わが国の情報史(34)  昭和のインテリジェンス(その10)   ─満洲事変から日中戦争までの情報活動(3)─   

はじめに

前回までに満洲事件後の陸軍および海軍のそれぞれの情 報体制について述べた。今日は日中戦争に向かうなかで生起 した、2.26事件など国内の主要事件の背景となった軍閥間の 対立や秘密組織の存在について述べることとする。

▼対ソ作戦計画をめぐる対立  

すでに『わが国の情報史(32)』において、1936年の 2.26事件が生起した原因のひとつに陸軍内の軍閥の存在があ ったことを指摘しておいた。ここで、もう一度、その記述内容を 少し短縮して振り返ることとしよう。  

1931年の満洲事変の勃発以後、日ソ両国は満洲をめぐって直接対峙することになる。1932年10月に、ソ連から日本に対して不可侵条約の締結申し入れがあったが、日本政府は時期尚早としてソ連の提案を受け入れなかった。この大きな理由というのが陸軍の強力な反対である。

不可侵条約締結に失敗したソ連は、極東ソ連軍の軍備を急速に拡張することになる。当時のソ連軍対関東軍の戦力比は3~4:1 であった。しかし、参謀本部第3部の作戦課長であった小畑敏四 郎大佐(のちに3部長)、その後任の鈴木従道大佐は極東ソ連軍の戦力を低く評価し、米・英や国民党との提携によりソ連に対す る攻撃を主張した。  

これに対し、参謀本部第2部長に赴任した永田鉄山少将は、ソ 連に対する軍事的劣勢を認識して、当面の間、ソ連との関係緩和を模索し、この間に軍近代化を図るべしとした。つまり、ソ連を西方に牽制するためにドイツなどとの提携を模索することを一義と し、英米や国民政府との提携には反対であった。  

国家戦略をめぐって第1部(作戦部)と第2部(情報部)が対立したが、作戦至上主義のもとで第1部の案が採用された。1933年(昭和8年)の作戦計画は「まず満洲東方方面で攻勢作戦 をとってソ連極東軍主力を撃破し次いで軍を西方に反転して侵攻 を予想するソ連軍を撃滅せんとする」ものに変更された。  

また、第2部と第1部との対立が永田、小畑両少将を中心とする対立抗争へと発展した。これが後々、世間でいわれる皇道派、 統制派の派閥抗争へとつながり、1935年8月の白昼における 永田少将刺殺事件、1936年の2.26事件を引き起こした のである。

▼陸軍の派閥の歴史  

ここで皇道派と統制派との派閥抗争に至る過程について、少々 時計の針を巻き戻して、陸軍の派閥の歴史を語ることとしよう。  

明治の初頭以来、陸軍にはいわゆる軍閥と称するものの存在が あった。それは明治維新に功労のあった薩長両派を中心とする二個の勢力である。一つは長州の大村益次郎を代表とする長州派で あり、もう一つは薩摩の西郷隆盛を代表とする薩摩派である。  

まず大村が死亡し(1869)、次いで西郷が倒れ(1877)た。 長州派は元帥・山県有朋がこれを率いた。一方の薩摩派は元帥・ 大山巌がその中心となった。両派は対立を続けたが、よく勢力の均衡を保って、日清、日露の両戦役にも勝利を得た。  

大正4年(1915年)、大山が死亡し、ここに長州陸軍の黄金時代を現出した。しかし、大正11年春(1922年)、長州派の大御所・山県が逝去する。そこに薩摩派の勢力挽回を策した 元帥・上原勇作と長州派を代表する田中義一(政友会に接近し、1918年の原内閣で陸軍大臣、1927年に総理大臣)との間に抗争が起こった。  

こうしたなか宇垣一成(うがきかずしげ)が登場する。彼は岡山出身であるが、田中の庇護のもとで陸軍中枢に躍り出る。大正 13年(1924年)に田中による工作が成功し、宇垣は清浦内閣の陸軍大臣に就任する。その後の宇垣は、加藤高明内閣、第1次 若槻礼次郎内閣で陸軍大臣に留任、濱口雄幸内閣でも陸軍大臣に再就任した。  

宇垣は、次第に田中および政友会と距離をとるようになり、憲 政会の加藤の方に接近していく。そして大正14年(1925年)、加 藤内閣時代においては、軍事予算の削減を目的とする軍縮を要求する世論の高まりを受けて、4個陸軍師団の削減を始めとする軍縮を断行した(宇垣軍縮)。  

宇垣は田中が死亡すると(1929年9月)、長州派を退けていった。しかし、上原元帥を中心とする薩摩派は宇垣の政策にこ とごとく容喙し、とくに宇垣の軍縮に対しては感情的なまでに反 抗した。  

宇垣は、こうした薩摩派の抵抗に対して、同期の鈴木荘六大将、 白川義則大将と連携して、全陸軍から優秀な人材を網羅して宇垣 派閥をつくっていたのである。  

一方の上原は、宇都宮太郎、武藤信義、荒木貞夫、真崎甚三郎 らを擁して、宇垣を牽制した。これらが、のちに皇道派と呼ばれる軍閥の基礎となった。

▼少壮将校による改革の芽生え  

こうした軍首脳部の権力争いは、少壮将校による藩閥打倒の革新的気風をもたらした。その表れが、永田鉄山(ながたてつざん)、 小畑敏四郎(おばたとしろう)、岡村寧次(おかむらやすじ)ら を中心とする「一夕会(いっせきかい)」の誕生である。    

1921年、ドイツの保養地で知られるバーデンバーデンに陸軍の秀英、永田、小畑、岡村、東条英機の4人が会した(バーデンバーデン会議)。 当時、日本は第一次世界大戦後の戦後不況と、政党間の対立に明け暮れていた。そこで彼らは、「現政府による国家の立て直しは不可能である」との結論に達し、「国家総動員体制の確立を目指 す、軍内における薩摩派、長州派の派閥を一掃する」ことが密約さ れた。  

彼らは、帰国後に他の将校との会合を開き、賛同者を獲得していった。 その結果、1927年に岡村の主導で「二葉会」が結成された。 また同年、鈴木貞一中佐が「木曜会」を結成した。そして1929年春から両組織が合併し、一夕会が結成されたのである。  

一夕会は軍内部の改革に取り組んだ。彼らは、荒木貞夫、真崎甚三郎、林銑十郎を中核とする陸軍建て直しと、当時、陸軍を牛耳っていた長州閥の解体を目指した。そして、1929年8月に岡村は陸軍省の人事局補任課長(大佐以下の人事を担任)になり、 1931年に荒木が犬養毅内閣の下での陸軍大臣になることで、 陸軍人事を牛耳ったのである。

こうしたなか、一夕会の議題は満蒙問題にも及んだ。この解決では満洲に日本の味方となる新勢力を樹立して利権を得ると同時 にソ連への防波堤にする政策が主流を占めた。  

満洲事変の立役者とされる石原莞爾も一夕会のメンバーであっ た。つまり、満洲事変そして満洲国建設は、現地における関東軍の独断専行というよりも、陸軍中央における一夕会の国家体制作 りという背景があったことになる。

▼海軍の秘密結社「王師会」  

満洲事変以後の5.15事件、2.26事件を見る上では軍内 の秘密結社の動きを押さえておかなければならない。 当時の秘密結社の濫觴は海軍の「王師会」設立からである。王師会は、1928年3月、霞ヶ浦航空隊の藤井斉(ふじいひとし) を中心に結成された。  

藤井は海兵53期であり、1922年8月に入校し、1925 年7月に卒業している。こま期は、1921年から22年にかけ てのワシントン海軍軍縮条約の影響で、兵学校の採用生徒数が削減された期であった。52期生は236名であったが、藤井ら 53期生は62名であった。  

このように藤井は、屈辱的ともいえる軍縮条約とその後の政党政治による軍縮、そして1920年代後半の経済不況の真っただ中の時代に、青年将校として生きた。そのことが藤井の思想に大 きな影響を及ぼした。  

藤井は、海兵入校後に思想家・北一輝の『日本改造案大綱』 (1923年敢行)を愛読するようになり、北が掲げる「アジアの解放」の思想に強く傾倒するようになる。また、藤井は兵学校 の休暇中は東京に行き、大川周明(おおかわしゅうめい)、安岡 正篤(やすおかまさひろ)らの知遇を得ている。  

海兵在校中のエピソードとして、時の軍令部長・鈴木貫太郎が 来校した際、藤井は軍縮条約を非難し、アジアの解放を訴える演説を行なったとされる。こうした行動が、藤井の求心力を高めたようだ。のちの5.15事件(1932.5)の首謀者となる三上卓(海兵54)、古賀清志(海兵55)は、こうした藤井の行動に共鳴した。  

藤井は西田税(にしだみつぎ)が結成した「天剣党」に唯一の 海軍軍人として加盟し陸軍青年将校との同志的団結を図った。なお、 退役陸軍軍人にして北一輝の第一の子分であった西田は、 2.26事件で北とともに死刑に処さられた。  

天剣党は、陸軍の隊付の青年将校や士官候補生が参加したが、 その発足は1927年5月とされる。天剣党には、北一輝の『日本改善法案大綱』を指導原理とし、世のいわゆる「軍隊の我が党化」を目指した秘密結社であった。この党の参加者には磯部浅一、 村中孝次など2.26事件の関係者が含まれた。  

しかし、西田が1927年7月に『天剣党規約』を作成して、 全国の連隊に所在する同志に配布したことが問題となり(天剣党事件)、天剣党は憲兵の執拗な監視下におかれ活動に支障を来し た。  

次第に藤井は西田らとの活動には距離を置いた。他方で藤井は、 大川周明が青年闘士を育成するために開いた「大学寮」に古賀ら とともに参加して、陸軍の青年将校などと交わり、陸・海・民の 三者による横断的団結を深める。  

藤井は1928年3月に、海軍兵学校以来の同志とともに王師会を結成した。これは、海軍初の革新行動組織であった。王師会 は発足当時の会員は10名前後であったが、1930年のロンド ン海軍軍縮会議のころは40数名に増加している。    

濱口内閣によるロンドン軍縮条約調印をめぐって、右翼や政友会は「海軍軍令部の承認なしに兵力量を決定することは天皇の統 帥権を犯すものだ」として、同内閣を攻撃した。これが政治問題化したのがいわゆる統帥権干犯問題である。  

藤井は政府に揺さぶりをかける切り口を海軍軍縮会議に見出し た。全権大使である海軍大臣・財部彪が帰国した際、「売国全権 財部を弔迎す」と書いた幟(のぼり)を突き付け、海軍大臣の下 へ直談判に押しかけた。こうした動きがやがて陸軍に波及し、これに民間右翼が呼応し、政党政治の撃滅を唱える風潮が高揚した。  

ロンドン海軍軍軍縮条約を頂点とする軍縮の動き、満蒙問題の切迫、大恐慌下の社会的不安、政党政治の腐敗堕落、社会主義運動の台頭などが、革新的軍人の結束を促進し、国家改造へと駆り立てたのであった。

しかし、王師会と陸軍青年将校との団結に軋みが生じる。藤井は陸軍との団結を強化し1931年に起きた十月事件(後述)へ の参加も考えていたが、陸軍の橋本欣五郎らに不信を抱き(後述)、 途中で離脱している。  

1931年12月に犬飼内閣が樹立し、青年将校から絶大な支 持を集める荒木貞夫大将が陸軍大臣として入閣すると、陸軍の若手将校は荒木を通じて自分たちの声を政治に反映しようとして、 王師会の活動とは連携しなかった。  

1932年1月に生起した第一次上海事変に、藤井が航空隊員 として出征し、国民党軍の対空火砲を受けて撃墜され、戦死した。 こうしたことにより、王師会の結束は綻びていった。  

1932年5月、王師会は犬養首相暗殺を試みた(5.15事件)。 しかし、首相暗殺こそ果たしものの、別働隊が起こした銀行や東京都の変電所に対する襲撃は軒並み失敗した。  

事件後、王師会のメンバーは次々に逮捕され、裁判にかけられ た。しかし、首謀者である三上と古賀の二人が叛乱罪により禁固 15年を受けたのが最高であり、死刑判決を下された者はおらず、 数年後に恩赦として釈放された。  

当時、世界恐慌の影響などでわが国は慢性的な不況状況にあり、 企業倒産、失業者が続出るなか、多くの国民はその原因を政党政 治の行き詰まりにあると考えた。そして国家の刷新を図ろうとする王師会に少なからぬ共感を抱いていた。実際、5.15事件関 与者の減刑を求める嘆願書も36万通近く寄せられており、その 中には血判や詰められた指なども同封されていたという。  

