ゲリラ戦と何か

▼ゲリラ戦、遊撃戦、パルチザン戦争とは

 これらは、それぞれ言語の由来する発生地をはじめ、時代、民族、対象などがそれぞれ異なり、厳密にはその意味がことなります。しかしながら、それらの差異は、本来的かつ歴史的なものであり、すでに今日ではこの種の戦いが普遍性と国際性を帯びて世界各地で広く展開されていることから、三者を区別して使い分けることなく、おおむね同じ意味の概念として扱っています。ここではゲリラ戦、あるいはゲリラについて解説します。

▼ゲリラの発祥

 テロとよく混同して使用される言葉にゲリラがあります。ゲリラの語源はフランス革命を輸出しようとしたナポレオン軍に対し、スペインの農民が起こした「国民抵抗運動」に端を発します 。同抵抗運動は農民による小戦闘によるもので、当時ゲリリヤ(guerrilla)という用語が広く流行し、これが英語に転化しました。この点に関してはテロリズムの発祥過程とは異なり、むしろナロードニキによる「抵抗運動」と類似しています。

 第二次世界大戦以前までゲリラによるゲリラ戦は「革命軍による正規戦の補助である」として位置づけられました。当時、著名な軍事戦略家のクラウゼビッツは「ゲリラ戦のみでは政治目標を達成できない」と述べました。

 しかし、第二次世界大戦後のインドネシア独立戦争、アルジェリア独立戦争、キューバ革命及びインドネシア戦争などにおいて、ゲリラ戦のみ又はゲリラ戦を主体として政治目標が達成されたことから、ゲリラ戦が注目された。

▼ゲリラ戦のそれぞれの発展

 ゲリラ戦を戦略・戦術レベルに高めたのは毛沢東の「人民戦線」及び「遊撃戦」理論です。毛沢東は都市から離れた農村ないし山岳に、革命の根拠地を設定し、土地の占領と地域住民を支配することで勢力圏を維持・拡大し、最終的に日本軍と国民党を打倒して新中国を建国しました。

 彼の「遊撃戦」理論を踏襲し、共産主義革命を成功に導いたのが、ベトナムのボー・グエンザップ、キューバ革命のチェ・ゲバラです。しかし、彼らのゲリラ戦には毛沢東と異なる点がいくつか指摘されています。

  例えば、グエンザップが活動したベトナムには中国のような広大な根拠地はありません。そこで、グエンザップはまず民衆の中に秘密組織を設定することでし組織を防衛し、次に民衆のなかで暴力行為を行うことでその残虐性を宣伝することで組織拡大をはかりました。グエンザップは、敵に通じる村の有力者や警官らを公開処刑し、敵側の無力さと権威の失墜を示威し、ゲリラ側に味方しなかった場合の報復の恐ろしさを植えつけました 。

 キューバ革命を成功に導いたゲバラは、山中の村などを根拠地として革命反軍の生存をはかる一方で、ラジオ局を開設して革命軍の勇躍を宣伝し、都市部における襲撃や暗殺を繰り返すなどの活動を行いました。また「ゲリラ戦は基本的に奇襲攻撃、サボタージュ、テロの形態をとる」として、テロはゲリラ戦の一手段であると述べました。

  ゲバラと同時期のブラジル人のカルロス・マリゲーラは、都市を基盤とする「都市ゲリラ」という概念を提唱しました。彼は「ラテン・アメリカでは政府軍が海岸に多い都市を包囲する戦略をとっているため、内陸の山岳や農村地帯から都市地域へと攻める戦略は自らの補給路を立たれるので得策ではないと考えました。つまり、都市には食料の備蓄があり、銀行に金があり、警察には武器があるので、都市でのゲリラ戦が有利である」と主張したのです。

▼ゲリラとテロの共通性

 ゲリラとテロとは共に暴力を用いた反政府闘争という共通性があります。実は、毛沢東も農村地帯でのゲリラ戦を展開する一方で、上海などの都市部においては特務組織を活用して国民党要人を暗殺するなどの暴力を繰り返していました。

 さらに、マリゲーラによって「都市ゲリラ」の概念が提起されたことで、「ゲリラ戦が根拠地を中心に地域を支配し拡大する」「テロは地域を支配することなく都市部において反政府闘争のための暴力を行う」という区分概念も不明確になりました。今日では、 テロもゲリラも国際法的に明確な定義がなされていないですから、両者を区分することは困難なのです。

▼国際社会はゲリラを容認せず

 これまで暴力を「正当な暴力」と「不法な暴力」に区分する試みが行われてきました。例えば第一次世界大戦後、イタリアのファシスト党は「革命のための暴力はテロではない」「無辜の民に向けられるのがテロである」と宣伝し、革命のための暴力は正当であることを強調しました。

 第二次世界大戦中のレジスタン運動やパルチザン活動の経験から1949年の「捕虜の待遇に関するジュネーブ条約」は、義勇兵や民兵隊に要求されているとのと同一の条件を満たす場合の「組織抵抗運動団体」の構成員、すなわちゲリラに対して捕虜待遇を認めました。つまり、ゲリラはテロリストとは異なり、武力紛争法の適用が与えられ 、一定の条件を満たせば国際法の主体となり、戦争捕虜として扱われるようになったのです。

 無論、隠密性を有力な手段として一般文民の中に紛れ、又はその支援の下でゲリラ戦を行うゲリラは、戦争捕虜としての資格を有さず、戦時犯罪として処罰を免れません。たとえば、上述の都市ゲリラが戦闘員として認められる余地はほんどないといえます。

 今日では国家が敵対者を非合法化し、敵対者への武力行使を正当化するためにテロを定義していく傾向が強くなっています。米国防省は、テロを「政治的、宗教的あるいはイデオロギー上の目的を達成するために、政府あるいは社会を脅かし、強要すべく人または財産に対し向けられた不法な武力または暴力の行使」と定義しています。

 米連邦捜査局(FBI)も「政治的又は社会的な目的を促進するために、政府、国民あるいは他の構成部分を脅かし、強要するため、人または財産に対して向けられた不法な武力または暴力の行使」と定義しています。つまり、共に「政府等に向けられる不法な行為」である点を強調しています。

 一方で、今日の世界は敵対する過激派組織に対しゲリラとしての資格を認めない方向にあります。1980年代にIRAは自らをゲリラと呼称し、英国政府に対しても自分たちをゲリラという名で呼ぶよう要求したが、英国政府はこれを拒否しました 。つまり、テロ組織に正当な地位を与えないためにテロ組織という名に固執したのです。

 最近では、ISIL(イラク・シリアのアルカイダ)なる組織が「イスラム国」を呼称して、イラクやレバノンの政府軍に対し革命闘争を展開していました。彼らは地域の獲得と住民支配を企図し、地域内での住民行政サービスなども行いました。

 この点は、毛沢東などが展開したゲリラ戦の様相と強い類似性が認められます。しかし、米国を始めとする国際社会はISILを過激派テロ組織と断定し、対テロ戦を展開しました。 我が国としても、残虐な暴力行為を繰り返しているISILに対して国際法的な保護を与えなととの立場を取、非合法なテロ組織と認定してきました。

 現在、 米国が主導する掃討作戦や、ISIL の最高指導者であるバグダディ容疑者の殺害により、ISILは消滅する科に思われます。しかし、一時期のISILの資金獲得、統治体制、巧みな宣伝戦等などは、再びISILが復活する要因でもあります。

 バグダーディーが死亡しても、第二の指導者が名乗りを上げることとなり、指導者の死亡が組織衰退にどれほど影響したのかは定かではありません。我が国はテロや国際的テロ組織の定義を厳格にして、ゲリラとの峻別を明確にしていく必要があると思われます。

テロとは何か!

