『孫子』から学ぶインテリジェンス講座(その5)

第13編用間の5つのスパイ

第13編「用間」では、「故に間を用いるに五間あり、・・・」として、以下五種類の間(スパイ)に区分している。

1)「郷間」:敵国及び第三国の一般大衆から情報収集を行うスパイ

2)「内間」:敵国の官僚、軍人などを誘惑して秘密情報を収集するスパイ

3)「反間」:敵国のスパイが我が方に寝返ったスパイ (二重スパイ)

4)「死間」:自らを犠牲にして、敵側に浸入して、偽情報を自白して、相手側を撹乱させるスパイ

5)「生間」:は、最終的に生きて敵側から重要な情報を持ち帰るスパイ

最も重要なスパイは反間

なかでも孫武が重視するのが「反間」(二重スパイ)である。 孫武は「必ず敵人の間ありて、我を関するものを索め、よりてこれを利し、導きてこれを舎す、故に反間を得て使うべきりなり」と述べている。

これは、敵の間者としてわが国の様子をうかがっている者を必ず探し出し、何らかの切欠を求めてこれと接触し、あつく賄賂を与えて、わざと求める情報を与え、よい家宅に宿泊させて、ようやく反感として用いることができる、との意味である。

さらに「五間の事、主必ず之を知る。之を知るは必ず反間に在り。故に反間は厚くせざるをべからざるなり」と述べる。これは、五とおりの間者からの情報を君主は必ず知っておかなければならないが、それらの情報源の糸口は必ず反間によって得られるから、反間をもっとも優遇しなければならない、との意味である。

情報活動の種類

情報活動はこれらの五種類のスパイを駆使して行われる。つまり、それぞれの「間」は、以下のように、情報活動の区分にもなる。

「郷間」:一般の情報収集活動

「内間」:非公然の諜報活動、すなわちスパイ活動

「反間」:敵国のスパイ(二重スパイ)を寝返らせ、我の偽情報を意図的に流し敵の誤判断や官民の離間を謀る宣伝謀略

「死間」:自らを犠牲にして、命と引き換えに敵国を油断させ真実の目的を達成する謀略

「生間」:は本国と敵国と行き来し、情報を報告・通報する通信活動 このように情報活動には様々な形があるが、それは国家目的の遂行という一点に収斂される。

『孫子』ではこれらを同時に投入しなければならないとしている。しかも、その存在やそれぞれの活動を敵にも味方にもしらせないことが重要だとし、それを「神紀」(神妙で秩序正しい用い方)と称している。

元CIA長官のアレン・ダレスは、「神紀」を「多数の糸からできた魚網が結局は一本の細い綱で結ばれている」と喩えている。

 情報保全の重要性

情報活動には積極的活動と消極的活動とがある。 積極的活動には、情報を収集・処理してインテリジェンスを生成する活動のほか、相手側の意図を破砕し、我の思うとおりに誘導し、我の利する活動を積極的に行わせる秘密工作がある。

一方の消極的活動は、厳密には後者には情報保全(Security Intelligence)とカウンターインテリジェンス、(Counter Intelligence、以下、防諜と呼称)に区分される。

このなかで情報保全は、敵対者などから秘密文書などを窃取されないように管理するなど公然的かつ受動的な活動である。 まずは、情報保全について、『孫子』から教訓事項を汲み取ることにしよう。

目立つ行動はするな

第四編「軍形」では、「善く守る者は九地の下に蔵(かく)れ、善く攻める者は九天の上に動く。故に能く自ら保ちて勝を全うするなり」と述べている。つまり、巧みに戦うものは、大地の奥深くに潜行して、好機を見て表に出て決戦を行うのであって、自軍を敵の攻撃から保全することが重要であると説いている。むやみやたらに「目立つ行動をするな」との行動保全の戒めである。

人にはいらない情報を与えるな

同じく第八編「九地」には、「知りがたきこと陰のごとし。良く士卒の耳目を愚にして、告ぐるに言を以てすること勿れ」がある。これは、将軍が物事を整斉とおこなうためには兵士を統制して無用な混乱を避けなければならず、それゆえに「将軍が何を考えているのかなどのハイレベルな情報を兵士に与えるな」、「与えれば怖気づいて逃げる兵士もいる」という意味である。 この戒めは、米国など重視される「知る人ぞ知る」(「NEED TO KNOW」の原則)と相通じるものがある。

無形が保全の境地

第六編「虚実」では「無勢で多勢に勝つ」方法を追求している。つまり「人を致して人に致されず」として、戦い方によっては、自らが受動に陥ることなく、自らが主導権を握り、敵を意図どおりに操り、我の兵力を手中して敵を攻めることで無勢であっても多勢に勝つことができることを説いている。

このために「故に兵を勝たすの極は無形に至る。無形慣れれば、則ち深間も窺うこと能わず。形に因りて勝を錯(お)くも、衆は知ることは能ず」と述べます。つまり、主動性を発揮するためには、態勢を敵から悟られないようにしなければならない。

隠せば、深く入り込んだスパイや、智謀の優れた者でも我の企図を解明することはできないということを極意として強調している。

さらには「夫れ兵の形は水に象(かたど)る」「故に兵に常勢なく、水に常形なし。能く敵に因りて変化して勝ちを取る者、これを神と謂う」と述べている。

つまり、「軍の態勢は水のようなもので、軍の態勢は一定ではなく、水の流れは一定ではない、敵情のままに従って変化して勝つのが神業である」と説いているのである。 これらは、我の行動を無形の境地に高め、敵から保全することが、主導性を確保する秘訣であることを強調しているのである。

真珠湾は保全の勝利

そうはいうものの、我は大部隊の配置や行動のすべてを隠すことはできない。できるのは、その全貌と企図である。 1941年12月、日本海軍ははるか遠くの真珠湾を攻撃した。

艦隊は無線封止、艦船部隊の無線呼び出し富豪の変更、九州方面の基地航空部隊と艦隊による偽交信を行い、ひそかに千島択捉島単冠湾に集結し、攻撃目標と攻撃時間を保全した。

米軍は、戦争が起こるとは予想していただろうが、その場所が真珠湾だとは予測できなかった。 また、米側は日本海軍の暗号を解読できず(反対論はあり)、日本南侵(タイ、ビルマ、シンガポール)を信じていたため、ハワイだとは想像しなかった 。

つまり、真珠湾攻撃の成功は、我の全貌と企図を隠した保全の勝利であった。

敵対勢力は市政に身を隠す

毛沢東は抗日戦争で農村ゲリラを組織し、「遊撃戦」と称するゲリラ戦を展開し、「遊撃戦」論で「人民は水であり、解放戦士は水を泳ぐ魚である」と語り、人民の大会の渦の中で自己の組織を保全することを得策とした。

このことは逆に、我々の社会や組織に敵対勢力が浸透している可能性を示唆している。そして、敵対勢力は重要人物の獲得や、作戦計画などの重要書類を虎視眈々と収集しているということである。

我がその危険性に気が付き、われの重要な資源を防護しなければ、情報戦に勝利することなど論外だ、ということである。

わが旧軍のお粗末な組織保全

 これに関して、旧軍の情報管理はまことにお粗末であった。 1944年3月31日、連合艦隊がパラオからミンダナオ島のダバオに退避する古賀峯一司令長官(大将)以下が搭乗した一番機が墜落(殉職)。二番機に搭乗していた福留繫参謀長(中将)、山本祐二作戦参謀(中佐)以下は墜落を免れてセブ島沿岸不時着した(海軍乙事件)。

福留参謀は反日ゲリラの捕虜となり、作戦計画、暗号書などの機密文書を収めた鞄を奪われた。その後、機密文書はゲリラの手から米軍に渡り、米国で翻訳されたのち、前線の米太平洋艦隊やその指揮下の第三艦隊に回送され、「あ」号作戦(マリアナ沖会戦)などに活用されたという。

なお米軍は、日本軍を安心させるためか、計画書などの原紙は鞄に戻し、セブ島近海に潜水艦から投棄したという。

一方の福留参謀以下は日本陸軍の治安維持部隊に救出され帰国し、福留、山本両氏は事情聴取で「機密入りの鞄は海中に投棄した」として、紛失したことは隠匿した。 このことが、それ以降の日米戦争において、日本軍を劣勢に追いやった大きな原因の一つとなったのである。

わが国の情報史(19)   

日露戦争の勝利の要因その1 -日英軍事協商と通信網の整備- 

日露戦争の勝利の要因

日露戦争の勝利について、著名な兵法家である大橋武夫は自著『戦略と謀略』(1978年)において、以下の6つの要因を挙げている。 (1)英国との同盟(1902年) (2)開戦から始められた金子堅太郎の終戦工作 (3)高橋是清の資金獲得とロシアに対する資金枯渇  (4)明石元二郎(大佐)の謀略工作 (5)特務機関の活動(青木宣純) (6)奉天会戦、日本海海戦の勝利

その後の日露戦争史の研究によって、明石大佐の謀略工作に対する否定な見方や、特務機関の活動効果に疑義を呈する意見も出てきている。 ただし以下の点についてはほぼ異論があるまい。

(1)日英同盟が、露仏同盟によるフランスの参戦とロシアに対する戦争協力を抑制した。 (2)日英軍事協商によりグローバルな戦略的インテリジェンスを獲得し、それが開戦当初から着手された終戦工作とあいまって、わが国の勝利に貢献した。  つまり、日英同盟による協力体制と、日英軍事協商による情報体制が日露戦争の最大の要因であった。

日英同盟の背景

日本が英国との間で同盟を締結できた理由について、当時の地政学的環境よりひも解けば、まずロシアの拡張主義が挙げられる。

ロシアの極東進出により、英国は清国の東北部での経済利益が阻害されることを警戒したのである。 また、ロシアによる南下政策により、英国のトルコに対する影響力が低下することも懸念された。  

こうしたロシアの拡張主義に対して、英国は当初、米国やドイツとの同盟を模索したのであるが、両国が英国との同盟に前向きでなかった。 そのため、ロシアの極東進出を警戒する日本との利害が一致し、英国はわが国との同盟へと向ったのである。 なお、日英同盟締結の陰で柴五郎中佐の八面六臂の活躍があったことについてはすでに『わが国の情報史(18)』において触れた。

日英軍事協商の締結

とくに日英同盟に基づき、水面下での日英軍事協商が締結されたことは、日露戦争勝利の大きな要因であった。 日英同盟成立から約4か月たった1902年5月14日、海軍横須賀鎮守府内で英国側からブリッジ東洋艦隊司令長官、日本側から山本権兵衛海相、陸軍からは田村怡与造参謀本部次長、福島安正同第二部次長らが出席して「日英軍事協商」の秘密会議が開催された。

続いて7月7日にはイギリス陸軍省で伊集院五郎海軍軍令部次長、福島第二部長らが出席して「日英軍事協商」が合意された。 この協商では「両国は、ロンドン・東京の日英公使館付海陸軍武官を通して、すべての情報を相互に自由に交換する」「両国の公使館付武官はいずれの任地でも自由に情報を交換する」などが規定された。

これによって、日本陸軍は、ロンドン駐在陸軍武官の対ロシア戦略情報とインド方面のロシア陸軍の情報などが人手可能となった。

この協商の具体的な合意事項は、おもに海軍の協力が中心の、次の「陸海軍協約」八項目であった。 (1)共同信号法を定めること。 (2)電信用共同暗号を定めること。 (3)情報を交換すること。 (4)戦時における石炭(日本炭、力ーディフ炭)の供給方法を定めること。 (5)戦時陸軍輸送におけるイギリス船の雇用をはかること。 (6)艦船に対する入渠修繕の便宜供与をはかること。 (7)戦時両国の官報をイギリスの電信で送付すること。 (8) 英国側は予備備海底ケーブルの敷設につとめること。

これらの協定をみてわかるとおり、過半が通信関連の事項であった。つまり日英の参謀本部のトップは、きたるべき日露戦争は、「情報戦争」「インテリジェンス戦争」であるという共通認識を持っていたのである。

児玉源太郎の活躍

児玉源太郎

当時、英国は世界の全海域に海底ケーブルを施設し、ロシア海軍の動きを察知していた。そうした英国から「日英軍事協商」により、インテリジェンスの全面協力がうけられるようになった意義は大きい。 日露戦争前には、わが国は大陸と日本の間の海底ケーブルを敷設し、インテリジェンスの連絡体制を確保した。これに最大の貢献したのが児玉源太郎である。

