戦争プロバガンダ10の法則で韓国を切る

『戦争プロバガンダ10の法則』とは

『戦争プロバガンタ゛10の法則』は、ブリュセル自由大学・歴史学者のアンヌ・モレリの著作です。

彼女は、1928年ロンドンで出版された、アンサー・ポンソンビーの衝撃的な著書『戦時の嘘』などを参考に、この本を書きました。ポンソンビーは、第一次世界大戦時の英国労働党議員で、イギリスの参戦に反対しました。平和主義者の彼は、「ディリー・メール」紙の社主・ノースクリフ卿の指揮のもとで行われた、第一次世界大戦におけるプロパガンダを分析し、その様相を10項目の法則に集約しました。

モレリは、この10の法則に照らし、ポンソンビーの分析を引用しつつ、第一次世界大戦から現代までの戦争におけるプロパガンダの手口を明らかにしています。

現在、日韓対立が深刻化しつつあり、なかなか着地点がみえません。韓国の言い分は『戦争のプロパガンダ10の法則』さながらです。この「10の法則」に基づき、ざっとみてみましょう。

()は10の法則です。その下記は各種報道から韓国が発言しているようなことを筆者が作文したものであり、実際に韓国側がこれを発言したわけではありません。韓国側のプロパガンダを、「10の法則」で分析することにより、韓国側の発言上の思惑や、今後に仕掛けてくる舌戦の様相を分析、推察しようとするものです。

(1)我々は戦争したくない

我々は日本と対立したくないのだ。先の火器官制レーダー照射事件は“根も葉もない”日本側の捏造であった。徴用工問題は韓国の大多数の人々の情緒に絡む問題であり、司法の判断だ。韓国政府の問題ではないのだ。我々政府は、これまで築きあげた日韓関係を重視して、「より前向きの関係を作ろう」と言っているのだ。

(2)しかし、敵側が一方的に戦争を望んだ

今回、日本が徴用工問題の復讐という卑劣な目的で、一方的に半導体関連物資の輸出規制を行なってきた。これは韓国に対する〝銃声なき経済戦争〟であり、安定した日韓関係を希求するわが国への重大な挑戦だ。

(3)敵の指導者は悪魔のような人間だ

金正恩委員長とトランプ大統領との歴史的な会談をお膳立てしたわが国への嫉妬心から「禁輸措置」に出た安倍はなんと偏狭な指導者であろうか。帝国主義者の安倍は、外交問題を国内政治に理由している。極右勢力結集のためのきっかけが欲しかったのだ。憲法改正して、再びアジア侵略の歴史を繰り返し、アジアの人々を苦しめるであろう。

(4)われわれは領土や覇権のためではなく、偉大な使命のために戦う

我々が守ろうとしているのは自国の利益といった狭小なものではない。自由貿易体制の秩序破壊という日本の挑戦に対して、わが国は世界の代表として断固として戦うというものである。

(5)われわれも誤って犠牲を出すことがある。だが、敵はわざと残虐行為を行なっている

戦略物資の不正輸出はたしかにある。ただし、わが国は不正輸出を適切に摘発し、管理しているではないか。日本から輸入したフッ化水素が北朝鮮に流失した証拠はないし、ましてや意図的に流失するなどでっちあげも甚だしい。

日本こそ意図的に「韓国が、国連の対北朝鮮制裁に違反した」とのでっちあげにより、わが国の国際的立場を貶めようとしている。なんなら、事実関係を確認するために、国際機関による調査をしようではないか。

(6)敵は卑劣に兵器や戦略を用いている

政治、外交の案件に対して、経済的に優位な立場を利用して制裁しようとしている。誠に卑劣な手段であって経済大国のとるべき対外政策ではない。多くの経済発展途上国は日本の今回の軽率な行動に失望している。

(7)我々の受けた被害は小さく、敵に与えた被害は甚大

輸出規制による韓国の被害はむしろ小さいことが分かった。日本の輸出関連企業の被害の方が大きいようだ。韓国は輸入先の多角化と国産化の道を進める。結局は、日本経済に大きな被害を及ぶことを警告する。日本の輸出規制によって世界経済は大損害を被り、日本は経済的、政治的にも世界中に敵を廻すことになろう。