▼テロとは何か

テロリズム(以下、テロ)、テロリスト、テロ組織など、我々が日常よく耳にする慣れ親しんだ用語であるが、実は今日、国際法上、統一されたテロの定義はない[1]。各国や各国機関等によって様々な定義が存在し、テロの概念はそれぞれの主要国の立法などで定義されている。

我が国の広辞苑では、テロを「暴力或いはその脅威に訴える傾向、暴力主義、恐怖政治など」と定義している。公安調査庁では「国家の秘密工作員または国家以外の結社、団体等がその政治目的の遂行上、当事者はもとより当事者以外の周囲の人間に対しでも、その影響力を及ぼすべく非戦闘員またはこれに準ずる目標に対して計画的に行った不法な暴力の行使をいう[i]」 と定義している。

米ランド研究所では「暴力による威嚇・個人による暴力行使、恐怖を与えることを意図した暴力の宣言など、恐怖で圧倒すること」、米国防省では「政治的、宗教的あるいはイデオロギー上の目的を達成するために、政府あるいは社会を脅かし、強要すべく人または財産に対し向けられた不法な実力(FORCE)[2]または暴力の行使」と定義している。

 以上、統一されたテロの定義は存在しないが、一方で暴力、恐怖という二つの用語をキーワードとして抽出することができよう。つまり、テロは暴力と恐怖が織り成すものなのである。以下、その点を切り口にテロを考えてみたい。

恐怖とは何か

テロとは暴力による心理的恐怖の創出である。そもそも近代におけるテロの語源はフランス語の「恐怖」(terror)に遡る。18世紀のフランス革命期において、マクシミリアン・ロベスピエールやジョルジュ・ダントンらの革命勢力が反革命勢力を組織的に処刑した。これが「恐怖政治」と恐れられ、これが転じてテロリズム(テロ)[3]という名詞になったとされる。

恐怖は一般に動揺、恐慌、心配、パニック、嫌悪、おそれといった類語で表現される。恐怖はこの世に常に存在するものでもあり、人は誰しもが常に何らかの恐怖を抱いている。また恐怖は心理的、精神的なものである。生起する事件が客観的にどのように残虐なものであろうと、そこに事件被害者の心理的作用が働かなければ恐怖は覚えない。そのような心理的恐怖を人為的に生み出し、実行するものがテロの本質である。

暴力とは何か

では、暴力とは何か。暴力とは「他者の身体や財産などに加える物理的・心理的強制力や破壊力である」(『マイペディア99』テキスト版ほか)」[4]。これに対して、一般的には国家が権利として有するものが武力として区別される場合が多い。つまり、暴力は正当性もなく統制されたものではない。

暴力の種類には主として身体的暴力、精神的暴力がある。これらの何れもが相手に対して心理的恐怖を植えつけるという共通性がある[5]

 したがって暴力は心理戦の手段として活用される。たとえば2004年10月には「イラクの聖戦アルカイダ組織」を名乗るグループが、インターネットで「香田証生氏を人実にした」として犯行声明を出し「日本政府が48時間内に自衛隊が徹底しなければ殺害する」と脅迫した。日本政府がそれに拒否すると、その後、香田氏の首を切断し、バクダット市内に放置した。11月2日は犯行グループが犯行声明とともに、香田氏を星条旗の上で殺害する場面をネットで動画配信した。

 最近ではISIL(後述)というテロ組織が、湯川遥奈氏、後藤健二氏の両名を殺害した、後藤氏の首切り画像などをインターネットで公開し、日本政府に金銭的要求などを迫った。これらは日本政府に心理的圧力を掛けることにより、自らの意思に恭順させようとした心理戦であった。

暴力は人間心理と密接であるため、マインドコントロールや洗脳の手段としても用いられる。マインドコントロールや洗脳はいずれも、相手側に対し、特定の主義・思想を持つように仕向けることである。この手段として身体的暴力(拷問、薬物利用、電極の埋め込み)、精神的暴力(「地獄に落ちるぞ」などの言葉の脅し、罪の意識の植え付け)などが用いられる。

 1090年、ハツサン・イブン・アルサバーは、カスピ海南部の要塞で信奉者を暗殺者(アサシン)に仕立て上げ、薬物による昏睡状態と、美しい調度品と女性に埋め尽くされた美しい庭園につれ、大麻(ハシン)を吸わせ、暗殺を敢行したならば、また楽園に行けるとの幻想を付与した。この大麻の常習者であるハシシンが転じてアサシン、すなわち暗殺者の語源となったといわれている。

 オウム真理教はLSD入りの液体を飲み干すことを恒常的手段としていたとされる[6]

 このように暴力は、相手側を自らの意図通りに操る効能がある。1880年代のアナーキスト、ヨハン・モストが記した小冊子『爆弾の哲学』によれば、暴力の効能について以下のとおり記している。

① 異常な暴力は人民の想像を掴む。

② その時人民を政治問題に目覚めさせることができる。

③ 暴力には固有の権限があり、それは浄化する力である。

④ 体系的暴力は国家を脅かすことができ、国家に非正統的な対応を余儀なくさせる。

⑤ 暴力は社会秩序を不安定化し、社会的崩壊に追い込む。

⑥ 最後に人民は政府を否定し、「テロリスト」に頼るようになる。

このように、暴力はテロに不可欠なものなのである。

有史以来の闘争形態

暴力による心理的恐怖を醸成することがテロの本質である見た場合、テロは新しいものでない。それは有史以来、存在してきた闘争形態である。

紀元645年に中大兄皇子(天智天皇)・中臣鎌足(藤原鎌足)が、時の最高権力者である蘇我入鹿を残虐な手口で暗殺した。(乙巳の変)これが大化の改新となり、以後の天皇中心政治の幕切りとなった。これは我が国の古代のテロ事件として有名である。

特定集団が他のものに特定の行動を取らせるために、暴力により心理的恐怖を醸成することも古くから行われてきた。この歴史的事例にはイエス時代(紀元60~70年)の「熱心党」(ゼロティ)がしばしば引用される。熱心党はユダヤ教の政治的過激団体であり、ユダヤ人の民族国家の建設を切望し、敵対勢力に対し、暴力による粛清を繰り返した[7]。その中で最も過激派であったシカリ派は常に短剣を私服に隠し持って、祭事の時や人通りの多い公共広場で敵を刺殺し、敵対勢力に恐怖を与えた。

11世紀にはイスラム主義者による暗殺が行われた。1090年、カスピ海南部に要塞を築いたハッサン・イブン・アルサバーは、信奉者を薬物により昏睡状態にさせ、美しい調度品と女性に埋め尽くされた楽園につれていき、大麻(ハシン)を吸わせ、「暗殺を敢行したならば、また楽園に戻れる」との幻想を与えた。この大麻の常習者をハシシンと言い、それが転じてアサシン(現在、暗殺者、暗殺団、刺客などを意味する)がすなわち暗殺者の語源となった。

 アサシンは、イスラム教・シーア派の分派イスマイール派に属する一派であり、薬物により信奉者を暗殺者に仕立て上げ、大シリアにおいて、十字軍などの諸勢力に対する数々の暗殺を繰り広げた。これが十字軍や旅行者により伝達されインドからナイル川流域まで「恐怖の話」として広がった。アサシンは時には自らの生命をかけて暗殺を行った。この「殉死」が今日のテロリストの戦術・戦法として継承された。

このようにテロは有史以来の闘争形態で、絶大な権力を有する為政者を暗殺という暴力的行為によって排除し、同時に民衆に恐怖を与えることで反政府闘争に勝利をもたらしたのである。


[1] チャールズ・タウンゼンドは、「テロ」の定義について、百を越える定義が提案されながら、今名合意が成立していない。問題の当事者の一方が敵対者に対して、レッテルを貼る行為だから。

[2] 武力を正当に保持するものと見た場合、不法な武力という意味は正しくないので実力と翻訳した。

[3] これを一般的に白色テロという。

[4] マックスス・ウェーバーの国家論のように権力を正当化された暴力と捕らえる見方もある。

[5]身体的暴力の典型が暗殺などであり、犯人による殺害予告が行われるとそれだけで精神的ダメージになる。精神的暴力は宗教団体がよく使用するマインドコントロールとよく似ている。

[6] アンフェタミン

[7] その中でも有名なのがシカリ派で聖書で短剣を持った4000人の男。

心理戦とは何か?

