中国の統一戦線工作(3)

はじめに

前回は、中国共産党が掲げる統一戦線とは何か、それがどのように日本に持ち込まれたか、統一戦線の国際版である国際統一戦線がどのような理論で進められたか、などについて言及しました。 今回は、その最終回です。

▼日本共産党を通じた指導工作

1950年6月の朝鮮戦争勃発によりGHQから赤旗が発刊停止処分を受けます。この苦境から脱するために徳田球一と野坂参三は中国に密航し、在外組織「北京機関」を創設します。 同機関は『自由日本放送』を開始し、1955年12月末まで、北京から同放送を通じて日本共産党に対して平和運動などに関する革命戦術指導を行ないました。

朝鮮戦争が一段落した1951年、中国は中央対外連絡部を設立し、世界の共産党との間に対外交流関係を樹立し、さらなる革命運動支援を展開します。 対外連絡部の初代部長は、かつての八露軍総政治部主任として対日工作に携わっていた王稼祥です。

彼は1949年の建国後は初代のソ連大使として赴任し、同地でコミンフォルムから影響を受けました。彼によってソ連共産党の統一戦線と中国の伝統的な統一戦線との理論的結合がなされ、それが対外工作や対日工作に活用されていきます。

副部長には廖承志、李初梨などの日本留学組が就きました。この陣容からみても、当時の中国共産党がいかに国際統一戦線の一環としての対日工作を重要視していたかがうかがえます。

中国共産党は日本共産党に対して、工作のための資金援助も行いました。米政府による「機密指定」が解除された『CIA報告書』によれば、1950~60年代、日本共産党は旧ソ連や中国から多い年で年間40万ドルの資金提供を受けたとされます。

これは、当時の日本共産党の年間資金額の4分の1に達しました。日本共産党への資金提供は日本当局の監視を逃れるために様々な偽装工作が施され、香港経由で受け渡されたといいます。

▼中国共産党による帰還兵の運用

さらに中国共産党による革命工作の驚くべき実態に目をむけてみましょう。

中国共産党は中国国内に教育機関を設置し、そこで立場の弱い日本軍の帰還兵を洗脳的に教育し、帰還兵を日本国内における革命遂行の中核とする戦術を採用しました。

そして日本国内に対日工作組織を設置し、米軍などに関する情報収集と日本共産党への指導・監視を行う一方、日本共産党に対する資金と武器提供を行ったというのです。

また、帰還兵を使って米軍施設に侵入させて米軍情報を入手させたほか日本国内における武装蜂起準備などを指示したといいます。

1953年から57年4月までの間、北京郊外にマルクス・レーニン主義学院が設立され、ここでは中国に抑留されていた日本人や密出国した日本共産党党員に対する革命教育が行われた模様です。

1956年から57年にかけて日本各地で交番襲撃、火炎瓶闘争、山村ゲリラ闘争などの非合法闘争が展開されますが、その首謀者はマルクス・レーニン主義学院の教育修了者であったとされます。

▼人事交流を通じた革命支援基盤の形成

では「統一戦線」の表のソフト部分を構成する人事交流についてみてみましよう。

1954年10月の国慶節に際し、日中友好協会の学術代表団と婦人代表団が民間旅券で中国に訪問しました。これにより正式な人事交流が開始されました。その後、超党派の国会議員からなる総勢100名近い日本代表団が訪中しました。

中国側からは1954年10月に中国紅十字会代表の李徳全(馮玉祥夫人)以下10名が、戦争犯罪人名簿などを携行して来日しました。この来日の表向きの目的は、日中戦争後なお中国にとらわれていたB、C級戦犯1000人を日本に速やかに帰国させることでした。

李氏は日中友好の使者として来日します。女性代表、赤十字といった、おおいに友好ムードを装いました。しかし、この訪日には対日工作専門家である廖承志と呉学文が随行しました。彼らは日本共産党との連絡調整に当たりました。つまり、日本共産党がこの来日のお膳立てに関わっていました。

そして、背後では中国において多くの帰還兵が革命教育を受けていたのです。すなわち、帰還兵を通じての暴力革命の準備が行われていたのです。つまり、表では日中友好交流というソフト戦術を繰り広げ、その水面下では暴力的な革命工作が着々と仕掛けられていたのです。

これが「統一戦線」工作の実態なのです。

▼親中派、左翼勢力の取り込み 

統一戦線工作は日本共産党以外の親中派の取り込みにも余念がありません。統一戦線工作はあらゆる勢力をターゲットする。これも統一戦線工作の特徴です。

日米関係を重視する岸信介内閣が1957年に誕生しました。これにより日中関係は急速に悪化します。 岸内閣が日米安保条約改定に動き出すやいなや、中国はこれを「敵視政策」「日本軍国主義の復活」として攻撃しました。また、条約改定反対闘争を画策することを目的として、反政府側要人の招聘工作に乗り出したのです。

1959年には日本共産党代表、社会党代表、日本原水協代表及び総評の代表者がこぞって訪中しました。浅沼稲次郎・社会党書記長による訪中においては、中国人民外交学会代表団との間で「米国帝国主義は中日両国人民の共同敵であり、米帝国主義の支配から抜け出し、共同して戦う」ことをうたう共同声明が発表されました。

一方の中国側は1960年8月の第15回総評大会及び第6回原水禁世界大会に10名の訪問団を来日させました。1961年以降は労働者、青年、作家、法律家、婦人などの各種の人民団体を来日させ、その引き換えに日本の親中派、左翼勢力を中国に続々と招聘しました。

中国がこうした対日工作を強化した背景には、中ソ対立という国際秩序の変化がありました。中国共産党は日本国内でソ連勢力が浸透しないように、原水禁世界大会などに中国代表団を日本に送りました。

同時に、ソ連路線に近い社会党、総評及び労組の代表者を中国に招聘して、親中・反ソの宣伝工作と洗脳教育を行なおうとしたのです。

▼日中貿易を通じた指導、援助

中国による対日工作は人事交流のほかに経済も活用されました。あらゆる手段を総合的に駆使するのが統一戦線のさらなる特徴の一つです。その動向を見てみましょう。

岸内閣から池田隼人内閣に移行して、日中関係は雪解けへと向かいました。その結果、1962年からLT貿易(日中の責任者である廖承志、高碕達之助の頭文字)が開始されます。

しかしながら、経済交流とは名ばかりでした。LT貿易の基本的構造は日本の「友好商社」と、中国対外貿易部傘下の「輸出入公司」との間で行われる、特定間の交流にすぎなかったのです。

友好商社とは、中国側から「政治的に合格」と認められた一部の中小企業のことです。当然、日本共産党及び社会党などの親中政党と強い結びつきがありました。
たとえば、当時の友好商社の御三家といわれていた睦、羽賀通商及び三進交易の3社の社長及び幹部社員はいずれも日本共産党の党員でした。  

 日中貿易は中国共産党による革命政党の拡大を支援する構図となっていました。つまり中国共産党が友好商社に対して取引条件などの特別優遇措置を与えます。この引き換えに、取引額、利益の中から一定額を友好商社が日本共産党や日中友好協会に献金する仕組みが作られたことが、判明しています。

また友好商社による日中貿易は政治思想教育の場でもありました。友好商社と「輸出入公司」の商談は、友好商社代表が毎年春秋2回、広州で行われる広州交易会に出張し、中国側の代表と協議するというスタイルでした。

広州交易会においては毛沢東語録の朗読や、「米帝国主義打倒」「ソ連修正主義打倒」などのプラカード掲げたデモ行進などが義務付けられたのです。  

LT貿易に伴い、1964年、中国展が東京と大阪で開催されました。同開催場では毛沢東を賛美する写真、刺繍、展示物が飾られ、中・小学校の社会科見学や、一般市民や零細企業の労働者などの参観が行われました。さながら政治学集会の様相を呈したのです。

▼各種出版物等を通じた大衆宣伝

統一戦線工作において手段としての宣伝工作は極めて重要です(中国の統一戦線工作(2)参照)。 中国共産党は日本の一般大衆に対する宣伝工作にも余念がありませんでした。

