情報戦(3)

■情報戦からマルチドメイン作戦

情報戦という言葉がにわかに注目を集めたのは1991年の湾岸戦争時です。その後、米シンクタンクなどで情報戦の定義や分類が行われました。しかし、当時に注目されたのは精密誘導兵器と情報システム(C4ISR:指揮・コンピュー・通信・統制とインテリジェンス・偵察 ・監視)を駆使する初期の統合作戦でした。

その後、米軍は陸軍・海軍・空軍・海兵隊といった軍種間において相互運用可能な統合情報システムの構築を目指し、99年のコソボ空爆、01年のアフガニスン、03年のイラクの戦争において本格的な統合作戦を実施しました。

湾岸戦争後まもなくサイバー戦争の概念は確立され、99年のコソボでは、米国側がミロシェビッチ大統領の海外口座に侵入して資金を盗み出し、力を失わせようとした、ともいわれています。同年に中国空軍の上級大佐が執筆した『超限戦』でもサイバー戦の記述がみられます。

わが国でも、先進的な軍事専門家であった江畑謙介が『インフォメーション・ウォー――狙われる情報インフラ』(1997年)、『情報テロ――サイバースペースという戦場』( 1998年 )などを執筆し、サイバー戦の脅威への認識は高まっていました。

しかしながら、2000年代のアフガン、イラクの戦争で米国が本格的なサイバー戦を行ったとの確たる実証はありません。

その後2007年4月、エストニアでのロシア系住民の暴動が生起し、エストニア中のウェブサイトが攻撃を受けました。これは、おそらくロシア政府が攻撃の主体であったとみられ、国家(ロシア)が国家(エストニア)に対する破壊妨害を目的とした初の初のサイバー攻撃として認識されているようです。

2008年のロシア・グルジア戦争は、サイバー攻撃と通常戦争として連携して行われた前例のないケースとなりました。

米国はすでに2005年3月にサイバー軍(JFCCNW、Joint Functional Component Command for を組織しましたが、2011年6月、ロバート・ゲーツ国防長官(当時)が外国政府によるサイバー攻撃を戦争行為とみなすとする方針を表明しました。

 2014年2月、ロシアはクリミア半島併合と東部ウクライナへの軍事介入で、サイバー攻撃や電磁波攻撃を含む様々な形態の戦い方を実践して見せました。この様相を欧米では「ハイブリッド戦」と呼称しました。

 現在、「ハイブリッド戦」の関する国際的な共通の定義はありませんが、防衛省では「ハイブリッド戦」は、「軍事と非軍事の境界を意図的に曖昧にした現状変更の手法」と解説し、ハイブリッド戦に該当するものとして、国籍を隠した不明部隊を用いた作戦、サイバー攻撃による通信・重要インフラの妨害、インターネットやメディアを通じた偽情報の流布などによる影響工作を複合的に用いた手法を例挙しています。まさに、ロシアがクリミア半島島で行った戦いの形態を意図しています。

 この後、米陸軍では、陸上、空中、海上、サイバー空間、宇宙空間すべての領域で行われる作戦を「マルチドメイン作戦」として整理しました。この作戦は、米国の軍隊およびその同盟国と提携国が相互に協力して、陸軍、空軍、海軍、海兵隊、沿岸警備隊すべての軍隊を動員して行うものだと解説されています。

■ロシアによるクリミア半島併合の様相

  今日、各国は米陸軍が提起した「マルチドメイン作戦」を実行し得る能力の獲得を求めて研究や訓練を行っています。わが国も、2014年のロシアによるウクライナ侵攻を境に「戦い方が変わった」と認識し、2018年の防衛大綱は見直されました。

各国が目指す能力とはどのようなものかを実体的に理解するため、2014年のロシアによるウクライナ侵攻を振り返ってみましょう。

2014年2月、ウクライナの港湾施設や鉄道、電力施設などで、軍人か民間人か判別できないデモ隊による騒擾が起きました。しばらくすると、ウクライナ全土で携帯電話が不通になり、携帯にSNSが流れました。その後、大規模な停電が主要都市で起きました。

停電でテレビがつかないのでラジオをつけてみると、そこからは不思議なニュースが流れてきます。「おかしいなあ」と思っているうちに、気が付いてみると先ほど重要施設を取りかこんでいたデモ隊が、いつのまにかロシアの武装集団(リトル・グリーン・メン)に変わって、重要施設も占領されてしまいました。

ウクライナ軍は警戒監視用のドローンを飛ばしますが、ドローンが次々と落下します。そこで、ウクライナ軍はロシア軍による侵攻が起きていると判断します。ロシア軍との衝突に発展し、ウクライナ軍が反撃をしようと思って大砲を撃つと、今度はその弾が全て不発弾として落ちてしまいます。

こうして、ウクライナ軍はほとんどまともな戦いができず、まもなくクリミアを完全に占領されてしまいました。

■ロシアによる平時からの準備

後で米軍がこの戦い方を分析してところ、ロシアは相当事前に周到な準備を行っていたようです。

2007年以前から、ロシア情報機関と関係を有すると推定されるハッカー集団[1]がウクライナ国内のサイバー空間に入り、同国内の情報窃取や軍事行動を有利にするための情報操作などを行っていました。

2012年から13年にかけてロシアはウクライナのサイバー空間に偽情報を流布するなどして、社会騒乱の状況を作為し、ロシアによるクリミア併合を支持し、正当化することを狙いとする世論工作(影響工作)を開始しました。また、侵攻前年にはウクライナの複数のテレビ局関係者などへのDdos攻撃が行われ、情報発信ができない事象が生起しました。これは、ウクライナ侵攻に先駆けて、ロシアがサイバー攻撃の有効性を検証するための威力偵察を行ったとみられます。

ロシアは攻撃に当たってまず、武装集団(民兵)を多数ウクライナに送りました。その後、サイバー攻撃によって携帯電話の基地局を乗っ取り、これにより通信をシャットダウンさせ、親EU議員の携帯電話湯SNSアカウントにもサイバー攻撃を実施し、ロシアに対する否定的な情報発信のプラットフォーム・・・・偽SNSを流したました。さらにサイバー攻撃により、主要な電源プラントを機能停止にし、停電を起こしました。そして、あらかじめ用意したラジオ局から偽情報を流したのです。

 ロシアはサイバー攻撃だけでなく、強い妨害電波で宇宙からの情報を遮断しました。これによりGPSが使えなくなったため、ウクライナ軍は車両の運行や軍艦の航行ができなくなりました。

ロシア軍は強い電磁波をドローンに指向し、ドローンを制御不能にし、行き先が分からなくなると自動的に落ちるシステムになっているようで、こうした電磁波による攻撃で、またウクライナ軍の砲弾の信管にも電磁波を指向し、不発弾にしました。

  これらロシア軍の戦い方は、領域で言えば、従来の陸・海・空に加えて、サイバー、宇宙、電磁圏の領域(ドメイン)で行われていることがわかります。(続く)


情報戦(2)

情報戦は、国家あるいは戦闘集団の目標を達成するすべての活動と定義した場合、新しい試みではありません。情報戦のルーツは紀元前5世紀の「孫子」の兵法や古代ギリシャの戦争でのトロイの木馬まで遡ることができます。ここでは、スパイによる諜報や心理戦などの様相がみられます。

第一次世界大戦では、各国はスパイを通じて敵側の情報を入手したほか、電波傍受、暗号解読などの技術的手法を駆使した情報戦を展開しました。第二次世界大戦では、英国のダブルクロス委員会がドイツ側のスパイを二重スパイとして活用し、対独戦争の流れを変えたました。こうして、情報戦は偽情報、欺瞞、プロバガンダ、電波情報の収集・伝達・防護といった形で認識されました。

1991年の湾岸戦争は、未来の戦争の様相を変化させる分岐点となりました。つまり、電子技術分野を制する者が戦場を支配するという新たな認識が生まれました。コンピュータとネットワークにより構築され、さまざまな情報が行き交うサイバー空間での情報戦が注目を集めるようになりました。

それに伴い、情報戦(インフォメーション・ウォーフェア)という言葉を頻繁に耳にするようになり、その定義などが試みられるようになりました。1993年にランド社が発行した解説記事「サイバー戦争が来る(Cyberwar is Coming)」では、ネットワーク戦、政治戦、経済戦、指揮統制戦(サイバー戦含む)の4つに区分しています。以下、同記から要点を抽出します。

ここでのネットワーク戦(net warfare、netwar)は、国民が望ましい国家行動を取るよう国民の意識に影響を与えたり、その意識を管理することとされています。ネットワーク化された通信手段によって、社会全体の情報を管理するものと理解されます。