日本最初の海底ケーブルは1871年、大北電信会社によって長崎~上海間及び長崎~ウラジオストック間に敷設された。 さらに1883年、大北電信会社は呼子(よぶこ、佐賀県の最北端にあった町、現在は唐津市呼子町)~釜山間にも海底ケーブルを敷設した。

しかし日清戦争後、児玉は呼子~釜山間の海底ケーブルは軍が独占できなかったため、ここを切られたら通信が途絶えてしまうことを警戒した。 また、大北電信はデンマークの会社であり、その背後にロシアが存在していたため、情報が筒抜けになることが懸念された。

そこで児玉は独力で海底ケーブルを本土から台湾(基隆)、本土から朝鮮半島・中国まで施設し、世界中にはりめぐらせた英国の世界通信ネットワークとの連接はかった。同時に、無線通信の有用性を認識し、艦艇~艦艇、陸上~艦艇の間の無線通信連絡を確保した。

なお川上操六も、日清戦争直前に東京・下関間の直通電信線、釜山~京城問の電信線を最初に提案し、児玉が先頭に立って敷いた九州~台湾間海底ケーブルにも川上が深く関与した。

こうしてロンドンでもスピーデイーに日露戦争の全情報を収集できる態勢が整備された。東京とロンドン間の電報は、東京→九州(大隅半島)→台湾(キールン)→ 台湾(淡水)→福建省(復讐)と伝達され、イギリスの植民地の香港を介して、南シナ海からボルネオを経由し、マラッカ海峡を通り、インド洋を横断して紅海から地中海に抜け、 そしてロンドンへという経路で伝達された。

バルチック艦隊が喜望峰やインド洋を周回している情報はイギリスのインド府政庁により、ロシアに秘密で次々に日本に送られた。 「明石工作」の暗号電報も施設した回線を経由して東京に速報されたのであった。

日英同盟から得たインテリジェンスの恩恵

わが国は日英同盟から、いかなるインテリジェンスの恩恵を受けたのか、ここでひとまず整理しておこう。 日露が開戦すると、英国は22人の観戦武官を戦場に送り込んで情報を収集し、日英両国に伝達した。「明石工作」の暗号電報も、施設した回線を経由して東京に速報された。

英国における情報活動では、 宇都宮太郎(1861年~1922年、中佐)・在英陸軍武官と同鏑木誠(1857年~1919年、大佐)・海軍武官の活躍があった。 とくに、宇都宮中佐は当時、英陸軍参謀本部作戦部のエドワード・エドモンズ少佐と親交を深めていた。エドモンズ少佐は当時、世界中からロンドンに集まってくる各国の陸軍情報を英参謀本部内で掌握できる立場にあった。 エドモンド少佐から得たロシア陸軍部隊の動向を宇都宮中佐は逐次、東京に報告した。

宇都宮太郎

それに基づき、大本営が満州の露軍兵力を算定し、英陸軍情報は参謀本部の作戦計画策定に寄与したとされる。  宇都宮太郎・在英陸軍武官と同鏑木誠・海軍武官の活躍が顕著であった。

こうしたグローバルな情報収集・連絡態勢の確立によって、わが国は戦場、世界各国のわが国公使館、英国大使館などから、様々なレベルの情報を入手した。これらの情報を処理して得たインテリジェンスは、政府や大本営における的確な情勢判断と戦略の構築に寄与したと考えられる。

鏑木誠

グローバルな情報収集体制の確立

日露が開戦すると、英国は22人の観戦武官を戦場に送り込んで情報を収集し、日英両国に貴重な情報を伝達した。 英国における情報活動では、 日英同盟による政治協力体制と日英軍事協商によるグローバルな情報収集体制により、わが国は戦局を判断するためのインテリジェンスを獲得した。

なかでも、英国で得られた情報を迅速に大本営と満州軍総司令部に伝達するための通信連絡体制を早くから構築していた点が、日露戦争における勝利要因であった。

このほか、ロシアと同盟国にありながら複雑な思想を秘めていた独・仏の情報も得られた。 とくにロシア宮廷や軍内部の情報はこのルートから入手できた。さらには、世界中に張り巡らされているユダヤ・コネクションから貴重な情報が得られた、という。

戦争開戦後は、各国がロシア側に派遣した観戦武官、新聞・通信社を通じて貴重な戦術情報を入手した。 また、軍と官が一体となった各国の在外公館による密接な協力があった。ロンドンの林公使、パリの本野一郎公使、スペインの新井書記官などは、バルチック艦隊の極東回航の状況に対する詳細な情報に入手して日本に報告したという。

『孫子』から学ぶインテリジェンス講座(4)

兆候を把握することの重要性

インテリジェンスは戦略レベルと作戦・戦術レベルの二つに区分される。ここでは、便宜上、前者を「戦略的インテリジェンス」、後者を「作戦的インテリジェンス」と呼称する。

前者は相手側が何を考えているのかをじっくりと観察する余裕がある。しかし、後者にはそんな余裕はない。そこで後者の主眼は「敵が何をしようとしているのか」「次にどのようなことが起こるのか」を瞬時に判断することになる。

そのためには状況(情勢)の変化を探知することが重要になってくる。 このような観点から第九編「行軍」では、「およそ軍をおき敵を相(み)る」として、我が軍がよい地形を確保して敵情を偵察することの重要性を説いている。

その上で、敵情を見抜くための「三十三の相(見方)」をあげている。

たとえば、「多数の木立がざわめくのは敵が森林を移動している」「あちこちに草を結んで覆いかぶせているのは我に伏兵の存在を疑わせる」「草むらから鳥が飛び立つのは伏兵が潜んでいる」「砂塵が高く舞い上がるのは戦車部隊が来ている」「砂塵が低く垂れ込めているのは歩兵部隊が進撃している」「軍使の言い方がへりくだっているのは我を不意に急襲する準備をしている」「軍使の言い方が強硬で進攻するように見えているのは密かに退却を準備している」などである。

こうした「相」のなかで、現在進行形の行動を裏付けるものが「証(証拠)」であり、次なる行動を示唆するものが「兆候」である。これらに着目することが状況の変化を探知する秘訣である。

「兆候」とは「物事の前触れ」であり「予兆」「前兆」ともいう。たとえば「地震雲が発生する」「深海魚やイルカなどの浜へ打ち上げられる」「ネズミなどの動物が起きて動き出す」「温泉の泉質が変わる」などの自然現象は大地震の前兆・兆候だといわれている。

これらの「兆候」から「大地震が起きて、津波災害などが発生する公算が大でうる」などのインテリジェンスを生成し、しかるべき部署に伝達(配布)すれば、被害を局限することができるであろう。

同様に戦場においても、さまざまな「兆候」を分析し、「敵が何をしようとしているのか」「何ができるのか」などを先行的に判断できれば、我は敵に対する主導性を確保でき、有力な対抗策が打てることになる。

先の『孫子』の例では、「砂塵が高く舞い上がるのは戦車部隊の来襲の兆候である」ととらえ、対戦車火器や対戦車地雷を配置して戦車部隊を迎撃する準備をする、「軍使の言い方が強硬で進攻するように見えているのは退却の兆候である」ととらえて、わが部隊を集結させて敵軍を追撃する準備を行うことになろう。

物事が起きるには、タイムラグの長短はあれども、必ず何らかの兆候がある。たとえば敵が近々戦争を開始しようとすれば、物資の事前集積、情報収集機の活動の活発化、通信量の増大などの変化が現出するであろう。一方、攻撃の直前ともなれば「無線封止」により通信量が激減するといった変化が現れるかもしれない。

第二次世界大戦中、米海軍で対日諜報を担当していたE・M・ザカリアス(元米海軍少将)は、日米開戦前に日本が米国を奇襲する寸前の兆候として、「あらゆる航路からの日本商船の引き揚げ」と「無線通信の著しい増加」を挙げました。日本の攻撃に特徴的な兆候として「ハワイ海域における日本潜水艦の出没」を挙げた。

こうした「兆候」が起こることを予め予測して「兆候リスト」を作成し、実際に起こった「兆候」と、起こらなかった「兆候」を分析して、敵の意図及び行動を判断することが、正確なインテリジェンスを生成する秘訣である。

とくに作戦的インテリジェンスにおいては極意であるといえる。 このことは『孫子』の時代も今も、安全保障であろうがビジネスの世界であろうが全く変わらないのである。

兆候を重視する

「兆候」と対比する概念に「妥当性」がある。戦略レベルのものを「戦略的妥当性」、戦術レベルのものを「戦術的妥当性」と呼称して区分することもある。 「妥当性」とは端的には「その戦略や戦術が目的に合致しているか?」「戦略・戦術が可能か?」などということである。

「戦術的インテリジェンス」では「兆候」と「妥当性」が競合した場合には「兆候」が優先される。なぜならば、「兆候」は可視的(目に見える)であるのに対し、「妥当性」は不可視的であり、その評価には時間と労力がいっそうかかるからである。

戦況が次々と推移する戦場での行動決心には一刻の猶予も許されない。だから目に見える「兆候」から、あらかじめ準備した基準に則り、敵の行動を見積もることが重要である。これが「作戦的インテリジェンス」における「兆候」重視の根拠である。

妥当性を重視する

他方、「戦略的インテリジェンス」においては、かならずしも「兆候」が優先されるとはかぎらない。戦略レベルの判断ミスは作戦・戦闘では挽回できない。だから敵の欺瞞や偽情報を排除して、敵の行動などをより慎重に判断すべきだからだ。

いくら戦争開始を示す事前の「兆候」があったとしても、相手側の戦略や戦術が著しく「妥当性」を欠く場合、「兆候」は欺瞞、偽情報として処理するというのが「妥当性」評価の考え方である。

また見積もりにも時間的に余裕があるから、慎重な判断が可能になる。よって、相手国の企図や行動を「妥当性」という評価尺度で慎重に見極めることが肝要なのである。

堀栄三の活躍

堀栄三

『大本営参謀の情報戦記』の著者で太平洋戦争時に大本営情報参謀であった堀栄三中佐はフィリピン島における米軍の上陸地点の見積りを命じられた。その際、堀氏はラモン湾(東海岸)、バダンガス(マニラの南方)、リンガエン湾(ルソン北部西海岸)の三か所に絞って分析を行なった。

米軍機の航跡とその頻度、写真偵察と思われる行動と大型機の出現頻度、ゲリラや諜報の活発度、潜水艦による物資・兵器・兵士の揚陸、抗日運動の状況など各種の「兆候」を分析して、堀氏は「上陸地点はラモン湾とリンガエン湾、むしろ兆候的にはラモン湾」と評価した。 

しかし、堀氏は自らがマッカーサーになったつもりでもう一度見積を見直したのである。つまり、①米軍がフィリピン島で何を一番に求めているか(絶対条件)、②それを有利に遂行するにはどんな方法があるか(有利条件)、③それを妨害しているものは何であるか(妨害条件)、④従来の自分の戦法と現在の能力で可能なものは何か(可能条件)と四つの条件に当てはめて再考したのである。

そして最終的に「リンガエン湾に対する上陸の可能性が大」と評価し、見事に的中させた。すなわち堀中佐は、米軍の戦略・戦術的な「妥当性」を重視して見積を的中させた。

妥当性を判断する4つの基準

一般的に「妥当性」を評価する基準としては適合性、可能性、受容性および効果性の四つがある。それぞれの基準の意義は以下のとおりである。

1)適合性:その戦略構想が戦略目標達成にどれほど寄与できるか?

2)可能性:自己の内部要因がその戦略行動を可能にするか?

3)受容性:戦略構想実施によってえられる損失または利益が戦略意図の要求度に対して許容できるか?

4)効果性:戦略構想が実施に移された場合、全般戦略および他の関連する戦略にどれほどの貢献ができ、またはどれほどの影響を及ぼすのか?

相手国の行動等を評価するうえで、上記の四つの基準に当て嵌めて考察することを是非とも推奨する。

因果関係は意外なところに!