このための宣伝武器として大いに活用されたのが『人民中国』、『中国画報』及び『北京週報』のいわゆる対日宣伝三誌でした。 これら宣伝紙は、1950年代から60年代末にかけて、日本の一般大衆に向け、中国の歴史文化などを紹介しました。

この傍らでは、反米・反帝国主義闘争の体験談、社会主義の成果、各国人民との親善交流、毛沢東主義に対する賛歌、中国共産党の内外政策に関する論文などを織り交ぜた記事を発信しました。

当時の主要三誌の販売においては、日中友好協会が積極的な役割を果たし、その誌代は日中友好協会自体の収入源となっていたといいます。

このほかの対日宣伝工作として観光事業が挙げられます。1964年半ばから、中国共産党は日本からの観光団の受け入れを開始しました。そのため、中国旅行を取り扱う日本側の旅行会社が設立されました。これは、いうまでもなく日本共産党系列です。

かくして1965年から日本人観光団の訪中が行われたのです。 中国側は、旅行者に対して中国各地の都市や革命遺跡などを見学させ、社会主義中国の発展振りや、雄大な自然と長大な歴史を誇示しました。

旅行日程には毛沢東思想の勉強、日本による対米従属への非難、民間レベルの国交回復運動などの政治カリキュラムが組まれていました。

友好貿易と同様に日本側の旅行会社に対しては、旅行費用の一部がキックバックされ、日本共産党の資金に運用されたようです。

▼日本共産党以外の政党に対する接近

1966年、中国共産党と日本共産党との関係は宮本顕治・書記長の訪中(1966.2~66・4)により決裂しました。 中国共産党にとって革命同士であった日本共産党を失ったことは大きな痛手となりました。

しかし、中国共産党は傷心を振り払うかのごとく、日本共産党を分裂させ親中勢力を取り込む工作に打ってでました。 これは、まさしく「敵を分裂させ、その中から味方を取り込む」という統一戦線の応用であったわけです。

中国共産党は、まず日本共産党及びその外郭団体の内部分裂を画策しました。そして、そこから除名、除外された親中派人物や団体の取り込みを図ったのです。 その成果が表れ、日本共産党系の「日中友好協会」を分裂させ、新たに非日本共産党系の「日中友好協会(正統)本部」を結成することに成功します。

日中貿易の窓口であった日本共産党系の「日中貿易促進会」を解散させ、もう一方の窓口「日本国際貿易促進協会」は日本共産党系を排除し、親中派の元日本共産党党員らで構成される組織として再結成しました。

中国共産党は日本共産党分裂工作に加え、社会党左派勢力に対して接近しました。同派の国会議員団を招待し、社会党が毛沢東路線の下で一体化するよう教導・感化しました。こうした訪中議員団は『毛沢東語録』を日本に持ち帰り、日本版『毛沢東語録』として日本国内で販売するなどの活動を行いました。

中国共産党は保守派政治家への接近も図りました。親米派の保守本流に対しては「反動派」として徹底した闘争方針をとりましたが、反主流派に対しては親睦を名目とした接近や招待工作を強化しました。

1961年1月の社会党黒田寿男の訪中に際して、毛沢東は次のように述べます。

「日本政府の内部は足並みがそろっていない。いわゆる主流派と反主流派があって彼らは完全に一致していない。たとえば、松村、石橋、高碕などの派閥はわれわれの言葉でいえば間接の同盟軍である。あなた方にとって、中国の人民は直接の同盟軍であり、人民党内部の矛盾は間接の同盟軍である。彼らの割れ目が拡大し対立し衝突することは人民に有利だ」

そのほか中国は創価学会への接近を開始しました。当時、創価学会は既に1000万近い膨大な会員数を抱えていました。その利用価値を認識し、周恩来総理は廖承志に対して創価学会を最大限に利用すること指示したといいます。

▼中国の統一戦線工作に対する戦いが開始

以上、3回にわたって「統一戦線」とは何か、中国共産党が「国際統一戦線」理論をもとにいかなる対日工作を展開したのか、などをざっと述べてきました。 ここで注意すべきは、中国共産党による「国際統一戦線」の発想は現在も健在だということです。

中国共産党はかつて「親ソ反米」から「反ソ親米」に転換しました。今日は再びロシアとの戦略的パートナーシップを確立して対米牽制に出ています。 その一方で、歴史認識問題などにおいては、中国は米国とも統一戦線を模索して日本を牽制する動きも見せています。 さらには広範囲の結集を狙いに欧州にも働きかけを行っています。

たとえば習近平主席は2014年3月のドイツ訪問時、ベルリンのホローコスト記念館への視察を打診しました(これはドイツ側から断られた)。 おそらく、習主席は同記念館を訪問し「ナチスの歴史を深く反省したドイツ」を賞賛し、それと対比し「軍国主義と侵略の歴史を反省しない日本」との違いを浮き彫りにする狙いがあったのでしょう。 

中国は現在、孔子学院の世界的な展開や「一帯一路」を掲げて経済力を梃子など、ソフト戦略を前面に出して広範囲に友人関係を構築しようとしています。 しかしその影では非合法な諜報活動によって米国などの最新技術の取得によってテクロノジーでの優位に立つことを狙っています。そして巧みな政治工作によって米国の一強支配を打破しようとしています。すなわち、統一戦線工作によって優位に立とうとしています。

こうした動きが、ついに今日の貿易戦争とよばれる米中対立となって噴出し始めたのです。

今日の米中対立は「米国ファースト」を掲げるトランプ大統領が、貿易不均衡を是正して米国の労働者を擁護するという、表面上は貿易戦争の様相がみられます。

しかし、これは単なる経済戦争にとどまるものではありません。中国によるAI、ビッグデータ、自動走行車、集積回路、3Dの技術盗用によって、中国が米国の技術的地位を脅かしている。さらには米国やその他におけるあらゆる階層にチャイナロビーを浸透させて、米国の政治的地位を脅かしている。これを放置しておくと、米国主導の国際秩序は崩壊しかねない。 「今対処しなければ、とんでもないことになる。中国の『ユナイテッド・フロント』に飲み込まれてしまう」

このような危機感が米国指導者の共通認識となっているとみられます。つまり、“中国覇権主義”という世界的な浸透への防波堤をいま築かねばならないということなのです。

そうはいっても米国も中国も全面的対決には至らないでしょう。表面的には、その都度、丁々発止のやり取りが行われ、外交合意はなされていくでしょう。それが相互依存関係、グローバル化の特質というものです。

だからこそ、水面下での優位性を追求するインテリジェンス戦争が展開されます。これが「統一戦線」工作をめぐる米中の対立の兆しというわけです。

米国は世界的な規模での孔子学院の追放、世界第2位の携帯電話会社ファーウェーの締め出しを開始しました。これらは、米国が中国の統一戦線工作に対して多面的な戦いが開始した、一つの兆候といえそうです。

▼わが国が注意すべきこと

米中関係がきな臭くなると中国は早速日本に秋波を送ってきます。これが、現在の日中関係の改善の兆しとなっています。 こうした中国のやり方は、まさに古森氏が指摘する統一戦線の理論実践にほかなりません。

わが国は、今後も中国の多面的・多角的な対日工作に留意することが重要です。とくにソフトイメージ戦略のもとにすすめられる思想・文化の対日浸透、あらゆる階層と領域に対する、大容量の人力とサイバーを活用した諜報活動、これによるテクノロジー盗用にはとくに注意が必要です。

また、日本共産党に対しても注意を怠らないことが必要でしょう。 日本共産党が政党として、行き過ぎた独裁政治を牽制するために政治活動を行っている限りでは問題はありません。しかし、その行動の先にある真の狙いに対して常に注視する必要があります。

日本共産党は1966年に中国共産党と分裂しました。それ以降、独自路線の推進を強調しています。1998年の関係修復以後も一定の距離を置いています。 中国共産党が自らの領土であると主張する尖閣諸島についても日本領土との姿勢を堅持しています。党綱領においても暴力革命の言及はみられません。

しかしながら革命の戦略・戦術である統一戦線を堅持しています。日本共産党の委員長の演説のなかでは、しっかりと統一戦線を堅持することが謳われています。 こうした根本的な理論を享有するかぎり、日本共産党は中国共産党との過去の歴史や今後の連携を完全に断ち切ることはできないでしょう。

中国は尖閣、沖縄などの略取、あるいは在沖縄米軍の撤退を図ることを狙いに対日戦略・戦術を立てている節が随所にみられます。その好機が訪れた場合、戦略・戦術を発動する前提となるのが保守政党を潰すことです。そのためにも、中国にとっては日本共産党と連携強化を画策することは理にかなっています。 

一方、日本共産党が党勢を拡大していくためには、あらゆる領域に及ぶ中国のマネーや政治力を利用することは得策です。政権奪取の好機が到来したとみるならば強力な後ろ盾として中国共産党に接近する可能性は排除されないとみるべきでしょう。

それが、日本共産党が現在も堅持している「統一戦線」理論の真実の意味なのかもしれません? (以上、終わり)

わが国のインテリジェンスは遅れていないか!