▼心理戦の定義 

心理戦はPsychological warfareあるいは短くしてPsywareとよばれる。ただし、これを厳密に訳せば心理戦争ということになる。しかし、第二次世界大戦が終わり、冷戦期が続くなか、「戦争」が忌み嫌われるがごとく、Psychological warfareよりも、Psychological Operationsの方が一般的に使用されるようになった。  

また、1962年の米陸軍の教範(『Dictionary of U.S.Army Terms 1961』)では、両者を次のように定義している。

Psychological Operations:

Psychological activities と Psychological War¬fare を含み敵、敵性、中立及び友好国に対し米国の政策、目標の達成に望ましい感情•態度、行為を起こさせるために計画される政治的、軍事的イデオロギー的行動。

Psychological Warfare:

戦時又は非常事態において、国家の目的あるいは目標達成に寄与するため敵、 中立、あるいは友好諸国に対し、その感情、態度、行為に影響を与えることを主目的として行なう宣伝及びその他の行動の利用についての計画的な使用。

なお、米陸軍はPsychological Warfareをinformation warefare(情報戦争)の七つの形態の一つに位置づけている。

つまり、米陸軍教範の日本語訳では、心理作戦は心理戦を包含した概念であるが、しかし、わが国では心理作戦という用語になじみがない。よって、Psychological OperationsとPsychological warfareを区別して論じる場合には、前者を「心理作戦」、後者を「心理戦」と呼称するこことし、両者を特段に区別して論じる必要がない場合は、たんに心理戦と呼ぶことの方がよいだろう。

また、心理戦を広義に捉えた場合、政治戦、外交戦、思想戦、イデオロギー戦争、国際広報などの類語に置き換えられることもしばしばある。それは、平時であるか有事であるかを問わず、国家は相手側の組織員である人間の心理に働きかけて、自らの立場を有利にしたり、利益を追求する活動を行っており、これが戦争と呼ぶにふさわしい熾烈な戦いになるからである。

ここでは心理戦とは、「広義には国家目的や国家政策、狭義には軍事上の目的達成に寄与することを目的として、宣伝その他の手段を講じて、対象(国家、集団、個人等)の意見、感情、態度及び行動に影響を及ぼす計画的な行為である」と、一応定義することにする。

▼心理戦の重要性の高まり

戦争であれ、ビジネスであれ、相手側に対して精神的に有利に立つことが、目的達成の近道となる。 古代中国では、紀元前四世紀の「孫子」の兵法において、「戦わずして勝つ」ことが最良と説かれたが、これも心理的な圧力形成によっての屈服を強要する心理戦である。

その中で心理戦の効能を端的に表すものが、第七編「軍争」の「三軍は気を奪うべく、将軍は心を奪うべし」であろう。これは、「軍隊から気力を奪えば弱くなり、将軍から心を奪えば勇猛さを失う」という意味である。 つまり、士気を喪失させれば、自ずと戦わずして戦勝を獲得できるということだ。

三国時代においても心理戦が重視された。諸葛孔明(諸葛亮)孔明が南征するとき、馬謖(ばしょく)にどんな策を取るかと尋ねた。馬謖は、「用兵之道、攻心為上、攻城為下。心戦為上、兵戦為下。」と答えた。つまり、兵法の基本は心理戦が上策であり、武力行使は下策であるということである。  

現代のようなICT化時代では、インターネットの普及とともに、心理戦の主体や活動範囲が増大している。 1999年11月の米国シアトルにおけるWTO閣僚会議の時に、経済のグローバル化に反対する大衆が世界各地から集結し、会議場外で過激な行動をとった。この呼びかけ手段は主にネットであった。つまり、大衆が国家組織に対して圧力を掛ける手段を得た。

同年 のNATO空爆作戦では、セルビアはネット上のアニメを使って、NATO軍をナチスになぞらえたり、セルビアから独立を企む武装グループのコソボ解放戦線が麻薬取引に手に染めている状況をプロパガンダしたりした。時のクリントン米大統領やオルブライト国務長官を漫画にして貶めるようなものもあった。

つまり、相手側の〝極悪非道振り〟をインターネット上で配信し、敵対勢力に対する嫌悪感を 国際の大衆に広く扶植した。

最近では、テロリストが心理戦を武器にするようになった。イスラム国が、ソーシャル・メディア上でハッシュタグなどを活用したメッセージの発信や、デジタル技術・音楽を活用した完成度の高い動画を通じ、組織の宣伝や戦闘員の勧誘、テロの呼びかけなどを巧みに行い、多数の外国人戦闘員を魅了したことは記憶に新しい。

▼心理戦はビジネス等でも有用  

国内の政治闘争、ビジネス、個人競争においても心理戦は重要だ。なぜならば、これらの主体はすべて人間であり、相手側を心理戦で屈服あるいは心服させることが、我の希望を叶える近道であるからだ。そのため、心理戦を有利に展開するための理論となる心理学はさまざまな人間活動における武器となっている。

最近では、「ビジネス心理戦」という言葉もあり、これに関する書籍も出回っている。これら書籍では、競合会社に抜きんでる、顧客を魅了する、交渉相手を納得させるなどの秘訣が述べられている。

インターネットの発達によって、企業は活発にPR戦略、マーケッティング戦略などを展開しているが、顧客に「買いたい」「欲しい」「チャンスを逃してはならない」などの心理状態を醸成することが目標である。 心理戦は歴史的には戦場における作戦や戦術の一つとして発達したが、今日ではビジネスにおける研究の方が隆盛を極めている。

だから、国家安全保障に心理戦を活用するうえではビジネス事例が参考になる。ぎゃくにビジネス心理戦においても、戦場から発生した心理戦の歴史や、歴史的に明らかにされた心理戦の特質などを理解しておくことが重要であろう。 (次回に続く)

インテリジェンス関連用語を探る(その5)戦略と情勢判断について

▼戦略とはなにか

戦略の定義は諸説多く約200あるといわれています。第二次世界大戦以前の共通した戦略の定義は、おおむね軍事的要素に限られていました。

しかし、第一次世界大戦以降、戦争の様相が変化しました。それにともない、戦略も必然的に非軍事的要因、すなわち経済的、心理的、道徳的、政治的、技術的考慮をより多く加味する必要がでてきました。 また、軍事力のみならず国家総力で戦争に応ずる必要性が認識されました。その一方で戦禍の犠牲を最小限にするため軍備管理などの重要性も高まりました。

このため、戦略は単なる戦場の兵法から国家の向かうべき方向性や対応策まで含む幅広い概念へと拡大するようになったのです。

今日、戦略は軍事だけでなく非軍事の分野へと拡大し、国家戦略、外交戦略および経済戦略などの用語が定着しています。つまり、戦略の概念は武力戦のみならず外交・経済・心理・技術などの非武力戦を包含したものに拡大したのです。そのため、現代では、「経営戦略」「企業戦略」などの言葉が定着するようになりました。

