中露は同盟に向かうのか!

はじめに

最近、中露関係が緊密化し、中露が同盟を結ぶのではないかと、 騒がれています。  

10月29日の共同通信は、「ロシアが中国に対し、ミサイル攻撃の早期警戒システムの構築を支援していることが判明、両国 が事実上の軍事同盟締結を検討しているとの見方が強まっている。 (中略)両国が同盟関係を結べば北東アジアで日米韓との対立が 深まり、日本との関係にも影響が出るのは必至」などと報じてい ます。  

今年6月、中露両国は「包括的・戦略的協力パートナーシップ」 を発展させることで合意しました。これについて表向きには「同盟ではなく、対立もせず、第三国を標的にしない新しいタイプの国家関係」と説明しましたが、一方で中露関係の専門家であるロ シア国立高等経済学院のマスロフ教授は、「両国指導部は軍事同 盟締結の方針を決定済みだ」と発言しています。  

さて、中露は今どうなっているのか、これからどうなるのでし ょうか?  これついて、11月11日発売の週刊『プレイボーイ』に、筆者と米海軍系シンクタンクで戦略アドバイザーを務める北村淳氏 が解説していますので、よろしければご覧ください。

私は、この記事のなかでも述べましたが、「同盟か、同盟でないか」を論じることよりも、現実の中露がどのような連携にあるかを見ることの方が重要だと考えています。

そこで、これまでの中露の簡単な関係と、最近の連携状況を整理しておきます。以下、現状、経緯、親密度(内面的な不信感)などに分けて述べます。

(1) 現状

まず現状を政治、経済、軍事に分けて概観します。

ア 政 治

プーチン大統領と習近平主席は、すでに20回以上の首脳会談を行っています。米中首脳会談よりも常に米露首脳会談が優位(頻度、米中首脳会談に先行)になるよう歴史的にも配慮されてきました。

たとえば、2019年6月、米中首脳会談の開催(6月29日)前に習主席は先に訪露して、北朝鮮の非核化(平和的な解決)、軍縮分野での協力、保護主義の高まりに対抗する考えを表明しました。つまり、中露は「国連を中心とする国際体制を断固として守る」として通商問題で対立するトランプ政権を牽制し、イランに対する米国の一方的な制裁への反対を表明しました。

こうした一方、中露双方ともに米国との戦略関係の構築についても重視しています。双方ともに米国を刺激しないで、自らの核心的利益を守る、そのために中露は連携しています。

 経 済

ロシアにとっては中国は圧倒的に重要ですが、中国にとってはロシアはさほど重要でないとみられています(貿易では中国はロシアの第1位,中国にはとってロシアは10位以下)。 とくにロシアは2014年以降、G8から経済制裁を受けているので、中国との経済的な連携が重要になっています。

中国の経済力は世界第2位ですが、ロシアは世界のトップ10にも入りません。中国の経済力はロシアの6倍です。

だからロシアの中国への経済的な依存が進展しています。ロシアが天然ガスや石油などを買ってくれ、中国もエネルギー輸入の多角化から、ロシアとの経済関係を維持することは都合がよいという関係です。

つまり、中国は経済原則にあえぐロシアを政治的に引き付けようとして、ロシア原油を積極的買い入れているのです[1]。最近では中国はロシア製の大豆、鶏肉も購入する計画を示し、ロシアの歓心を得ています。

中国としては、「一帯一路」の推進、米中貿易戦争といった現状の中で対米牽制のためにロシアとの戦略的な協調を重視している。その手段として経済という牌を使っているということだと思います。

しかしながら、中露の経済関係に問題がない訳ではありません。中国の企業も欧米企業との関係から、ロシアへの取引に応じないこともありますし、ロシアに対する直接投資も不十分、中央アジアにおけるロシアの経済的権益を中国が奪うなどの情況が見られています。

この点は、「後進国が先進国に不平・不満を言うが、でもその依存から脱却できない」といった状況とよく似ています。

ウ 軍 事

(ア)条約等

中露は2001年「善隣友好協力条約」[2]を締結しています。

この条約は、旧条約のように「共同防衛」については規定していませんが、第9条で「一方が侵略の脅威などを認識した場合には、双方はその脅威を除去するために協議する」ことが定められており、軍事同盟的な性格をも一部に有していると言えます。

2019年7月、中国は新たな軍事協力協定を締結したとされます。その内容は明らかにされていませんが、軍艦の寄港、士官学校学生の相互派遣などではないかとみられています。さらには軍事秘密情報の共有、合同軍事演習に関する規定が盛り込まれている可能性もあります。

最近、INF全廃条約の破棄が決定された後の、中露による共同巡回飛行の実施(後述)などから、中露が安全保障上の連携を強化する必要性から新軍事協定を締結した可能性があります。

(イ)2019年版中国国防白書における注目点

本年7月24日、中国は4年振りの国防白書(2019年版中国国防白書)を発表しました[3]

そこで中国は「世界の安定を損ねている」と米国を名指しで批判し、米国と国際社会を対立せる構図を描き、その中で他国との連携強化を図る方向性示しています。

台湾に関しては「中国の分裂を狙ういかなる勢力も絶対に許さない」「台湾を巡っても統一のため「武力の使用を放棄しない」と主張しました。

米軍艦船の台湾海峡通過などに不快感を示し、南シナ海での人工島建設 や、東シナ海の尖閣諸島周辺の艦船航行は「法に基づく国家主権の行使だ」と明示しました。

こうした海洋正面での米中の軋轢が上昇しているといった文脈のなかで、中国はロシアとは共同軍事訓練や高官の往来などで連携を強める方針をわざわざ明記したのです。これは、我の核心的利益に米国が介入してくるならば中露の連携を強化するぞ、との政治メッセージでもあります。

(ウ)共同訓練等の実施

▼上海協力機構の枠組みでの対テロ演習

中露は2005年8月、上海協力機構の枠組みで初の中露共同軍事演習「平和の使命2005」を開催しました[4]。その後、対テロ演習を名目とした「平和の使命」演習を継続的に実施しています。。

2018年にロシアで実施された「平和の使命2018」では、中国、ロシア、カザフスタン、タジキスタン、キルギスタン、インド、パキスタンで、ウズベキスタン(オブザーバー)が参加しました。中国は700人ほど派遣しました。SCOに新たに加盟したインドとパキスタンが軍隊派遣しました。これは印パ両国の独立後初となる軍事演習の同時参加とあって広く外部の注目を集めました。

「海上協力」演習

2012年からは、中露の2国間での海上での共同演習(「海上協力」演習[5])を毎年実施しています。

その内容は次第に展示的から実戦的に進化し、演習実施地域には両国にとって政治的に機微な地域(南シナ海や東シナ海、黒海、地中海など)が選ばれるようになっています(下記)。

2013年の「海上協力2013」は、中露の共同演習がはじめて日本海側で実施されました。

2016年の「海上協力2016」は中露の海兵隊による初めて共同での島嶼奪還に関する演連が行われました。これは、東シナ海、南シナ海問題などで対立する米国をけん制する狙いがみられました。

本年の「海上協力 2019」では、初めての共同による地対空ミサイルの実弾発射と、複雑な状況下での対潜戦(ASW)の訓練を行ったとされます。

「海上協力」演習の実施地域

海上協力2012 2014年4月 山東省青島付近の黄海
海上協力2013 2013年 7 月 ウラジオストク沖の日本海
海上協力2014 2014年 5 月 上海沖の東シナ海
海上協力2015(Ⅰ) 2015年 5 月 地中海東部
海上協力2015(Ⅱ) 2015年 8 月 日本海の海空域
海上協力2016 2016年9月 南シナ海
海上協力2017 2017年9月 バルト海
海上協力2018 2018年10月 南シナ海の広東州湛江
海上協力2019 2019年4月~5月 山東省青島

▼共同巡回飛行の実施

国防白書におけるロシアとの軍事訓練の強化を裏付ける形で、白書発表 の前日の7月23日、中露は両軍機によるアジア太平洋地域での初めての共同巡回飛行を行いました。

これは、中露軍爆撃機(中国軍のH6爆撃機×2機と露軍のTU95爆撃機×2機)の飛行を露軍のA50空中警戒管制機×1機と中国軍のKJ-2000空中官制機×1が共同して支援するというものだったようです[6]

韓国側によれば、露軍のA50空中警戒管制機1機が竹島(島根県隠岐の島町)上空を2回にわたり領空侵犯したとされ、中露軍爆撃機(中国軍のH6爆撃機×2機と露軍のTU95爆撃機×2機)[7]は韓国の防空識別圏(ADIZ)内に侵入しました。

これは、日韓関係が停滞しているなか、日米同盟や米韓同目の機能を探る意図があったとみられます。

中露双方ともにA50に触れず、爆撃機の行動は正常な訓練活動である旨を主張しました。

中国国防省の呉謙報道官は24日の記者会見で「中ロは互いの核心的利益を支持し実戦を想定した訓練で協力を深める」と話しました。

また、呉報道官は今回の警戒監視活動の目的を、中ロの包括的な戦略的協力関係を深め、両国軍の合同作戦能力を高めるとともに「世界の戦略的安定性を共に守る」ことだと説明。6月の中露双方による「包括的・戦略的協力パートナーシップ」の発展の実態を具体的な行動をもって示したと言えます。

他方、「今回の作戦は中露両軍の年次協力計画に沿ったもので、第三者を標的としたものではない」と述べ、無用な詮索はするなとばかり、自らに対する批判の排除と、自らの行動の正当性を喧伝しました。

軍事的には、中露双方が宇宙や地上にあるセンサーから得たデータを共通のネットワークを通じて共有するという性格のものであり、今後は爆撃機、戦闘機、戦艦や潜水艇も含んだより大きなバトルフォーメーションの実現を予見させます。

またわが国視点では、中露爆撃機の双方2機が竹島周辺の上空で合流し、さらに編隊を組み対馬海峡上空を抜けて東シナ海に入った後、尖閣諸島に向けて針路を取り、尖閣上空において領空侵犯ぎりぎりの行動を取ったとされる[8]ことが注目されます。

日本政府内には「中露が連携し、竹島と尖閣諸島という日本の領土2カ 所に連続して挑戦してきた」(防衛省関係者)との分析もあるようです。(2019.9.28 『産経新聞』)

▼中国がロシアの演習に参加

中国軍は2018年にロシアが実施する演習に初参加し、2019年にもこれを継続したことは新たな変化として注目されます。

018年の「ヴォストーク(東方)2018」はソ連崩壊後のロシアが実施した演習としては過去最大規模となりました[9]。これに対して中国軍が初参加しました。参加兵力自体は演習全体の規模から見てさほど大きなものとはいえませんが[10]、それでも中国が外国に送った陸軍の中では最大規模です。

もともと、この演習は対中戦争演習と対日米戦争演習2本立てで構成される演習であり、中国は仮想敵として扱われてきたので、それまでの仮想敵国が「友軍」として扱われるようになったこと意味したと受け止められ、国際社会に重大なインパクトを与えました。

ロシア軍は演習に先立って北方領土の択捉島に戦闘機や攻撃機を初配備していたほか、「ヴォストーク2018」の準備演習(8月20日~25日)には国後島のラグンノエ演習場が演習エリアに含まれていましたが、結局、演習本番では北方領土はエリアに含まれませんでした。これは、ロシアの対日配慮が影響した可能性が考えられます。

2019年の「ツェントル(中央)2019」にも中国軍は参加し、2年連続で中露の軍事的連携を誇示した。なお、この演習には中露が主導する上海協力機構(SCO)加盟国のインドやパキスタン、中央アジア諸国も参加しました。

中露は安全保障や貿易問題をめぐり米国と対立を深めています。自国が大 きな影響力を持つ国際的枠組みで合同軍事演習を行うことで、結束力を大きくして米国をけん制する意図を示したとみられます。

(エ)武器輸出

1990年代からロシアから中国に対する武器輸出が行われています。ロシアからSu-27、Su-30戦闘機、キロ級潜水艦、ソブレメンヌイ級駆逐艦等の新型兵器を輸入しました。中国の軍近代化はロシアからの武器輸出に支えられてきたと言っても過言でありません[11]

 ロシアは従来からインドに対して中国よりもワンランク上の武器を輸出していました。またかつてロシア製兵器の違法コピー問題(たとえばロシアのSu-27SK戦闘機を中国がJ-11Bとして勝手にコピー・改良した事案)ことから両国間に武器輸出をめぐる軋轢も生じ、一時的にロシアから中国への武器輸出が停滞したこともありました。

しかし、2014年のロシアのクリミヤ併合以降、ロシアは中国に最先端兵器の超長距離ミサイルS-400と第5世代戦闘機Su-35を売却を開始するなど[12]、両国の軍需産業間の関係は良好です。ロシアの軍需産業は中国製兵器の開発・設計に関しても幅広い協力を行っています。

なお、ロシアから中国に対する最先端技術が解禁なっている要因の一つには、ロシアが輸出を禁止しても、ウクライナが中国に最先端技術を中国に輸出するということも挙げられます。

