汚名を着たまま野垂れ死することさえも甘受して、真の大目的のために戦い尽くせ、手がなくなれば足で、眼がなくなれば歯で……命尽きるまでは戦え』というふうに言っても言いつくせないような<強靭な戦いの精神>が要求されているのです。(本書引用)

 このように、「生きて生き抜く」、これが中野学校の精神教育の本質であったのです。

▼楠公精神の涵養

 精神教育は学生隊長や訓育主任などによる「精神訓話」と「国体学」に分けられますが、主体は国体学でした。その国体学とは、わが国の由緒正しい国家の体制を歴史的に考察する学問です。

 国体学では以下の試みがなされました。

○楠木正成を秘密戦士の精神的理想像として、楠公社を建て、朝夕ここに参拝し、自己反省する

○記念館(室)を設け、明治以来の先輩、秘密戦士の遺品・遺影、その他の関係資料を掲げて、ここを講堂にあてて、自習を促す

○教育に加えて、国事に従事した先烈の士の遺跡を訪ね、現地で精神的結晶の総仕上げとする

 記念室は畳敷きで、学生たちはそれぞれ小さな机に向かって、座布団なしで正座し、国体学を受講しました。吉田松陰が塾生に講義するスタイルがとられました。

 中野学校の国体学の教官であった吉原政已は「自分は和服だし正座は慣れていたが、学生諸氏は窮屈な背広を着用し、若くて張り切った大腿であったから、不慣れな正座は苦痛そのものであったろう。…

…私は、何の躊躇もなく正座を要求した。正座の苦痛のために、私の講義が耳に入らないこともあるのは、十分考えられることであったが、それでもあえて正座講義を行った。人間の意志伝達は、耳や眼など以上に、体全体で受け入れる方が大事と信じて疑わなかったからである」(本書引用)と述べています。

精神の鍛練は耳学、目学だけではなく体全体で受け入れる。これは今日では物議を呼びそうですが、私はわが国の修行の歴史などから深い意味があると思います。

▼誠の精神の涵養

 現地研修では吉野、笠置、赤坂、千早、湊川、鎌倉などの楠木正成のゆかりの地への訪問が実施されました。楠木正成は後醍醐天皇に仕え、鎌倉時代末期の「建武の新政」に貢献した天才武将です。

正成の生き様を通して学ぶ精神とは「誠の精神」です。つまり、正成の嘘や混じりけのない、一途な天皇への忠誠から誠の精神を学びました。

教官の吉原は次のように述べています。

 「防諜・諜報・宣伝・謀略などという、尋常でない工作だけに、これにたずさわる精神の純度が、問われるのである。不純な動機による権謀ほど、醜くして憎むべきものは無い。中野学校において、『秘密戦は誠なり』と強調されたのは、まことに当然のことであった」(本書引用)

「誠」は秘密戦士に限らず、軍人全体に求められました。ただし、中野学校では次の点が異なりました。

 「(軍人教育で行なわれた)『誠』の発露は天皇陛下に対してであり、拡大した場合でも日本国民が最大範囲であったと思われるのに対して、8丙が教えられた『誠』はその範囲が異民族まで拡大しており、一見『誠』とは正反対に考えられる謀略でも『誠』から発足したものでない限り真の成功はないと教えられた」(本書引用)

時代の要請により、中野出身者にはアジア民族を植民地より解放し、その独立と繁栄を与えることが任務に課せられため、「誠」の範囲は異民族まで拡大されたのです。

中野出身者は、現地人への愛情と責任から、みずからの現地軍に身を投じる者すらあったといいます。また、戦後になっても、インドや東南アジア諸国の住民との交流が続いたといいます。このことは、戦時中に異民族に示した行為や愛情は、心底「誠」から出たもので、決して一片の謀略や一時的な工作手段から出たものでなかったことを実証して余りあるのではないでしょうか。

情報分析官が見た陸軍中野学校(3/5)

中野学校の教育内容

▼中野学校の誤ったイメージは映画などが原因

 中野学校では、開錠法(鍵開け)、開封法(封書開け)、窃盗法などの秘密戦技術が重点的に教育されたとの認識があります。これを起点に中野学校は非合法な行為を行なう“スパイ組織”であったというイメージが蔓延し、戦後になって中野出身者が国家犯罪に関与したなどの根拠なき風説が流布されています。

 しかし、中野学校のこうした教育イメージは、1960年代に映画「007」シリーズが公開され、空前の“スパイブーム”が起きるなか、これに便乗するかのように映画『陸軍中野学校』が誇大宣伝的に放映されたことが大きく影響しています。