しかし、これは一国のトップを殺害しても、禁固15年程度で済むという前例となり、このことが、のちの2.26事件などを 誘発したとの見方もある。また、この事件の影響で暗殺を恐れた 政治家たちは軍への干渉を控えるようになる。そして軍部の発言力が一気に強まっていくことになったのである。

▼陸軍の秘密組織「桜会」の結成  

陸軍中央では、参謀本部ロシア班長として、トルコ大使館付武官より転任したばかりの橋本欣五郎中佐が帰朝早々から国家改造を目指した。 橋本は、ロシア語とフランス語が堪能であり、1923年に満 洲里特務機関長となる。ここでロシア特務機関員と接触してロシ ア革命を研究した。1927年にトルコ大使館付武官となり、こ こではケマル・パシャに私淑してトルコ革命を研究したとされる。  

ともあれ、トルコ再建に尽くしたケマル・パシャの偉業を目の当たりにして帰朝した橋本にとって、当時の国内状況は醜態窮ま るものであった。そこで橋本は国家革新を決意するが、革新断行 の前提として青年将校の団結を求めた。それが、秘密結社「桜会」 の結成につながった。  

一夕会が陸軍大学校のエリートで占められたのに対して、桜会 は出世コースから外れた士官学校の若手が占めていた。そうはいうものの、入校した将校には、終戦直後に北方領土でソ連軍と戦 う樋口季一郎、陸軍中野学校の創設者にしてインドの独立工作に従事した岩畔豪雄、のちの参謀本部作戦参謀・辻政信などの将来有望で決起盛んな青年将校も参加した。  

メンバーが百数十人を超えた1931年3月、桜会のメンバー は国会改造に向けて動き出す。橋本は、民間右翼の大川周明、清水行之助と共謀し、濱口内閣を打倒して、陸軍大臣の宇垣を総理大臣に担ぎ上げるクーデターを計画した。  

3月事件は失敗に終わったが橋本には何らのお咎めはなかった。 同年9月に満洲事変が生起したことで、桜会はこれに乗じて国内 でのクーデターを再び計画した。  

橋本らは、可能な兵力を総動員して国会を襲撃、首相と政府閣 僚の暗殺を企図した。政敵と武力排除した上で、桜会に同情的で あった荒木貞夫中将をトップとする改造内閣を樹立した。しかし、 決行前の10月17日に憲兵隊に先手を打たれて、橋本ら主要な メンバーは検挙された(10月事件)。  

この事件においても、陸軍首脳は検挙者に対して寛大な処置を とった。こうした国(軍)内における下剋上の風潮容認がさらなるクーデター計画である2.26事件へとつながった。

▼一夕会の分裂から皇道派と統制派との対立  

1931年の満洲事変以後、一夕会は陸軍の最大勢力となった。 しかし、冒頭のように対ソ政策をめぐって、結成時のメンバーである永田と小畑が対立することになる。さらには、石原も満洲の運営方法で、他の会員と対立していく。そして、1934年前後には、永田・小畑の対立は修復不可能な域に達するのであった。  

その背景の一つには陸軍大臣の荒木による身内贔屓の人事があ った。荒木は、かつての薩摩派、のちに皇道派と呼ばれることにな る面々を重用した。これにより、会員の不満が爆発し、一夕会は永田に味方するグルーブ(統制派)と小畑のグループ(皇道派) に対立した。荒木は小畑の後ろ盾となった。  

しかし、1932年の5.15事件や右翼団体「血盟団」による連続暗殺事件(血盟団事件)への関与疑惑から、皇道派への風当たりが強くなった。1934年1月に荒木は体調不良により辞任した。 その後任には、統制派の林銑十郎が選ばれた。林は永田の助言を受けて、重要ポストから皇道派をことごとく 排除した。

そして、軍務局長になっていた永田が皇道派の相沢三郎中佐に刺殺される。これが原因で林は陸軍大臣を辞任する。こ うしたきな臭い対立が刻一刻と2.26事件へと向かわせたのである。

私の新著『武器になる情報分析力』

新著『武器になる情報分析力』が並木書房から発売されます。
同社とは『戦略的インテリジェンス入門』(2016年1月)以来のお付き合いですが、このたびも約半年間、いっさいの妥協なく新著の完成を目指してきました。

本書は『戦略的インテリジェンス入門』と同様に「マニュアル本」ですが、できるだけ定価を押さえ、社会人向けに広く読んでいただくよう、内容を精選充実することに注力しました。元の原稿から「要点の精選→枝葉は削る→無味乾燥になる→事例を加える」 を十数回繰り返し、分量を約2/3まで絞りました。

さて、AIが仕事を奪う可能性など、予測不能な時代では“知的武装”が必要です。なかでも物事の本質を洞察し、近未来を予測する「情報分析力」こそは最も必要不可欠な技能といえるでしょう。本のタイトルは、このような意味を込めて決めました。

本書は、情報分析という視点に特化したインテリジェンス入門書です。「インテリジェンスとは何か?」「情報分析とは何か?」「どのようにしてインテリジェンスを作成するのか」などについて具体的に解説しています。

筆者が、皆さまにとくに強調してお伝えしたいのは3点です。

第1は、まず情報分析の効率化です。

なぜ、情報分析やインテリジェンスの作成ができないのでしょうか? その原因は勉強不足、知識不足ではありません。実は、 「何を知るべか?」という「質問(問題)の設定」が行なわれていないからです。

情報が氾濫している今日、いきなり手当たり次第に情報の収集を始めてはいけません。それではますます情報が溢れ、効率的な分析はできません。そこで、最初に「何を知るべきか?」という視点で質問を設定します。次にそれに対する回答の方向性を定めます。それから回答を解くためのドライバー(鍵)を特定します。
それがすんでから、そのドライバーの枠内に入る情報だけを集めて分析していきます。

このような情報分析の手順を理解し、問題の設定のやり方をマスターしていただけるよう、本書では詳細かつ平易に解説いたしました。

第2は、バイアス排除の思考法を身につけることです。

なぜ、情報分析は誤るのでしょうか? それは「バイアス」に捉われるからです。

本書では「フレームワーク」「マトリクス」「クロノロジー」 「競合仮説分析」「階層ツリー分析」など、プロの情報分析官が活用している情報分析の手法を紹介しています。当然、これらはそのままビジネスに応用できます。

ただし、情報分析にもっとも必要なものは、各分析手法の底流に流れている思考法を身につけることです。そのなかで重要なのが「バイアス排除」の思考法です。

本書では、バイアスに関する記事に多くの紙幅を割ています。バイアスの存在を意識し、バイアスを排除するために「競合仮説分析」などの手法が有効であることを学習していただければ幸いです。

第3は、共通の分析手法を使って「群衆の英知」を発揮することです。

皆さんは、国際情勢の知識がないから、政府機関の情報分析官になれないし、国際情勢の推移なんかわからないと思っていませんか?

世の専門家の知識量は膨大であり、現在に起きている事象の文脈を整理して、理論立てて解説することは群を抜いています。しかし一方で、専門家の未来予測については、ある有名な本では「チンパンジーのダーツ投げにも劣る」と揶揄されています。これは、自らの知識と経験を過信して、思い込みで結論を決めつけるからです。

他方、素人であっても、共通の手法にもとづいて、集団で情報分析や未来予測に取り組めば、その正確性は専門家をはるかに凌駕することが、よく知られています。これが「群衆の英知」です。

筆者は2018年4月、ビジネスパーソン向けに「情報分析講座(3回シリーズで計10時間)」を実施しました。本講座では「北朝鮮情勢」をテーマに、最終課題ではグループで「北朝鮮の近未来(2020年)に関する3つのシナリオ」を作成していただきました。

社会で経験を積んだ参加者の分析作業のレベルは、筆者が教官をしていた防衛省や陸上自衛隊の学生たちに「優るとも劣らない」という印象を受けました。当時から現在までの現実の情勢変化を鑑みてもみても、短時間の作業でしたがその策案はなかなかの完成度です。

つまり、国際情勢に関する知識が不十分であったとしても、しっかりとした手順を踏み「群衆の英知」を発揮すれば、相当程度の分析ができるということです。

本書の付録「情報分析の実技編」では、本講座の内容を一部修正して紹介してあります。付与した「課題」と、それに対する「指導案」および「解説」の三本立てになっています。是非これをお読みいただき、皆さまも実技講座の仮想体験をしていただければ嬉しく思います。

さて最後に、巷の“ノウハウ本”を読んで、皆さまはどのよう
に思われますか? 私は、よく安全保障における“権威”といわ
れる方々の著書を読みます。おおいに精神要素が鼓舞され知らな
い知識は増えますが、情報分析に関する限りでは、実践の書では
ないと思います。

経験、知識、環境に差がある者が、“権威”のやり方は真似るこ
とはできないし、真似ても意味がないからです。

他方、米国は従来から、世代が変化して時の“権威”が不在にな
っても、困らないように、物事のやり方を誰もが理解できるように、
基本的な手法と手順を定めるマニュアルの作成を重視しています。
これが徒弟制度の日本と大きな違いです。

筆者が自衛隊時代に学んだ多くの分析手法は、もともとは米軍の
マニュアルであり、本書も基本的には米軍や米国情報機関のマニ
ュアルにもとづいています。

不透明な時代を生き抜くためには、専門家の“ノウハウ本”を読
んで、それを鵜呑みにしたり、そのノウハウを真似ていてはダメ
だと思います。

各人が基本的かつ共通なマニュアルを理解する、そしてコミュニ
ケーション能力発揮して仲間を形成し、ダイバシティ(多様性)
という環境のもとで集団で物事を判断し、行動する。これが、こ
れからの生き方になると思われます。

本書が、皆さまの共通マニュアルの確立と「群衆の英知」を促し、
国家全体の「インテリジェンス・リテラシー」の向上にひと役買
えれば幸甚です。

(上田篤盛)

軍事情報メルマガの管理人エンリケさまの紹介

こんにちは、エンリケです。

上田さんの単著としては5冊目になるこの本は、 一般報道などを通じて得た情報を、 いかに分析し、 いかにインテリジェンスづくりにつなげるか? の手順をていねいに紹介した、まさに「プロの手ほどきになる情報分析マニュアル」といえる書です。

巷にあふれる「インテリジェンス本」は、、著者のインテリジェンススキルから得た成果を公開しているものがほとんど。

でもこの本は、、「インテリジェンスを紡ぎ出すために不可欠な情報分析の手法を、あなたが身につけ、成果を出すこと」を目的とするマニュアルです。

実践にあたって躓きがちなポイントをクリアするコツ、他では決してお目にかかれない「現実に行われた情報分析セミナーの仮想体験」も味わえる、一味違うマニュアルです。

ほかの本とどこが違うかと聞かれたら、この点を挙げることでしょう。

有機的(現実感ある話なので内容を吸収しやすい)かつわかりやすい。だから身に付く、という読後感です。まさに「情報分析能力というインテリジェンス・リテラシー」を、あなたの中に築き上げるために作られた書といえましょう。

おうおうにしてこの種の書は読むのがしんどくて一度読むとしばらく読む気は起こらないものです。軽いだけの本は、再読しようとそもそも思いませんけど、中身はあるのに重すぎる本も、再読しようとは感じませんよね。しかし、上田さんの本は、読後感は軽く、それでいて脳内に引っかかるイメージが多く、印象に残りやすい文面です。既刊本と同じく、本書もそうです。繰り返し読もう、という気をふっと起こしてくれます。

国家から個人まで、すべてのインテリジェンス活動の中核は「情報分析」です。組織だけでなく国民個人レベルの情報分析能力、インテリジェンス・リテラシーの向上は、いまのわが国に必要不可欠です。これほんとです。

文明史レベルの転換点にある今、将来の見通しは不透明です。過去の延長線上で先行きをとらえると、大やけどを負う時代です。今後、何が起こるかもわかりません。わが周辺環境も、わが国に常時緊張を強いています。

そんななか、わが国防、安全保障を確かなものとするには、国民レベルのインテリジェンス能力向上、なかでも、インテリジェンス活動の中核となる情報分析能力の向上は欠かせないのです。

あなたにこの本を手に取っていただきたい。 そう思っています。いや、願っています。

この本の全貌はつぎのとおりです。

まず第一章では、
「インテリジェンスとは何か?」が記されています。

インフォメーションとインテリジェンスの峻別の大切さ、戦略・
戦術情報とインテリジェンスの関わり、ビジネスに置き換えての
解説、見積もりインテリジェンスと動態インテリジェンス、イン
テリジェンスの究極の目的、孫子を引用しての解説も実に納得ゆ
くものです。この基盤をしっかり身につけておくと、「何やって
るんだろう?」が少なくなり、効率的な情報分析につなげられま
す。