(2)経 緯

▼ 冷戦期の当初は友好、のちに中ソ対立へと発展

中国は建国(1949年10月)翌年の1950年2月に当時ソ連と「中ソ友好同盟相互援助条約」[13]を締結(80年に失効)します。この条約では日本を仮想敵国と名指していますが、実質的には日本の米軍基地を共同で攻撃する、すなわち真の仮想敵国が米国であったことは疑う余地もないことです。

中露は1950年代半ばからのイデオロギー対立や、同年代末にソ連が原爆供与に関する対中協力を放棄[14]したことから、両国関係は悪化に向かいます。1962年の中印紛争でソ連がインドに武器援助を行ったことから両国関係は緊張化し、1969年には国境問題をめぐってウスリー江のダマンスキー島(珍宝島)で武力衝突に至りました。

1970年代に入ると中国は米国に接近します。一方の中ソ関係は停滞し たままで、1980年には中国が一方的に条約を更新しないことを通告[15]して「中ソ友好同盟相互援助条約」が失効します。

▼ ポスト冷戦で中露は最接近

1980年代に入り、改革開放政策を重視する中国はソ連との関係回復に着手します。冷戦末期の1989年5月、ゴルバチョフ大統領の訪中によって中ソ関係は約30年振りに正常化されます。一方、中露双方は米国とも経済発展を重視する関係から比較的に良好な関係を維持します。

ポスト冷戦期においては、中国がより積極的に対露関係の強化を図りました。1989年に天安門事件が生起しますが、中国が天安門事件の背後で米国が画策していたと見なします。また米国が対中経済制裁を主導したことから、中国は米国への警戒感を強めます。

1990年代に入り、湾岸戦争(1991年)、台湾海峡危機(1996年)などにより、中国は米国の一強支配(覇権主義)を警戒します。

こうした米中関係の悪化とのバランスで、中国によるソ連(ロシア)に対する接近政策が開始されることになります。

中国はロシアとの戦略的パートナーシップ(1996.4)を確立し、ロシアから最新武器を購入して、軍の近代化をはかります。ただし、中国は米国との関係も悪化しないよう米国との戦略関係にも配慮しました。

2001年、中露は善隣友好協力条約を締結し、以後両国は頻繁に首脳会談を開催し、新条約を実現するための「共同声明」の調印や「行動計画」の承認等を行いました。しかし中露は双方ともに米国への配慮から、米国を刺激しないように関係強化には慎重でした。

2001年の「9.11事件」では、中露双方ともに対テロで米国との協調関係に配慮します。

▼ カラー革命が中露の関係強化を促進

米露関係および中露関係における最初の変化の兆しは2003年頃だとみられます。2003年にグルジアに端を発するカラー革命[16]により、ロシア周辺の3か国では親ロシア系指導者が次々と欧米系に代わるという事態が生起します。ロシアはその背後における米国の介在を強く意識します。

他方の中国も中央アジアのトルコ系民族と繋がる新疆ウイグル自治区を有している関係から、民主化ドミノの阻止を狙って中央アジアにおける米国の影響力を排除する必要がありました。ここに両者の利害が一致したとみられ、その結果、中露関係は大きく前進します。

まず長年の課題であった国境画定は、2005年に完全決着します[17]

全般的な両国関係の前進とあいまって、軍事交流も急速に進展し、定期的な防衛首脳クラスなどの往来に加えて、ロシアから中国への最新兵器の輸出が加速されました。

中露両国の「反米統一戦線」の形成は、「上海協力機構(SCO)」[18]の枠組みで、中央アジアを包摂する形で展開されていきます。

2005年7月のSCO首脳会議(アスタナ会議)では、米国によるSCOへのオブザーバー参加を拒否し、キルギスから米軍の撤退を求める方向を明確に打ち出しました。さらに、イラン、インド、パキスタンのオブザーバー参加を認めました。同年8月には初の中露共同軍事演習「平和の使命2005」が開催されました(先述)。

2010年から2012年にかけて「アラブの春」という民主化運動が起こりますが、中国とロシアは共にその波及を強く警戒するとともに、背後に米国が介在しているとみなします。

このように、中露は米国主導の民主化から自国の統治体制を維持するた めには相互連携することが有利であることを強く認識しています。

▼日米との軋轢増大が中露関係を強化

2008年に中国の胡錦濤政権は増大する経済力は背景により積極的な対外戦略方針に転換します。(韜光養晦(とうこうようかい)、有所作為→堅持韜光養晦積極有所作為)

この後、アデン湾への海軍派遣などさまざまな海外活動に従事します。また、南シナ海や東シナ海での権益擁護活動や遠洋軍人訓練を活発化させます。

この文脈において、2010年9月の尖閣諸島領海内での中国漁船衝突、2012年9月のわが国による尖閣諸島国有化などにより、日中関係は緊張化します。

こうしたなか、2012年から中露両国は海軍による初の二国間合同軍事演習(「海上協力2012」)を開始したわけです。

この演習は明らかに中国による反日米統一戦線へのロシアの取り込みの様相が見られました。同演習の実施に先立ち、中国はこれを日本海上で行うとか、中露艦隊が合同で対馬海峡を抜けるのだといった「中露連携」を強く打ちだそうとし、メディアでもこれを喧伝しました。

しかし、ロシアはこうした中国の動きには乗らず、結果的に実施場所は黄海に決定されました。

翌年の「海上協力2013」演習も、中国メディアは、中露が日本海の真ん中で演習を行うような報道を繰り返しました。しかし、実際の実施エリアはウラジオストク沖のピョートル大帝湾というごく狭い範囲に限定され、日本の排他的経済水域にはみださないように配慮されたほか、訓練内容もごく限定的なものとなりました。

つまり、中国は政治的に中露連携を強く模索したが、一方のロシアは米国や日本との関係に配慮して冷静に対処したというわけです[19]

ウクライナ危機以降、中露関係はワンステージアップ

中露関係が明らかにワンランクアップしたのは2014年から2015年のウクライナ危機が契機になったとみられます。

ロシアがクリミアを併合したことに対して、欧米は連携してロシアをG8から除外して経済制裁を発動しました。これに対してロシアは中国と連携し、日本に対しては北方領土問題という〝餌〟で揺さぶりをかけるという目論みに出ます。

中国はロシアのクリミア併合を表立っては承認せず、ロシアとの交渉ではロシアを支持し、経済制裁の発動には応じませんでした。ここには、国際社会を敵に回したくないという中国のしたたかさが垣間見られました。

他方の中国も2013年頃以降から中国の南シナ海における人工島の埋め立てを開始します。これに対して米国が2015年10月に「航行の自由作戦」を展開します。さらに、2017年には英国、2018年にフランスが南シナ海での「航行の自由」作戦に参加し、本年も米国は「航行の自由作戦」を行っています。

2016年7月に仲裁裁判所が南シナ海における中国の主張を退けます。これに対して、日本は関係国などと共に中国に対し「国際法を守るよう」主張しますが、中国は日本の行動を内政干渉と一蹴し、日本がもっとも挑発的であると批判しました。

このように、ロシアが国際的孤立を強めたことで中国への接近をもたらし、中国は南シナ海での人工島作成後の西側と対立するというなかで、急速な露中接近が軍事協力の面を中心に起こったみられます。

(3)現在の「親密度」

上述のように、中露関係は2014年のウクライナ危機、2015年頃からの南シナ海における米中対立を契機に、中露の連携度は確実に高まっています。

しかしながら、親密度は表面的な連携だけではなかなか測れません。国民心理、信頼感情など表に出ない要素の検討が重要になってきます。

この点を踏まえれば、中露関係はよく「離婚なき便宜的結婚」といわれます。つまり、双方に根深い不信感があるものの打算的利害によって成り立っているので離婚はしない。しかし、相互に不信感がある以上、かつてのようなラブラブな同盟関係には至らないというわけです。

そもそも中露は共に核を保有する超大国であって、長大な国境を接しています。互いに安全保障上の懸念があるから、中露国境沿いに軍事力を配備して睨みをきかしています。

双方にとっての戦略拠点である中央アジア、北極海航路をめぐる縄張り争いもありますし、極東に住むロシア人の人口に対して、隣接する中国東北部の人口は膨大であり、出稼ぎなどを通じた“占領”状態が起きています。

ロシアには、かつては共産主義国家の兄弟国の兄として中国を指導しましたが現在では経済的に完全に逆転され、そのプライドが傷つきました。

このようなことから、ロシアは中国に対する根深い警戒感を払拭することができません。だから、これまではインドに対して中国以上のハイスペックな兵器を輸出するなど、インドとの戦略関係を重視して中国を牽制しました。つまり、中国の軍事力をインド正面に貼り付けることで自らの軍事的圧力を牽制する狙いがあったと見られます。

こうしたやり方に対して、中国も同様にロシアに対する警戒感を緩めてはいません。

以上のことは中露関係を分析する上で十分に考慮すべき要因ですが、ただし、内面的な相互不信感などいうものは外部からは、その変化が容易に判断できないため、おうおうにして誤った判断をすることになります。

だから、まずは目に見える形で中露の連携が強化されているという事実は、しつかりと押さえておくことが重要です。


[1] 2018年度の両国の貿易日24.5%増の1080億ドル(約11兆6600億)と過去最高を記録した。

[2] 2001年7月16日、江沢民国家主席(当時)とプーチン大統領とのクレムリン首脳会談において調印。1950年2月に調印された「中ソ友好同盟相互援助」にかわる中露間の新たな条約で02年から発効。新条約の有効期間は20年。でその後、どちらかが効力停止通告をしない限り、条約は5年毎に自動更新。新条約は全25条の条文からなり、政治、経済、外交などの幅広い分野での中露間の協力強化を謳っているほか、軍事面では、相互に核兵器を先制使用せず戦略核ミサイルの照準を合わせないこと、国境地域の軍事分野における信頼および相互兵力削減を強化すること、軍事技術協力を促進することなどが明記されている。第5条でロシア側による「一つの中国」原則の支持および「台湾独立」への反対が明記されている。

[3] 領土・領海については周辺国に譲歩しない姿勢で、南シナ海の諸島や沖縄県・尖閣諸島(中国名・釣魚島)は「中国固有の領土だ」と強調した。台湾を巡っても統一のため「武力の使用を放棄しない」と主張した。

[4] 中国この演習を台湾海峡に近い浙江省で実施し、台湾問題でロシアを自国の側に引き込みたかったと言われる。これに対してロシア側は内陸部の新疆ウイグル自治区での実施を主張し、最終的に山東半島が実施場所に決まった。この演習は実質的な内容に乏しい政治的ショーであるという評価が大半を占めた。

[5] 中国名で「海上連合」、日本では「海上協力」あるいは「海上連携」と翻訳されている。

[6] 両空中官制機ともロシアのイリューシンIL−76MD輸送機の派生版。

[7] Tu-95は通常、射程距離3000kmから4000kmのKh-101/102対地攻撃型巡航ミサイル(LACM)8基を搭載。これに対してH-6Kは射程距離2000kmのCJ-20対地攻撃型巡航ミサイル6基を搭載。両方のミサイルとも核弾頭を搭載可能。

[8] 「2019年版中国国防白書」では、領土・領海については周辺国に譲歩しない姿勢で、南シナ海の諸島や沖縄県・尖閣諸島(中国名・釣魚島)は「中国固有の領土だ」と強調した。台湾を巡っても統一のため「武力の使用を放棄しない」と主張した。

[9] 参加兵力は合計29万7000人、戦車を含む装甲戦闘車両約3万6000両、航空機約1000機、艦艇約80隻が動員されたという。これまでにロシア軍が実施した最大規模であったのは15万5000人を動員した「ヴォストーク2014」。ソ連時代まで遡っても1981年の「ザーパド81」以来の規模。ロシア軍の総兵力は定数101万3000人、実数は95万人以下と見られているので、総兵力の3分の1程度が参加した計算になる。

[10] 中国からの参加兵力は人員約3,200人、装備品約900点、固定翼機・ヘリコプター約30機とされる。

[11]  スウェーデンのストックホルム国際平和研究所(SIPRI)によれば、2000年から2017年にかけて中国に輸出されたロシア製兵器は約278億ドル(3兆円以上)にも上る。

[12]  2018年10月にはSU-35の追加購入が決定

[13] 本条約は前文と6か条からなり、日本および日本に同盟する国の侵略を共同で阻止する(第1条)、対日全面講和の促進(第2条)、相手国に反対する同盟・集団行動・措置への不参加(第3条)、重要な国際問題の協議(第4条)、経済・文化協力の強化(第5条)、条約の有効期間30年(第6条)などを規定している。付属協定では、中ソ共同管理の中国長春鉄道、旅順(りょじゅん/リュイシュン)・大連(だいれん/ターリエン)の海運基地の早期返還、および3億ドルの対中国経済援助を約束している。交換公文は、旧条約の失効、モンゴルの独立の再確認を明記している。

[14] 中ソ間の国防用新技術協定を破棄

[15] 中ソ対立、米中および日中国交正常化などにより有名無実化し、条約の期限切れ1年前の1979年、中国がソ連に満期後の条約廃棄を通告し、1980年4月に30年間の期間切れと同時に廃棄された。

[16] 2003年のグルジア(ジョージア)での「バラ革命」、2004年のウクライナでの「オレンジ革命」、そして2005年のキルギスでの「チューリップ革命」を指す。

[17] 2004年10月のプーチン訪中により中露国境の未画定部分について最終的に確定するための追加協定が署名され、2005年6月には追加協定の批准文書を交換した。

[18] ロシア、中国、カザフスタン、キルギス、タジキスタン、ウズベキスタン、インド、パキスタンの8カ国の協力機構。オブザーバー国はアフガニスタン、ベラルーシ、イラン、モンゴル。1996年の上海ファイブが前身。2001年6月にウズベキスタンが加わり、上海協力機構に格上げ。2001年の米同時多発テロで米ロは一時的に接近するが、2003年のイラク戦争とその後のカラー革命を経て米国との対立基調が鮮明になる。

[19] 当時、ロシアは中国との連携を強化しつつも、アジア・太平洋地域の安全歩保障へのコミットメントを同時に強化しており、米国との二国間合同海上演習や、米国主催の環太平洋多国間演習RIMPACへの初参加(2012年)、日米韓への艦艇の寄港、日米露安全保障有識者対話(毎年)といったイニシアティブを次々と打ち出していた。

わが国の情報史(44)  秘密戦と陸軍中野学校(その6)   陸軍中野学校における教育の温度差     

▼講義内容がテンデバラバラ?  