▼戦略と戦術はどう違うか

戦略の概念拡大にともない、戦略と戦術との関係も複雑化しています。 ちまたのビジネス書などでは、戦略は「企業目的や経営目標を達成するためのシナリオ」と解説されています。一方の戦術は「戦略を実現させるための具体的な手段、方策」などと定義されています。

つまり、戦略が目的・目標を決定し、戦術がそれらを達成するための手段という関係で説明されています。 こうした関係性について筆者は、戦略とは「環境条件の変化に対応して物事がいかにあるべきか(目的、What)を決定する学(Science)と術(Art)」、これに対し、戦術は「固定的な状況から物事をいかになすべきか(手段:How to)を決定する学と術」であると理解しています。

戦略は戦術に比して幅広い考察と長期的な予測を必要とします。そして、戦略が戦術の方向性を規定する関係上、戦略の失敗は戦術の成功では挽回できないのです。

▼戦略の事例列的な区分と戦略マップ

戦略は、①目標を立てる(目標設定段階)、②目標を達成するための手段・方策を考える(計画段階)、③目標を達成するために実践する(実施段階)という3段階から成り立っています。

目標はやみくもに設定すればよいわけではありません。企業経営でいえば、企業ビジョン、企業が有する能力、とりまく環境などをさまざま判断し、達成が可能で具体的な目標を一つ設定しなければなりません。 計画段階では、目標が明確になったら、目標を達成するための手段・方策を考察することになります。  

実施段階では、戦略目標達成のための方策や具体的なアクションプランを実施する。それが目標の達成に向かって齟齬がないかを検証します。また、検証の成果を踏まえながら、方策の修正や目標の再設定が行われることになります。  

計画段階において、手段・方策をアトランダムに立案すれば、「戦闘力の集中」「資源の集中」などという原則に反することになります。したがって、計画段階においては「戦略マップ」で整理されることが多いようです。

戦略マップとは、ビジョンや目標を達成するための手段・方策を図式化したものです。つまり、目的を達成するために必要と思われる具体的なアクションの因果関係や関連を図式化するのです。  

戦略マップには、①戦略目標を達成するための重要成功要因、②戦略目標を評価するためのKPI(key Performance indications 重要業績評価指標、③指標を達成する目標数値(ターゲット)、④アクションプランなどが記述されます。

▼情勢判断とは何か

まず、戦術用語としての状況判断について述べます。もともと状況判断は、米軍の作り出したものですが、その後各国でも広く利用されています。 とくに意志を有する敵との闘争の推論において、賭け(ゲーム)の理論を適用して最良の選択を行うための理論的思考の過程で使用されます。 つまり、彼我が対峙する賭け(ゲーム)において、彼我が取り得る選択肢(可能行動)を列挙して、各組合せにおける帰趨を推論して、最後にこれらを比較して最良の選択を得ようとするためものが状況判断です。

状況判断は、指揮官が任務達成のため、最良の行動方針を「決心」するために行います。 状況判断の実施要領は(1)任務 (2)状況および行動方針 (3)各行動方針の分析 (4)各行動方針の比較 (5)結論、の順で行います。

上述の「決心」とは、状況判断に基づく最良の行動方針、すなわち「結論」を指揮官が実行に移すことを決定した時に、その状況判断が決心に代わります。したがって、状況判断に責任が伴いませんが、決心には状況判断と違って責任がともなうことになります。

他方、状況判断とは異なり、情勢判断は軍事用語あるいは戦術用語ではありません。したがって、「軍事用語集」や「軍事教範」では、情勢判断の明確な定義はありません。

ただし、戦術における状況が、戦略においては情勢に相当するという解釈もあります。そして、これらは上位の戦略と下位の戦術に対応するもので、本質に大きな差異はない、との理由から、しばしば、「情勢(状況)判断」と表現することがあります。

状況判断も情勢判断も、目標の設定、手段・方策の案出、戦略あるいは戦術の修正・実行のサイクルを正常に機能させるために行います。 この際、目標の前提となるのが目的です。目的は不変であり、漠然としたものです。

一方、目的を達成するために設定される目標は具体的でなければなりません。 国家、企業を問わず、ひとたび目標を定めたら、その目標に向かって物心両面のあらゆる資源を集中することになります。ですから目標を容易に変更することは禁物です。これを「目標の不変性」といいます。

ただし、ここでいう目標の不変性は、目的から導き出される基本目標であることに注意が必要です。基本目標を達成するための中間目標については、「(中間)目標の可動性」が認められています。このことは、英国の戦略理論家リデルハートが指摘しています。

情勢判断とは、その時々において「いつ、どこで何をするか」(目標)、「いかにするか」(方法)を判断することです。このことは、突き詰めれば、中間目標の設定と中間目標を達成するための手段・方法を判断するということです。

ほとんどのインテリジェンスは、この情勢判断を支援するために存在します。 国家や企業には生存、発展といった目的やビジョンがあり、そのための基本戦略があります。そこから当面の戦略や戦術が発生します。だから、目的や基本ビジョン、基本目標を無視した情勢判断も、そこから生成されるインテリジェンスも存在価値はありません。

なお、情勢判断は(1)問題の把握 (2)戦略構想の見積状況(3)彼我の戦略構想の対比分析 (4)わが戦略構想の比較 (5)戦略構想の決定(判決)の順で行います。

インテリジェンス関連用語を探る(その4)防諜について

防諜は、『諜報宣伝指針』では登場していない

1925年から28年にかけて作成された情報専門の教範である『諜報宣伝勤務指針』では、諜報、謀略、宣伝という用語が登場し、その定義がなされていますが、防諜という言葉は登場しません。

1938年7月に陸軍中野学校の前身である、後方勤務要員養成所が設立され、それが中野に移転し、陸軍中野学校に発展する過程において、諜報、謀略、宣伝と、防諜が秘密戦という用語で整理されます。では、この防諜という用語はいつ登場したのでしょうか?

防諜機能は諜報機能と共に発達

インテリジェンスには積極的機能(アクティブ・インテリジェンス)と消極的機能(デイフェンシブ・インテリジェンス)があるのは太古の昔からです。誰しも秘密があります。秘密の情報をとられてはならないから、厳重に守ろうとします。

そのため、秘匿された情報を如何にして取るかということが重要となります。これが諜報活動を高度化し、組織化していくことになります。さらには、諜報活動によって相手側の弱点が明らかになれば、それに対して心理的な打撃を与えたり、偽情報を流布して判断を誤らせるといった活動が発生します。そのため、情報を守る活動はより厳重かつ組織的になります。つまり、防諜という消極的機能は諜報、防諜、宣伝といった積極的機能と同時に発達してきたわけです。

しかし、上述のように『諜報宣伝勤務指針』では防諜という用語でできません。ただし、同指針の同書についてはのちほど詳しく言及するが、第一編「諜報勤務」の第5章では「対諜報防衛」という見出しがあり、計11個の条文(165~175)が規定されています。それが、より具体化され、体系化されていくなかで防諜という兵語が生まれます。

防諜という兵語の登場

 1936年8月に陸軍省に兵務局が新設されました。兵務局は防共(のちに防衛とあらためられる)に関する業務を担当しました。これが陸軍中野学校の発足の経緯となります。

 1936年7月14日の「陸軍省官制改正」第15條には兵務課の任務が示され、同課は歩兵以下の各兵下の本務事項の統括、軍規・風紀・懲罰、軍隊の内務、防諜などを担当することが規定されました。

