近日、講談社現代新書から拙著が発売(2)

前回の続きです。本日は書影が完成したので、その紹介をします。

ここに紹介しますのは未来予測のための「個人モデル」の思考サイクルです。オリジナルですので、もちろん、どの書籍にも載っていません。

組織としてのインテリジェンスサイクルはCIAモデルなどがすでに提示されています。それは、1-計画・指示、2-収集、3-処理、4-分析・作成、5-配布の順となります。

つまり、政策決定者などの使用者から1の計画・指示が出され、収集部隊などが情報の収集を開始します。

このインテリジェン・サイクルを個人モデルにそのまま置き換えると、上級者から1のか「計画・指示」に替る「何か書いてみない」との漠然としたオーダーが出て、いきなりの2の情報を集めようとします。

これでは、効率的な情報収集とはいえませんし、氾濫している情報の渦に巻き込まれて身動きができなくなります。さらにはガサネタに踊らされるかもしれません。

そこで必要になるのが①の「問い(問題)の設定」なのです。実は、これが私が以前所属していた組織の若手分析官はできていませんでした。だからプロダクトがなかなか書けないのです。これは上司の指導上の問題でもあります。

この点の重要性は前著『武器になる情報分析力』でも強調しましたが、今回はより身近なテーマで、 ケーススタディでにより①についての要領を解説しています。

①の「問いの設定」の次には、②枠組みの設定が重要となります。これは設計図の作成といってもよいでしょう。これについては、前著ではドライバーと表現していましたが、日本語として馴染まないということもあり、「枠組み」としました。

①と②により、必要な情報の枠をあらかじめ設定して情報を収集する、これが最初のポイントです。

③については、本著は未来予測のための技法を焦点にしていますので、説明は割愛しています。

④については、現状分析と未来予測の技法について紹介しています。

⑤は「戦略判断」としましたが、組織モデルでは5-配布です。情報組織は政策の領域まで立ち入らない、すなわち政策を誘導しないことが原則です。専門用語で、これを「インテリジェンスの政治化」を回避する、といいます。

しかし、会社の企業戦略や個人の発展戦略では自分で戦略判断をしなければなりません。未来予測は戦略判断のためにあります。ということは、実は、この⑤から未来予測のサイクルを開始するといってもよいのです。

ようするに、個人が未来に向かって何かの判断をする場合、今現在の立ち位置を明確にして個人モデルの循環サイクルを常に回せ、といことです。

この個人モデルに連接する形で、必要な9つの技法を特定し、図示しました。 次回は、それを紹介したいと思います。

近日、講談社現代新書から拙著が発売(1)

近日、講談社現代新書から拙著『未来予測入門-元防衛省情報分析官が編み出した技法』が発売されます。 発売日は10月16日ですが、すでに「アマゾンサイト」などでは予約受付をしています。

https://www.amazon.co.jp/dp/4065145805

 そこで、今回から数回にわたって拙著の紹介をさせていただきます。

 最初に、本書の作成に至った経緯についてです。 筆者は、2018年4月に社会人向け講座を企画している「麹町アカデミア」の主催で、ビジネスバーソンに対して安全保障に関わる情報分析講座を開催しました。

 2016年出版の『戦略的インテリジェンス入門』をお読みいただき、その講座に参加していただきました「講談社現代新書」の編集長から、「安全保障に関わる情報分析手法を、個人の成長戦略やビジネスに特化した内容に落とし込めないか?」との企画提案をいただきました。  

 その後、同講座を基にした安全保障に関わる物と、〝完全ビジネスパーソンバージョン物〟の二つの執筆作業を同時並行的に進めてきました。

 前者は本年6月に並木書房から『武器になる情報分析力』としてすでに出版しました。 そして後者が今般上梓する『未来予測入門』ということになります。  

  これまでの拙者の「情報分析本」を整理すれば以下の関係になります。

◇『戦略的インテリジェンス入門』 ⇒国家等の情報分析官を対象。情報分析を中心に情報活動解全般を網羅

◇『武器になる情報分析力』 ⇒ビジネスパーソンを対象。主として安全保障に関わる情報分析手法を解説

◇『未来予測入門』 ⇒ビジネスパーソンを対象。情報分析手法を自己発展戦略やビジネスへ適用

 当初は、ビジネスの経験のない筆者が〝完全ビジネスバージョン〟を書けるのか、という不安はありました。たしかに「わが国のIT産業がどうなるか?」「都市の不動産価格がどのように推移するのか?」など、その道のプロたるもの知識が必要なものは私には書けません。

 ただし、ビジネスパーソンの知りたいこと、知らなければならないことを聴取(ヒアリング)したら、彼らが抱える問題は意外にも、ライフスタイルに関するもの、ちょっとした仕事上の悩み、あるいはどんなスキルを身に着ける、どんな職業を選択するのかといった、ごく身近な内容であることに気がつきました。 そこで、現在様々な悩みや課題を持ちながらも、懸命に人生に頑張っている私の子供達やその世代を想定し、私が培ってきた情報分析手法を使ってどのようなアドバイスができるのかについて思案しました。

 そして一つの確信を得たのです。彼らが思考法や情報分析手法をしっかりと身に着けることができれば、様々な課題に直面しても、その解決に向かって自信をもって挑戦できるであろうことを。