意思決定とインテリジェンスは違う、断言することがインテリジ
ェンスではない、という点が重要な気がします。

詳細は以下のとおりです。

第1章 情報からインテリジェンスへ 13

1 インテリジェンスとは何か? 13
 インフォメーションとインテリジェンスの違い/インテリジェ
 ンスとインフォメーションを混同しない/インテリジェンスの
 三つの要件
2 インテリジェンスとはいかなる知識か? 19
 「敵」「我」「戦場」の三つを知る/敵を知ることは「戦わず
 して勝つ」ための一つ/我を知ることは敵を知るよりも重要/
 「アウトサイド・イン」思考が重要
3 インテリジェンスと戦略・戦術の関係 24
 わが国のインテリジェンス軽視の風潮/戦略と戦術の違い/
 戦略とインテリジェンスの関係
4 カスタマーとインテリジェンス担当者との関係 29
 インテリジェンスはカスタマーのもの/組織の目的や基本戦略
 を理解する/遠すぎても近すぎてもいけない
5 インテリジェンスの究極的な目標 33
 インテリジェンスの三つの種類/インテリジェンスの究極目標
 は未来予測/未来予測とは不確実性の低減にほかならない/不
 確実性に対処する二つの手法/起こりえる複数の事象とその確
 度を明示する/シナリオ・プランニングの活用


つづいては第二章です。

第二章では、組織が行うインテリジェンスサイクルと、情報分析
にかかわるインテリジェンス理論について書かれています。

CIAが行っているサイクル、情報要求を行うカスタマーとインテリ
ジェンス担当者との関わり、一般人であってもオシントのみで国
際情勢の情報分析ができるのか?、「百聞は一見に如かず」の真
理、情報処理の4分類、情報評価と情報源の評価が違う理由、分
析とは何か?、インテリジェンスに価値をもたらす2つの要素、
有用なプロダクトであるための3条件とは?といったことに言及
されています。

実際自分が作ったインテリジェンスプロダクツは、果たしてイン
テリジェンスに値するのか?という問いに応えてくれる内容です
ね。常に立ち戻るべき場所という感じがします。

詳細は以下のとおりです。


第2章 情報分析力を身につける 44

1「インテリジェンス・サイクル」44
2「計画・指示」の段階 47
 情報要求とは何か?/目標指向の弊害/「鶏と卵」の問題
3「収集」の段階 49
 オシントで90パーセント以上のことがわかる/第一次情報と第二
 次情報
4「処理」の段階 52
 情報はデータベースとして蓄積/情報は「劣化」する/情報の
 評価と情報源の評価は異なる
5「分析・作成」の段階 56
 情報分析とは何か?/分析とは事象を分類して特徴を見ること/
 統合と解釈がインテリジェンスの価値を生む/サイエンス派と
 アート派/プロダクトに必要な要件/作成するプロダクトの種
 類は?
6「配布」の段階 65


つづく第三章では、
情報分析を失敗させる各種の問題とそれへの対策、とくに、重大
な要因となる「バイアス」について広く紹介・解説されています。

集団浅慮や権威主義を排除する策、警告する際の注意点、情報分
析者が陥りやすいワナとそれへの対処策、グループ討議の大切さ
と松下村塾、意図分析への過度の傾斜を防止するには?などなど

実に詳細な「バイアス」分析と解説、対処策が本章最大の読みど
ころです。上田さんもおっしゃってましたが「「思考力を磨く」
上でこの箇所は非常に重要で欠かせないと感じます。
極端なはなし、バイアスの部分を熟読するだけでも、この本を手
に入れる買う価値はあると思います。

インテリジェンスの他者への依存は非常に危険だとも改めて感じ
ました。

余談ですが、
お笑い芸人・オードリーの若林さんが、著書「ナナメの夕暮れ」
のなかで(耳に痛いことを言ってくれる人を持つことが、人生失
敗しないためには絶対必要だ)という趣旨のことを書かれていま
す。同じ内容の言葉を、インテリジェンスのプロが書かれたこの
本で目にするとは思いませんでした。

閑話休題

詳細は以下のとおりです。


第3章 情報分析はなぜ失敗するか? 67

1 情報分析を失敗させる外的要因 67
 情報の氾濫/情報の操作/組織の縦割り「ストーブ・パイプ
 ス」/インテリジェンスの政治化/組織の硬直化と集団浅慮/
 兆候と警告─オオカミ少年症候群
2 情報分析を失敗させる内的要因 80
 想像力の欠如/意図分析への傾斜/妥当性の判断尺度を過信/
 さまざまなバイアスの存在/〝結果オーライ〟こそ失敗の本質
3 さまざまなバイアス 93
(1)一つの仮説にとらわれるバイアス 93
 サンプリングバイアス/生存バイアス/利用可能バイアス/確
 証バイアス
(2)誤った仮説を立てるバイアス 100
 希望的観測/猜疑心バイアスと敵意帰属バイアス/因果関係バ
 イアス/ハロー(後光)効果/フレーミング効果/ミラー・イ
 メージング/クライアンティズム(顧客迎合主義)/過大評価・
 過小評価/平均回帰バイアス/多数派(集団)同調バイアス
(3)一度立てた仮説や結論を修正できないバイアス 114
 アンカーリング・バイアス/レイヤーイング(多層化バイアス)/
 正常性バイアス/現状維持バイアス/後知恵バイアス


つぎはいよいよ第四章に入ります。

第四章では、情報分析担当者が効率的にインテリジェンスを作る
方法を記しています。本著最大の読みどころで、がっちりモノに
したいですね。

情報分析にあたっていかなる着眼をすると効率的にインテリジェ
ンスを作ることができるのか?という、実践にあたって一番つま
づくポイントを解決するコツも教えてくれます。

ネット検索時の注意点・コツ、兆候をつかむ方法、秘匿記事から
重要情報をとる方法、上田さんの情報整理法、クロノジーの実際
も紹介されています。類書でもよく見かける各種手法を、実際ど
のように使えばいいのか?もわかります。実践者にとってこれほ
どありがたい章もないのでは?と思わせます。


詳細は以下のとおりです。


第4章 情報分析力を高める 120

1 効率的な情報分析のための着眼 120
 ニーズを明確にする/「知らなければならないこと」は千差万別/
 「逆から考える技術」を学ぶ
2 質問を設定する 126
(1)最初の質問を設定する 126
 回答を意識する/質問は四つに分類できる/現在の質問と未来
 の質問の違い/よい質問の条件/クローズドクエスチョンから
 オープンクエスチョンへ/「5W1H」の概念で整理する/未
 来予測ではオープンクエスチョンが重要/質問は常に修正する
(2)質問を再設定する 136
 再設定によって論点を明確にする/三つの「目」を活用する/
 ブレーンストーミングを行なう
(3)質問を分解する 141
 質問をブレークダウンする/フェルミ推定を応用する/「ME
 CE」で質問を分解する/階層ツリーを利用する
3 ドライバーを設定する 147
(1)ドライバーを案出する 147
 ドライバー(鍵)とは何か?/フレームワークを活用する/関
 係図を作成する/ロジック・ツリーを活用する
(2)ドライバーを選択する 153
 ドライバーの数を制限し優先順位を判断する/ドライバーに評
 価尺度を設定する
4 情報を収集し、整理する 156
(1)情報を効率的に収集する 157
 キーワード検索を行なう/検索要領を工夫する/ネット情報の
 利点・欠点を認識して活用する/情報は積極的に取りにいく/
 第二次情報を活用する/秘匿記事から重要情報を入手する
(2)情報源と情報の評価をしっかり行なう 167
 評価のための尺度を持つ/青、黄、赤に色分けして選別する
(3)情報を体系的に整理する 170
 問題意識をもって分類する/マトリクスを活用する/クロノロ
 ジーを活用する

さあ、ついに最終章です。

最終章となる第五章では、情報分析の客観性を高め、正確なイン
テリジェンスをいかに作るか?についての要領とポイント、注意
点、対処策が書かれています。現状分析から未来分析まで対応し
ています。種々の使える手法の解説は圧巻です。

詳細は以下のとおり。


第5章 情報分析力で先を読む 178

1 前提を明らかにして仮説を立てる 178
 前提を明らかにする/「隠れた前提」を見落さない/仮説を立
 てる/アナロジー思考を活用する/ブレーンストーミングを活
 用する
2 仮説を立証し検証する 185
 仮説を証拠で立証する/仮説を因果関係で検証する
3 前提や仮説を見直す 190
 リンチピン分析で前提を見直す/「重要な前提の見直し(KA
 C)」を使う/競合仮説分析(ACH)/競合仮説分析を実践
 する
4 未来を予測する 204
 「四つの仮説立案」を使う/SWOT分析を用いる/イベント・
 ツリー分析を用いる/「仮説の見直し(HR)」を使う
5 シナリオを作成する 212
 シナリオ・プランニングの基本的な考え方/シナリオ作成の基
 本的な手順を理解する


、本著最大の特徴と言える
「ひとつの章レベル」の付録です。

付録の「情報分析の実習」では、2018年4月上田さんが講師
となって行った情報分析講座の内容が一部修正のうえ収録されて
います。実際に行われた講義の再現なので、生々しくて身近な感
じがします。これを読むと「自分にもできる」という気持ちにな
るのはなぜでしょう?

実践重視の方は、まずは付録から読むというのもいいと思います。

詳細は以下のとおりです。


付録 情報分析の実習 216

 課題1 質問を再設定する 218
 課題2 質問を細分化する 224
 課題3 ドライバーを案出する 227
 課題4 クロノロジーを活用する 230
 課題5 仮説を立案する 241
 課題6 未来仮説を立案する 244
 課題7 仮説を評価する 249
 課題8 イベント・ツリー分析を適用する 252
 課題9 シナリオを作成する 258


最後に置かれた「主要参考文献」は、
何気に重要で面白くておススメです。

強制思考とアナロジー思考を活用しよう!

▼「1県50」とは

筆者が住んでいる近隣に立ち飲み屋があります。そこに、この前から秋田出身の女性が働いています。 ここで秋田の話になったのですが、秋田と言えば、日本一深い湖の田沢湖、横手のかまくら、キリタンポ鍋、桜田淳子(古い話でごめんなさい)くらいしか出てきません。

彼女の出身は田沢湖近くの仙北市だということですが、「それどこ?」という感じです。 しだれ桜の有名な角館町と田沢湖町、それに西木村が2005年に合併して新設された市です。

筆者は、仕事やプライベートで、ほとんどの都道府県に行ったことがあります。残すところ愛媛、高知、和歌山、秋田の4県です。だから、日本の地理には結構、薀蓄がありますが、秋田は苦手の部類ではありました。

以前、私が若かりし頃に情報教育を受けた時のことを思い出しました。ある教官は「初対面で会った人とスムーズに会話するためには、○○県と言えば、最低でも50のキーワードが次々に出てくるようでなければならない」といいました。 のちに、教官になった筆者も「1県50」と称して、学生にこれを紹介し、時々授業で一緒にやったりしていました。

▼強制思考とフレームワーク

この「1県50」にはコツがあります。アトランダムに考えると、だいたい20くらいで途絶えてしまいます。そこで、政治、経済、社会、地理、人物などのフレームワークを使用します。このような思考法を「強制思考」と称し、情報分析における仮説を立てるなど、さまざまな局面で活用されています。

今日ではいくつかの既存のフレームワークが提示されています。

ビジネスにおいて外部環境を分析するためのフレームワークが「PEST」です。これは政治(Politics)、経済(Economics)、社会(Society)、技術(Technology)の頭文字をもじったものです。これは記憶しやすいための“語呂合わせ”です。

なお、最近は、社会の中に含まれる環境(Ecology)を分岐させて「SEPTEmber」(セプテンバー、9月)」と呼称されることが多いようです。

他方、内部環境を分析するためのフレームワークには「3C」(Customer、Competitor、Company)、「4C」(3Cにチャンネル(Channel)を加える)、「4P」(Product,Price, Place(販路),Promotion)などがあります。

「競合分析」(CI、コンペティティブ・インテリジェンス)の祖であるマイケル・ポーターは、自社を業界のなかに位置づけるために業界内部の環境要因を5つの要素にわけて分析する「5フォース」を提唱しました。

国家安全保障の領域では「STAMPLES」(Social、Technological、Environmental、Military、Political、Legal、Economic、Security)があります。

このほか「PMESII」(Political、Military、Economic、Social、Infrastructure、Information)、「DIME」(Diplomatic、Information、Military、Economic)などよく活用されます。