  同官制改正の六では、兵務課の所掌事務として「軍事警察、軍機の保護及防諜に関する事項」が規定され、これが防諜の最初の用例だとみられます。

『防衛研究所紀要』第14巻「研究ノート 陸海軍の防諜 ――その組織と教育―」(インターネット上で公開)では、1938年9月9日に陸軍省韓関係部隊に通知された資料である「防諜ノ参考」、及び陸軍省兵務局が各省の防諜業務担当者に配布した資料である「防諜第一 號 」を根拠に、以下のように解説しています。

◇陸軍は、防諜を「外国の我に向ってする諜報、謀略(宣伝を含む)に対し、我が国防力 の安全を確保する」ことであると定義し、積極的防諜と消極的防諜に区分して説明してい る。

◇積極的防諜とは、「外国の諜報、若は謀略の企図、組織又は其の行為若は措 置を探知、防止、破摧」することであり、主として憲兵や警察などが行った。その具体的 な活動内容は、不法無線の監視や電話の盗聴、物件の奪取、談話の盗聴、郵便物の秘密開緘などであった。

◇消極的防諜とは、「個人若は団体が自己に関する秘密の漏洩を防止する行為若は措置」のことであり、軍隊、官衙、学校、軍工場等が自ら行うものであった。主要施策としては、①防諜観念の養成、②秘の事項又は物件を暴露しようとす る各種行為若しくは措置に対する行政的指導又は法律に依る禁止若しくは制限、③ラジオ、 刊行物、輸出物件及び通信の検閲、④建物、建築物等に関する秘匿措置、⑤秘密保持の為 の法令及び規程の立案及びその施行などがあった。

つまり、1937年7月の日中戦争以降に防諜の概念が整理され、陸軍省から関係部署に徹底されたということがわかります。
その後、1937年8月に軍機保護法が全面改訂され(10月施行)、 1937年11月10日の内務省広報誌『週報』56号 「時局と防諜」では、 防諜は「対諜防衛」または「諜者(スパイ)防止」の略称だと説明されました。

1938年には、 国防科学研究会著『スパイを防止せよ!! : 防諜の心得』 (亜細亜出版社、インターネット公開)といった著書が出版され、国民に対して防諜意識の啓蒙が図られました。

同著では、一防諜とはどんなことか、二防諜は国民全体の手で、三軍機の保護と防諜とは、四国民は防諜上どうしたらよいか、五スパイの魔手は如何に働くか、六外国の人は皆スパイか、七国民よ防諜上の覚悟は良いか、の見出しで防諜の概念や国民がスパイから秘密を守るための留意事項が述べられています。

同著では、「近頃新聞紙やパンフレット等に防諜という言葉が屢々見受けられるようになってきたが・・・・・・、又一般流行語の様に一時的に人気のある言葉で過ぎ去るべきものであるか、・・・・・・」と記述されていることから、防諜が一般用語として急速に普及したようです。

その後、防諜に関する著作、記事、パンフレットが定期的に頒布されました。 主なものは挙げると、『週報』240号 「特集 秘密戦と防諜」 (1941年5月14日)、『機械化』21号 「君等は銃後の防諜戦士」 (1942年8月) 、引間功 『戦時防諜と秘密戦の全貌』 ( 1943( 康徳9)年、 大同印書館出版)が挙げられます。つまり、終戦までずっと防諜の重要性が認識され、国民への啓蒙活動がおこなれました。

防諜という用語が登場・普及した背景

このように防諜という言葉が登場・普及した背景には、第一に共産主義国家ソ連の誕生と共産主義イデオロギーの海外輸出、1931年9月の満州事変以後のわが国の大陸進出と それに対する欧米、ソ連、蒋介石政権の対日牽制が挙げられます。

とくに満州事変、わが国の国連脱退などにより、日本への外国人渡来者数や軍事関連施設の視察者が増加したため、陸軍省は軍内の機密保護観念の希薄さを問題視するとともに、各省庁が連携して国家の防諜態勢を確立すること目指したのです。

スパイ事件が防諜の重要性を高める

また、わが国におけるスパイ事件が防諜の重要性を高めました。その代表事例がコックス事件とゾルゲ事件です。

コックスコックス事件は、1940年7月27日に、日本各地において在留英国人11人が憲兵隊に軍機保護法違反容疑で一斉に検挙されたというものです。同月29日にそのうちの1人でロイター通信東京支局長のM.J.コックスが東京憲兵隊の取り調べ中に憲兵司令部の建物から飛び降り、死亡ます。

当時、この事件は「東京憲兵隊が英国の諜報網を弾圧した」として新聞で大きく取り上げられ、国民の防諜思想を喚起し、陸軍が推進していた反英・防諜思想の普及に助力する結果となりました。

一方のゾルゲ事件 は、ソ連スパイのリヒャルト・ゾルゲが組織する スパイ網の構成員が 1941年9月から1942年4月にかけて逮捕された事件です。 ゾルゲは、近衛内閣のブレーンとして日中戦争を推進した元朝日新聞記者の尾崎秀実などを協力者として運用し、わが国が南進するなどの重要な情報をソ連に報告していました。

戦後に防諜は消滅

戦後、防諜と言葉は消滅します。これは、戦中の防諜が敵国のスパイに対する警戒から、わが国の国民に対する監視へと向かったことが原因だとみられます。

実際問題として、ゾルゲ事件にも見られるように、敵国等のスパイ活動はわが国の国民を利用して行いますので、防諜組織は監視対象を「敵国人か」と「日本人か」で峻別することは困難です。 それが、戦後になって戦中の“悪しき汚点”として忌避されたのです。

防諜は日本だではなく、各国も当然のこととしてずっと昔から行っています。英語ではカウンター・インテリジェンスといいます。戦後になり、陸上自衛隊研究本部の松本重夫氏が米軍教範から「情報教範」を作成する際、これを「対情報」と訳しました。

防諜には消極防諜と積極防諜がありましたが、わが国では積極防諜はこれといつた具体化、体系化はなされたなかったとようで。しかし、諸外国でのカウンター・インテリジェンスの概念は、わが国の積極防諜をさらに拡大、攻勢化した意味が含まれます。

だから松本氏は、カウンター・インテリジェンスの訳語について悩んでいたが、結局平凡な「対情報」という言葉になったようです。ただし、現在は教範には「対情報」という用語は存在していません。

(次回に続く)

インテリジェンス関連用語を探る(その3)「宣伝」及び「謀略」について


▼ 謀略の淵源

 「謀略」という言葉は中国では古代から用いられていたとみられます。ただし、中国における研究においても「謀略」という言葉の淵源には様々な見方があるようです。

 もともと「謀略」という言葉がいきなり登場したのではなく、「謀」と「略」が異なる時代に登場し、いつのまにか一体化して用いられるようになったとされます。 

中国の『説文大字典』によれば、謀の登場は略の登場よりも一千年早く登場したようです。

 同字典では、「謀」は「計なり、議なり、図なり、謨なり」とされ、古代ではこれらの言葉は非常に似通った意味で使用されました。『尚書』で謨が登場しますが、この字の形と読音が謀と似通っており、謨が謀に発展したとみられています。 

 なお「謀」が中国において最初に使用されたのは『老子』の「不争而善勝、不言而善応、不召而自来、繟然而善謀」です。

 『孫子』における「計」、「智」、「略」、「廟朝」、『呉子』における「図」などは謀の別称といえます。(以上、柴宇球『謀略論』、藍天出版社から取り纏め)

▼わが国において謀略という兵語の使用はいつから?