 中野学校での教育について、乙Ⅰ長期(2期生)原田統吉氏は、 『風と雲 最後の諜報将校』において、「最初に奇妙に感じた ことは、それそれぞれの講義の内容がテンデバラバラであること だ」と述べ、次のような事例を挙げている。  

 少し、長文になるが引用したい。

  「当時参謀本部の英米課の課長の杉田参謀が(筆者注:杉田一次、  すぎたいちじ、陸士37期・陸大44期。最終階級は帝国陸軍では陸軍大佐、陸自では陸上幕僚長を歴任。当時杉田氏は少佐 に昇任したばかりであるので単なる部員)、その『英米事情』 の最初の講義の時間に、英米に対する意見をワラ半紙に書かせて、生徒全員から徴収したことがあった。 これは試験などというものではなく、教官が生徒の理解や知識 の程度を掴むための参考にするデータであって、これによって 教官は講話の内容を決めたものらしい。 甲谷さん(筆者注:甲谷悦男、こうたにえつお、陸軍大佐、陸 士35期、参謀本部ソ連課参謀、ソ連大使館付武官輔、大本営戦争指導課長、ドイツ大使館付武官輔佐官、戦後は公安調査庁参事官やKDK研究所長)などは、『ソ連要人の名前を知っているだけ書け』というような問題を出し、その場でめくって見て『うん、去年の連中よりはよく知っているな……』と軽く言  い放って、講義をはじめたものである。 しかし杉田さんの場合は違っていた。見終ると、T学生を指名して、『君の英米に対する認識および判断の理由は?』と聞く。  Tがその前日、支那事情の教官から受けた講義の線に沿って説明すると、非常に不機嫌になり、他の二、三の学生にもそれと同様の質問をし、同じような答えが返って来ると益々不機嫌になり、多少の論争の後、『本日はこれで終わる』と帰ってしま った。 まだ稚(おさな)かったわれわれは軍の画一主義から抜け出しておらず、しかも参謀本部ともあろうものは、一つの認識と一つの意志とに統一されているべきものだと思っていたのだ。 要するに『諸悪の根源は英米にして、英米やがて討つべし』という先日の教官の意見は、われわれに無批判に受け入れられていたのである。 ところが、杉田参謀はその後一度も講義に来ないのである。多少の誤解もあったのだが、『あのような、単純な反英米的教育が行われているところへ講義に行っても無駄だ…』というのが理由であったらしい。杉田さんというのは後年、自衛隊の陸幕長をつとめた杉田一次氏である。  このように、実に多様の、食い違い、相反する認識と意見が、そこの教壇ではそれぞれ強い情熱とともに語られ、われわれは新しい学び方を急速に身につけなければならなかった。 この学校の最も中心的なテーマである『情報』ということば一つにしても、各人各様の解釈があつたのである」

▼杉田参謀の心中は?  

 原田氏の発言は当時の陸軍参謀部内の情勢認識や戦略判断の相 違を裏付けるものとして興味深い。 杉田氏は戦後になって『情報なき戦争指導─大本営情報参謀の 回想』を著すが、同書では、大本営(陸軍参謀本部)で仕えた1 1人の第2部長の各時代における情報活動が描かれるとともに、 当時の国家の情勢認識や戦略判断が詳細に述べられている。

 杉田氏は米国駐在経験が豊富な知米派であって、米国の国力な どを認識していたから対米戦争絶対回避の立場をとっていた。彼 は、親独派の陸軍高官や松岡外相などが日独伊三国同盟にひた走 り、それがわが国を対米英決戦へと駆り立てたとの批判的な見方 も示している。  

 海軍の山本五十六連合艦隊司令長官については、「表面的には対米戦争回避を主張するも、その実態は真珠湾の先制攻撃がやりたく て仕方なかった」というようなトーンで、その人物像を描いてい る。  

 かいつまんで言えば、杉田氏は、米国との戦争の蓋然性が高く なっても、参謀本部第2部長には米国を知らない親独派がずっと就任し、こうした歪められた恣意的な人事が、正しい情報認識を阻害し、米国との戦争に突き進んだ原因である旨を主張しているのであ る。  

 このような杉田氏であったから、前出の中野学校での講義にお ける学生の応答に対し、激しい嫌悪感あるいは諦念感を抱いたの であろう。決して、「一つの意見や情報を無批判に受け入れるな」 との、学生に対する印象教育が狙いではない。  

 原田氏は「この道においては、すべてが参考に過ぎない。自分で考え、自分で編みだし、自分で結論せよということである」と述べており、結果的に杉田氏の教育放棄から得るものがあったと 語っている。  

 他方、原田氏はロシア課の甲谷氏の温情的なエピソードと対比 して杉田氏の事例を紹介している。ここには参謀本部による中野 学校に対する期待値あるいは温度差がバラバラであることへの悲哀感の吐露もうかがえる。  

 杉田氏の著書『情報なき戦争指導』を読む限りにおいて、筆者は戦略情報に対する杉田氏の見識の高さを覚えるが、杉田氏から、諜報や謀略など、いわゆる秘密戦への関心はほとんど感じられない。同著においては秘密戦のことや陸軍中野学校に関することはほとんど触れられておらず、おそらく杉田氏は、諜報、 謀略などいうものは“邪道”としてみていたのではないだろうか。  

 筆者は平時における戦略情報こそが最も重要であり、その情勢判断こそが国家の生存・繁栄をもたらすと考えている。しかし他方で、秘密戦ともいうべき情報活動は絶対に軽視してはならないと考えている。  

 第二次世界大戦における勝利の要訣は秘密戦にあった。当時の英国首相・チャーチルは、対独戦争を優位に展開するため、米国 を第二次世界大戦の舞台に引っ張りこんでわが国と戦わせた。秘 密戦によって日独の連携を離間させた。  

 杉田氏は戦後に陸上幕僚長に就任する。戦後、陸上自衛隊において秘密戦は忌避され、諜報、防諜、謀略などの言葉も使われな くなった。この両方の相関関係については定かではないが、杉田氏が中野学校や秘密戦についてどのような認識を持っていたか、それを陸上自衛隊の運営において何らかの教訓として活用したのか、この点を聞いてみたかったなと思う次第である。  

 むろん、筆者と杉田氏の年齢差からして物理的に不可能な話ではある。

▼中野学校の創設は陸軍の総意ではなかった  

 中野学校の入校学生は全国から選りすぐりの精鋭であった。しかし、陸軍内では総力戦の趨勢と先行き不透明な時代の“寵児” として中野学校の卒業生に大いに期待する者もいれば、そうでな い者もいた。  

 陸軍上層部と中野学校関係者とでは、卒業生あるいは学校に対 する期待値に大きな温度差があったとみられる。 また参謀本部内においても作戦部門と情報部門では温度差があ り、その情報部門を所掌する参謀本部第2部の中でも中野学校への期待値は異なっていたのである。  

 そもそも参謀本部は中野学校の創設や秘密戦士の育成には全体 として乗り気ではなかったようだ。ただ参謀本部第5課(ロシア課)だけが、共産主義イデオロギーの輸出や諜報、謀略を展開するソ連の国家情報機関の恐ろしさを認識していたので、秘密戦士 の育成に積極的であったという。  

 しかし、参謀本部の第6課(欧米課)、第7課(支那課)は 「それができれば駐在武官の必要性がなくなって困る」と考えたのか、強硬に設立反対を唱えた者もいたようである (畠山『秘録 陸軍中野学校』ほか)。  

 陸軍省内では、入校した1期生と当時の兵務局長の今村均少将 との会食が行なわれたり、1期生に対する東條英機陸軍次官の校内巡視があったりなど、中野学校を重視する傾向はうかがえた。  

 しかしながら、総じて言うならば、参謀本部第5課、そして兵務局や軍務局の一部を除いては秘密戦士の育成には無関心であっ たと言わざるを得ない。だから設立費用も乏しく、当初は愛国婦 人会の建物の一部を借りて、寺子屋式で出発したのであろう。  

 教育を担当する学校関係者と陸軍上層部の思いには大きな差が あったことは筆者の経験からも「なるほどな」と思われる節があ る。詳細は割愛するが、筆者は陸上自衛隊では初めての試験選抜の情報課程(総合情報課程)の第1期学生長として入校した。

 我々に対する、学校関係者の高い心意気と、陸上幕僚監部あるい は現場の情報部隊との冷静ともいえる対応には、やはり温度差を感じた。 教育内容ひとつをとっても、学校関係者は学生に対してできる だけ多くのことを、現地研修などを通じて、現地・現物で学ばせ ようと一所懸命に尽力する。しかし、受け入れ側の上級組織や情 報組織の現場では、「保全意識も確立していない学生に対して、 秘匿度の高いものを“おいそれ”とはみせられない」ということ になる。

▼中野学校の基礎教育が功を奏した  

 中野学校の1期生たちの活躍は総じて評価が高かったようであ る。各部署から中野卒業生を多く取ってほしいとの現場の声が止 まないという。これが、後方勤務要員養成所が認知され、陸軍省直轄の中野学校、そして参謀本部直轄の中野学校として発展を遂 げた、一つの要因でもあったろう。  

 ただ、中野学校の1期生たちの卒業後の活躍が、すなわち中野学校の教育がすぐれていたというわけではない。そもそも、1年程度の教育期間をもってして素人を一人前の秘密戦士として大化(おおば)けさせることはほぼ不可能である。  

 単純には比較することはできないが、冷戦期のソ連KGBには 海外に派遣する秘密スパイを養成するための「ガイツナ」と呼ば れる特別訓練施設があったとされる。ここでは、外国人になるき るために10年以上の訓練が行なわれたとされる。  

 それに、中野卒業生に期待する役割についても一様ではなかっ た。太平洋戦争以前の1期生や2期生長期学生に期待されたのは、 『替らざる武官』であった。 しかし、中野卒業生の任務は時代変化に翻弄され、特務機関の 要員、さらには残置諜者、国内ゲリラ戦の従事者などへと変化した。つまり、教育目的の変化に対して、教育内容が追随できたのかも疑わしい。  

 それでも、各所において中野卒業生が目覚ましい働きができた とすれば、それは優秀な学生を選抜したことにつきる。そして、 学校関係者が彼らをエリート学生として尊重し、自由闊達な気風 のなかで、彼らの自主性を重んじたからである。決して画一的な 教育が功を奏したわけではないといえよう。  

 強(し)いて言えば、教育面については、秘密戦士などとして 成長するための素地を授ける基礎教育を重視したことが功を奏したのであろう。さらに言えば、情報戦士の在り方を追求した中野 学校における精神教育が、中野卒業生の中に期を超えた同志愛を 醸成し、すすんで難局な任務にあたらせたと言えよう。

ゲリラ戦と何か

▼ゲリラ戦、遊撃戦、パルチザン戦争とは

 これらは、それぞれ言語の由来する発生地をはじめ、時代、民族、対象などがそれぞれ異なり、厳密にはその意味がことなります。しかしながら、それらの差異は、本来的かつ歴史的なものであり、すでに今日ではこの種の戦いが普遍性と国際性を帯びて世界各地で広く展開されていることから、三者を区別して使い分けることなく、おおむね同じ意味の概念として扱っています。ここではゲリラ戦、あるいはゲリラについて解説します。

▼ゲリラの発祥

 テロとよく混同して使用される言葉にゲリラがあります。ゲリラの語源はフランス革命を輸出しようとしたナポレオン軍に対し、スペインの農民が起こした「国民抵抗運動」に端を発します 。同抵抗運動は農民による小戦闘によるもので、当時ゲリリヤ(guerrilla)という用語が広く流行し、これが英語に転化しました。この点に関してはテロリズムの発祥過程とは異なり、むしろナロードニキによる「抵抗運動」と類似しています。