▼戦略がビジネスの世界に浸透

世の中では、経営(競争)戦略、企業戦略などの用語が頻繁に紙面を賑わしています。ただし、戦略は言葉の言い回しからして、もともとは軍事用語です。

戦略の定義は諸説多く約200あるといわれています。この詳細はさておき、第二次世界大戦以前の共通した戦略の定義はおおむね軍事的要素に限られていました。 しかし第一次世界大戦以降、軍事力のみならず国家総力で戦争に応ずる必要性が認識されました。

一方で、戦禍の犠牲を最小限にするため軍備管理などの重要性が高まりました。このため、戦略は単なる戦場の兵法から国家の向かうべき方向性や対応策まで含む幅広い概念へと拡大するようになったのです。

戦争の様相の変化とともに、戦略も必然的に非軍事的要因、すなわち経済的・心理的・道徳的・政治的・技術的要因をより多く加味する必要がでてきました。

よって今日は、軍事戦略だけでなく国家戦略、外交戦略および経済戦略などの用語が定着するようになっています。つまり、戦略の概念は武力戦のみならず外交・経済・心理・技術などの非武力戦を包含したものに拡大したのです。

他方、ビジネス社会では20世紀になり企業が膨張・多角化し、競争がグローバルに拡大しました。そのため、「相手に勝つ」ことを本義とする軍事戦略が、経営に活用・応用されるようになり、それに伴い経営戦略などの造語が登場するようになりました。

21世紀に入り、グローバル化、メガコンペティション化、IT化などの急速な進展により、企業間の競争は一段と鮮烈化しています。さらに、ビジネスを取り巻く環境の変化が急速であり、新たなライバイ会社の登場や予想もしなかったような代替品の出現によって企業の存続が危ぶまれるといった事態が恒常化しています。

疾風怒涛の競争の中を優位な状況で勝ち抜き、新たな事業の展開をはかっていくためには、よりダイナミックな経営手法、積極果敢な戦略、機知を捉えた巧みな戦術が要求されています。

▼インテリジェンスの進化と拡大

軍事の領域で使用された戦略・戦術がビジネスの世界に普及・浸透するにつれて、軍事情報理論も逐次にビジネス界に浸透しつつあります。

軍事の領域では、早くから敵対国や戦場のことを先に知る、敵側の部隊、兵器の現在地を知るなど、すなわち情報優越の必要性が認識されてきました。いまから2500年前の戦略書である『孫子の兵法』では、すでに戦勝を獲得するための情報の重要性が説かれています。

他方、経済の世界において情報が大きな役割をもった最初の例は19世紀初頭のフランスのナポレオン時代にさかのぼります。

当時、ナポレオンはヨーロッパ大陸の征服を目指していました。一方、当時のヨーロッパ大陸で大きな権益を誇っていたのがイギリスです。

ナポレオンは1814年にプロシアに敗れ、地中海のエルバ島にいったん流されますが、島から脱出して再起をかけます。ナポレオンはフランス軍を率いてブリュセル郊外の「ワーテルローの戦い」でプロシアに決戦を挑みます。

この時、イギリスは工業力を背景にヨーロッパで大きな貿易取引をしていたので、ナポレオンが勝つか負けるかが最大の関心事でした。つまり、ナポレオンのフランス軍が勝てば、イギリスの欧州大陸における利権は一気に失われることになります。

当時、イギリスのロンドンに世界最大規模の証券取引所があり、そこでは国債が販売されていました。国債の価格はナポレオンが負ければ暴騰し、ナポレオンが勝てば暴落します。

そのため、投資家たちは、ロンドンからはるか離れた「ワーテルローの戦い」の勝敗を、固唾をのんで見守りました。つまり、この戦いの勝敗を告げる情報が決定的な力を持ったのです。

この時に情報をいち早く入手して、国債の価格を意図的に変動させて、大もうけした人物がいます。この人物がユダヤ系のロスチャイド家のネイサン・ロスチャイルドです。 ネイサンは欧州各国に展張した情報網を駆使してナポレオン敗退の情報を誰より早く的確に入手しました。これはイギリス政府が知るより、一日早い情報だったといわれています。 

ネイサン・ロスチャイルド

ナポレオンが負けたのだからイギリスの国債は上がります。だから国債を買えば儲かります。しかし、ネイサンは、ぎゃくに国債の売りに出ます。

これを見た他の投資家は、ネイサンの行動から「イギリスは負けた」「イギリス国債は大暴落する」と判断して、大量の国債が二束三文でたたき売られました。そこでネイサンはこの大暴落した国債を買い占めたのでした。  

その後、証券取引所にも「ナポレオン敗北」のニュースが飛び込み、ネイサンの思惑どおりイギリス国債の価格は跳ね上がりました。こうしてネイサンは莫大な富を得ました。

この結果、世界各国で情報の力と重要性が認識され、情報処理技術が加速度的に進歩し、モールス信号や電話が開発されました。

さらに第一次、第二次世界大戦を経て、情報の収集・伝達手段がさらに高度になり、レーダーやコンピューターなどが発明されました。かくして情報力が戦勝を支配するようになりました。 また、これらの戦争を通じて、米国ではインフォメーションとインテリジェンスとの区別、インテリジェンス・サイクルなどの情報理論を確立していきました。

当時日本軍は、情報を収集することでは決して引けを取っていなかったのですが、インフォメーションをインテリジェンスに高める理論を欠いていました。戦後、自衛隊で情報教範の作成に従事する松本重夫は、このことが情報戦に敗北した原因との見方を提示しています。

なお、インフォメーションとインテリジェンスの意味について後述しますが、ここでは生情報がインフォメーション、インフォメーションを加工して作成した、戦略・戦術の立案や意思決定に直結する情報がインテリジェンスと理解しておいてください。

▼欧米ではビジネス・インテリジェンスが活性化  

インテリジェンスは戦略などと同様に、本来は国家の組織が行う国家機能です。しかし、米国ではすでに1970年代に、それがビジネスの世界に取り入れられ、ビジネス・インテリジェンスの研究と企業における実践が開始されました。  

この経緯については、北岡元著『ビジネス・インテリジェンス』に詳しく記述されていますが、ここでは他の資料も加味してその要点について紹介します。

1980年、マイケル・ポーターが『the study Competitive strategy(競争戦略)』を出版したことが、ビジネスの世界におけるCI(Competitive Intelligenceの略語)の源流となりました。なおCIは今日、競合インテリジェンスあるいは競合情報分析などと翻訳されています。

CIは、企業が企業間あるいは国際間での競争優位に立つことを目的としています。これは、単なる競合(ライバル)会社を分析するコンペティター分析ではありません。自社を取り巻く未来環境を把握し、そのなかで自社の勝ち目を見出すものです。 米CIAのOBであるジャン・ヘリングは「我々を取り巻く環境に対する知識と未来予想で、マネジメントの判断・行動の前提」と定義しています。