政治戦(political warfare)は、国家指導層の意思決定や政策に影響を及ぼす活動です。

経済戦(economic warfare)も政治戦と同じく国家指導層の意思決定や政策に影響を及ぼすものですが、前者は政治システム、後者は経済システムに目標が思考されます。

指揮統制戦(C2W、comand and control warfare)とは、軍事目的を達成するため、軍事目標に対して行われる軍事作戦で、軍事知識を活用したり、心理戦、欺瞞、および電子戦を仕掛ける行動です。サイバー戦も指揮統制戦に含まれます。

その後1995年、当時の情報戦理論の第一人者のマーティン・リビック(Martin Libicki)は情報戦(IW)を7つのカテゴリーに分類ことを提案しました。これが米国防大学での一般認識となりました。また、情報戦の目的は情報優越(superiority)と理解されました。

情報戦(1)

ハイブリッド戦、マルチドメイン戦(MOD)、超限戦、など現在の軍事戦略を語る用語が注目されています。この頃、私が読んだ本だけでも、『近未来戦を決するマルチドメイン戦』、『現代戦争論-超「超限戦」』、『シャドー・ウォー』、『ハイブリッド戦争』、『ハイブリッド戦争の時代』などを挙げることができます。

これらの本はいずれも、軍事という視点から現在の国際情勢を見る上で有用な本です。読む価値は大いにあります。

さてハイブリッド戦争やマルチドメイン戦など、それぞれの著者が定義していますし、欧米の研究者あるいは権威者によって定義の試みが行われています。たしかに、これらの戦いにおける国際社会での同盟や協調によるグローバルな対策のためにハイブリッド戦の定義や、それとマルチドメイン戦との用語の違いなどを認識する必要はあるでしょう。

しかしながら、国家独自の防衛態勢の強化や、企業における情報漏洩などの対策を論じる上では、まずは、宇宙、サイバー、電磁波を利用した戦い方の様相や今日の我々に向けられた脅威やリスクなどを感覚的であっても、より具体的にに理解することがより重要なのではないかと思います。

さらに、私のような情報分析という実務に長年携わったきたものからすれば、やはり、日本あるいは海外の在留邦人の方々が、いかなる状況下で、どのような脅威やリスクあるいは危機が現出しているか特定し、どのような対応を考慮すべきか、ということに関心があります。

その意味では、上記の本だけでは、組織や個人として、今日の脅威をどのように認識し、リスクや危機の特定をしていくのか、つまり、判断や行動を促す視点とインテリジェンスの視点からは必ずしも十分な満足感は得られません。

私は、現代の戦争が変わったのかどうか問われれば、よくわかりません。たしかにICTが戦いの様相に変化を与えており、現代の戦争は第一次大戦時の総力戦とは異なります。他方、さまざまな戦い方をミックスした戦いや、戦いが平時、グレーゾーンから始まるという点では、特に現代戦も第一次世界大戦も異なりません。つまり、何がどのように異なるのか、それは本質的な違いなのか、それがどの主体レベルにどのような意味を持つのかが、よくわかりません。

現在、ハイブリッド戦争の中でとくに注目されているのが、サイバー戦、電子戦、インターネット上でのSNSを活用したマイクロターゲティングや偽情報の流布、宇宙ベースの情報支援能力の獲得などでしょう。

とりわけ、サイバー戦が注目されていますが、私は1999年に調査学校で学んでいた時に、「『21世紀の戦争』-コンピュータが買える戦場と兵器」を読み、驚愕した覚えがあります。これは当時の調査学校長による課題図書であり、読後感想文が求められましたので、よく覚えいます。

また、ちょうどこの頃、中国では『超限戦』という本が出ました。私は中国研究を始めたばかりであったので、非常に関心を持ちました。また、著名な軍事評論家の江畑謙介氏はサイバー戦の本をいくつか出し、注目されました。これらの本は現代の本にまったく遜色がない、むしろ凌駕していると私は思います。

あれから20年経ちました。私にとってのあの頃の戦争認識と現代の戦争認識はどう変わったのかと問われれば、「何も変わっていない」というしかありません。サイバー戦に再び大国間競争の要素が加わったという面もありますが、それは歴史の回帰と螺旋的発展で説明がつきます。

我々は少しずつの変化にはなかなか注目しません。しかし変化はすでにおきていたし、ある種の専門家たちはしっかりと予測していました。かりに現代のハイブリッド脅威を驚くとすれば、そのような予測を重視しなかったからです。

そして、国家行政もすぐにいろいろな対策は打てません。ハイブリッドだ、グレーゾーンだと騒がれていますが、防衛におけるグレーゾーンの脅威は1990年代から注目されています。要するに、中国の脅威などが大きくなり、ロシアが復活し、国際社会が注目する、ハイブリッドという絶妙な名前を当てる。あるいは米国などがハイブリッド脅威を問題視するようになって、機が熟するようになり、やっと対応を起こすということが一般的なのだと思います。

むろん、機が熟するようになり、上記の良書が生まれたことは、わが国の国家や組織にとって良いことです。ただし、私は現代の戦争論のような内容はすでに20年前に述べられており、想定外はないと思います。逆に現代社会ではすでに20年先の戦争の様相の兆候が出ていると思います。AIや知能などでしょうが、私には不得意な領域なのでうまく解説はできません。

逆に、現代のようなハイブリッド戦の兆候は相当以前から起きていたことを『21世紀の戦争』や何十年も前に書かれた著書を紐解きながら、情報戦に焦点を当てて、私が考えたこと、思っていることを、このブログに時々書いていきたいと考えています。

(次回に続く)

新著に書評をいただきました。

私の新著『情報分析官が見た陸軍中野学校』が5月7日、アマゾンで発売になりました。これまでの拙著は発売後はアマゾンの「軍事」ジャンルで上位につけるのですが、中野学校の認知度が少ないのか、今回の新作は静かな立上がりであり、このままお蔵入りにならないよう少し宣伝していきたいと思います。

以下は著名な評論家の宮崎正弘先生からいただいた紹介文です。先生ありがとうございます。

インテリジェンス戦争(秘密戦)から遊撃戦へ

  時代に翻弄された中野学校の「戦士」たちの真実

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上田篤盛『情報分析官が見た陸軍中野学校』(並木書房)

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 陸軍中野学校と聞くと、評者が咄嗟に思い浮かべる二人の男が居る。

末次一郎氏と小野田寛朗氏である。中野学校は東京の中野だけではなく、浜松に分校があった。中野学校本校は七年継続したが、二股分校はわずか四期で終戦を迎えた。とはいえ、400名の卒業生がいた。そのなかに両氏がいたのだ。

 では中野学校は何を教えていたのか。

 戦後、おもしろおかしく中野学校を論じたスパイ学校説や、あるいは映画にもなったが、実態とはかけ離れている。

 秘密戦の前衛とか、スパイとか戦後の評価は、中野学校のイメージを貶めた。実態とはことなり、当時から秘密戦争と遊撃戦は区別されていた。

 「ともすれば秘密戦争と遊撃戦が混同され、太平洋戦争(ママ)中期から末期にかけて、アジア各地や沖縄で行われた遊撃戦を中野学校と関連づけて語られることが多いが、本書では主として『情報活動(情報戦)』の視点から」、実相に迫る。 

 なぜなら「国家および陸海軍が本格的な情報教育の期間を有していなかったため、中野学校での情報教育は画期的なものだった」からだ。

 中野学校は当時の秘密戦争の劣勢をカバーするために、そして各国に身分を秘匿して送り込み、情報力を高めようとしたもので、諜報技術より大局的判断力、自主的な行動力を叩き込まれ、同時にアジアの民族解放教育も培われたのである。

 本書は、その教育の具体的な内容や校則を緻密に分析し、中野学校の今日的な意味をさぐるものであり、これも画期的な試みといえるだろう。

 さて中野学校卒業生の末次、小野田両氏と、妙な因縁があって、評者(宮崎)は生前の末次氏とは国民運動、とりわけ沖縄返還、北方領土などの国民集会準備会で多いときは週に一、二度会っていた。佐藤政権下の沖縄返還交渉では密使として舞台裏で活躍された。若泉敬氏は表の密使、末次氏は文字通りの黒子だった。

 末次事務所は「日本健青会」の看板がかかっており、星雲の志を抱いた若者があつまって愛国の議論を重ねていた。そのなかには「救う会」の事務局長の平田隆太郎氏、前参議院議員の浜田和幸氏らもいた。