 この映画では、身分欺騙、金庫破り、殺人、誘拐などの“スパイ技術”を教育する場面が随所に描かれています。主人公の三好少尉が任務遂行のために、恋人を毒殺するシーンもあります。

 映画の中で、草薙中佐(後方勤務要員養成所の秋草所長がモデル)が「じゃあ、俺の中野学校で盗んでやろうか。英国(えいこく)の暗号コードブックを」と語る場面があります。中野学校生が訓練目的でこれに類する活動を行なったこともあるようですが、中野学校は諜報・謀略機関ではないので、このような事例は特殊なケースです。

 しかしながら、こうした観客の関心を引く物語が、中野学校を諜報・謀略などの秘密戦の実行機関であるかのような誤解を広めたことも事実です。

▼中野学校での将校教育では諜報・謀略技術は重視されなかった

 中野学校の創設時の目的は「替わらざる武官」の養成でありました。残念ながら、太平洋戦争が開始され、この目的は三期生までで潰えてしまいます。

 中野学校を創設して何をしようとしていていたのか、いかなる問題点を改善しようしたのかを明らかにするために創設期の教育内容を分析することが重要です。

 創設期の将校教育では諜報・謀略技術の教育は体験程度でした。二期生の原田統吉氏は次のように述べています。

「技術に関しては充分に習熟するというよりも、幅広く基礎をみっちりやっておくことに重点があったようである。将来どのような形で任務につくか予断し難い立場を考慮してのことであったらしい。何しろ苦力になるのか、一流商社マンに偽装するのか、外交官になるのか、全然見当もつかないのだから。

――その基礎さえあれば、その時必要なだけの技術は現場に即応してマスターできる能力はもっているはずだ、ということであったのだろう(そして現実に仕事を始めたときそれは全くそのとおりであった)。007的教育は、私の『中野』においては部外者が考えているほど、あまり大きな比重を持たなかったのである」(本書引用)

▼応用力、判断力などを重視

 では、どのような教育が重視されたのか、原田氏の回想をさらに見てみましょう。

 「講義は淡々と進み、やがて問題が出る。いつものことだ。『情況は本日の現状、駐ノルウェー武官としての状況判断及び処置如何』というのである。ドイツが『ノルウェー、デンマークに進駐した』ニュースが新聞に伝えられた直後である。与えられた時間は二十分。軍における情況判断というのは、単に情況の分析だけではない。相手の企図、実力及びそれに関連する一般条件を分析予測し、それを当方の企図から判断して、最後は『吾方は○○するを要す』という言葉で終る、主体的な意志決定直前の段階までの作業である。そして武官の処置とはこの場合、独立した秘密戦指導者の具体的行動を意味する」(本書引用)

つまり、中野学校の創設期が目指す教育は判断力や決断力の養成を重視する教育であり、今日の世間がイメージしている“スパイ教育”ではなかったのです。

▼自由で柔軟な思想を持った教育

もう少し、教育風景を眺めてみましょう。原田氏は次のように回想しています。

「秋草さんが、ある日数名の学生をつれてデパートに行き、屋上から地階まで各階毎に一時間ほどずつ、一日がかりで、目ぼしい商品や設備について、その歴史、生産、良否の見分け方、使用法等を全部専門的に説明し、その上秘密戦的利用法まで得意の話術で解説して見せ、ヘトヘトになって帰って来た学生に、レポートの提出を命じた、などという秋草伝説がある。やはり『中野』のあらゆるものを教師とする、万能人への志向を物語るものであろう」(本文抽出)

 万事を秘密戦の目的という視点から見る、そのうえで形にとらわれない自由で柔軟な教育、それが中野教育の魅力でした。これが中野出身者の自由で柔軟な発想力や想像力を育んだのです。

▼実戦的訓練の重視

 秘密戦は実戦でできなければ役には立ちません。そのため、中野学校では教育訓練の環境を限りなく実戦に近づけて、決断力(胆力)や行動力の涵養を重視しました。このため、陸軍省の建物や軍需工場に守衛などを欺き、こっそりと侵入するなど、犯罪紛(まが)いの訓練も実施されました。

 むろん、現代ではこのような訓練を行なうことはできません。しかし、中野学校では実戦的な教育訓練と行なうための工夫がありました。たとえば、上述の秋草所長によるデパートでの教育です。つまり、あらゆるものを秘密戦という目的意識をもって思考させ、特定の行動をとることで、法に触れずとも実戦力が養成されることを中野学校の教育から学ぶことができます。