1985年、国家インテリジェンス組織で培われたノウハウが、ビジネスの世界に導入されました。この立役者がモトローラ社のCEOを務めたロバート・ガルバンと、前述のヘリングです。

1970年代当時、カルバンはモトローラ社のビジネスマンであり、「アメリカ大統領対外インテリジェンス諮問委員会」の委員を兼任していました。彼はCIAなど政府インテリジェンス組織のプロたちが、インフォメーションを収集し、分析してインテリジェンスを作り、未来を予想することで安全保障政策の立案・執行に役立てていることに注目しました。

1980年代になって、ガルバンはモトローラ社内で情報のプロたちによるインテリジェンス部門の立ち上げを提唱しました。当初、その提案に対する社内の反応は冷ややかでしたが、やっとのことでその提案が承認されます。そして、そのインテリジェンス部門の責任者として、ヘリングがモトローラ社にやってきました。それが1985年のことです。

1986年には、CIの専門家による協会であるSCIP(スキップ。競合情報専門家協会。Society of competitive Intelligence professionals)が、米国・バージニア州に設立されました。

1990年代には、同協会は会員数が6000名規模までに拡大し、米国のみならず、カナダ、イギリス、オーストラリアへとその範囲を拡大しました。なお、SCIPは2009年の金融危機により、他の組織と統合され、組織名も「Strategic & Competitive Intelligence Professionals」に変更されました。

1996年、レオナード・ファルド氏、ベン・ギラド氏、ジャン・ヘリング氏が、ACI(CIアカデミィー,「The Fuld-Gilad-Herring Academy of Competitive Intelligence(ACI)」をケンブリッジに設立しました。

CIアカデミーは、CI専門家を育成する機関ですが、近年ではCIアカデミーが行うプログラムの参加者の中に、CI部門以外のマネージャーの参加が増えてきたそうです。これは、企業全体のCI能力の向上が必要であるとの認識がビジネス界全体に芽生えていることの証拠です。

このように欧米諸国ではインテリジェンスをビジネスの世界に積極導入しています。そして企業内のCI能力を高めるための各種の啓蒙・普及活動にはめざましいものがあります。

▼わが国のビジネス・インテリジェンスの現状  

残念ながら、わが国におけるビジネス・インテリジェンスは欧米に比して大いに遅れをとっているといわざるをえません。

2001年4月に前田健治元警視総監らによる「SCIP Japan」の設立を経て、2008年2月に「日本コンペティティブ・インテリジェンス学会」が発足しました。しかしながら、いまだに学問的研究が主体であり、CIの概念がビジネスの世界で普及したとは言い難い実情にあると思われます。

大企業においてインテリジェンス部門を設置したという話題も聞きませんし、政府組織の情報分析官が企業のインテリジェンス部門に採用されるといったケースは皆無でしょう。

これにはいくかの原因が考えられますが、筆者が思い当たるものは以下のようなものです。

第一に、政府情報組織におけるインテリジェンス理論や情報分析手法などが未確立であり、インテリジェンス要員の育成も未熟である。政治、経済といった複眼的思考から、現状分析、未来予測を行い、戦略設定や危機管理に対して助言できる人材が育っていない。したがって企業ニーズに応えられない。

第二に、ビジネス界では戦略・戦術、インテリジェンスなどの理論や本質が十分に理解されていない。企業全体としてインテリジェンスの重要性に対する認識が確立されていない。

第三に、わが国のビジネスパーソンは、安全保障への関心や、地政学的リスクに対する意識が希薄である。中国の海洋進出、北朝鮮の核ミサイル問題、米中貿易戦争関連のニュース報道は盛んに行われるが、それらの政治リスクが企業経営にどのような影響を及ぼすのかまでブレークダウンして考える気風がない。

上述した問題点を是正していくことは容易ではありません。ですが、まずは官民がインテリジェンスの基礎理論などについて共通の認識を持ち、その理論の活用などに関する知見をともに高めることが必要だと、筆者は考えています。

わが国の情報史(22) 日露戦争におけるインテリジェンスの総括

わが国の情報活動に問題はなかったのか

日露戦争においてわが国は、日英同盟を背景とするグローバルな情報収集と的確な情勢判断によって、日露に対する世界の思惑を見誤ることなく、戦争前からの和平工作とあいまってロシアに辛勝した。

しかし、すべてのインテリジェンスに問題がなかったわけではない。  大江志乃夫氏は自著『日本の参謀本部』において、日露戦争における情報活動の問題点を以下のとおり指弾している。

◇「ドイツの大井中佐と英国の宇都宮中佐が軍源として活躍したが、総司令部がその情報を活用した形跡はあまりない。瀋陽会戦後の沙河の会戦の初期、黒溝台の会戦の際、宇都宮中佐及び大井中佐から、ロシア軍による兵力集中や大攻勢に関わる真相情報が総司令部に伝えられたにもかかわらず、総司令部はそれらの情報を無視した。

◇参謀本部第二部は韓国、清国に情報網を張り巡らしていたが、第二部の情報将校はロシア軍に関する知識と戦術的な判断能力にかけていたため、作戦情報の役に立たなかった。シベリア鉄道の輸送能力に関する情報は、判断資料たりえなかった。

◇ 作戦部は情報部の活動に信頼をおくことができず、作戦に必要な軍事情報 活動を作戦部自身がおこなうことになった。すなわち、情報活動は、情報部が行う謀略活動と作戦部が行う軍事情報活動に二分化し、作戦部は主観にもとづく情報無視の作戦を行い、作戦面における苦戦を招いた。作戦部系と情報部系の情報組織が対立して派閥争いまで演じ、情報作戦に反映されることを困難にした。

外務省の暗号がロシアに筒抜け

このほか、当時のわが国の暗号解読の能力は、西欧列強やロシアに比べて格段に劣り、ロシアの軍暗号や外交暗号は解読できなかった。逆に日本の外暗号は完全に解読されていたとの指摘がある。

開戦日の1904年2月6日、ペテルスブルクで栗野慎一朗公使がロシア外務省を訪れ、ラムズドルフ外相に国交断絶の公文書を手渡したとき(明石が同行)は、同外相は口を滑らして「ニコライ皇帝は日本が国交断絶をすることをすでに承知している」旨のことを述べたとされる。  

明石は日記のなかで、「ロシアは既に日本の暗号解読に成功し、この国交断絶の通告以前から、日本の企図の大部分はロシアに筒濡れであったものと判断する」と明記している(島貫『戦略・日露戦争』)。

パリの本野一郎公使によれば、日露戦争の前年、ロシアと本国との暗号通信がロシアの手に渡ったとされる。その事件現場はオランダの日本公使館であった。 在オランダの日本公使は独身であったので、ロシアの情報機関はロシア人美女をオランダ人と偽って女中として住み込ませた。

この女中が公使の熟睡中に、公使の机から合鍵を使って暗号書を盗み出し、それを諜報員に手渡し、諜報員が夜明けまでに写真を撮って、女性が暗号書を金庫に戻しておくという方法であった。 この方法により、五日間で暗号書の全ページを複写されてしまったのであるが、公使は盗まれたことを全く気づかなかったという。

この秘密は、暗号書を盗み出させたロシアの諜報主任が開戦直後、こともあろうに、パリの本野公使のところへ、それを五千フランで売りに来たことから発覚した。外務省は慌てて暗号書を更新し、それ以降、在外公館では特殊な金庫に保管させるようにした。

しかし、この新暗号も今度はフランス警察庁によって解読された。同警察庁の警視で片手間に暗号解読作業に従事していたアベルナが、たった二か月の作業で千六百ページにわたる日本外交暗号書のほとんどを再現した。親ロ中立国であったフランスはそのコピーを日露戦争後半にロシア側に手渡したという。

戦略情報は知る深さが重要

安全保障及び軍事の情報は、使用者と使用目的によって、戦略情報(戦略的インテリジェンス)と作戦情報(作戦的インテリジェンス)に区分できる。

前者は、国家戦略等の決定者が国家戦略等(政略、国家政策を含む)を決定するために使用し、後者は作戦指揮官が作戦・戦闘のために使用する。 両者にはインテリジェンスとしての共通性はあるが、その特性はやや異なる。