 この本をお読みいただければ、自衛官ずっとやってきた筆者が、なぜビジネスパーソン向けの本を書いたのか(書けたのか)、おそらくその〝謎〟が解けると思います。

 つまり、皆様もある思考法さえ身につければ、他領域の問題解決であろうが、他分野の論文執筆であろうが、克復できるということなのです。

 是非とも手に取ってお読みいただければ嬉しく思います。

SNSを開始しました。

 9月半ばですがまだクーラーが離せませ ん。わが国を取り巻く情勢としては、香港デモ、日韓問題と在韓 米軍撤退問題、北朝鮮のミサイル発射などがあります。それにロ シアの東アジアにおける軍事動向にも要注意です。  

 最近、筆者はSNSを始めました。それまで勤めていた会社を 辞めることになり、就活を開始しようとしてサイトの就活募集情 報を調べたら、引きずり込まれるようにあるSNSサイトにたど り着きました。  

 そして、「あなたの友人かも?」ということで、たくさんの私 の知人がリスト表示されました。そこで、知人に友達申請をした り、友達承認をしたりしながら、学生以来ずっと音信不通であっ た旧友とメールでお話ししました。実際にもお会いし、貴重な助 言をいただきました。本当に便利です。  

 SNSといえば、2010年からの「アラブの春」で反政府による動員呼びかけで使用されことが注目されました。その時に主として使用されたSNSは米国企業が運営するものでした。つまり「ア ラブの春」に、米国もしくは米国企業が間接的に絡んでいたとい うことです。  

 筆者は、インテリジェンスの世界においてもSNSの活用が主 流になるであろうとの指摘があるのは承知していました。しかし、 SNSが米企業による世界支配を推し進める戦術のような認識が あり、毛嫌いしていました。  

 また、SNSを利用しての“なりすましメール”や、使用者の 住所を突き止めてのいやがらせ行為を行なうなど、いろいろな被 害も報告されていました。だから、これまでSNSと向き合うこ とを躊躇していたのです。  

 筆者は初心者であり、まだSNSの使い方もよくわかりません し、保全上、何に対してどのように注意すべきかについても認識 不十分です。しかし、もはやSNSを無視していては重要な情報 も集まらないし、情報の発信もできないことを思い知らされまし た。少しずつ勉強していきたいと思います。

テロとは何か!

▼テロとは何か

テロリズム(以下、テロ)、テロリスト、テロ組織など、我々が日常よく耳にする慣れ親しんだ用語であるが、実は今日、国際法上、統一されたテロの定義はない[1]。各国や各国機関等によって様々な定義が存在し、テロの概念はそれぞれの主要国の立法などで定義されている。

我が国の広辞苑では、テロを「暴力或いはその脅威に訴える傾向、暴力主義、恐怖政治など」と定義している。公安調査庁では「国家の秘密工作員または国家以外の結社、団体等がその政治目的の遂行上、当事者はもとより当事者以外の周囲の人間に対しでも、その影響力を及ぼすべく非戦闘員またはこれに準ずる目標に対して計画的に行った不法な暴力の行使をいう[i]」 と定義している。

米ランド研究所では「暴力による威嚇・個人による暴力行使、恐怖を与えることを意図した暴力の宣言など、恐怖で圧倒すること」、米国防省では「政治的、宗教的あるいはイデオロギー上の目的を達成するために、政府あるいは社会を脅かし、強要すべく人または財産に対し向けられた不法な実力(FORCE)[2]または暴力の行使」と定義している。

 以上、統一されたテロの定義は存在しないが、一方で暴力、恐怖という二つの用語をキーワードとして抽出することができよう。つまり、テロは暴力と恐怖が織り成すものなのである。以下、その点を切り口にテロを考えてみたい。

恐怖とは何か

テロとは暴力による心理的恐怖の創出である。そもそも近代におけるテロの語源はフランス語の「恐怖」(terror)に遡る。18世紀のフランス革命期において、マクシミリアン・ロベスピエールやジョルジュ・ダントンらの革命勢力が反革命勢力を組織的に処刑した。これが「恐怖政治」と恐れられ、これが転じてテロリズム(テロ)[3]という名詞になったとされる。

恐怖は一般に動揺、恐慌、心配、パニック、嫌悪、おそれといった類語で表現される。恐怖はこの世に常に存在するものでもあり、人は誰しもが常に何らかの恐怖を抱いている。また恐怖は心理的、精神的なものである。生起する事件が客観的にどのように残虐なものであろうと、そこに事件被害者の心理的作用が働かなければ恐怖は覚えない。そのような心理的恐怖を人為的に生み出し、実行するものがテロの本質である。

暴力とは何か

では、暴力とは何か。暴力とは「他者の身体や財産などに加える物理的・心理的強制力や破壊力である」(『マイペディア99』テキスト版ほか)」[4]。これに対して、一般的には国家が権利として有するものが武力として区別される場合が多い。つまり、暴力は正当性もなく統制されたものではない。

暴力の種類には主として身体的暴力、精神的暴力がある。これらの何れもが相手に対して心理的恐怖を植えつけるという共通性がある[5]

 したがって暴力は心理戦の手段として活用される。たとえば2004年10月には「イラクの聖戦アルカイダ組織」を名乗るグループが、インターネットで「香田証生氏を人実にした」として犯行声明を出し「日本政府が48時間内に自衛隊が徹底しなければ殺害する」と脅迫した。日本政府がそれに拒否すると、その後、香田氏の首を切断し、バクダット市内に放置した。11月2日は犯行グループが犯行声明とともに、香田氏を星条旗の上で殺害する場面をネットで動画配信した。