 末次一郎氏は奇跡的な引き揚げ後、傷痍軍人救援など多くのボランティア活動をはじめ、同時に北方領土回復などの国民運動の最前線で活躍され、政界からも一目置かれた。

「国士」と言われ、多くの末次支持者がいた。二十年前に旅立たれたが、奇しくも氏のお墓は評者の寿墓と同じお寺の境内にある。氏の墓前には花が絶えたことがない。

 小野田少尉がルバング島から出てきたとき、評者は伊勢の皇學館大学にいた。

すぐさま大阪へ向かい、和歌山県海南市から上京する小野田少尉のご両親がのる新幹線に飛び乗った。車中、テレビカメラがわっと取り憑いたが、米原を過ぎてようや車内に静けさが戻り、座席に近付いて父親の凡二氏に想い出の手記を書かれませんかと依頼した。

本人の手記は講談社が、発見者の鈴木さんの手記は文藝春秋がすでに獲得したと聞いていた。評者は当時、出版社の企画担当だったので、父親の手記獲得に動いたのだった。さて新幹線は東京駅に到着した。ホームで車いすを用意して待機していたのが、末次氏だった。

お互いに「えっ」と顔を見合わせた。

こうした縁で小野田元少尉とも何回か会う機会があったが、どちらかと言えば「発見者」の鈴木紀夫さんが、大発見劇から四年後に、林房雄先生の令嬢と華燭の典をあげた。その所為で呑む機会も多かった。

鈴木さんはヒマラヤに雪男発見の旅に出て遭難、小野田さんは友人を悼んでヒマラヤを訪ね、遭難現場で合掌した。

(以上、引用終わり)

宮崎先生の中で、小野田少尉、末次さんの話の中で、小野田さんを発見された鈴木さんのエピソードも非常に興味を持ちました。小野田さんはヒマラヤに行かれて、鈴木さんの遭難現場で合唱されたとのこと、小野田さんの人柄が偲ばれます。

以下は中野学校の「中野二誠会」の会長からいただいたメールです。中野学校の実相と今日の日本の情報活動、陸上自衛隊情報学校の健全な発展などに今後とも微力ながら尽力する決意しました。一部割愛させて、このブログで共有させていただきたいと思います。

上田 様

 昨日、大兄著書『情報分析官が見た陸軍中野学校』を拝受いたしました。お心遣い有難うございます。

 早速、「はじめに」「おわりに」から熟読し(小生の読書法・笑)、本文完読に挑戦いたしております。(資料を本当に良く調べておられていますね。さすが本職・情報分析官と、感心しながら読んでいます)

 著書発行に際して二つの目的を掲げておられます。中野の誠を継承することを目的の一つとして発足させました中野二誠会の一員として心より感謝申し上げます。

 小生が中野校友会本部事務所を引き継いだ約40年前から、「陸軍中野学校」を表題とした図書や新聞記事原稿の取材面談に何度も付き合わされておりますが、その殆どの担当者は、ご指摘のような巷に流されている「陸軍中野学校伝説」をベースに企画され、質問をされます。つまり事実を話しても話が行き違い全く前に進まないのです。

 今後同様の取材等がありましたら『まず貴上田著書を読んでからお話ししましょう』と、失礼ながら教本テキスト代わりに利用させていただけそうです。

 (以下、省略)

メッセージは伝わらなければ意味がありません。しかし、残念ながらフェイクニュースや煽り記事に比べて、真実が伝わる速度や伝播力は著しく低い。世の中が誤った情報で氾濫しても、なかなかそれを止めることはできません。

 真実を書いた、自分自身納得できものを書いたから読んでもらえるわけではありません。ある出版の編集者が言っていましたが、「良いものが売れるのではない、売れたものが良い」。それは厳しい出版業会の真理でしょう。

 しかし、ほとんどの書き手は真実なもの、良いもの伝えたいと思っているのだと私は信じたい。インターネット時代の中で正しい情報をどのように効率的に伝えるかは、解けない課題となのんもしれません。 

情報分析官が見た陸軍中野学校(5/5)

▼中野学校を等身大に評価する

 今日、どちらかといえば中野学校は実態よりも過大、誇大に捉えられています。他方で、中野学校を情報機関や謀略機関として誤認識し、それを各国の情報機関などと比較して「大したことはなかった」と過小評価することもあります。いずれも間違いです。

 中野学校を過大視し、今後の日本の情報組織や情報活動のあり方を模索するには中野学校に学べばよい、などの短絡的思考は禁物です。

 中野出身者や中野教育における優れた点が多々あったことは間違いありませんが、他方で、「中野学校がもう少し早くできれば、太平洋戦争は回避できた」かのような感覚論に基づく過大評価は問題の本質への理解を遠ざけます。

また、根拠に乏しい過大評価は、映画『陸軍中野学校』や小野田少尉にまつわる特殊事例が独り歩きし、中野出身者が北朝鮮情報機関を作ったなどの“都市伝説”や戦後の帝銀事件などの「国家重大謀略事件」に関与したなどの不確かな噂を広める原因にもなります。

だから、中野学校の誤認識を排斥し、現代的教訓を導き出すためには、まずは中野学校を等身大に評価することが必要不可欠なのです。

▼秘密戦の誤解を解く

 今日、秘密戦は中野学校で行なわれていた秘密戦技術、沖縄での遊撃戦、さらには登戸研究所(秘密戦研究所)による風船爆弾、偽札の製造、そして第七三一部隊が関与したとされる生物戦および化学戦など、さまざまに認識されています。

 森村誠一の『悪魔の飽食』(光文社)の信憑性はともかく、そこに描かれる第七三一部隊の暴虐性には目をそらしたくなるものがあり、ベストセラーとして多くの読者に悪辣なイメージを植えつけたことは間違いないでしょう。こうして、秘密戦とは絶対に許されない手段をもって、相手側の情報を盗んだり、目的達成の障害となる要人を暗殺したりする行為との印象が固まってきました。

中野学校や陸軍参謀本部では秘密戦を情報勤務の意味で使用し、それは諜報、宣伝、謀略、防諜の4つからなると定義していました。しかし、今日では秘密戦はさまざまな意味で使用されており、それらの違いを明らかにせず、メディアなどで混同して使用することは禁物です。これが、中野学校のイメージを貶め、現代に少なからぬ負の影響をもたらしています。

 だから私は本書では次のように主張しました。「秘密戦という一つの言葉をもって中野学校、登戸研究所、第七三一部隊が短絡的に連接される。中野学校の教育の一部をもって忌まわしい事実を強調する。秘密戦という後ろめたい隠微な言葉の響きとともに旧軍や中野学校が行なった情報活動が全否定される。このような何もかも一緒に関連づける粗雑な論理の延長線で、今日の情報に関する組織、活動および教育が否定されることだけは絶対に避けなければならない。周辺国が情報戦を強化しているいま、日本がそれらに対抗して本来行なうべき正当な情報活動まで制約を受けることがあってはならない。情報活動は国家が行なう正当な行為である。情報活動そのものを否定してはならないのである。」(本書引用)

▼根拠不明な謀略説を排除する

 さらに許しがたい状況は、書籍や雑誌で中野出身者が暗殺や毒殺、拉致などを働いたなどという記事がまことしやかに流布されていることです。

ただし、毒殺などは教育の中でわずかに教えられただけであり、所要の目的を達成するためには相当の訓練が必要となります。他方で、毒殺といえども、作戦との連接や所望の効果などを考えずに単に実行するだけであれば、当時の一般軍人や知識のある民間人でも実行は可能であったとみられます。

また中野学校では個人目的での謀略の使用は厳しく制限され、国家目的のため、さらにはアジア解放のための謀略に限定すべきであると教育されていました。要するに、さしたる根拠もなしに、安易に謀略事件と関連づけて吹聴すべきではないということを申し上げたいのです。

 中野出身者で御年99歳になられる牟田照雄先生は、筆者の知人でもある鈴木千春氏の取材に対して次のように述べられています。

 「スパイ学校という表現を筆頭に、中野学校を書いた書籍、雑誌は多いが間違いが多い。メディアやマスコミの無責任な憶測から、全く関係がないのに下山事件、白鳥事件まで中野学校にこじつけられ、非常に不愉快です。中野学校には裏切り者も犯罪者もいません。誤解と中傷に怒りを感じます。中野出身者は密かに熾烈に、黙々と国のために尽くしました。間違った情報が独り歩きし、私たちの『誠の精神』が踏みにじられています。これでは戦死した同志の英霊も安らかに眠れない」(本書引用)