戦略情報では、「相手国がいかなる能力をもっているか」「いかなること意図を有しているか」「将来的にいかなる行動を取るのか」「中立国がどのような思惑を有しているか」、などを明らかにする必要がある。 だから時間をかけて、慎重に生情報(インフォメーション)を分析してインテリジェンスを生成する必要がある。戦略情報には「知る深さ」が必要といわれる所以である。

作戦情報は知る速さが重要

他方、作戦戦場では作戦指揮官は刻一刻と変化する状況を瞬時に判断して、意思決定をおこなわなくてはならない。したがって、作戦指揮官は完全なインテリジェンスを待っている余裕などない。だから、正確なインテリジェンスよりも、生情報の迅速かつ正確な伝達の方がより重要となる。すなわち作戦情報には「知る速さ」が求められる。

現代戦は双方の歩兵が徒歩前進して戦闘を交えるといった様相にならない。航空機、ミサイルなどが大量出現した。偵察衛星、航空機、無人機、地上監視レーダーなど、さまざまな敵状監視システムが開発された。また無線、衛星電話などの情報伝達機器も発達した。

これらにより、戦況速度は格段に速くなり、意思決定にはさらなる迅速性が求められるようになった。そこには敵の意図的な欺瞞や、我の錯誤が生じる。迅速性の要請から、戦場指揮官は様々な真偽錯綜の生情報から、戦闘の“勝ち目”を判断することが増えていく。つまり、独断専行が求められるのである。

かのクラウゼヴィツは、「戦争中に得られる情報の大部分は相互に矛盾しており、誤報はそれ以上に多く、その他のものとても何らかの意味で不確実だ。いってしまえばたいていの情報は間違っている」(『戦争論』)と述べている。 これは基本的には日露戦争当時も現代も変化はないということである。

「情報無視の独断専行」という一言で片づける傾向はいいのか

太平洋戦争における失敗の原因を「情報無視の独断専行」という一言で片づける傾向にある。政略・戦略の立案では、これは絶対に回避すべきである。回避することもできる。しかし、作戦・戦闘では必要な情報が入手できない、あるいは真偽錯綜する情報のなか独断専行的に作戦指導することもあるということである。 結果論で言えば、「おろかな無謀な戦い」ということになるが、致し方のない面もある。

戦略情報こそが重要

日露戦争においては「戦略情報が勝利した」といっても過言ではない。つまり、官・軍・民が一体となってグローバルな情報活動により、良質のインテリジェンスを生成して、それを「6分4分」の戦闘勝利で即時停戦という国家戦略に生かしたのである。

他方、戦術情報の面では、通信網などの組織化が不十分なために必要な情報を得られなかったなどという状況が、さまざまな局面で生起したことが伝えられている。また、大江氏の指摘するような問題点もあったのであろう。 つまり、日露戦争では作戦情報では問題もあったが、戦略情報では勝利した。太平洋戦争の敗因は、戦略情報と作戦情報の両方の失敗である。ここが違っていた。

戦略情報が成功すれば、作戦情報の失敗は挽回できる。しかし、戦略情報が失敗すれば、作戦情報が成功しても意味はない。作戦情報の成功が、誤った戦略の遂行を助長し、やがては墓穴を掘ることにもなりかねない。

日清・日露戦争においては、日英同盟にもとづくグローバルな情報収集体制と、獲得した情報をインテリジェンスに昇華させる国家・軍事指導者の国際感覚と戦略眼があった。無謀な泥沼戦争に突入させないために、戦争の潮時を心得ていた。このことは現代日本にとっての重要な教訓である。

昨今、中国の台頭、北朝鮮の暴走、ロシアの不透明な行動などが安全保障上の脅威になっている。こうしたなか、わが国が進路を誤ることなく、万一の侵略事態に適切に対応するためには、安全保障・軍事常識に裏打ちされた戦略情報が不可欠である。 是非とも、国家を挙げての戦略情報を強化していただきたいし、今日、陸上自衛隊(かつての調査学校は廃止となり、戦略情報課程はなくなった。現在の新設の情報学校は作戦情報にほぼ特化している)にもこのことを申し述べたい。  

情報と作戦の分化の問題

明治期の参謀本部の沿革をみるに、情報と作戦の分離独立という問題にはいろいろと紆余曲折があったようである。 日露戦争では、満州軍司令部の作戦課と情報課を分離独立したが、松川敏胤作戦課長は部下の田中義一少佐(後の首相)の進言を受け入れ、満州・朝鮮の作戦地域における情報活動は作戦課で担当することを主張した。 作戦課の情報活動は、敵情に関する詳細な情報を収集しその活躍は明治天皇に上奏され、感状まで授けられた(柏原『インテリジェンス入門』)。

しかし、ここでは情報将校に松川系と福島(安正)系の両派が生じ、暗闘、反目するという結果を生んだという。 松川派は「福島派の情報など、しょせん馬賊情報に過ぎない。戦術眼のない馬賊のもたらした情報など、およそ不正確でタイミングも遅すぎ、とても作戦の役に立たないと」主張した。福島派も「諜報には長い経験が必要なのだ。速成の情報将校が役に立つか」と反発した。 その結果、日本軍の情報には、拮抗する二種類が存在することになり、状況判断の上で混乱が生じる一因ともなった、という。

よく、「情報部が作戦部から独立しないことの弊害は、とかく作戦担当者が、自ら策案した作戦に都合がいいような情報ばかりを選択して、主観的で独りよがりなものになりがちな傾向を生むことである」とされる。よって「組織構造から、情報部と作戦部は分離されるのが望ましい」とされている。

この主張は戦略レベルではまったく異論がない。戦略情報の作成には歴史観に裏打ちされた情報分析力や国情情勢に対する専門的知識などが不可欠である。いくら偵察衛星やシギント(通信情報)機能が発達したからといっても、敵対国の意図までは洞察できない。それらの解明には、情報部署に所属する専門の情報分析官の力が必要である。まさに「諜報には長い経験が必要だ」との福島派の言葉が身にしみる。

また、「インテリジェンスの政治化」(※)という問題もある。仮に、作戦部がインテリジェンスを独自に生成するとなれば、作戦部は作戦指揮官の作戦構想に合致したインテリジェンスを提供する傾向が強まり、インテリジェンスの客観性は失われる。

しかし、作戦戦場における作戦・戦術レベルでは、第一線部隊を指揮する作戦部がもっとも最新の状況を認知しているのが通常である。無人機やレーダーなどの戦場監視機器が発達し、それを管理・運用する者の専門的知識も必要ではあるが、戦略レベルの情報分析官のような長年の経験と広範な知識の蓄積は必要とされない。基本的には、あったこと、見たことを、諸元にもとづいて処理すればよいのである。

しかも、上述のように、現代戦は戦況速度が格段に速まり、戦場監視がデジタル化している。 つまり、戦場では過去にもまして、作戦部と情報部の垣根がなくなっている。作戦指揮官がインフォメーションに基づき、独断専行的に意思決定を行い、作戦部にその実行を命じるという状況が増えると考えられる。

日露戦争後の軍事の流れのなかで、情報部門と作戦部門の未分化が作戦部門の唯我独尊、自閉的集団化を引き起こし、ノモンハン事件以降はまったくの情報軽視が生起して、それが太平洋戦争の敗北に向かったという。

しかし筆者は情報と作戦の分化という問題は、戦略レベルと作戦・戦術レペルに分けて、よくよく考える必要があると考える。 実務においては、通り一遍の情報と作戦の分化論は危険である。

作戦戦場における情報部門の独立、すなわち現在の陸上自衛隊の情報科の新編独立(2010年3月26日、陸上自衛隊に情報科職種が新設)についても、この日露戦争の戦史をひも解き、問題点を創造的に見出し、改善していくことが必要であると考える。

(※)インテリジェンスの政治化 政策決定者がその政策や好みに合致した情報を出すよう圧力、誘導をし、情報機関の側にも権力におもねって、それに取り入ろうとする動き。情報分析官個人が自分の利益のために政策決定者が好むインテリジェンスを意識、無意識に生成することなどをいう。