 最近ではISIL(後述)というテロ組織が、湯川遥奈氏、後藤健二氏の両名を殺害した、後藤氏の首切り画像などをインターネットで公開し、日本政府に金銭的要求などを迫った。これらは日本政府に心理的圧力を掛けることにより、自らの意思に恭順させようとした心理戦であった。

暴力は人間心理と密接であるため、マインドコントロールや洗脳の手段としても用いられる。マインドコントロールや洗脳はいずれも、相手側に対し、特定の主義・思想を持つように仕向けることである。この手段として身体的暴力(拷問、薬物利用、電極の埋め込み)、精神的暴力(「地獄に落ちるぞ」などの言葉の脅し、罪の意識の植え付け)などが用いられる。

 1090年、ハツサン・イブン・アルサバーは、カスピ海南部の要塞で信奉者を暗殺者(アサシン)に仕立て上げ、薬物による昏睡状態と、美しい調度品と女性に埋め尽くされた美しい庭園につれ、大麻(ハシン)を吸わせ、暗殺を敢行したならば、また楽園に行けるとの幻想を付与した。この大麻の常習者であるハシシンが転じてアサシン、すなわち暗殺者の語源となったといわれている。

 オウム真理教はLSD入りの液体を飲み干すことを恒常的手段としていたとされる[6]

 このように暴力は、相手側を自らの意図通りに操る効能がある。1880年代のアナーキスト、ヨハン・モストが記した小冊子『爆弾の哲学』によれば、暴力の効能について以下のとおり記している。

① 異常な暴力は人民の想像を掴む。

② その時人民を政治問題に目覚めさせることができる。

③ 暴力には固有の権限があり、それは浄化する力である。

④ 体系的暴力は国家を脅かすことができ、国家に非正統的な対応を余儀なくさせる。

⑤ 暴力は社会秩序を不安定化し、社会的崩壊に追い込む。

⑥ 最後に人民は政府を否定し、「テロリスト」に頼るようになる。

このように、暴力はテロに不可欠なものなのである。

有史以来の闘争形態

暴力による心理的恐怖を醸成することがテロの本質である見た場合、テロは新しいものでない。それは有史以来、存在してきた闘争形態である。

紀元645年に中大兄皇子(天智天皇)・中臣鎌足(藤原鎌足)が、時の最高権力者である蘇我入鹿を残虐な手口で暗殺した。(乙巳の変)これが大化の改新となり、以後の天皇中心政治の幕切りとなった。これは我が国の古代のテロ事件として有名である。

特定集団が他のものに特定の行動を取らせるために、暴力により心理的恐怖を醸成することも古くから行われてきた。この歴史的事例にはイエス時代(紀元60~70年)の「熱心党」(ゼロティ)がしばしば引用される。熱心党はユダヤ教の政治的過激団体であり、ユダヤ人の民族国家の建設を切望し、敵対勢力に対し、暴力による粛清を繰り返した[7]。その中で最も過激派であったシカリ派は常に短剣を私服に隠し持って、祭事の時や人通りの多い公共広場で敵を刺殺し、敵対勢力に恐怖を与えた。

11世紀にはイスラム主義者による暗殺が行われた。1090年、カスピ海南部に要塞を築いたハッサン・イブン・アルサバーは、信奉者を薬物により昏睡状態にさせ、美しい調度品と女性に埋め尽くされた楽園につれていき、大麻(ハシン)を吸わせ、「暗殺を敢行したならば、また楽園に戻れる」との幻想を与えた。この大麻の常習者をハシシンと言い、それが転じてアサシン(現在、暗殺者、暗殺団、刺客などを意味する)がすなわち暗殺者の語源となった。

 アサシンは、イスラム教・シーア派の分派イスマイール派に属する一派であり、薬物により信奉者を暗殺者に仕立て上げ、大シリアにおいて、十字軍などの諸勢力に対する数々の暗殺を繰り広げた。これが十字軍や旅行者により伝達されインドからナイル川流域まで「恐怖の話」として広がった。アサシンは時には自らの生命をかけて暗殺を行った。この「殉死」が今日のテロリストの戦術・戦法として継承された。

このようにテロは有史以来の闘争形態で、絶大な権力を有する為政者を暗殺という暴力的行為によって排除し、同時に民衆に恐怖を与えることで反政府闘争に勝利をもたらしたのである。


[1] チャールズ・タウンゼンドは、「テロ」の定義について、百を越える定義が提案されながら、今名合意が成立していない。問題の当事者の一方が敵対者に対して、レッテルを貼る行為だから。

[2] 武力を正当に保持するものと見た場合、不法な武力という意味は正しくないので実力と翻訳した。

[3] これを一般的に白色テロという。

[4] マックスス・ウェーバーの国家論のように権力を正当化された暴力と捕らえる見方もある。

[5]身体的暴力の典型が暗殺などであり、犯人による殺害予告が行われるとそれだけで精神的ダメージになる。精神的暴力は宗教団体がよく使用するマインドコントロールとよく似ている。

[6] アンフェタミン

[7] その中でも有名なのがシカリ派で聖書で短剣を持った4000人の男。

わが国の情報史(40) 秘密戦と陸軍中野学校(その2) 陸軍中野学校の概要と創設の経緯

▼陸軍中野学校の概要  

 陸軍中野学校(以下、中野学校)は1938年7月、後方勤務 要員養成所として創設され、1945年8月の終戦時、疎開先の 群馬県富岡町および静岡県磐田郡二俣町において幕を閉じた。諜 報、防諜、謀略、宣伝からなる秘密戦に関する教育や訓練を目的 とする大日本帝国陸軍の学校であった。  

