はじめに
今回は中国による統一戦線工作に基づく対日工作の歴史を語ります。なお、全体像を理解する上では、拙著『中国が仕掛けるインテリジェンス戦争』をお読みいただければと思います。
中国の今日の国家戦略・戦術を理解するためには、最低限、中国共産党の歴史については押さえておくことが必要であると、筆者は考えます。
▼統一戦線はソ連共産党の基本理念
1917年11月、ホルシェビキは武力蜂起によって、権力を奪取しました(十月革命、この11月7日が、ロシア革命記念日)。 同日には最初のソビエト大会が開催され、政府である人民委員会議が成立、その議長(首相)にはウラジーミル・レーニン、外務人民委員にはレフ・トロツキー、民族問題人民委員にヨシフ・スターリンが就任します。
ソビエト政権はモスクワ近郊を制圧し、11月10日には左派社会革命党を政権に取り込みます。ここに統一戦線戦術の萌芽がみられます。そして、ボリシェヴィキは1919年に「共産党」に改称します。
1919年3月には、国際的な共産主義運動を指導する共産主義インターナショナル。コミンテルンが結成されます。これが、世界革命を指導する機関として動くことになります。 1921年のコミンテルン第3回大会において統一戦線が論議され、1922年の第4回で統一戦線が方針化します。
しかし、その後の革命輸出における進展は思わしくなく、やがて「世界革命近し」という情勢認識から、革命情勢の成熟には長い時間が必要だとの認識に変化します。そして1935年7月から8月にかけての第7回大会で、コミンテルンは「反ファシズム人民統一戦線を結成すべきである」という方針を打ち出しました。
つまり、ドイツにおけるナチスなどのファシズム(全体主義)の台頭とアジアにおける日本軍国主義による中国侵略に対し、共産党が単独で対決するのではなく、社会党や社会民主党、自由主義者、知識人、宗教家などあらゆる勢力と協力せよ、命じたのです。
この方針にもとづいて、フランスやスペインに人民戦線が結成されます。またアジアでは、中国共産党がこの路線に基づき、1935年8月の長征途中「抗日救国のため全国同胞に告げる書」という『八一宣言』を発表しました。これは、抗日民族統一戦線の結成を国民党などに呼びかけたものです。
このコミンテルンの動きを警戒した日本とドイツは1936年11月に日独防共協定を締結します。すなわち戦前のわが国は、統一戦線を明確な脅威と認識したのです。
▼中国共産党の統一戦線の歴史
1921年に産声を上げた中国共産党は、吹けば飛ぶような、ちっぽけな存在でした。だから、中国共産党は国民党に対して浸透工作をはかり、その内部を分裂させ、同調する者をシンパとして取り込むことで生存を維持するしかありません。
上述のように、コミンテルンの方針にもとづいて中国共産党1935年8月に八・一宣言を出し、抗日民族統一戦線の結成を国民党などに呼びかけます。 この方針が具体化されたのが1936年12月の西安事件です。中国共産党はこの事件を契機に、内戦停止と一致抗日で国民党と合意(第二次国共合作)しました。つまり、当面の主敵である日本軍を崩壊させるために国民党を友として結集したのです。
この一致抗日によって統一戦線に基づく対日工作が本格化します。1938年11月、毛沢東は「中国人、日本人、朝鮮、台湾人の統一戦線を設立し、日本軍国主義に対する共通の闘争を行う」との方針を決議します。
この方針が八露軍総政治部隷下の敵軍工作部に伝えられ、同工作部は日本兵捕虜を友人として扱い、自ら反戦陣営に転向させるよう画策しました。 日本軍捕虜扱いの基本方針は「日本兵は虐げられた大衆の子弟であり、日本の軍閥や財閥に騙され、強制されて我々に銃を向けているのである。したがって、いかなる殺傷ないし侮辱を行ってはならず、人道的に扱う」というものでした。
こうして人道的に扱われた捕虜のなかから自発的に反日組織が各地に続々誕生しました。これは、「少数の軍国主義と大多数の日本人民を区別せよ」とする「二分法」という戦術であり、「統一戦線」理論にもとづくものでありました。