▼アナロジー思考とは

強制思考と並んで、 良質のアイデアを生み出す発想法には アナロジー思考があります。これは類似思考、類比思考ともいい、野球、サッカー、スポーツ、オリンピックというように類似したものを思い出すことです。フレームワークとアナロジー思考を組み合わせることでアイデアが生まれというわけです。

アナロジー思考はは前例、他の業界や商品などから学ぶことですが、これには縦の思考、すなわち歴史的類推法があります。これは、過去に起こった歴史的事象に基づいて未来を予測する方法です。

ハーバード大学のグレアム・T・アリソン教授は著書『米中戦争前夜』の中で「トゥキディデスの罠」について述べています。

アリソン教授はアナロジー思考により大国スパルタを現在の米国、新興するアテネを現在の中国に見立てて「米中はトゥキディデスの罠を免れることができるか?」をテーマに米中関係および国際社会の未来図を描いています。

トゥキディデスは古代ギリシャのペロポネソス戦争を描いた『ペロポネソス戦争史』を遺した歴史家です。つまり、覇権国家スパルタに挑戦した新興国アテネの「脅威」が、スパルタをペロポネソス戦争に踏み切らせたことにアリソン教授は着目し、覇権を争う国家どうしは戦争を免れることが難しいとして、それを「トゥキディデスの罠」と名づけたのです。

アナロジー思考には横の思考もあります。これは現在起きている他の類似した事物や状態に着目することで未知のことを類推する手法です。

この時、すでに生起している先行事象を探すことが重要です。たとえば地方では少子高齢化は進んでいますが、そこでは家屋の過剰、交通機関の閉鎖、市町村の合併、その一方で自動販売車の進出などが起きています。つまり、これの減少が、やがて急速に少子高齢化を迎える都市部の近未図でもあります。

▼越境とリベラルアーツ

このほか発想力を鍛える方法として、最近は〝越境〟という言葉が知友黙されます。これは池上彰氏の造語です。A1時代を生き抜くためには、一つの専門性では太刀打ちできない、でも専門性を二つ、三つと増やすことができればAIの追随を許さない。だから〝越境〟が必要ということになります。

また、学問の世界では「リベラル・アーツ」が注目を集め始めています。この語義は『ウィキペディア』などで調べていただければわかりますが、要するに、専門の世界に入る前に、いろいろなことを横断的(越境的)に学ぶということです。

▼乱読のススメ

今日、勉強はどこでもできます。しっかりと学ぼうとすれば学校に行けばよいでしょうが、経費を節約しようとすればネット講座も利用できます。私は、1か月1300円で「10mtv」を契約しています。

でも、 もっとも手っ取り早い勉強法は読書でしょう。 ある本に、ビジネスパーソンが時代に対応するためには1年に最低50冊を読むことが必要だと書かれていました。かの佐藤優氏は1か月に300冊から500冊だそうです。これは、とても凡人には無理できすが、個人で少し難しいくらいの目標を定めて挑戦したら良いと思います。

なお、筆者は1か月に30冊の読破を目標にして乱読しています。これにはキンドルの「アンリミテッド」を契約 (Ⅰか月1000円) しているので経費はあまりかかりません。ただし、アンリミテッドには制限がありますので、これはあくまでも思考の裾野を広げるための乱読用です。読みたい本や書籍や論文などの執筆用には別途購入していますので、書籍代が1か月1000円で済むという話ではありません。

わが国の情報史(33)  昭和のインテリジェンス(その9)   ─満洲事変から日中戦争までの情報活動(2)─

▼はじめに

さて、前回は満洲事変以後の陸軍の情報体制について述べまし

たが、今回は海軍の情報体制について述べることとします。

▼海軍の想定敵国の第一位は米国  

日露戦争以後、わが国陸軍はロシアを、一方の海軍は米国を想 定敵国とした。そして、両者の対抗意識が軍備の拡充競争を引き起こすことになる。これを憂慮した元帥山県有朋は、1906年 にわが国の「国防方針」の必要性を上奏し、同年末に初の帝国国 防方針が確立した。  

この国防方針の確定に際して、山県は想定敵国の第1位ロシア、 第2位清国、第3位にロシアと清国の2国を挙げた。しかし、海軍との討議の末に、第1位ロシア、第2位米国、第3位フランス が想定敵国となった。このような経緯からしても、陸軍と海軍に は国際情勢の脅威認識における相違があったのである。  

日本海軍が米国を強く意識した背景には、1980年代末から 1990年代の諸島にかけての、ハワイ併合、フィリンピン占領 といった太平洋への進出に加えて、米国の「オレンジプラン」の存在があった。

日露開戦直後から、米国は陸海軍の統合会議を開 催して、世界戦略の研究に着手した。つまり、ドイツを仮想敵国 にしたのが「ブラックプラン」、イギリスに対しては「レッドプ ラン」、日本に対してはオレンジプランといったように色分けした戦争予定準備計画を策定したのである。  

オレンジプランでは、日本はフィリピンとグアムに侵略するこ とが想定された。つまり、米国が占領した太平洋の拠点を防衛す る上で、日本は想定敵国に位置付けられたていたのである。  

そして日露戦争における日本勝利によって、オレンジプランはより具体化されていくことになる。日露戦争が終った翌年の19 06年には、セオドア・ルーズベルト大統領は、軍部に対し米海 軍をすみやかに東洋に派遣する計画を命じた。その具体化事例の 一つが、1907年から1908年にかけての「白船事件」であ る(わが国の情報史24)。

こうした米国の動向に対し、海軍は「国防方針」にもとづき米国を想定敵国とし、1907年4月「用兵綱領」を策定し、来攻 する米艦隊を我が近海に向けてこれを撃滅する方針を確立した。  

その後、国防方針は1915年(第1次改定)、1923年 (第2次改定)の二度の改定を経て1936年に第3次改定を行 なうことになる。 第1次改定は、1915年にわが国が袁世凱政権に対して行な った「対華二十一カ条要求」に対して中国の対日感情が悪化したことを背景とする。この改定では、仮想敵国は第1位ロシア、第 2位米国、第3位清国となった。  

第2次改定は、帝政ロシアの崩壊(1917年)、ワシントン 海軍軍縮条約の締結(1922年)を背景とする。この改定では、 「帝国は特に米国、露国および支那の三国に対して警戒する必要がある。なかんずく近い将来における帝国国防は、わが国と衝突 の可能性が最大であり、かつ強大な国力と兵備を有する米国を目 標として、主としてこれに備える」とされた。つまり、ロシアの 崩壊により、わが国として米国が仮想敵国の第一位となったので ある。  

第3次改定は、ロンドン軍縮会議(1930年)、満洲事変 (1931年)、国連脱退(1933年)を背景として行なわれ たが、米国、ソ連(露国)、支那、英国を仮想敵国とする用兵綱 領が規定された。

▼第一次大戦後の米国の対日情勢認識  

第一次世界大戦の結果、「ブラック」のドイツは破れ、「レッ ド」の英国は疲弊した。そして、米国にとっては「オレンジ」の 日本の脅威のみが増大することになる。  

第一次世界大戦の結果、わが国は、マーシャル、マリアナおよ びカロリンといった旧ドイツ領南洋諸島を委任統治領とした。1 919年のベルサイユ会議において米国は、自らのフィリピンの防衛を損なうとして、日本の委任統治に強く反対したが、画策むなしく、日本による委任統治が認められた。  

これにより、日本は赤道以北の西太平洋を支配した。一方の米 国はハワイとアリューシャンの北東太平洋を支配し、日本の支配 した領域の西方にグアムとフィリピンを孤立した前哨拠点として 保持することになった。  

こうした情勢下、米国はますます対日脅威認識を強め、オレン ジプランの具体化を進めることになる。 1931年の満洲事変に対して米国は強く日本を批判した。1 932年1月、スチムソン国務長官は「不戦条約(ケロッグ・ブ リリアン条約)の条項と義務に反する手段によってもたらされた 事態や条約や協定を承認するつもりはない」とする方針を日中両 国に通知した。それはのちに「スティムソン・ドクトリン」と呼ばれることになる。  

ただし、米国は当面は世界恐慌への対処を重視したことから対 日経済制裁などの実力行使は行われなかった。またイギリスも事 態が満洲に限られている間は黙認するという態度をとった。これ が、わが国の満洲国の建設と地歩拡大につながった。  

そしてスティムソン・ドクトリンは、以後の米国の対日政策の 基調となり、やがてルーズベルト大統領の同ドクトリンへの支持 を表明、次いで石油と屑鉄の対日禁輸(ABCD包囲網)となり、 太平洋戦争へと向かうことになる。

▼海軍軍令部の改編  

海軍における情報を担当する機構の創設は1884年(明治1 7年)2月に遡る。当時、海軍省軍務局が廃止され、海軍省軍事 部を置いた際に、それまでに軍務局が管掌していた事務のほか、 艦隊編成(第1課)と出師準備(第2課)、海防(第3課)、諜報(第5課)を司ることになった。つまり、第5課が情報を担当 した。  

1886年には軍事部が廃止され、参謀本部海軍部が新設された。この改編にともない、海軍部第3局が諜報(情報)を担当す ることとなり、その内部構成は第1課が欧米諜報、第2課が隣邦諜報および水路地理政誌となった。このように海軍は早くから米 国に対する情報を重視した。  

その後、情報を司る海軍の機構は数回の改編を経て、満洲事変開始前には海軍軍令部第3班が情報を担当していた。第3班は第 3班長(少将)以下、第5課と第6課で編成され、第5課が欧米 列国を、第6課がソ連および支那ならびに戦史研究を担当した。  

満洲事変と上海事変を経た1932年10月、海軍軍令部の機構改編にともない、第3班は、班長直属を創設するとともに4課編成(第5、第6、第7、第8)となった。  

これにより、第3班長直属が情報計画および情報の総合などを担当し、地域別の軍事並び国情概況調査については、第5課が南北アメリカ、第6課が支那および満洲国、第7課が欧州列国を担 任することになった。なお、第8課は戦史の研究並びに編纂を担 当した。  

つまり、満洲事変以後に日米間の緊張化が高まったことで、アメリカ合衆国を含む米州を単独の課が担当することとなったのである。一方、ソ連は第7課の担当になった。  

満洲事変以後の対ソ連脅威の高まりに対しては、陸軍の情報体制の強化が図られた。1936年6月に参謀本部第2部第4課第 2班が昇格して第2部第5課となり、いわゆるソ連課が新設され た。つまり、陸軍においては、単独の課がソ連を担当することになった。

一方の米州は参謀本部第6課の、いわゆる欧米課が欧州 列国を見る一部として米国を見ていた。また、第2部長はもとよ り、欧米課長も“ソ連派”で占められ、陸軍における対米軽視の風潮があった。  このように満洲事変以後、陸軍はソ連重視、海軍は米国重視の傾向がさらに顕著になったのである。  

なお、1933年10月に海軍軍令部条令の廃止によって、従 来の班が部に改められ、第8課が廃止されたので、軍令部第3班 は軍令部第3部となり、その下に第5課、第6課、第7課がぶら 下がる体制になった。

▼米西岸における駐在員の配置  

満洲事変以後、太平洋における米艦隊の動向が、日本海軍の重 大関心事項となった。このため1932年7月、米東岸で語学の 修得や米国事情の研究に専念していた、中沢佑少佐と鳥居卓哉少佐を米太平洋艦隊の根拠地である米西岸に駐在させ、米艦隊の動 向監視、訓練状況、艦隊乗組員の対日感情の把握などを行なわせ ることとした。  

ところが、鳥居少佐は不慮の自動車事故で死亡したため、中沢少佐のみがサンフランシスコ郊外のサンマテに拠点を構えて艦隊動向の情報収集にあたった。しかし、わずか一人の駐在員が広大 な米西岸を管掌するのには無理があったため、1933年12月 から宮崎俊男少佐がロサンゼルスに着任して、中沢少佐と協力し て米艦隊の情報にあたることになった。  

その後、中沢少佐の帰国(サンマテ駐在の廃止)、シアトルへ の駐在員の新規派遣、シアトル駐在員の廃止、ロサンゼルス駐在 員の交代などを経つつ、ほそぼそと、艦隊の情報収集は継続され た。しかしながら、駐在員1名での情報収集には限界があり、め ざましい成果は確認されていない。

▼通信諜報の本格運用  

わが国の通信諜報の開始は日露戦争時期に遡る。そして海軍の通信諜報組織は、1929年初めに海軍軍令部第2班に第4課別室を新設し、きわめて少人数の暗号解読班が編成されたことが、 その濫觴(らんしょう)である。  