謀略の問題

前出の大江氏は、「情報操作・情勢作為によって自己の政治的地位を高めてきた山県(有朋)のもとで育った情報将校たちは、正確な軍事情報の入手よりも、情勢を作為するための謀略に重きを置く傾向を強めた」と厳しく指弾している。

この問題についても、筆者の私見を述べたい。 明石工作については、最近の戦史研究によって明石の自著『落花流水』には相当の事実相違があることが判明している。 稲葉千晴氏が北欧の研究者として共同して行った最近の歴史検証では、「明石の大半の工作は失敗に終わった」とされている。 稲葉氏は「明石がおこなった反ツァーリ抵抗諸党への援助は、ロシア1905年革命に、そしてツァーリ政府の弱体化に、ほとんど影響を及ぼしていない。勿論、日露戦争での日本の勝利とはまったく結びつかなかったのである。」(稲葉千晴『明石工作』)と述べている。

稲葉氏の緻密な研究成果に異を唱えるものではないが、謀略の成果があったのか、なかったのかを検証するという作業には非常に困難性がともなうと考える。それを断定的に述べることは学問では是とされても、それを実務に取り入れることには注意が必要だと考える。

作家の佐藤優氏は、稲葉氏の研究資料となったパヴロフ・ペトロフ共著[左近毅訳]『日露戦争の秘密-ロシア側資料で明るみに出た諜報戦の内幕』(成文社、1994年)について、「そもそもロシア側の原資料は、明石工作はたいして意味がなかったというように情報操作している」と指摘している。

もちろん、これも佐藤氏の思い込みだと排斥することも可能であるが、諜報・謀略の世界では情報操作は当たり前である。日本軍のマニュアルにも謀略宣伝のやり方が書かれていたし、英国の首相チャーチルが国家的な謀略に手を染めていたこともほぼ明らかとなっている。

筆者は、次のことにも付言したい。謀略は心理戦の様相が大勢を占めるということである。つまり、緻密な歴史研究をもってしても、いかなる経緯や事象が民衆心理に対して、どの程度の影響をもたらしたのかなどは解明が困難であるということである。

暴動やパニックは一つの嘘から引き起こされる場合もある。この嘘が偶然だったのか、それとも情報機関が周到に仕組んだ偽情報だったのかは知る由もない。現在のテロが起こるたびに、ISは犯行声明を発出するがその関係性もよくわからない。ただし、ITCによって心理面の影響を受けている可能性は否定できない。 だから、謀略やテロといった代物は、因果関係が立証できなくても、因果を一応の前提として、その対処を研究する必要があるのである。

日露戦争後、日本は謀略を組織的に管理するという方向に向かわなかった。昭和初期まで諜報、謀略を担当する部署はまったくの小所帯であった。 参謀本部第5課第4班でやっと謀略を扱うようになったのは1926年(大正14年)末のことである。 参謀本部に謀略課(第8課)が設置されたのは支那事変後の1937年10月である。

謀略によって泥沼の日中戦争に向かい太平洋戦争に敗北したとする、のであればそれは謀略自体を悪と決めつけることによってのみ問題を解決するのは一面的である。むしろ適切に謀略を管理する組織体制がなかったことに問題の所在をおくべきだと考える。 

今日、「専守防衛」を基本とするわが国には、日露戦争当時に明石工作や青木工作のような謀略は不向きである。しかしながら、南京事件などをみるにつけ、中国が謀略、宣伝戦を仕掛けていると思われる節がいくつもみえる。 謀略を阻止するという観点からも、軍事部門を司る組織において、謀略の研究がなされる必要はあると考える。

AI環境下での自衛隊における要員確保の道は!

わが国は少子高齢化にまい進中

日本は2010年から有史以来初の人口減少に向かい始めたようです。少子化の方は、それよりもずっと早くから始まっていました。しかし、医療技術の発達や栄養状態の改善、健康指導などによって長寿化が進み、それが人口減少を食い止めていました。  つまり、少子高齢化は2010年のずっと前から始まっていました。

人口減少の傾向は、2010年の1億2806万人が、2040年には1億728万人になると推測されています。

また65歳以上の高齢者が社会全体に占める割合は、2010年には23%であったが、2035年には33%を超えて3人に1人が高齢者となります。2042年には高齢者3878万人でピークを迎えますが、高齢者率はその後も増え続け、2060年には約40%に達すると予測されます。

このようにわが国は少子高齢化に向かって進んでいますが、高齢化の波を押しとどめることは道徳的、倫理的な観点から不可能です。だから、少子化の対策、すなわち、出生率を上げることが喫緊の課題となっています。

少子高齢化は労働人口不足を招く

少子高齢化は、都市への人口集中と地方の空洞化などの副次的な影響をもたらしますが、なんといっても最大の問題点は労働市場における人手不足です。 この対策には、女性の雇用、高齢者の雇用、外国人労働者の雇用、そしてAIの雇用などの対策があげられています。 しかし、女性の雇用を進む一方で、子育て支援といった政府対策、男性の育児休暇などの職場の理解がなければ、さらなる少子化の原因となります。つまり、負のフィード・バック・ループに陥ることになります。

高齢者の雇用については、確かに50年前の65歳と現在の65歳を比べるのは問題ですが、そうはいっても企業側としては健康面でのリスクを抱えることになります。ましてや、防衛・消防・警察といった面においては、一部のスーパー高齢者は別にして、有事を想定した場合も60歳以上を正規雇用するなどといったことは筆者の経験からして「あり得ない」と考えます。

外国人労働者あるいは移民政策についても、治安問題、社会における受け入れ体制、言葉の障碍など、早急には改善できない問題が山積しています。先に移民政策を取ったヨーロッパにおいては、移民政策が誘因となるテロなども問題となっています。

AIの導入如何によっては、世の中の労働市場は高度専門技術者と肉体労働者を残し、今日の大部分を占める中間層の事務・管理などの業務は淘汰されるとされています。 これら中間層のほとんどは肉体労働に向かうしかない、といわれています。

しかし、問題は中間層が自分の能力を過大評価している点です。つまり、多くの中間層がうまくシフトができないで、無職になって世捨て人になってしまう可能性があります。 かつての蒸気機関の発明による産業革命時期のように、労働者による暴動が起こる可能性も懸念されるわけです。    

自衛隊の要員確保が深刻な問題

さて、世の中が、こういう状況に移っているのですから、自衛隊における要員確保が困難になっているのも頷けます。

他方、世界秩序の多極化、経済を中心としたグローバル化、ITの拡大により、わが国周辺では中国の覇権主義的な台頭が起こり、世界各地では地域紛争、民主化デモやテロ活動の兆しが生起しています。このため、わが国の防衛、警備上のニーズは将来的にさらに高まる事が予想されます。
 

また世界的規模で進む気候変動が、風水、津波被害を頻発させることが予見され、このことが防衛上の所要を高めるとみられます。。

このように将来的に防衛・警備の所要が増大する中、自衛隊の募集は困窮を極めています。そこで、防衛省は新隊員の採用年限を32歳まで引き上げるなどの応急策を取ろうとしていますが、はたして、どうなることでしょうか?これが、どのような悪影響を及ぼすかについては、あまり検討されていないようです。

幹部自衛官の処遇は他の公務員よりも悪い!