 第二次世界大戦以前までゲリラによるゲリラ戦は「革命軍による正規戦の補助である」として位置づけられました。当時、著名な軍事戦略家のクラウゼビッツは「ゲリラ戦のみでは政治目標を達成できない」と述べました。

 しかし、第二次世界大戦後のインドネシア独立戦争、アルジェリア独立戦争、キューバ革命及びインドネシア戦争などにおいて、ゲリラ戦のみ又はゲリラ戦を主体として政治目標が達成されたことから、ゲリラ戦が注目された。

▼ゲリラ戦のそれぞれの発展

 ゲリラ戦を戦略・戦術レベルに高めたのは毛沢東の「人民戦線」及び「遊撃戦」理論です。毛沢東は都市から離れた農村ないし山岳に、革命の根拠地を設定し、土地の占領と地域住民を支配することで勢力圏を維持・拡大し、最終的に日本軍と国民党を打倒して新中国を建国しました。

 彼の「遊撃戦」理論を踏襲し、共産主義革命を成功に導いたのが、ベトナムのボー・グエンザップ、キューバ革命のチェ・ゲバラです。しかし、彼らのゲリラ戦には毛沢東と異なる点がいくつか指摘されています。

  例えば、グエンザップが活動したベトナムには中国のような広大な根拠地はありません。そこで、グエンザップはまず民衆の中に秘密組織を設定することでし組織を防衛し、次に民衆のなかで暴力行為を行うことでその残虐性を宣伝することで組織拡大をはかりました。グエンザップは、敵に通じる村の有力者や警官らを公開処刑し、敵側の無力さと権威の失墜を示威し、ゲリラ側に味方しなかった場合の報復の恐ろしさを植えつけました 。

 キューバ革命を成功に導いたゲバラは、山中の村などを根拠地として革命反軍の生存をはかる一方で、ラジオ局を開設して革命軍の勇躍を宣伝し、都市部における襲撃や暗殺を繰り返すなどの活動を行いました。また「ゲリラ戦は基本的に奇襲攻撃、サボタージュ、テロの形態をとる」として、テロはゲリラ戦の一手段であると述べました。

  ゲバラと同時期のブラジル人のカルロス・マリゲーラは、都市を基盤とする「都市ゲリラ」という概念を提唱しました。彼は「ラテン・アメリカでは政府軍が海岸に多い都市を包囲する戦略をとっているため、内陸の山岳や農村地帯から都市地域へと攻める戦略は自らの補給路を立たれるので得策ではないと考えました。つまり、都市には食料の備蓄があり、銀行に金があり、警察には武器があるので、都市でのゲリラ戦が有利である」と主張したのです。

▼ゲリラとテロの共通性

 ゲリラとテロとは共に暴力を用いた反政府闘争という共通性があります。実は、毛沢東も農村地帯でのゲリラ戦を展開する一方で、上海などの都市部においては特務組織を活用して国民党要人を暗殺するなどの暴力を繰り返していました。

 さらに、マリゲーラによって「都市ゲリラ」の概念が提起されたことで、「ゲリラ戦が根拠地を中心に地域を支配し拡大する」「テロは地域を支配することなく都市部において反政府闘争のための暴力を行う」という区分概念も不明確になりました。今日では、 テロもゲリラも国際法的に明確な定義がなされていないですから、両者を区分することは困難なのです。

▼国際社会はゲリラを容認せず

 これまで暴力を「正当な暴力」と「不法な暴力」に区分する試みが行われてきました。例えば第一次世界大戦後、イタリアのファシスト党は「革命のための暴力はテロではない」「無辜の民に向けられるのがテロである」と宣伝し、革命のための暴力は正当であることを強調しました。

 第二次世界大戦中のレジスタン運動やパルチザン活動の経験から1949年の「捕虜の待遇に関するジュネーブ条約」は、義勇兵や民兵隊に要求されているとのと同一の条件を満たす場合の「組織抵抗運動団体」の構成員、すなわちゲリラに対して捕虜待遇を認めました。つまり、ゲリラはテロリストとは異なり、武力紛争法の適用が与えられ 、一定の条件を満たせば国際法の主体となり、戦争捕虜として扱われるようになったのです。

 無論、隠密性を有力な手段として一般文民の中に紛れ、又はその支援の下でゲリラ戦を行うゲリラは、戦争捕虜としての資格を有さず、戦時犯罪として処罰を免れません。たとえば、上述の都市ゲリラが戦闘員として認められる余地はほんどないといえます。

 今日では国家が敵対者を非合法化し、敵対者への武力行使を正当化するためにテロを定義していく傾向が強くなっています。米国防省は、テロを「政治的、宗教的あるいはイデオロギー上の目的を達成するために、政府あるいは社会を脅かし、強要すべく人または財産に対し向けられた不法な武力または暴力の行使」と定義しています。

 米連邦捜査局(FBI)も「政治的又は社会的な目的を促進するために、政府、国民あるいは他の構成部分を脅かし、強要するため、人または財産に対して向けられた不法な武力または暴力の行使」と定義しています。つまり、共に「政府等に向けられる不法な行為」である点を強調しています。

 一方で、今日の世界は敵対する過激派組織に対しゲリラとしての資格を認めない方向にあります。1980年代にIRAは自らをゲリラと呼称し、英国政府に対しても自分たちをゲリラという名で呼ぶよう要求したが、英国政府はこれを拒否しました 。つまり、テロ組織に正当な地位を与えないためにテロ組織という名に固執したのです。

 最近では、ISIL(イラク・シリアのアルカイダ)なる組織が「イスラム国」を呼称して、イラクやレバノンの政府軍に対し革命闘争を展開していました。彼らは地域の獲得と住民支配を企図し、地域内での住民行政サービスなども行いました。

 この点は、毛沢東などが展開したゲリラ戦の様相と強い類似性が認められます。しかし、米国を始めとする国際社会はISILを過激派テロ組織と断定し、対テロ戦を展開しました。 我が国としても、残虐な暴力行為を繰り返しているISILに対して国際法的な保護を与えなととの立場を取、非合法なテロ組織と認定してきました。

 現在、 米国が主導する掃討作戦や、ISIL の最高指導者であるバグダディ容疑者の殺害により、ISILは消滅する科に思われます。しかし、一時期のISILの資金獲得、統治体制、巧みな宣伝戦等などは、再びISILが復活する要因でもあります。

 バグダーディーが死亡しても、第二の指導者が名乗りを上げることとなり、指導者の死亡が組織衰退にどれほど影響したのかは定かではありません。我が国はテロや国際的テロ組織の定義を厳格にして、ゲリラとの峻別を明確にしていく必要があると思われます。

過日、講談社現代新書から拙著が発売

 10月16日、拙著『未来予測入門』が出版されました。

 本書をお読みいただいた私の知人から、「若人に捧げる元防衛省情報分析官が解く、インテリジェンスで人生100年時代を生き抜く法」という、ありがたいネイミングもいただきました。

 著名な作家である佐藤優先生からは、日刊ゲンダイ「週末オススメ本ミシュラン」 にて、拙著を紹介していただきました。佐藤先生、どうもありがとうございました。

https://www.nikkan-gendai.com/articles/columns/2134

 今回は初の新書ということで、できるだけ分かりやすく書いたつもりですが、それでも私の子供たち読ませて感想を聞くと、やはり内容が難しいようです。以前に上梓した『戦略的インテリジェンス入門』においては、難しい内容を平易に説明しているとの意見がある一方、難しくてよくわからないとの講評もありました。今度は、新書なのでより理解できるように心がけましたが、本当に人に分かりやすく伝えるのは容易ではありません。

  ただし少々の言い訳が許されるとすれば、情報分析や未来予測など、そもそもが「分からなこと」が前提になっているので、その手法や思考法は決して単純ではありません。以前、私が解説文を投稿した『CIA極秘分析マニュアル「HEAD」』においては、著書(CIAテロ対策センター・元副部長)は、「重要なことは楽に身につけられない」と言っています。 難しいと思う方は、その気持ちを少し我慢して、読んでいただければと思います。

 私が読む本の6割以上は一読して理解できるものではありません。でも何回か読みなおしたり(全文でなくパラパラでも)、ある別の本を読んだ後などにはすっと理解できることがあります。その時、この年になっても自分の知的レベルが上昇していることに少し満足感が生まれます。

 今回の著書では未来予測の手法が実際的に理解していただけるように、筆者とその子供たちが対話によって未来予測の技法を学ぶというスタイルを取っています。

 実は、我ながらよくぞ斬新なアイデアを思いついたものだと、 自己満足に浸っていたのです。そうしたら、自衛隊時代の後輩が 「現役時代に読んだ『戦術入門』みたい、とチラッ思いました」 との所感を送ってくれました。

 その『戦術入門』は1佐の教官だか連隊長だったかが、 2尉や3尉の若手幹部との問答のなかで戦術の原則事項を教える、 という内容でした。  

 筆者も若手幹部の時代がありましたから、この本は当然のごとく読みました。つまり、 若手幹部時代に読んだ『戦術入門』の内容が私の潜在意識として頭の片隅に残り、これが今回、どのようなことをどのように書こ うかと懊悩していた時に想起されたのかもしれません。  

 よくベテランになるほど、「不透明な時代には論理よりも創造 が大事だ!」とか「スキルよりセンスだ!」という言う人がいます。しかし、いきなり創造力やセンスが生まれるわけではないと思います。

 実は、過去に学んだことが潜在意識として残り、それに何らか の“スイッチ”が加わることで直観が生まれ窮地を脱したりすることがあるのです。それを「神がささやいた」などと総括 していますが、実はこの直観も過去における経験や論理的思考などの成果だと言えます。  

 ところで直観はどのようにして高めるのか、その秘訣はあるのでしょうか?

 北岡元先生の著書『【速習!】ハーバード劉インテリジェンス仕事術-問題解決力を高める情報分析のノウハウ』に、某消防署の大隊長B氏の話が出てきます。B氏は、あわや消防隊員が命を落とす寸前に「退避!」という命令を出します。「九死に一生を得た」隊員が、大隊長に「どうして、あのように絶妙なタイミングで退避の指示が出せたのですか?」とたずねます。

 大隊長は「正直言って、オレにもよく分からない。神秘的だね。強いて言えば直観かな。すぐさま退避しないとやばいということを、直観が教えてくれたんだ」と答えます。

 そこで、北岡氏は「隊員がB氏のような直観を得られるか?」、「B氏は自分でも分からない直観をどうやって教えられるか?」という「問い」を読者に投げかけています。

 そのうえで北岡氏は、「結論から先に言うと、B氏が現場で突然得た直観を、隊員が具体的に学ぶことは十分に可能である。なぜなら直観は、決して神秘的なものではなく、科学的に説明することができるものだからだ。具体的にいうと、直観とは広範かつ高速な「パターン認識」が原動力となって生じる。問題は、それがほぼ無意識の状態で働くために、結果として生じる直観を事後的に説明できなくなつてしまうことだ。(以下、略)」

 つまり、直観で判断したことを「何となく変だ」と思ったことはなかったか自問すれば、「何となく変だ」という「パターン認識」が高速で行われていたに過ぎないということになります。

 消防士は火災現場を経験することでパターン認識を身につけていきますが、「消防官が経験を積んでいない段階でも、B氏が「パターン認識」から直観を得たことを説明してやれば、説明がない場合に比べて、消防官は、はるかに素早くバターン認識ができるようになる。」と北岡氏は述べています。

 そして、「どのような分野でも大切になるのは、直観でうまくいったり、失敗したりするときに、その直観はなぜ生じたのかを振り替えてしっかりと考えることだ。そうすることで、高速すぎてほぼ無意識のうちに行っていた「パターン認識」が見えてくる。それを自覚することで、直観に頼る性向は増え、失敗は減る。さらに部下に、仕事でどのようなパターンに気おつけるべきか、教えることも可能になる」と述べています。

 拙著でも、読者の方に未来予測のノウハウを身につけて欲しいとして、同じようなことを述べています。

 「皆さんの周りで、仕事ができる人、物事の先を読 むのに長けている人がいるかもしれないが、そういう人はたいて い、私が本書で述べるテクニックを駆使して(あるいは知らずし らずのうちに使って)思考・分析を繰り返しているのである」 (拙著より引用)。

 ようするに仕事ができる人は「パターン認識」を高速に行っているのです。そのような優れた「パターン認識」を可視化、形式知化したものがマニュアル本であり、拙著もそれが狙いとしています。

 しかし、マニュアル本を一度読んだからといって自分が「パターン認識」が向上するはずはありません。マニュアル本に書かれていることを自分の実務や生活に落とし込み、少しでも実践してみる。そして自分流のパターン認識や思考法を確立することが重要です。

 

わが国の情報史(43) 秘密戦と陸軍中野学校(その5) 陸軍中野学校における教育の欠落事項

▼はじめに

 前回は陸軍中野学校の1期生の教育内容を紹介し、それを私の経験則から分析して、教育内容の特質を明らかにした。 今回は、その続きであるが、中野学校の教育で欠けていたことに焦点をあてることにする。

▼旧軍には「情報理論」は存在しなかったのか?  

