わが国の情報史(18) 

明治最高のインテリジェンス将校

明治の軍政・軍令のオールスターズ

柴五郎

明治時代の軍政・軍令のオールスターズは戦国時代の武将オールスターズと同様に、愛国心、個性、人間的魅力、戦略眼、情報センスなど、なにをとっても傑出した強者ぞろいである。

現在、米中関係、米朝関係が変動期にあるが、それにともないわが国も対中政策や対北朝鮮政策をどのように規定していくのかの岐路に立ちつつある。

今の世の中に、彼らの一人でも現存していたならば、わが国はどうなっただろうか?そして、わが国が直面している難局にいかなる意思決定を下すのか、実際に見てみたいきがする。

まず筆者独自の選択で、最初に明治の軍政・軍令における偉人を列挙したい。

・第一世代(幕末維新の功労者) 勝海舟(1823~1899)、西郷隆盛(1828~1877)、大久保利通(1830~1878)、木戸孝允(1833~)、坂本龍馬(1836~1867)

・第二世代(日清戦争の功労者) 山県有朋(1838~1922)、樺山資紀(1837~1922)、大山巌(1842~)、伊藤博文(1841)、陸奥宗光(1844~1897)

・第三世代(日露戦争の功労者) 桂太郎(1848~1913)、川上操六(1848)、乃木希典(1849~1912)、山本権兵衛(1852〜1933)、福島安正(1852~1919)、児玉源太郎(1852~1906)、田村恰与造(1854~1903)、明石元二郎(1864~1919)

日清戦争の功労者

日清戦争開戦時の組閣の主要メンバー(主として軍政・軍令)は、総理大臣・伊藤博文(52歳)、外務大臣・陸奥宗光(49歳)である。 戦後の下関条約においても、日本側代表としてこの両名が清国側の李鴻章との交渉に臨んだ。

他方、陸海軍に目を転じてみると、陸軍省は陸軍大臣・大山巌(大将、51歳)、陸軍次官・児玉源太郎(少将、42歳)である。大山は西郷隆盛、従道兄弟の甥にあたり、1884年に桂太郎や川上操六を引き連れて欧州視察に赴き、その後の陸軍をドイツ流に改めた人物である。児玉は日露戦争で大活躍することになるが、すでに42歳の若さで陸軍次官のポストにつき、早くも頭角を現していた。

作戦指揮を司る参謀本部においては、参謀総長・有栖川宮熾仁親王(大将、59歳)、参謀次長・川上操六(中将、45歳)という陣容であった。参謀総長は皇族職であるので、実際に陸軍の指揮運用は川上が全権を握っていたことになる。

日清戦争の派遣軍については、第1軍司令官が山県有朋(大将、56歳)、第2軍司令官が大山巌(兼務)である。 当時、桂太郎(中将、46歳)は第1軍の第3師団長、乃木希典(少将、44歳)は第2軍の歩兵第1旅団長であった。

この中では、第1軍司令官の山県が圧倒的な存在感を放っていた。彼はすでに陸軍の大御所、陸軍最大の実力者であり、大山や川上のはるか上に聳え立つ存在であった。 山県は1889年に第1次山県内閣を組閣した内閣総理大臣経験者である。

そのような山県がなぜ前線の司令官になったか、それは山県自らが第1軍司令官に就任することを熱望したからである。山県は「敵国は極めて残忍の性を有す。生擒となるよりむしろ潔く一死を遂ぐべし」と訓示しているから、死をかけて戦地に赴いたのであろう。

山県が率いる任務は平壌から北京を攻略することであり、大山率いる、遼東半島から北京を目指す第2軍の側背掩護が任務であった。配下の野津道貫が率いる第5師団によって早々に平壌を陥落させるなど戦果はあげたが、これで満足する山県ではない。 なんと山県は第2軍よりも先に北京を攻略したくなったのである。

山県は優れた戦略家であり、情報政治家であったが、自信過剰で、功名心にかられた自我意識の強い人物であった。 川上は、長老の山県が派遣軍の司令官につくことに正面から異を唱えることはできなかったが、山県が大本営の方針どおりに動かないことを最初から懸念した。

