過日、講談社現代新書から拙著が発売

 10月16日、拙著『未来予測入門』が出版されました。

 本書をお読みいただいた私の知人から、「若人に捧げる元防衛省情報分析官が解く、インテリジェンスで人生100年時代を生き抜く法」という、ありがたいネイミングもいただきました。

 著名な作家である佐藤優先生からは、日刊ゲンダイ「週末オススメ本ミシュラン」 にて、拙著を紹介していただきました。佐藤先生、どうもありがとうございました。

https://www.nikkan-gendai.com/articles/columns/2134

 今回は初の新書ということで、できるだけ分かりやすく書いたつもりですが、それでも私の子供たち読ませて感想を聞くと、やはり内容が難しいようです。以前に上梓した『戦略的インテリジェンス入門』においては、難しい内容を平易に説明しているとの意見がある一方、難しくてよくわからないとの講評もありました。今度は、新書なのでより理解できるように心がけましたが、本当に人に分かりやすく伝えるのは容易ではありません。

  ただし少々の言い訳が許されるとすれば、情報分析や未来予測など、そもそもが「分からなこと」が前提になっているので、その手法や思考法は決して単純ではありません。以前、私が解説文を投稿した『CIA極秘分析マニュアル「HEAD」』においては、著書(CIAテロ対策センター・元副部長)は、「重要なことは楽に身につけられない」と言っています。 難しいと思う方は、その気持ちを少し我慢して、読んでいただければと思います。

 私が読む本の6割以上は一読して理解できるものではありません。でも何回か読みなおしたり(全文でなくパラパラでも)、ある別の本を読んだ後などにはすっと理解できることがあります。その時、この年になっても自分の知的レベルが上昇していることに少し満足感が生まれます。

 今回の著書では未来予測の手法が実際的に理解していただけるように、筆者とその子供たちが対話によって未来予測の技法を学ぶというスタイルを取っています。

 実は、我ながらよくぞ斬新なアイデアを思いついたものだと、 自己満足に浸っていたのです。そうしたら、自衛隊時代の後輩が 「現役時代に読んだ『戦術入門』みたい、とチラッ思いました」 との所感を送ってくれました。

 その『戦術入門』は1佐の教官だか連隊長だったかが、 2尉や3尉の若手幹部との問答のなかで戦術の原則事項を教える、 という内容でした。  

 筆者も若手幹部の時代がありましたから、この本は当然のごとく読みました。つまり、 若手幹部時代に読んだ『戦術入門』の内容が私の潜在意識として頭の片隅に残り、これが今回、どのようなことをどのように書こ うかと懊悩していた時に想起されたのかもしれません。  

 よくベテランになるほど、「不透明な時代には論理よりも創造 が大事だ!」とか「スキルよりセンスだ!」という言う人がいます。しかし、いきなり創造力やセンスが生まれるわけではないと思います。

 実は、過去に学んだことが潜在意識として残り、それに何らか の“スイッチ”が加わることで直観が生まれ窮地を脱したりすることがあるのです。それを「神がささやいた」などと総括 していますが、実はこの直観も過去における経験や論理的思考などの成果だと言えます。  

 ところで直観はどのようにして高めるのか、その秘訣はあるのでしょうか?

 北岡元先生の著書『【速習!】ハーバード劉インテリジェンス仕事術-問題解決力を高める情報分析のノウハウ』に、某消防署の大隊長B氏の話が出てきます。B氏は、あわや消防隊員が命を落とす寸前に「退避!」という命令を出します。「九死に一生を得た」隊員が、大隊長に「どうして、あのように絶妙なタイミングで退避の指示が出せたのですか?」とたずねます。

 大隊長は「正直言って、オレにもよく分からない。神秘的だね。強いて言えば直観かな。すぐさま退避しないとやばいということを、直観が教えてくれたんだ」と答えます。

 そこで、北岡氏は「隊員がB氏のような直観を得られるか?」、「B氏は自分でも分からない直観をどうやって教えられるか?」という「問い」を読者に投げかけています。

 そのうえで北岡氏は、「結論から先に言うと、B氏が現場で突然得た直観を、隊員が具体的に学ぶことは十分に可能である。なぜなら直観は、決して神秘的なものではなく、科学的に説明することができるものだからだ。具体的にいうと、直観とは広範かつ高速な「パターン認識」が原動力となって生じる。問題は、それがほぼ無意識の状態で働くために、結果として生じる直観を事後的に説明できなくなつてしまうことだ。(以下、略)」

 つまり、直観で判断したことを「何となく変だ」と思ったことはなかったか自問すれば、「何となく変だ」という「パターン認識」が高速で行われていたに過ぎないということになります。

 消防士は火災現場を経験することでパターン認識を身につけていきますが、「消防官が経験を積んでいない段階でも、B氏が「パターン認識」から直観を得たことを説明してやれば、説明がない場合に比べて、消防官は、はるかに素早くバターン認識ができるようになる。」と北岡氏は述べています。

 そして、「どのような分野でも大切になるのは、直観でうまくいったり、失敗したりするときに、その直観はなぜ生じたのかを振り替えてしっかりと考えることだ。そうすることで、高速すぎてほぼ無意識のうちに行っていた「パターン認識」が見えてくる。それを自覚することで、直観に頼る性向は増え、失敗は減る。さらに部下に、仕事でどのようなパターンに気おつけるべきか、教えることも可能になる」と述べています。

 拙著でも、読者の方に未来予測のノウハウを身につけて欲しいとして、同じようなことを述べています。

 「皆さんの周りで、仕事ができる人、物事の先を読 むのに長けている人がいるかもしれないが、そういう人はたいて い、私が本書で述べるテクニックを駆使して(あるいは知らずし らずのうちに使って)思考・分析を繰り返しているのである」 (拙著より引用)。

 ようするに仕事ができる人は「パターン認識」を高速に行っているのです。そのような優れた「パターン認識」を可視化、形式知化したものがマニュアル本であり、拙著もそれが狙いとしています。

 しかし、マニュアル本を一度読んだからといって自分が「パターン認識」が向上するはずはありません。マニュアル本に書かれていることを自分の実務や生活に落とし込み、少しでも実践してみる。そして自分流のパターン認識や思考法を確立することが重要です。

 

わが国の情報史(43) 秘密戦と陸軍中野学校(その5) 陸軍中野学校における教育の欠落事項

▼はじめに

 前回は陸軍中野学校の1期生の教育内容を紹介し、それを私の経験則から分析して、教育内容の特質を明らかにした。 今回は、その続きであるが、中野学校の教育で欠けていたことに焦点をあてることにする。

▼旧軍には「情報理論」は存在しなかったのか?  