 戦後になって自衛隊入隊し、陸上自衛隊の『情報教範』の作成 に従事した松本重夫氏は、米軍の「情報教範(マニュアル)」な どを引き合いに、次のように回想している。

「私が初めて米軍の『情報教範(マニュアル)』と『小部隊の情 報(連隊レベル以下のマニュアル)を見て、いかに論理的、学問 的に出来上がっている者かを知り、驚き入った覚えがある。それ に比べて、旧軍でいうところの“情報”というものは、単に先輩 から徒弟職的に引き継がれていたもの程度にすぎなかった。私に とって『情報学』または『情報理論』と呼ばれるものとの出会い はこれが最初であった」(松本重夫『自衛隊「影の部隊」情報戦 秘録』)  

 松本氏は、自著の中で「情報とは、『組織』と『活動』によっ て得られた『知識』である」「情報資料(インフォメーション) と情報(インテリジェンス)を峻別することが重要である」「情 報資料を情報に転換する処理は、記録、評価、判定からなり、い かに貴重な情報資料であっても、その処理を誤れば何らその価値 を発揮しない」などの情報理論を縷々述べている。  

 では、松本氏が言うように、旧軍には「情報理論」はまったく 存在しなかったのだろうか?  

 1928年頃に作成されたと推定される「諜報宣伝勤務指針」 においては諜報、宣伝、謀略の意義や方法論についてはかなり詳細に述べられているが、松本氏が指摘するようにインテリジェンスとインフォメーションの明確な区分はない。  

 しかし、第1編「諜報勤務」の中には、「敵国、敵軍そのほか 探知せんとする事物に関する情報の蒐集(しゅうしゅう)、査覈 (さかく)、判断並びに、これが伝達普及に任ずる一切の業務を 情報勤務と総称し、……」の条文がある。    

 また1938年に制定された「作戦要務令」では以下の条文が ある。 「収集せる情報は的確なる審査によりてその真否、価値等を決定 するを要す。これがため、まず各情報の出所、偵知の時機及び方 法等を考察し正確の度を判定し、次いでこれと関係諸情報とを比 較総合し判決を求めるものとす。また、たとえ判決を得た情報い えども更に審査を継続する着意あるを要す。(以下略)」(72 条)

  「情報の審査にあたりて先入主となり、或は的確なる憑拠なき想 像に陥ることなきを要す。また、一見瑣末の情報といえど全般よ り観察するか、もしくは他の情報と比較研究するときは重要なる 資料を得ることあり。なお局部的判断にとらわれ、あるいは 敵の 欺騙、宣伝等により、おうおう大なる誤謬を招来することあるに 注意するを要す。」(74条)  

 ここでの査覈と審査とほぼ同じ意味であると解釈され、これら は生情報(インフォメーション)の情報源の信頼性、生情報その もの正確性などを調べて評価すると意味になるだろう。つまり、 旧軍の教範でも、生情報を直接に使用してはならないことが戒め られている。  

 以上から、今日の情報理論の中核ともいうべき、「インフォメ ーションを処理してインテリジェンスに転換する」ということの 必要性とその要領については、明確性や具体性に欠けるとはいう ものの、旧軍教範ですでに提示していたといえるだろう。

 ▼実戦では生情報が垂れ流し  

 しかし、実戦では生情報の垂れ流し状態であったようだ。これ にはいくつかの理由はあったとみられるが、小谷賢『日本軍のイ ンテリジェンス』は次のように述べている。 「さらに問題は、生の情報や、加工された情報の流れが理路整然 としておらず、いきなり生情報が報告されることもあった。これは情報部が生情報や、加工された情報の流れをコントロールできていなかったことに起因する。(中略)  

 終戦近くになると、参謀本部は南方情報を北のハルピンから報 告される『哈特諜(ハルピン情報)』に頼るようになるが、これ も生情報がそのまま報告されており、きわめて危険な状態であっ た。なぜならば既述したように、ハルピン情報はソ連の偽情報の可能性が高かったためである。(以下略)」  

 ようするに、小谷氏の研究によれば、偽情報である生情報を他の人的情報(ヒューミント)や文書情報(ドキュメント)と照合してインテリジェンスを生成するという情報原則は、現場では遵守されなかったようだ。  

 さらに小谷氏は次のように述べている。 「恐らく当時、『情報』を『インテリジェンス』の意味で捉えていたのは、陸海軍の情報部だけであった。情報部にとっての 『情報』とは分析、加工された後の情報のことである。

 しかし作戦部などから見た場合、『情報』とは『インフォメーション』であり、生情報のことであった。彼らに言わせれば、情報部はデータの類を集めて持ってくれば良いのである。そして作 戦部が作戦立案のためにそれらのデータを取捨選択すれば良かっ た。 すなわち作戦部と情報部の対立の根源は、『情報」という概念をどのように解釈するかであり、双方が対立した場合、力関係か ら作戦部の意見が通るのは当然であった。」(前掲『日本軍のイ ンテリジェンス』)  

 つまり、情報部では情報の処理の必要性などは理解されていたが、 作戦部における情報理論の無知と、そこから生じる情報部の軽視 が蔓延(はびこ)っていた、ということだろうかか?

▼中野学校における「情報理論」教育  

 中野学校では「情報理論」についてどのような教育が行なわれ ていたのだろうか?  乙Ⅰ長期(2期生)の平館勝治氏の言によれば、2期生の教育では参謀本部第8課から中野学校に派遣された教官が「諜報宣伝 勤務指針」を携行して教育を行なっていたようである(1期生の教育において「諜報宣伝勤務指針」という極秘の情報教範が活用 されたかどうかは不明)  

 平館氏は、戦後になって以下のように発言をしている。

「私が1952年7月に警察予備隊(のちの自衛隊)に入って、 米軍将校から彼等の情報マニュアル(入隊1か月位の新兵に情報教育をする一般教科書)で情報教育を受けました。その時、彼等の情報処理の要領が、私が中野学校で習った情報の査覈(さかく) と非常によく似ていました。 ただ、彼等のやり方は五段階法を導入し論理的に情報を分析し、 評価判定し、利用する方法をとっていました。

 それを聞いて、不思議な思いをしながらも情報の原則などというものは万国共通のも のなんだな、とひとり合点していましたが、第四報で報告した河辺正三大将のお話を知り、はじめて謎がとけると共に愕然としま した。  

 ドイツは河辺少佐に種本(筆者注:「諜報宣伝勤務指針」を作 成した元資料)をくれると同時に、米国にも同じ物をくれていた と想像されたからです。しかも、米国はこの種本に改良工夫を加 え、広く一般兵にまで情報教育をしていたのに反し、日本はその 種本に何等改良を加えることもなく、秘密だ、秘密だといって後生大事にしまいこみ、なるべく見せないようにしていました。 この種本を基にして、われわれは中野学校で情報教育を受けたのですが、敵はすでに我々の教育と同等以上の教育をしていたもの と察せられ、戦は開戦前から勝敗がついていたようなものであっ たと感じました(「諜報宣伝勤務指針」の解説、2012年12 月22日)。  

 上述のように同指針では、生情報を直接に使用してはならないことの戒めや、生情報の正確度の判定などについて述べられていた。 しかしながら、 同指針は秘匿度が「機密書」に次いで高い「極秘書」 であったので、学生が自由に閲覧する、ましてや書き写して自習用に活用するなどはできなかった。

 したがって、教官がその中に 書かれている内容の一部を掻い摘んで学生に教えるというのが “関の山”である。「諜報宣伝勤務指針」の内容が学生に十分に 定着したとは到底言えない。 要するに平館氏がいうように、秘密、秘密といった秘密主義がせっかくの 教範を“宝の持ち腐れ”にしてしまった可能性がある。

▼保全に対する形式主義が教育成果を妨げた?  

 時代はさらに遡るが、日露戦争における日本海海戦の大勝利の 立役者・秋山真之が米国に留学した。米国海軍においては末端ク ラスまでに作戦理解の徹底が図られていることに感嘆した。  

 しかし、秋山は帰国して1902年に海軍大学校の教官に就任 し、教鞭したところ、基本的な戦術を艦長クラスが理解していないことに驚いたという。なぜならば、秘密保持の観点から、戦術 は一部の指揮官、幕僚にしか知らされなかったからである。    

 そこで秋山は「有益なる技術上の智識が敵に遺漏するを恐るる よりは、むしろその智識が味方全般に普及・応用されざることを 憂うる次第に御座候(ござそうろう)」との悲痛の手紙を上官に したためた。

 どうやら、平館氏によれば、なんでもかんでも秘密、秘密にす る風潮は昭和の軍隊においては改められなかったようだ。 米国は種本とみられるドイツ本に改良工夫を加え、広く一般兵 にまで普及できる情報理論を確立していった。一方のわが国では、 秘密戦士を要請する中野学校においてでさえ、形式的な秘密主義 が妨げとなり、教えるべき事項の出し惜しみがあった。  

 自由な雰囲気で、自主的学習が重んじられた中野学校ではあっ たが、当時の陸軍上層部の形式主義によって「諜報宣伝勤務指針」 が改良と工夫をされて、中野学校における情報教育に反映されな かったとすれば非常に残念なことであったといえるだろう。

▼教範の秘密保全について  

 米軍はインターネットで情報マニュアルなどを公開しているが、 わが国においても教範類は公開すべきだ、というのが筆者の論で ある。ちなみに日本が不透明、不透明といっている中国軍におい ては、軍関係機関が多数の軍事書籍を出版し、それが国民全体の 軍事知識を押し上げ、愛国心向上に一役買っているという。  

 正直言って、自衛隊の相当数の教範は内容的に公開されても何 ら問題はないと思うし、そもそも教範は原則事項を記述するもの であって、不要なことや混乱を招くようなことを記述すべきでは ない。その取捨選択が行なわれていないとすれば、そのことの方 が問題である。  公開して差し支えないものまで秘密にしようとするから、無用 な詮索や勝手解釈が起こるのであるし、世間がことさら注目する ことにもなる。教範漏洩事件が起きたり、インターネットオーク ションで教範が売られたりすることにもなるのである。  

 繰り返すが、教範は原則事項の記述であって、そのままでは実戦においてはまったく役に立たないといっても過言ではない。今日の 「孫子」にさまざまな領域での解釈が付けられているように、教範にさまざまな解釈が加えられ、さらに可視化、形式知化が進み、 国家全体として安全保障などの知識やノウハウの向上が望ましい と考える。  

 教育の現場においては、教官が学生に対し、自らの経験や自学 研鑽をもって教範に独自解釈を加え、具体例をもって学生の理解を促進しなければならない。そうでなければ学生は、教範に書かれていることの本質を理解できないであろう。教官独自の副読本 なども必要になるし、そこに教範の一般価値を超えた教官の力量 がものをいうことになるのである。  

 他方、学生は教範に日常的に親しんで、想像力と創造力をもっ て繰り返し読むことが重要である。教範の厳重管理などとよく言 われるが、教範は鍵がかかるような引き出しに入れておくような ものではないと、筆者は考える。時にはベッドに寝転んで読む、 そして自ら課題を設定し、思索しつつ読む。そうした自由な環境 と、積極的な精神活動を欠いてしまえば、教範は結局のところ “宝の持ち腐れ”になるのではないか。

本日、講談社現代新書から拙著が発売

▼拙著『未来予測入門』(講談社現代新書)が発売

本日(10月16日)から拙著『未来予測入門』(講談社現代新書)が発売されました。本書は5つの章からなり、第 1章「未来予測とは何か」、第2章「情報分析とは何か」、第3 章「未来予測のための情報分析ツール」、そして第4章から第6 章までは「未来予測ケーススタディ」です。

第3章では、未来予測のための個人モデルを紹介しています。 これは、インテリジェンス・サイクルのCIAモデルなどを基に 編み出したオリジナルであり、(1)問いの設定、(2)枠組みの設定、 (3)収集&整理、(4)現状分析&未来予測、(5)戦略判断の5つから なります。  

そして、これら各段階に対応する必要な思考法&分析手法として、 (1)問いの再設定、(2)アウトサイド・イン思考&フレームワーク 分析、(3)システム思考、(4)クロノロジー(年表)分析、(5)マト リックス分析、(6)アナロジー思考、(7)ブレーンストーミング& マインドマップ、(8)四つの仮説案出、(9)シナリオ・プランニン グを特出して、それぞれを解説しています。  

 第4章から第6章では、それぞれ「将来有望な職種・スキルと は」「未来のベストセラーを特定せよ」「2030年の暮らし方・ 働き方を予測する」と題し、上記の9つの手法を使ったケーススタディを試みています。  

 ここでは、防衛省を退職した私が、我が子供たちに分析手法を教えるという対話スタイルを採用しました。子供たちの疑問や質問に対し、筆者が分析手法を伝授しながらその疑問を解消し、答えに導いていくというものです。  