結局、山県自身は体調を崩し、1984年11月に明治天皇に「病気療養のため」という勅命で戦線から呼び返され、12月に帰国している。しかし実はこれを表向きであって、独断専行する山県を、山県とともに現地に赴いていた桂太郎と川上が、内密に申し合わせて、山県を退けたという理由が正しいようである。 桂は山県の申し子であったが、これが原因で、以後は関係が悪くなったとされる。

一方の海軍は海軍大臣・西郷従道(大将、51歳)、海軍軍令部長・樺山資紀(中将、56歳)、連合艦隊司令長官・伊東祐亨(いとう ゆうこう、51歳)という陣容であった。

川上は、大本営が設定されると、海軍軍令部長である同郷の樺山を事実上統制し、日清戦争における陸海軍の作戦全般の指揮を担当した。日清戦争における勝利の最大功労者である川上は、清国をはじめ全世界に諜報網を展張し、作戦と情報を一体運用した。これが勝利を呼んだのである。

北進事変が勃発

日清戦争に勝利したわが国は旅順の割譲を受けるが、これがロシアを刺激し、ロシアはフランス・ドイツ両国を誘って同半島の返還を日本に要求した。いわゆる三国干渉である。 日本はしぶしぶこの干渉を受け入れたが、臥薪嘗胆を合言葉に、軍備の拡張に走ることになった。

一方、日清戦争によって清国の弱体ぶりを知った欧米列強は、あいついで清国に勢力を設定した(中国分割)。ドイツは山東半島の膠州湾、ロシアが遼東半島の旅順・大連、イギリスが九龍半島・威海衛、フランスが広州湾を租借した。

こうした状況で1900年、清国では「扶清滅洋」をとなえる義和団を称する秘密結社が勢力をまし、各地で外国人を襲い、北京の列国公使館を包囲した。  清国の西太后がこの叛乱を支持して1900年6月21日に欧米列国に宣戦布告したため国家間戦争となった。いわゆる北清事変である。

日本を含む列国13カ国は、連合軍を派遣し、義和団を北京から追って清国を克服させた。 この時、わが国は、福島安正少将を指揮官とする第五師団約8000名を派遣して、欧米諸国との連合軍を構成して8月には首都北京及び紫禁城を制圧した。同年10月、第5師団の指揮下にあった混成1個旅団により清国駐屯隊を設置し、在留邦人の保護に当たらせた。これが新たな諜報活動の拠点になった。

ロシアとの対立と日英同盟の締結

北清事変を機にロシアは中国東北部(満州)を事実上占領し、同地における独占的権益を清国に承認させた。ロシアの脅威は朝鮮半島に南下し、やがて日本に及ぶことになる。日露の関係は刻一刻と深刻化の様相を呈した。 その牽制の大きな手段となったのが1902年の日英同盟である。

日英同盟はやがて日本がロシアと戦うことを想定して結ばれた軍事同盟であった。日本はイギリスの後ろ盾によって、中型の「大国」としての地位を固めることに成功した。 1904年、わが国はロシアとついに衝突する。そして奇跡的に勝利する。

その最大の成功要因はとりもなおさず日英同盟であった。 そして、その日英同盟を締結した影の功労者が、世界から今日も称賛されて止まない、明治日本が生んだ傑出した一人のインテリジェンス将校であった。それが「コロネル・シバ」と列強から称賛された柴五郎である。

柴五郎の生い立ち

陸軍大学を出ずに陸軍大将まで上り詰めたのは後にも先にも柴しかいない。柴はそれほど傑出した将軍であり、彼のほとんどの経歴はインテリジェンス将校としてのものである。 では早速、柴の経歴をみてみよう。

柴は1859年1月、会津藩士・柴佐多蔵の五男として生まれた。会津では藩祖・保科正之の精神を受け継ぎ、「武士道」が盛んなところであった。 明治の偉人はいずれも江戸時代の武士道精神の教育により、傑出した人物へと成長したが、柴もまた武士道によって育てられた一人である。