 なお実戦とは必ずしも戦争を意味しなくてもかません。ビジネスの現場もいわば戦争であり、失敗が許されない緊張感の中で商談が行なわれます。そのような状況下で、正しい思考力や判断力、そして決断力がビジネスパーソンに求められます。しなやかで強靭なビジネスパーソンを育成する上でも、中野教育は我々に一つの視座を与えてくれるでしょう。

 私のような長年情報教育の現場に携わった者からすれば、中野教育から情報教育あるいは情報勤務者を育成する上でのヒントを汲み取ることは難しくありません。さらに、今日のグローバル化や、AIおよびICTの技術発展の中で、知識教育よりも創造的思考力、問題解決力、判断力と行動力などの重要性が高まっていることを踏まえるならば、中野教育は現代のさまざまな領域における人材育成上の羅針盤になると考えます。

それゆえに、人材教育に携わる方々にも、「しょせんわが国を誤った道に向かわせた旧陸軍の教育だ」とか忌避せずに、中野教育の優れた点にも注目してほしいのです。また、私は、先進的な中野教育の魅力も紹介したいのです。

 次回は中野学校での精神教育に焦点を当てます。

情報分析官が見た陸軍中野学校(2/5)

中野学校は秘密戦士を育成するために創設されものの、太平洋戦争開始によって、やむを得ず、遊撃戦士の教育も引き受けることになったことなどについて解説しました。今回は「秘密戦とは何か?」を焦点に、秘密戦と遊撃戦との違い、中野学校の創設の経緯や発展の歴史などを解説します。

▼秘密戦とは何か

  皆さんは「秘密戦」という言葉から、どのようなイメージを抱かれますか?

秘密戦の一般的なイメージは、開錠、開封、潜入といったスパイ技術、沖縄戦で行なわれた遊撃戦、登戸研究所(秘密戦研究所)による風船爆弾や偽札の製造、そして第731部隊が関与したとされる生物戦および化学戦などでしょうか。

 森村誠一の『悪魔の飽食』(光文社)の信憑性はともかく、そこに描かれる第731部隊の暴虐性には目をそらしたくなるものがあります。こうして、秘密戦とは絶対に許されない手段をもって、相手側の情報を盗んだり、目的達成の障害となる要人を暗殺したりなどする行為との印象が固まっているようにみられます。

 しかしながら、中野学校では太古の昔から行われてきた情報勤務を秘密戦と呼称しました。つまり、「従来いわゆる情報活動なり情報勤務といわれていた各種の業務、すなわち「諜報」「宣伝」「謀略」「防諜」を総括して、中野学校が創立後しばらくたった頃から「秘密戦」と呼ぶようになった。」(本書引用)のです。

 そして、陸軍や中野学校では秘密戦と遊撃戦を異なる概念として位置づけていました。遊撃戦とはゲリラ戦のことです。軍事行動に連携して、敵後方地域の重要目標などを襲撃、破壊などして、〝主〟である軍事行動の促進を企図します。

 他方、秘密戦は、平時と戦時の両期間、軍事行動とは独立して行われることが一般的です。つまり、軍隊以外の個人または集団が、我の状況を有利にするために、非戦場や一般社会で政治や外交の裏面でも広範多岐に行うことが多々あります。いうならば遊撃戦は「戦いに勝つ」を目的とするが、秘密戦は「戦わずして勝つ」ことを目的とします。

▼中野学校はなぜ創設されたのか?

 第一次世界大戦は総力戦となり、その一つである秘密戦が重視されました。しかし、軍備縮小の世界的趨勢の中で、わが国では総力戦思想は陸軍内の一部に閉塞され、秘密戦を本格的に研究する状況は生まれませんでした。

 1930年代から満州事変へと突入し、ソ連と直接国境を対峙する中、わが国の諜報活動はソ連の鉄壁の防諜態勢により行き詰まります。1936年からの支那事変では、伝統的な「支那通」による和解工作が展開されるものの、ことごとく失敗に帰し、戦争は泥沼化していきます。

 さらに日本国内では共産主義が浸透していきます。2.26事件にも共産主義が影響したとの見方があります。

 こうした中、関東軍やソ連を担任する陸軍参謀本部第5課(ロシア課)では情報活動、すなわち秘密戦を強化すべきとの意識が高まります。また陸軍省軍務局では国内防諜態勢の強化が高まります。そして、防諜態勢を一歩推し進めた対外秘密戦の機能を強化しようとの要請が高まります。これが秘密戦士を育成する学校である中野学校の創設に繋がります。

 しかし、同校の創設に反対する勢力も多々ありました。英米課や支那課が反対の急先鋒だったとされます。中野学校は当初、「替わらざる武官」を養成しようとしたので、陸士出身者で固められていた駐在武官のポストが奪われるかもしれないという危惧もありました。

 だから当初は「後方勤務要員養成所」という名前で、九段下の愛国婦人会別館での仮宿での〝寺小屋方式〟の教育から第1期生に対する教育が開始されました。太平洋戦争が始まる3年以上前の1938年7月のことです。

▼なぜ秘密戦から遊撃戦へ移行したのか?