 総力戦研究所所長などを歴任した飯村譲中将によれば、「謀略は西洋のインドリーグ(陰謀)の訳語であり、参謀本部のロシア班長小松原道太郎少佐(のちの中将)の手によるものであって、陸大卒業後にロシア班に入り、始めて謀略という言を耳にした」ということです。

 そして、飯村中将は「日露戦争のとき、明石中佐による政治謀略に関する毛筆筆記の報告書がロシア班員の聖典となり、小松原中佐が、これらから謀略の訳語を作った」と推測しています。

 しかし、「謀略」の用例については、1884(明治17)年の内外兵事新聞局出版の『應地戰術 第一巻』「前哨ノ部」に「若シ敵兵攻撃偵察ヲ企ツルノ擧動ヲ察セハ大哨兵司令ハ其哨兵ノ報知ヲ得ルヤ直チニ之ヲ其前哨豫備隊司令官ニ通報シ援軍ノ到着ヲ待ツノ間力メテ敵ノ謀略ヲ挫折スルコトヲ計ルヘシ」という訳文があります。

 また「偕行社記事」明治25年3月第5巻の「參謀野外勤務論」(佛國將校集議録)に「情報及命令ノ傳達 古語ニ曰ク敵ヲ知ル者ハ勝ツト此言ヤ今日モ尚ホ真理タルヲ失ハサルナリ何レノ世ト雖モ夙ニ敵ノ謀略ヲ察知シ我衆兵ヲ以テ好機ニ敵ノ薄弱點ヲ攻撃スル將師ハ常ニ赫々タル勝利ヲ得タリ」という訳文があります。

 したがって、どうやら飯村中将の説は誤りのようですが、いずれにせよ日露戦争以後に謀略と言う言葉は軍内における兵語として普及したとみられます。

 ▼『陣中要務令』において「宣伝」が登場

 1889年に制定され、 日露戦争の戦訓を踏まえて1907年(明治40年)に改訂された 『野外要務令』では、「情報」及び「諜報」はわずかに確認できますが、「謀略」や「宣伝」という用語は登場しません。

 しかし、『野外要務令』の後継として、大正期に制定された『陣中要務令』では、以下の記述があります。

第3篇「捜索」第73
「捜索の目的は敵情を明らかにするにあり。これがため、直接敵の位置、兵力、行動及び施設を探知するとともに、諜報の結果を利用してこれを補綴確定し、また諜報の結果によりて、捜索の端緒を得るにつとめざるべからず。捜索の実施にありては、敵の欺騙的動作並びに宣伝等に惑わされるに注意を要する。」

第4編「諜報」第125「諜報勤務は作戦地の情況及び作戦経過の時期等に適応するごとく、適当にこれを企画し、また敵の宣伝に関する真相を解明すること緊要なり。しかして住民の感情は諜報勤務の実施に影響及ぼすこと大なるをもって上下を問わない。とくに住民に対する使節、態度等ほして諜報勤務実施に便ならしむるごとく留意すること緊要なり。」

 ここでの宣伝は、我の諜報、捜索活動の阻害する要因であって、敵によって行われる 宣伝(プロパガンダ)を意味しているとみられます。

 ▼ 「宣伝」「謀略」 がわが国の軍事用語として定着


 「宣伝」「謀略」 がわが国の軍事用語として定着したのは、1928年に制定された『諜報宣伝勤務指針』及び『統帥綱領』だとみられます。

 『諜報宣伝勤務指針』 の第二編「宣伝及び謀略勤務」では、宣伝、謀略について、用語の定義、実施機関、実施要領、宣伝及び謀略に対する防衛などが記述されています。

 同指針では、以下のように記述されています。

「平時・戦時をとわず、内外各方面に対して、我に有利な形成、雰囲気を醸成する目的をもって、とくに対手を感動させる方法、手段により適切な時期を選んで、ある事実を所要の範囲に宣明伝布するを宣伝と称し、これに関する諸準備、計画及び実施に関する勤務を宣伝勤務という。」 

「間接あるいは直接に敵の戦争指導及び作戦行動の遂行を妨害する目的を持って公然の戦闘員もしくは戦闘団体以外の者を使用して行う行為もしくは政治、思想、経済等の陰謀並びにこれらの指導、教唆に関する行為を謀略と称し、これが為の準備、計画及び実施に任ずる勤務を謀略勤務とする。」

一方の『統帥綱領』では以下のように記述されています。

第1「統帥の要義」の6
「巧妙適切なる宣伝謀略は作戦指導に貢献すること少なからず。宣伝謀略は主として最高統帥の任ずるところなるも、作戦軍もまた一貫せる方針に基づき、敵軍もしくは作戦地域住民を対象としてこれを行ない、もって敵軍戦力の壊敗等に努むること緊要なり。殊に現代戦においては、軍隊と国民とは物心両面において密接なる関係を有し、互いに交感すること大なるに着意するを要す。敵の行う宣伝謀略に対しては、軍隊の志気を振作し、団結を強固にして、乗ずべき間隙をなからしむるとともに、適時対応の手段を講ずるを要す。」

時代はやや下り、1932年の『統帥参考』では以下のように記述されています。

第4章「統帥の要綱」34
「作戦の指導と相まち、敵軍もしくは作戦地の住民に対し、一貫せる方針にもとずき、巧妙適切なる宣伝謀略を行ない、敵軍戦力の崩壊を企図すること必要なり」

以上のように、「捜索」あるいは「諜報」のように、敵に対する情報を入手するだけでなく、敵戦力の崩壊を企図する、敵の作戦指導などを妨害する、あるいは我に有利な形成を醸成する機能を持つ「宣伝」及び「謀略」が軍事用語として一般化されました。

その背景には、第一次世界大戦において、戦争が総力化、科学化、非戦場化して平時及び軍事、戦場及び非戦場において、「戦わずして勝つ」をモットーとする秘密戦が重要な要因になったことが挙げられます。

(次回に続く)

インテリジェンス関連用語を探る(その2) 諜報と『諜報宣伝指針』   

「諜報」という用語の源流

諜報や間諜という言葉の歴史は古く、中国では『孫子』の13編において間諜について記述しています。

わが国においても「諜報」と「間諜」の歴史は日本書紀まで遡ります。山本石樹が『間諜兵学』(1943年)に記すように、「間諜」は狭くみれば「敵情を探りてその主に報ずるもの」ということになりますが、「敵勢を不利に導き、味方を有利にならしむべき隠密行動を為すもの」という解釈が一般的でした。
[1]

「情報」は1882年の『野外陣中軌典』において初登場しますが、間諜はそれよりも古くから旧軍において登場します。1871年(明治4年)に参謀本部の前身である兵部省陸軍参謀局が設置され、その下の間諜都督使が間諜隊を統括しました。 また、同参謀局の職責は「機務密謀に参画し、地図政誌を編纂し、並びに間諜通報等の事を掌る」とされました。

1874年6月に制定された参謀局条例は、参謀局の任務と権限について[2]、諜報堤理佐官[3]を置くことが定められ、その任務として「戦時諜報の事を総理せしむ、平時に在りては事の視察すべきあるに臨んで諜を発す」と定められました[4]

つまり、「情報」が登場する以前に「諜報」は軍隊用語として存在していたのです。

海軍においても、1896年(明治29年)3月、海軍軍令部に第1局、第2局のほかに牒報課が新設されました。なお「 牒報 」は1897年(明治30年)勅令第423号から「諜報」に改められました。