私の娘は地方公務員です。8年前に陸上自衛隊の幹部候補生にも合格しました。入隊を進めましたが、自衛隊の幹部候補生は生涯賃金などを他の公務員と比較したら、高卒対象の初級職公務員より待遇が悪い、という評価のようです。それを言われると、納得せざるを得ません。 

私も55歳で自衛隊を定年退職しましたが、幹部自衛官といっても2佐以下であれば、損保、警備職がほとんどです。年収は半分以下になり、自衛隊で修得した指揮・運用能力の活用などは望めません。

かつての自衛隊は60歳から共済年金が支給されていましたが現在は65歳です。つまり、10年間は新たな職業によって生活を保持し続けなければなりません。ここで、一般公務員との待遇格差が生じることになります。

また、ほとんどの幹部自衛官は高度専門職ではなく、どちらかといえば事務・管理職です。だから、AIが導入されれば、ますます潰しが効かず、再就職には不利です。 しかも、自衛隊は秘密保全などの理由から、積極的に外部社会と関わる環境を推進しているとは言い難い状況にあります。 つまり、人脈を増やしたり、他の領域においてスキルアップができる有利な環境にあるとはいえません。

一般社会のどの階層と比較するのかという問題はありますが、少なくとも一般幹部候補生を、他の大卒の一般公務員と比較した場合、その処遇は見劣りするといってよいでしょう。

それでも自衛隊に入隊するとしたら国民からの信頼と誇りが支えとなります。今日の自衛隊は災害派遣などで国民から高い信頼と評価を受けています。これは防衛基盤の育成としては重要なことですが、災害派遣のために自衛隊を選択する者はほとんどいません。あくまでも、他国の侵略やその他の脅威から国民の生命・財産を国防という第一義的任務を全うすることを誇りに入隊します。

一般自衛官の処遇改善が急務

幹部自衛官がこのような状況ですから、ましてや一般の自衛官の募集はさらに困難でしょう。それに加え、これからIT社会、AI導入により、自衛隊の職場環境や、未来の戦場環境は変わってきます。

ますます質の高い要因の確保が求められますが、高質の要員を確保・育成するためには処遇改善が不可欠です。つまり、 職場環境や居住環境の改善が必要不可欠です。現代青年に不可欠な隊員個室、ワイファイ環境、こういった整備を整えなければ現代青年は定着しません。そして、AI環境下における戦士の育成はできません。

私の現役時代、厳しい生活環境で隊員を鍛えるといった上級指導者がいましたが、時代錯誤です。生活環境はゆとりを、訓練は厳しく、そのメリハリが重要であることは、米軍、ドイツ軍などでは伝統的になっています。

かりに一般社会に先駆けて、ドローン操縦、自動運転などの技術が修得できるとすれば、それは新たな魅力になるかもしれません。一般社会とは違う、先験的な魅力化政策と、処遇改善、それが要員確保の本質であると考えます。

わが国の情報史(21) 日露戦争の勝利の要因その3 -諜報・謀略工作-

大橋武夫氏による日露戦争の6つの勝因

兵法家の大橋武夫氏は、日露戦争の勝利の要因を(1)英国との同盟(1902年) (2)開戦から始められた金子堅太郎の終戦工作 (3)高橋是清の資金獲得とロシアに対する資金枯渇  (4)明石元二郎(大佐)の謀略工作 (5)特務機関の活動(青木宣純) (6)奉天会戦、日本海海戦の勝利 と総括している。以下、(4)と(5)を中心に考察したい。

明石大佐による諜報網の構築

明石元二郎は1864年に福岡藩で生まれ、陸軍大学を卒業後、ドイツ留学など を経て、フランス、ロシアで公館付陸軍武官などを歴任した。日露戦争後は台湾総督を歴任し、最終的には陸軍大将になった。

明石は1901年にフランス公館付武官として赴任、1902年にロシアのサンクトペテルブルクに転任し、その後、ロシアの膨脹主義に反発するスウェーデンに駐在武官として移動した。同地にて旧軍の特務機関の草分け的存在である「明石機関」を設置し、ロシア国内の反体制派「ボルシェビキ」への活動を支援した。

1904年1月12日の御前会議で戦争準備の開始が決定されると、児玉源太郎参謀次長は、駐ペテルスブルク公使館付陸軍武官の明石元次郎(当時、中佐)に対し、ロシアの主要都市に非ロシア系外国人の情報提供者を獲得するよう命じた。

明石大佐は日露戦争では参謀本部からの工作資金100万円を活用し、地下組織のボスであるシリヤクスと連携し、豊富な資金を反ロシア勢力にばら撒き、反帝勢力を扇動し、日露戦争の勝利に貢献したとされる。 当時の国家予算が2億5000万であったことから、渡された工作資金は単純計算では現在の2000億円を越える額となり、明石の活動に国家的支持が与えられていたことがうかがえる。  

明石の活動について、児玉の後の参謀次長である長岡外史は、「明石の活躍は陸軍10個師団に相当する」と評し、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世も、「明石元二郎一人で、満州の日本軍20万人に匹敵する戦果を上げている。」と言って称えたと紹介する文献もある。

また一説には、明石がレーニンと会談し、レーニンが率いる社会主義運動に日本政府が資金援助することを申し出たことや、明石の工作が内務大臣プレーヴェの暗殺、血の日曜日事件、戦艦ポチョムキンの叛乱等に関与し、後のロシア革命の成功へと繋がっていったとされる。

さらに、レーニンが「日本の明石大佐には本当に感謝している。感謝状を出したいほどである。」と述べたとの説もある。 ただし、こうした明石の活動は、明石自身が著した『落花流水』や、司馬遼太郎が執筆した小説『坂の上の雲』によるいささか誇張的な評価がもたらしたようである。

稲葉千晴氏は、『明石工作』(丸善ライブラリー、平成7年5月)において、明石がレーニンに会談した事実や、レーニンが上記のような発言を行った事実は確認されていない、と結論付けた。 また、稲葉氏によれば、現地でも日本のような説は流布していないことが示された上、ロシア帝国の公安警察であるオフラナが明石の行動確認をしており、大半の工作は失敗に終わっていたとされる。

一方で稲葉氏は、工作(謀略)活動の成果については否定するものの、日露戦争における欧州での日本の情報活動が組織的になされていたことに注目している。その中で明石の収集した情報が量と質で優れていたことについて評価している。 稲葉氏によれば、明石による諜報網の構築は、現地の警察当局のきびしい監視によって阻まれるが、日露開戦までに明石は少なくとも三名のスパイを獲得することに成功した。

明石の諜報網が日露戦争の終戦まで維持されたこと、明石がロシア革命諸党の扇動工作(謀略工作)に着手することが容認されたことは、すくなくとも明石の設置した諜報が無用ではなかったことの証であるといえよう。 また明石の謀略工作は陸軍中野学校の授業でも題材として取り上げられるなど、当時の日本軍の秘密工作に大きな影響を及ぼしたことは間違いない。

青木大佐による諜報網の構築

日本が満州において、ロシア軍に勝利するためには、戦場でロシア軍に上回る戦力集中しなければならない。そのためには、極東ロシア軍の総戦力を正確に判定することが必要となる。

満州軍総司令部は、敵陣奥深くに蝶者や斥候を派遣するとともに、欧州駐在の陸軍武官に命じて、唯一の兵站線であるシベリア鉄道の兵員、物資の輸送量を把握することに決した。 参謀次長・児玉源太郎は、日露戦争が早晩開戦を迎えることは必至と判断し、主戦場となる北支方面の守備を強化する必要性を認識した。

そこで、児玉が参謀本部作戦部長の福島安正に相談したところ、袁世凱を説得できる人物として青木宣純(あおきのりずみ、1859~1924)が推薦された。 青木は1897年から90年にかけて、清国公使館付武官として天津に赴き、ここで袁世凱の要請で軍事顧問に就任し、袁との信頼関係を構築していたのである。

1904年7月、青木は満州軍総司令部附として北京に派遣された。青木は、北京で特別任務班を組織し、袁の配列下にある呉佩孚(ごはいふ)を動かして満洲とシベリアの国境一帯に諜報網を組織してロシア軍の動向を監視した。 こうして得られた情報は、青木の後任として袁世凱の軍事顧問の任にあたった坂西利八郎(ばんざいりはちろう)大佐を通じて、天津駐屯地司令官の仙波太郎少将に手渡され、そこから東京の参謀本部に転送されていった。

石光真清らの活躍

このほか日露戦争においては、「花大人」こと花田仲之助(はなだちゅうのすけ、1860~1945)中佐が、本願寺の僧侶となって1897年にウララジオストクに潜伏、日露戦争時には満洲に潜入し、スパイ活動に従事した。