 実は、ここに登場する子供たちは私の実在する三人の娘をモデ ルにしています。娘たちに父親としてどんな助言が適切か、脳漿 を絞ったといっても過言ではありません。

 編集長やフリーライター氏の協力を得て、これまでにない味わいの作品に仕上がったと自負しています。お読みいただければ嬉しいです

▼ エンリケさまの紹介文

  「軍事情報メルマガ」を主催されているエンリケさまが私の著書を紹介していたくださいました。いつも過分な称賛で少々恥ずかしいのですが、一部を引用させていただきます。

 こんにちは、エンリケです。

 4章~6章が本書の白眉です。父と娘、息子の対話形式で、「情報分析手法を実際にどう使うか?」をわかりやすく案内しています。

 「問い」に対する「答え」を導き出す。それが情報分析手法を人生に活かすことです。情報のプロが使う手法が、自分の人生とつながっている証左なんです。

 また、情報のプロが記した一般向け情報教養本で、ストーリーが使われた解説は、私が知る限り本書が初めてでしょう。ストーリー作りってのは実はむつかしいものです。上田さんも、相当苦労して作られたんじゃないだろうか?と推察します。

 さて上田さんのインテリジェンス本で特筆される特徴の一つが「読み手が情報分析スキルを使えるようになる」という点です。第一作以来刊行された本に一貫して流れている上田さんならではと言ってもよい特徴で、「上田スピリッツ」と名付けて差し支えないといえます。

 本著にもこのスピリッツはもちろん流れており、その道のプロの意見を待つのでなく、自分で結論を導き出す国民になるためのスキルをコンパクトな新書でありながら、惜しみなく教えてくれます。ぜひあなたも手に取って、実人生で活かしてほしいです。(以上10/14掲載)

 

 今日は<すべての情報分析は「質問=問い」の設定から開始される>(P33)という名言についてお伝えしようと思います。

 そもそもあなたは、分析したいことに対する「問い」を持っていますか?分析して何を達成したいのでしょうか?

 ちなみに私のばあい、ここが極めてあいまいでした。だから、常に拡散してしまい、収拾がつかなくなるという流れをいつも辿ってきたわけです。

 私が上田さんの既刊書を通してイチバン学んだのは実はこの点でした。「適切な問いがなければ、適切な分析はできない」ということです。逆にいえば「適切な問いがあれば、適切な分析につながる」ということなんでしょう。

 本著でも上田さんは<情報分析は必ず「問い」の設定から始めるべきであり、未来に関する予測もその例外ではない>(P42)とおっしゃっています。実はこの点こそ、われわれ一般人の情報分析で、最も欠けているところではないか?と感じてなりません。そのために不可欠な「情報分析するときの、適切な問いの作り方」を解説した書は、私が知る限りこれまでなかった気がします。

 少なくとも私は、上田さんの著作でこのことを初めて知り、いろんな情報分析、未来予測へのチャレンジの場で意識できるようになりました。こんかい、この本の42P~45Pを読み、腑に落すことができたように感じます。(以上10/15に掲載)

 きょうは、今年6月に発売された、上田さんの『武器になる情報分析力』と本著を比べてみたいと思います。

 ひとことでいえば、『武器になる情報分析力』が対象とする課題は安保問題、『未来予測入門』のそれは個人の身の回りの問題という感じでしょうか。けっきょく、使うツールや手法はカブるのですが、昨日もお伝えした「問い」が違うわけです。

 戦略テーマが違えば問いも変わる。着眼点も微妙に変わってくる。上田さんというプロが、痒いところに手が届く感じで細やかに解説しているからそのあたりの違いをつかめるんですね。両書ともに読むとわかります。だから、『武器になる情報分析力』をお持ちの方には、ぜひ手に取ってほしいわけです。本著を手に取った方には、『武器になる情報分析力』も手に取ってほしいです。

 私も含めた一般人は、もちろん安保戦略問題に関心はあります。でも、自分の将来をはじめとする身の回りのことの見通しも持っておきたいものです。上田さんの最新刊『未来予測入門ー元防衛省情報分析官が編み出した手法ー』は、軍事ファンやマニアではない人向けに書かれています。

その点で物足りない人もいらっしゃるかもしれません。が、その分、語り口がひじょうにわかりやすいんです。ファンやマニアの方も、情報分析の基礎の基礎が定着できる点でおススメなんですね。(以上10/16に掲載)

エンリケさま、いつもありがとうございます。

  

わが国の情報史(42) 秘密戦と陸軍中野学校(その4) 陸軍中野学校の教育の特色

▼はじめに

 さて、前回は陸軍中野学校の教育内容を理解するため、第1期 生の教育課目を紹介した。今回はその続きで、教育課目から 見る教育の特色などについて考えてみたいと思う。

▼印象教育の重視  

 第1期生の教育課目表をざっと眺めて感じることは「1年間程度の期間のなかで、よくもこれだけ多くの教育課目を組んでいる な!」ということである。 筆者は陸上自衛官時代に約1年間の情報課程を履修し、また同課程の課程主任にも就いたことがある。こうした経験から察するに、学生は次から次へと与えられる教育課目についていくのが精 一杯で、おそらく履修した内容を定着させる余裕はなかったと思 う。いわゆる“消化不良”を起こしていたのではなかろうか?    

 たとえば実科では秘密通信、写真術、変装術、開緘術、開錠術 といった秘密戦遂行のための課目が組まれているが、実科に与え られた総配当時間は118時間であった(『陸軍中野学 校のすべて』の17頁掲載の1期生の教育実施予定表)。  

 便宜上、総配当時間を単純に5等分すれば(5課目に割る)、 各課目の授業時数は20時間強となる。これでは封書を開ける開緘術、錠を開ける開錠術などを修得することは不可能であったろ う。

 ようするに「へえ~、こういう技術もあるんだ!」という体験 をさせることが趣旨であったと思われる。つまり、「このような技術が必要な実際場面に出くわすかどうかはわかないが、仮に出 くわしたならば、ここでの教育を思い出し、自らの工夫と技術研鑽で乗り越えよ!」という趣旨であったのだろう。  

 あるいは、相手側がこうした技術を持っていることを意識させ、 自らの諜報、謀略などの活動に対する防諜観念を高めさせる狙いがあったとみられる。  

 つまり実用性というよりも印象教育を重視したのだと思われる。

▼科学化を意識した教育  

 印象教育の重視とはいうものの「諜報、謀略の科学化」を目指 した中野学校ならではの教育方針を垣間見ることはできる。

 特殊爆薬、偽造紙幣、秘密カメラ、盗聴用器などの教育につい ては、当時、謀略器材の研究にあたっていた秘密戦研究所(登戸研究所)の協力を得て実施された。  同研究所は第1次世界大戦において、航空機兵器や化学兵器 (毒ガス)という近代兵器が登場したことなどから、各国は科学・ 技術を重要視した軍事的政策をとるようになった。わが国も、こ れに後れてはならないとして触発され、1927年4月に研究所を創設した。  

 つまり「諜報、謀略の科学化」の大きな目的の一つが、近代兵器の開発と、それに対応する秘密戦士の育成というわけである。  

 また、一般教養基礎学においては統計学、心理学、気象学といった課目が教えられた。統計学に8時間、心理学に5時間が配当 された(前掲『陸軍中野学校のすべて』)。  

 もちろん十分な授業時数ではないが、それでも、終戦後に出光石油に勤務した1期生の牧沢義夫氏は、中野学校の教育で実務に役立ったのは統計学と資源調査のリサーチ法であったと語ってい る(斉藤充功『証言 陸軍中野学校 卒業生たちの追憶』)。こ うした課目も基礎教育としての価値は十分にあったとみられる。  

 筆者は退職後、情報分析官としての必要な知識、技能および資質を養成する上で何が重要であったかと時々回想することがあるが、統計学、心理学、さらには(中野学校の教育課目にはなかったが)哲学の素養が重要であるとの考えに至った。  

 たとえば、ビジネスにおけるデータ分析などの本や論文などを 読んでいると「ベイズの定理(条件付き確率)」といった言葉がよく出てくる。これは統計学を学んだ者にとっては常識であるよ うだが、かつての私の現職時代を振り返っても、この定理が話題 になったような記憶はほとんどない。

 「ベイズの定理」とは「ある事象が起こったという条件のもとで の事象が起きる確率」のことである。たとえば最初に、(1)X国が Y国を攻撃する(10%)、(2)X国はY国を攻撃しない(90%) の2つの仮説とその確率を立てたとする。そののちに、Y国指導者が「ミサイル実験は中止する」と発言したとすれば、最初の仮説を適度に見直す必要がある。  

 ここでは詳細説明は割愛するが、人間はあとで生じた情報、 すなわち「ミサイル実験は中止する」を過度に重視して、最初の事前確率(10%、90%)を無視して、最初の仮説の確率を大幅に引き上げたり、引き下げたりする。 そうした心理的バイアスを排除して、冷静な分析を可能にするのが「ベイズの定理」である。  

 現状分析や未来予測において、データやインフォメーションか らインテリジェンスを生成するためには定量的な分析が欠かせない。しかし、しばしば定性的な分析にとどまることの一つの原因 としては、統計学の素養がないことがあげられよう。  

 中野学校において、どのような統計学の授業が行なわれたかは 定かではないが、たとえ授業時数が不十分であったとしても、か かる課目の重要性をしっかりと認識していた点については、情報教育に対する視野の広さを感じる。

▼ユニークな教育で危機回避能力の向上  

 1期生の術課においては、自動車学校、通信学校、工兵学校、 飛行学校などへ行って、無線の操作、自動車や飛行機の操縦練習などを行なったようである。もちろん、わずかな教育時間で飛行機が自由自在に操縦できるなどありえないことであるが、これら は何らかの想定外の事態が発生した場合の危機回避法の修得が 狙いであったのであろう。  

 さらにユニークな教育として今も語り伝えられているのが、甲賀流忍術14世名人の藤田西湖氏による忍術教育である。この教育は今日もさまざまな形で、おもしろおかしく取り上げられ、し かも脚色されている。このことが中野卒業生が“スーパー忍者” であったかのような誤情報の伝播原因ともなっている。  

 忍術教育には8時間(3回)の授業時数が配当され、藤田によ る講義と実演のみであり、学生の実習はなかったようである。藤田は節(ふし)を抜いたタケをもって水中にもぐりひそむ法、腕や足の関節をはずしてワナを抜ける法、音をたてずに歩いたり階 段を上がったりする法、壁や天井をはい回る術などを、みずから 実践してみせてくれたという(畠山清行『秘録陸軍中野学校』)。  

 忍術といえば、いかさま“インチキ手品”のようにも受け捉られかねないが、捏造的な実演が展示されたわけでもない。藤田は 「犬の鳴き声をするとメス犬が吠える」と言って、犬の鳴き声を 実演したが、なかなか思うような状況にはならなかったようである。  

 藤田によれば次のように忍術と情報活動との関係を説明している。 「忍術は常にいつの時代においても行なわれており、忍術という ものの行なわれない時は一日としてない、ことに現代のごとく生存競争の活舞台が層一層の激甚を加える時、人事百般、あらゆることに、あらゆる機会においてこの忍術は行なわれ、忍術の行な われない社会はない。 ただ忍術という名前において行なわれないだけである。

 忍術と いうものはかつての軍事偵察、今日でいう間諜の術=スパイ術である。このスパイ、間諜というものは、いつの時代においても盛 んに活躍していたもので、今日支那事変や大東亜戦争が起こると、 世界各国の種々なる間諜、スパイが一層活躍しているのである」 (藤田西湖『忍術からスパイ戦争』。現代仮名遣いに改め)  

 忍者は飛鳥時代にすでに発祥したといわれ、中野学校の精神教育の理想像とされた楠木正成も忍者のルーツを引く。忍者は時代 を問わず、ずっと“日陰者”として存在し、主君に誠を誓い、主君の窮地を しばしば救った。そうした忍者に関する講義を通じて、学生に危機を回避するうえでの伝統的な知恵を授けると同時に、国家に対する忠誠心を涵養する狙いがあったのであろう。

  「諜者は死なず」という短句が象徴するとおり、「秘密戦士は任 務完遂するまで、たとえ捕虜になろうとも、片眼、片腕、片脚を失っても情報伝達のために帰ってこい、死んではならない」と教育された。この点についても諜報員と忍者とは共通するものがある。自動車学校などにおける操縦訓練や忍術教育は、このような秘密戦士の特性に鑑みた危機回避法や生存自活法が狙いであったといえるだろう。  

 さらにユニークな教育としては、前科十何犯かという有名な掏摸(すり)を招いての実演や、偽編術(ぎへんじゅつ、変装術の ことをこう呼んだ)の講師としてめったにお目にかかれないような絶世の美人になりきった新派の元女形も登場したようである。  

 これらも、実際の掏摸や元女形から情報の窃取や変装の技術を学ぶというよりも、情報や諜報活動上の保全の重要性、あるいは先入観で物事を見たりすることの危険性、平素の観察力のいいか げんさ、などを感覚・知覚的に理解させる印象教育が狙いであっ たであろう。  