 このように、わが国の参謀本部機構が形成されるなかで、「諜報」は早くからその骨格を現し始めていました。

しかし、1907年の『野外要務令』では、第13条において「諜報勤務」との用語が一ケ所出てくるだけであり、「諜報」の具体的な内容は言及されていません。

つまり、「情報」と同じく「諜報」も、明治期においては馴染みの薄い用語であったといえます。

『諜報宣伝指針』について

前回は、1914年(大正3年)の『陣中要務令』[5] と1932年の『統帥参考』及び『作戦要務令』を根拠に、情報捜索、諜報の関係が明確になったことを述べました。今回は、1928年(昭和3年)2月に陸軍参謀本部が作成した『諜報宣伝指針』を見てみましょう。

同指針は当時の諜報及び宣伝謀略などのことを専門的に記述した「軍事極秘」書であり、参謀本部第8課(謀略課)が保管していました。のちに陸軍中野学校の教範として使用されました。

構成は、第1編「諜報勤務」で、第2編「宣伝及び謀略勤務」からなります。第1編は5編からなり、計175の条文があります。そのなかに以下の条文があります。

「敵国、敵軍そのほか探知せんとする事物に関する情報の蒐集(しゅうしゅう)、査覈(さかく)、判断並びに、これが伝達普及に任ずる一切の業務を情報勤務と総称し、戦争間兵力もしくは戦闘器材の使用により、直接敵情探知の目的を達せんとするものは、これを捜索勤務と称し、平戦両時を通じ、兵力もしくは戦闘器材の使用によることなく、爾(じ)多の公明なる手段もしくは隠密なる方法によりて実施する情報勤務はこれを諜報勤務と称す。」

 ここでは、情報勤務、捜索勤務、諜報勤務の意義が定義されています。前回、『統帥参考』(1932年)及び『作戦要務令・第2部』(1936年)において、情報を得る手段が諜報と捜索からなることについては既述しました。ただし、『諜報宣伝指針』は両教典に先行していますので、『諜報宣伝指針』において、情報、諜報、捜索の関係が整理されたと見るべきでしよう。

 ここでは情報勤務は「敵国等に関する情報の収集、査覈(さかく)、判断並びに、これが伝達普及に任ずる一切の業務である」とされますが、査覈とは「調べる」という意味です。今日では使われない用語です。

中野学校卒業生・平館勝治氏によれば、参謀本部第8課から中野学校に派遣された教官である矢部中佐の謀略についての講義のなかで、講義中「査覈」と黒板に書き、「誰かこれが読めるか」と尋ねったが、誰も読める者がいなかったといいいます。

『作戦要務令』では以下の条文があります。

「収集せる情報は的確なる審査によりてその真否、価値等を決定するを要す。これがため、まず各情報の出所、偵知の時機及び方法等を考察し正確の度を判定し、次いでこれと関係諸情報とを比較総合し判決を求めるものとす。また、たとえ判決を得た情報いえども更に審査を継続する着意あるを要す。

敵情の逐次変化する過程を系統的に討究するときは、その状態、企図等を判断するの憑拠を得ることすくなからざるをもって連続的に情報を収集すること緊要なり。

既得の情報により、的確なる判決を求め得ざる場合においても、爾後速力に偵知すべき事項を判定し、もって情報収集に便ならしむるを要す。」(72条)

「情報の審査にあたりて先入主となり、或は的確なる憑拠なき想像に陥ることなきを要す。また、一見瑣末の情報いいえど全般より観察するか、もしくは他の情報 と比較研究するときは重要なる資料を得ることあり。なお局部的判断にとらわれ、あるいは 敵の欺騙、宣伝等により、おうおう大なる誤謬を招来することあるに注意するを要す。」(74条)

査覈を現代の言葉で説明すれば、その情報(インフォメーション)の情報源の信頼性や情報の正確性などを調べて評価することに相当するとみられます。

今日、インテリジェンスの世界では、情報サイクル(循環)という概念が「情報理論」として定着しています。『諜報宣伝指針』の記述内容には、すでに情報サイクルの概念、理論が盛り込まれていることに驚かされます。

わが国の軍事情報においても、戦後、米軍の教範『MILITARY INTELLIGENCE』をもとに、情報教範が作成され、そこではインテリジェンスとインフォーメーションを明確に区分し、インフォーメーションを情報資料、インテリジェンスを情報と呼称するようになりました。そして、情報資料を情報循環の過程のなかで処理して得た有用な知識が情報であり、これが伝達・配布されます。

戦後、米軍の「情報教範」から陸上自衛隊の「情報教範」を作成した、元陸上自衛隊幹部学校研究員であった松本重夫氏(陸士53期)は次のよう述べています。

「戦後、米軍の「情報教範」が理論的、体系的に記述されていたことに対し、旧軍の情報教育は“情報”をというものを先輩から徒弟職的に引き継がれていたもの程度にすぎず、「情報学」や「情報理論」と呼ばれるような教育はなかったということである」(松本重夫『自衛隊「影の部隊」情報戦)。

前出の平館氏は、以下のような発言をしています。

「私が自衛隊に入ってから、情報教育を自衛隊の調査学校でやりましたが、同僚の情報教官(旧内務省特高関係者)にこの指針を見せましたが反応はありませんでした。

 私が1952年7月に警察予備隊(後の自衛隊)に入って、米軍将校から彼等の情報マニュアル(入隊一か月位の新兵に情報教育をする一般教科書)で情報教育を受けました。その時、彼等の情報処理の要領が私が中野学校で習った情報の査覈と非常によく似ていました。

 ただ、彼等のやり方は五段階法を導入し論理的に情報を分析し評価判定し利用する方法をとっていました。それを聞いて、不思議な思いをしながらも情報の原則などというものは万国共通のものなんだな、とひとり合点していましたが、第四報で報告した河辺正三大将のお話を知り、はじめてなぞがとけると共に愕然としました。

 ドイツは河辺少佐に種本をくれると同時に、米国にも同じ物をくれていたと想像されたからです。しかも、米国はこの種本に改良工夫を加え、広く一般兵にまで情報教育をしていたのに反し、日本はその種本に何等改良を加えることもなく、秘密だ、秘密だといって後生大事にしまいこみ、なるべく見せないようにしていました。

 この種本を基にして、われわれは中野学校で情報教育を受けたのですが、敵はすでに我々の教育と同等以上の教育をしていたものと察せられ、戦は開戦前から勝敗がついていたようなものであったと感じました(『諜報宣伝勤務指針』の解説、2012年12月22日)。

 時代は遡りますが、日露戦争時、日本海海戦の大勝利の立役者・秋山真之少佐が米国に留学し、米国海軍においては末端クラスまでに作戦理解の徹底が図られていることを学習しました。

しかし、秋山は帰国後の1902年に海軍大学校の教官について教鞭したところ、基本的な戦術を艦長クラスが理解していないことに驚いたといJます。なぜならば、秘密保持の観点から、戦術は一部の指揮官、幕僚にしか知らされなかったからです。

 秋山は「有益なる技術上の智識が敵に遺漏するを恐るるよりは、むしろその智識が味方全般に普及・応用されざることを憂うる次第に御座候(ござそうろう)」との悲痛の手紙を上官にしたためました。

 なんでもかんでも秘密、秘密にする風潮は結局、昭和の軍隊においては改められなかったのです。『諜報宣伝指針』というすばらしい情報教範があったのにもかかわらず、それが改良と工夫され、情報教育の普及に反映されなかったのは残念といえます。


[1] (小野「情報という言葉を尋ねて(2)」)