 私たちは、牟田先生ほかの“声なき声”を重く受け止め、日本のために戦った英霊を慰め鎮めるためにも、いわれなき風説を排斥しなくてならないと思います。是非とも、できるだけ多くの方々に本書をお読みいただき、誤った認識が流布されることを一緒に防止していただけたらと心よりお願いしたいのです。

▼インテリジェンス・リテラシーの向上を目指して

 本書では組織や国家がインテリジェンス・リテラシーを高めるために秘密戦の研究は排除してはならないと述べました。ただし、これは謀略などの能力を保有せよ、という意味ではありません。諸外国がこれらの情報活動を活発に展開している現状では、防諜の観点からこれらの秘密戦を研究することは必要であるということを申し上げます。

今日、「超限戦」「ハイブリッド戦」「マルチドメイン作戦」など呼称はさまざまですが、平時と有事、正規と非正規、戦略と作戦・戦術のグレーゾーンでの戦いが注目されています。そして、わが国に対するかかる脅威が確実に高まっています。

ハイブリッド戦などの原点は秘密戦であると言ってもよいでしょう。今日、現代的視点で著されたハイブリッド戦などの関連書が陸続と刊行されています。

もちろんこのような関連書を参考にすることも重要ですが、私はその原点である秘密戦を今一度研究する意義が大きいとみられます。

本書では第1次世界大戦後の総力戦思想の誕生の中で、諸外国が秘密戦で火花を散らし、わが国も遅ればせながら秘密戦を重視した経緯についても詳述しています。ここには、なぜわが国が秘密戦で敗北したのかの原因を特定するヒントを掲載しています。

今日のハイブリッド戦への対応についても、かつての日本国あるいは日本人の宿痾(しゅくあ)ともいうべきある脆弱性を抱えているとみられます。つまり、秘密戦に関する歴史的検証を欠いた現代の視点だけの対応だけでは、某国からのハイブリッド戦などに対応することはできないと考えます。

 第二に、批判的思考で発信者の意図を推測することの重要性について強調しました。現在、さまざまな政治的意図を持った著書が出版されていますし、中野学校関連書の中にも真偽の怪しい情報が氾濫しています。

インターネット上ではフェイク・ニュースが氾濫しています。こうしたなか、我々には真実を選り分ける判断力が一層重要となっています。

 本書では、報道や記述に対して冷静に分析し、発信者の意図はどこにあるかを見極めることが重要になっています。本書では、3つの「問い」をもって情報(インフォメーション)を客観的かつ批判的に見ることがフェイク・ニュースに惑わされないための秘訣であることを述べました。

 こうした批判的思考を各人が身に着けることが、国家や組織のインテリジェンス・リテラシーを高める重要な一歩となると思います。

第三に、インテリジェンス・サイクルを確立することの必要性について強調しました。

 日本は米中ロという大国に囲まれ、かつ多くの資源を諸外国に依存しており、地政学的に見れば、日本ほど世界情勢を的確に見通す情報力が必要とされる国はありません。現代は不確実で先が見通せない時代にあって、インテリジェンスの重要性はますます高まっています。

中野学校が創設された当時も支那事変の泥沼化、欧州情勢の緊迫化、共産主義の浸透と国内テロの増加など、不透明な時代でした。

 こうしたなか、中野関係者は、将来を見据えて、海外情報要員の育成を決意し実行に移しました。彼らの決断力と行動力を教訓として、現在の国家組織や民間企業がインテリジェンスの重要性を認識し、良好なインテリジェンス・サイクルを確立していただきたいと思います。

「軍事情報」メルマガ管理人エンリケ氏による拙著紹介

「軍事情報」メルマガ管理人のエンリケ様が、まもなく発刊される拙著を紹介していただきました。一部を抽出し、再編集して掲載します。

「情報戦は平戦時問わず行われている。そのため情報史の研究は、戦時だけでなく平時のそれも行わなければならない。」という趣旨の上田篤盛さんのことばが、私の胸に深く刺さっています。この本は、その問いも満たしてくれます。

こんかいご紹介する『情報分析官が見た陸軍中野学校─秘密戦士の孤独な戦い』は、わが情報員の教育機関だった「陸軍中野学校」のなんたるかを検証し、今にいたるも、わが情報活動理解の障害になっている陸軍中野学校への誤解、偏見を解き、正確な理解を図る本です。

実はこの本。5年がかりで作られました!この間の上田さんのご苦労。察するに余りあります。あとがきで上田さんは、「本書は自身の内面と向き合い、先人たちの崇高な精神をあれこれ分析する資格もない自らの〝未熟さ〟を自覚し、また〝葛藤〟と戦い抜いた末の書」という言葉で、この5年の苦闘を締めくくっておられます。

その意味でもほんとうにうれしい出版で、会う人会う人に「いい本が出ますよ」とオススメしていますw

中野学校のホントとウソがわかる本

 戦後日本が無視忌避してきた

    「中野教育のキモ」と真正面から

      向き合って解説、紹介

       情報勤務経歴を持つ著者だから

         迫力が全く違う!

●映画「陸軍中野学校」や、小野田寛郎陸軍少尉をとおしてイメージされている中野学校は、中野学校が目指したものでは必ずしもありません。

●中野学校から今に活かせる智慧、エキスを吸収するために不可欠な「等身大の中野学校」の把握ができる史料として価値あり。

●イチバン読んでほしいのは6章です。これがないから、戦後日本は沈む一方なのです。

中野学校創設の目的はこの秘密戦を展開する秘密戦士の育成にあり、彼らが、外地に骨をうずめる「交代しない在外武官」になることを目指すものでした。中野への誤解は、秘密戦を展開する要員の養成を目的に作られていながら、戦争中になってから「遊撃戦士養成」へと教育方針の大転換が行われた事実を知らない人が多い点にもあります。

遊撃戦とは秘密戦と全く違うものです。「目的の秘匿」という点は重なりますが他は全然違うもので、主兵力の作戦能力を補完するために行われるゲリラ戦のことをいいます。

ちなみに小野田さんは遊撃戦士養成時代の中野学校(二股分校)の卒業生で、秘密戦士ではなく遊撃戦士の教育を3ヶ月受けただけです。本著では、小野田さんについて、中野教育というよりは、現地で作戦行動を展開しながら自らの力で自らを教育された人ではないか、と指摘しています。

でも実はそれだけではありません。「秘密戦概論」としての意味合いも大きな本なんです。

秘密戦とは、「諜報」「宣伝」「謀略」「防諜」の4つの手段を用いて行われる「戦わずして勝つ」ための平戦時問わない戦いのことをいいます。秘密戦の4手段。じつはうち2つは、他の手段に貢献するためのものだそうです。インテリジェンスといえば!と聞かれると真っ先に頭に浮かぶものしたので、少し意外でしたね。そしてこの4つのうち一番高く評価されているのは何か? も、意外に気づかないところです。

中野の歴史を読み解くなかで、秘密戦の常識、感覚も身につけられるこの本は、見方によっては、とっても曲者といえるかもしれませんwwwだから面白いですね。

まずは著者・上田さんのことばから、、

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 本書の目的は二つある。一つは、陸軍中野学校(以下、中野学校)の創設理念や教育内容を正しく評価し、現代社会における情報戦争(情報戦)への対応に役立てることである。

  もう一つは、中野学校がスパイ組織として非合法な活動を行なっていたなどという、誤った認識を是正することである。

  これらの目的追求の前提となるのが、信頼し得る資料をもとに、筆者が学んだ現代の情報理論も交えて中野学校を正当に評価することである。

  しかし、「中野は語らず」が信条となり、戦前と戦後を通して、中野学校関係者(教官、卒業生、親族など)による口外は控えられ、同校に関する正しい情報に接するのも容易ではない。

  他方、戦後の映画『陸軍中野学校』や、中野学校出身者(卒業生)の小野田寛郎少尉のフィリピンからの帰国などにより、世間に同校の一面のみがことさらに誇張、脚色される傾向があった。

  戦後に刊行された第三者の手による一部著書では、話題性を重視したのか、中野学校関係者にとって憤怒を禁じ得ない記述も少なくない。

  本書は、そういった著作や報道に影響を受けて「戦前の中野学校では尋常でないハードな教育訓練が行なわれ、卒業生はなんでもできる」といった中野学校や同校出身者(以下、中野出身者)を過大視するスーパーマン的な伝説を信じる人には、やや失望感を与えることになるかもしれない。

  というのは、ここで描いているのは、「中野出身者は秀英であったが、一年程度の学校教育で、いきなり〝スーパー秘密戦士〟が育つわけではない」というスタンスだからだ。すなわち〝中野スーパー伝説〟の否定論をとっている。

  なぜなら、この〝中野スーパー伝説〟こそが、残念ながら中野出身者が戦後の帝銀事件や金大中事件などの重大犯罪へ関与したなど、いわれなき風説を世に蔓延させている原因だからだ。

  それらの中野学校に対する誤認識が連鎖して、現在の陸上自衛隊情報学校などへの誤った認識につながる可能性も懸念される(すでに一部でそうした事態も起きている)。

  このようなことは同情報学校の前身である調査学校および小平学校で一〇年以上も教鞭をとった筆者としてはどうしても看過できない。

  そこで、数年前に自衛隊を退官し、一民間人として外部から組織を眺めることができるようになった今、戦時での秘密戦の実相と秘密戦士を育成する学校教育のあり方を再び研究し直して、後世にいささかなりとも助言を残すことができればと考えた次第である。

(上田篤盛)

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いかがでしょうか?

