わが国の情報史(19)   

日露戦争の勝利の要因その1 -日英軍事協商と通信網の整備- 

日露戦争の勝利の要因

日露戦争の勝利について、著名な兵法家である大橋武夫は自著『戦略と謀略』(1978年)において、以下の6つの要因を挙げている。 (1)英国との同盟(1902年) (2)開戦から始められた金子堅太郎の終戦工作 (3)高橋是清の資金獲得とロシアに対する資金枯渇  (4)明石元二郎(大佐)の謀略工作 (5)特務機関の活動(青木宣純) (6)奉天会戦、日本海海戦の勝利

その後の日露戦争史の研究によって、明石大佐の謀略工作に対する否定な見方や、特務機関の活動効果に疑義を呈する意見も出てきている。 ただし以下の点についてはほぼ異論があるまい。

(1)日英同盟が、露仏同盟によるフランスの参戦とロシアに対する戦争協力を抑制した。 (2)日英軍事協商によりグローバルな戦略的インテリジェンスを獲得し、それが開戦当初から着手された終戦工作とあいまって、わが国の勝利に貢献した。  つまり、日英同盟による協力体制と、日英軍事協商による情報体制が日露戦争の最大の要因であった。

日英同盟の背景

日本が英国との間で同盟を締結できた理由について、当時の地政学的環境よりひも解けば、まずロシアの拡張主義が挙げられる。

ロシアの極東進出により、英国は清国の東北部での経済利益が阻害されることを警戒したのである。 また、ロシアによる南下政策により、英国のトルコに対する影響力が低下することも懸念された。  

こうしたロシアの拡張主義に対して、英国は当初、米国やドイツとの同盟を模索したのであるが、両国が英国との同盟に前向きでなかった。 そのため、ロシアの極東進出を警戒する日本との利害が一致し、英国はわが国との同盟へと向ったのである。 なお、日英同盟締結の陰で柴五郎中佐の八面六臂の活躍があったことについてはすでに『わが国の情報史(18)』において触れた。

日英軍事協商の締結

とくに日英同盟に基づき、水面下での日英軍事協商が締結されたことは、日露戦争勝利の大きな要因であった。 日英同盟成立から約4か月たった1902年5月14日、海軍横須賀鎮守府内で英国側からブリッジ東洋艦隊司令長官、日本側から山本権兵衛海相、陸軍からは田村怡与造参謀本部次長、福島安正同第二部次長らが出席して「日英軍事協商」の秘密会議が開催された。

続いて7月7日にはイギリス陸軍省で伊集院五郎海軍軍令部次長、福島第二部長らが出席して「日英軍事協商」が合意された。 この協商では「両国は、ロンドン・東京の日英公使館付海陸軍武官を通して、すべての情報を相互に自由に交換する」「両国の公使館付武官はいずれの任地でも自由に情報を交換する」などが規定された。

これによって、日本陸軍は、ロンドン駐在陸軍武官の対ロシア戦略情報とインド方面のロシア陸軍の情報などが人手可能となった。

この協商の具体的な合意事項は、おもに海軍の協力が中心の、次の「陸海軍協約」八項目であった。 (1)共同信号法を定めること。 (2)電信用共同暗号を定めること。 (3)情報を交換すること。 (4)戦時における石炭(日本炭、力ーディフ炭)の供給方法を定めること。 (5)戦時陸軍輸送におけるイギリス船の雇用をはかること。 (6)艦船に対する入渠修繕の便宜供与をはかること。 (7)戦時両国の官報をイギリスの電信で送付すること。 (8) 英国側は予備備海底ケーブルの敷設につとめること。

これらの協定をみてわかるとおり、過半が通信関連の事項であった。つまり日英の参謀本部のトップは、きたるべき日露戦争は、「情報戦争」「インテリジェンス戦争」であるという共通認識を持っていたのである。

児玉源太郎の活躍

児玉源太郎

当時、英国は世界の全海域に海底ケーブルを施設し、ロシア海軍の動きを察知していた。そうした英国から「日英軍事協商」により、インテリジェンスの全面協力がうけられるようになった意義は大きい。 日露戦争前には、わが国は大陸と日本の間の海底ケーブルを敷設し、インテリジェンスの連絡体制を確保した。これに最大の貢献したのが児玉源太郎である。