因果関係とは何か

物事を考える上では、因果関係という概念が重要となります。 たとえば、「Xが殺害された」という事象と、「YはXに恨みを持っていた」という関係は、原因と結果という因果関係の可能性があります。

つまり、「Xを殺害したのは誰か」という質問に対して、「Yが殺害した」という仮説を立て、それを立証するために、Yの殺害動機という証拠を探り、因果関係を立証することになります。

以前にこのブログ(「さくらももこさん、ご冥福をお祈りします」)で書きましたが、因果関係とよく似たもので相関関係という概念があります。

「AとBにはなんらかの関係がある」ことを「AとBは相関関係にある」といいます。 相関関係と因果関係はしばしば混用されます。しかし、相関関係は物事の将来を予測することも、現実の問題の原因を探ることもできません。

しかし、因果関係を探る重要な糸口を掴むことができます。 そのために相関関係から因果関係を立証することが重要なのです。

因果関係を立証する

相関関係から因果関係を立証するための手法は以下のとおりです。 ①相関関係にありそうな事象をアトランダムに列挙する。 ②列挙した事象のなかから、原因が先で結果が後であるという時系列的な関係がある事象に着目する。 ③その関係には別の原因が存在していないことを証明する。つまり、疑似相関でないことを証明する(下記参照)。

この際、AとBの2つの相関関係がある事象において①AがBが引き起こした、②BがAを引きこ起こした、③CがAとBを引き起こした、④AとBとの関係は単なる偶然である。以上の4つの関係を考察する必要があります。

ここで疑似相関には注意が必要です。上述の③が疑似相関に当たります。たとえば、アイスクリームの売り上げと、クーラーの売り上げは連動しています。しかし、 アイスクリームがクーラーの売り上げに影響を与えるのではありません。実は、 これは夏の暑さという別の要因が関係しています。

因果関係は意外なところにある

真の因果関係を見つけ出せない原因を探りますと、想像力の欠如や思い込みがしばしば原因となってり有力な仮説が立てられていないことが多々あります。

1990年代初頭の米国の事例をあげましょう。当時の米国では過去10年間、犯罪を増える一方でありました。専門家は、今後はこれよりも状況は悪くなると予測しました。しかし、実際には犯罪が増え続けるどころかぎゃくに減り始めてしまったのです。すなわち、未来予測を誤ってしまったのです。

「なぜ犯罪率は減ったのか?」という質問に対して、「割れ窓理論」に基づく警察力の増加や厳罰化、銃規制、高景気による犯罪の減少などの仮説があがりました。 しかし、そのような対策を行っていないところでも犯罪は減ったのです。

そこで調査したところ、予想もしなかった因果関係が明らかになったのです。それは「中絶の合法化」でした。 この因果関係を簡略化して示すと次のとおりです。貧しい家庭→未婚の女性の妊娠・出産が増加→貧困による子育て放棄、虐待、教育放棄→未成年者が犯罪予備軍→犯罪の増加でした。

当時の米国では長らく妊娠中絶は違法でした。 しかし、米国では1960年以降、性の解放の観点から、シングルマザーや中絶も1つの選択肢とされました。そして、歴史的に有名な1973年の「ロー対ウェイド判決」で、最高裁は7対2で憲法第14条に基づき、中絶禁止を憲法違反であると判定しました。 すなわち人工中絶法が設定されたのです。

つまり、この時期以降、貧しい未婚家庭に育った妊娠女性が子供を産まなかっくてもよくなったのです。その結果、1990年代に若者の犯罪予備軍が減り、犯罪率が減り始めたのです。

人工中絶法を巡る米国社会

しかし、それで人工中絶が米国社会から容認されたか、というとそうではありません。上記の人工中絶が犯罪率を低下させるという事実が分かったことで、ぎゃくに人工中絶がクローズアップされ、それに対する反対運動が起こりました。その結果、1990年代以降、ふたたび人工中絶の数は減っていきました。

今日、米国社会は、人工中絶を認める判定の逆方向に向かっている傾向があります。

最近では、全米で州レベルでの中絶禁止法案が 記録的な勢いで 通過しています。宗教の権利に基づき、女性の選択の権利を制限した6月30日のホビー・ロビーおよびコネストガ・ウッドの聴聞での最高裁の判定はその極端な例です。

キリスト教信者の人口層が多い米国は、社会の隅々で宗教団体が著しい影響を与えています。特に女性の避妊や中絶に関して、政治家も様々な角度から影響を及ぼしています。

トランプ米大統領は、選挙戦で人工妊娠中絶をした女性には「何らかの形で罰があるべきだ」と発言して、他の候補者たちから非難の声が上がり、同氏は発言を事実上、撤回しました。

一方、 このような社会の変化に反応し、選択の権利を主張する女性の声も高いようです。 カリフォルニアなどでは、中絶へのアクセスを拡大するため、7年ぶりの新しい州法を制定しました。

NHK連続テレビ小説 『半分、青い。』から「マザーズ」へ

NHK連続テレビ小説『半分、青い。』が終了してしばらくたちましたが、筆者はこれの“ネタバレ” をネット上で探していて、ある記事に辿りつきました。

このドラマでは、主人公の鈴愛(永野芽郁)が癌になった母・晴(はる、松雪泰子)のため、幼馴染の律(りつ、佐藤健)はなき母・和子(わこ、原田知世)に何もしてあげられなかったことから、“そよ風の扇風機”を発明し、その名前を「マザー」と命名します。

二人の母親への感謝と愛情が一杯つまったすばらしい作品でした。

一方、中京テレビ報道局が2011年から7年にわたり取材・放送してきたドキュメンタリーが「マザーズ」です。筆者は「マザー」から「マザーズ」に行きついたわけです。

マザーズの記事を引用

「マザーズ」 の記事を引用します。

「予期しない妊娠に直面したとき、あなたはどんな選択をするでしょうか。 厚生労働省のデータによると、1年間に行われる人工妊娠中絶の件数は16万8015件(平成28年度)。「育てられない」多くの命がある、残酷な現状です。

その一方で、「中絶はできない」と揺らぐ女性たちもいます。 病院のベッドに横たわる、お腹の大きな少女。中学2年生の綾香さん、14歳です(仮名・年齢は取材当時)。綾香さんのお腹の中には、出産間近の新しい命が宿っていました。 若くして母となった綾香さん。お腹の赤ちゃんの父親も、同じ中学生でした。

予期せぬ妊娠や病気、経済的な困窮で子どもを育てられない、子どもを虐待してしまうなど、様々な事情により、実の親による子どもの養育が難しいことがあります。そのようなとき、実の親に代わって、温かい家庭環境の中で子どもを健やかに育てるために、特別養子縁組や里親などの制度があります。」

特別養子縁組に注目

生みたくても産めない人、積極的に社会進出したいために子供を持つことを選択しない人、誤って妊娠して人工妊娠中絶をする人、人はそれぞれさまざまです。

残念ながら、シングルマザーズによる子育ては社会に良い面ばかりをもたらしません。しかし、わが国が少子高齢化に向かうなか、 子供は国家成長の礎であり、国の宝なのです。このことを正面から向き合ってみることが重要です。

少子高齢化の対策には、外国人労働者への入国拡大、定年の延長、AI社会への発展など、さまざま健闘されいます。一方で「育てられない」ということと、「子供ほしい」という両者の条件を、完全には程遠いとはいえ、充たすものが特別養子縁組や里親の制度 ということになるのでしょう。

シングルマーザーズに対する社会支援を充実させる一方で、特別養子縁組なと゛の制度強化に注目する必要はおおいにありそうです。

わが国の情報史(18) 

明治最高のインテリジェンス将校

明治の軍政・軍令のオールスターズ

柴五郎

明治時代の軍政・軍令のオールスターズは戦国時代の武将オールスターズと同様に、愛国心、個性、人間的魅力、戦略眼、情報センスなど、なにをとっても傑出した強者ぞろいである。

現在、米中関係、米朝関係が変動期にあるが、それにともないわが国も対中政策や対北朝鮮政策をどのように規定していくのかの岐路に立ちつつある。

今の世の中に、彼らの一人でも現存していたならば、わが国はどうなっただろうか?そして、わが国が直面している難局にいかなる意思決定を下すのか、実際に見てみたいきがする。

まず筆者独自の選択で、最初に明治の軍政・軍令における偉人を列挙したい。

・第一世代(幕末維新の功労者) 勝海舟(1823~1899)、西郷隆盛(1828~1877)、大久保利通(1830~1878)、木戸孝允(1833~)、坂本龍馬(1836~1867)

・第二世代(日清戦争の功労者) 山県有朋(1838~1922)、樺山資紀(1837~1922)、大山巌(1842~)、伊藤博文(1841)、陸奥宗光(1844~1897)

・第三世代(日露戦争の功労者) 桂太郎(1848~1913)、川上操六(1848)、乃木希典(1849~1912)、山本権兵衛(1852〜1933)、福島安正(1852~1919)、児玉源太郎(1852~1906)、田村恰与造(1854~1903)、明石元二郎(1864~1919)

日清戦争の功労者

日清戦争開戦時の組閣の主要メンバー(主として軍政・軍令)は、総理大臣・伊藤博文(52歳)、外務大臣・陸奥宗光(49歳)である。 戦後の下関条約においても、日本側代表としてこの両名が清国側の李鴻章との交渉に臨んだ。

他方、陸海軍に目を転じてみると、陸軍省は陸軍大臣・大山巌(大将、51歳)、陸軍次官・児玉源太郎(少将、42歳)である。大山は西郷隆盛、従道兄弟の甥にあたり、1884年に桂太郎や川上操六を引き連れて欧州視察に赴き、その後の陸軍をドイツ流に改めた人物である。児玉は日露戦争で大活躍することになるが、すでに42歳の若さで陸軍次官のポストにつき、早くも頭角を現していた。

作戦指揮を司る参謀本部においては、参謀総長・有栖川宮熾仁親王(大将、59歳)、参謀次長・川上操六(中将、45歳)という陣容であった。参謀総長は皇族職であるので、実際に陸軍の指揮運用は川上が全権を握っていたことになる。

日清戦争の派遣軍については、第1軍司令官が山県有朋(大将、56歳)、第2軍司令官が大山巌(兼務)である。 当時、桂太郎(中将、46歳)は第1軍の第3師団長、乃木希典(少将、44歳)は第2軍の歩兵第1旅団長であった。

この中では、第1軍司令官の山県が圧倒的な存在感を放っていた。彼はすでに陸軍の大御所、陸軍最大の実力者であり、大山や川上のはるか上に聳え立つ存在であった。 山県は1889年に第1次山県内閣を組閣した内閣総理大臣経験者である。

そのような山県がなぜ前線の司令官になったか、それは山県自らが第1軍司令官に就任することを熱望したからである。山県は「敵国は極めて残忍の性を有す。生擒となるよりむしろ潔く一死を遂ぐべし」と訓示しているから、死をかけて戦地に赴いたのであろう。

山県が率いる任務は平壌から北京を攻略することであり、大山率いる、遼東半島から北京を目指す第2軍の側背掩護が任務であった。配下の野津道貫が率いる第5師団によって早々に平壌を陥落させるなど戦果はあげたが、これで満足する山県ではない。 なんと山県は第2軍よりも先に北京を攻略したくなったのである。

山県は優れた戦略家であり、情報政治家であったが、自信過剰で、功名心にかられた自我意識の強い人物であった。 川上は、長老の山県が派遣軍の司令官につくことに正面から異を唱えることはできなかったが、山県が大本営の方針どおりに動かないことを最初から懸念した。

結局、山県自身は体調を崩し、1984年11月に明治天皇に「病気療養のため」という勅命で戦線から呼び返され、12月に帰国している。しかし実はこれを表向きであって、独断専行する山県を、山県とともに現地に赴いていた桂太郎と川上が、内密に申し合わせて、山県を退けたという理由が正しいようである。 桂は山県の申し子であったが、これが原因で、以後は関係が悪くなったとされる。

一方の海軍は海軍大臣・西郷従道(大将、51歳)、海軍軍令部長・樺山資紀(中将、56歳)、連合艦隊司令長官・伊東祐亨(いとう ゆうこう、51歳)という陣容であった。

川上は、大本営が設定されると、海軍軍令部長である同郷の樺山を事実上統制し、日清戦争における陸海軍の作戦全般の指揮を担当した。日清戦争における勝利の最大功労者である川上は、清国をはじめ全世界に諜報網を展張し、作戦と情報を一体運用した。これが勝利を呼んだのである。

北進事変が勃発

日清戦争に勝利したわが国は旅順の割譲を受けるが、これがロシアを刺激し、ロシアはフランス・ドイツ両国を誘って同半島の返還を日本に要求した。いわゆる三国干渉である。 日本はしぶしぶこの干渉を受け入れたが、臥薪嘗胆を合言葉に、軍備の拡張に走ることになった。