この本は、

1.秘密戦とは何か?

1.陸軍中野学校で行われた教育とはどういうものだったか?

1.陸軍中野学校出身者は何をしたのか?

1.中野学校とは何だったのか?

の4つの柱からなる「陸軍中野学校が正確にわかる本」です。

最大の価値は、これまで伝えられてきた陸軍中野学校への誤解を解き、その実像と評価に触れられる点です。

特にわが国では、映画「陸軍中野学校」と、故・小野田寛郎陸軍少尉を通じて中野学校を評価している感を持ちます。しかしそれが、中野への誤解の大きな要因になっているのかもしれません。

もともと「交代しない駐在武官」を目指した中野教育。たかだか一年程度の教育で、卒業生がスーパーマンになれるはずもない。秘密戦士養成と、大東亜戦争中に始まった遊撃戦士養成。両者は全く違うもの。などへの理解がないわけです。

でもこの本を読めば、陸軍中野学校に対する誤ったイメージ、ずれた感覚が修正され、それにより、今のわが国、わが情報戦に活かせる中野の資産は何か?に目を向けられるようになり、実践につなげられることでしょう。

それともうひとつが、先ほども書いた「秘密戦概略」としての価値です。

秘密戦の四要素、また、帝国陸軍の極秘資料『諜報宣伝勤務指針』を縦横に引用して描き出された陸軍の秘密戦に向かう姿も、これまであまり見たことのないものでした。

自衛隊関係者、軍事・インテリジェンス、中野学校ファンはもちろん、政治家、官僚、研究者、学生、ネットで情報戦にかかわっている戦士たちにも目を通してほしい一冊です。

では中身を見てみましょう。

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目 次

はじめに 1

第1章 秘密戦と陸軍中野学校 17

秘密戦とは何か? 17

目的が秘密である戦争手段/秘密戦とは「戦わずして勝つこと」/秘密戦と遊撃戦の違い/極秘マニュアル『諜報宣伝勤務指針』

秘密戦の四つの手段(諜報・防諜・宣伝・謀略)25

「諜報」は秘密戦の基本である/「宣伝」は秘密戦の中で最も知力を要する/秘密戦の主体は「謀略」/消極的防諜と積極的防諜の違い/防諜は防御的であって最も攻撃的

中野学校に関する誤解の背景 37

秘匿された中野学校の存在/映画『陸軍中野学校』の影響/小野田少尉帰還からの誤解

第2章 第一次大戦以降の秘密戦 44

第一次世界大戦と総力戦への対応 45

総力戦思想の誕生と秘密戦/不十分だった日本の秘密戦への対応

国際環境の複雑化と国内の混乱 47

複雑化する国際環境/二・二六事件と軍部の影響力増大

共産主義の浸透 51

ソ連共産主義の輸出/日本共産党の活動/対日スパイ活動の増大

盧溝橋事件勃発と支那事変の泥沼化 55

盧溝橋事件の勃発/支那事変の泥沼化

第3章 陸軍の秘密戦活動 60

陸軍中央の組織 60

参謀本部第二部の全般体制/陸軍省兵務局の設置/第八課(謀略課)の新編

秘密戦関連組織 64

陸軍技術本部/「陸軍第九技術研究所」(登戸研究所)/関東軍防疫給水部本部(第七三一部隊)

対外秘密戦の運用体制 70

極東方面での対ソ秘密戦活動 72

特務機関の設置/満洲事変後に関東軍の情報体制を強化/対ソ諜報の行き詰まりとその打開

中国大陸での対支那秘密戦活動 78

満洲事変以前の対支那秘密戦活動/満洲事変による開戦謀略/土肥原、板垣の謀略工作/失敗したトラウトマン工作

第4章 中野学校と学生 87

中野学校の沿革 87

防諜機関「警務連絡班」が発足/岩畔中佐の意見書「諜報・謀略の科学化」/後方勤務要員養成所長、秋草俊/養成所創設に向けた思惑の相違/中野学校創設に反対した支那課

中野学校の発展の歴史 97

中野学校の四つの期/創設期(一九三八年春~四〇年八月)/前期(一九四〇年八月~四一年一〇月)/中期(一九四一年一〇月~四五年四月)/後期(一九四五年四月~四五年八月)

中野学校の学生 109

入校生の選抜要領/入校学生は主として五種類に分類/各種学生の概要

中野学校および同学生の特徴 116

第5章 中野学校の教育 121

創設期の教育方針と教育環境 121

秘密戦士の理想像は明石元二郎/準備不足の教育・生活環境/校外教官─杉田少佐と甲谷少佐

創設期の教育課目の分析 130

一期生が学んだ教育課目/判断力の養成を重視/科学的思考を意識した教育/危機回避能

力の取得/実戦を意識した情報教育/実戦環境下での謀略訓練/自主錬磨の気概を養成する

太平洋戦争開始後の対応教育 146

占領地行政と宣伝業務/遊撃戦教育への移行/遊撃戦の基礎となる候察法

中野学校の問題 150

情報理論教育は不十分/秘密保全が情報教育を制約/軍事知識の欠如

中野教育の特徴 158

第6章 なぜ精神教育を重視したか 160

「秘密戦士」としての精神 160

名利を求めない精神の涵養/生きて生き抜いて任務を果たす/自立心の涵養(二期生、原田の述懐)

楠公社と楠公精神 167

「楠公社」の設立/記念室での正座と座禅/楠公精神を学ぶ

秘密戦士の「誠」173

「誠」とは何か?/民族解放の戦士となれ/武士道と秘密戦との矛盾克服

楠公精神はなぜ重視されたのか 181

第7章 中野出身者の秘密戦活動 184

長期海外派遣任務の状況 184

第一期生の卒業後配置/一、二期生の海外勤務

国内勤務の状況 192

満洲事変以後に諜報事件が増大/軍事資料部での活動/神戸事件と中野出身者

北方要域での活動 196

不透明なソ連情勢/中野出身者の活動

中国大陸での活動 200

和平に活路を求めた政治謀略/日の目を見なかった政治謀略/中野出身者の活動/六條公館の活動消滅

南方戦線での活動 208

南方戦線の状況/南機関による対ビルマ謀略/「F機関」などによる対インド謀略/蘭印

での中野出身者の活動/豪北での中野出身者の活動/失敗した少数民族工作/人間愛を貫いた中野出身者の活動

本土決戦 223

沖縄戦と中野出身者の活動/義烈空挺隊と中野出身者/終戦をめぐる工作

第8章 中野学校を等身大に評価する 231

「替わらざる武官」とは何か 231

過大評価が生み出す悪弊/中野学校の創設がもう少し早ければ?/「替わらざる武官」とは何か/国家としての政戦略がなかった

中野学校への誤解を排斥する 244

秘密戦の誤解を解く/根拠不明な謀略説を排除する/情報学校は中野学校の相似形ではない/謙虚にして敬愛心を持つ

インテリジェンス・リテラシーの向上を目指して 255

秘密戦の研究は排除しない/批判的思考で発信者の意図を推測する/インテリジェンス・サイクルを確立する/愛国心を涵養する/新時代の人材育成のあり方

おわりに 265

主要参考文献 270

以上、エンリケ様の熱のこもった紹介記事です。どうもありがとうございました。

情報分析官が見た陸軍中野学校(4/5)

▼中野学校とスパイは映画の幻影

 中野学校の精神綱領には次のように書かれていました。「秘密戦士の精神とは、尽忠報国の至誠に発する軍人精神にして、居常積極敢闘、細心剛胆、克く責任を重んじ、苦難に堪え、環境に眤(なず)まず、名利を忘れ、只管(ひたすら)天業恢弘(てんぎょうかいふく)の礎石たるに安んじ、以て悠久の大義に生くるに在り」(本書引用)