 なお中野学校という校名は、この学校の所在地が1939年4 月から45年4月まで現在の東京都中野区であったことに由来す る。  

 陸軍中野学校は創設されてから終戦による閉鎖廃校まで、わず か8年という極めて短期間の存在であったが、この間の卒業生は 2000名以上に及んだ。卒業生は世界のいたるところで情報勤 務という特殊の分野での職務に精励した。    

 当時、すべての陸軍管轄の学校は教育総監(陸軍大臣、参謀総 長と並ぶ三長官の一人)が所掌していた。しかし、中野学校は陸 軍大学校などともに教育総監部に最後まで所属しなかった数少ない異例の学校の一つであった。    

 一般軍隊においては、「百事、戦闘を以て基準とすべし」と定 められているが、中野学校においては「百事、秘密戦を以て基準 とすべし」の鉄則にもとづき、秘密戦を基準として学校全体が動 いていた。  

 秘密戦士を養成する学校が世に存在するのを秘匿するため、創 設当初の正式(勅令)の学校名は「後方勤務要員養成所」であっ たが正式名称は伏せられた。このため、同養成所の施設となった愛国婦人会別館の入り口看板は「陸軍省分室」であり、学校の存 在を秘匿するため、軍部外の教官による教育は市内随意の場所が 選定されて行なわれた。  

 中野に移転した以降も、学校の存在は秘匿され、看板は「陸軍 省分室陸軍通信研究所」とされた。教官、職員、学生の身分を欺 編、秘匿するため、校長以下の学校関係者は長髪とし、軍服を着 用せず、背広を着用した。

▼牛込に防諜機関が誕生  

 次に中野学校創設にいたる沿革について述べたい。1931年 9月の満洲事変以降、わが国は対ソ国防圏の前線を満ソ国境に推進させた。対外的には対ソ戦略の軍事力整備が要求されるとともに、対内的には国家総力戦、つまり国家総動員の整備や防諜体制の強化が行なわれた。  

 総力戦思想が普及するにともない、建軍以来の作戦第一主義で あった陸軍においても情報に対する関心が高まった。  

 まずは防諜への関心である。当時、秘密戦の一分野である防諜については、1899年に公布・施行された軍機保護法があったが現状に適さないものになっていた。このため「軍機保護法を改正すべし」との意見が軍内に起こった。  

 こうしたなか1936年3月、陸軍内の防諜を強化するために 防諜委員会が設置された。また、この頃から暗号解読が重視されるようになり、参謀本部第2部1班が暗号班となった。  同年8月、陸軍省兵務局(所属課は兵務課・防備課・馬政課) が新設され、岩畔豪雄中佐(いわくろひでお、1897年~19 70年、のちに少将)は、同年2月に生起した二・二六事件の後始末で兵務課課員として転職し、軍機保護法の改正案に着手した。 なお同改正法は1937年3月に議会を通過した。  

 兵務局設置当時、防諜業務は兵務課の業務とされたが、193 7年1月には兵務局防備課に広義の防諜業務を所管させることと して、防備課を防衛課に改編し、防諜業務を担当させた。  

 当時の兵務局長は、終戦時の陸軍大臣の阿南惟幾(あなみこれ ちか)少将、兵務課長は太平洋戦争開戦時の参謀本部第1部長の 田中新一(たなかしんいち)大佐であった。  

 田中大佐は、ハルピン特務機関から参謀本部第5課(ロシア課) に転属した秋草俊中佐(あきくさしゅん、1894年~不明、の ちに少将)、福本亀治(ふくもとかめじ)憲兵少佐、曽田峯一(そ だみねいち)憲兵大尉に命じ、科学的防諜機関を設立するための研究を命じた。  かくして1937年春、兵務連絡機関(兵務局分室)という防諜専門機関が牛込若松町の陸軍軍医学校の敷地奥に設置されたの である。

 初代班長は秋草であった。共産党問題研究者として省部 その他で高く評価されていた福本がこれを補佐し、十数名の組織 として立ち上げられた。  同機関の任務は国際電信電話の秘密点検、外国公館その他の信書点検や電話の盗聴、私設秘密無線局の探知などの防諜業務が主 であったが、あわせて情報収集にあたった。  

 この防諜組織の存在は省内でも一部の関係者以外には極秘とさ れ、1940年8月に陸軍大臣直轄の極秘機関である軍事資料部 となり、終戦に至るまで77名の中野学校出身者が勤務した。こ の数は、中野出身の割合から言えば、かなりの数であった。

▼後方勤務要員養成所が設立  

 防諜機関の設立とともに敵国に対して積極的な情報活動を行な うことを趣旨とする諜報・謀略機関の新設気運が高まった。しか し、当時の日本陸軍の謀略に関する考え方は「謀略は人によって 行なう」というものであり、科学性、合理性に欠けていた。つま り、「これを是正せよ」との要請が起きた。  

 そこで防諜機関設立の立役者となった岩畔、秋草、福本らを中 心に諜報・謀略要員を養成する機関の設立に向けての新たな取り 組みが開始された。  

 1937年秋、岩畔中佐は参謀本部に対し「諜報、謀略の科学化」という意見書を提出した。この意見書提出により、諜報・謀 略などの専門機関を設立するための準備が本格的に始動すること になる。  

 なお岩畔中佐は兵務局兵務課が新設された時(1936年8月) に、参謀本部第2部欧米課第4班所属替えになるが、同4班は1 937年11月に大本営の設置とともに新設された第8課(通称、 謀略課)になるので、これを見越した転属であったとみられる。  