(8)芸術家や知識人も正義の戦いを支持している

我々の毅然とした対応を国民全員が支持している。わが国民は日本の不埒な行動に怒りを覚え、すでに「韓国も日本製の輸入を規制すべき」とか、「日本車などを買うのは辞めるべきだ」との反日世論が沸騰している。我々は、日韓両国の国民が互いに憎しみ合うことは欲していないが、その原因を意図的に作ろうとしているのは日本の方である。

(9)われわれの大義は神聖なものである

自由貿易体制を守る活動は全世界共通のものであり、わが国の主張は尊いものだ。しかるに今回の日本側の挑戦の不当性を国際政治の場で明らかにする。米国やWTOも韓国の正当性を支持するであろう。

(10)この正義に疑問を投げかける者は裏切者である。

わが国の一部保守勢力による軽率な反政府の発言や行動はただちに止めるべきだ。わが国政府の立場を不利にして、日本側を利することになることを理解せよ。わが国民は分裂している時ではない。分裂を画策する者は、国民から「親日派」「土着倭寇」と呼ばれて断罪されても仕方がない。

 

以上、「10の法則」で韓国側の発言および予想される発言を整理してみました。この10の法則は、相手側のブラパガンダの虚構を見破ること、およびわが国の政治宣伝、公共外交(パブリック・ディプロマシー)さらには経営戦略などにも応用できそうです。

わが国の情報史(37)  昭和のインテリジェンス(その13)   ─日中戦争から太平洋戦争までの情報活動(3)─

▼はじめに

これまで、秘密戦の要素である諜報、防諜、宣伝、謀略のうち、諜報と防諜については説明した。今回は宣伝に焦点をあてて解説する。まさに「プロパガンダ恐るべし」である。

▼宣伝という用語の軍事的使用

 宣伝という軍事用語はいつから使用されるようになったのだろうか? 

 1889年に制定され、日露戦争の戦訓を踏まえて1907年(明治40年)に改訂された『野外要務令』では、「情報」および「諜報」という用語はわずかに確認できるが、「宣伝」という用語は登場しない。

 しかし、『野外要務令』の後継として大正期に制定された『陣中要務令』では、以下の記述がある。

第3篇「捜索」第73

「捜索の目的は敵情を明らかにするにあり。これがため、直接敵の位置、兵力、行動及び施設を探知するとともに、諜報の結果を利用してこれを補綴確定し、また諜報の結果によりて、捜索の端緒を得るにつとめざるべからず。捜索の実施にありては、敵の欺騙的動作並びに宣伝等に惑わされるに注意を要する。」

第4編「諜報」第125

「諜報勤務は作戦地の情況及び作戦経過の時期等に適応するごとく、適当にこれを企画し、また敵の宣伝に関する真相を解明すること緊要なり。しかして住民の感情は諜報勤務の実施に影響及ぼすこと大なるをもって上下を問わない。とくに住民に対する使節、態度等ほして諜報勤務実施に便ならしむるごとく留意すること緊要なり。」

 ここでの宣伝は、我の諜報、捜索活動の阻害する要因であって、敵によって行なわれる宣伝(プロパガンダ)を意味しているとみられる。これは、後述のとおり、第一次世界大戦における総力戦の中で行なわれたプロパガンダの様相をわが国も取り入れるようとの思惑が契機になったのであろう。

 「宣伝」がわが国の軍事用語としてより定着するようになったのは、昭和期に入って、『諜報宣伝勤務指針』および『統帥綱領』が制定された1920年代だとみられる。

 1925年から28年にかけての作成と推定される『諜報宣伝勤務指針』の第二編「宣伝及び謀略勤務」では、謀略の定義と共に宣伝について、用語の定義、実施機関、実施要領、宣伝および謀略に対する防衛などが記述されている。ここでは宣伝と謀略が一体的に定義されている。

 同指針から宣伝関連の記述を抜粋する。

 「平時・戦時をとわず、内外各方面に対して、我に有利な形成、雰囲気を醸成する目的をもって、とくに対手を感動させる方法、手段により適切な時期を選んで、ある事実を所要の範囲に宣明伝布するを宣伝と称し、これに関する諸準備、計画及び実施に関する勤務を宣伝勤務という。」

 一方の『統帥綱領』では以下のように記述されている。

第1「統帥の要義」の6

「巧妙適切なる宣伝謀略は作戦指導に貢献すること少なからず。宣伝謀略は主として最高統帥の任ずるところなるも、作戦軍もまた一貫せる方針に基づき、敵軍もしくは作戦地域住民を対象としてこれを行い、もって敵軍戦力の壊敗等に努むること緊要なり。