一方、日清戦争によって清国の弱体ぶりを知った欧米列強は、あいついで清国に勢力を設定した(中国分割)。ドイツは山東半島の膠州湾、ロシアが遼東半島の旅順・大連、イギリスが九龍半島・威海衛、フランスが広州湾を租借した。

こうした状況で1900年、清国では「扶清滅洋」をとなえる義和団を称する秘密結社が勢力をまし、各地で外国人を襲い、北京の列国公使館を包囲した。  清国の西太后がこの叛乱を支持して1900年6月21日に欧米列国に宣戦布告したため国家間戦争となった。いわゆる北清事変である。

日本を含む列国13カ国は、連合軍を派遣し、義和団を北京から追って清国を克服させた。 この時、わが国は、福島安正少将を指揮官とする第五師団約8000名を派遣して、欧米諸国との連合軍を構成して8月には首都北京及び紫禁城を制圧した。同年10月、第5師団の指揮下にあった混成1個旅団により清国駐屯隊を設置し、在留邦人の保護に当たらせた。これが新たな諜報活動の拠点になった。

ロシアとの対立と日英同盟の締結

北清事変を機にロシアは中国東北部(満州)を事実上占領し、同地における独占的権益を清国に承認させた。ロシアの脅威は朝鮮半島に南下し、やがて日本に及ぶことになる。日露の関係は刻一刻と深刻化の様相を呈した。 その牽制の大きな手段となったのが1902年の日英同盟である。

日英同盟はやがて日本がロシアと戦うことを想定して結ばれた軍事同盟であった。日本はイギリスの後ろ盾によって、中型の「大国」としての地位を固めることに成功した。 1904年、わが国はロシアとついに衝突する。そして奇跡的に勝利する。

その最大の成功要因はとりもなおさず日英同盟であった。 そして、その日英同盟を締結した影の功労者が、世界から今日も称賛されて止まない、明治日本が生んだ傑出した一人のインテリジェンス将校であった。それが「コロネル・シバ」と列強から称賛された柴五郎である。

柴五郎の生い立ち

陸軍大学を出ずに陸軍大将まで上り詰めたのは後にも先にも柴しかいない。柴はそれほど傑出した将軍であり、彼のほとんどの経歴はインテリジェンス将校としてのものである。 では早速、柴の経歴をみてみよう。

柴は1859年1月、会津藩士・柴佐多蔵の五男として生まれた。会津では藩祖・保科正之の精神を受け継ぎ、「武士道」が盛んなところであった。 明治の偉人はいずれも江戸時代の武士道精神の教育により、傑出した人物へと成長したが、柴もまた武士道によって育てられた一人である。

さらに会津藩は、1868年1月の鳥羽伏見の戦いで、薩摩と長州の策略で新政府軍の朝敵となった。こうした会津藩にあって、柴の反骨精神と負けず魂が育まれたのである。 その後、柴は藩校・日新館に学び、青森県庁の給仕につくが、上京の念は立ちがたかった。

やがて1873年(明治6年)に陸軍幼年学校に入校、1877年に陸軍士官学校に進んだ。 士官生徒第3期の同期には、上原勇作元帥や内山小二郎・秋山好古・本郷房太郎の各大将がいる。彼らとの交流も柴の人生に大きな影響を与えた。

 インテリジェンス将校として歩み始める

1884年、陸軍中尉に進級し、同年10月に清国福州の駐在を命じられた。これがインテリジェンス将校としての柴の船出であった。 当時、清国とフランスとの間で戦争が勃発した。この戦争は仏領インドシナ(ベトナム、カンボジア、ラオス)と清国との国際紛争に端を発し、清国軍が仏領深く侵入してフランス軍を破り、その兵士たちを捕えて虐殺したことから全面戦争に発展していた。

柴は世界の戦争というものに直接接したことで、インテリジェンス将校としての大きな財産が築かれることになる。 柴は福州での3年間の滞在により、軍事に関する知識、清国の暮らしや考え方をまなび、中国語や英語にも精通した。 1887年4月、柴に対して北京駐在の命令が下った。柴はたちまち北京においても民情の収集にあたった。さらには、天津、満州、朝鮮半島も視察して、地域情報を蓄えていった。

1894年3月にイギリスの在日本公使館附武官心得を命じられたが、同年7月に日清戦争が生起した。そこで同年9月に日本帰国し、大本営で、清国本土上陸作戦の計画に携わることになる。ここでは、中国通の柴のインテリジェンスが大いに役立った。 下関条約締結後の台湾の陸軍参謀に命じられ、さらに柴の対外インテリジェンスは研ぎ澄まされる。

1896年、ふたたびイギリス公使館附陸軍武官として、イギリスに赴任、1898年(明治31年)5月の米西戦争においては、観戦武官としてアメリカにも派遣された。 柴は、このアメリカ出張で、のちに日露戦争の日本海海戦で大活躍する秋山真之と会う。真之は柴の陸軍士官学校同期の秋山好古の実弟である。 柴はアメリカ陸軍を、真之はアメリカ海軍を視察した。彼らのインテリジェンスセンスからして、おそらくは、ここでアメリカが将来の日本の敵になる可能性を感じ取ったのであろう。

義和団の乱が勃発

1900年2月、柴にイギリスから清国への転属が命じられた。そこで直面することになったのが北清事変である。 当時、義和団の狼藉は日増しに高まっていた。同年5月、義和団の乱が起こる。暴徒が各国の大使館を取り囲み、日本公使館書記生やドイツ公使が殺害された。 北京の各公使館の代表者がイギリス公使館に集まり、義和団についての話し合いがもたれた。柴はこの会議に参加した。 各国は北京で籠城して戦うことを決意した。

その警備の総指揮官をオーストリア公使館附武官のトーマン中佐に決めたが、彼の判断ミスが続いた。 そこで、軍人出身のイギリス公使のクロード・マクドナルドが後任の総指揮官に就任した。

そのマクドナルドが関心を持ったのが、柴であった。マクドナルドは柴を五か国の指揮官に命じた。 柴は事前に北京城およびその周辺の地理を調べ尽くし、さらには間者を駆使した情報網を築き上げていたのである。義和団によるキリスト教虐殺を逃れてきた総勢3000人を収容確保したのも柴の判断であった。

柴の活躍は各国の称賛

大松明則『歴史は鏡なり』では、柴の活躍振りを以下のように紹介している。

イギリス公使館の書記生であったランスロット・ジャイルズは日記で、「日本軍が最も優秀であることは確かだし、ここにいる士官のなかでは柴中佐が最優秀と見做されている。日本軍の勇気と大胆さは驚くべきものだ。わがイギリス水兵が、これに続く。しかし、日本軍は、ずば抜けて一番だと思う」と記している。

『北京籠城』を書いたピーター・フレミングは「日本軍を指揮していた柴中佐は、籠城軍のどの士官よりも有能で経験も豊かであった。誰からも好かれ日本の勇気、信頼性、そして、明るく、籠城者一同の称賛の的となった。籠城に関する数多い記録の中で、直接的にも間接的にも、一言の非難をあびていないのは、日本人だけである」と書いている。

さらに、アメリカ人女性・ポリー・C・スミスも、「柴中佐は小柄で素晴らしい人だった。彼が交民港で現在の地位をしめるようになったのは、一つに彼の智力と実行力によるものです。今では、すべての国の指揮官が柴中佐の見解と支援を求めるようになったのです」と語っている。

柴の活躍が日英同盟をもたらす

北清事変後、柴はイギリスのビクトリア女王をはじめ各国政府から勲章を授与された。『ロンドン・タイムス』はその社説で「籠城中の外国人の中で、日本人ほど男らしく奮闘し、その任務を全うした国民はいない。日本兵の輝かしい武勇と戦術が、北京籠城を持ちこたえさせたのだ」と記した。 なお、柴自身はアメリカ軍人が最も勇敢だったと評している。冷静で謙虚な柴の性格をうかがわせる。

イギリス公使マクドナルドは、共に戦った柴と配下の日本兵の勇敢さと礼儀正しさに大いに心を動かされ深く信頼するようになった。1901年の夏の賜暇休暇中に英国首相ソールズベリー侯爵と何度も会見し、7月15日には日本公使館に林董を訪ねて日英同盟の構想を述べ、以後の交渉全てに立ち会い日英同盟締結の強力な推進者となった。 このことから柴は日英同盟のきっかけをつくった影の立役者として評価されているのである。

柴のその後の活躍

なお、柴の活躍はとどまらず、陸軍大佐に順調に進級し、日露戦争では野戦砲兵第15連隊長として出征した。 1906年3月、イギリス大使館附の辞令が発せられ、7月ロンドンに着任した。 その後、しばらくは閑職につくが、1914年(大正3年)5月に第12師団長に栄転し、1919年(大正8年)8月には陸軍大将に進級し、同年11月、台湾軍司令官に進んだ。

なお、1945年(昭和20年)、太平洋戦争敗戦後に身辺の整理を始め9月15日に自決図った。自殺は老齢のため果たせなかったが同年12月13日、その怪我がもとで病死する。最期まで武士道精神を貫いたインテリジェンス将校、それが柴五郎大将であった。

現在の防衛駐在官制度

柴は中尉から中佐まで海外に勤務した。そこで世界を見て、語学を学んだ。しかし、大正、昭和と時代が下ると、駐在武官は出世の一つのキャリアとなり、柴や明石のようにずっと海外における情報勤務について、実務をつうじて対外インテリジェンスの感性を練磨するということはなくなった。

この弊害を是正するため、転属のない駐在武官を輩出する試みが陸軍中野学校の創設の目的でもあった。しかし、こうした構想への着手が遅すぎ、結局、陸軍中野学校は本来の目的を達成することなく、大東亜戦争の開戦によって、ゲリラ戦教育へと変化を遂げた。つまり、「戦わずして勝つ」を信条とする秘密戦の教育がゲリラ戦へと変わったのである。

現在の自衛隊もしかりである。2013年のアルジェリア事件により、防衛駐在官が増員されたが、必ずしも情報の経験者が配置されているわけではない。 むしろ、防衛駐在官は出世のための“箔付け”という意味合いが大きい。

防衛駐在官の増員が「情報収集能力を強化しています」という政府の詭弁以上のものにするためには、防衛駐在官制度の見直しなどやるべきことは多々あろう。その一つには、柴や明石のような、明治期のインテリジェンス将校の育成要領、陸軍中野学校の当初の構想などにも学ぶ必要があるのではないだろうか。

『孫子』から学ぶインテリジェンス講座(3)

戦争判断のための能力判断とは

孫武は、「それまだ戦わずして廟算して勝たざる者は、算を得ること少なければなり。算多きは勝ち、算少なきは勝たず。しかるをいわんや算なきにおいてをや。我これをもって勝負を知る」(始計編)と述べている。

これは、「戦う前に彼我の国力を算定・比較し、勝算が少なければ負ける。まして勝つ要素が全くないのに戦争をすることは愚かである」ということだ。 この彼我の国力・軍事力を算定し「戦う前に勝敗を知る」ということが、平時におけるインテリジェンスの大きな目的である。

では、彼我の国力・軍事力を算定するにはどのような要素を見ればよいのであろうか? これに関して『孫子』では、前述のとおり、「五事七計」を以って「敵と我の何れが優れているか」、「何れが適切に行われているか」などを比較し、総合的に「我は戦争すべきか、回避すべきか」を判断せよ、と言っているのである。

インテリジェンスの構成要素

現在は、『孫子』の時代とは戦略環境が大いに異なっている。戦いは戦場における双方の軍事力の交叉には限定されない。よって、これら五つの基本要素は時代によって変化・発展するものと解するべきであろう。

現代戦は総力戦であるので、相手国の意図や能力を解明するためには、軍事力、経済力、科学技術力、政治力、社会力、心理力、地理的条件、その他のありとあらゆる事項の評価が必要となる。 しかし、評価要素があまりにも広範・多岐に及べば、分析が煩雑となり評価判断ができなくなる。したがって、これらの数を限定し、体系化する必要がある。

こうして限定・体系化されたものを、インテリジェンスの世界では「インテリジェンスの構成要素」(以下、「構成要素」と呼称)と呼んでいる。そして、構成要素に基づいて全般情勢を把握することを環境把握あるいは環境分析(エンバイラメンタル・スキャニング)という。