 戦後になって自衛隊入隊し、陸上自衛隊の『情報教範』の作成 に従事した松本重夫氏は、米軍の「情報教範(マニュアル)」な どを引き合いに、次のように回想している。

「私が初めて米軍の『情報教範(マニュアル)』と『小部隊の情 報(連隊レベル以下のマニュアル)を見て、いかに論理的、学問 的に出来上がっている者かを知り、驚き入った覚えがある。それ に比べて、旧軍でいうところの“情報”というものは、単に先輩 から徒弟職的に引き継がれていたもの程度にすぎなかった。私に とって『情報学』または『情報理論』と呼ばれるものとの出会い はこれが最初であった」(松本重夫『自衛隊「影の部隊」情報戦 秘録』)  

 松本氏は、自著の中で「情報とは、『組織』と『活動』によっ て得られた『知識』である」「情報資料(インフォメーション) と情報(インテリジェンス)を峻別することが重要である」「情 報資料を情報に転換する処理は、記録、評価、判定からなり、い かに貴重な情報資料であっても、その処理を誤れば何らその価値 を発揮しない」などの情報理論を縷々述べている。  

 では、松本氏が言うように、旧軍には「情報理論」はまったく 存在しなかったのだろうか?  

 1928年頃に作成されたと推定される「諜報宣伝勤務指針」 においては諜報、宣伝、謀略の意義や方法論についてはかなり詳細に述べられているが、松本氏が指摘するようにインテリジェンスとインフォメーションの明確な区分はない。  

 しかし、第1編「諜報勤務」の中には、「敵国、敵軍そのほか 探知せんとする事物に関する情報の蒐集(しゅうしゅう)、査覈 (さかく)、判断並びに、これが伝達普及に任ずる一切の業務を 情報勤務と総称し、……」の条文がある。    

 また1938年に制定された「作戦要務令」では以下の条文が ある。 「収集せる情報は的確なる審査によりてその真否、価値等を決定 するを要す。これがため、まず各情報の出所、偵知の時機及び方 法等を考察し正確の度を判定し、次いでこれと関係諸情報とを比 較総合し判決を求めるものとす。また、たとえ判決を得た情報い えども更に審査を継続する着意あるを要す。(以下略)」(72 条)

  「情報の審査にあたりて先入主となり、或は的確なる憑拠なき想 像に陥ることなきを要す。また、一見瑣末の情報といえど全般よ り観察するか、もしくは他の情報と比較研究するときは重要なる 資料を得ることあり。なお局部的判断にとらわれ、あるいは 敵の 欺騙、宣伝等により、おうおう大なる誤謬を招来することあるに 注意するを要す。」(74条)  

 ここでの査覈と審査とほぼ同じ意味であると解釈され、これら は生情報(インフォメーション)の情報源の信頼性、生情報その もの正確性などを調べて評価すると意味になるだろう。つまり、 旧軍の教範でも、生情報を直接に使用してはならないことが戒め られている。  

 以上から、今日の情報理論の中核ともいうべき、「インフォメ ーションを処理してインテリジェンスに転換する」ということの 必要性とその要領については、明確性や具体性に欠けるとはいう ものの、旧軍教範ですでに提示していたといえるだろう。

 ▼実戦では生情報が垂れ流し  

 しかし、実戦では生情報の垂れ流し状態であったようだ。これ にはいくつかの理由はあったとみられるが、小谷賢『日本軍のイ ンテリジェンス』は次のように述べている。 「さらに問題は、生の情報や、加工された情報の流れが理路整然 としておらず、いきなり生情報が報告されることもあった。これは情報部が生情報や、加工された情報の流れをコントロールできていなかったことに起因する。(中略)  

 終戦近くになると、参謀本部は南方情報を北のハルピンから報 告される『哈特諜(ハルピン情報)』に頼るようになるが、これ も生情報がそのまま報告されており、きわめて危険な状態であっ た。なぜならば既述したように、ハルピン情報はソ連の偽情報の可能性が高かったためである。(以下略)」  

 ようするに、小谷氏の研究によれば、偽情報である生情報を他の人的情報(ヒューミント)や文書情報(ドキュメント)と照合してインテリジェンスを生成するという情報原則は、現場では遵守されなかったようだ。  

 さらに小谷氏は次のように述べている。 「恐らく当時、『情報』を『インテリジェンス』の意味で捉えていたのは、陸海軍の情報部だけであった。情報部にとっての 『情報』とは分析、加工された後の情報のことである。

 しかし作戦部などから見た場合、『情報』とは『インフォメーション』であり、生情報のことであった。彼らに言わせれば、情報部はデータの類を集めて持ってくれば良いのである。そして作 戦部が作戦立案のためにそれらのデータを取捨選択すれば良かっ た。 すなわち作戦部と情報部の対立の根源は、『情報」という概念をどのように解釈するかであり、双方が対立した場合、力関係か ら作戦部の意見が通るのは当然であった。」(前掲『日本軍のイ ンテリジェンス』)  

 つまり、情報部では情報の処理の必要性などは理解されていたが、 作戦部における情報理論の無知と、そこから生じる情報部の軽視 が蔓延(はびこ)っていた、ということだろうかか?

▼中野学校における「情報理論」教育  

 中野学校では「情報理論」についてどのような教育が行なわれ ていたのだろうか?  乙Ⅰ長期(2期生)の平館勝治氏の言によれば、2期生の教育では参謀本部第8課から中野学校に派遣された教官が「諜報宣伝 勤務指針」を携行して教育を行なっていたようである(1期生の教育において「諜報宣伝勤務指針」という極秘の情報教範が活用 されたかどうかは不明)  

 平館氏は、戦後になって以下のように発言をしている。

「私が1952年7月に警察予備隊(のちの自衛隊)に入って、 米軍将校から彼等の情報マニュアル(入隊1か月位の新兵に情報教育をする一般教科書)で情報教育を受けました。その時、彼等の情報処理の要領が、私が中野学校で習った情報の査覈(さかく) と非常によく似ていました。 ただ、彼等のやり方は五段階法を導入し論理的に情報を分析し、 評価判定し、利用する方法をとっていました。

 それを聞いて、不思議な思いをしながらも情報の原則などというものは万国共通のも のなんだな、とひとり合点していましたが、第四報で報告した河辺正三大将のお話を知り、はじめて謎がとけると共に愕然としま した。  

 ドイツは河辺少佐に種本(筆者注:「諜報宣伝勤務指針」を作 成した元資料)をくれると同時に、米国にも同じ物をくれていた と想像されたからです。しかも、米国はこの種本に改良工夫を加 え、広く一般兵にまで情報教育をしていたのに反し、日本はその 種本に何等改良を加えることもなく、秘密だ、秘密だといって後生大事にしまいこみ、なるべく見せないようにしていました。 この種本を基にして、われわれは中野学校で情報教育を受けたのですが、敵はすでに我々の教育と同等以上の教育をしていたもの と察せられ、戦は開戦前から勝敗がついていたようなものであっ たと感じました(「諜報宣伝勤務指針」の解説、2012年12 月22日)。  

 上述のように同指針では、生情報を直接に使用してはならないことの戒めや、生情報の正確度の判定などについて述べられていた。 しかしながら、 同指針は秘匿度が「機密書」に次いで高い「極秘書」 であったので、学生が自由に閲覧する、ましてや書き写して自習用に活用するなどはできなかった。

 したがって、教官がその中に 書かれている内容の一部を掻い摘んで学生に教えるというのが “関の山”である。「諜報宣伝勤務指針」の内容が学生に十分に 定着したとは到底言えない。 要するに平館氏がいうように、秘密、秘密といった秘密主義がせっかくの 教範を“宝の持ち腐れ”にしてしまった可能性がある。

▼保全に対する形式主義が教育成果を妨げた?  