殊に現代戦においては、軍隊と国民とは物心両面において密接なる関係を有し、互いに交感すること大なるに着意するを要す。敵の行う宣伝謀略に対しては、軍隊の志気を振作し、団結を強固にして、乗ずべき間隙をなからしむるとともに、適時対応の手段を講ずるを要す。」

 1932年の『統帥参考』では以下のように記述されている。

第4章「統帥の要綱」34

「作戦の指導と相まち、敵軍もしくは作戦地の住民に対し、一貫せる方針にもとずき、巧妙適切なる宣伝謀略を行い、敵軍戦力の崩壊を企図すること必要なり。」

 以上のように、「捜索」あるいは「諜報」のように敵に対する情報を入手するだけでなく、敵戦力の崩壊を企図する、敵の作戦指導などを妨害する、あるいは我に有利な形成を醸成する機能を強化する必要性が認識され、そのことが「宣伝」を「謀略」ともに軍事用語として一般化したのである。

▼第一次世界大戦における宣伝戦

 心理戦の発祥は古来に遡るが、心理戦の重要性が認識され、組織的かつ計画的に行なわれるようになったのは第一次世界大戦からである。

 1948年に『Psychological Warfare』(邦訳名『心理戦争』)を出版したラインバーガーは、次のように述べる。

 「第一次世界大戦によって心理戦争は付随的な兵器から主要な兵器へと変容し、後には戦争を贏(か)ち得た武器とさえ呼ばれるようになった」

 心理戦の最大の武器となるのが宣伝戦である。よって心理戦はしばしば宣伝戦と呼び変えられることが多い。

第一次世界大戦における宣伝戦の主役は間違いなくイギリスであった。第一次世界大戦が開戦すると、イギリスは1914年8月、ドイツとアメリカ間の海底電線を切断した。当時、無線は使われ始めていたがまだ不十分であり、しかもイギリスが盗聴していた。つまり、イギリスは通信を独占し、アメリカにはイギリスが与える情報しか入らなくなった。

イギリスは独占した通信をもって、ドイツの誹謗中傷報道を流し、ブラック・プロパガンダにより、米国を欧州の大戦に参加させるよう画策した。イギリスの自由党議員チャールズ・マスターマンは1914年9月、戦争宣伝局(War Propaganda Bureau)、通称「ウェリントン・ハウス」を設置する。これは、外務省付属の秘密組織であった。

ここから、イギリス国内向けの戦意高揚施策や、敵国への謀略報道戦が展開された。イギリス外務省は学者、著名芸術家、文筆家を協力者として、ドイツの“絶対悪”をブラック・プロパガンダして、アメリカ人の人道感情を揺さぶり、アメリカを参戦へといざなったのである。

その後、戦争宣伝局は情報局を経て1918年には情報省へと発展し、新聞大手「デイリー・エクスプレス」紙の社主ビーヴァ─ブルック卿が情報大臣に任じられる。この時、ウェリントン・ハウスは解消されたが、主要なメンバーは残った。

また「タイムズ」紙と「デイリー・メール」紙の社主ノースクリフ卿が、彼の屋敷におかれた宣伝機関である「クルー・ハウス」からドイツに対するブラック・プロパガンダを展開した。

 クルー・ハウスは、ドイツの厭戦気運を盛り上げ、ドイツ兵の投稿を促すビラやリーフレットを大量に作成した。これらは気球などによってドイツ、敵陣営、中立国に投下された。

 とくに、ドイツが中立国に侵略して残虐行為を働いたとの虚偽のブラック・プロパガンダが展開された。また、ロイター通信が中立国に対し虚偽記事を配信し、国際世論の反ドイツ感情を煽った。

 アメリカは参戦後、新聞編集者ジョージ・クリールを委員長とする「広報委員会」、通称クリール委員会を発足させた。同委員会はイギリスと同様に新聞、パンフレットなどにより、反ドイツ感情を煽った。また、アメリカでは反ドイツ映画が作成された。かのチャップリンも反独映画の作成に協力した。

▼第一次世界大戦後のドイツ

第一次世界大戦後、宣伝戦争においては英国がドイツに圧倒的に有利であったことが明らかとなった。英国の宣伝を最も評価したのがヒトラーである。彼は『わが闘争』において、ドイツが英国の宣伝戦から学ぶべきである、とした。