環境分析とはなにか

環境分析は、自分の記憶や知識を体系的に整理し、彼我の全般情勢、国力の優劣などを把握する上で有用な初歩的かつ基盤的な分析手法でもある。 今日の米国情報機関では「構成要素」を人物(Biographic)、経済(Economic)、社会(Sociological)、運輸・通信(Transportation&Telecommunications)、軍事地誌(Military Geographic)、軍隊(Armed Force)、政治( Political )、科学技術(Science)の八項目とし、その頭文字をとって「BESTMAPS」としている。

英国情報機関では、社会(Social)、技術(Technological)、環境(Environmental)、軍事(Military)、政治(Political)、法(Legal)、経済(Economic)、安全保障(Security)の頭文字をとって「STEMPLES」としている。

このほか、外交(Diplomatic)、情報(Information)、軍事(Military)、経済(Economic)の頭文字をとった「DIME」なども全般情勢・態勢などを把握するための有力な視座となりえるであろう。

情勢に応じてた戦略・戦術判断とは

見積り(Estimate)とは、将来における情勢の推移を予測することである。つまり、敵及びその他の関係勢力がいかなる意図及び能力を形成し、どのような行動方針を打ち立てるか、などを予測することである。

日本兵法研究会会長・家村和幸氏は、「始計」では、「五事七計」「廟算」「勢」という三つの戦略・戦術的判断があり、それぞれに「情報(Intelligence)」「意思決定(decision Making)」「行動(Action)」の「IDAサイクル」が繰り返されていると論じている。(家村和幸『図解 孫子兵法』)

① 「五事七計」

家村氏の解釈によれば「五事七計」とは「戦争をするのか、しないのか」の戦略的判断、「廟算」とは戦争に勝つための戦略・戦術的判断、「勢」とは臨機の戦術的判断である。

『孫子』が想定する戦争は敵を屈服させるために敵国に攻め込む侵略戦争であり、今日のわが国が巻き込まれる戦争は「専守防衛」に基づく国土防衛戦争という違いはある。しかし、いずれにおいても『孫子』と同様の戦略的・戦術的判断が繰り返されることに異論はない。

情報部署は、その各段階・各レベルにおいて、目的に適合した「見積インテリジェンス」を戦略策定・作戦実施部署に提供することになる。 ここでは、戦争の前段階におこなわれる「五事七計」と「廟算」に絞って、わが国のどのような「見積インテリジェンス」を生成するのかを考察してみよう。

まず「五事七計」では、「戦うべきか、戦わないか」の戦略的判断が求められるが、これはわが国の平時における国家戦略の選定段階に相当しよう。 つまり、この段階での情報部署は、紛争を中心にわが国を巡る国際情勢を幅広く考察し、それらの情勢推移を見通して、その変化傾向や変化を促す影響要因(ドライビングフォース)などを明らかにすることになる。

すなわち、国内外の動静と相互関係を明らかにし、「紛争が生起する可能性があるのか」「侵略事態が起こり得るのか」「起こりえる可能性のあると侵略事態の特性、生起条件は何なのか」「これがわが国の国益にいかなる影響を及ぼすのか」、などを見積もることになるであろう。

こうして生成された「見積インテリジェンス」は、ハードパワー及びソフトパワーを併用して戦争を抑止する抑止戦略に、万一の侵略事態対処に備えての国防体制の構築などに活用されることになる。 なお、わが国では、この段階で生成するインテリジェンスを一般に「情勢見積」と呼んでいる。これは国家最高レベルの「見積インテリジェンス」であって、内閣官房の統制で各省庁の情報組織などが協力して生成することになる。

② 「廟算」(びょうさん)

「廟算」とは、戦争を決めた相手に対して、開戦に先立ち、祖先の霊廟において作戦会議を行うことである。『孫子』では「それ未だ戦わずして廟算するに、勝つ者は算得ることを多きなり。未だ戦わずして廟算するに、勝たざる者は得ることすくなければなり」(始計)と述べる。つまり、敵を具体化し、敵に対し我の勝ち目を見出すための作戦会議を行うのである。

たとえば、ある国の侵略意図が顕著になった段階では、我が国は国家安全保障会議を開催し、そこで具体的な防衛作戦計画などが詰められることになる。 この時の「見積インテリジェンス」は、「五事七計」の時に比べ、彼我との関係から、より詳細かつ具体的に見積もることになる。この見積もりを先ほどの「情勢見積」と区別して、「情報見積」と呼ぶ。

仮に中国を侵略国と想定すれば、「中国あるいは中国軍はいかなる意図、能力を有しているのか。またどのような行動を取るのか」「米国、その他の第三国及び国内の反対勢力はどのような行動をとるのか」「中国の軍事行動にはどのような税弱点があるのか」「それが我が国の防衛作戦に如何なる影響を及ぼすのか」「我が国が乗じる中国の弱点は何か」などを詳細に見積もることになる。

これは、関係省庁の協力を得て、防衛省や自衛隊最高司令部等が中心となって見積もることになるであろう。

③ 「勢」

「勢」の段階における見積りは、戦場における臨機の戦術的判断に資するものである。これは「態勢見積」と呼ばれる。(家村和幸『図解 孫子兵法』)

第四編「軍形」では彼我の戦闘力を比較して勝利をえるための考慮要素として、「兵法は、一に曰く度(たく)、二に曰く量、三に曰く数、四に曰く称、五に曰く勝。地は度を生じ、度は量を生じ、数は称を生じ、称は勝を生ず。故に勝兵は鎰(いつ)を以って銖を称(はかる)がごとく、負兵は銖(しゅ)を以て鎰を称るがごとし」と述べている。

ここでいう「度」とは戦場の広さ・遠近を測ること、「量」は戦車・武器・弾薬の量を計算すること、「数」は度や量と関連して兵数(動員可能な兵士の数)を計算することである。そして「称」が彼我の兵数・戦力を総合的に計算して優劣を判定し、「勝」が結論として、すくない兵力でどのよう勝利するかという勝利の法則を見出すことである。

「態勢見積」の主眼は、我がまず負けない態勢を確立し、その上で主導性を発揮して敵に対して「勝ち易きに勝つ」という必勝の態勢を終始保持することにある。 わが国の防衛作戦を例にとれば、情報部署は侵攻正面の敵の兵力量、編組(敵部隊の侵攻態勢)、敵の攻撃・侵攻の時期および方向、火力や予備兵力を運用する時期・場所・要領、彼我戦力の比率、などを臨機応変に見積もることになろう。当然、作戦部隊の大小に応じて、その情報部署が行う「態勢見積」の対象、範囲などは異なることになる。

正確な戦略的判断により勝利した日露戦争

1904年の日露戦争は、正確な戦略的判断により勝利することができた。その前の日清戦争(1894年)では、川上操六・中将(参謀本部創設の父、のちに大将)が、戦争前年の1893年、清国と朝鮮を視察し、「先制奇襲すれば清国への勝利は間違いない」と確信を得て帰国した。

しかし、日清戦争とは異なり、日露戦争では、明治天皇が戦争の決断に際して落涙されたという。 そこで、当時の児玉源太郎満州軍総参謀長は、彼我の国力を比較・算定したうえで、わが国は完全勝利することできないと判断し、短期決戦で、有利になった段階で終戦に持ち込む算段をした。すなわち「六分四分」の勝負に持ち込むことを計画した。

そして、盟友の杉山茂丸や桂太郎首相秘書官の中島久万吉に終戦のための情報収集を依頼し、奉天会戦の勝利後には、元老や閣僚たちに対する終戦説得工作を開始した。 こうしたインテリジェンスと戦略の連携により、わが国はロシア領土内に侵攻することもなく、米国による和平仲介によってやっとのことで勝利し得たのである。まさに『孫子』の兵法が実践で生かされたといえる。 

勝算のない戦いをした太平洋戦争

他方、先の太平洋戦争では、日米開戦後の見通しについて、当時の近衛文麿首相から質問を受けた山本五十六・連合艦隊司令長官は、「是非やれといわれれば、初めの半年や一年は、ずいぶんと暴れてごらんにいれます。しかし、二年、三年となっては、全く確信を持てません」と述べた。  つまり、初めから勝算のない戦いをしたのであった。まさしく、この時のわが国は、「敗兵は戦いて、しかる後に勝ちを求む」(謀攻編)であったのである。

『孫子』から学ぶインテリジェンス講座(2)

インテリジェンスとは何を知ることか!

戦いには何を知ることが必要か

まず戦いにはいかなることを知らなければならないか?その知識(インテリジェンス)はどのようにして得るのか?

孫武は「彼(敵)を知り、己を知れば百戦危うからず。彼を知らずして己を知れば、一勝一負す。彼を知らず己を知らざれば、戦う毎に必ず敗れる」(謀攻編)と述べている。また、「彼を知りて己を知らば、勝ち乃ち殆うかず」(地形編)との記述もある。

つまり、孫武は敵と己を知れと言っている。

敵を知るとはいかなることか

まず敵について考えてみよう。現代の安全保障は熾烈な競争原理によって突き動かされている。冷戦構造が崩壊し、かつてのように明確な敵の存在がなくなったといわれるが、敵は必ずどこかに存在している。

だから、我が敵に対して優越するためには敵の戦略や作戦を知ることが基本となる。これが、インテリジェンスの基本でもある。

敵を知るとは、まず敵が何のために(目標)、何をしようとしているのか(目的)を知ることである。この目標と目的から生み出されるのが意図ということになる。

次に何ができるのかという能力を見る。そして最後に、何をしてくるのか、すなわち、相手側の未知なる行動を明らかにしなければならない。

未知なる行動を予測するためには、平素から相手側の意図と能力の両面をしっかりと分析することが重要である。

意図分析は見誤りやすい

ところが、意図分析の対象となる意図は目に見えない(不可視的)ものである。国際情勢の急変、指導者の心情変化などによって容易に変化する。すなわち、見誤りやすい。

だから、アメリカは朝鮮戦争において「中国は国内経済優先の折だから中国軍の介入意図はない」と誤判断した。ベトナム戦争でも、アメリカは自らの北ベトナムに対する空爆の効果を過大視して、「北ベトナムが立ち上がる気力(意図)は失せた」と誤判断した。

スターリン

このほか、スターリンは希望的観測と猜疑心によって、ヒトラーの意図を見誤り、1941年6月の奇襲を受けた。世に有名なバルバロッサ作戦である。 この時、スターリンは、自らの戦争準備は不十分だったために、ドイツには侵攻意図はないと信じこもうとした。

まさに、スターリンの心境は「信じるものは救われる」の境地であったのであろう。かくして、ドイツによる侵攻の重要な兆候は英国側の欺瞞であるとして、ことごとく排除された。

能力分析の基本として意図分析を併用する

このような戦史の反省も踏まえて、意図分析よりも能力分析、すなわち、相手側が何をできるかを明らかにすることが基本であるといわれている。

たしかに、能力は可視的であり、変化の速度も小さい。 たとえば、北朝鮮の指導者の心は何時でも変化するが、核ミサイル能力は一朝一石に保有できるものでない。

また、能力分析は何ができるかという視点で敵のあらゆる可能行動を検証するのであるから、奇襲防止の観点から優れている。

その一方で、相手側の取り得る可能行動の幅があまりにも拡大してしまえば、我は対応ができなくなってしまう。

そこで、能力分析を基本としてもその上で意図分析を併用する。まず、敵の可能行動を列挙し、意図分析によって常識的に考えて敵がおよそとり得ない可能行動を排除する。そして敵の可能行動をある程度まで特定化して、採用する公算(蓋然性)の高い可能行動に焦点を絞って、さらに詳細に分析するとい過程が必要となる。

ただし、蓋然性は低くても、我に対して影響が大きいものは別途、慎重に分析する。これが「蓋然性小/影響性大分析」の考え方である。

孫子は能力分析を重視している

孫武は、敵の能力を知ること、すなわち能力分析を重視している。それがもっとも特徴的にみられるのは、第1「始計編」の「五事七計」である。孫武は、「戦争は国の重要事項であるので、五事を以て計(はか)る」と述べる、この「五事」とは、道、天、地、将、法である。

続けて『孫子』では「……故にこれを経(はか)るに五事を以てし、これを校(くら)ぶるに計を以てして、其の状を索(もと)む」(始計)と述べる。つまり、孫武は、平素から我が準備しておく五事を基本として、敵に対する活発な情報活動により、主(君主)、将(将軍)、天地(気象・地形)、法(軍紀)、民衆、士卒(将校および下士官)、賞罰の七計(七つの要素)を収集せよと説いている。すなわち、彼我の能力を分析するためである。