 時代はさらに遡るが、日露戦争における日本海海戦の大勝利の 立役者・秋山真之が米国に留学した。米国海軍においては末端ク ラスまでに作戦理解の徹底が図られていることに感嘆した。  

 しかし、秋山は帰国して1902年に海軍大学校の教官に就任 し、教鞭したところ、基本的な戦術を艦長クラスが理解していないことに驚いたという。なぜならば、秘密保持の観点から、戦術 は一部の指揮官、幕僚にしか知らされなかったからである。    

 そこで秋山は「有益なる技術上の智識が敵に遺漏するを恐るる よりは、むしろその智識が味方全般に普及・応用されざることを 憂うる次第に御座候(ござそうろう)」との悲痛の手紙を上官に したためた。

 どうやら、平館氏によれば、なんでもかんでも秘密、秘密にす る風潮は昭和の軍隊においては改められなかったようだ。 米国は種本とみられるドイツ本に改良工夫を加え、広く一般兵 にまで普及できる情報理論を確立していった。一方のわが国では、 秘密戦士を要請する中野学校においてでさえ、形式的な秘密主義 が妨げとなり、教えるべき事項の出し惜しみがあった。  

 自由な雰囲気で、自主的学習が重んじられた中野学校ではあっ たが、当時の陸軍上層部の形式主義によって「諜報宣伝勤務指針」 が改良と工夫をされて、中野学校における情報教育に反映されな かったとすれば非常に残念なことであったといえるだろう。

▼教範の秘密保全について  

 米軍はインターネットで情報マニュアルなどを公開しているが、 わが国においても教範類は公開すべきだ、というのが筆者の論で ある。ちなみに日本が不透明、不透明といっている中国軍におい ては、軍関係機関が多数の軍事書籍を出版し、それが国民全体の 軍事知識を押し上げ、愛国心向上に一役買っているという。  

 正直言って、自衛隊の相当数の教範は内容的に公開されても何 ら問題はないと思うし、そもそも教範は原則事項を記述するもの であって、不要なことや混乱を招くようなことを記述すべきでは ない。その取捨選択が行なわれていないとすれば、そのことの方 が問題である。  公開して差し支えないものまで秘密にしようとするから、無用 な詮索や勝手解釈が起こるのであるし、世間がことさら注目する ことにもなる。教範漏洩事件が起きたり、インターネットオーク ションで教範が売られたりすることにもなるのである。  

 繰り返すが、教範は原則事項の記述であって、そのままでは実戦においてはまったく役に立たないといっても過言ではない。今日の 「孫子」にさまざまな領域での解釈が付けられているように、教範にさまざまな解釈が加えられ、さらに可視化、形式知化が進み、 国家全体として安全保障などの知識やノウハウの向上が望ましい と考える。  

 教育の現場においては、教官が学生に対し、自らの経験や自学 研鑽をもって教範に独自解釈を加え、具体例をもって学生の理解を促進しなければならない。そうでなければ学生は、教範に書かれていることの本質を理解できないであろう。教官独自の副読本 なども必要になるし、そこに教範の一般価値を超えた教官の力量 がものをいうことになるのである。  

 他方、学生は教範に日常的に親しんで、想像力と創造力をもっ て繰り返し読むことが重要である。教範の厳重管理などとよく言 われるが、教範は鍵がかかるような引き出しに入れておくような ものではないと、筆者は考える。時にはベッドに寝転んで読む、 そして自ら課題を設定し、思索しつつ読む。そうした自由な環境 と、積極的な精神活動を欠いてしまえば、教範は結局のところ “宝の持ち腐れ”になるのではないか。

本日、講談社現代新書から拙著が発売

▼拙著『未来予測入門』(講談社現代新書)が発売

本日(10月16日)から拙著『未来予測入門』(講談社現代新書)が発売されました。本書は5つの章からなり、第 1章「未来予測とは何か」、第2章「情報分析とは何か」、第3 章「未来予測のための情報分析ツール」、そして第4章から第6 章までは「未来予測ケーススタディ」です。

第3章では、未来予測のための個人モデルを紹介しています。 これは、インテリジェンス・サイクルのCIAモデルなどを基に 編み出したオリジナルであり、(1)問いの設定、(2)枠組みの設定、 (3)収集&整理、(4)現状分析&未来予測、(5)戦略判断の5つから なります。  

そして、これら各段階に対応する必要な思考法&分析手法として、 (1)問いの再設定、(2)アウトサイド・イン思考&フレームワーク 分析、(3)システム思考、(4)クロノロジー(年表)分析、(5)マト リックス分析、(6)アナロジー思考、(7)ブレーンストーミング& マインドマップ、(8)四つの仮説案出、(9)シナリオ・プランニン グを特出して、それぞれを解説しています。  

 第4章から第6章では、それぞれ「将来有望な職種・スキルと は」「未来のベストセラーを特定せよ」「2030年の暮らし方・ 働き方を予測する」と題し、上記の9つの手法を使ったケーススタディを試みています。  

 ここでは、防衛省を退職した私が、我が子供たちに分析手法を教えるという対話スタイルを採用しました。子供たちの疑問や質問に対し、筆者が分析手法を伝授しながらその疑問を解消し、答えに導いていくというものです。  

 実は、ここに登場する子供たちは私の実在する三人の娘をモデ ルにしています。娘たちに父親としてどんな助言が適切か、脳漿 を絞ったといっても過言ではありません。

 編集長やフリーライター氏の協力を得て、これまでにない味わいの作品に仕上がったと自負しています。お読みいただければ嬉しいです

▼ エンリケさまの紹介文

  「軍事情報メルマガ」を主催されているエンリケさまが私の著書を紹介していたくださいました。いつも過分な称賛で少々恥ずかしいのですが、一部を引用させていただきます。

 こんにちは、エンリケです。

 4章~6章が本書の白眉です。父と娘、息子の対話形式で、「情報分析手法を実際にどう使うか?」をわかりやすく案内しています。

 「問い」に対する「答え」を導き出す。それが情報分析手法を人生に活かすことです。情報のプロが使う手法が、自分の人生とつながっている証左なんです。

 また、情報のプロが記した一般向け情報教養本で、ストーリーが使われた解説は、私が知る限り本書が初めてでしょう。ストーリー作りってのは実はむつかしいものです。上田さんも、相当苦労して作られたんじゃないだろうか?と推察します。

 さて上田さんのインテリジェンス本で特筆される特徴の一つが「読み手が情報分析スキルを使えるようになる」という点です。第一作以来刊行された本に一貫して流れている上田さんならではと言ってもよい特徴で、「上田スピリッツ」と名付けて差し支えないといえます。

 本著にもこのスピリッツはもちろん流れており、その道のプロの意見を待つのでなく、自分で結論を導き出す国民になるためのスキルをコンパクトな新書でありながら、惜しみなく教えてくれます。ぜひあなたも手に取って、実人生で活かしてほしいです。(以上10/14掲載)

 

 今日は<すべての情報分析は「質問=問い」の設定から開始される>(P33)という名言についてお伝えしようと思います。

 そもそもあなたは、分析したいことに対する「問い」を持っていますか?分析して何を達成したいのでしょうか?