 中野学校は「替わらざる武官」の要請を目的に、幹部だけの第一期生19人が入校しました。1939年4月、旧電信隊跡地の中野区囲町に移転し、施設は拡充されます。同年12月入校の二期生からは幹部学生が110人に増え、これに加えて優秀な下士官候補生から選抜された52人が入所しました。これは刻一刻と英米との戦争に向かう日本の状況を反映したものであり、早急な秘密戦対応が必要となったからです。

 1940年8月、「後方勤務要員養成所」は陸軍大臣直轄の学校として、名称も「陸軍中野学校」に変更され、施設や教育内容が急速に整備され、当初の私塾的な体裁から変わっていきます。同時に、中野学校の教育は、「秘密戦を諜報、宣伝、防諜、謀略と定義することとし、防諜については従来の軍機保護法的な考え方から進んで敵の諜報、謀略企図を探知することは固より、敵の企図を逆用する所謂反間謀略業務を重視することとした。占領地行政は秘密戦ではないが、特に陸軍省の要請があったので教育課程に加えた」(本書引用)のです。

 1941年12月から太平洋戦争が開始されます。最初は連戦連勝の勢いでしたが、1942年のミッドウェー海戦とガダルカナル島の戦いを経て、日本は攻勢から守勢に転換し、陸軍参謀本部は遊撃戦(ゲリラ戦)の展開に踏み切ります。

 これにともない、長期勤務する秘密戦士を養成することを目的として創設された中野学校は遊撃戦士の教育へと軸足を移していきます。1943年8月、陸軍参謀本部は中野学校に「遊撃戦戦闘教令(案)」の起案と遊撃戦幹部要員の教育を命じ、本教令(案)は44年1月に作成配布されました。1944年8月、静岡県磐田郡に遊撃戦幹部を養成する二俣分校が創設され、第一期生226人が尉官学生(見習士官)として9月に入校、約3か月の教育が行なわれました。この中に小野田寛郎がいました。

 他方で本校はそのまま存続して、1945年4月に群馬県富岡に疎開します。このように中野学校は本校と分校の二つに分かれましたが、秘密戦の教育はずっと続けられました。

▼小野田少尉が世間に与えた印象は誤り

 今日では、小野田少尉が世間に与えた印象をもって中野学校そのものであるかのように認識されがちですが、そうした風潮は正しくありません。

 中野学校が遊撃戦教育を引き受けた経緯について、中野出身者の桑原武(戦後は自衛隊陸将補)は戦後の講演で以下のように述べています。

「思うに、陸軍においては一般情報勤務と秘密戦勤務を教える二本立ての学校が本来必要であったのに、最初にできたのが中野学校であったので、戦争に際会して一般情報勤務教育(ママ)の必要に迫られ、中野でこれをやろうということになったのだと思う。しかし、両者は別々にやるのが適当であろうと信ずる。

 こういう所見を鈴木さん(筆者注、研究部長の鈴木中佐)が入れております。このようにして、今申し上げたように遊撃戦ということが昭和十八年の暮れから十九年の春にかけて非常にやかましく、遊撃戦、遊撃戦といいだして、結局中野学校で遊撃戦をやることになりました。しかしあの東京の真ん中の中野では、とても遊撃戦の訓練などできませんので、分校をつくれということで、二俣分校というのができたわけです」(本書抜粋)

 今日、中野学校は沖縄戦での遊撃戦を行った主体組織であるかのように認識されています。しかし、実態は中野学校は止む得ずに秘密戦の教育を引き受けたのであり、しかもその教育は3か月の基礎教育に過ぎませんでした。また、正確を期すならば、中野学校が遊撃戦を実行したのではなく、その実行はあくまでも現地軍(沖縄では第32軍)が行ったのです。

情報分析官が見た陸軍中野学校(1/5)

約1年半ぶりとなりますが、新著を5月に出版します。そのため、昨日からメルマガ「軍事情報」で新著に紹介をさせていただいています。毎週1回、計5回を予定しています。

ここにも掲載しておきます。

「軍事情報」メルマガ読者の皆様、ながらくご無沙汰しております。以前、この時間帯で、「兵法三十六計」「女性スパイと情報史」「わが国の情報史」を投稿させていただいた上田です。