 1937年12月、陸軍省軍務局の軍事課長・田中新一(19 37年3月に兵務課長から軍事課長に転出)が、秋草、福本、岩 畔を招き、「近代戦においては相手国からの秘密戦に対処する消 極的防衛態勢だけでは勝つことができないので、進んで相手国に 対する諜報、宣伝、防諜などの勤務者を養成する機関を早急に建 設する必要がある」として新組織の設立を検討するよう命じた。 かくして陸軍省が中心となって、かかる組織を建設するこことな ったのである。  

 秋草、福本、岩畔の3名は設立委員となり、訓育主任として満 州鉄道守備部隊から伊藤佐又(いとうさまた)少佐が馳せ参じた。 1938年1月に「後方勤務要員養成所」が設立され、同年7 月に1期生19名の入校を迎えることとなったのである。

▼中野学校の沿革は4つの段階に区分される  

 中野学校は、所属、所在地、教育目的などによって、「創設期」 「前期」「中期」「後期」の4つに区分される。

(1)「創設期(1938年1月~1940年8月)」  同期は「後方勤務要員養成所期」とも呼ばれる。1938年7月、 九段下牛ヶ淵の「愛国婦人会」本部内の集会場を使用し、甲種幹 部候補生・予備士官出身の第1期生19名(卒業生は18名)に 対する教育が開始された。第1期生は海外における長期勤務を想 定とした選抜であった。  

 秋草中佐が所長、福本中佐が同養成所の幹事に就任し、狭隘な 集会所が教室兼宿舎となり、学生が一同に起居する寺子屋式、私 塾的な体制であった。学生は陸軍兵器行政本部付兼陸軍省兵務局 付として入校させ、秘密戦の教育を開始した。そして翌年4月に は、旧電信隊跡地の中野区囲町に移転した。  

 1939年7月に第1期生が卒業し、同年11月に第1期生と 同じ出身母体の第2期の乙I長40名と、現役少尉を含む第1期 の乙I短70名、これに加えて陸軍教導学校で教育総監賞などを 受賞した優秀な下士官候補生から選抜された丙1・52名が入所 した。  

 ここでの長期の学生とは第1期生と同様に海外での長期勤務を 想定した要員であり、入校と共に別名が与えられた。教育施設内 では、国内外の既存情報機関勤務を想定した短期学生や丙1とは 相互往来は禁じられ、壁をもって仕切られていた。

(2)前期(1940年8月~1941年10月)  

 1940年8月「陸軍中野学校令」が制定され、後方勤務要員 養成所は、陸軍大臣直轄の学校として名称も陸軍中野学校に変更 された。施設や教育内容が急速に整備され、当初の私塾的な体裁 から抜け出ていった時期である。  

 初代校長に北島卓美少将が就任。1941年春に北島少将が東 部軍参謀長として転任したあと、1941年6月、陸軍省兵務局 長の田中隆吉少将が二代目校長となり(形式上)、同年10月、 ロシア駐在武官や参謀本部ロシア課長の経歴を有する川俣雄人少 将が校長として赴任した。 1940年9月には1甲、同12月には乙II長・短、丙2の学生が入校し、翌41年2月には、2甲、41年9月には3丙、3 戊の学生が入校した。

 なお、甲とは陸軍士官学校卒業者であり、秘密戦への転向を命 じられた初回の学生である。そして、3丙学生および3戊学生は 従来の乙学生および丙学生のことである。これは、後述のように 1941年10月の学生種別の変更にもとづき呼称が変わったた めである。  

 校門には「陸軍通信研究所」の小さい看板がかけられ、陸軍組 織上では「東部第三十三部隊」とされた。学生の通信の発送はすべて陸軍省兵務局防衛課の名称が使用された。  1940年12月から大東亜戦争が開始されたこの時期におい ては、創設期の教育課目に占領地行政、宣伝業務が加味され、戦 争対応への意識が高まった。

(3)中期(1941年10月~1945年4月)  1941年10月、陸軍兵器行政本部付から参謀本部直轄とな った。これにより、学生の種別も改正され、甲種学生(陸士出身 者)が乙種学生、乙種学生が丙種学生(予備士出身)、丙種学生 (教導隊出身)に新編成された。  この期に入校したのは4から7までの丙種学生と4から6まで の戊種学生、それに1から4までの乙学生、このほか遊撃(1・2)、 情報(司令部情報要員)、静岡県磐田郡二俣町に開設された二俣 分校の1期および2期である。(注:二俣は1期、2期と名称す るが、乙・丙・戊種については「期」と呼ばない)  

 1942年6月のミッドウェー海戦の敗北により、わが国は守勢に転じ、さら1943年2月のガダルカナル島撤退により、陸 軍参謀本部は遊撃戦(ゲリラ戦)の展開に踏み切ることにした。 そして1943年8月、中野学校に対して「遊撃戦戦闘教令(案)」 の起案と遊撃戦幹部要員の教育を命じ、この教令(案)は194 4年1月に配布された。  

 1944年8月、静岡県磐田郡に遊撃戦幹部を養成する二俣分 校が創設された。第1期生226名が陸軍予備士官学校を卒業等 して尉官学生(見習士官)として入校、約3か月の教育が行なわ れた。なお、この中にはフィリピンのルバング島で発見された小野田寛郎氏がいる。  