 ちなみに私のばあい、ここが極めてあいまいでした。だから、常に拡散してしまい、収拾がつかなくなるという流れをいつも辿ってきたわけです。

 私が上田さんの既刊書を通してイチバン学んだのは実はこの点でした。「適切な問いがなければ、適切な分析はできない」ということです。逆にいえば「適切な問いがあれば、適切な分析につながる」ということなんでしょう。

 本著でも上田さんは<情報分析は必ず「問い」の設定から始めるべきであり、未来に関する予測もその例外ではない>(P42)とおっしゃっています。実はこの点こそ、われわれ一般人の情報分析で、最も欠けているところではないか?と感じてなりません。そのために不可欠な「情報分析するときの、適切な問いの作り方」を解説した書は、私が知る限りこれまでなかった気がします。

 少なくとも私は、上田さんの著作でこのことを初めて知り、いろんな情報分析、未来予測へのチャレンジの場で意識できるようになりました。こんかい、この本の42P~45Pを読み、腑に落すことができたように感じます。(以上10/15に掲載)

 きょうは、今年6月に発売された、上田さんの『武器になる情報分析力』と本著を比べてみたいと思います。

 ひとことでいえば、『武器になる情報分析力』が対象とする課題は安保問題、『未来予測入門』のそれは個人の身の回りの問題という感じでしょうか。けっきょく、使うツールや手法はカブるのですが、昨日もお伝えした「問い」が違うわけです。

 戦略テーマが違えば問いも変わる。着眼点も微妙に変わってくる。上田さんというプロが、痒いところに手が届く感じで細やかに解説しているからそのあたりの違いをつかめるんですね。両書ともに読むとわかります。だから、『武器になる情報分析力』をお持ちの方には、ぜひ手に取ってほしいわけです。本著を手に取った方には、『武器になる情報分析力』も手に取ってほしいです。

 私も含めた一般人は、もちろん安保戦略問題に関心はあります。でも、自分の将来をはじめとする身の回りのことの見通しも持っておきたいものです。上田さんの最新刊『未来予測入門ー元防衛省情報分析官が編み出した手法ー』は、軍事ファンやマニアではない人向けに書かれています。

その点で物足りない人もいらっしゃるかもしれません。が、その分、語り口がひじょうにわかりやすいんです。ファンやマニアの方も、情報分析の基礎の基礎が定着できる点でおススメなんですね。(以上10/16に掲載)

エンリケさま、いつもありがとうございます。

  

わが国の情報史(42) 秘密戦と陸軍中野学校(その4) 陸軍中野学校の教育の特色

▼はじめに

 さて、前回は陸軍中野学校の教育内容を理解するため、第1期 生の教育課目を紹介した。今回はその続きで、教育課目から 見る教育の特色などについて考えてみたいと思う。

▼印象教育の重視  

 第1期生の教育課目表をざっと眺めて感じることは「1年間程度の期間のなかで、よくもこれだけ多くの教育課目を組んでいる な!」ということである。 筆者は陸上自衛官時代に約1年間の情報課程を履修し、また同課程の課程主任にも就いたことがある。こうした経験から察するに、学生は次から次へと与えられる教育課目についていくのが精 一杯で、おそらく履修した内容を定着させる余裕はなかったと思 う。いわゆる“消化不良”を起こしていたのではなかろうか?    

 たとえば実科では秘密通信、写真術、変装術、開緘術、開錠術 といった秘密戦遂行のための課目が組まれているが、実科に与え られた総配当時間は118時間であった(『陸軍中野学 校のすべて』の17頁掲載の1期生の教育実施予定表)。  

 便宜上、総配当時間を単純に5等分すれば(5課目に割る)、 各課目の授業時数は20時間強となる。これでは封書を開ける開緘術、錠を開ける開錠術などを修得することは不可能であったろ う。

 ようするに「へえ~、こういう技術もあるんだ!」という体験 をさせることが趣旨であったと思われる。つまり、「このような技術が必要な実際場面に出くわすかどうかはわかないが、仮に出 くわしたならば、ここでの教育を思い出し、自らの工夫と技術研鑽で乗り越えよ!」という趣旨であったのだろう。  

 あるいは、相手側がこうした技術を持っていることを意識させ、 自らの諜報、謀略などの活動に対する防諜観念を高めさせる狙いがあったとみられる。  

 つまり実用性というよりも印象教育を重視したのだと思われる。

▼科学化を意識した教育  

 印象教育の重視とはいうものの「諜報、謀略の科学化」を目指 した中野学校ならではの教育方針を垣間見ることはできる。

 特殊爆薬、偽造紙幣、秘密カメラ、盗聴用器などの教育につい ては、当時、謀略器材の研究にあたっていた秘密戦研究所(登戸研究所)の協力を得て実施された。  同研究所は第1次世界大戦において、航空機兵器や化学兵器 (毒ガス)という近代兵器が登場したことなどから、各国は科学・ 技術を重要視した軍事的政策をとるようになった。わが国も、こ れに後れてはならないとして触発され、1927年4月に研究所を創設した。  

 つまり「諜報、謀略の科学化」の大きな目的の一つが、近代兵器の開発と、それに対応する秘密戦士の育成というわけである。  

 また、一般教養基礎学においては統計学、心理学、気象学といった課目が教えられた。統計学に8時間、心理学に5時間が配当 された(前掲『陸軍中野学校のすべて』)。  

 もちろん十分な授業時数ではないが、それでも、終戦後に出光石油に勤務した1期生の牧沢義夫氏は、中野学校の教育で実務に役立ったのは統計学と資源調査のリサーチ法であったと語ってい る(斉藤充功『証言 陸軍中野学校 卒業生たちの追憶』)。こ うした課目も基礎教育としての価値は十分にあったとみられる。  

 筆者は退職後、情報分析官としての必要な知識、技能および資質を養成する上で何が重要であったかと時々回想することがあるが、統計学、心理学、さらには(中野学校の教育課目にはなかったが)哲学の素養が重要であるとの考えに至った。  

 たとえば、ビジネスにおけるデータ分析などの本や論文などを 読んでいると「ベイズの定理(条件付き確率)」といった言葉がよく出てくる。これは統計学を学んだ者にとっては常識であるよ うだが、かつての私の現職時代を振り返っても、この定理が話題 になったような記憶はほとんどない。

 「ベイズの定理」とは「ある事象が起こったという条件のもとで の事象が起きる確率」のことである。たとえば最初に、(1)X国が Y国を攻撃する(10%)、(2)X国はY国を攻撃しない(90%) の2つの仮説とその確率を立てたとする。そののちに、Y国指導者が「ミサイル実験は中止する」と発言したとすれば、最初の仮説を適度に見直す必要がある。  