「わが国の情報史」では、少しだけ中野学校に触れましたが、今般、これを拡大リニューアルして「情報分析官が見た陸軍中野学校』を出版させていただくことになりました。

拙著の中でも、とりわけ〝生みの苦しみ〟を味わったとの思いがあり、本書では以下のように表現しました。本音です。

「…・中野学校を一冊の著書として刊行しようとした過程では、理解力や筆力の欠如から、中野学校の実相あるいは先人たちの労苦を表現しきれない挫折感を覚え、執筆を中断したこともあった。

 だが、筆者の友人の支援、中野関係者および出版社のご厚意で、五年の歳月をかけて、ようやく一つの形にすることができた。

 少々大袈裟ではあるが、本書は自身の内面と向き合い、先人たちの崇高な精神をあれこれ分析する資格もない自らの〝未熟さ〟を自覚し、また〝葛藤〟と戦い抜いた末の書なのである。」(本書引用)

さてタイトルにもありますが、これは既存の中野学校関連本とはまったく一線を画する本です。つまり、情報分析官あるいは調査学校などでの情報教官を経験した私が、自らを当時の環境に置き、先覚諸氏の情報活動への追体験を試み、中野学校の組織や出身者の活動がどうだったのかなどを分析・評価しています。

もちろん、過去に自分を投影するなど簡単な口にすることはできないし、至らない点は多々あると思います。実際、前述のような挫折を存分に味わいました。

しかし、以下に述べるような状況を放置することはできないと考え、本書を世に問うこととしました。

今日の中野関連本の多くは、戦前や戦後の中野出身者の活動に焦点が当てられています。中野出身者の一人である小野田寛郎少尉を代表とするアジアでの遊撃戦や、最近では沖縄戦での中野出身者の国内遊撃戦を取り扱う傾向にあります。しかし、中野学校では秘密戦や遊撃戦は異なる概念であり、中野学校が止む得ずに遊撃戦の教育を引き受けた経緯があることはほとんど認識されていません。

さらには中野出身者が戦後になって、帝銀事件、松川事件、白鳥事件などの「国家重大謀略事件」へ関与したかのような俗悪本が蔓延っています。つまり商売主義によって偏向された根拠のない風説や、中野出身者を〝スーパースパイ〟に囃し立てる本が跋扈しています。

中野学校には、長くても1年くらいの課程しかありません。そこには開錠(鍵開け)、開封(封書あけ)、薬物(毒殺)などのスパイ教育もありましたが、秘密戦の基礎教育、国際情勢、占領地行政などさまざまな教育をやっていました。多くのキャリクラムをこなす中、いわゆる〝スパイ技術〟が短期間で修得できることなどあり得ません。

失礼ながら、多くのジャーナリストの方や作家の方には、軍事面での現場感覚がおありでないので、ちょっと教育すればスーパー秘密戦士ができるかのような錯覚をお持ちになるのだろと思います。そうした錯覚を前提に中野出身者による戦後の謀略説などが組み立てられていくのだと考えます。

他方、中野学校の組織や出身者の活動を、過去資料に基づき考察している良書もありますが、中野学校を国家謀略機関として他国の情報機関と比較したりする点には若干の問題があると思います。

中野学校は陸軍の一教育機関です。私のように自衛隊の一教育機関の教官として長年勤務した経験からすれば、組織内の一教育機関が諜報、謀略を実行する主体になり得ません。 国家への影響も限られていることは明らかです。教育は国家全体の国力維持の屋台骨ではありますが、即戦力の養成という点での限界もあります。

たしかに、当時、国家および陸海軍が本格的な情報教育の機関を有していなかったため、中野学校での情報教育は画期的なものでしたが、中野学校ができたからといって、戦前の情報活動の問題点を一掃される、太平洋戦争を回避できたかもしれないと過大視するのは希望的観測であり幻想です。このような感覚論は、情勢判断に失敗し無謀な太平洋戦争に突入し、太平洋戦争で情報活動の失敗をしたことの本質の理解を遠ざけることになります。

以上のような状況を憂慮するとともに、中野学校のより実相に迫りたいと考え、私は次の二つの目的をもってこの著書を書きました。

「本書の目的は二つある。一つは、陸軍中野学校(以下、中野学校)の創設理念や教育内容を正しく評価し、現代社会における情報戦争(情報戦)への対応に役立てることである。

 もう一つは、中野学校がスパイ組織として非合法な活動を行なっていたなどという、誤った認識を是正することである。」(本文引用)

エンリケ様のご厚意により、5回シリーズで本書の読みどころを紹介させていただきます。

皆様よろしくお願いします。