ドイツでは1933年1月にナチスが政権を握ると、ただちに国民啓蒙・宣伝省を創設した(1933年3月)。ナチスで宣伝全国指導者を務めていたヨーゼフ・ゲッペルスが初代大臣に任命された。ゲッペルスは3月25日に次のような演説を行なっている。

 「宣伝省にはドイツで精神的な動員を行なう仕事がある。つまり、精神面での国防省と同じ仕事である。(中略)今、まさに民族は精神面で動員と、武装化を必要としている」

まさに宣伝戦が武力戦と同等の地位を占めるに至り、宣伝戦が国際社会を席巻する火蓋となったのである。

▼わが国が対外文化交流を推進

第一次世界大戦終了後の5月4日、わが国は北京において五四運動に直面することになる。これは、パリ講和会議(1919年1月)で、「日本がドイツから奪った山東省の権益を返還せよ」という中国の巧みな宣伝によって、山東省の権益返還が国際承認されたことに端を発している。

こうしたことから、わが国は国際宣伝の重要性に対する認識を高め、1920年4月、内外情報の収集・整理や宣伝活動を行なう「情報部」を設置(1921年8月)した。このほか、「国際通信社」や「東方通信社」といった対外通信社の強化を図った。また中国における対日感情を好転すべく、文化事業に力を入れた。

1930年代、ドイツが「ゲーテ・インスティトゥート」(1932年)、イギリスが「ブリティシュ・カウンセル」(1934年)を創設するなど、主要国が対外文化組織を設立するなか、わが国も1934年に財団法人・国際文化振興会を設立した。

同振興会は、メディア研究やプロパガンダ研究により、諸外国の文化交流を通じた親睦を深めて、対日国際理解を推進することが目的であった。文化人などの講師を海外に派遣・招聘し、日本文化の理解の普及につとめた。ニューヨークにはその出先機関として日本文化会館が置かれた。また1935年には日本放送協会による海外向けラジオ放送が開始された。

しかし、日中戦争以後の国際情勢が緊迫化すると、穏やかな「国際交流」という様相は脇に追いやられ、国内外に対するプロパガンダが重視されるようになる。

▼情報局の設立

第一次世界大戦当時、プロパガンダという言葉にまったくなじみのなかった日本は宣伝戦に大きく後れをとった。日本の新聞や雑誌にプロパガンダという言葉が現れるのは、1917(大正6)年以降である。(小野厚夫『情報ということば』)

上述のように中国の抗日宣伝に翻弄されたことや、第一次世界大戦における総力戦思想の跋扈に触発され、強力な情報宣伝の国家機関を設立しようとする動きが軍部などに生じ、陸・海軍や外務省では宣伝活動を展開する機関が設置されるようになる。

外務省は1921年8月に情報部を設置した(事務開始は1920年3月から)。他方、陸軍省は1920年1月に陸軍新聞班(1937年に大本営陸軍報道部、38年に陸軍省情報部、40年に陸軍報道部へと改編)、海軍省は1923年5月に軍事普及委員会(1932年に軍事普及部と改称)を設置した。

満洲事変以後、日本を非難する国際世論の高まりに対して、外務省は内田康哉外務大臣の下で対外情報戦略を練り直すことになった。1932年9月、陸・海・外務による情報宣伝に関する非公式の連絡機関「情報委員会」が設置された。これ以後、「情報宣伝」という複合語が盛んに用いられるようになる。

満洲事変による国際対日批判を払拭するため、日本は自らの立場を世界に訴え、国際理解を増進させる方針を選んだ。そこで武器となるのが世論を形成する新聞、その新聞にニュースを提供する通信社であった。

しかし、当時は電通(1907年設立)と聯合(1926年誕生)が激しく競争していた。1931年の満洲事変の発生では、陸軍をバックにつけた電通の一報は、事変発生後わずか4時間で入電し大スクープとなった。

両通信社による激烈な取材競争により、両社ともに経費が膨れ上がり、報道内容にも食い違いが生じた。このため政府部内や新聞界で両社を統合しようという機運が高まり、1936年(昭和11年)1月、同盟通信社が発足した。

1936年7月1日、非公式の連絡機関「情報委員会」を基に各省の広報宣伝部局の連絡調整や、同盟通信社などを監督する目的で「内閣情報委員会」が設立された。

1937年9月25日、連絡調整のみならず各省所管外の情報収集や広報宣伝を行なうために、内閣情報委員会は「内閣情報部」に改められ、情報収集や宣伝活動が職務に加えられた。