 ここでは詳細説明は割愛するが、人間はあとで生じた情報、 すなわち「ミサイル実験は中止する」を過度に重視して、最初の事前確率(10%、90%)を無視して、最初の仮説の確率を大幅に引き上げたり、引き下げたりする。 そうした心理的バイアスを排除して、冷静な分析を可能にするのが「ベイズの定理」である。  

 現状分析や未来予測において、データやインフォメーションか らインテリジェンスを生成するためには定量的な分析が欠かせない。しかし、しばしば定性的な分析にとどまることの一つの原因 としては、統計学の素養がないことがあげられよう。  

 中野学校において、どのような統計学の授業が行なわれたかは 定かではないが、たとえ授業時数が不十分であったとしても、か かる課目の重要性をしっかりと認識していた点については、情報教育に対する視野の広さを感じる。

▼ユニークな教育で危機回避能力の向上  

 1期生の術課においては、自動車学校、通信学校、工兵学校、 飛行学校などへ行って、無線の操作、自動車や飛行機の操縦練習などを行なったようである。もちろん、わずかな教育時間で飛行機が自由自在に操縦できるなどありえないことであるが、これら は何らかの想定外の事態が発生した場合の危機回避法の修得が 狙いであったのであろう。  

 さらにユニークな教育として今も語り伝えられているのが、甲賀流忍術14世名人の藤田西湖氏による忍術教育である。この教育は今日もさまざまな形で、おもしろおかしく取り上げられ、し かも脚色されている。このことが中野卒業生が“スーパー忍者” であったかのような誤情報の伝播原因ともなっている。  

 忍術教育には8時間(3回)の授業時数が配当され、藤田によ る講義と実演のみであり、学生の実習はなかったようである。藤田は節(ふし)を抜いたタケをもって水中にもぐりひそむ法、腕や足の関節をはずしてワナを抜ける法、音をたてずに歩いたり階 段を上がったりする法、壁や天井をはい回る術などを、みずから 実践してみせてくれたという(畠山清行『秘録陸軍中野学校』)。  

 忍術といえば、いかさま“インチキ手品”のようにも受け捉られかねないが、捏造的な実演が展示されたわけでもない。藤田は 「犬の鳴き声をするとメス犬が吠える」と言って、犬の鳴き声を 実演したが、なかなか思うような状況にはならなかったようである。  

 藤田によれば次のように忍術と情報活動との関係を説明している。 「忍術は常にいつの時代においても行なわれており、忍術という ものの行なわれない時は一日としてない、ことに現代のごとく生存競争の活舞台が層一層の激甚を加える時、人事百般、あらゆることに、あらゆる機会においてこの忍術は行なわれ、忍術の行な われない社会はない。 ただ忍術という名前において行なわれないだけである。

 忍術と いうものはかつての軍事偵察、今日でいう間諜の術=スパイ術である。このスパイ、間諜というものは、いつの時代においても盛 んに活躍していたもので、今日支那事変や大東亜戦争が起こると、 世界各国の種々なる間諜、スパイが一層活躍しているのである」 (藤田西湖『忍術からスパイ戦争』。現代仮名遣いに改め)  

 忍者は飛鳥時代にすでに発祥したといわれ、中野学校の精神教育の理想像とされた楠木正成も忍者のルーツを引く。忍者は時代 を問わず、ずっと“日陰者”として存在し、主君に誠を誓い、主君の窮地を しばしば救った。そうした忍者に関する講義を通じて、学生に危機を回避するうえでの伝統的な知恵を授けると同時に、国家に対する忠誠心を涵養する狙いがあったのであろう。

  「諜者は死なず」という短句が象徴するとおり、「秘密戦士は任 務完遂するまで、たとえ捕虜になろうとも、片眼、片腕、片脚を失っても情報伝達のために帰ってこい、死んではならない」と教育された。この点についても諜報員と忍者とは共通するものがある。自動車学校などにおける操縦訓練や忍術教育は、このような秘密戦士の特性に鑑みた危機回避法や生存自活法が狙いであったといえるだろう。  

 さらにユニークな教育としては、前科十何犯かという有名な掏摸(すり)を招いての実演や、偽編術(ぎへんじゅつ、変装術の ことをこう呼んだ)の講師としてめったにお目にかかれないような絶世の美人になりきった新派の元女形も登場したようである。  

 これらも、実際の掏摸や元女形から情報の窃取や変装の技術を学ぶというよりも、情報や諜報活動上の保全の重要性、あるいは先入観で物事を見たりすることの危険性、平素の観察力のいいか げんさ、などを感覚・知覚的に理解させる印象教育が狙いであっ たであろう。  

 中野学校の前身である後方勤務要員養成所の所長、秋草俊は 「万物これ悉(ことごと)く我が師なり」を教育哲理としていたようである。

 「秘密戦士にとって役立つと思えば、教育は形式に とらわれるべきではない。学生が自由な発想で秘密戦士にとって 何が必要であるかの答え見つけ出すことが重要なのだ。教官はそ の手伝いをしているに過ぎないのだ」というような、当時の秋草 の語り口さえ想像できる。

▼自主と創意工夫を重視  

 教育内容の主軸となる諜報、謀略、防諜、宣伝については、中 野学校職員による諸外国の実例についての講義が主体であったよ うであるが、これに加えて参謀本部の謀略課(第8課)などから 部外講師が私服に着替えて来校して、授業を行なっていたようで ある。  

 1期生の日下部一郎氏の著書『陸軍中野学校 実録』には以下 の件がある。 「講義もまた型破りであった。教科書がない。教材がない。も ちろん、一貫した教育方針や指導基準があるわけではなかった。 講義は、各教官の思いどおりに、自由な形で行われた。  

 わが国の戦国時代や、中国の戦史や、日清、日露その他の戦史 の中から、秘密戦に関する記録を収集したり、海外武官による各国の視察報告をまとめたりして、教材をしだいに作っていく状態 であった。」  

 つまり、当初の教育は手探り状態であり、それゆえに型にはま らない、自由発想と創意工夫が重んじられたとみられる。また教官は学生と一体となって秘密戦という未開拓の分野を共同研究し たようである。教官は学生と共に考え、教え合うことで成長する のである。  

 1期生は借家居住といういわゆる寺子屋式のなかで共同生活をした。また教育管理はおおらかであり、余暇には外出時間の制限 もなかったという。こうした自由闊達の雰囲気のなかで、学生は 自主自律の精神を陶冶したのであろう。  

 話は脇道にそれるが、筆者が所属した陸上自衛隊調査学校や 同小平学校では学生に対して「24:00帰校ルール」と いうものがあった。夜中の12時までに学校の警衛所を通過して帰校しなければならないというものである(現在、存続しているか どうかわからない)。  

 すでに就寝している学生もいるし、どやどやと音を立てて学生舎に帰ってきても困る、外出している学生自身も明日の授業に差 し障りがあるという、学校上層部の当然と言えば当然の判断であったように思う。 ただ、時代やおかれた環境が違うといえばそれまでであるが、自律心 という点ではまことに情けないといわざるを得ない。