以上をまとめますと、共産党が生存・発展していくなかでは周恩来らがソ連共産党の対外機関であるコミンテルンから学んだ統一戦線の実践がありました。それは政権を奪取する過程において巨大敵を駆逐・崩壊させるため、我が方の味方を固める、自己にとっての主敵をまず孤立・分立させて主敵から分離した者を友として広範囲に結集しようとするものです。
コミンテルンの戦術を、毛沢東が中国の実情を踏まえ、より洗練化したのが中国共産党の統一戦線工作だといえます。
▼統一戦線を支えた宣伝工作と「田中上奏文」
「統一戦線」を進めるための戦術となったのが宣伝工作です。中国共産党が国民党や地方軍閥に勝利するためには、あらゆる地位、階級、党派の区別なく「統一戦線」を結成する必要がありました。 そのため全民族の結集力を高めるための宣伝工作が重視されました。毛沢東は「全て政権を覆す者は、世論をつくり、イデオロギー面での工作を行わなければならない」と、その重要性を強調しています。
中国共産党による宣伝工作で無視できないのが、田中上奏文(たなかじょうそうぶん)です。これは昭和初期に米国で発表され、中国を中心として流布した怪文書です。 これは、第26代内閣総理大臣・田中義一が1927(昭和2年)に昭和天皇へ極秘に行った上奏文であるとされ、そこには中国侵略・世界征服の手がかりとして満蒙を征服する手順が説明されています。
日本では偽書とされ、当時中国で流布していることに対して中国政府に抗議したところ、中国政府は機関紙で真実の文書ではないと報じました。しかし、その後の日中関係悪化にともない1930年代に、中国は 「田中上奏文」たるもの利用して「日本は満州侵略を企図し、世界征服を計画している」との反日宣伝工作を展開しました。
この反日宣伝を展開したのが国民党中央宣伝部です。しかし、実はこれを背後で利用・画策していたのが中国共産党であるとの説が強いのです。 前述の1938年の『八一宣言』のなかで「田中上奏文によって予定された、完全に我が国を滅亡しようという悪辣な計画は、まさに着々と実行されつつある」との国際宣伝に打って出ました。
この対日宣伝工作では郭沫若が重要な役割を演じました。郭は日本に留学していましたが、1937年に日中戦争が始まると中国に緊急帰国し、南京大虐殺を世に知らしめたティンパーリ著『戦争とは何か』の中国版の序文を書きました。文化人で著名な郭が序文を書いたことで、同著は北米における反日世論の形成に大いに貢献しました。
郭の緊急帰国に際しては駐日中国大使館参事官の王梵生が協力しました。王は国民党系列に属する「国際問題研究所」の所長として対日工作を仕切っていたのですが、なんと、彼は隠れ共産党員であったとされています。これが、背後で中国共産党が国際反日宣伝を展開していた、との説を裏付けているようです。
▼日本に対する統一戦線工作
中国共産党による対日工作は、コミンテルンの弟弟子である日本共産党と連携しておこなわれました。その中心人物が日本共産党の野坂参三です。 野坂は1940年3月にモスクワから延安に移転し、そこで毛沢東と合流しました。
同年7月、野坂は中国共産党の支援を受けて「日本人民反戦同盟」の延安支部を結成し、これを起点に1944年4月には日本人による初の反戦組織である「日本人民解放連盟」を結成しました。同連盟は兵士向けの反戦宣伝ビラの作成・配布、心理戦の研究・教育などをおこないました。
中国共産党による反日宣伝工作は敵軍工作部によって行われました。敵軍工作部は、日本軍の切り崩しのための宣伝工作が執拗 におこないました。 敵軍工作部は、活字が読めない一般大衆や、中国共産党報道機関の活動を厳しく弾圧する日本軍占領地域に対してラジオ放送を重視しました。
そのため、1941年12月30日、中国共産党は延安新華広播電台を設立しました。これが、反日宣伝のための重要な拠点となりました。 ここでは野坂らの指導を受けた日本人女性などが雇用され、日本語で反戦を促す抗日反戦宣伝放送が行なわれたのです。