1939年、「国民精神動員に関する一般事項」が加わり、国民に対する宣伝を活発化させ、それを担うマスコミ・芸能・芸術への統制を進めた。

1940年12月6日、戦争に向けた世論形成、プロパガンダと思想取締の強化を目的に、内閣情報部と外務省情報部、陸軍省情報部、海軍省軍事普及部、内務省警保局検閲課、逓信省電務局電務課、以上の各省・各部課に分属されていた情報事務を統一化することを目指して、内閣直属機関である「情報局(内閣情報局)」が設置された。

情報局には総裁、次官の下に一官房、五部17課が置かれた。第一部は企画調査、第二部は新聞、出版、報道の取り締まり、第三部は対外宣伝、第四部は出版物の取り締まり、第五部は映画、芸術などの文化宣伝をそれぞれ担当した。職員は情報官以上55名、属官89名の合計144名からなった。

しかし、陸軍と海軍は、大本営陸軍部・海軍部に報道部を設置したほか、陸軍報道部、海軍省軍事普及部の権限を委譲しようとはせず、情報局は内務省警保局検閲課の職員が大半を占めて、検閲の業務を粛々遂行し、宣伝活動において目立った成果はなかったのである。

(次回に続く)

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バタフライ効果とは?

 さて、軍事ランキングが上位を維持することは本自体の魅力もさることながら、その急上昇には原因があります。著名な方が著書紹介ブログを書いてくださる、出版社などからの新聞広告が掲載されるなどです。つまり、そこに原因と結果の関係があります。

 2019年6月28日から29日に行われた大阪G20明けの株価が上昇しました。これは簡単ですね。米中両首脳が貿易協議の再開をさせることで合意したことが原因となり、結果として株価が上昇しました。

 でも、世の中には原因と結果が容易にわからないものがあります。皆さんは、「バタフライ効果」をご存じですか?

 これは、「ブラジルで蝶の羽ばたきはテキサスでトルネードを引き起こすか?」というもので、非常に些細な小さなことが、さまざまな要因を引き起こし、だんだんと大きな現象へと変化することを指す言葉です。日本の「風吹けば桶屋屋が儲かる」という諺のようなものです。

 実際には、蝶の羽ばたきとトルネードとの因果関係はありませんが、ちょっとしたことが、のちに大きなことを引き起こすことは多々あります。

 そのちょっとしたことを重大事項の兆候として感知できるかどうか、つまり、その兆候が単なる一過性の事象ではなく、大きなトレンドの上に成り立つ事象であって、他に影響を及ぼす「ドライビングフォース」となり得るかどうかを見極めることが重要です。

エルニーニュ現象の影響とは?

1972年にチリの沖合でエルニーニョ現象が発生しました。さてわが国では何が起こったでしょうか? 

実は豆腐が値上がりしたのです。

つまり、エルニーニョという海流の変化でカタクチイワシが捕れなくなった。それまでカタクチイワシは鳥や家畜の餌になっていた。それがなくなったので大豆を買う。それで日本への大豆の輸入が減って、豆腐が値上がりをしたのです。

 仮に、この因果関係にいち早く気づいたとすれば、株や先物取引でで大儲けができたかもしれません。物事を広く知っている、一片の兆候が何に影響しているか、何を引き起こすのかなど想像的に考える習慣を身につけると、困難といわれる未来予測の精度がほんの少し上がる。このほんの少しが、他の人をリードするのではないでしょうか。

米国において「なぜ犯罪率は減ったのか?

 『武器になる情報分析力』では、1990年代初頭の米国において「なぜ犯罪率は減ったのか?」という問題を扱っています。

この話は以前の本ブログ「因果関係は意外なところに!」で取り上げましたが、ここでもう一度同記事を抜粋します。

1990年代初頭の米国の事例をあげましょう。当時の米国では過去10年間、犯罪を増える一方でありました。専門家は、今後はこれよりも状況は悪くなると予測しました。しかし、実際には犯罪が増え続けるどころかぎゃくに減り始めてしまったのです。すなわち、未来予測を誤ってしまったのです。

「なぜ犯罪率は減ったのか?」という質問に対して、「割れ窓理論」に基づく警察力の増加や厳罰化、銃規制、高景気による犯罪の減少などの仮説があがりました。 しかし、そのような対策を行っていないところでも犯罪は減ったのです。