 中野学校の教官であった伊藤貞利は精神綱領を次のように解説しています。

 「精神綱領による秘密戦士の精神とは君国に恩返しをするために私心をなくして命を捧げるという『まごこころ』から出る軍人精神である。常日頃、ことを行うにあたっては積極的に勇敢に、こまかく心をくばると同時に大胆に、責任を重んじ、苦難にたえ、自主性を堅持し、物心の欲望を捨て去り、ひたすら世界人類がそれぞれ自由に幸せに生きることができる世界をつくるという天業を押し広める土台石にとなることに満足し、たとえ自分の肉体は滅びても、精神は普遍的な大きな道義の実現を通して悠久に生きるということである」(本文引用)

太平洋戦争の中期以降、中野学校の教育は秘密戦士から遊撃戦士の育成に大きく舵を切ることになりますが、「秘密戦士として名利を求めない」という一期生の精神は代々受け継がれ、中野教育の伝統になりました。

秘密戦も遊撃戦も突き詰めれば孤独な戦いです。だから、人間の真心の交流という精神要素が求められるのです。

軍人には命を賭して国家・民族の自主自立を守るという崇高な使命があり、それにふさわしい栄誉が与えられます。

しかし、秘密戦士には軍人としての栄誉は与えられず、任務の特性上、その功績を表に出せず、時として犯罪者の汚名を着せられ、ひそかに抹殺される可能性すらあります。

 さらに中野出身者には残置諜者として、「外地に土着し、骨を埋める」ことが求められました。親の死に目にも遭えず、自身も人知れずに死んでいく運命にあったのです。だから、精神綱領では「環境に眤まず、名利を忘れ」の精神が謳われました。

 戦争末期の学生が受けた精神教育の大綱は「一、謀略は誠なり」「二、諜者は死なず」「三、石炭殻の如くに」の三つでした。まさに「石炭殻の如く」人知れず、「悠久の大義」に生きるための精神を涵養する教育が行なわれたのです。

▼生きて生き抜いて任務を果たす

 上述の「諜者は死なず」について解説を加えます。戦陣訓では、「生きて虜囚の辱めを受けず」と述べられています。しかし、秘密戦士は任務を達成するために「生きて生き抜かなければならない」と教えられました。これは武士に対する忍者の心構えと類似しています。

 一期生に忍術を講義した藤田西湖は次のように語ったといいます。

 「武士道では、死ということを、はなはだりっぱなものにうたいあげている。しかし、忍者の道では、死は卑怯な行為とされている。死んでしまえば、苦しみも悩みもいっさいなくなって、これほど安楽なことはないが、忍者はどんな苦しみをも乗り越えて生き抜く。足を切られ、手を切られ、舌を抜かれ、目をえぐり取られても、まだ心臓が動いているうちは、ころげてでも敵陣から逃げ帰って、味方に情報を報告する。生きて生きて生き抜いて任務を果たす。それが忍者の道だ」(本書引用)

 また、二期生の原田統吉は以下のように述べています。

「『生きて虜囚の辱めを受けず』という戦陣訓の言葉を地上白昼の正規戦争の戒律だとすれば、秘密戦の戒律はちょうどそれを裏返したものだと考えていいでしょう。『生きろ、あくまでも生きて戦え、虜囚となろうとも生きて戦いの機会を狙え、恥を恐れるな、裏切者の汚名を着たまま野垂れ死することさえも甘受して、真の大目的のために戦い尽くせ、手がなくなれば足で、眼がなくなれば歯で……命尽きるまでは戦え』というふうに言っても言いつくせないような<強靭な戦いの精神>が要求されているのです。(本書引用)

 このように、「生きて生き抜く」、これが中野学校の精神教育の本質であったのです。

▼楠公精神の涵養

 精神教育は学生隊長や訓育主任などによる「精神訓話」と「国体学」に分けられますが、主体は国体学でした。その国体学とは、わが国の由緒正しい国家の体制を歴史的に考察する学問です。

 国体学では以下の試みがなされました。

○楠木正成を秘密戦士の精神的理想像として、楠公社を建て、朝夕ここに参拝し、自己反省する

○記念館(室)を設け、明治以来の先輩、秘密戦士の遺品・遺影、その他の関係資料を掲げて、ここを講堂にあてて、自習を促す

○教育に加えて、国事に従事した先烈の士の遺跡を訪ね、現地で精神的結晶の総仕上げとする

 記念室は畳敷きで、学生たちはそれぞれ小さな机に向かって、座布団なしで正座し、国体学を受講しました。吉田松陰が塾生に講義するスタイルがとられました。

 中野学校の国体学の教官であった吉原政已は「自分は和服だし正座は慣れていたが、学生諸氏は窮屈な背広を着用し、若くて張り切った大腿であったから、不慣れな正座は苦痛そのものであったろう。…

…私は、何の躊躇もなく正座を要求した。正座の苦痛のために、私の講義が耳に入らないこともあるのは、十分考えられることであったが、それでもあえて正座講義を行った。人間の意志伝達は、耳や眼など以上に、体全体で受け入れる方が大事と信じて疑わなかったからである」(本書引用)と述べています。

精神の鍛練は耳学、目学だけではなく体全体で受け入れる。これは今日では物議を呼びそうですが、私はわが国の修行の歴史などから深い意味があると思います。

▼誠の精神の涵養

 現地研修では吉野、笠置、赤坂、千早、湊川、鎌倉などの楠木正成のゆかりの地への訪問が実施されました。楠木正成は後醍醐天皇に仕え、鎌倉時代末期の「建武の新政」に貢献した天才武将です。

正成の生き様を通して学ぶ精神とは「誠の精神」です。つまり、正成の嘘や混じりけのない、一途な天皇への忠誠から誠の精神を学びました。

教官の吉原は次のように述べています。

 「防諜・諜報・宣伝・謀略などという、尋常でない工作だけに、これにたずさわる精神の純度が、問われるのである。不純な動機による権謀ほど、醜くして憎むべきものは無い。中野学校において、『秘密戦は誠なり』と強調されたのは、まことに当然のことであった」(本書引用)

「誠」は秘密戦士に限らず、軍人全体に求められました。ただし、中野学校では次の点が異なりました。

 「(軍人教育で行なわれた)『誠』の発露は天皇陛下に対してであり、拡大した場合でも日本国民が最大範囲であったと思われるのに対して、8丙が教えられた『誠』はその範囲が異民族まで拡大しており、一見『誠』とは正反対に考えられる謀略でも『誠』から発足したものでない限り真の成功はないと教えられた」(本書引用)

時代の要請により、中野出身者にはアジア民族を植民地より解放し、その独立と繁栄を与えることが任務に課せられため、「誠」の範囲は異民族まで拡大されたのです。

中野出身者は、現地人への愛情と責任から、みずからの現地軍に身を投じる者すらあったといいます。また、戦後になっても、インドや東南アジア諸国の住民との交流が続いたといいます。このことは、戦時中に異民族に示した行為や愛情は、心底「誠」から出たもので、決して一片の謀略や一時的な工作手段から出たものでなかったことを実証して余りあるのではないでしょうか。

新著を発刊します(4月14日)

約1年半ぶりの新著の発刊です。今回のタイトルは『情報分析官が見た陸軍中野学校』です。昨日の4月13日からアマゾンで予約募集を開始しました。その内容については、本ブログ「情報分析官が見た陸軍中野学校」で紹介しています(現在3/5回まで)。

また、固定ページの「上田篤盛の本」でも掲載しました。久しぶりに固定ページを編集したので、編集の仕方(アマゾンとのリンクの貼り方など)を忘れて、しばらく〝格闘〟しました。

新著は私にとって、これまでのどの著書よりも、もがき苦しみました。そこで私の気持ちを次のように表現しました。

「中野学校を一冊の著書として刊行しようとした過程では、理解力や筆力の欠如から、中野学校の実相あるいは先人たちの労苦を表現しきれない挫折感を覚え、執筆を中断したこともあった。だが、筆者の友人の支援、中野関係者および出版社のご厚意で、五年の歳月をかけて、ようやく一つの形にすることができた。少々大袈裟ではあるが、本書は自身の内面と向き合い、先人たちの崇高な精神をあれこれ分析する資格もない自らの〝未熟さ〟を自覚し、また〝葛藤〟と戦い抜いた末の書なのである。」(本書から引用)

ところで、歴史と向き合うのは大変です。先行研究や既存の著書などを参考にするにしても、書く人によって事実が微妙に異なります。当然、解釈は大いに異なります。私自身もバイアスがありますし、意図的にある種のメ―セージをそこに織り込みますので、全体的な主張でのバランスには苦慮します。