▼明石大佐を模範とする理想像の追求  

 前出の日下部は、「学生たちにもっとも深い感銘を与えたのは、 日露戦争における明石元二郎大佐の活躍であった」として、以下 のように述べる。 「中野学校の錬成要綱の一つに、『外なる天業恢弘(てんぎょう かいこう、筆者注:天皇の事業を世に推しひろめるという意味) の範を明石大佐にとる』という言葉があった。

 中野学校の目的は、 単なる秘密戦士の養成ではなく、神の意志に基づいて、世界人類 の平和を確立するという大きいものであり、そしてその模範とすべきは明石大佐である、という意味だ。実際に、明石大佐の報告書と『革命のしおり』という標題のつけられた大佐の諜報活動記録は教材に用いられ、それによって、学生たちは大いに鍛えぬか れたのである。以下略)」  

 つまり、教科書や教材が不十分であって教育方針も固まらないなかで、教育の理想像とされたのが日露戦争時の明石大佐であっ た。明石大佐の活躍については、本シリーズ「わが国の情報史」 ではたびたび触れているが、ここでもう一度簡単におさらいを しておこう。  

 明石大佐は、1904年の日露戦争の開戦前から駐露公使館付武官をつとめ、開戦とともにスウェーデンのストックホルムに根拠を移し、欧州各地に縦横に動き回り、対ロシア政治工作に従事 した。  

 上述の報告書とは、明石大佐が帰国して1906年に参謀本部 に出された『明石復命書』のことであり、明石自身がこれに『落花流水』と題をつけたとされている。また『革命のしおり』とは、 この報告書を参謀本部の倉庫から探し出し、秋草、福本、伊藤の三教官が徹夜で謄写版刷りの教材にまとめあげたものとされる。  

 今日『落花流水』は一般書籍にも収録されている。この記述内容から、公刊資料を活用しての任国の政治情勢、民情、敵対勢力や友好勢力に関わる分析手法、現地における協力者との接触要領、 革命・扇動の準備工作や留意点などの教育が中野学校で行なわれたとみられる。  

 1940年10月の乙Ⅰ長(2期生)の卒業式には東条英機陸軍大臣が出席し、席上、首席学生は明石大佐の政治謀略について講演した。つまり明石謀略は学生の必須の自主命題とされ、教育課目の内外において自学研鑽が重ねられたとみられる。  

 また教官は、明石大佐の活躍を称賛する一方で、その活躍がこ のほか世の中に語られていない状況を次のように示唆したようである。

「明石大佐のような日露戦争の最大功労者であっても、その帰 国を迎えた者は、人目をはばかってカーキ色の軍服をさけ、私服 に二重まわし姿の児玉源太郎将軍ただ一人であった。この報告書 に至ってはホコリをかぶり、眠り続けている。それでも明石大佐 は駐露武官である。ましてや秘密戦士の功績は語ることもできな ければ、敵国に捕えられれば銃殺や絞首刑は免れない。それでも 貴様らは耐えられるか。耐えられなければ遠慮なく辞職を申して出てもらいたい」(筆者が畠山『秘録陸軍中野学校』から要点を抽 出して作文)  

 このように明石謀略は秘密戦の知識・技能の教育にとどまらず、 秘密戦士の道を説く精神教育としても恰好の題材となったのであ る。  

 現在となっては、明石がレーニンと直接に会ったという事実はないとされ、明石謀略によって帝政ロシア内で大衆を動員して革命扇動を起こさせた、などについても疑義が呈されている。  

 しかし当時は、ドイツ皇帝ウィルヘルム2世が「明石1人で、 大山大将の満州軍25万人に匹敵する成果を挙げ、第一次世界大戦では、明石の手法をまねて、ついに帝政ロシアを崩壊させた」 などのことが事実として語り継がれており、学生たちにとって明石大佐は紛れもなくヒーローであったのである。 (次回に続く)

私にとってのクロノロジー分析とは

クロノロジー分析は情報分析の王道である

クロノジーこそが情報分析の王道であると、私は考えている。防衛省の情報分析官であった時は、まずクロノロジーを作成することを情報分析のスタートラインとしていた(拙著『戦略的インテリジェンス入門』)。

クロノロジーとは歴史年表であるが、一体どこまで遡ればよいのか?

これについては歴史勉強のテーマの一つでもあるので、少し情報分析と歴史学との関係まで思考を広げてみたい。

歴史はいつまで遡るのか?

「歴史は繰り返す」 は古代ローマの歴史家クルティウス・ルーフスの言葉である。これが真実ならば、過去を知ることで未来が予測できる。しかし、歴史は本当に繰り返すのだろうか?

これに関して、元外交官の加藤龍樹氏は自著『国際情報戦』において、「歴史は繰り返さない。繰り返すのは類似した事例であり、傾向である」「観察が精密になれば、実験の度にすこしずつ違った結果がでてくる」と述べている。

他方、加藤は「過去の事実をいくら調べてもあまり意味がないのか?」という問題提起に対し、「過去の出来事の中で未だ過ぎ去り行かぬもの、現在を支配し将来に影響を及ぼすものを把握することが情勢判断の核心である」とのドイツの歴史家ドロイゼンの言を引用して、歴史の中で「生きている要素」(未来に影響を及ぼすもの)を見出し、それを学ぶことの重要性を説いている。

では相手国等に関する歴史について、どの程度学ぶ必要があるのだろうか?これに関して、元外交官の岡崎久彦氏は自著『国家と情報』(1980年12月出版)において、「専門家にとって要求されるのは、せいぜい戦後30年間の経緯」「ソ連ならばフルシチョフ以降の事実関係に精通しているだけで専門家として通用」「18世紀以前のロシア史の知識などはまったく要求されない」「歴史の面白さに耽溺してしまって専門家として失格」などと述べている。

クロノロジーは相当過去まで遡る

翻って、クロノロジーはいつまで遡るか、ということについても、分析する対象(事象)、すなわち「問い」それぞれによるというほかない。

2018年4月、私は北朝鮮問題をビジネスパーソンと考える情報分析講座を担任したが、その時は朝鮮戦争の終了時点まで遡り、それ以降現在までの約70年弱にわたり、A4で約15枚に及ぶクロノロジーを作成した。講義参加者から「そこまでやるのか!」と驚愕されたことがあるが、物事の本質を探るためにはまだ不十分であるくらいだ。

上述のように「生きている要素」の抽出に留意して年表をさくせいすることになるが、「生きているか、死んでいるか」一見して判断できないもの、すなわち「生きている可能性があるもの」はできるだけ見落してはならない。そして個々の事象としてはたいしたことはないが、関連性によって「生きてくるもの」もある。だから、相当の事象を抽出していくことになる。

私にとってクロノロジーの作成は情報分析の全工程の6割以上の労力を占めるといっても過言ではない。私は心配性なので、「このくらいでいいかな?」と思ったその少し前までの歴史事象を踏まえてクロノロジーを作成していた。

山一証券の破綻の原因はバブル崩壊か?