敵を知る以上に我を知れ

孫武は「敵に勝利するためには、敵だけではなく我のことも知れ」と説いている。孫武は「敵を知り、己を知らば百戦危うからずや」のあとに、「彼を知らずして己を知れば、一勝一負す」と述べる。すなわち己を知ることで、最低でも引き分けに持ち込めると、説いているのである。

孫武の「五事七計」においても、基本は平素から我が五事を確立することである。五事を現代風に解釈すれば、「道」は国家あるいは君主が民意を統一して戦争に向かわせる基本方針であり、国家戦略に相当する。「天」とは明暗、天候、季節などの気象または時機(タイミング)を指す。「地」とは地形や地理などの環境的条件、「将」とは国家指導者や作戦指揮官、「法」とは組織、制度、指揮法などとなる。

つまり、我が相手国に勝利するためには、これらの要素が不十分でないかを調査し、強点と弱点を知る必要がある。 敵を知ることに対し、我のことはいつでも知ることができると考えられているためか、軽視されやすい。だから、誰しも我に関することは意外と知らないものである。

先の太平洋戦争では、相手国である米国のことも知らなかったが、それ以上に我の補給・継戦能力、陸軍・海軍双方の戦略・思考など、我に関するインテリジェンスが不十分であった。まさに、「戦う毎に必ず敗れる」の状況であったのである。  

9.11以降、己の弱点を知ることが潮流

2001年の9月11日の同時多発テロ以降、国際テロ組織が主たる脅威の対象となってきた。テロ組織は、冷戦期の敵のように所在が明確ではない。だから、テロ組織が何を考えているのか、どのような能力があるのかよくわからないのである。

そのため、アメリカの趨勢は「敵を知る」ことから、「己を知る」、とくに「己の弱点を知らなければならない」という流れに変わってきているという。 なお、この考え方が派生して、アメリカでは「己の弱点を知る」ためのビジネス・インテリジェンスが活性化しているといわれている。つまり、不透明な社会において、己の力量を知ることはさまざまな分野において重要になっているということである。

地形・気象を知ることが重要

孫武は、「戦争は国の大事である」ので、「之を経(筋道をつける意)するに五事をもってする」とし、その五事(後述)のなかで「天」と「地」をあげている。「天」とは気象、「地」とは地形を指す。気象と地形を合わせたものを地域と呼ぶ。

そして孫武は、「彼を知りて己を知らば、勝ち乃ち殆うかず。地を知り、天を知れば、勝すなわち窮(きわま)らず」(地形編)と述べる。つまり、「彼我に加えて地域に関するインテリジェンスを獲得することで戦勝が確実になる」説いているのである。

また、「それ地形は兵の助けなり。敵を料(はか)って勝ちを制し、険夷・遠近を計るは、上将の道なり。これを知りて戦いをおこなう者は必ず勝ち、これを知らずして戦い行う者は必ず負ける」(地形編)と述べている。

これは、簡潔に訳せば、地形は補助手段にすぎず、まず敵を知り、戦勝の法則を確立したうえで、敵と我を地形の上に乗せて、その利・不利を考察せよ、ということである。 これらの記述に限らず、第7編「軍争」から第11編「九地」にわたる五つの編において地形や気象を取り扱わない編はない。

地の利を生かす

孫武は第10「地形編」で、地形をその特性からまず6つの基本的な地形に区分(通、掛、隘、支、険、遠)し、第11編九地編では、さらに戦場が国境内(国境地域含む)にあるか、あるいは故国から遠く離れた国境外にあるかで、9つに区分(散地、軽地、争地、交地、衢地 、重地 、圮地 、囲地 、死地 )し、その地形活用上の要点を論じている。

前の4つ、すなわち散地、軽地、争地、交地が国境内部で、後ろの5つが 国境外に相当する。後ろの5つは、第8「九変編」では「絶地」 という用語で登場する。 そして「絶地に留まること勿れ」(九変編)、「重地には則ち掠(かす)め」(地形編)などと述べ、遠く離れた国境外では長く駐留すべきではない旨と説いている。

わが国は先の大戦において、中国大陸に奥深く進出し、やがて兵站戦が延び切ってしまい、物資に支障を来たした。その後、米国を相手に遠く洋上の真珠湾を攻撃して開戦の火蓋を切ったが、やがては太平洋上の島嶼への補給が途絶えて、敗戦した。まさに絶地での戦いを強いられたのである。ここにおいても『孫子』の原則が生かされることはなかったといえるのだろう。

気象を味方にする

一方の気象についても、孫武は重要な示唆を説いている。とくに、第11「火攻編」では、「火を発するには時あり。火を起こすには日あり。時とは天の燥(かわ)くなり。日とは、月の箕(み)、壁(なまめ)、翼(たぬき)、軫(みつうち) 在るなり。およそこの四宿は風の起こるの日なり」と述べる。

これは、火攻めを行うには、適した時期があり、火を燃やすには適した日がある。それは乾燥して火が燃えやすい時である。日というのは月が天体の4星宿(28宿のうち)の方向にある時で、月がこれら4つの星座にかかるときが風の起こる日である、と訳せる。

火攻めは、現代に例えるならば軍事攻撃、一方の水攻めは経済制裁ということになる。経済制裁は遅行性であるが、軍事攻撃は即効性であり、時機(タイミング)が命である。 ヒトラーのソ連攻撃は“冬将軍”の到来で頓挫した。2003年のアメリカの軍事攻撃は、砂漠の砂嵐の時期を回避するよう慎重に決定された。

現代戦では戦略環境を知ることが重要

『孫子』は、ほぼ全編にわたって地形や気象が作戦に影響を与えること、地形や気象を有利に活用することを述べている。現代戦においても、戦争の場における地形を偵察したり、気象の影響を考慮したりして、それらを作戦計画に反映することはいうまでない。 

ただし、現代戦は『孫子』の時代とは異なり、総力戦を帯びており、様々な環境要因が戦いの趨勢に影響を及ぼす。よって、ここでいう「地」と「天」は広く解釈する必要がある。つまり、「地」とは固定的な空間であり、すなわち地理的環境、一方の「天」とは流動的かつ時間的であり、国内外情勢にあたると解釈できる。

つまり、わが国が生存・繁栄するうえで影響を受ける地理や国際情勢などの戦略環境を広く理解する必要があるということである。

地政学の視点を持つ

今日、国際情勢を見る上で地政学という考え方がある。地政学の論拠は「人 間集団としての国家の意図は地理的条件を活動の基盤としている」という点にある。つまり、地理的条件が民族の特性を形成し、国家の活動基盤になると考え方である

 マキャベリは「寒い地方の人は勇気があるが慎重さに欠け、厚い地方の人は慎重だが勇気に欠ける」と評した。

和辻哲郎

日本の思想家である和辻哲郎は、モンスーン、砂漠、牧場に区分して、人間存在の構造を把握した。このように地理と国民性との関連性は従来から戦略家・思想家が認めるところである。

現在の地域紛争も畢竟、地域的に偏在する資源、資源の輸送ルート、集中する市場などを巡る角逐である。よって地域紛争の動向を予測するうえでも地政学的思考は欠かせない。

わが国の地政学的な環境に目を向ければ、米・中・ロという三大超大国に囲まれ、資源を海外に依存する海洋国家という特徴がある。海洋国家は自国の生存と繁栄を海上交通路に依存している。したがって、それをコントロールできる海軍強国と連携するのが得策である。

わが国は海洋国家との連携が必要

わが国は1902年に海洋国家である英国と同盟を結び、朝鮮半島から大陸に進出する海上交通路をコントロールしたことで日露戦争に勝利した。しかしその後、中国大陸に進出し、大陸国家ドイツと同盟を結び、海洋国家米・英を敵にしたことで資源が途絶され、このことが敗戦の原因となった。

かかる地理的環境や歴史を踏まえるならば、わが国の戦略は米国との同盟を堅持して、中国及びソ連に対する防衛に備えることになろう。このような戦略眼を『孫子』から養うことも肝要である。

我が国が生存・繁栄するための有用なインテリジェンスを生成するうえでは、地理と国民性、地理と歴史という視点を考察することが重要である。これらのことを『孫子』から汲み取ることができるのである。

わが国の情報史(17) 

日清戦争とインテリジェンス

日清両国の対立化の経緯

明治政府は、朝鮮が清国から独立して近代化すること狙っていた。この背景には、ロシアが南下を続け、朝鮮国境まで領土を広げていた。もし半島が、ロシアに領有されるか、列強に分割されるかすれば、日本の国土防衛が不可能になる、との情勢判断があった。 なお、これが明治期の征韓論の背景でもあった。

1873年、大院君(だいいんくん,1820~98)が失脚し、改革派官僚に支えられた王妃の親戚である閔(みん)氏一族が政治の実権を握った。これにより、日本と国交を開く許可が清国から朝鮮に降りた。

1876年、日本は日朝修好条規により朝鮮を開国させた。以来、朝鮮国内では、親日派が台頭していった。 しかし、1882年、日本への接近を進める閔氏一族に対し、大院君を支持する軍隊が反乱を起こした。これに呼応して、民衆が日本公使館を包囲した(壬午事変)。

これ以後、閔氏一族は日本から離れて清国に依存し始めた。 これに対し、金玉均(きんぎょくきん1851~94)が率いる親日改革派(独立派)は1884年、日本公使館の援助を受けてクーデターを起こしたが、清国軍の来援で失敗した(庚申事変)。

この関係で悪化した日清関係を打破するため、1885年、政府は伊藤博文を派遣し、清国全権・李鴻章(1823~1901)との間に天津条約を結んだ。これにより、日清両国は朝鮮から撤兵し、今後同国に出兵する場合には、たがいに事前通告することになり、当面の両国衝突は回避された。

日清戦争の勃発とインテリジェンス将校の活躍

1885年、福沢諭吉は「脱亜論」を発表し、アジアを脱して欧米列強の一員となるべきこと、清国・朝鮮に対しては武力をもって対処すべきこと、を主張した。これにより日本と清国との間は次第に緊張が高まることになる。

1894年、朝鮮で東学の信徒を中心に減税と排日を要求する農民の反乱(甲午農民戦争)が起きると、清国は朝鮮政府の要請を受けて出兵した。わが国も天津条約に従って朝鮮に出兵した。  

1894年8月、日本が清国に宣戦し日清戦争が勃発した。 戦争指導のため、明治天皇と大本営が広島に移った。

戦局は、軍隊の規律・訓練、兵器の統一性に勝る日本側の圧倒的優勢のうちに進んだ。日本軍は清国軍を朝鮮半島から駆逐し、遼東半島を占領し、清国の北洋艦隊を黄海海戦で撃破し、根拠地の威海衛を占領とした。かくして、わずか9か月で日本が戦争に勝利した。

こうした大勝利の陰で、軍民一体の情報活動が陸軍の作戦活動を支えていた。ジャーナリストの先駆けといわれる岸田吟香(きしだぎんこう、1833~1905)をはじめとする民間有志が商取引などを通じて大陸深くに情報基盤を展開した。これに応じる荒尾精、根津一らの参謀本部の若手参謀が現役を退き、その基盤を拡充し、活動要員の養成に捨身の努力を払った(わが国の情報史(16))。

また、ドイツ式の近代化した陸軍を創設した川上操六の貢献が大であった。 日清戦争前の1893年、川上(参謀次長)は参謀本部を改編し、国外に派遣されている公使館附武官を参謀本部の所管とした。公使館附武官は情報網の先端になったのである。

また1893年、川上は田村怡与造(中佐)及び情報参謀の柴五郎大尉(のちに大将)を帯同して清国と朝鮮を視察し、「先制奇襲すれば清国への勝利は間違いない」と確信を得て帰国した。 このように、作戦とインテリジェンスが調和され、わが国は勝つべくして勝ったのである。

条約改正で貢献した陸奥宗光

陸奥宗光

こうした日清戦争のさなか、インテリジェンスのもう一つの局面として条約改正への取り組みを無視できない。この最大の立役者が陸奥宗光である。

明治政府にとって、江戸幕府が結んだ不平等条約、特に関税自主権なしと領事裁判権なしの撤廃は重大な課題であった。 条約改正交渉は紆余曲折を経たが、最大の難関であったイギリスは、シベリア鉄道を計画して東アジア進出を図るロシアを警戒して日本に対して好意的になっていた。