 中野学校の前身である後方勤務要員養成所の所長、秋草俊は 「万物これ悉(ことごと)く我が師なり」を教育哲理としていたようである。

 「秘密戦士にとって役立つと思えば、教育は形式に とらわれるべきではない。学生が自由な発想で秘密戦士にとって 何が必要であるかの答え見つけ出すことが重要なのだ。教官はそ の手伝いをしているに過ぎないのだ」というような、当時の秋草 の語り口さえ想像できる。

▼自主と創意工夫を重視  

 教育内容の主軸となる諜報、謀略、防諜、宣伝については、中 野学校職員による諸外国の実例についての講義が主体であったよ うであるが、これに加えて参謀本部の謀略課(第8課)などから 部外講師が私服に着替えて来校して、授業を行なっていたようで ある。  

 1期生の日下部一郎氏の著書『陸軍中野学校 実録』には以下 の件がある。 「講義もまた型破りであった。教科書がない。教材がない。も ちろん、一貫した教育方針や指導基準があるわけではなかった。 講義は、各教官の思いどおりに、自由な形で行われた。  

 わが国の戦国時代や、中国の戦史や、日清、日露その他の戦史 の中から、秘密戦に関する記録を収集したり、海外武官による各国の視察報告をまとめたりして、教材をしだいに作っていく状態 であった。」  

 つまり、当初の教育は手探り状態であり、それゆえに型にはま らない、自由発想と創意工夫が重んじられたとみられる。また教官は学生と一体となって秘密戦という未開拓の分野を共同研究し たようである。教官は学生と共に考え、教え合うことで成長する のである。  

 1期生は借家居住といういわゆる寺子屋式のなかで共同生活をした。また教育管理はおおらかであり、余暇には外出時間の制限 もなかったという。こうした自由闊達の雰囲気のなかで、学生は 自主自律の精神を陶冶したのであろう。  

 話は脇道にそれるが、筆者が所属した陸上自衛隊調査学校や 同小平学校では学生に対して「24:00帰校ルール」と いうものがあった。夜中の12時までに学校の警衛所を通過して帰校しなければならないというものである(現在、存続しているか どうかわからない)。  

 すでに就寝している学生もいるし、どやどやと音を立てて学生舎に帰ってきても困る、外出している学生自身も明日の授業に差 し障りがあるという、学校上層部の当然と言えば当然の判断であったように思う。 ただ、時代やおかれた環境が違うといえばそれまでであるが、自律心 という点ではまことに情けないといわざるを得ない。

▼明石大佐を模範とする理想像の追求  

 前出の日下部は、「学生たちにもっとも深い感銘を与えたのは、 日露戦争における明石元二郎大佐の活躍であった」として、以下 のように述べる。 「中野学校の錬成要綱の一つに、『外なる天業恢弘(てんぎょう かいこう、筆者注:天皇の事業を世に推しひろめるという意味) の範を明石大佐にとる』という言葉があった。

 中野学校の目的は、 単なる秘密戦士の養成ではなく、神の意志に基づいて、世界人類 の平和を確立するという大きいものであり、そしてその模範とすべきは明石大佐である、という意味だ。実際に、明石大佐の報告書と『革命のしおり』という標題のつけられた大佐の諜報活動記録は教材に用いられ、それによって、学生たちは大いに鍛えぬか れたのである。以下略)」  

 つまり、教科書や教材が不十分であって教育方針も固まらないなかで、教育の理想像とされたのが日露戦争時の明石大佐であっ た。明石大佐の活躍については、本シリーズ「わが国の情報史」 ではたびたび触れているが、ここでもう一度簡単におさらいを しておこう。  

 明石大佐は、1904年の日露戦争の開戦前から駐露公使館付武官をつとめ、開戦とともにスウェーデンのストックホルムに根拠を移し、欧州各地に縦横に動き回り、対ロシア政治工作に従事 した。  

 上述の報告書とは、明石大佐が帰国して1906年に参謀本部 に出された『明石復命書』のことであり、明石自身がこれに『落花流水』と題をつけたとされている。また『革命のしおり』とは、 この報告書を参謀本部の倉庫から探し出し、秋草、福本、伊藤の三教官が徹夜で謄写版刷りの教材にまとめあげたものとされる。  

 今日『落花流水』は一般書籍にも収録されている。この記述内容から、公刊資料を活用しての任国の政治情勢、民情、敵対勢力や友好勢力に関わる分析手法、現地における協力者との接触要領、 革命・扇動の準備工作や留意点などの教育が中野学校で行なわれたとみられる。  

 1940年10月の乙Ⅰ長(2期生)の卒業式には東条英機陸軍大臣が出席し、席上、首席学生は明石大佐の政治謀略について講演した。つまり明石謀略は学生の必須の自主命題とされ、教育課目の内外において自学研鑽が重ねられたとみられる。  

 また教官は、明石大佐の活躍を称賛する一方で、その活躍がこ のほか世の中に語られていない状況を次のように示唆したようである。

「明石大佐のような日露戦争の最大功労者であっても、その帰 国を迎えた者は、人目をはばかってカーキ色の軍服をさけ、私服 に二重まわし姿の児玉源太郎将軍ただ一人であった。この報告書 に至ってはホコリをかぶり、眠り続けている。それでも明石大佐 は駐露武官である。ましてや秘密戦士の功績は語ることもできな ければ、敵国に捕えられれば銃殺や絞首刑は免れない。それでも 貴様らは耐えられるか。耐えられなければ遠慮なく辞職を申して出てもらいたい」(筆者が畠山『秘録陸軍中野学校』から要点を抽 出して作文)  

 このように明石謀略は秘密戦の知識・技能の教育にとどまらず、 秘密戦士の道を説く精神教育としても恰好の題材となったのであ る。  

 現在となっては、明石がレーニンと直接に会ったという事実はないとされ、明石謀略によって帝政ロシア内で大衆を動員して革命扇動を起こさせた、などについても疑義が呈されている。  

 しかし当時は、ドイツ皇帝ウィルヘルム2世が「明石1人で、 大山大将の満州軍25万人に匹敵する成果を挙げ、第一次世界大戦では、明石の手法をまねて、ついに帝政ロシアを崩壊させた」 などのことが事実として語り継がれており、学生たちにとって明石大佐は紛れもなくヒーローであったのである。 (次回に続く)

私にとってのクロノロジー分析とは

クロノロジー分析は情報分析の王道である

クロノジーこそが情報分析の王道であると、私は考えている。防衛省の情報分析官であった時は、まずクロノロジーを作成することを情報分析のスタートラインとしていた(拙著『戦略的インテリジェンス入門』)。

クロノロジーとは歴史年表であるが、一体どこまで遡ればよいのか?

これについては歴史勉強のテーマの一つでもあるので、少し情報分析と歴史学との関係まで思考を広げてみたい。

歴史はいつまで遡るのか?

「歴史は繰り返す」 は古代ローマの歴史家クルティウス・ルーフスの言葉である。これが真実ならば、過去を知ることで未来が予測できる。しかし、歴史は本当に繰り返すのだろうか?

これに関して、元外交官の加藤龍樹氏は自著『国際情報戦』において、「歴史は繰り返さない。繰り返すのは類似した事例であり、傾向である」「観察が精密になれば、実験の度にすこしずつ違った結果がでてくる」と述べている。

他方、加藤は「過去の事実をいくら調べてもあまり意味がないのか?」という問題提起に対し、「過去の出来事の中で未だ過ぎ去り行かぬもの、現在を支配し将来に影響を及ぼすものを把握することが情勢判断の核心である」とのドイツの歴史家ドロイゼンの言を引用して、歴史の中で「生きている要素」(未来に影響を及ぼすもの)を見出し、それを学ぶことの重要性を説いている。

では相手国等に関する歴史について、どの程度学ぶ必要があるのだろうか?これに関して、元外交官の岡崎久彦氏は自著『国家と情報』(1980年12月出版)において、「専門家にとって要求されるのは、せいぜい戦後30年間の経緯」「ソ連ならばフルシチョフ以降の事実関係に精通しているだけで専門家として通用」「18世紀以前のロシア史の知識などはまったく要求されない」「歴史の面白さに耽溺してしまって専門家として失格」などと述べている。

クロノロジーは相当過去まで遡る

翻って、クロノロジーはいつまで遡るか、ということについても、分析する対象(事象)、すなわち「問い」それぞれによるというほかない。

2018年4月、私は北朝鮮問題をビジネスパーソンと考える情報分析講座を担任したが、その時は朝鮮戦争の終了時点まで遡り、それ以降現在までの約70年弱にわたり、A4で約15枚に及ぶクロノロジーを作成した。講義参加者から「そこまでやるのか!」と驚愕されたことがあるが、物事の本質を探るためにはまだ不十分であるくらいだ。

上述のように「生きている要素」の抽出に留意して年表をさくせいすることになるが、「生きているか、死んでいるか」一見して判断できないもの、すなわち「生きている可能性があるもの」はできるだけ見落してはならない。そして個々の事象としてはたいしたことはないが、関連性によって「生きてくるもの」もある。だから、相当の事象を抽出していくことになる。

私にとってクロノロジーの作成は情報分析の全工程の6割以上の労力を占めるといっても過言ではない。私は心配性なので、「このくらいでいいかな?」と思ったその少し前までの歴史事象を踏まえてクロノロジーを作成していた。

山一証券の破綻の原因はバブル崩壊か?

ここで、なぜ相当過去まで遡らなければならないのか、一例をあげてその理由を説明しておきたい。

1997年11月、四大証券会社の一つであった山一証券が破綻した。その直接原因は以下のとおりのことが指摘されている。

・ 1997年のアジア金融危機 が発生

・同危機に対して、山一証券が「飛ばし」と呼ばれる大口顧客への損失補填を実施

・旧大蔵省が上記を摘発したために山一証券の信用低下が発生

ここで、少し前まで遡ると、1990年代のポストバブル期の長期株価の低迷が原因としてあげられる。つまり、バブル崩壊→金融危機→山一証券の不正→旧大蔵省の摘発→山一証券の信用低下という因果関係に気づかされる。

山一証券の破綻の真因は日銀特融?

しかし、破綻するような会社は、長年にわたる歴史的な構造的問題を抱えていることが多い。そこで、これが本当の山一証券の破綻の原因なのか、さらに歴史を遡ると、それは1964年の「証券不況」に行きつく。

証券不況で山一証券は危機に落ちいり、日本銀行から無担保・無制限での融資、すなわち「日銀特融」を受けた。この「日銀特融」後の山一証券の動きを丹念にクロノロジー化すると、特融を完済するための山一証券の〝背伸び経営〟が負の連鎖を引き起こして破綻に至ったことが理解できるだろう。つまり、山一証券の破綻の基点は1990年代のバブル崩壊ではなく、経営陣による人的災害であったともいえる。

実松大佐の警告

しかし、実は「日銀特融」とて、本当の始点ではないのかもしれない。かつて海軍軍令部にピカイチの情報参謀がいた。実松譲大佐である。

彼は敗戦後の一時期、戦犯として巣鴨での獄中生活を送ることになったが、ここでは毎日の株価を丹念にグラフ化していたそうだ。「株の変動を見ていると社会情勢がよくわかる」というのが実松氏の考えであった。

彼は昭和28(1953)年4月に山一証券に入社。ここで対米調査を担当した。多くの調査報告書を作ったが、山一証券の重役は「軍事あがりに何が分かるか」という態度だったそうである。

実松氏は1年もしないうちにやめた。この際、知人に「あのままだと山一を潰れるよ」といったそうである。(谷光光太郎『情報敗戦』)

実務者は歴史書を読むだけでなく、クロノジーに落とし込め

このように過去まで遡り、その歴史的な経緯を丹念にみることで、物事の本質にたどり着くことがある。

現在を生きる分析者は過去の歴史を直接に知らない。だからクロノロジーを作成し、ある種の変化が何時、どのように発生したのか? その変化をもたらした要因は何か? 推理力を働かせて、物事の背後にある推進力(ドライビングフォース)を特定する。そしてドライビングフォースを基準にして未来を予測するのである。

クロノロジーは歴史を考察するための手法である。実務者は単に歴史教科書を読むだけで満足してはならない。歴史をクロノロジーという具体的な形に落とし込んで、そこに歴史の必然性や因果関係を必ず発見するという精神作用が加わらなければならない。

わが国の情報史(41) 秘密戦と陸軍中野学校(その3) 陸軍中野学校の学生選抜と教育方針

▼はじめに

 さて、今回は「秘密戦と陸軍中野学校」編の第3回である。中野学校の学生選抜と教育方針について解説することとする。

▼入校学生は5種類に分類

 1938年7月の後方勤務要員養成所の入所(入校)者(1期
生)の主体は民間大学など高学歴の甲種幹部候補生出身将校から
採用することとし、各師団や軍制学校からの推薦を受けた者を選
抜した。これは、秘密戦士には世の中の幅広い知識が必要である
との配慮による。