当時の傍受は、初め海軍技術研究所の平塚で、ついで東京通信隊橘村受信所を利用した。第4課別室の職員は、中佐×1、少佐 ×1、大尉×2、タイピスト×3であり、作業の主目標は米国と 英国の軍事通信であった。  

1932年の上海事変(第一次上海事変)において、通信諜報 の有効性が認識されことから、その組織強化が図られた。上海事 変が勃発するや、海軍は上海特別陸戦隊に対中国作業班(C作業 班)をおき、中国軍の暗号解読にあたらせた。これが上海機関 (X機関)の発端である。  

作業班は、南京政府が、わが空母を攻撃する意図のもとに、その飛行機群を杭州飛行場に集中待機させたことを探知し、我が航 空部隊をもって同飛行場を先制攻撃した。  

1933年1月、ハワイ近海で実施する大演習の通信諜報かを 実施するため、「襟裳」(タンカー)をハワイ近郊に派遣し、数 名の軍令部部員を乗艦させ、米海軍大演習に関する情報収集を実 施した。その結果、米海軍演習の構成部隊の編制や演習の経過などが判明した。  

1933年10月、海軍軍令部条令の改正によって、従来の第 2班第4課別室は第4部第10課となった。上海機関を特務機関 として同地の海軍武官の下に付属させることに改められ、A作業 班(対米)を増強した。  

1936年になると、傍受専門の受信所を新設することになり、 埼玉県大和田に大規模な受信所が開設された。当初に配置された 電信員は、予備役下士官を嘱託として採用した者がわずか9名であった。  以上、満洲事変以後の海軍の情報体制をざっと見てきたが、米 国との衝突を想定し、少しずつ対米情報体制を強化したものの、 全般的には不十分であった。

「パレートの法則」を活用しよう

▼パレートの法則とは

現在、筆者は新著出版に向けて準備を進めています。もうすでに本文を書きおわり、校正・推敲という最終段階に来ています。 いつも思うことですが、8割方が概成してから完成に持っていくまでが大変ということです。

さらには、よくよく気つけて校正・推敲しても、出版してから読者から誤字・脱字、事実関係の誤り、氏名の誤り、年代の誤りなど、いくつも指摘をいただきます。

実は、これには法則があるようです。 「パレートの法則」あるいは 「80対20の法則」あるいはといいます。 イタリアの経済学者ヴィルフレド・パレートが発見した法則で、経済において、全体の数値の大部分は、全体を構成するうちの一部の要素が生み出しているという理論です。簡単に言えば、20%が全利益の80%を生み出している、ということです。

これは次のように応用できます。

仕事の成果の8割は、費やした時間全体のうちの2割の時間で生み出している。だから、私の著作作業の8割概成は、まだ全体の2割の時間しかかかっていない。よって著作というものは終着点が見えてからが本当に遠く感じるのも道理ある。

▼パレートの法則の一般的適用

 パレートの法則はさまざまに適用できるといいます。商品の20%が全体の売り上げの80%を引き出している。20%の社員が会社利益の80%を生み出している、などです。

 したがって、成功者の2割に入る、わずか2割が大事、あと20%の努力をすれば成果が劇的に増大する、日曜日にすこしの努力をすることで大きな成果が得られるといった教訓が導きだすことができます。

 このように、「パレートの法則」は、ちょっとした努力が自分の置かれている状況を劇的に変え、他との優位性を保持するコツであるというように、ポジティブ思考に解釈されるのが一般的です。

▼パレートの筆者的運用

でも、2割をどのように捉えるかは自由です。筆者はこの法則を次のように解釈しています。

冒頭の著作を例にとりましょう。

著作作業の完成に向けた2割は大変な時間と労力がかかります。しかし、これを専門の校正者がやったらどうでしょうか。残り2割の労力でさらに8割進むことにになり、より短時間で100%に近くなります。さらに、その残りを別の人に依頼すれば、短時間でさらに100%に近づきます。

つまり、一人で物事を100%完璧におこなうことはできません。「漢字の誤記などは人格を疑われるとか」といった批判はあまり気にせずに、8割完成に精神を注力する、そして、残り2割は人と共同してやればよい、これも一つの考えです。

編集者にとってもっとも苦手な作者は、「時間を守らない」「全部自分でやろうとする」「文書の誤りを指摘すると自分流で直そうとする」、このような人だといいます。完璧主義者の陥りやすいところだと思います。

こういうことを踏まえ、「パレートの法則」から、筆者は他の人と協調して物事の完成を目指せということを教訓としています。

▼必要なことはコミュニケーション能力

現代社会が速度が勝負です。完全性よりも創造性や柔軟性がより重要となってきます。完全性に時間がかかっても、状況がすでに変化していたということも生起します。

だから、創造性を発揮して2割の労力で8割の完成を目指す。あとの2割は仲間と協調して行う。ぎゃくに仲間の仕事の完成には2割の力で支援する。こういったことが重要になると思います。

仲間との協調を成立させる最も重要な資質や能力はコミュニケーションということです。最近、コミュニケーションの重要性が取り沙汰されていますが、予測不能で不確実な時代、変化が激しい時代だからこそでしょう。

わが国の情報史(32)  昭和のインテリジェンス(その8)   ─満洲事変から日中戦争までの情報活動(1)─

▼はじめに

 前回まで、張作霖事件を題材に、主として情報の評価について述べたが、今回から、主として満洲事変がわが国の情報体制に及ぼした影響について述べることとする。

▼満洲事変から日中戦争まで

満洲事変から日中戦争までの経緯を山川出版の『詳説日本史B』より抜粋する。なお、( )内は筆者による注記である。

 関東軍は参謀の石原莞爾(いしわらかんじ)を中心として、1931年9月18日、奉天(瀋陽)郊外の柳条湖で南満洲鉄道の線路を爆破し(柳条湖事件)、これを中国軍のしわざとして軍事行動を開始して満洲事変が始まった。(中略)

 1932年9月、斎藤内閣(斎藤実、まこと)は日満議定書を取り交わして満洲国を承認した。日本政府は既成事実の積み重ねで国際連盟に対抗しようとしたが、連盟側は1933年2月の臨時総会で、リットン調査団の報告にもとづき、満洲国は日本の傀儡国家であると認定し、日本が満洲国の承認を撤回することを求める勧告案を採択した。松岡洋介ら日本全権団は、勧告案を可決した総会の場から退場し、3月に日本政府は正式に国際連盟からの脱退を通告した。(中略)

 1935年以降、中国では関東軍によって華北(チャハル・綏遠・河北・山西・山東)を国民政府の統治から切り離して支配しようとする華北分離工作が公然と進められた。(中略)

 関東軍は華北に傀儡政権(冀東防共自治委員会)を樹立して分離工作を強め、翌1936年には日本政府も華北分離を国策として決定した。これに対し、中国国民のあいだでは抗日救国運動が高まり、同年12月の西安事件をきっかけに、国民政府は共産党攻撃を中止し、内戦を終結させ、日本への本格的な抗戦を決意した。

 第一次近衛文麿内閣設立直後の1937年7月7日、北京郊外の盧溝橋付近で日中両国軍の衝突事件が発生した。いったん現地で停戦協定が成立したが、近衛内閣は軍部の圧力に屈して当初の不拡大方針を変更し、兵力を増派して戦線を拡大した。これに対し、国民政府の側も断固たる抗戦の姿勢をとったので、戦闘は当初の日本側の予想をはるかに超えて全面戦争に発展した。(引用終わり)

▼対ソ作戦計画をめぐる対立

 わが国は伝統的にソ連に対する脅威を第一においた。しかし、日露戦争後にロシアが崩壊したことで、幣原喜重郎外相時代に一時的に対ロシアの脅威が薄れた。

 しかし、1928年10月に開始された第一次5か年計画と、1929年4月から始まったソ支紛争、とくに同年11月のソ連による満洲里の占領にかみがみ、日本はソ連情報の重要性を再認識した。

 満洲事変の勃発によって、一挙にソ連情報の重要性が高まった。この事変で、日ソ両国は満洲をめぐって直接対峙することになったが、ソ連から日本に対して、1932年10月に不可侵条約の締結申し入れがあった。

 しかし、日本政府は時期尚早としてソ連の提案を受け入れなかった。この理由には共産勢力の国内浸透を恐れたからであったが、なにより陸軍の反対が強かったことが大きな原因であった。満洲を占領した陸軍の鼻息の荒さが窺える。

 不可侵条約締結に失敗したソ連は、極東ソ連軍の軍備を急速に増大した。関東軍の満洲全般における兵力配置に対し攻防いずれにも対応できるよう、1933年頃から狙撃師団や騎兵部隊を増強し、国境地帯におけるトーチカ陣地を構築した。1934年頃から戦車・飛行機の増加などの措置をとった。また、極東海軍の再建も図った。

 当時のソ連軍対関東軍の戦力比は3~4:1であったとされる。しかし、参謀本部第1部の作戦課長であった小畑敏四郎大佐は、極東ソ連軍の戦力を低く評価し、日本軍の伝統的精神要素、統帥能力の優越、訓練等の成果等を強調した。その後任の鈴木従道大佐も同意見であった。彼らは、米英や国民政府との提携により、ソ連に対する攻撃を主張した。

 これに対し、参謀本部第2部長の永田鉄山は、ソ連に対する軍事的劣勢を認識して、当面の間、ソ連との関係緩和を模索し、この間に軍近代化を図るべし、と主張した。彼らは、ソ連を西方に牽制するためのドイツ等の提携を模索し、英米や国民党軍との提携には乗り気ではなかった。

 国家戦略をめぐって第1部と第2部が対立したが、作戦至上主義のもとで第1部の案が採用され、1933年(昭和8年)に作戦計画が大きく修正され、「まず満洲東方方面で攻勢作戦をとってソ連極東軍主力を撃破し次いで軍を西方に反転して侵攻を予想するソ連軍を撃滅せんとする」ものであった。

 この作戦計画は、日本軍の戦力がソ連軍よりも優位においてこそ成り立つものであって、当初から成立しないものであった。また、第1部と第2部の対立が永田、小畑両少将を中心とする対立抗争へと発展し、後々、世間で言われる皇道派、統制派の派閥抗争へと繋がり、永田少将の暗殺事件、1936年に2.26事件を引き起こした。

▼陸軍の情報体制

満洲事変以後、陸軍の情報体制はソ連情報に対する強化が図られた。主要な変化は以下のとおりである。

1)参謀本部の組織改正

1934年初頭の参謀本部第2課の編制は以下のとおりであった。 

 第4課(欧米)

   第1班(南北アメリカおよび米国の植民地)

   第2班(ソ連、東欧、トルコ、イラン、アフガン、ルーマニア、ブルガリア、フィンランド、バルト3国、満洲)

   第3班(欧州各国および英仏伊の植民地、タイ、英の自治領)

  第5課

    第5班(暗号解読及び作)

    第6班(支那ただし満洲のぞく)

    第7班(兵用地誌、経済、資源の調査、陸地測量関係業務)

    第4班(総合)

 1936年6月に行なわれた改正では、第4課第2班が昇格し、第5課となった。いわゆるロシア課が新設された。この改正に伴い、従来の欧米情報担当の第4課が第6課に、支那情報担当の第5課が第7課になった。

 つまり、第2部の編制は、5課(ソ連)、6課(欧米)、7課(中国)と、第1班と暗号班から構成された。第1班は部長直属で、情勢に関する総合判断を行なったものと見られる。

2)関東軍総司令部の整備

 満洲事変以前の関東軍第2課(情報課)には、たいした情報収集能力はなく、関東軍の情報活動は南満洲鉄道株式会社(満鉄)の調査部に依存した。満鉄調査部は1907年に設立され、主たる任務は、満洲や北支の政治、経済、地誌等の基礎的調査・研究である。したがって、ソ連情報については不十分であった。

 満洲事変以後も、関東軍は満鉄調査部に依存していたが、ソ連軍との対峙を想定して関東軍第2課の強化を逐次にはかった。満洲事変以前の第2課の情報関心は主として北支に向けられ、支那関係者をもって要員にしていた。しかし、参謀本部第5課の新設の動きと連動して関東軍第2課もソ連専門家をもってあたられた。

3)特務機関の増設

 日本軍は1918年のシベリア出兵以後からシベリア各地に特務機関を配置していた。しかし、1922年10月末の撤兵までには逐次閉鎖され、ハルビン、黒河、満洲里のみが残され、静かに対ソ情報を収集していた。その後、黒河は1925年3月に閉鎖された。

 他方、1928年の張作霖事件が象徴するように、北支那や満洲が混沌化していた。よって特務機関の主要関心事項は支那情報であった。

 しかしながら、満洲事変以後、ソ連情報の価値が高まり、1932年に黒河が再開され、ハイラルが新設された。1933年には琿春、密山に、1934年に富錦に特務機関が新設された。これらは、琿春を除き関東軍に直属し、業務はハルビン特務機関長が統制した。