陸奥は日清戦争の前年、ついに領事裁判権なしと、関税の引き上げ、および相互対等の最恵国待遇を内容とする日英通商航海条約の調印に成功した。 この背後には陸奥の戦局眼と脅しともいえる外交交渉が功を奏した。

陸奥は、「日本は清国と戦争するにあたって文明国として国際法を守り、イギリス人の生命・財産を守るつもりでいる。だから条約を改正してほしい。もし日本が文明国でないというならば、日本は文明国が定めている国際法を守る義務はない」と発言したのであった。  

当時、イギリスは多くの英国人を清国に租界させていた。よって陸奥の理論的であり、しかも脅しもいえる交渉をイギリスは飲まないわけにはいかなかったのである。

下関条約の背後でインテリジェンス戦が展開 

李鴻章

1895年4月、日本全権伊藤博文・陸奥宗光と清国全権李鴻章とのあいだで下関条約を締結した(条約5月8日発行)。 その内容は、①清国は朝鮮の独立を認め、②遼東半島および台湾・澎湖諸島を日本にゆずり、③賠償金2億両(テール)を支払い、④新たに沙市・重慶・蘇州・杭州の4港を開くことなどであった。

わが国は戦勝国であったので日本側に有利な条約を結ぶことができた。ただし、ここでもインテリジェンス戦が貢献したことを見逃してはならない。

というのは交渉は下関で行われたため、李鴻章は暗号通信により、本国の意向を確かめながら条約交渉を行わなければならなかった。日本は、この暗号通信を完全に傍受して交渉に臨んだ。

たとえば、わが国は賠償金は当初3億両を要求していたが、清国から李鴻章のもとに1億両ならば交渉に応じても良いとなどの連絡が届いていることを承知し、2億両というぎりぎりの駆け引きに出た。

また、日本の提示した講和条件の一部が清国から都合のよいように全世界に伝えられる状況を傍受して事前探知した。日本は、清国の機先を制して、自ら英・米・仏・露・独・伊に対して講和条件の全文を通告したのである。これにより、イギリスの支持を得ることになり、交渉を有利に進めることができたのであった。

『孫子』から学ぶインテリジェンス講座(1)  

孫武

はじめに

中国では歴史的に諜報及び謀略の研究が重視され、その研究成果を纏めた体系的な兵法書の編纂が発展した。『孫子』『呉子』『司馬法』『尉繚子』『李衛公問対』『六韜』及び『三略』はその代表的な兵法書である。これらは『武経七書』と総称されている。

なかでも「兵は詭道である」と喝破する『孫子』が最も有名である。 『孫子』は、今から2500年以前の中国の激動の春秋戦国時代、名将・孫武によって書かれたとの説が主流である。 『孫子』は中国ののちの兵法書に影響を及ぼし、日本でも吉備真備が唐で礼記(らいき)や漢書とともに『孫子』の兵法を学び、帰国後に下級武士に教示したと伝えられている。

『孫子』は「最強の兵法書」と呼ばれるに相応しく、洋の東西を問わず、時代を超えて、のちの軍事理論書に多大な影響を与えた。このほか、今日では組織統率論、企業経営における参考書としても活用されている。

他方、『孫子』は至高のインテリジェンス 教科書でもある。『通典』(つてん)のなかの「兵典・間諜」編では、軍事偵察情報が戦争における重要な役割を占めることが論述されている。

唐代の著名な兵法家の李靖(りじん)が記した『李衛公問対』(りえいこうもんたい)は『孫子』の情報活動を体系化したものである。

清代の朱逢甲による『間書』は中国初の情報専門の兵法誌であるが、これも『孫子』の軍事偵察理論を基に編纂されたものである。

米国CIA元長官アレン・ダレスや西ドイツのインテリジェンス・マスターであったラインハルト・ゲーレンの回顧録においても『孫子』が引用されている。このように『孫子』は世界のインテリジェンス界に大きな影響を与えた。

そこで『孫子』から得られる、インテリジェンス上のさまざまな知見を抜粋し、総括的に解説することとする。

1『孫子』の特質とは

▼『孫子』は春秋時代に誕生

今から2500年以前、中国における激動の春秋時代とはどのような時代であったのだろうか?これを知ることが、『孫子』の本質を理解することの第一歩である。

一般的に、周が滅びた紀元前770年から、紀元前403年に晋が韓・魏・趙の三国に分裂する前の春秋時代という。

なお、それ以降、秦の始皇帝が紀元前221年に全国を統一するまでの間を戦国時代という。

『孫子』の作者である孫武は、紀元前535年、すなわち春秋時代の後期に生まれた。彼は、斉(いまの山東省)に生まれたが、紀元前513年に呉(いまの江蘇省)一家で移ったといわれる。

幼少から兵書に親しみ、その才能が買われ,呉の国王・闔の側近の将軍・伍子胥(ごししょ)によって、彼もまた呉王を補佐する将軍に推挙された。 司馬遷の『史記』には、「呉が楚を破り、斎や晋を脅かし、天下に名をとどろかせたのは、孫武の働きによるところが大きい」と記されている。

当時の中国は、「春秋の五覇」と称する斉、晋、楚、呉、越の諸国による戦争状態にあった。そのため、孫武が仕えた呉は、越や楚などの複数国に対処する必要があった。 つまり、一つの国との戦いが長引いて国力が損耗してしまっては、第三国から攻められ、漁夫の利を奪われる可能性があった。

だから、孫武は「それ兵を鈍らし、鋭を挫き、力を屈し、貸(たから)をつきせば、則ち諸侯、その弊(つかれ)に乗じて起こる。智者ありといえども、その後を善くする能わず」(作戦編)と述べ、第三国から攻められることを警戒した。

孫武は、戦争開始の判断を慎重に行い、「戦わずして勝つ」ことを最善とし、やむを得ずに戦う場合には、速戦即決を信条としたのである。

なお、『孫子』とクラウゼヴィッツの『戦争論』がよく比較されるが、『戦争論』の方は、戦場における1対1の戦闘を想定している。両者を対比して読む場合には、この相違を念頭において考察することが肝要である。

▼『孫子』の記述は全13編

『孫子』は「始計」「作戦」「謀攻」「軍形」「兵勢」「虚実」「軍争」「九変」「行軍」「地形」「九地」「火攻」「用間」の全13の編からなる。 第1編「始計」は戦争の指導に関する総論・序論である。第2編「作戦」は主として経済的側面から、第3編「謀攻」は主として外交的側面から、それぞれ戦争の在り方を説いている。 

これら各編と、情報(インテリジェンス)について述べている第13編「用間」が戦争の指導方針を説いている。戦略と作戦・戦術の区分で言えば戦略に相当する。

他方、作戦または戦術に相当するのが、第4編「軍計」から第12編「火攻」まである。これらの編では、作戦対処の基本事項、敵対行動、作戦行動に及ぼす環境要因などが解説されている。

▼ 指導者等に対する戦争の心構えを説く

『孫子』の特徴の第一は、国家指導者や軍事指揮官を対象として、彼らに対する戦争の心構えを述べている点にある。(浅野祐吾『軍事思想史入門』) 第1編「始計」の書き出しは「兵は国の大事である。死生の地、存亡の道なり。察せざるべからず」で始まる。

ここでいう「兵」とは戦争の意味である。つまり、国家指導者などに対し、「戦争は国家の重大事項であるので軽々しく戦争をおこなうべきではない」と戒めているのである。

▼「戦わずして勝つ」という不戦主義

第二の特徴は「戦わずして勝つ」という不戦主義の重視である。(浅野『軍事思想史入門』) 中国には古来、「良い鉄は釘にならない」(好人物は兵士にならないとの意味)との俚諺があり、農耕民族である漢民族特有の文民優位の思想がある。

『孫子』においても、戦争よりも外交・謀略で問題解決をはかる漢民族の思想的特性が反映されているといえる。

たとえば「およそ兵を用うるの法は、国を全うすることを上となし、国を破るはこれに次ぐ。……百戦百勝は善の善なるものにあらず。……戦わずして兵を屈するものは善の善なるものなり」(謀攻編)と述べている。  

また、止むを得ずに戦う場合でも「上兵は謀を伐(う)つ。その次は交わりを伐つ。その次は兵を伐つ。その下は城を攻む」(謀攻編)として、敵や敵陣地を武力によって攻撃することは下策であり、まず謀略や外交での解決を重視せよ、と説いている。  

さらに「……好く戦うものは勝ち易きに勝つなり。ゆえに善く戦う者勝つや、智名もなく勇攻もなし……」「……勝兵は、まず勝ち後に後に戦いを求め、敗兵は先ず戦いて後に勝を求む」(軍計編)として、「無理のない戦いをしなければならない」と説いている。つまり『孫子』によれば、野球のファインプレーなどは最善ではないのである。

▼インテリジェンスを重視

第三の特徴は、冒頭で述べたように、インテリジェンスを重視している点である。(前掲浅野『軍事思想史入門』) 第13編「用間」は、「昔、殷の興るや、伊摯(いし) 夏に在り。周の興るや、呂牙(りょが) 殷に在り。故に惟(た)だ、明主賢将のみ能く上智を以って間者と為して、必ず大功を成す。これ兵の要にして、三軍の恃(たの)みて動くなり」の結句で締めくくられている。

ここでの「上智」伊尹及び呂牙を指すが、その上智とは、「道理を知っている、有能な人物」の意味である。つまり、孫武は「国家指導者や軍事指揮官は有能な人物を間者(スパイ)として活用することで、戦いに勝利し、成功を収めることができる」と説いているのである。

スパイとは一般的に、その国家指導者や軍事指揮官などに対して、インフォメーション(情報)あるいはインテリジェンス(生の情報を加工して戦略や作戦上の判断に資する知識に高めたもの)を提供する者をいう。

つまり、スパイを使用して敵の国情、軍事状況、地勢、物資などの事項を明らかにし、これを基礎に戦略・戦術を立ててれば、全軍の行動は自然と理に適ったものとなり、敵に負けることはない、という意味である。

『孫子』が「用間」を以って最終編としたことは、インテリジェンスが「戦わずして勝つ」または「勝ち易きに勝つ」ための最も重要な要素であることを改めて力説しているものと、筆者は理解する。

わが国の情報史(16) 

明治のインテリジェンス将校

対外インテリジェンス活動の開始

川上操六

明治の世に入り、わが国は「アジア主義」と「脱亜論」が拮抗するなか、「領 事裁判権なし」と「関税自主権なし」の二つの不平等条約撤廃を外交目標に掲げつつ、急速にアジアへの接近を強化した。

まず朝鮮の権益を巡り清国と対立し、1894年に日清戦争が生起した。さらに満州・朝鮮の権益をめぐってロシアと対立し、日露戦争(1904年-1905年)へと突入することになる。

こうした大きな情勢推移のなか、わが国は明治維新直後から朝鮮半島や清国をはじめとする対外情報収集を開始した。1875年には、初の海外公使館付武官となった清国公使館付武官を派遣した。このほか、ドイツなどの各国に武官を次々と派遣することになる。

日清戦争以前には、イギリス、フランス、ドイツ、ロシア、清国、韓国の六カ国に武官を派遣していた。

1880年(明治13年)3月、対外関係の正常化を狙いに、初めての大(公)使館となる清国大使館を開局した。以降、ここが中国(シナ)大陸における陸軍諜報の一大拠点となった。ここから参謀本部直属の諜報員などを朝鮮半島や中国大陸に派遣することになる。

山県有朋、インテリジェンスを握る

山県有朋(1838~1922)は、日本の軍人にして政治家である。彼は長州藩の下級武士の家柄の出身でありながら、立身出世を果たし、内閣総理大臣や陸軍参謀総長などを歴任した。

彼は日本陸軍の基礎を築つき、「国軍の父」と称されることもあるが、それよりも、1877年の西南戦争において、西郷隆盛に対する討伐軍の長として有名である。しかし、山県がインテリジェンスを重視し、卓越した情報力で一時代を築いたことはあまり知られていない。

 山県は、これから触れる桂太郎、川上操六、福島安正などをよく登用した。また、筆者がインテリジェンス大家として崇めてやまない吉田松陰が継承した山鹿流兵法の門下である乃木希典(のぎまれすけ)の上司でもある。

すなわち、山県こそは明治初期の最大のインテリジェンス・フィクサーであるといえよう。

山鹿流兵法の門下生 、乃木希典(のぎまれすけ)