▼戦後における国際統一戦線の展開
日本軍降伏後は再び国民党を敵にし、広範囲に反蒋介石の「統一戦線」を結成し、国民党に勝利しました。 いわば主敵を潰すためならば、協力できるものならば誰とでも共闘するという戦略・戦術なのです。
このような発想が建国後の中国の外交政策に活用されました。これが「統一戦線」の国際版である「国際統一戦線」です。中国はまず「向ソ一辺倒」政策を打ち出し、ソ連を「友」とし、米国を最大の「敵」としました。
毛沢東はアジア、アフリカ、南米を米帝国主義と社会主義陣営の中間に位置する「中間地帯」に分類し、これに対する「統一戦線」を展開しました。つまり「中間地帯」に対して共産主義革命を輸出し、同地帯において「中国の友」を作ることで、米ソによる中国侵攻を阻止する緩衝地帯にしようとしたのです。
▼日本に対する革命輸出
日本も「中間地帯」に位置づけられました。1950~60年代、中国共産党は日本共産党、日本社会党などの親中政党を「友」とし、日本における共産主義革命を推進するための工作活動を展開したのです。
その革命輸出のための当初の担い手となったのが野坂です。野坂は1946年に帰国しますが、「統一戦線」理論を日本に持ち帰りました。 そして、日本社会党などと党派を超えた民主戦線の樹立を画策しました。つまり、これが、現在の日本共産党が行っている民主連合政府の樹立に向けた、統一戦線戦術の淵源なのです。
野坂による統一戦線の効果が表れ、1949年2月の総選挙では日本共産党は35名の議席を獲得しました。野坂が延安で学んだ「統一戦線」の教訓が生かされたのです。 これに自信を深めた野坂は、平和革命路線を強調しました。
しかし、当時、各国共産党を指導していたコミンフォルム(1943年に解体されたコミンテルンの後継)は1950年1月、『恒久平和と人民民主主義のために』という機関誌で、野坂の平和革命路線を痛烈に批判します。
これに対して日本共産党は、「コミンフォルムの批判は、日本の実情を考慮していない」として反発したが、中国共産党も『人民日報』の社説「日本人民解放の道」においてコミンフォルムを支持しました。
結局、日本はコミンフォルム批判を全面的に受け入れ、野坂は自己批判します。 かくして日本共産党はコミンフォルムの指示に基づき、米国の占領政策に対する全面的な非合法武装革命闘争を行なうことになったのです。
▼現在も継続される対日統一戦線工作
現在、中国共産党の直属機構として中央統一戦線工作部があります。これは中国共産党と党外各民主党派との連携を担当する機構であると謳われています。その任務は、人民政治協商会議の運営、民主諸党派に対する指導など、国内や海外の民衆党派と連携して、宗教対策や華僑対策を行うものとされます。
これだけ読むと、実にソフトイメージです。 しかしながら、民主諸党派とは、実際には中国共産党に協力する傀儡政党であり、一党独裁との批判を回避するための存在にしか過ぎません。
また、統一戦線工作部には諜報・工作部門としての役割があります。これまで香港の返還や新疆ウィグルの中国化さらには台湾統一などの工作を行ってきたことが判明しています。つまり、「戦わずして勝つ」式の中国領土の拡張や、少数民族地域における中国化を推し進めてきたのです。
まだ、皆様の記憶に新しいと思いますが、2015年7月、わが国の国会では安保関連法が可決されました。
これに対して、中国は国営『新華社通信』で、同法案が憲法違反などと指摘しました。 さらに「多くの日本人と良識ある知識人は苦い過去と同じ轍を踏みたくなく、日本政府の軍事政策の動向に強い警戒化を持っている」「日本軍国主義の侵略戦争は中国や他のアジアの国々に深刻な災難をもたらした。軍国主義化のなかで、多くの日本人が騙され戦争の犠牲者となった」などとコメントしました。(拙著『中国戦略悪の教科書』より抜粋)
これは、毛沢東時代の二分法を現在も適用していることの証左です。統一戦線が中国共産党の歴史的かつ伝統的に重みのある戦術であることがよくわかります。
(次回に続く)