 これと前後して、1944年8月、陸軍参謀本部は中野学校に 対し、国土決戦に備えるため、教範『国内遊撃戦の参考』の起案 を命じ、1945年1月に『国内遊撃戦の参考』および別冊『偵察法、潜行法、連絡法、偽騙法、破壊法の参考』を配布した。教育内容は、残地蝶者教育、通信科目、遊撃戦などを重視するなど、 創設期および前期に比してかなり変更された。

(4)後期(1945年4月~1945年8月)  1945年2月、国内の各軍司令官に対し本土防衛任務が付与 された。同年4月、本土上空に対する空爆の激化に伴い、中野学 校(本校)は群馬県富岡町に疎開し、同地において遊撃戦幹部の 養成が行なわれた。  

 この期に入校したのは、8から10までの丙学生、7から8ま での戊学生、5乙学生、二俣分校の3期から4期の学生である。  

 遊撃戦教育とその研究に最重点がおかれ、それも外地作戦軍内 における遊撃戦にとどまらず、最悪の場合の本土決戦に備えてこ れを国内において敢行するための各種の訓練が開始された。また、 いわゆる「泉部隊」と称した国内遊撃部隊構想も一部着手された。  

 1945年8月、敗戦によって富岡町の中野学校本校と二俣分校は幕を閉じた。 (次回に続く)

『無人の兵団』の読後感

私は時々、出版社から書籍を贈呈されることがあります。執筆をする側とすれば、非常にありがたいとことです。

先日、早川書房さまより、『無人の兵団』という書籍をいただきました。私もざっと一読はしましたが、「アナログ派の私には少し難しいかな?」という印象でした。そこで、ある後輩が私のところに遊びに来てくれたので、「この本読んでみない」と渡したところ、次のような所感を送ってくれました。

上田さんお疲れ様です。 先日はお世話になりました。 お酒を酌み交わしながら示唆に富んだお話聴かせて頂き、私にとってとても意義のある時間だったと思っています。 少し遅くなりましたが、上田さんにお貸し頂きました『無人の兵団』という本を読み終わりましたので、まとめきれていない雑感ですが送らせて頂きます。

まず、率直な感想は「勉強になった」という感じです。自律型兵器に対する、軍部、技術サイド、倫理学者、規制運動家といった様々なセクションの捉え方がヒヤリングに基づき記述されており多角的な視点を付与してくれていると思いました。

自律型兵器そのものについては、その定義の曖昧さに関する話題を導入にしつつ、半自律ウエポン・システム、監督付き自律ウエポン・システム、完全自律ウエポン・システムといった区分をして、初学者の理解を助けるようになっているのは良点でした。

私にとって示唆に富んでいたのは第4部「フラッシュ・ウォー」及び第5部「自律兵器禁止の戦い」でした。 まず、第4部において、自律型兵器同士の戦いは「速度の軍拡競争」と言えるという気付きを得ることできました。

学生時代に勉強した機械学習の知識や近年のAI技術の動向等から、これらの応用が見込まれる自律型兵器の本質は、大量のデータに基づくパターンマッチングの「精度」にあると考えていましたが、第4部を読むことで、その本質は人間が絶対に辿り着けない状況、意思決定及び行動の連環の「速度」にあるかも知れないと認識を新たにした次第です。

続いて第5部では、自律型兵器をめぐる法律問題(国際法)に関する法学教授のチャールズ・ダンラップ氏の見解が述べられていますが、彼は間に合わせの禁止は不必要であるだけでなく有害と述べており、テクノロジーの一瞬の姿に基づいて兵器が禁止され、将来的にもっと人道的な兵器に発展するような技術改善の可能性が妨げられることに懸念を表明しています。

例えば地雷とクラスター爆弾には戦争終了後の爆発の危険があるという問題がどちらもイノベーションで解決されるものと論じています。彼は、これらのツールが使えないと、戦争を行うのに合法的だがより破壊的な手段が必要になるというパラドックスの生起を指摘しています。この指摘が、自律型兵器禁止を主張する人に対する私自身のこれまでの意見として「自律型兵器の方が個々の戦闘において人間より技術的に優れたパフォーマンスを発揮する可能性が高い」ことでしたが、別の角度からも自律型兵器禁止反対を主張する理論武装の資を得ることができました。

・・・ ・・ ・ 以上、本書を読んだ中で特に気付きになったと感じた内容について書かせて頂きました。 引き続き勉強していきたいと思います。

(以上、引用おわり)

近年のAI技術の動向によって、自動運転車の導入などが検討、推進されています。しかし、自動運転車が事故を引き起こすと、従前の楽観的な観測が一転してそれを危険し、計画や開発の見直しを迫る動きが出てきます。しかも、ここには自動運転車の導入を良しとしない側の恣意的な見解が加担している場合があります。

このようなことは米軍兵器導入などにおいてもみられます。例えば、米海兵隊のオスプレーが事故を起こすと、通常ヘリコプターと事故件数との比較もなしに、「オスプレーは危険だ」という批判がメディアを通じて大々的に流される傾向にあります。つまり、オスプレー問題を米軍批判に結び付けようとする利害者が意を得たりとばかり、恣意的な意見を述べることになりかねません。

今日では不可欠な交通手段である飛行機も、それが安全と呼ばれるまでにはたくさんの事故や犠牲がありました。また、AIによる技術革新、生活の利便性と、倫理的、道徳的、人道的価値の折り合いをどうつけるかという問題もあります。