説がほぼひとつならば問題はありませんが、1928年の張作霖爆殺事件のように最近になってソ連犯行説が出てくるとやっかいです。私は歴史家ではないので、とちらが正しいか断定する力量はありません。そこで、「これまでの定説である河本大作大佐が犯人としたら、…」、「一方、ソ連の情報機関の仕業であったとしたら…」、といった具合に両仮説を前提に論理を展開するしかありません。

しかし、歴史に詳しい方は「絶対に・・・・・である」というような強い主張をお持ちであるので、それに反する見解を述べようとすると、「勉強不足」とのお叱りを受けることになります。

本人が書いた手記は第一次情報なので正しいかと言えばそうではありません。自己評価によればりっぱな人物も、他の人から見ればそうでもないのです。たとえば、関東軍情報部長を歴任した土居明夫中将の手記などを見ると、辻正信大佐、服部卓四郎大佐などはかなり変わった人物と思っていまいます。しかし、第三者の手記を読むと、辻はさておき、服部は大変バランスの取れた好人物であり、むしろ変わり者は土居中将であったと評価されています。

手記は一般に脚色され、「自己を正当化し、仲が良い人は高く評価する」傾向にあります。これは歴史に限らず、現実の社会でもそうですが。

要するに、過去の歴史書も疑ってかからないといけません。権威ある歴史家の説が正しいとは限りません。だから、当時の状況や周辺環境を思い浮かべながら、自分が置かれている現実に照らして、「おそらく、こうだろう」という前提の下で論理を展開するほかないのです。

私の歴史との向き合い方は、真実を探求することではありません。歴史から現代の教訓を導き出すことです。他方、「真実を追求せずして、なんの教訓か!」という論理も正しいでしょう。しかし、結局、判断するだけの知見がない私には、これこれを前提とするならば、このような仮説が成立し得る、というような形でで教訓を導くしかないのです。

まあ、このようなこともあって、過去の日本軍のことや、中野学校のことを書くことに大変苦労しました。

新著ではとりわけ陸軍中野学校の精神教育に焦点を当てました。自分がたいして精神修養などしていないにもかかわらず、中野学校の精神教育や中野出身者の精神を語ったわけですから、誹りを受けるかもしれません。

昨今、少子化の趨勢の中で、良質な隊員を確保して、安全保障に万全を期すことは容易ではありません。当時も、陸軍は作戦重視であって、なかなか容易に良質な情報要員は確保できませんでした。そこに現代との類似性を見出し、教訓を得ようとしました。

陸軍中野学校の創設者たちは、陸軍士官学校出ではなく、一般大学出身者などに採用ターゲーットを絞りました。彼らの軍人に凝り固まらない自由で柔軟な発想力に期待したのです。しかし、一般社会で過ごした軍人らしからぬ彼らに、軍人さらに秘密戦士としての愛国心をいかに涵養するかが課題でした。彼らの精神性を高めたのが中野学校での精神教育でした。

今日、サイバー脅威などの高まりから、優秀なハッカーを国家や自衛隊で確保する試みが取り沙汰されています。愛国心なき諜報員は二重スパイという問題があるように、愛国心なきハッカーは困ります。彼らの愛国心、使命感、責任感はどのように涵養するのか、これも問題となってきます。その意味でも一度、中野学校でどのような精神教育が行われたのかを読んでいただきたいと思います。

情報分析官が見た陸軍中野学校(3/5)

中野学校の教育内容

▼中野学校の誤ったイメージは映画などが原因

 中野学校では、開錠法(鍵開け)、開封法(封書開け)、窃盗法などの秘密戦技術が重点的に教育されたとの認識があります。これを起点に中野学校は非合法な行為を行なう“スパイ組織”であったというイメージが蔓延し、戦後になって中野出身者が国家犯罪に関与したなどの根拠なき風説が流布されています。

 しかし、中野学校のこうした教育イメージは、1960年代に映画「007」シリーズが公開され、空前の“スパイブーム”が起きるなか、これに便乗するかのように映画『陸軍中野学校』が誇大宣伝的に放映されたことが大きく影響しています。

 この映画では、身分欺騙、金庫破り、殺人、誘拐などの“スパイ技術”を教育する場面が随所に描かれています。主人公の三好少尉が任務遂行のために、恋人を毒殺するシーンもあります。

 映画の中で、草薙中佐(後方勤務要員養成所の秋草所長がモデル)が「じゃあ、俺の中野学校で盗んでやろうか。英国(えいこく)の暗号コードブックを」と語る場面があります。中野学校生が訓練目的でこれに類する活動を行なったこともあるようですが、中野学校は諜報・謀略機関ではないので、このような事例は特殊なケースです。

 しかしながら、こうした観客の関心を引く物語が、中野学校を諜報・謀略などの秘密戦の実行機関であるかのような誤解を広めたことも事実です。

▼中野学校での将校教育では諜報・謀略技術は重視されなかった

 中野学校の創設時の目的は「替わらざる武官」の養成でありました。残念ながら、太平洋戦争が開始され、この目的は三期生までで潰えてしまいます。

 中野学校を創設して何をしようとしていていたのか、いかなる問題点を改善しようしたのかを明らかにするために創設期の教育内容を分析することが重要です。

 創設期の将校教育では諜報・謀略技術の教育は体験程度でした。二期生の原田統吉氏は次のように述べています。

「技術に関しては充分に習熟するというよりも、幅広く基礎をみっちりやっておくことに重点があったようである。将来どのような形で任務につくか予断し難い立場を考慮してのことであったらしい。何しろ苦力になるのか、一流商社マンに偽装するのか、外交官になるのか、全然見当もつかないのだから。

――その基礎さえあれば、その時必要なだけの技術は現場に即応してマスターできる能力はもっているはずだ、ということであったのだろう(そして現実に仕事を始めたときそれは全くそのとおりであった)。007的教育は、私の『中野』においては部外者が考えているほど、あまり大きな比重を持たなかったのである」(本書引用)

▼応用力、判断力などを重視

 では、どのような教育が重視されたのか、原田氏の回想をさらに見てみましょう。

 「講義は淡々と進み、やがて問題が出る。いつものことだ。『情況は本日の現状、駐ノルウェー武官としての状況判断及び処置如何』というのである。ドイツが『ノルウェー、デンマークに進駐した』ニュースが新聞に伝えられた直後である。与えられた時間は二十分。軍における情況判断というのは、単に情況の分析だけではない。相手の企図、実力及びそれに関連する一般条件を分析予測し、それを当方の企図から判断して、最後は『吾方は○○するを要す』という言葉で終る、主体的な意志決定直前の段階までの作業である。そして武官の処置とはこの場合、独立した秘密戦指導者の具体的行動を意味する」(本書引用)

つまり、中野学校の創設期が目指す教育は判断力や決断力の養成を重視する教育であり、今日の世間がイメージしている“スパイ教育”ではなかったのです。

▼自由で柔軟な思想を持った教育

もう少し、教育風景を眺めてみましょう。原田氏は次のように回想しています。

「秋草さんが、ある日数名の学生をつれてデパートに行き、屋上から地階まで各階毎に一時間ほどずつ、一日がかりで、目ぼしい商品や設備について、その歴史、生産、良否の見分け方、使用法等を全部専門的に説明し、その上秘密戦的利用法まで得意の話術で解説して見せ、ヘトヘトになって帰って来た学生に、レポートの提出を命じた、などという秋草伝説がある。やはり『中野』のあらゆるものを教師とする、万能人への志向を物語るものであろう」(本文抽出)

 万事を秘密戦の目的という視点から見る、そのうえで形にとらわれない自由で柔軟な教育、それが中野教育の魅力でした。これが中野出身者の自由で柔軟な発想力や想像力を育んだのです。

▼実戦的訓練の重視

 秘密戦は実戦でできなければ役には立ちません。そのため、中野学校では教育訓練の環境を限りなく実戦に近づけて、決断力(胆力)や行動力の涵養を重視しました。このため、陸軍省の建物や軍需工場に守衛などを欺き、こっそりと侵入するなど、犯罪紛(まが)いの訓練も実施されました。

 むろん、現代ではこのような訓練を行なうことはできません。しかし、中野学校では実戦的な教育訓練と行なうための工夫がありました。たとえば、上述の秋草所長によるデパートでの教育です。つまり、あらゆるものを秘密戦という目的意識をもって思考させ、特定の行動をとることで、法に触れずとも実戦力が養成されることを中野学校の教育から学ぶことができます。