乃木希典(1849~1912)は長州藩の出身である。日露戦争において旅順攻囲戦などで活躍するが、明治天皇の後を慕って殉死したことや、戦後に『坂の上の雲』を書いた司馬遼太郎によって“愚将”として断定されたことのほうが有名である。

ただし、この愚将説はまったく根拠のない小説であることは、歴史家諸氏が異議をとなえているところである。

乃木は1864年、13歳にして出身地の長府(現在の下関市)から70km離れた萩に赴き、吉田松陰の叔父である玉木文之進の弟子となり、山鹿流兵法を学ぶ。

この山鹿流兵法とはわが国の志向の兵法家である山鹿素行を開祖とする。孫子の兵法と、そして楠木正成にも影響を与えた我が国の闘戦経の両方の流れを継ぐ江戸期の兵法であり、幕末維新に多大な影響を与えた。

1865年に、第二次長州征討が開始されると、乃木は奇兵隊の山県有朋の指揮下で戦い、功名を果たす。

1868年、陸軍に入営し、1872年にわずか22歳で大日本帝国陸軍の少佐に任官した。異例の抜擢であった。

1974年、乃木は山県の伝令使に登用され、1875年12月、乃木は熊本鎮台第14歩兵連隊長心得(小倉)に赴任するが、これは、そののちに反乱を起こす、 前原一誠の動向を探ることが兼務であった。

 乃木の前任の連隊長・山田頴太は、のち叛乱で有名になった前原一誠の弟である。そして前原党の首脳の一人が乃木の実弟の乃木真人(玉木正誼)であった。真人は松下村塾の創始者である玉木文之進の養子になっていた。

その前原党の動きを探るため、山県はあえて乃木を山田の後任に送ったのである。

乃木は、弟たちから得た情報を山県に送った。これにより1876年10月の前原一誠の乱は拡大することなく、鎮定されたのである。

このように、乃木は諜報員として軍人生活を開始したのであった。

情報将校が出発点、桂太郎

桂太郎

桂太郎(1848~1913)は長州出身の政治家である。総理を3回歴任するなど、明治の政治家の重鎮である。

桂は1970年から3年間ドイツに留学し、帰国後に陸軍大尉に任官し、第6局(参謀本部の前身)勤務、ついで少佐に進級して参謀本部設置(参謀長は山県有朋)とともにその諜報堤理(ちょうほうていり)の職に就いた。

そして、75年から3年間ドイツ公使館附武官として赴任する。そして、78年7月に帰国し、参謀局諜報堤理の職に復帰した。つまり、桂の軍人としてのキャリアは情報将校である。

 桂家は、孫子などの兵法を管理し、闘戦経を開祖した大江家、そして大江家の末裔である毛利家、祖先とする。だから、桂には兵学、諜報の血が流れていたのかもしれない。

 桂がドイツに赴任している間に西南戦争が起こった。山県はこの戦争を鎮定し、内戦に備える軍隊から決別し、対外的な脅威、すなわちロシアによる東方侵攻に備える軍隊に再生させるための軍事改革を図ることになる。

この改革の主導的な役割を担ったのが、この桂と次に登場する川上操六であった。

参謀本部創設の父、川上操六(かわかみそうろく)

川上操六 (1848~1899) は薩摩藩の出身であり、1977年の西南戦争では苦渋の選択から陸軍に残り、尊敬する薩摩藩の西郷隆盛と戦った。

川上は桂太郎、児玉源太郎とともに「明治陸軍の三羽烏」と呼称される逸材である。川上は「参謀本部創設の父」と呼ばれ、参謀本部の発展に多大な貢献をした。おそろく、52歳という若さで鬼籍に入られなければ、もっと著名な大人物になっていたことは間違いない。

川上は1870年の普仏戦争に桂と共に観戦武官として派遣された。その後、国内の連隊長職などを歴任し、頭角を現した。

1884年、川上は桂太郎とともに大山巌・陸軍卿(大臣)に伴って欧州に視察旅行にいく。桂、川上ともに35歳であった。

大山は、今後の陸軍を建設し、近代化するためには、長州の桂と、薩摩の川上の両大佐が必要であるとして、この欧州視察に大抜擢した。

このとき、二人は「軍政の桂」「軍令の川上」になることを将来の誓いとした。なお軍政とは人事・予算・制度等を主務とする、軍令は作戦運用を主務とするものである。

1885年1月にドイツから帰国し、山県有朋・参謀本部長のもとで、川上は参謀次長(少将)に就任し、参謀本部の改編に着手する。わが国は1882年、陸軍はフランス式の兵制からドイツ式に切り替え、編制・用兵を外征型に改め、ドイツ式の教範整備などを推進することに決したが、その改革はこれからの課題であった。

この切り替えを決定的なものにしたのが、1985年にドイツから陸軍大学に招聘されたメッケル少佐である。

川上は、桂、児玉源太郎とともに、メッケル少佐を顧問にドイツ式の兵制を導入することに尽力した。このころ、陸軍ではフランス式かドイツ式かの議論があったが、川上は「普仏戦争において勝利したドイツを見習うことが当たり前だ」と忌憚なき意見を述べた。

1887年、川上はふたたびドイツに留学する。ここでは乃木とともに、ドイツのモルトケに執事した。

また、この時に森鴎外(当時25歳)に面会して、クラウゼヴィッツの『戦争論』の翻訳と、その内容を後述する田村怡与造に講義するよう依頼した。

1988年に帰国し、ふたたび参謀次長(名称変更)に就任し、1890年に陸軍中将に昇任して日清戦争の開戦に大きくかかわることになる。

日清戦争前の1893年、川上(参謀次長)は清国と朝鮮を視察し、「先制奇襲すれば清国への勝利は間違いない」と確信を得て帰国する。この際、田村怡与造(中佐)とともに連れて行ったのが情報参謀の柴五郎大尉(のちに大将)であった。

なお、柴は陸軍大学を出ずに、情報将校としての活躍で陸軍大将まで上り詰めた希有な軍人である。柴については次回以降触れることにする。

日清戦争では、川上が推進した陸軍の近代化が勝利に大いに貢献した。日清戦争以後、わが国の対外情報機能はさらに強化されることになる。

1998年1月、川上(中将)は参謀総長に就任する。彼は作戦を司る第一部長に田村怡与造(当時は大佐、のちに中将)、情報を司る第二部長に福島安正(当時大佐、のちに大将)を当て、近代的な参謀部の組織改革を目指した。

その一方で、川上は大陸に対ロ諜報員を派遣して、対外情報網の構築に尽力した。日露戦争時に活躍する花田仲之助、福島安正は川上が放った諜報員であつた。

1898年9月、川上は大将に昇任し、日増しに高まるロシアの脅威に立ち向かうためには、川上はなくてはならない存在になった。しかし、日露戦争開始前の1999年5月に、川上は激務がたたって死亡した。

今信玄、田村怡与造(たむらいよぞう)

田村 怡与造 (1854~1903) は山梨県の出身である。その優秀さから甲斐の戦国武将・武田信玄にちなんで、川上から「今信玄」と呼ばれていた。中尉から大尉時代にかけてドイツに留学したドイツ通である。

1875年、陸軍士官学校に入学(旧2期制)。1883年にドイツに留学し、ベルリン大学で学ぶ。この時、川上と交流し、軍事研究に励む。

1888年に帰国し、以後は参謀本部に勤務し、陸軍のフラン式からドイツ式軍制への転換に務め、『野外要務令』『兵站要務令』の策定などに従事した。

1898年参謀本部第一部長に就任し、川上の右腕として対ロシアの脅威に備える。同年、川上が死亡したのち、田村はしばらく第一部長を務めていたが、1902年4月に参謀次長に就任する。

田村は情報将校としての主たる経歴はないが、参謀次長としてインテリジェンスの重要性を認識していた。階級が上の福島を情報部長として、対ロ情報を強化する一方、ウラジオストックに町田経宇少佐を派遣するなどした。

日露戦争は、この田村によって指導される運びであったが、彼もまた川上と同様に無理がたたって日露戦争開戦前に急死することになる(同日、中将に昇任)。

参謀本部の創設に多大な貢献をした両雄が日露戦争前に急死したのだから帝国陸軍の脱力感はいかばかりであったろうか。これを見て動いたのが、当時の内務大臣であった児玉源太郎である。

児玉は、“火中の栗”を拾うとばかり、内務大臣から二階級降格の形で参謀次長に就任する。

シベリア単騎横断の福島安正

福島安正

福島 安正(1852~1919) はきっすいの情報将校である。明治維新後、英語翻訳官から軍人に転換し、情報一筋で大将まで進級した最初の軍人である。

福島は長野県で生まれ、1865年、13歳で江戸留学、1869年に東京の開成高校で英語を学んだことが、のちの出世の登竜門となった。

福島は1874年から陸軍に転籍し、1976年の24歳の時に通訳官として西郷従道が率いるアメリカの博覧会視察に随行した。77年の西南戦争では山県有朋の幕下で伝令使(中尉)として活躍した。

1879年、福島は上海・天津・北京・内蒙古を五ヶ月にわたって現地調査(当時、中尉)する。これが情報将校としての本格的な第一歩となった。

その後、陸軍大学校で、ドイツから赴任したメッケル少佐に学ぶ。この縁で、

1987年にドイツ・ベルリン公使館に赴任し、ここでは公使の西園寺公望(さいおんじこうぼう、のちの総理大臣)とともに、ロシアのシベリア鉄道施設の状況などを報告した。

1892年の帰国に際しては、冒険旅行との名目でポーランドから東シベリアまでの約18000キロを1年4か月かけて騎馬で横断して現地調査を行った。これが世に有名な「シベリア単騎横断」と呼ばれるものである。

福島の活躍は、日露戦争において最盛期を迎えるが、これについては次回以降に述べることとする。

このほかの情報将校の活躍

岸田吟香

このほか、日清戦争前後においては荒尾精(あらおせい、1858~1896)、根津一(ねずはじめ、1860~1927)らの傑出した情報将校が活躍した。

一方、ジャーナリストの先駆けといわれる岸田吟香(きしだぎんこう、1833~1905)をはじめとする民間有志が商取り引きなどを通じて大陸深くに情報基盤を展開し、これに応じる参謀本部の若手参謀が現役を退き、その基盤を拡充し、活動要員の養成に捨身の努力を払った。このような軍民一体の活動が陸軍の情報活動を支えていた。

荒尾は1859年に尾張藩士の長子として誕生。外国語学校でフランス語を修得したのちに、78年(明治11年)に陸軍卿満天星砲兵科に入学、80年に陸軍士官学校に入学した。

1885年、参謀本部シナ部附に転じ、86年に清国に赴任した。荒尾が陸軍に入隊したそもそもの理由が清国の歴史や事情を学び、清国に赴任することであったのであり、ようやく念願がかなったという訳である。

荒尾は清国で、ジャナリスの先駆けといわれる岸田吟香の協力を得て、書籍、薬、雑貨を扱う雑貨屋「楽楽堂」を営み、清国官憲の監視の目をごまかし、現地調査や諜報組織の設置に着手する。

1889年に帰国し、黒田清隆首相、松方正義大蔵大臣らの有力者に対して、「日清貿易研究所」の設立を要請したほか全国行脚し、清国の事情について講演し、募金を集い、90年に職員と生徒あわせて200名程度からなる「日清貿易研究所」を上海に設立し、日中貿易実務担当者の育成に努力した。

また、1892年、日清貿易株式会社の岡崎栄次郎の資金援助を得て『清国通称総覧』の編集に着手した。

荒尾は台湾でペストに罹り、38歳の若さで死亡するが、日清貿易研究所は彼の死後に、東亜同文会会長・近衛篤麿親友の根津一らの手によって、東亜同文書院(のちに東亜同文書院大学)に発展し、日本人のための高等教育機関となった。

他方、根津一は1860年に甲斐国の富家の次男に生まれ、陸軍士官学校に入学し、荒尾精と知り合い、中国への志を強めた。のちに陸軍大学への入学を果たし、ここでメッケル少佐に学ぶ。しかし、彼のドイツ至上主義と日本陸軍蔑視の姿勢に反発し、論旨退学処分となった。

結局、少佐で予備役に編入、荒尾の招聘で上海に赴任し、日清貿易研究所の運営、教育活動への従事を経て、1901年に初代の東亜同文書院の院長に就任した。

こうしたインテリジェンス重視の気風と活動が日清戦争におけるわが国の勝利に貢献したのであった。