しかし、テクノロジーというメガパワーはもはや押しとどめることはできません。テクノロジーのさらなる進歩によってのみ、問題解決をはかるしか方法はないと思われます。

わが国の情報史(39) 秘密戦と陸軍中野学校(その1) -秘密戦の本質とは何か- 今回から

▼はじめに

「わが国の情報史」の最終テーマとして陸軍中野学校について数回に分けて解説する。さて、陸軍中野学校では秘密戦士を育成した。秘密戦とは諜 報、防諜、謀略、宣伝のことであり、これらについてはその概要 を述べてきた。 したがって陸軍中野学校において行なわれた秘密戦の教育、秘密戦士の育成とはどういうものかは、およそイメージできると思うが、ここではもう一度整理したいと考えている。

また戦後、中野学校について、「謀略機関であった」「北朝鮮の情 報組織の母体になった」などの誤った風説が流されている。これについても追々是正していきたいと思う。

▼秘密戦の概要    

まず、復習になるかもしれないが、秘密戦という用語について解説する。なにやら、物騒な語感ではあるが、字義からすれば 「秘密の戦い」「非公然な戦い」「水面下の戦争」などというこ とになろう。  

1930年代末に創立された陸軍中野学校(以下、中野学校)で は、従来いわゆる情報活動や情報勤務といわれていた各種業務を総括して、創立後しばらくたった頃から、秘密戦と呼ぶようにな った。 ただし、その呼称は各地域により、また各軍により、必ずしも統 一的につかわれていたわけではない。(中野学校校友会編『陸軍中野学校』(以下、校史『陸軍中野学校』))

つまり秘密戦は中野学校による造語である。そこで当時の中野学校関係者が執筆した書籍などから、まずは秘密戦の全体像を把握 することとしたい。 中野学校教官であった伊藤貞利は、自著で次のように述べている。    

「秘密戦とは武力戦と併用されるか、あるいは単独で行使される 戦争手段であって、諜報・謀略・防諜などを包含している。諜報、 謀略、防諜が秘密戦と呼ばれるのは一体どういうわけだろうか。 それは一般的に言って秘密の「目的」を持ち、その目的を達成するための「行動」に秘密性が要請されるからだ」(伊藤貞利『中 野学校の秘密戦』) また、伊藤は次のようにも述べている。    

「謀略の場合には『目的』はあくまで秘密とするが、「行為」は 大びらに行わなければならないことが少なくない。例えばある秘 密目的を達成するためには物件を爆破・焼却したり、暴動を起こ したり、デモ行進をしたり、暴露宣伝を行ったりするなど、大び らな行動をするような場合が比較的多い」(前掲『中野学校の秘 密戦』)     伊藤著書から要点を整理すれば、秘密戦とは以下のようなもので ある。

◇目的が秘密であり、行動にも秘密性が要求される。

◇謀略のような一部の秘密戦における行動(行為)は公開されるが、 その場合でも目的は秘匿される。

◇武力を主体として行動が常に公開される武力戦とは対極をなす。 いわば非武力戦である。

◇武力戦と併用されるか、あるいは単独で行使される。   この中でもっとも重要な点は目的の秘匿性である。すなわち、目的が秘匿される戦い、これが秘密戦の本質である。

▼秘密戦の目的は何か?    

次に「秘密戦はいかなる目的は想定しているか、すなわち目的 は何か?」について考察したい。 校史『陸軍中野学校』によれば以下の件(くだり)がある。

「原始的な情報活動にはじまる諜報、宣伝、謀略、防諜などの各 種手法は、“姿なき戦い”として、洋間東西と如何なる国家の態 様たるとを問わず歴史と共に発達し進化し続けてきた。

これらの“姿なき戦い”は、平和な時代においては友好国間の修 好をより一層確実なものとするために、また敵性国家間との力のバランスを確保して、平和に役立つ働きをした。 ひとたび戦争を決意した場合においては、同盟国間の盟約をより 確実なものとすると共に、敵国を孤立せしめ不利な条件のもとに 誘い込むためにも役立てられた。

戦争段階における秘密戦の役割はさらに峻烈になるが、武力戦の ように戦争の主役になることはない。 武力戦よりもさらに根深く戦争のあらゆる場面の部隊裏で暗躍を 続け、ある時は敵の致命的部分に攻撃を集中し、ある時は和戦を 決する講和交渉の陰に強大な力をもって活動することになる。 だから、「秘密戦とは歴史に記録されない裏面の戦争」である。」 (校史『陸軍中野学校』)

 ここには、秘密戦が戦時も平時も行なわれるものであり、歴史の表沙汰にならない水面下で行なわれる戦争であり、戦争抑止や早期講和などにも貢献すると述べられている。 以上の記述から思い起こされるのは「孫子」の兵法である。

『孫子』第3編には、 「百戦百勝は、善の善なる者にあらず。戦わずして人の兵を屈す るは善の善なる者なり」「故に上兵は謀を伐つ。その次は交わりを伐つ。その次は兵を伐つ。その下は城を攻む」との記述がある。 『孫子』によれば、武力戦で勝利を得るのではなく、謀略や外交 謀略によって「戦わずして勝つ」のが最善である。

上述のように、ひとたび戦争が決意されれば、秘密戦は武力戦と 同時並行的に行なわれるが、その場合においも「戦わずして勝つ」 は継続して追求されることになる。つまり、武力戦のように敵国 戦力を物理的に破壊するのではなく、心理工作をもって敵国内に 不協和音や厭戦気運などを生起させて、早期に講和交渉などに持 っていくことが、秘密戦の目的となるのである。