日本最初の海底ケーブルは1871年、大北電信会社によって長崎~上海間及び長崎~ウラジオストック間に敷設された。 さらに1883年、大北電信会社は呼子(よぶこ、佐賀県の最北端にあった町、現在は唐津市呼子町)~釜山間にも海底ケーブルを敷設した。

しかし日清戦争後、児玉は呼子~釜山間の海底ケーブルは軍が独占できなかったため、ここを切られたら通信が途絶えてしまうことを警戒した。 また、大北電信はデンマークの会社であり、その背後にロシアが存在していたため、情報が筒抜けになることが懸念された。

そこで児玉は独力で海底ケーブルを本土から台湾(基隆)、本土から朝鮮半島・中国まで施設し、世界中にはりめぐらせた英国の世界通信ネットワークとの連接はかった。同時に、無線通信の有用性を認識し、艦艇~艦艇、陸上~艦艇の間の無線通信連絡を確保した。

なお川上操六も、日清戦争直前に東京・下関間の直通電信線、釜山~京城問の電信線を最初に提案し、児玉が先頭に立って敷いた九州~台湾間海底ケーブルにも川上が深く関与した。

こうしてロンドンでもスピーデイーに日露戦争の全情報を収集できる態勢が整備された。東京とロンドン間の電報は、東京→九州(大隅半島)→台湾(キールン)→ 台湾(淡水)→福建省(復讐)と伝達され、イギリスの植民地の香港を介して、南シナ海からボルネオを経由し、マラッカ海峡を通り、インド洋を横断して紅海から地中海に抜け、 そしてロンドンへという経路で伝達された。

バルチック艦隊が喜望峰やインド洋を周回している情報はイギリスのインド府政庁により、ロシアに秘密で次々に日本に送られた。 「明石工作」の暗号電報も施設した回線を経由して東京に速報されたのであった。

日英同盟から得たインテリジェンスの恩恵

わが国は日英同盟から、いかなるインテリジェンスの恩恵を受けたのか、ここでひとまず整理しておこう。 日露が開戦すると、英国は22人の観戦武官を戦場に送り込んで情報を収集し、日英両国に伝達した。「明石工作」の暗号電報も、施設した回線を経由して東京に速報された。

英国における情報活動では、 宇都宮太郎(1861年~1922年、中佐)・在英陸軍武官と同鏑木誠(1857年~1919年、大佐)・海軍武官の活躍があった。 とくに、宇都宮中佐は当時、英陸軍参謀本部作戦部のエドワード・エドモンズ少佐と親交を深めていた。エドモンズ少佐は当時、世界中からロンドンに集まってくる各国の陸軍情報を英参謀本部内で掌握できる立場にあった。 エドモンド少佐から得たロシア陸軍部隊の動向を宇都宮中佐は逐次、東京に報告した。

宇都宮太郎

それに基づき、大本営が満州の露軍兵力を算定し、英陸軍情報は参謀本部の作戦計画策定に寄与したとされる。  宇都宮太郎・在英陸軍武官と同鏑木誠・海軍武官の活躍が顕著であった。

こうしたグローバルな情報収集・連絡態勢の確立によって、わが国は戦場、世界各国のわが国公使館、英国大使館などから、様々なレベルの情報を入手した。これらの情報を処理して得たインテリジェンスは、政府や大本営における的確な情勢判断と戦略の構築に寄与したと考えられる。

鏑木誠

グローバルな情報収集体制の確立

日露が開戦すると、英国は22人の観戦武官を戦場に送り込んで情報を収集し、日英両国に貴重な情報を伝達した。 英国における情報活動では、 日英同盟による政治協力体制と日英軍事協商によるグローバルな情報収集体制により、わが国は戦局を判断するためのインテリジェンスを獲得した。

なかでも、英国で得られた情報を迅速に大本営と満州軍総司令部に伝達するための通信連絡体制を早くから構築していた点が、日露戦争における勝利要因であった。

このほか、ロシアと同盟国にありながら複雑な思想を秘めていた独・仏の情報も得られた。 とくにロシア宮廷や軍内部の情報はこのルートから入手できた。さらには、世界中に張り巡らされているユダヤ・コネクションから貴重な情報が得られた、という。

戦争開戦後は、各国がロシア側に派遣した観戦武官、新聞・通信社を通じて貴重な戦術情報を入手した。 また、軍と官が一体となった各国の在外公館による密接な協力があった。ロンドンの林公使、パリの本野一郎公使、スペインの新井書記官などは、バルチック艦隊の極東回航の状況に対する詳細な情報に入手して日本に報告したという。

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