4)在外武官の新設と配置

 満洲事変以後、ソ連は国境警備と防諜態勢を強化した。そのため、日本軍は従来の密偵諜報に行き詰まりを感じ、ソ連情報の主要手段として文書諜報、科学諜報を重視した。

 また、なるべく多くの将校を合法的にソ連邦に入れる努力をした。ソ連をめぐる隣接国における公館開設と公使館附武官の配置、ソ連国内に対する駐在員の派遣、在ソ日本領事館における情報将校の配置などを行なった。

5)文書諜報の強化

 参謀本部第2部第4課第2班(ロシア班)(のちの第5課)とハルビン特務機関(のちの関東軍情報部本部)が、それぞれ文書諜報を本格的に開始した。

 1935年3月、小野打寛大尉がハルビン機関の中に、文書諜報班を設置することで本格的な公開情報分析が始まった。

 この文書諜報班は、ソ連国内の出版物をできるだけ集め、参謀本部と分担して公開情報の分析を行った。

 主に「プラウダ」「イズベスチャ」などの中央機関紙、「チホオケアンスカヤ・ズヴェズダ」「ザイバイカルスキー・ラボーティ」などの地方紙、「クラスナヤ・ズヴェズダ」「ヴォエンナヤ・ムイスリ」などの軍事専門誌を集めて丹念に分析した。

 また同組織は無線電話の傍受も行なっており、これらは音秘・音情と呼ばれていた。(小谷賢『日本軍のインテリジェンス』)

6)暗号情報の強化

 1930年5月、第2部5課(支那情報)に「暗号ノ解読及び国軍使用暗号ノ立案」の任務が付加された。これにより、第5課は4班(総合)、5班(暗号)、第6班(支那ただし満洲除く、満洲はソ連とともに第4課第2班の所掌)、第7班(併用地誌等)となった。

 1934年に関東軍参謀部第2課に関東軍特殊情報機関を設置し、新京(長春)においてソ連軍の軍事暗号を解読する任務を開始した。

 1935年に将校2人をポーランド参謀本部に将校を派遣して、1年間の暗号解読の教育を受けさせた。

上述の1936年6月の改編で、第5課4班は、暗号班となり、第2部長の直轄となった。

 1937年3月31日、暗号班が1班と改められ、所掌業務の「暗号ノ解読及び国軍暗号ノ立案」のうち「及び国軍暗号ノ立案」が削除された。及び(なお、原文は竝)が削除されたことは、この頃から暗号解読の重要性が認識されたことを意味する。

7)防諜態勢の強化

 1936年8月に陸軍省に兵務局が新設された。兵務局は防諜に関する業務を担当した。なお、これが陸軍中野学校の発足の一つの経緯となる。

1936年7月14日の「陸軍省官制改正」第15條には兵務課の任務が示され、同課は歩兵以下の各兵下の本務事項の統括、軍規・風紀・懲罰、軍隊の内務、防諜などを担当した。

同官制改正の六では、「軍事警察、軍機の保護及防諜に関する事項」が規定され、これが防諜の最初の用例だとみられる。

 1937年3月に参謀本部内に、防諜態勢の強化を図るための防諜委員が設置された。

8)ドイツとの情報提携強化

 1936年11月25日、日独防共協定の調印に伴い、諜報・謀略に関して日独情報提携を約束した。従前参謀本部第2部は在ポーランド駐在武官のソ連情報を重視していたが、本協定以後、ドイツ駐在武官のソ連情報を重視するようになった。

 当時のドイツ駐在武官は、ドイツ通の大島浩大佐であった。大島は、1921年(大正10年)以降には、断続的にベルリンに駐在し、1933年以降はドイツの政権を得ていたナチス党上層部との接触を深めた。

以上、満洲事変以後から、日中戦争にかけての陸軍の情報体制を概略みてきたが、次回は海軍の情報体制について少しだけ言及したい。

「令和」元年と天皇制について思う

▼新元号は「令和」に決定  

 新元号が「令和」に決定!元号としては248個目になります。ただし、「一世一元」の制が実施されたのは1886年の慶応から明治への改元の時からであり、それ以前は天皇の在位中にも災害などさまざまな理由で改元がおこなわれていました。ぎゃくに天皇が即位しても、元号が変わらない場合もありました。

  元号は前漢に始まり、日本への導入は645年の「大化」が始めとされます。 日本の元号は、ほとんど全てが中国古典を出典としていますが、最も多く引用されたのは『書経』です。

 しかし、新元号「令和」は、わが国の「万葉集」の梅花の歌が出典です。 「万葉集」とは、奈良時代の日本最古の歌集です。 ここには、天皇や皇族、歌人、さらには農民など幅広い階層の人々が読んだ「約4,500首」の歌が収められています。

 新元号の出典を日本古来の歌集「万葉集」の梅花の歌としたのは、ICT化、グローバル化、少子高齢化に向かう世の中で、あらゆる階層や年代層が、これら環境に押し流されることなく、それぞれの目標に向けて積極的に困難に立ち向かい、大きな花を咲かせていこうとの、願いがあると思われます。 

▼「万世一系」の継続を末永く祈願

 皇太子徳仁親王は第126代目の天皇として即位されました。

 筆者は平素より、新天皇の慎ましくて勇気ある言動、慈愛に満ちた所作など、そこに日本人としての由緒正しき血統を感じています。令和におけるわが国の発展を心から願うものです。

 永久に一つの天皇の系統が続くことを「万世一系(ばんせいいっけい)」といいます。日本の国歌、「君が代」にも万世一系の永続性が謳われています。

 令和がつつがなく発展し、万世一系の安定した継続を末永く祈願します。

▼わが国にとっての天皇制とは  

 ところで、過去125代のなかで、幕府から天皇に政権が移ったことが2回ありました。まずは1333年の「建武の中興」です。これは、鎌倉幕府を倒し、後醍醐天皇(第96代)の執政による復古的政権を樹立したものです。

 そして1867年の大政奉還です。これは、江戸幕府の徳川慶喜将軍から明治天皇に政権が奏上されました。

 両政権移管の背景をみますと、ともに外的脅威の出現によって、国内秩序に危機が起こり、国民のなかから勇士が登場し、天皇の権威にすがって国体をようやく維持した、という構図があります。

「建武の中興」は二度の蒙古襲来(元寇)が原因です。“神風”が吹き、鎌倉幕府は蒙古軍に勝利しますが、御家人たちに多大な犠牲を払わせたばかりで、財政に窮乏し、御家人に対し、ろくに恩償を与えることもできなくなります。

 一方で幕府のトップ北条高時は、田楽や闘犬に興じ、政(まつりごと)を顧みようとはせず、農民に重税を課すばかりでありました。幕府は腐敗し、御恩と奉公の秩序は崩れ、それが農民や商人に伝播し、社会は乱れていきました。

 そこで、後醍醐天皇が秩序維持の回復のために、自ら親政をおこなうことを決意したのです。

 他方の大政奉還は、1853年のペリーの黒船来航が直接の原因になります。それ以前から、外国船が各地に出没して、列強が日本に開国を迫るという状況は生起していましたが、黒船は政治中枢である江戸に直接に開国要求を突き付けたのですから、日本としては待ったなしの決断を迫られたのです。

 幕府は大いに動揺します。一方の庶民は、本来は守ってくれるはずの武士階級の無為無策、堕落した姿に不安を覚えます。幕府としても、家柄ではなく能力主義の人材登用に着手したことで、薩摩藩や長州藩から有為な先進的人材が出てくるようになります。

 これらの先進的人材から、もはや徳川幕府では新たな時代に対応できない、だから天皇の御世への復活を図ろうとの「尊王攘夷」の思想が芽生え、やがて外国にかなわないことを自覚して倒幕に向かいます。

 外国からの未曽有の脅威が発生した場合、外敵から国家を守るためには内部が一致団結するほかありません。つまり、天皇の権威のもとに国民が結集して、愛国心を発揚して、自己犠牲を顧みずに国家存続のために一心奉仕する以外に道はなかったのです。

 国家体制が危機を迎えるなか、有志は「万世一系」の天皇制によって国体を維持した、ここにわが国の天皇制の持つ意義があるのかもしれません。

▼傑出した思想家の登場

 また、国家体制が危機を迎えると、愛国心を鼓舞する傑出した思想家が登場します。これまでの国家体制で立ち行かなくなり、そのためには体制変換だけではなく思想変換も必要ということでしょう。

 思想変革をリードしたのが「建武の中興」における楠木正成であり、明治維新における吉田松陰であったのです。

 正成と松陰もともに尊王愛国の士です。時代が愛国心を、また尊王愛国の士を必要とした。つまり、激動と変革な時代が優れた思想家を誕生させたのだと思います。

▼現在のわが国が直面している脅威

 さて筆者は現在、第三の〝脅威の波〟がわが国に押し寄せていると感じています。それは、テクロノロジーとグローバリズムです。

 この二つの潮流が今後、現実の脅威となるか、それとも日本再生の好機となるかは、我々次第でしょう。

対応を誤れば、AIと外個人労働者が人々の職業を奪って、失業者が町中に溢れる。反政府デモが頻発する。

社会では所得格差が増大し、テクロノジーとグローバル化の波に乗れない人々は、倦怠感に打ちひしがれて孤立する。社会は活性力がなくなる。

 少子高齢化という負のベクトルが、さらなる追い打ちをかける。疎外された一部の老人は、世間を注目させるためにテロを起こす。国民は治安に怯える。

 このような、〝悪の未来シナリオ〟は排除されません。

〝悪の未来シナリオ〟の方向に向かうなか、すぐれた思想家は登場するのでしょうか?

 ICT社会のなかでは、とかくカリスマ経営者などが脚光を浴びて拝金主義が横行し、なかなか優れた思想家が現れる環境ではないような気もします。

 逆に、一部の者は新興宗教やイスラム過激派などのアイデンティティ探しの活路を求めているのかもしれません。

▼象徴天皇制という問題

 時代が先行き不透明で変化が激しくなれば、「象徴天皇制」という問題がいやが上にも頭を擡げてくるでしょう。

 誰しも、自分が苦境の時は、誰かに助けてほしい、心の拠り所が欲しい、そう思うものです。このことは日本だけではありません。タイでは、政治が不安定になって収拾がつかなくなれば、国王が出てきて決着をつけます。イギリスでも似たような状況があります。

 経済苦境、増税、貧富の格差、世間との断絶、外国人の流入、そうした苦しい生活環境のなかに身をおくことになるとすれぎ、国民は、「万世一系」の天皇制に心の安寧や、アイデンティティの礎を追い求めるかもしれません。

そうしたなか、皇室の行動が自由奔放に映り、そこに節度が感じられず、一方の国民が重税や自制を強いられるとした場合、どのような発想が起こり得るでしょうか?

多くの国民は天皇制の在り方に疑問を抱くかもしれません。

 戦後、「象徴天皇制」の時代が長くなるにつれ、皇室教育は多様化し、皇室の発言や行動にも変化が生まれているように感じます。これはある意味致し方ないのかもしれませんが、ICT化によるネット情報が拡大するなか、一部皇室の行動が国民の期待値から遠くなるとすれば、さまざまな〝バッシング〟が起こるでしょう。

 それが、やがて政争の論点になるかもしれません。天皇制を否定する政党も存在します。こうした状況が進展していくなか、国民全体が「象徴天皇制」に対して、どのような判断を下していくことになるのでしょうか?