 なお実戦とは必ずしも戦争を意味しなくてもかません。ビジネスの現場もいわば戦争であり、失敗が許されない緊張感の中で商談が行なわれます。そのような状況下で、正しい思考力や判断力、そして決断力がビジネスパーソンに求められます。しなやかで強靭なビジネスパーソンを育成する上でも、中野教育は我々に一つの視座を与えてくれるでしょう。

 私のような長年情報教育の現場に携わった者からすれば、中野教育から情報教育あるいは情報勤務者を育成する上でのヒントを汲み取ることは難しくありません。さらに、今日のグローバル化や、AIおよびICTの技術発展の中で、知識教育よりも創造的思考力、問題解決力、判断力と行動力などの重要性が高まっていることを踏まえるならば、中野教育は現代のさまざまな領域における人材育成上の羅針盤になると考えます。

それゆえに、人材教育に携わる方々にも、「しょせんわが国を誤った道に向かわせた旧陸軍の教育だ」とか忌避せずに、中野教育の優れた点にも注目してほしいのです。また、私は、先進的な中野教育の魅力も紹介したいのです。

 次回は中野学校での精神教育に焦点を当てます。

情報分析官が見た陸軍中野学校(2/5)

中野学校は秘密戦士を育成するために創設されものの、太平洋戦争開始によって、やむを得ず、遊撃戦士の教育も引き受けることになったことなどについて解説しました。今回は「秘密戦とは何か?」を焦点に、秘密戦と遊撃戦との違い、中野学校の創設の経緯や発展の歴史などを解説します。

▼秘密戦とは何か

  皆さんは「秘密戦」という言葉から、どのようなイメージを抱かれますか?

秘密戦の一般的なイメージは、開錠、開封、潜入といったスパイ技術、沖縄戦で行なわれた遊撃戦、登戸研究所(秘密戦研究所)による風船爆弾や偽札の製造、そして第731部隊が関与したとされる生物戦および化学戦などでしょうか。

 森村誠一の『悪魔の飽食』(光文社)の信憑性はともかく、そこに描かれる第731部隊の暴虐性には目をそらしたくなるものがあります。こうして、秘密戦とは絶対に許されない手段をもって、相手側の情報を盗んだり、目的達成の障害となる要人を暗殺したりなどする行為との印象が固まっているようにみられます。

 しかしながら、中野学校では太古の昔から行われてきた情報勤務を秘密戦と呼称しました。つまり、「従来いわゆる情報活動なり情報勤務といわれていた各種の業務、すなわち「諜報」「宣伝」「謀略」「防諜」を総括して、中野学校が創立後しばらくたった頃から「秘密戦」と呼ぶようになった。」(本書引用)のです。

 そして、陸軍や中野学校では秘密戦と遊撃戦を異なる概念として位置づけていました。遊撃戦とはゲリラ戦のことです。軍事行動に連携して、敵後方地域の重要目標などを襲撃、破壊などして、〝主〟である軍事行動の促進を企図します。

 他方、秘密戦は、平時と戦時の両期間、軍事行動とは独立して行われることが一般的です。つまり、軍隊以外の個人または集団が、我の状況を有利にするために、非戦場や一般社会で政治や外交の裏面でも広範多岐に行うことが多々あります。いうならば遊撃戦は「戦いに勝つ」を目的とするが、秘密戦は「戦わずして勝つ」ことを目的とします。

▼中野学校はなぜ創設されたのか?

 第一次世界大戦は総力戦となり、その一つである秘密戦が重視されました。しかし、軍備縮小の世界的趨勢の中で、わが国では総力戦思想は陸軍内の一部に閉塞され、秘密戦を本格的に研究する状況は生まれませんでした。

 1930年代から満州事変へと突入し、ソ連と直接国境を対峙する中、わが国の諜報活動はソ連の鉄壁の防諜態勢により行き詰まります。1936年からの支那事変では、伝統的な「支那通」による和解工作が展開されるものの、ことごとく失敗に帰し、戦争は泥沼化していきます。

 さらに日本国内では共産主義が浸透していきます。2.26事件にも共産主義が影響したとの見方があります。

 こうした中、関東軍やソ連を担任する陸軍参謀本部第5課(ロシア課)では情報活動、すなわち秘密戦を強化すべきとの意識が高まります。また陸軍省軍務局では国内防諜態勢の強化が高まります。そして、防諜態勢を一歩推し進めた対外秘密戦の機能を強化しようとの要請が高まります。これが秘密戦士を育成する学校である中野学校の創設に繋がります。

 しかし、同校の創設に反対する勢力も多々ありました。英米課や支那課が反対の急先鋒だったとされます。中野学校は当初、「替わらざる武官」を養成しようとしたので、陸士出身者で固められていた駐在武官のポストが奪われるかもしれないという危惧もありました。

 だから当初は「後方勤務要員養成所」という名前で、九段下の愛国婦人会別館での仮宿での〝寺小屋方式〟の教育から第1期生に対する教育が開始されました。太平洋戦争が始まる3年以上前の1938年7月のことです。

▼なぜ秘密戦から遊撃戦へ移行したのか?

 中野学校は「替わらざる武官」の要請を目的に、幹部だけの第一期生19人が入校しました。1939年4月、旧電信隊跡地の中野区囲町に移転し、施設は拡充されます。同年12月入校の二期生からは幹部学生が110人に増え、これに加えて優秀な下士官候補生から選抜された52人が入所しました。これは刻一刻と英米との戦争に向かう日本の状況を反映したものであり、早急な秘密戦対応が必要となったからです。

 1940年8月、「後方勤務要員養成所」は陸軍大臣直轄の学校として、名称も「陸軍中野学校」に変更され、施設や教育内容が急速に整備され、当初の私塾的な体裁から変わっていきます。同時に、中野学校の教育は、「秘密戦を諜報、宣伝、防諜、謀略と定義することとし、防諜については従来の軍機保護法的な考え方から進んで敵の諜報、謀略企図を探知することは固より、敵の企図を逆用する所謂反間謀略業務を重視することとした。占領地行政は秘密戦ではないが、特に陸軍省の要請があったので教育課程に加えた」(本書引用)のです。

 1941年12月から太平洋戦争が開始されます。最初は連戦連勝の勢いでしたが、1942年のミッドウェー海戦とガダルカナル島の戦いを経て、日本は攻勢から守勢に転換し、陸軍参謀本部は遊撃戦(ゲリラ戦)の展開に踏み切ります。

 これにともない、長期勤務する秘密戦士を養成することを目的として創設された中野学校は遊撃戦士の教育へと軸足を移していきます。1943年8月、陸軍参謀本部は中野学校に「遊撃戦戦闘教令(案)」の起案と遊撃戦幹部要員の教育を命じ、本教令(案)は44年1月に作成配布されました。1944年8月、静岡県磐田郡に遊撃戦幹部を養成する二俣分校が創設され、第一期生226人が尉官学生(見習士官)として9月に入校、約3か月の教育が行なわれました。この中に小野田寛郎がいました。

 他方で本校はそのまま存続して、1945年4月に群馬県富岡に疎開します。このように中野学校は本校と分校の二つに分かれましたが、秘密戦の教育はずっと続けられました。

▼小野田少尉が世間に与えた印象は誤り

 今日では、小野田少尉が世間に与えた印象をもって中野学校そのものであるかのように認識されがちですが、そうした風潮は正しくありません。

 中野学校が遊撃戦教育を引き受けた経緯について、中野出身者の桑原武(戦後は自衛隊陸将補)は戦後の講演で以下のように述べています。

「思うに、陸軍においては一般情報勤務と秘密戦勤務を教える二本立ての学校が本来必要であったのに、最初にできたのが中野学校であったので、戦争に際会して一般情報勤務教育(ママ)の必要に迫られ、中野でこれをやろうということになったのだと思う。しかし、両者は別々にやるのが適当であろうと信ずる。

 こういう所見を鈴木さん(筆者注、研究部長の鈴木中佐)が入れております。このようにして、今申し上げたように遊撃戦ということが昭和十八年の暮れから十九年の春にかけて非常にやかましく、遊撃戦、遊撃戦といいだして、結局中野学校で遊撃戦をやることになりました。しかしあの東京の真ん中の中野では、とても遊撃戦の訓練などできませんので、分校をつくれということで、二俣分校というのができたわけです」(本書抜粋)

 今日、中野学校は沖縄戦での遊撃戦を行った主体組織であるかのように認識されています。しかし、実態は中野学校は止む得ずに秘密戦の教育を引き受けたのであり、しかもその教育は3か月の基礎教育に過ぎませんでした。また、正確を期すならば、中野学校が遊撃戦を実行したのではなく、その実行はあくまでも現地軍(沖縄では第32軍)が行ったのです。