そこで調査したところ、予想もしなかった因果関係が明らかになったのです。それは「中絶の合法化」でした。 この因果関係を簡略化して示すと次のとおりです。貧しい家庭→未婚の女性の妊娠・出産が増加→貧困による子育て放棄、虐待、教育放棄→未成年者が犯罪予備軍→犯罪の増加でした。

当時の米国では長らく妊娠中絶は違法でした。 しかし、米国では1960年以降、性の解放の観点から、シングルマザーや中絶も1つの選択肢とされました。そして、歴史的に有名な1973年の「ロー対ウェイド判決」で、最高裁は7対2で憲法第14条に基づき、中絶禁止を憲法違反であると判定しました。 すなわち人工中絶法が設定されたのです。

つまり、この時期以降、貧しい未婚家庭に育った妊娠女性が子供を産まなかっくてもよくなったのです。その結果、1990年代に若者の犯罪予備軍が減り、犯罪率が減り始めたのです。

 常日頃から問題意識をもって観察力を磨く、本質を見抜く洞察力を鍛えることで、真の原因を探り、そして近未来予測が少しばかり可能になるということではないでしょうか。

わが国の情報史(36)  昭和のインテリジェンス(その12)

  ─日中戦争から太平洋戦争までの情報活動(2)─

今回は、第一次世界大戦後に、総力戦あるいは非武力戦の概念が打ち出されるなか、共産主義に対する防衛、すなわち「防諜」という言葉が登場し、わが国において官民の防諜体制の確立が強く叫ばれたことに焦点をあてることにする。

▼防諜という言葉の淵源と来歴

 1938年8月に「後方勤務要員養成所」として産声をあげた陸軍中野学校では、創立後しばらくたった頃から、従来いわゆる情報活動や情報勤務といわれていた各種業務を総括して、「秘密戦」と呼称するようになった。

 その秘密戦は諜報、宣伝、謀略、防諜と定義された(※ただし、秘密戦の呼称は各地域により、また各軍により、必ずしも統一的に使用されていなかった)

 しかしながら、1925年から28年にかけて作成されたと推定される、情報専門の教範『諜報宣伝勤務指針』では、諜報、謀略、宣伝という用語についての定義付けがなされているが、ここには「防諜」という言葉は登場しない。

 そもそも、「孫子」の例を持ち出すまでもなく、歴史的には情報を収集する活動が開始されたと同時に、それと表裏一体である情報を守る活動は開始された。情報を守る、すなわち情報保全あるいは情報秘匿が戦勝の鍵となったのである。

 『諜報宣伝勤務指針』においても、「対諜報防衛」という用語で、その活動について規定している。

 ここには、諜報勤務者を防衛することや対諜報防衛の要領を知悉することの重要性、対諜報防衛組織の全国的統一運用、相手国(対手国)の諜報組織とその諜報勤務上の企図を諜知することの重要性、相手国の諜報勤務の取り締まりための暗号解読、写真術の応用、特殊「インキ」や封印等の対策、無線電信の窃諜の必要性などが記述されている。

 このほか、要注意人物の発見や行動の把握、国境出入り者の検査の厳正なる実施、公然諜報員の獲得などのことが記述されている。

 しかしながら、上述の繰り返しなるが、『諜報宣伝勤務指針』には「防諜」という言葉はない。では「防諜」という用語はいつ登場したのであろうか?

 これは、1936年7月24日勅令第211号陸軍省官制の改正により、兵務局が新設されたことに端を発する。兵務局は、2.26事件(1936年2月)の影響や、のちの日独防共共協の締結(1936年11月)に象徴される共産主義イデオロギーの浸透に対する警戒などを背景に設けられた。

 そして兵務局兵務課は、歩兵以下の各兵科(航空科を除く)の本務事項を統括、軍紀風紀懲罰の総元締めとして軍事警察、防諜などを担当した。同「陸軍省官制改正」第15條には兵務課の任務が示され、6項で「軍事警察、軍機の保護及防諜に関する事項」が規定された。おそらく、これが防諜の最初の正式の用例だとみられる。

▼防諜とはどのような情報活動か?