[2] 「参謀局長は陸軍卿に属し、日本総陸軍の定制節度をつまびらかにし兵謀兵略を明らかにし、もって機務密謀を参画するをつかさどる。平時にあり地理をつまびびらかにし政誌をつまびらかにし、戦時に至り図を案じ部署を定め路程をかぎり戦略を区画するは、参謀局長の専任たり」とされた。大江士乃夫『日本の参謀本部』(中公新書、一九八五年)

[3] なお、初代の諜報堤理は桂太郎である。桂は1870年から3年間ドイツに留学し、帰国後に陸軍大尉に任官し、第6局勤務、ついで少佐に進級し参謀局の設置とともにその諜報堤理の職につき、75年間からドイツ公使館附武官として海外赴任し、帰国して、78年7月に再び諜報堤理に補職された。

[4] 有賀傳『日本陸海軍の情報機関とその活動』、

[5] 『野外要務令』は大正期に入り、第1部「陣中要務」と第2部「秋季演習」が分離独立し、1914年(大正3年)6月に、この第1部を基に軍隊での勤務要領を定めたものが『陣中要務令』となった。同要務令は1924年(大正13年)に改訂された。

[6]同章は第一節「騎兵集(旅)団」、第二節「師団騎兵」、第三節「斥候」に区分。

インテリジェンス関連用語を探る(その1)    

▼はじめに  

2016年1月、拙著『戦略的インテリジェンス入門』を発刊して以来、ビジネスパーソンの方々から情報分析についてお聞きしたいとの依頼が何度かありました。  

同著は、国家安全保障に携わる初級の情報分析官を読者として想定し、執筆したものです。筆者としては、できるだけ内容を簡潔に、かつインテリジェンスの全領域を網羅することに着意いたしました。

しかしながら、入門書という立場上、参考文献の記述から大きく逸脱するわけにはいきません。そのため少し説明が杓子定規になってしまい、読みづらい点があったことを残念に思っています。

ビジネスパーソンの方々にインテリジェンスや情報分析のお話ししてみて、改めて、これまで当たり前のように使用してきた「情報」「インテリジェンス」「情報分析」という言葉の意味はなんだろうか?と、自問しました。

そしてビジネスパーソンなどの方々にそれら内容を伝えるには、用語の意味や内容をさらに咀嚼し、身近な例に置き換えるなどの努力をする必要があると認識しました。

そこで、このシリーズではインテリジェンス関連用語について、できるだけわかりやすく述べてみたいと思います。なおすでに筆者の他の題目ブログにて述べたことと一部重複する個所もありますが、ご容赦下さい。

▼「情報」のルーツを探る  

現在は情報学、情報処理、情報システム、情報公開、情報戦など、情報に関連する用語が日常的に氾濫しています。すなわち「情報」は日常語になっていると言えるかと思います。

しかし、わが国における「情報」という言葉は、もともとは「敵情報告」の略語として明治時代に生まれた軍事用語です。また、他の多くの言葉のように「情報」も中国からの流入語と思われがちですが、そうではありません。ただし、「情」という言葉は、孫子の「敵の情」という用例が示すとおり、中国からの流入語となります。しかし、「情報」は、中国人自身が認めているように日本から中国に輸出されたのです。

その初出例は、1876年(明治9年)に酒井忠恕陸軍少佐が翻訳した『佛國歩兵陣中要務實地演習軌典』(内外兵事新聞局)です。同著では、情報は「情状の知らせ、ないしは様子」という意味で使用されました。つまり、情報は敵の「情状の報知」を縮めたものでした。

1901年にはドイツから帰国した森鴎外が、ナポレオンの軍事将校として勤務したクラウゼヴィッツの『戦争論』を翻訳(大戦学理)した際、「情報とは、敵と敵国に関する我が智識の全体を謂ふ」という訳をしました。

1882年に『野外演習軌典』(陸軍省)において「情報」が初めて陸軍の軍事用語(兵語)として採用されました。 『野外演習軌典』で「情報」が使われるようになった以降、他の兵書でも「情報」という言葉が使われるようになります。それと同時に「状報」という言葉も使用されます。

小野厚夫『情報ということば-その来歴と意味内容』によれば、情と状は次のとおりの違いがあります。

「情」と「状」は、いずれも「ありさま、ようす」という意味を共通にもっているが、それぞれの漢字が意味するところは微妙に違っている。

簡野(かんの)道明編の『字源』(1923年、北辰館)で「情状」を引くと、「情は心の内に動く者、状は其の外に著るる者」とあり、情は内に隠れて外に見えないもの、状は外見でわかるものを指すと解釈できる。(引用終わり)

したがって、敵の兵力や装備等の状況(事実)を斥候などによって明らかにする場合は「状報」が適しており、敵の感情の動きや意図、内部のそれぞれの事情を含めた士気・規律・団結の状況などについては「情報」が適しているという解説もできます。

ただし、上述のような用例の違いはあったとしても、両用語は明確な区別なく使用されていました。

「情報」と「状報」は、しばらく混在していましたが、1890(明治23)年頃から「状報」の用例が急減し、ほどなく「情報」に一本化されました(前掲『情報ということば-その来歴と意味内容 』)。

1891年(明治24年)、わが国最初の体系的な陸軍教範『野外要務令』が制定されました。

同要務令は日露戦争後の1907年に改定されますが、同要務令をひも解きますと、情況、情状、敵情、事情などの「情」がつく言葉は随所に登場します。しかし「情報」が登場する箇所はわずか二箇所です(筆者の検証ミスがあったらお許しください)。

ここでの使用法を抜粋します。

・「……このごとき情報を蒐集(しゅうしゅう)するは主として最前線にある騎兵の任務に属す。……」

・ 「情況を判決するには直接に敵を探偵観察して得たる情報と他の諸点より得たる認識推測を集めてなれる証迹(しょうせき、証跡)とをもってするを最も確実なるものとする。・・・・・・」

つまり、「情報」は、上述のとおり、敵や地域に関する「状」や「情」であって、戦場において敵及び地域と直接接触して得ることがおおむね認識されていたと考えられますが、軍内に広く定着する軍事用語ではなかったと判断されます。

1914年(大正3年)には、『野外要務令』を基礎に『陣中要務令』が制定されました。ここでの「情報」の使用は『野外要務令』と比べると多少増えています。しかし、「情報」の定義及び内容などを直接的に説明した箇所は見当たりません。

他方、同要務令では、「捜索」と「諜報」の定義とその内容が具体的に記述されました。同要務令は計13編の構成になっていますが、その第3編が「捜索」、第4編「諜報」となっています。つまり、「捜索」と「諜報」がそれぞれ章立てされたということになります。

そして、「捜索」とは、戦場において、主として騎兵などの第一線部隊が敵と接触して得る「敵の状・情」である旨の記述がなされています。 一方の「諜報」は、主として諜報専門部隊が住民の発言、新聞、信書、電信、その他の郵便物、俘虜などから得る「敵の状・情」である旨が記述されています。

つまり、「捜索」は戦時における戦場において第一線部隊が獲得するもの、「諜報」は戦時・平時及び戦場・非戦場を問わず諜報専門部隊が獲得するものとして、大まかに区分されたと解釈できます。

さらに昭和期に至り、1932年(昭和7年)に『統帥参考』が制定されました。同書では「情報収集」の手段を「諜報勤務」と「軍隊に行う捜索」に区分する、としています。また、同年制定の『作戦要務令』の第3編「情報」では、第1章「捜索」、第2章「諜報」に区分して、その意義や内容を具体的に記述しています。

つまり、昭和期に至ってようやく「情報」が「捜索」と「諜報」の上位概念であり、「捜索」と「諜報」を網羅するものであることが明確に規定されたのです。

(次回に続く)