ようするに秘密戦は、平時・戦時を問わず「戦わずして勝つ」を戦 略および作戦、戦術の全局面において追求する戦いであり、その 目的は「戦わずして勝つ」ことである。 この点については、中野学校出身者であり、今日も健在にて情勢研究の会を主催する牟田照雄氏(陸士55期)は「秘密戦とは、戦わずして勝つ」 である と喝破している。

▼秘密戦と遊撃戦との違い

中野学校の創設目的は秘密戦の戦士を養成することであった。しかしながら、大東亜戦争末期においては彼我戦力の優劣差が決定的となり、日本軍が守勢に立たされた。これは、1942年6月 のミドゥエー会戦あたりが分水嶺となり、43年2月のガダルカ ナル島の戦闘で決定的となった。

すると、参謀本部は1943年8月、中野学校に対し、遊撃戦教令(案)の起案及び「遊撃隊幹部要員の教育」を命じた。つまり、 中野学校の教育が「秘密戦士」から「遊撃戦士」の養成へと転換 されたのであった。

これに関して、前出の牟田氏は「秘密戦は戦わずして勝つである。 だから、日本が米国と戦争を開始して以降(1940年12月)の 中野学校の教育は、本来目指す教育ではなかった」旨と述べてい る。(平成28年度慶應義塾大学メディア・コミュニケーション研 究所都倉研究会『陸軍中野学校の虚像と実像』)

そこで、秘密戦をより明確に理解するために、遊撃戦についても言及しておこう。 校史『陸軍中野学校』は「遊撃戦」について次のように記述する。 「遊撃とは、あらかじめ攻撃すべき敵を定めないで、正規軍隊の戦列外にあって、臨機に敵を討ち、あるいは敵の軍事施設を破壊 し、もって友軍の作戦を有利に導くことである。  

したがって遊撃戦とは、遊撃に任ずる部隊の行う戦いであって、 いわゆる『ゲリラ戦』のことである。  

遊撃戦は、一見武力戦の分野に属するかのように見えるが、その内容は、一時的には武力戦を展開するが、長期的にはその準備お よび実施の方法手段を通じて主として秘密戦活動を展開する。し たがって遊撃戦の本質は、秘密戦的性格が主であって、武力戦的 性格が従である。  

遊撃部隊は、わが武力作戦の一翼を担い、少数兵力を以て、神出 鬼没、秘密戦活動と武力戦活動とを最大限に展開して、以てわが 武力戦を有利に導くのである。したがって遊撃部隊、わが綜合的 大敵戦力の増強に寄与するものである」(以上、引用終わり)  

以上から、遊撃戦は目的や行動において秘密戦的な要素が大きい、 また武力戦を有利にするなどの秘密戦との類似性がある。しかし、 以下の点が大きく異なることを理解しなければならない。

◇ 遊撃戦は平時には行なわれない。戦時において武力戦と併用 される。

◇ 秘密戦のように単独で目的を達成することはない。 わが国における現代の国土防衛戦に当てはめれば、秘密戦は平 時から単独で行なうことができるが、遊撃戦は防衛出動下令以降 に防衛作戦と連接して、その一環として行なわれることになる。

つまり、秘密戦は遊撃戦とは異なり、平時から単独で「戦わずして勝つ」との目的を達成する情報活動であるといえる。

▼秘密戦の形態

 すでに述べたとおり、中野学校では秘密戦を「諜報」「宣伝」 「謀略」「防諜」と定義した。すなわち、秘密戦はこれら4つの 形態を包含した情報活動である。 これら4つの用語については、明治以来の軍事用語としてすでに、 その淵源などを説明したが、もう一度、簡単にここで整理してお こう。

(1)諜報  相手側の企図や動性を探ること。公然諜報と非公然諜報にわけ られる。

(2)宣伝  相手側及び作戦地住民あるいは中立国などに対し、我に有利な形 成、雰囲気を醸成するために、ある事実を宣明伝布すること。

(3)謀略  相手側を不利な状態に導くような各種工作を施すこと。

(4)防諜  相手側がわが方に対して行なう諜報または謀略を事前に察知し、 これを防止すること。    

以上の4つの秘密戦の発祥や相互関係について校史『陸軍中野学校』における記述を、現代風に解釈すれば以下のとおりとなる。

情報活動とは内外の環境条件を広範囲に把握し、状況判断や意志 決定を行なうことを目的とする。この目的追求は、彼我ともに指向しているので、自ずと「敵の情報を知り、我の情報 を隠す」という情報争奪の闘いが開始される。

相手側が情報を隠 そうとするので、我は不完全な情報から総合的に判断することが必要となる。同時に非合法的な手段を用いて真相情報を入手する 必要性も生じてくる。これが諜報活動の本質である。

情報活動が平時の外交や武力的抗争の中においても重要な地位を占めるようになったことから、情報活動の多元性、複雑性が着目されるようになった。このため、情報操作による「宣伝活動」が 行なわれるようになった。またそれらの積み重ねによって、いわ ゆる「謀略活動」も可能であることが実証されるようになった。 さらに、相手国からのこれら各種の策謀を防衛するためには防諜も必要になってきた。

 ようするに、彼我の情報争奪の情報戦の中で、敵が厳重に守って いる情報を非合法手段によって獲得する必要性から諜報活動が発 達し、平時・戦時の活動において情報がより重要な役割を帯びるようになるにつれて宣伝や謀略が発達した。そして、それら活動 を守るために防諜が同時に発達したということである。