 1938年9月9日に陸軍省から関係部隊に通知された資料である「防諜ノ参考」、及び陸軍省兵務局が各省の防諜業務担当者に配布した資料である「防諜第一號」から、当時の防諜に関する認識を整理すれば以下のとおりである。

◇陸軍は、防諜を「外国の我に向ってする諜報、謀略(宣伝を含む)に対し、我が国防力の安全を確保する」ことであると定義し、積極的防諜と消極的防諜に区分した。

◇積極的防諜とは、「外国の諜報、もしくは謀略の企図、組織または、その行為もしくは措置を探知、防止、破摧」することであり、主として憲兵や警察などが行なった。その具体的な活動内容は、不法無線の監視や電話の盗聴、物件の奪取、談話の盗聴、郵便物の秘密開緘(かいかん)などであった。

◇消極的防諜とは、「個人もしくは団体が自己に関する秘密の漏洩を防止する行為もしくは措置」のことであり、軍隊、官衙(かんが、※役所のこと)、学校、軍工場等が自ら行なうものであった。

主要施策としては、(1)防諜観念の養成、(2)秘の事項または物件を暴露しようとする各種行為もしく措置に対する行政的指導または法律による禁止もしくは制限、(3)ラジオ、刊行物、輸出物件および通信の検閲、(4)建物、建築物等に関する秘匿措置、(5)秘密保持のための法令および規程の立案及びその施行などがあった。

(『防衛研究所紀要』第14巻「研究ノート 陸海軍の防諜 ──その組織と教育─」を参考、※インターネット上で公開)

▼防諜体制の強化

 以上のように、2.26の影響や共産主義の浸透防止を目的に兵務局が新設され、日中戦争勃発(1937年7月)以降に防諜の概念が整理されるようになり、陸軍省から関係部署に防諜体制の構築が徹底された。

 つまり、従前の「対諜報防衛」は、相手側の諜報を防衛し、軍機の漏洩を回避するといった狭義の軍事的意味で用いられた。しかし、総力戦のなかで広範囲に諜報、宣伝、謀略が展開されるようになったため、国民を広く啓蒙し、官民一体となった相手国および中立国の秘密戦に対処する必要性が生じた。そのことが「防諜」という言葉に結集したといえるのではないだろうか。

 1937年8月に軍機保護法が全面改訂され、10月に新しい軍機保護法が施行された。1938年には、国防科学研究会著『スパイを防止せよ!! : 防諜の心得』(亜細亜出版社、インターネット公開)といった著書が出版され、国民に対して防諜意識の啓蒙が図られた。

 同著では、1防諜とはどんなことか、2防諜は国民全体の手で、3軍機の保護と防諜とは、4国民は防諜上どうしたらよいか、5スパイの魔手は如何に働くか、6外国の人は皆スパイか、7国民よ防諜上の覚悟は良いか、の見出しで、防諜の概念や国民がスパイから秘密を守るための留意事項が述べられている。

 同著は、「近頃新聞紙やパンフレット等に防諜という言葉が縷縷見受けられるようになってきたが・・・、又一般流行語の様に一時的に人気のある言葉で過ぎ去るべきものであるか、・・・」と記述しており、防諜が一般用語として急速に普及したようである。

 その後、防諜に関する著作、記事、パンフレットが定期的に頒布された。主なものには、『週報』240号「特集 秘密戦と防諜」(1941年5月14日)、『機械化』21号「君等は銃後の防諜戦士」(1942年8月)、引間功『戦時防諜と秘密戦の全貌』 (1943(康徳9)年、大同印書館出版)が挙げられる。

 その後、防諜は終戦までずっと、その重要性が認識され、国民への啓蒙活動が行なわれた。

▼防諜という用語が登場・普及した背景

 防諜という言葉が登場・普及した背景には、第一次世界大戦において非武力戦あるいは総力戦の概念が登場したこと、共産主義国家ソ連が誕生して国際コミンテルンが各国に共産主義イデオロギーを輸出したこと、満洲事変(1931年9月)以後のわが国の大陸進出に対する欧米、ソ連、蒋介石政権の対日牽制が本格化したことなど挙げられる。

 第一次世界大戦において、わが国はドイツが敗北した大きな要因が総力戦対応の失敗だと認識したようであり、これは当時の軍事雑誌では以下のように記述されている。

 「・・・これは前大戦の例を見てもわかります。前大戦の時、ドイツは武力戦では連合軍をよく撃破したのでしたが、非武力戦で銃後を攪乱され、折角の前線の勝利も銃後から崩壊してあの無惨な敗北を喫したのであります。

 戦争とスパイは付き物ですが、前欧州大戦の時にも、両軍のスパイはお互いに盛んに活躍したのです。スパイの活躍がどんなに戦争に響くかということは、今更申し上げるまでもなく皆さんのよくご存知の通りです。