【わが国の情報史(31)】昭和のインテリジェンス(その7) ─張作霖爆殺事件から何を学ぶか(3)─ 

▼はじめに

 前回までは、張作霖爆殺事件が関東軍の計画的な謀略にもとづく河本大作の犯行であるとの定説は、戦後において首謀者とされる河本の「手記」が発表されたこと、田中隆吉元少将が極東軍事裁判(東京裁判)において、河本が首謀者であるとして、当時の犯行の情況を縷々証言したことが根拠になっていること、などを述べた。

 そして上述の「手記」については河本本人が直接書いたものではないことから、情報の正確性には疑義がある。田中の人物評価や、本人が置かれた当時の環境情勢などから、田中の情報源と しての信頼性はあまり高くない、などと述べた。 今回は最初に情報の正確性について述べることとする。

▼情報の正確性  

 情報の評価は情報源の信頼性と情報の正確性を別個に評価する。 そして情報の正確性は、「誰が言ったか」ということはいったん度外視し、情報それ自体の妥当性、一貫性、具体性、関連性という 尺度で評価することになる。  

 ここでは田中元少将が東京裁判で述べた証言内容の引用につい ては割愛するが、彼の証言には、当時の国際情勢や日本政府およ び陸軍を取り巻く環境情勢から「なるほど!」と言える妥当性がある。

 「最初の証言とあとの証言が食い違っている」といったこともな く、彼の証言内容は終始一貫性がある。  

 爆発方法や関与した人物など縷縷詳細に及び具体性もある。

 「手記」を始めとする他の情報との重要な部分が一致しており、 関連性もある。  

 つまり、彼の証言について、情報の正確性からは「ほとんど真 実である」といった高レベルの評価を下すことになるであろう。 しかし、ここで注意しなければならないのは、「巧妙な嘘は、 真実よりも一貫性があるし具体性がある」という点である。

 そして、これは情報源の信頼性に関わることであるが、田中証言の“胡散臭い”と感じるところは、あまりにも多くの主要な史実を、田中自らが第一人称で直接見た、聞いたというように語っている点なのである。  そこに〝出来ストリー〟という疑惑がかかるのである。

▼コミンテルン関与説

 田中元少将の情報源としての信頼性には疑義があったにせよ、 張作霖爆殺事件にかかる情報の正確性の評価は高い。さらに、か なりの具体的な資史料が揃えられていることから、戦後から一貫 して張作霖爆殺事件に関しては河本犯行説という定説が覆ること はなかった。  

 しかし、これから述べるコミンテルン説が2000年代になり、 急浮上したことで上述の関連性に疑義が出た。そうなると情報の正確性の評価をやり直す必要が出てくる。これがインテリジェン ス理論である。  

 ここで、コミンテルン説について言及しておこう。この仮説は、 2005年、邦訳本『マオ─誰も知らなかった毛沢東』(ユン・ チアン、ジョン・ハリディ著)が発刊されたことで俄かに注目さ れた。

 同書における記述を引用しよう。 「張作霖爆殺事件一般的に日本軍が実行したとされているが、 ソ連情報機関の史料から最近明らかとなったところによると、実際にはスターリンの命令にもとづいてナウム・エイティゴンが計 画し、日本軍の仕業にみせかけたものだという」  

 これが契機となって張作霖爆殺事件の“謎解き”に火がついた。 まず同著の引用注釈から『GRU帝国』という著書が注目された。 そして、『正論』および『諸君』といった論壇誌が、同著の著者 であるドミトリー・プロホロフに対するインタビュー記事を引用する形で、〝コミンテルン説〟の特集を組んだのである。

▼コミンテルン関与説の根拠  

 加藤康男氏は2011年に『謎解き「張作霖爆殺事件」』を執筆した。同氏の著書をもとに〝コミンテルン説〟に関する記述 (要旨)を拾ってみよう。

・当時、ソ連政府は張作霖との間で鉄道条約を結んでいたが、両者の間で激しい抗争が進んでいた。反共主義を前面に押し出す張作霖側は、ロシアが建設した中東鉄道(旧東清鉄道)を威嚇射撃 したり、鉄道関係者を逮捕したりしたため、遂にOGPU(筆者 注:ソ連KGBの前身機関)は張作霖の暗殺計画を実行計画に移 す決定を下した。

・1回目は、1926年9月、奉天にある張作霖の宮殿に地雷を設置し、爆殺する計画であり、極東における破壊工作の実力者といわれたフリストフォル・サルヌインが実行計画を立案した。し かし、爆発物の運搬を担当したサルヌインの部下工作員が爆発物 を発見されて、失敗した。

・1927年4月6日、張作霖の指示によって行なわれた北京の ソ連大使館捜索と関係者の大量逮捕が動機となり、1928年初頭に2回目の暗殺計画が行なわれた。今度は、1926年から在上海ソ連副領事をカバーとする重要な諜報員ナウム・エイティゴ ン(トロツキー暗殺の首謀者、詳細は拙著『情報戦と女性スパイ』 を参照)から、サルヌインとその補佐役のイワン・ヴィナロフと いう工作員に暗殺計画が下され、爆殺に成功した。

▼英国は当時、複数の犯行説を考察していた  

 さらに加藤氏は、1928年7月3日付けの北京駐在英国公使 ランプソンによる本国外相宛ての次の公電に着目している。そこ には以下の記述がある。 「(殺意を抱く者は)ソヴィエトのエージェント、蒋介石の国民 党軍、張作霖の配信的な部下など多岐にわたる。日本軍を含めた 少なくとも4つの可能性がある。どの説にも支持者がいて、自分 たちの説の正しさを論証しようとしている」  

 こうした根拠をもとに加藤氏は、少なくとも以下の4つの説が ある旨主張する。 (1)関東軍の計画にもとづく河本の犯行 (2)ソ連コミンテルンの犯行 (3)張作霖の息子である張学良が、コミンテルンの指示を受けて、 もしくは親子の覇権争いの側面から実行 (4)河本大作や関東軍の上層部がコミンテルンにそっくり取り込 まれたうえで実行  

 これらのうち、どの仮説であった蓋然性が高いのかなど、その “謎解き”は加藤氏の秀逸なる著書に譲るとしよう。  

 ここで言うべきことは、結局のところ事件の謎は現在に至るも解明されていない。すなわち、関東軍の謀略にもとづく河本犯行説であったと断定するに足る明確な歴史的根拠はないのである (やったかもしれない)。

▼仮説を一つに絞ることの問題点  

 インテリジェンス上の問題は、加藤氏も指摘するように「一途 に河本犯行説と信じ切って問題を収束させようとした」という点 にある。 仮説を一つしか立てなければ、その仮説が外れてしまえば、もはや対応できなくなる。想定外だと、慌てふためくことになる。  

 また、仮説を一度立ててしまうと、とりあえずの仮説がアンカ ー(錨)のようになって、新たな情報が提供されても修正できな くなる。これを「アンカーリングのバイアス」という。

 さらに、一度仮説を立てると、それを証明する情報ばかり集め てしまう。これを「確証バイアス」という。  

 つまり、さしたる調査や検証なしに、張作霖事件が河本の犯行であるという唯一の仮説を立ててしまったことで、それを裏付け る具体的な資史料ばかり集めてしまい、河本犯行説を定説へと導 いた可能性がある。すなわち、バイアスによって河本犯行説が導 かれたかもしれないのである。

▼イラク戦争を教訓にした米情報機関  

 米国は、サダム・フセイン大統領が大量破壊兵器を保有してい るとの仮説に基づいて、それを肯定する情報ばかり集めて、強引 にイラク戦争へと向かった。

 その反省から、米国では「代替分析」という手法に着目し、当 然と思われている前提を疑問視して分析するという手法を取り入 れた。 この手法は、「イラクは大量破壊兵器を保有していない。フセ インは事実を話している」という前提で分析を行なうものである。  

 ここから学ぶことは、張作霖爆殺事件においても「河本は真実 を言っている。河本は犯行を行なっていない」という前提で調査 しなければならなかったということだ。そうすれば、英国のよう に複数の仮説にたどり着いたかもしれなかったのである。

▼発達していた英国の情報理論と情報体制   

 当時の日本においては、仮説は複数立てて、不確実性を低減するなどという情報理論も確立されていなかった。また、国家としての情報体制も未熟であった。  

 当時、英国は外務大臣指揮下のMI6を世界的に展開し、グロ ーバルな視点から新生ソ連の動向を把握し、共産主義の波及を危険視していた。だから英国は、張作霖爆発事件に対するソ連の関 与という仮説にすぐに辿りついた。  

 ただし、その一つの仮説に固執することなく、他の仮説を立て て、これらを検証しようとした。

 また中国大陸においてはMI6とは別個に極東担当の特務機関 MI2c(陸軍情報部極東課)を活動させていた。つまり、情報 を複数筋から入手しようとしていた。

 つまり、仮説を複数立てて検証する、複数の情報ルートを活用 して情報の正確性を高めるといった、今日では当たり前の情報理論を確立していたのである。

▼遅れていたわが国の情報理論と情報体制  

 一方のわが国の当時の中国大陸における情報活動といえば、南満洲鉄道株式会社(1906年設立、満鉄)の調査部(満鉄調査部)と1918年のシベリア出兵後の特務機関の存在が挙げられ る。  

 しかしながら、英国のような国家情報機関があったわけではな いし、満鉄調査部と特務機関がそれぞれの所掌範囲の情報活動を ほそぼそと行なっていたにすぎない。

 また国家全体として見るならば、外務大臣・幣原喜重郎の対外ソフ ト路線の影響により、新生ソ連の共産主義に対する脅威は薄れて いた。つまり、国家の情報要求が未確立であった。

 だから、水面下における共産主義勢力の急速な浸透が探知できなかったのであ ろう。 孫文が1923年頃から連ソ容共・工農扶助を受け入れたり、 1924年1月にコミンテルン工作員ミハイル・ボロディンの肝 いりで国民党と共産党の国共合作(第一次)が成立させたりする ことに無頓着であった。 そして、1927年末から、蒋介石がドイツの軍事顧問団を招 き、軍事的・経済的協力(中独合作)を進めていたことも分からなかったのである。

▼張作霖爆殺事件の教訓とは何か  

 張作霖爆殺事件の検証において、コミンテルン説は一顧だにさ れなかった。このことが、その後の中国大陸において、ゾルゲと尾崎秀実(おざきほつみ)の邂逅を見逃し、やがては来日するゾルゲにせっせっと国家重要情報を漏えいすることになった根本の原因があるのかもしれない。  

 実は、もっと大きな問題は戦後の歴史認識問題である。今日の わが国の主流の歴史認識は以下のとおりである。

「関東軍が張作霖爆殺の謀略を企てたが 失敗した。その失敗を教訓にして満洲事変の契機となる1931年9月8日の柳条湖事件の開戦謀略を成功させた。これが『軍の命脈』である命令・服従関係を基本とする軍機の破壊を意味し、 日本陸軍の没落の第一歩となった」  

 戦後、このような歴史認識が主流となってきたので、最近のコ ミンテルン説が出てきても、これを否定して受けつけようともしない。これが社会全体の趨勢である。  

 たしかに、定説を覆すのは容易ではない。これをインテリジェ ンス用語で「レイヤーイング」(多層化バイパス)という。前任者が利用した前提や 判断を、後任者が疑うことなく鵜呑みにして分析を行なうバイア スである。  

 分析の前提に間違いがあっても最初に戻って修正することは、 その後の分析をすべて否定することになるため、なかなか修正さ れないのである。

 米国の上級情報委員会と大量破壊兵器委員会は、 イラクの大量破壊兵器保有に関する情報分析で、この多層化バイ アスがあったと結論付けた。

 歴史学は実証を重んずる学問である。歴史家は真実を追求すればよいし、そうしてほしい。しかし、我々のような一般人は真実 を追求するほどの知識もなければ、技能もない。また、歴史の真実が分かったところで、現実問題の対処が変わるわけではない。

 では、 どうすればよいのか? インテリジェンスにおいては、仮説に妥当性があるのではあれば、“白黒をつける”のではなく、複数の仮説を同時に受け入れ ることが鉄則である。 なぜならば、そうした柔軟性こそが、対策としての戦略・戦術 における不確実性を低減することになるからだ。

 歴史を学び、そこには必ずしも定説があるわけではないことに気づく。複数 の仮説があるし、さまざまな見方があるならば、これを受容する。そして、複数の仮説を組み合わせて、いく つかの未来の発展方向を予測するうえでのヒントを得る。それが インテリジェンスに携わる者にとっての歴史を学ぶ意義なのだと、 筆者は考える。

 この点は、多くの方に賛同いただけるのでは ないかと思う。

わが国の情報史(30) 昭和のインテリジェンス(その6)      -張作霖爆殺事件から何を学ぶか(2)-     

▼はじめに

 前回は、張作霖爆殺事件が関東軍の計画的な謀略であるとの定説は、首謀者とされる河本大作の「手記」が戦後になって発表されたことが大きな根拠になっている、しかしながら、これは第三者によって書かれた第二次情報にすぎないことを述べた。 今回は、もう一つの関東軍犯行説の根拠となっている極東軍事裁判(東京裁判)における田中隆吉少将の証言について着目する。

▼ 田中隆吉少将の証言

 1946年5月3日から極東軍事裁判(東京裁判)が開かれた。ここで検察側の証人として証言台に立った元陸軍省兵務局長の田中隆吉(元少将)は、「関東軍高級参謀河本大作大佐の計画によって実行された」と証言した。また彼は、1931年9月の満州事変についても、「関東軍参謀の板垣征四郎、次参謀の石原莞爾が行った」旨の証言を行った。