 なお、所長の秋草自身も陸軍派遣学生として一般大学(現在の
東京外国語大学)を修了している。

 また、2期学生からは下士官養成も開始し、陸軍教導学校での
教育総監賞受賞者や現役の優秀な下士官学生(乙種幹部候補生出
身)を採用した。さらに中野学校が正規の軍制学校になってから
は陸軍士官学校出身将校をも採用し、戦時情報および遊撃戦の指
導者として養成された。

 1940年8月制定の「陸軍中野学校令」では、入校学生は甲
種学生、乙種学生、丙種学生、丁種学生、戊種学生に分類された。
これは前回述べたとおり、1941年10月には、学校の所管が
陸軍省から参謀本部に移管されて参謀本部直轄校となり、甲種学
生が乙種学生に、乙種学生が丙種学生、丙種学生が戊種学生とな
った。

 では上述の区分にしたがって各種学生を順番に紹介することと
しよう。

(1)甲種学生 
 後方勤務要員養成所および「陸軍中野学校令」(1940年8
月)の乙(陸軍士官学校出身)および丙種(甲種幹部候補生出身
将校)の学生課程を経て、一定期間に秘密戦に従事した大尉、中
尉が対象となった。修業期間は1年間。
 しかし、これは制度として存在したのみであり、中野学校が短
期間で終了したために活用されず。
 なお、この学校で1甲、2甲と称せられた学生は「陸軍中野学
校令」制定前に陸軍士官学校出身者で中野学校に入学を命じられ
た学生の呼称である。
(※注「1甲、2甲」は「陸軍中野学校令」制定後、参謀本部直
轄前の入校)

(2)乙種学生
 陸軍士官学校を卒業した大尉および中尉を主体として、そのほ
か現役の各種将校を推薦により乙種学生として入校させた。修業
年限は2か年、当時の情勢で1年ないし8か月に短縮。1942
年に入校の1乙より、45年入校の5乙まで存続した。卒業生総
数は132人。

(3)丙種学生
 甲種幹部候補生出身の教育機関である予備士官学校の学生から
試験を行なった後に採用した学生であり、修業年限は2か年、当
時の情勢で1年ないし8か月に短縮。中野学校の幹部学生の大半
を占めて基幹学生ともいうべき存在。
 後方勤務養成所創設時に入校した1期生、その次に入校した乙
I長および乙I短(いわゆる2期生)、それ以降の乙II長およびと
乙II短は丙種学生である。
 遊撃戦幹部要員としての二俣分校学生、遊撃および情報の臨時
学生は、ともに丙種学生の範疇に属する。
 卒業生総数は本校学生が900人、二俣学生が553人。

(4)丁種学生
 中野学校を卒業した下士官を将校にするための課程学生である。
制度として存在したのみで、実際には活用されず。

(5)戊種学生
 乙種幹部候補生出身や陸軍教導学校において教育総監賞などを
受賞して卒業した下士官学生であって第2期生から採用され、陸
軍中野学校の下士官学生の基幹となった。卒業生総数は567人。

 以上のとおり、中野学校の主体をなす学生は民間大学等高学歴
の甲種幹部候補生出身将校の丙種学生と、陸軍教導学校などを卒
業した下士官学生である戊種学生とが大半であった。

 そのほか必要に応じて遊撃戦の幹部将校を養成するために臨時
に入校を命ぜられた遊撃学生、司令部で情報分析等に勤務するた
めの将校を養成するために臨時に入校を命ぜられた情報学生がい
た。(以上、『陸軍中野学校』より要点を抜粋)

▼卒業生の選抜

 中野学校の基幹をなす丙種学生の選抜要領は以下のとおりである。

1)陸軍省より、師団、予備士官学校、各種陸軍学校に対し漠然
と秘密戦勤務に適任と思われる学生の推薦を依頼する。
2)師団、予備士官学校等において、中隊長等がそれとなく適任
と思われる成績優秀な学生を選び、本人の意思を尊重して、相当
数の学生を選出して報告する。中野学校職員が説明に出向くこと
もあった。
3)中野学校において右報告書に基づいて書類選考し、受験させ
る者を決定し、予備士官学校に通知する。
4)受験者に対し、陸軍省、参謀本部、中野学校職員からなる選
考要員が、それぞれの予備士官学校等(1期生は九段の偕行社)
に出張し、各地における選考の結果を総合して採用者を概定し、
1人あたり1時間の口頭試験を行ない、身体検査する。
5)各地における選考の結果を総合して採用者を概定し、これに
対し憲兵をして家庭調査をさせる。その結果に基づいて採用を決
定する。
6)採用予定者を中野学校以外の東京のとある場所に招集して、
再度本人の意思を確かめ、さらに身体検査をして採用を決定した。

 選抜に際しては、受験生に対して中野学校での勤務内容を秘匿
することと、本人の意思に反して入校強要しないことの2点が留
意された。

▼学生に対する教育および訓練の特色

 中野学校では秘密戦士として必要な各種の専門教育が行なわれ
た。

 秘密戦の特性上、「上意下達」の一般軍隊とは異なり、単独で
の判断が必要となる場面が多々予測される。そのため幅広い知識
の付与と、新たな事態に応じた応用力の涵養を狙ってカリキュラ
ムが組まれた。

 また「謀略は誠なり」「功は語らず、語られず」「諜者は死せ
ず」など、精神教育、人格教育などが徹底された。さらにはアジ
ア民族を欧米各国の植民地から解放する「民族解放」教育もなさ
れた。

 経年的にみるならば、1938年7月の開所からの約3年間は、
海外における秘密戦士(いわゆる長期学生)を育成することを狙
いに教育が行なわれた。しかしながら、1941年末の太平洋戦
争の勃発(開戦)により、卒業後の任地は作戦各軍に赴任するも
のが多くなり、教育内容も次第に戦時即応の強化に重点が指向さ
れるようになった。

 そして開戦後の2年間までの学生は、いまだ戦場になっていな
い関東軍方面要員についての多少の例外があったが、南方地域を
はじめとする支那方面およびその他の地域において、占領地域の
安定確保、民族解放のための政治的施策などをはじめとして、将
来の決戦にそなえる遊撃戦要員としての特技が強く要求されるに
いたった。

 1944年以降は、遊撃戦の教育および研究に最重点がおかれ、
それも外地作戦軍地域内における遊撃戦にとどまらず、本土決戦
に備えて、国内において遊撃戦を敢行するための各種の訓練が開
始された。

▼中野学校が目指した教育方針

 上述のように、中野学校の教育内容は国際情勢の趨勢とわが国
の戦況によって変化した。ただし、中野学校が当初目指した教育
の主眼は、“転属のない海外駐在武官”の養成であった。

 秋草中佐は後方勤務要員養成所の開所にあたって、1期生に対
して「本所は替らざる駐在武官を養成する場であり、諸子はその
替らざる武官として外地に土着し、骨を埋めることだ」と訓示し
た。

 当時、秘密戦の中核ともいうべき軍事情報の収集は、各国とも
に主として海外駐在武官がこれに当たっていた。そのため、武官
には広範な良識と特殊な秘密戦技能を持つことが要求された。

 当時、欧米の場合は情報謀略要員が長年の間、一定の地に留ま
って情報活動を行なうのが通例であった。しかも階級も年功や功
績によって少尉から将官まで順調に昇任したという。

 これに対して、日本の陸士、陸大出身の在外武官は階級を上げ
るためにポストを替えなければならないので、3年もすれば栄転
というかたちで転属するほかなかった。こうした官僚制度により、
在外での秘密戦の効果が妨げられたようである。

 この改善こそが、甲種幹部候補生出身将校による、長期にわた
る在外での情報勤務であったわけである。ある意味、昇任・出世
を捨てて、国家の捨て石としての存在を幹部候補生に求めたとい
える。幼年期から軍人として育てられた陸士出身者ではそれは補
えず、危機対処能力、形に捉われない柔軟な発想力こそが幹部候
補生の強みであった。

▼1期生の教育

 中野学校の当初の教育方針が「替らざる武官」、すなわち海外
勤務に長期間にわたって従事する長期学生の育成にあったこと、
そして1941年から太平洋戦争が開始され、「戦わずして勝つ」
の追求が困難になったことに着目する必要がある。

 つまり、中野学校の教育の原点は、1期生と第2期の長期学生
(乙I長)および乙II長(開戦間近に繰り上げ卒業)に対する教育
への思いであったことを軽視してはならない。

 1期生の教育カリキュラムはしっかりと定まったものではない。
いや、試行錯誤を前提としたものである。ただし、それゆえに関
係者の思いが凝縮しているのである。

 そこで1期生の教育課目についてみてみよう。

(1)一般教養基礎学
 国体学、思想学、統計学、心理学、戦争論、日本戦争論、兵器
 学、交通学、築城学、気象学、航空学、海事学、薬物学
(2)外国事情
 ソ連(軍事政略)、ソ連(兵要地誌)、ドイツ、イタリア、英
 国、米国、フランス、中国(兵用地誌)、中国(軍事政略?)、
 南方地域(軍事)
(3)語学
 英語、ロシア語、支那語
(4)専門学科
 諜報勤務、謀略勤務1、謀略勤務2、防諜勤務、宣伝勤務1、
 宣伝勤務2、経済謀略、秘密通信法、防諜技術、破壊法、暗号
 解読
(※謀略勤務1と2があったのではなく異なる教官により教育で
あったので、筆者が番号はふって区分した)
(5)実科
 秘密通信、写真術、変装術、開緘術、開錠術
(6)術科
 剣道、合気道
(7)特別講座、講義
 情報勤務、満州事情、ポーランド事情、沿バルト三国事情、ト
 ルコ事情、支那事情、支那事情、フランス事情、忍法、犯罪捜
 査、法医学、回教事情
(8)派遣教育
 陸軍通信学校、陸軍自動車学校、陸軍工兵学校、陸軍航空学校
(9)実地教育(往復は自由行動、終わって全員学習レポートを
 提出)
 横須賀軍港、鎮守府、東京湾要塞、館山海軍航空隊、下志津陸
 軍飛行校、三菱航空機製作所、小山鉄道機関庫、鬼怒川水力発
 電所、陸軍技術研究所、陸軍士官学校、陸軍軍医学校、陸軍兵
 器廠、大阪の織物工場、その他の工場、NHK、朝日新聞、東
 宝映画撮影所、各博物館等
(以上、校史『陸軍中野学校』より抜粋)

 ざっと教育課目を眺めるだけで、どのような教育が行なわれた
のか察することができるが、次回はもう少し、教育内容をかみ砕
いて、その特色など説明することとしよう。

近日、講談社現代新書から拙著が発売(2)

前回の続きです。本日は書影が完成したので、その紹介をします。

ここに紹介しますのは未来予測のための「個人モデル」の思考サイクルです。オリジナルですので、もちろん、どの書籍にも載っていません。

組織としてのインテリジェンスサイクルはCIAモデルなどがすでに提示されています。それは、1-計画・指示、2-収集、3-処理、4-分析・作成、5-配布の順となります。

つまり、政策決定者などの使用者から1の計画・指示が出され、収集部隊などが情報の収集を開始します。

このインテリジェン・サイクルを個人モデルにそのまま置き換えると、上級者から1のか「計画・指示」に替る「何か書いてみない」との漠然としたオーダーが出て、いきなりの2の情報を集めようとします。

これでは、効率的な情報収集とはいえませんし、氾濫している情報の渦に巻き込まれて身動きができなくなります。さらにはガサネタに踊らされるかもしれません。

そこで必要になるのが①の「問い(問題)の設定」なのです。実は、これが私が以前所属していた組織の若手分析官はできていませんでした。だからプロダクトがなかなか書けないのです。これは上司の指導上の問題でもあります。

この点の重要性は前著『武器になる情報分析力』でも強調しましたが、今回はより身近なテーマで、 ケーススタディでにより①についての要領を解説しています。

①の「問いの設定」の次には、②枠組みの設定が重要となります。これは設計図の作成といってもよいでしょう。これについては、前著ではドライバーと表現していましたが、日本語として馴染まないということもあり、「枠組み」としました。

①と②により、必要な情報の枠をあらかじめ設定して情報を収集する、これが最初のポイントです。

③については、本著は未来予測のための技法を焦点にしていますので、説明は割愛しています。

④については、現状分析と未来予測の技法について紹介しています。

⑤は「戦略判断」としましたが、組織モデルでは5-配布です。情報組織は政策の領域まで立ち入らない、すなわち政策を誘導しないことが原則です。専門用語で、これを「インテリジェンスの政治化」を回避する、といいます。

しかし、会社の企業戦略や個人の発展戦略では自分で戦略判断をしなければなりません。未来予測は戦略判断のためにあります。ということは、実は、この⑤から未来予測のサイクルを開始するといってもよいのです。

ようするに、個人が未来に向かって何かの判断をする場合、今現在の立ち位置を明確にして個人モデルの循環サイクルを常に回せ、といことです。

この個人モデルに連接する形で、必要な9つの技法を特定し、図示しました。 次回は、それを紹介したいと思います。