さらに会津藩は、1868年1月の鳥羽伏見の戦いで、薩摩と長州の策略で新政府軍の朝敵となった。こうした会津藩にあって、柴の反骨精神と負けず魂が育まれたのである。 その後、柴は藩校・日新館に学び、青森県庁の給仕につくが、上京の念は立ちがたかった。

やがて1873年(明治6年)に陸軍幼年学校に入校、1877年に陸軍士官学校に進んだ。 士官生徒第3期の同期には、上原勇作元帥や内山小二郎・秋山好古・本郷房太郎の各大将がいる。彼らとの交流も柴の人生に大きな影響を与えた。

 インテリジェンス将校として歩み始める

1884年、陸軍中尉に進級し、同年10月に清国福州の駐在を命じられた。これがインテリジェンス将校としての柴の船出であった。 当時、清国とフランスとの間で戦争が勃発した。この戦争は仏領インドシナ(ベトナム、カンボジア、ラオス)と清国との国際紛争に端を発し、清国軍が仏領深く侵入してフランス軍を破り、その兵士たちを捕えて虐殺したことから全面戦争に発展していた。

柴は世界の戦争というものに直接接したことで、インテリジェンス将校としての大きな財産が築かれることになる。 柴は福州での3年間の滞在により、軍事に関する知識、清国の暮らしや考え方をまなび、中国語や英語にも精通した。 1887年4月、柴に対して北京駐在の命令が下った。柴はたちまち北京においても民情の収集にあたった。さらには、天津、満州、朝鮮半島も視察して、地域情報を蓄えていった。

1894年3月にイギリスの在日本公使館附武官心得を命じられたが、同年7月に日清戦争が生起した。そこで同年9月に日本帰国し、大本営で、清国本土上陸作戦の計画に携わることになる。ここでは、中国通の柴のインテリジェンスが大いに役立った。 下関条約締結後の台湾の陸軍参謀に命じられ、さらに柴の対外インテリジェンスは研ぎ澄まされる。

1896年、ふたたびイギリス公使館附陸軍武官として、イギリスに赴任、1898年(明治31年)5月の米西戦争においては、観戦武官としてアメリカにも派遣された。 柴は、このアメリカ出張で、のちに日露戦争の日本海海戦で大活躍する秋山真之と会う。真之は柴の陸軍士官学校同期の秋山好古の実弟である。 柴はアメリカ陸軍を、真之はアメリカ海軍を視察した。彼らのインテリジェンスセンスからして、おそらくは、ここでアメリカが将来の日本の敵になる可能性を感じ取ったのであろう。

義和団の乱が勃発

1900年2月、柴にイギリスから清国への転属が命じられた。そこで直面することになったのが北清事変である。 当時、義和団の狼藉は日増しに高まっていた。同年5月、義和団の乱が起こる。暴徒が各国の大使館を取り囲み、日本公使館書記生やドイツ公使が殺害された。 北京の各公使館の代表者がイギリス公使館に集まり、義和団についての話し合いがもたれた。柴はこの会議に参加した。 各国は北京で籠城して戦うことを決意した。

その警備の総指揮官をオーストリア公使館附武官のトーマン中佐に決めたが、彼の判断ミスが続いた。 そこで、軍人出身のイギリス公使のクロード・マクドナルドが後任の総指揮官に就任した。

そのマクドナルドが関心を持ったのが、柴であった。マクドナルドは柴を五か国の指揮官に命じた。 柴は事前に北京城およびその周辺の地理を調べ尽くし、さらには間者を駆使した情報網を築き上げていたのである。義和団によるキリスト教虐殺を逃れてきた総勢3000人を収容確保したのも柴の判断であった。

柴の活躍は各国の称賛

大松明則『歴史は鏡なり』では、柴の活躍振りを以下のように紹介している。

イギリス公使館の書記生であったランスロット・ジャイルズは日記で、「日本軍が最も優秀であることは確かだし、ここにいる士官のなかでは柴中佐が最優秀と見做されている。日本軍の勇気と大胆さは驚くべきものだ。わがイギリス水兵が、これに続く。しかし、日本軍は、ずば抜けて一番だと思う」と記している。