石光真清(いしみつまきよ,1868~1942)大尉は陸軍士官学校を卒業したものの軍人を退職し、一般人の菊池正三に変装して1899年にシベリアに渡り、スパイ活動に従事した。石光は花田帰国後のシベリアの諜報活動において活躍したのである。

このほか民間人としては、日清戦争時に従軍記者として活動した横川省三(※(よこかわしょうぞう、1865~1904)が日露戦争の開戦にあたって、清国公使の内田康哉(うちだこうさい、のちの外務大臣)に誘われ、特別任務班第六班班長となり、沖禎介(おきていすけ)とともにスパイ活動に従事した。横川はロシア軍の輸送鉄道の爆破を試み、ラマ僧に変装して満洲に潜伏するが、ハルビンで捕らわれ、1904年に銃殺刑となった。

旧軍随一の女性スパイ「河原操子」

こうした日本軍の特務活動において、河原操子(かわはらみさこ、1875~1945)が多大な活躍をした。

大本営は青木宣純大佐を長とする諜報謀略機関の特別任務班(計71人)を北京に配置し、次の任務を与えた。 一、日支(日本、中国)協力して敵状をさぐる。 二、敵軍背後の交通線を破壊する。 三、馬賊集団を使って敵の側背(そくはい)を脅威する。

この特別任務班はロシア軍の側背地域を広く、そして縦横に活躍しているが、その足跡をたどってみると、各班の多くが内蒙古の喀喇沁(カラチン)王府(北京東北二五〇キロ、承徳と赤峯の中間)を経由しているのが目をひく。(大橋武夫『統帥綱領』) なぜならカラチンの宮廷には河原操子がいたからである。

彼女は1875(明治八)年、信州(長野県)松本市で旧松本藩士・河原忠の長女として生まれた。父親は明治維新後、私塾を開き漢学を教えていた。父の忠と福島安正は幼なじみという関係にある。  

長野県師範学校女子部を卒業したあと、東京女子高等師範学校(現在のお茶の水女子大学)に入学したが、病のため翌年中退し帰郷した。1899年に長野県立高等女学校教諭になるが、清国女子教育に従事したいと思うようになった。

1900年夏、実践女子学園の創設者で教育界の重鎮である下田歌子が信濃毎日新聞を訪れた時、操子は下田に「日支親善」のために清国女子教育への希望を申し述べた。

1900年9月、下田歌子の推薦により、操子は横浜の在日清国人教育機関「大同学校」の教師となった。ここで二年間の教師生活を終えて、操子は上海の務本(ウーベン)女学堂に赴任した。ここでは彼女は「生徒と起居を共にしてこそ教育がなせる」との信念のもと、女学堂の衛生環境の改善に取り組みつつ、女生徒の指導に力を尽くしたのである。

1902年の内国勧業博覧会を視察したカラチン王より、カラチンで女子教育にあたるべき日本女性の招聘が要請された。操子の上海での勤務ぶりに注目していた内田公使が、1903年に内蒙古カラチンに初めて開設された女学校「毓正(いくせい)女学堂」の教師として、彼女を派遣した。

操子は1903年12月、驢馬の旅を九日間続けて、カラチンに赴任した。カラチン王府は、操子の手になる毓正女学堂を支援し、王妹と後宮(こうぐう)の侍女、官吏の子女を学ばせた。女学堂の校長は王妃善坤であり、彼女は粛親王善耆(川島芳子の父)の妹だった。 王妃の授助もあり、女学堂はやがて60人の生徒を数えるまでになる。

学科は、読書、日本語、算術、歴史、習字、図画、編物、唱歌(日本、蒙歌)、体操で、読書は日本語、蒙古語、漢語からなっていた。操子は地理、歴史、習字の一部を除き、その他の全教科を受け持った。 

1907年まで毓正女学堂で教鞭をとり、あとの女子教育を鳥居きみ子(夫は考古学者の鳥居龍蔵)に託し、日露戦後の1906年2月に帰国。帰国の際には女学堂の生徒三人を連れ、実践女子学園に留学させている。

帰国後、横浜正金銀行ニューヨーク副支店長の一宮鈴太郎と結婚し渡米。1945年に熱海市で死去した。

操子のカラチン赴任には、内蒙古の戦略的要衝の地に親日勢力を扶植(ふしょく)する、日本人が常駐せずに生じていた工作網の間隙を埋めるという日本側の思惑があった。その赴任には北京からカラチンまでの沿道地図を作成するために参謀本部の軍人が同道していたように、国家の密命をおびた派遣であった。

日清戦争後の三国干渉によって日本を譲歩させたロシアは、満洲に軍事力を展開し、さらには朝鮮半島に触手を伸ばし始めていた。それに対し、日本はロシアのライバルであるイギリスとの同盟締結に成功してロシアに備えた。 

日露戦争が迫り来る過程で、内蒙古にもロシアの手が伸びていたが、日本を訪れたことのあるカラチン王だけは日本に好意的であった。カラチンには日本の軍事顧問も派遣されていたが、戦争が勃発すれば武官の滞在は認められない。そこで、粛親王の顧問を務める川島浪速(かわしまなにわ、1866〜1945)や陸軍の福島安正ら松本の同郷人の思惑が内田公使を動かし、カラチンに民間人の操子を派遣することになった次第である。

操子は教育活動とは別に、カラチン王府内の親露勢力の動向を探る「沈」としての使命を果している。諜報・秘密工作の使命を受けた横川省三などは途中カラチンに立ち寄り、その際は操子が彼らの世話をした。それぞれ潜入中の特別任務班員とのやりとりは、王府内に親露派が多くいたので苦心があった。

中国名での秘密の情報交換ほか、操子はカラチン王夫妻にも守られ任務を果たすことができた。 操子は、この頃続々と入り込むロシア工作員たちの猛烈な働きかけを排して、カラチンの親日政策を守りとおし、常にロシア軍の動静を北京に報告するとともに(彼女には文才があった)、この地を経由する特別任務班員に対し、物心両面にわたる非常な援助を与えた。(大橋武夫『統帥綱領』)

愛国心の泉「からゆきさん」  

そのほか日清・日露戦争時期においては、東アジア・東南アジアに渡って娼婦として働いた日本人女性「からゆきさん」が、日本軍の貴重な情報源となった。  

日露戦争では、マダガスカルに入ったバルチック艦隊の所在を電報で送ったのも遠い異国に送られた「からゆきさん」であったという。マラッカ海峡を四十数隻のバルチック艦隊が通過しているのを見て、「からゆきさん」たちは現地領事館に駆け込み、金銭、着物、かんざしなどを提供し、「お国のために使って下さい」と言ったという逸話もある。

前出の石光真清は1899年にシベリアに渡り、90年2月、寄宿先のコザック連帯騎兵大尉ポポフにともなわれて愛暉に入り、そこで諜報活動の得難い担い手となる水野花(お花)と出会う。彼女は馬賊の頭目の妾であった。

ハルビンに潜入する際には、お君という女性の計らいで馬賊の頭目増世策に会い、その手引きで中国人の洗濯夫人に化けてハルビンに到着した。 彼女たちは「シベリアのからゆきさん」で、1883(明治16)年ごろにウラジオストクに現れたという。九州天草地方の出身者が多く、その数は増えていった。

お花とお君も馬賊の頭目の妾などとなっていたが、二人とも中国語、変装術、人事掌握術など、どれをとっても天下一品であった。やがて彼女たちは石光真清のスパイ活動に協力して大活躍する。そこには馬賊に対するむごい仕打ちを行なったロシア軍への反感と、故郷日本に対する愛国心が満ち溢れていた。 彼女たちの交流は石光真清の自伝『曠野の花―石光真清の手記2』に詳述されている。

このように日清・日露戦争においては、名もない女性たちの活躍があった。彼女たちは出自に恵まれず、高等教育を受ける機会もなく、貧乏がゆえに親元を離れて遠い異国に渡ったが、日本を愛していた。故国のためなら犠牲もいとわず、その愛国心の泉はいつも満ち溢れていたのである。