ここで、なぜ相当過去まで遡らなければならないのか、一例をあげてその理由を説明しておきたい。

1997年11月、四大証券会社の一つであった山一証券が破綻した。その直接原因は以下のとおりのことが指摘されている。

・ 1997年のアジア金融危機 が発生

・同危機に対して、山一証券が「飛ばし」と呼ばれる大口顧客への損失補填を実施

・旧大蔵省が上記を摘発したために山一証券の信用低下が発生

ここで、少し前まで遡ると、1990年代のポストバブル期の長期株価の低迷が原因としてあげられる。つまり、バブル崩壊→金融危機→山一証券の不正→旧大蔵省の摘発→山一証券の信用低下という因果関係に気づかされる。

山一証券の破綻の真因は日銀特融?

しかし、破綻するような会社は、長年にわたる歴史的な構造的問題を抱えていることが多い。そこで、これが本当の山一証券の破綻の原因なのか、さらに歴史を遡ると、それは1964年の「証券不況」に行きつく。

証券不況で山一証券は危機に落ちいり、日本銀行から無担保・無制限での融資、すなわち「日銀特融」を受けた。この「日銀特融」後の山一証券の動きを丹念にクロノロジー化すると、特融を完済するための山一証券の〝背伸び経営〟が負の連鎖を引き起こして破綻に至ったことが理解できるだろう。つまり、山一証券の破綻の基点は1990年代のバブル崩壊ではなく、経営陣による人的災害であったともいえる。

実松大佐の警告

しかし、実は「日銀特融」とて、本当の始点ではないのかもしれない。かつて海軍軍令部にピカイチの情報参謀がいた。実松譲大佐である。

彼は敗戦後の一時期、戦犯として巣鴨での獄中生活を送ることになったが、ここでは毎日の株価を丹念にグラフ化していたそうだ。「株の変動を見ていると社会情勢がよくわかる」というのが実松氏の考えであった。

彼は昭和28(1953)年4月に山一証券に入社。ここで対米調査を担当した。多くの調査報告書を作ったが、山一証券の重役は「軍事あがりに何が分かるか」という態度だったそうである。

実松氏は1年もしないうちにやめた。この際、知人に「あのままだと山一を潰れるよ」といったそうである。(谷光光太郎『情報敗戦』)

実務者は歴史書を読むだけでなく、クロノジーに落とし込め

このように過去まで遡り、その歴史的な経緯を丹念にみることで、物事の本質にたどり着くことがある。

現在を生きる分析者は過去の歴史を直接に知らない。だからクロノロジーを作成し、ある種の変化が何時、どのように発生したのか? その変化をもたらした要因は何か? 推理力を働かせて、物事の背後にある推進力(ドライビングフォース)を特定する。そしてドライビングフォースを基準にして未来を予測するのである。

クロノロジーは歴史を考察するための手法である。実務者は単に歴史教科書を読むだけで満足してはならない。歴史をクロノロジーという具体的な形に落とし込んで、そこに歴史の必然性や因果関係を必ず発見するという精神作用が加わらなければならない。

わが国の情報史(41) 秘密戦と陸軍中野学校(その3) 陸軍中野学校の学生選抜と教育方針

▼はじめに

 さて、今回は「秘密戦と陸軍中野学校」編の第3回である。中野学校の学生選抜と教育方針について解説することとする。

▼入校学生は5種類に分類

 1938年7月の後方勤務要員養成所の入所(入校)者(1期
生)の主体は民間大学など高学歴の甲種幹部候補生出身将校から
採用することとし、各師団や軍制学校からの推薦を受けた者を選
抜した。これは、秘密戦士には世の中の幅広い知識が必要である
との配慮による。

 なお、所長の秋草自身も陸軍派遣学生として一般大学(現在の
東京外国語大学)を修了している。

 また、2期学生からは下士官養成も開始し、陸軍教導学校での
教育総監賞受賞者や現役の優秀な下士官学生(乙種幹部候補生出
身)を採用した。さらに中野学校が正規の軍制学校になってから
は陸軍士官学校出身将校をも採用し、戦時情報および遊撃戦の指
導者として養成された。

 1940年8月制定の「陸軍中野学校令」では、入校学生は甲
種学生、乙種学生、丙種学生、丁種学生、戊種学生に分類された。
これは前回述べたとおり、1941年10月には、学校の所管が
陸軍省から参謀本部に移管されて参謀本部直轄校となり、甲種学
生が乙種学生に、乙種学生が丙種学生、丙種学生が戊種学生とな
った。

 では上述の区分にしたがって各種学生を順番に紹介することと
しよう。

(1)甲種学生 
 後方勤務要員養成所および「陸軍中野学校令」(1940年8
月)の乙(陸軍士官学校出身)および丙種(甲種幹部候補生出身
将校)の学生課程を経て、一定期間に秘密戦に従事した大尉、中
尉が対象となった。修業期間は1年間。
 しかし、これは制度として存在したのみであり、中野学校が短
期間で終了したために活用されず。
 なお、この学校で1甲、2甲と称せられた学生は「陸軍中野学
校令」制定前に陸軍士官学校出身者で中野学校に入学を命じられ
た学生の呼称である。
(※注「1甲、2甲」は「陸軍中野学校令」制定後、参謀本部直
轄前の入校)

(2)乙種学生
 陸軍士官学校を卒業した大尉および中尉を主体として、そのほ
か現役の各種将校を推薦により乙種学生として入校させた。修業
年限は2か年、当時の情勢で1年ないし8か月に短縮。1942
年に入校の1乙より、45年入校の5乙まで存続した。卒業生総
数は132人。

(3)丙種学生
 甲種幹部候補生出身の教育機関である予備士官学校の学生から
試験を行なった後に採用した学生であり、修業年限は2か年、当
時の情勢で1年ないし8か月に短縮。中野学校の幹部学生の大半
を占めて基幹学生ともいうべき存在。
 後方勤務養成所創設時に入校した1期生、その次に入校した乙
I長および乙I短(いわゆる2期生)、それ以降の乙II長およびと
乙II短は丙種学生である。
 遊撃戦幹部要員としての二俣分校学生、遊撃および情報の臨時
学生は、ともに丙種学生の範疇に属する。
 卒業生総数は本校学生が900人、二俣学生が553人。

(4)丁種学生
 中野学校を卒業した下士官を将校にするための課程学生である。
制度として存在したのみで、実際には活用されず。

(5)戊種学生
 乙種幹部候補生出身や陸軍教導学校において教育総監賞などを
受賞して卒業した下士官学生であって第2期生から採用され、陸
軍中野学校の下士官学生の基幹となった。卒業生総数は567人。

 以上のとおり、中野学校の主体をなす学生は民間大学等高学歴
の甲種幹部候補生出身将校の丙種学生と、陸軍教導学校などを卒
業した下士官学生である戊種学生とが大半であった。

 そのほか必要に応じて遊撃戦の幹部将校を養成するために臨時
に入校を命ぜられた遊撃学生、司令部で情報分析等に勤務するた
めの将校を養成するために臨時に入校を命ぜられた情報学生がい
た。(以上、『陸軍中野学校』より要点を抜粋)