『北京籠城』を書いたピーター・フレミングは「日本軍を指揮していた柴中佐は、籠城軍のどの士官よりも有能で経験も豊かであった。誰からも好かれ日本の勇気、信頼性、そして、明るく、籠城者一同の称賛の的となった。籠城に関する数多い記録の中で、直接的にも間接的にも、一言の非難をあびていないのは、日本人だけである」と書いている。

さらに、アメリカ人女性・ポリー・C・スミスも、「柴中佐は小柄で素晴らしい人だった。彼が交民港で現在の地位をしめるようになったのは、一つに彼の智力と実行力によるものです。今では、すべての国の指揮官が柴中佐の見解と支援を求めるようになったのです」と語っている。

柴の活躍が日英同盟をもたらす

北清事変後、柴はイギリスのビクトリア女王をはじめ各国政府から勲章を授与された。『ロンドン・タイムス』はその社説で「籠城中の外国人の中で、日本人ほど男らしく奮闘し、その任務を全うした国民はいない。日本兵の輝かしい武勇と戦術が、北京籠城を持ちこたえさせたのだ」と記した。 なお、柴自身はアメリカ軍人が最も勇敢だったと評している。冷静で謙虚な柴の性格をうかがわせる。

イギリス公使マクドナルドは、共に戦った柴と配下の日本兵の勇敢さと礼儀正しさに大いに心を動かされ深く信頼するようになった。1901年の夏の賜暇休暇中に英国首相ソールズベリー侯爵と何度も会見し、7月15日には日本公使館に林董を訪ねて日英同盟の構想を述べ、以後の交渉全てに立ち会い日英同盟締結の強力な推進者となった。 このことから柴は日英同盟のきっかけをつくった影の立役者として評価されているのである。

柴のその後の活躍

なお、柴の活躍はとどまらず、陸軍大佐に順調に進級し、日露戦争では野戦砲兵第15連隊長として出征した。 1906年3月、イギリス大使館附の辞令が発せられ、7月ロンドンに着任した。 その後、しばらくは閑職につくが、1914年(大正3年)5月に第12師団長に栄転し、1919年(大正8年)8月には陸軍大将に進級し、同年11月、台湾軍司令官に進んだ。

なお、1945年(昭和20年)、太平洋戦争敗戦後に身辺の整理を始め9月15日に自決図った。自殺は老齢のため果たせなかったが同年12月13日、その怪我がもとで病死する。最期まで武士道精神を貫いたインテリジェンス将校、それが柴五郎大将であった。

現在の防衛駐在官制度

柴は中尉から中佐まで海外に勤務した。そこで世界を見て、語学を学んだ。しかし、大正、昭和と時代が下ると、駐在武官は出世の一つのキャリアとなり、柴や明石のようにずっと海外における情報勤務について、実務をつうじて対外インテリジェンスの感性を練磨するということはなくなった。

この弊害を是正するため、転属のない駐在武官を輩出する試みが陸軍中野学校の創設の目的でもあった。しかし、こうした構想への着手が遅すぎ、結局、陸軍中野学校は本来の目的を達成することなく、大東亜戦争の開戦によって、ゲリラ戦教育へと変化を遂げた。つまり、「戦わずして勝つ」を信条とする秘密戦の教育がゲリラ戦へと変わったのである。

現在の自衛隊もしかりである。2013年のアルジェリア事件により、防衛駐在官が増員されたが、必ずしも情報の経験者が配置されているわけではない。 むしろ、防衛駐在官は出世のための“箔付け”という意味合いが大きい。

防衛駐在官の増員が「情報収集能力を強化しています」という政府の詭弁以上のものにするためには、防衛駐在官制度の見直しなどやるべきことは多々あろう。その一つには、柴や明石のような、明治期のインテリジェンス将校の育成要領、陸軍中野学校の当初の構想などにも学ぶ必要があるのではないだろうか。

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