  これにより、日本軍が行った計画的な謀略により、日中戦争、そして太平洋戦争へと向かわせ、国民の尊い命を奪った。その戦争責任は死刑をもって償うべしとの、国民世論が形成された。

 田中の口から直接された証言は第一次情報である。しかし、第一次情報といえども、常に正しいとは限らない(前回のブログを思い起こしてほしい)。 なぜならば、情報源(この場合は田中)が意図的に嘘をつくことがあるからだ。

 したがって、インテリジェンスにおいては、情報源の信頼性と情報の正確性という手順を踏まえて、しっかりと情報を評価しなければならない。とはいうものの、評価するための十分な情報があるわけでもないので、可能な限りという条件がつく。 すくなくとも、情報は無批判に受け入れるということだけは避けなければならない。

▼田中隆吉とはどんな人物か

 ヒューミント(人的情報)においては、「報告したのはどの組織の誰か」「報告者は意図的に自分の意見や分析を加味していないか」「過去の報告あるいは類似の報告から、報告者の履歴、動機および背景にはどのようなことが考えられるか」などを吟味していかなければならない。 これが情報源の信頼性を評価するということである。  

 そこで田中隆吉(1893年~1972年)とはどのような人物であったのかを簡単にみていこう。 彼は1927年7月に参謀本部付・支那研究生として、北京の張家口に駐在し、特務機関に所属した。当時、34歳であり、階級は大尉である。

 1929年8月には 陸軍砲兵少佐に昇級して帰国。参謀本部支那課兵要地誌班に異動になった。 田中が本格的に北支および満州で謀略に従事するのは1930年10月に上海公使館附武官として上海に赴任した以降のことである。

 ここでは著名な川島芳子(満州国皇帝・溥儀の従妹)と出会い、男女の仲になり、川島を諜報員(スパイ)の道に引き入れた。 1932年の第一次上海事変においては、「満州独立に対する列国の注意をそらせ」との板垣征四郎大佐の指示で、当時、上海公使館付陸軍武官補であった田中は、愛人の川島芳子の助けを得て、中国人を買収し僧侶を襲わせた(彼自身の発言から)。

 その後、田中は北支および満州で関東軍参謀部第2課の課員や特務機関長などを歴任し、帰国後の1939年1月には陸軍省兵務局兵務課長、そして1940年12月に兵務局長(憲兵の取り纏め)に就任して、太平洋戦争の開戦を迎えた。1941年6月には陸軍中野学校長も兼務した。 

 開戦時の陸軍大臣は東条英機である。当時、田中は東条から寵愛されていたという。陸軍大臣に仕える最要職の軍務局長には、1期上の武藤章(A級戦犯で処刑)が就いていた。ところが、1942年、田中は〝東条・武藤ライン〟から外され、予備役に編入された。なお、これには田中が武藤のポストを奪う画策が露呈して、左遷されたとの見方もある。     

 戦後に一介の民間人となった田中は、まもなく『東京新聞』に「敗北の序章」という連載手記を発表した。これは1946年1月に『敗因を衝く-軍閥専横の実相』として出版された。

 東京裁判の主席検事のジョセフ・キーナンらが、これらの著作から田中に着目して、1946年2月に田中を呼び出し、その後に尋問を開始した。

 東京裁判では田中は東條を指差して批判し、東條を激怒させた。 武藤においては「軍中枢で権力を握り、対米開戦を強行した」と発言した。 

 ただし、武藤は、太平洋戦争の早期終結を目指し、東條とは一線を画した。つまり、田中証言がなければ、武藤の死刑はなかった可能性が高い。 田中は、東條、武藤以外にも多くの軍人に対して不利となる証言を次々とした。その状況があまりにもすさまじく、田中に対して「裏切り者」「日本のユダ」という罵声を浴びせる者が多数いた。

▼張作霖爆殺事件と田中

 さて、1928年6月の張作霖爆殺事件の当時、田中はこの事件について、どれほど知り得る立場にいたか。彼は、北京に駐在して1年足らずであり、しかも階級は大尉にすぎない。いわば特務工作員の見習い的な存在であったとみられる。  

 他方、河本大作は関東軍の高級参謀であり、田中よりも10歳年長の45歳であった。 張作霖爆殺事件が、河本の計画的な謀略であったとするならば、その秘密はわずかな関係者にしか知らされていなかったであろう。 しかも、両者の階級差や所属の違いから考えても、河本と田中との直接的な交流は考えられない。

 つまり、田中は河本の犯行説を裏付ける第一証言者の立場にはなく、東京裁判における田中証言は伝言レベルのものと判断される。すなわち、情報源の評価としては「信頼性は低い」ということになる。

▼東京裁判における田中の情報源としての信頼性

 彼の著書『敗因を衝く』では「軍閥」の代表である東条英機と武藤章を執拗に非難している。他方、自分自身が日中戦争の早期解決や日米戦争の阻止に奔走したことを強調して、自分自身が行った上海での謀略については述べていない(のちに述べることになるが)。

 本書の記述内容から彼の性格を推測すると、執着心が強く、狡猾な一面が感じられる。 だから、「田中は自分が東條・武藤ラインから外されたことの逆恨みから、彼らに戦争責任を負いかぶせ、自分自身はキーナン検事との「司法取引」によって、処刑を回避して生き延びた」などの批判にも一理ある。

 また、検事たちが作り上げた筋書きに沿った証言を田中が行ったのは、天皇陛下の戦争責任を回避するためだったとの見解もある(作家の佐藤優氏は同見解を主張)。

 他方、東京裁判の終了後、田中は戦時中から住んでいた山中湖畔に隠棲した。ここでは、武藤の幽霊が現れたと口走るなど、精神錯乱に陥ったそうである。そして、1949年に短刀で自殺未遂を図った。その際に遺した遺書では、戦争責任の一端を感じていた記述もある。

 豪放磊落と評された田中が精神錯乱に陥ったのは、嘘の証言によって、太平洋戦争の早期終結を目指した武藤を死刑に追い込んだ、自責の念に堪えかねてのことであった可能性もある。

 いずれにせよ、田中を情報源という視点から見た場合、田中は嘘をつく、真実を秘匿する状況におかれていたことは間違いない。つまり、張作霖爆殺事件における田中の情報源としての評価は「必ずしも信頼できない」というレベルであろう。 しかしながら「彼が語った内容が真実かどうか」は、別途に「情報の正確性」という評価が必要となる。

インテリジェンス関連用語を探る(その5)戦略と情勢判断について

▼戦略とはなにか

戦略の定義は諸説多く約200あるといわれています。第二次世界大戦以前の共通した戦略の定義は、おおむね軍事的要素に限られていました。

しかし、第一次世界大戦以降、戦争の様相が変化しました。それにともない、戦略も必然的に非軍事的要因、すなわち経済的、心理的、道徳的、政治的、技術的考慮をより多く加味する必要がでてきました。 また、軍事力のみならず国家総力で戦争に応ずる必要性が認識されました。その一方で戦禍の犠牲を最小限にするため軍備管理などの重要性も高まりました。

このため、戦略は単なる戦場の兵法から国家の向かうべき方向性や対応策まで含む幅広い概念へと拡大するようになったのです。

今日、戦略は軍事だけでなく非軍事の分野へと拡大し、国家戦略、外交戦略および経済戦略などの用語が定着しています。つまり、戦略の概念は武力戦のみならず外交・経済・心理・技術などの非武力戦を包含したものに拡大したのです。そのため、現代では、「経営戦略」「企業戦略」などの言葉が定着するようになりました。

▼戦略と戦術はどう違うか

戦略の概念拡大にともない、戦略と戦術との関係も複雑化しています。 ちまたのビジネス書などでは、戦略は「企業目的や経営目標を達成するためのシナリオ」と解説されています。一方の戦術は「戦略を実現させるための具体的な手段、方策」などと定義されています。

つまり、戦略が目的・目標を決定し、戦術がそれらを達成するための手段という関係で説明されています。 こうした関係性について筆者は、戦略とは「環境条件の変化に対応して物事がいかにあるべきか(目的、What)を決定する学(Science)と術(Art)」、これに対し、戦術は「固定的な状況から物事をいかになすべきか(手段:How to)を決定する学と術」であると理解しています。

戦略は戦術に比して幅広い考察と長期的な予測を必要とします。そして、戦略が戦術の方向性を規定する関係上、戦略の失敗は戦術の成功では挽回できないのです。

▼戦略の事例列的な区分と戦略マップ

戦略は、①目標を立てる(目標設定段階)、②目標を達成するための手段・方策を考える(計画段階)、③目標を達成するために実践する(実施段階)という3段階から成り立っています。

目標はやみくもに設定すればよいわけではありません。企業経営でいえば、企業ビジョン、企業が有する能力、とりまく環境などをさまざま判断し、達成が可能で具体的な目標を一つ設定しなければなりません。 計画段階では、目標が明確になったら、目標を達成するための手段・方策を考察することになります。  

実施段階では、戦略目標達成のための方策や具体的なアクションプランを実施する。それが目標の達成に向かって齟齬がないかを検証します。また、検証の成果を踏まえながら、方策の修正や目標の再設定が行われることになります。  

計画段階において、手段・方策をアトランダムに立案すれば、「戦闘力の集中」「資源の集中」などという原則に反することになります。したがって、計画段階においては「戦略マップ」で整理されることが多いようです。

戦略マップとは、ビジョンや目標を達成するための手段・方策を図式化したものです。つまり、目的を達成するために必要と思われる具体的なアクションの因果関係や関連を図式化するのです。  

戦略マップには、①戦略目標を達成するための重要成功要因、②戦略目標を評価するためのKPI(key Performance indications 重要業績評価指標、③指標を達成する目標数値(ターゲット)、④アクションプランなどが記述されます。

▼情勢判断とは何か

まず、戦術用語としての状況判断について述べます。もともと状況判断は、米軍の作り出したものですが、その後各国でも広く利用されています。 とくに意志を有する敵との闘争の推論において、賭け(ゲーム)の理論を適用して最良の選択を行うための理論的思考の過程で使用されます。 つまり、彼我が対峙する賭け(ゲーム)において、彼我が取り得る選択肢(可能行動)を列挙して、各組合せにおける帰趨を推論して、最後にこれらを比較して最良の選択を得ようとするためものが状況判断です。

状況判断は、指揮官が任務達成のため、最良の行動方針を「決心」するために行います。 状況判断の実施要領は(1)任務 (2)状況および行動方針 (3)各行動方針の分析 (4)各行動方針の比較 (5)結論、の順で行います。

上述の「決心」とは、状況判断に基づく最良の行動方針、すなわち「結論」を指揮官が実行に移すことを決定した時に、その状況判断が決心に代わります。したがって、状況判断に責任が伴いませんが、決心には状況判断と違って責任がともなうことになります。

他方、状況判断とは異なり、情勢判断は軍事用語あるいは戦術用語ではありません。したがって、「軍事用語集」や「軍事教範」では、情勢判断の明確な定義はありません。

ただし、戦術における状況が、戦略においては情勢に相当するという解釈もあります。そして、これらは上位の戦略と下位の戦術に対応するもので、本質に大きな差異はない、との理由から、しばしば、「情勢(状況)判断」と表現することがあります。

状況判断も情勢判断も、目標の設定、手段・方策の案出、戦略あるいは戦術の修正・実行のサイクルを正常に機能させるために行います。 この際、目標の前提となるのが目的です。目的は不変であり、漠然としたものです。

一方、目的を達成するために設定される目標は具体的でなければなりません。 国家、企業を問わず、ひとたび目標を定めたら、その目標に向かって物心両面のあらゆる資源を集中することになります。ですから目標を容易に変更することは禁物です。これを「目標の不変性」といいます。

ただし、ここでいう目標の不変性は、目的から導き出される基本目標であることに注意が必要です。基本目標を達成するための中間目標については、「(中間)目標の可動性」が認められています。このことは、英国の戦略理論家リデルハートが指摘しています。

情勢判断とは、その時々において「いつ、どこで何をするか」(目標)、「いかにするか」(方法)を判断することです。このことは、突き詰めれば、中間目標の設定と中間目標を達成するための手段・方法を判断するということです。

ほとんどのインテリジェンスは、この情勢判断を支援するために存在します。 国家や企業には生存、発展といった目的やビジョンがあり、そのための基本戦略があります。そこから当面の戦略や戦術が発生します。だから、目的や基本ビジョン、基本目標を無視した情勢判断も、そこから生成されるインテリジェンスも存在価値はありません。

なお、情勢判断は(1)問題の把握 (2)戦略構想の見積状況(3)彼我の戦略構想の対比分析 (4)わが戦略構想の比較 (5)戦略構想の決定(判決)の順で行います。