▼卒業生の選抜

 中野学校の基幹をなす丙種学生の選抜要領は以下のとおりである。

1)陸軍省より、師団、予備士官学校、各種陸軍学校に対し漠然
と秘密戦勤務に適任と思われる学生の推薦を依頼する。
2)師団、予備士官学校等において、中隊長等がそれとなく適任
と思われる成績優秀な学生を選び、本人の意思を尊重して、相当
数の学生を選出して報告する。中野学校職員が説明に出向くこと
もあった。
3)中野学校において右報告書に基づいて書類選考し、受験させ
る者を決定し、予備士官学校に通知する。
4)受験者に対し、陸軍省、参謀本部、中野学校職員からなる選
考要員が、それぞれの予備士官学校等(1期生は九段の偕行社)
に出張し、各地における選考の結果を総合して採用者を概定し、
1人あたり1時間の口頭試験を行ない、身体検査する。
5)各地における選考の結果を総合して採用者を概定し、これに
対し憲兵をして家庭調査をさせる。その結果に基づいて採用を決
定する。
6)採用予定者を中野学校以外の東京のとある場所に招集して、
再度本人の意思を確かめ、さらに身体検査をして採用を決定した。

 選抜に際しては、受験生に対して中野学校での勤務内容を秘匿
することと、本人の意思に反して入校強要しないことの2点が留
意された。

▼学生に対する教育および訓練の特色

 中野学校では秘密戦士として必要な各種の専門教育が行なわれ
た。

 秘密戦の特性上、「上意下達」の一般軍隊とは異なり、単独で
の判断が必要となる場面が多々予測される。そのため幅広い知識
の付与と、新たな事態に応じた応用力の涵養を狙ってカリキュラ
ムが組まれた。

 また「謀略は誠なり」「功は語らず、語られず」「諜者は死せ
ず」など、精神教育、人格教育などが徹底された。さらにはアジ
ア民族を欧米各国の植民地から解放する「民族解放」教育もなさ
れた。

 経年的にみるならば、1938年7月の開所からの約3年間は、
海外における秘密戦士(いわゆる長期学生)を育成することを狙
いに教育が行なわれた。しかしながら、1941年末の太平洋戦
争の勃発(開戦)により、卒業後の任地は作戦各軍に赴任するも
のが多くなり、教育内容も次第に戦時即応の強化に重点が指向さ
れるようになった。

 そして開戦後の2年間までの学生は、いまだ戦場になっていな
い関東軍方面要員についての多少の例外があったが、南方地域を
はじめとする支那方面およびその他の地域において、占領地域の
安定確保、民族解放のための政治的施策などをはじめとして、将
来の決戦にそなえる遊撃戦要員としての特技が強く要求されるに
いたった。

 1944年以降は、遊撃戦の教育および研究に最重点がおかれ、
それも外地作戦軍地域内における遊撃戦にとどまらず、本土決戦
に備えて、国内において遊撃戦を敢行するための各種の訓練が開
始された。

▼中野学校が目指した教育方針

 上述のように、中野学校の教育内容は国際情勢の趨勢とわが国
の戦況によって変化した。ただし、中野学校が当初目指した教育
の主眼は、“転属のない海外駐在武官”の養成であった。

 秋草中佐は後方勤務要員養成所の開所にあたって、1期生に対
して「本所は替らざる駐在武官を養成する場であり、諸子はその
替らざる武官として外地に土着し、骨を埋めることだ」と訓示し
た。

 当時、秘密戦の中核ともいうべき軍事情報の収集は、各国とも
に主として海外駐在武官がこれに当たっていた。そのため、武官
には広範な良識と特殊な秘密戦技能を持つことが要求された。

 当時、欧米の場合は情報謀略要員が長年の間、一定の地に留ま
って情報活動を行なうのが通例であった。しかも階級も年功や功
績によって少尉から将官まで順調に昇任したという。

 これに対して、日本の陸士、陸大出身の在外武官は階級を上げ
るためにポストを替えなければならないので、3年もすれば栄転
というかたちで転属するほかなかった。こうした官僚制度により、
在外での秘密戦の効果が妨げられたようである。

 この改善こそが、甲種幹部候補生出身将校による、長期にわた
る在外での情報勤務であったわけである。ある意味、昇任・出世
を捨てて、国家の捨て石としての存在を幹部候補生に求めたとい
える。幼年期から軍人として育てられた陸士出身者ではそれは補
えず、危機対処能力、形に捉われない柔軟な発想力こそが幹部候
補生の強みであった。

▼1期生の教育

 中野学校の当初の教育方針が「替らざる武官」、すなわち海外
勤務に長期間にわたって従事する長期学生の育成にあったこと、
そして1941年から太平洋戦争が開始され、「戦わずして勝つ」
の追求が困難になったことに着目する必要がある。

 つまり、中野学校の教育の原点は、1期生と第2期の長期学生
(乙I長)および乙II長(開戦間近に繰り上げ卒業)に対する教育
への思いであったことを軽視してはならない。

 1期生の教育カリキュラムはしっかりと定まったものではない。
いや、試行錯誤を前提としたものである。ただし、それゆえに関
係者の思いが凝縮しているのである。

 そこで1期生の教育課目についてみてみよう。

(1)一般教養基礎学
 国体学、思想学、統計学、心理学、戦争論、日本戦争論、兵器
 学、交通学、築城学、気象学、航空学、海事学、薬物学
(2)外国事情
 ソ連(軍事政略)、ソ連(兵要地誌)、ドイツ、イタリア、英
 国、米国、フランス、中国(兵用地誌)、中国(軍事政略?)、
 南方地域(軍事)
(3)語学
 英語、ロシア語、支那語
(4)専門学科
 諜報勤務、謀略勤務1、謀略勤務2、防諜勤務、宣伝勤務1、
 宣伝勤務2、経済謀略、秘密通信法、防諜技術、破壊法、暗号
 解読
(※謀略勤務1と2があったのではなく異なる教官により教育で
あったので、筆者が番号はふって区分した)
(5)実科
 秘密通信、写真術、変装術、開緘術、開錠術
(6)術科
 剣道、合気道
(7)特別講座、講義
 情報勤務、満州事情、ポーランド事情、沿バルト三国事情、ト
 ルコ事情、支那事情、支那事情、フランス事情、忍法、犯罪捜
 査、法医学、回教事情
(8)派遣教育
 陸軍通信学校、陸軍自動車学校、陸軍工兵学校、陸軍航空学校
(9)実地教育(往復は自由行動、終わって全員学習レポートを
 提出)
 横須賀軍港、鎮守府、東京湾要塞、館山海軍航空隊、下志津陸
 軍飛行校、三菱航空機製作所、小山鉄道機関庫、鬼怒川水力発
 電所、陸軍技術研究所、陸軍士官学校、陸軍軍医学校、陸軍兵
 器廠、大阪の織物工場、その他の工場、NHK、朝日新聞、東
 宝映画撮影所、各博物館等
(以上、校史『陸軍中野学校』より抜粋)

 ざっと教育課目を眺めるだけで、どのような教育が行なわれた
のか察することができるが、次回はもう少し、教育内容をかみ砕
いて、その特色など説明することとしよう。