 例えば軍の作戦が漏れた為に敵に乗ぜられるとか兵団の移動が探知された結果、意外な逆襲にあって大損害を蒙るとか、その影響は頗(すこぶ)る大きく、一スパイの活躍よく大兵団を葬ると云うが如き例はいくらもあるのであります。

 前大戦に於いて両軍の軍事スパイは幾多の目覚ましい手柄をたてています。然し結果的に考えてみますと、ドイツ軍のスパイは軍事的にのみ片寄り過ぎて、その他に方面には及ばなかったようです。同時に防諜という点でも、軍関係の秘密は守られましたが、他の方面の秘密は敵側に漏れていたようです。

 近代の戦争が武力戦のみでなく、非武力戦も戦争であると前に述べましたが、戦争に勝つことは、武力戦に勝つと同時に非武力戦にも勝たねばならないのであります。

 前大戦に於ける連合国側の様子を見ると、武力だけではドイツを降参させることは難しいと考え、非武力戦線にも力を入れようと計画したのです。その結果ドイツの経済、社会思想、政治等をよく調べ、銃後攪乱をやったり、謀略、宣伝に力を入れ、とうとう武力戦では勝利を得ているドイツを降参させてしまったのであります。謀略宣伝がどんなに威力のあるものか、非武力戦の勝利が如何に功を奏するかがこの例ではっきり解ります。・・・・・・・」

(「機械化」21号(昭和17年8月)「君等は銃後の防諜戦士」)

 また、当時の国際共産主義の輸出、拡大の情況を整理すると次のとおりである。

 ロシア革命(1917年)後の1919年にレーニンによってつくられたコミンテルンは共産主義の思想を各国に輸出した。日本もその例外ではなく、1922年に日本共産党がコミンテルン日本支部として設立した。これを取り締まるために1925年に治安維持法が制定された。

 1931年6月、コミンテルンの国際組織であるプロファインテル極東支部のイレール・ヌーランが上海で逮捕された。この事件によって、上海を中心にアジア各地にコミンテルンのネットワークが張り巡らされていたことが暴かれ、わが国も事の重大性を認識した。

 1930年代のファシズムの台頭に対しては、欧州各国で1934年から人民戦線の動きが強まった。これを受けてコミンテルンは、1935年のコミンテルン第7回大会で「反ファッショ統一戦線(人民戦線)」路線を採択した。

 中国では、これを受けて共産党が1935年、「8.18宣言」をだし、抗日民族統一戦線を国民党に呼びかけた。この延長線に締結されたのが日独防共協定であり、また日中戦争ということになる。

 日本国内においては、満洲事変以後にわが国が国連脱退したことなどにより、日本への外国人渡来者数や軍事関連施設の視察者が増加した。この中には、正体不明の多くのスパイが混入していた。

 このため、わが国は特別高等警察(特高)と憲兵隊を強化したほか、陸軍省は軍内の機密保護観念の希薄さを改めて問題視した。そして各省庁が連携して国家の防諜態勢を確立すること目指したのである。

 すなわち、官民が一体となった防諜体制の確立が目指されたのである。

▼二大スパイ事件が防諜の重要性を高める

 また、わが国におけるスパイ事件が防諜の重要性を高めた。その代表事例がコックス事件とゾルゲ事件である。

 1940年7月27日に、日本各地において在留英国人11人が憲兵隊に軍機保護法違反容疑で一斉に検挙された。これがコックス事件である。同月29日にそのうちの1人でロイター通信東京支局長のM.J.コックスが東京憲兵隊の取り調べ中に憲兵司令部の建物から飛び降り自殺する。

 当時、この事件は「東京憲兵隊が英国の諜報網を弾圧した」として新聞で大きく取り上げられ、国民の防諜思想を喚起し、陸軍が推進していた反英・防諜思想の普及に助力する結果となった。

一方のゾルゲ事件は、ソ連スパイのリヒャルト・ゾルゲが組織するスパイ網の構成員が 1941年9月から1942年4月にかけて逮捕された事件である。

 この事件についてはあまりにも有名なので、ここで詳細は述べないが、ゾルゲが近衛内閣のブレーンとして日中戦争を推進した元朝日新聞記者の尾崎秀実などを協力者として運用し、わが国が南進するなどの重要な情報を入手し、ソ連に報告していた。

(次回に続く)