インテリジェンス関連用語を探る(その1)    

▼はじめに  

2016年1月、拙著『戦略的インテリジェンス入門』を発刊して以来、ビジネスパーソンの方々から情報分析についてお聞きしたいとの依頼が何度かありました。  

同著は、国家安全保障に携わる初級の情報分析官を読者として想定し、執筆したものです。筆者としては、できるだけ内容を簡潔に、かつインテリジェンスの全領域を網羅することに着意いたしました。

しかしながら、入門書という立場上、参考文献の記述から大きく逸脱するわけにはいきません。そのため少し説明が杓子定規になってしまい、読みづらい点があったことを残念に思っています。

ビジネスパーソンの方々にインテリジェンスや情報分析のお話ししてみて、改めて、これまで当たり前のように使用してきた「情報」「インテリジェンス」「情報分析」という言葉の意味はなんだろうか?と、自問しました。

そしてビジネスパーソンなどの方々にそれら内容を伝えるには、用語の意味や内容をさらに咀嚼し、身近な例に置き換えるなどの努力をする必要があると認識しました。

そこで、このシリーズではインテリジェンス関連用語について、できるだけわかりやすく述べてみたいと思います。なおすでに筆者の他の題目ブログにて述べたことと一部重複する個所もありますが、ご容赦下さい。

▼「情報」のルーツを探る  

現在は情報学、情報処理、情報システム、情報公開、情報戦など、情報に関連する用語が日常的に氾濫しています。すなわち「情報」は日常語であると言えるかと思います。

しかし、わが国における「情報」という言葉は、もともとは「敵情報告」の略語として明治時代に生まれた軍事用語です。また、他の多くの言葉のように「情報」も中国からの流入語と思われがちですが、そうではありません。ただし、「情」という言葉は、孫子の「敵の情」という用例が示すとおり、中国からの流入語となります。しかし、「情報」は、中国人自身が認めているように日本から中国に輸出されたのです。

その初出例は、1876年(明治9年)に酒井忠恕陸軍少佐が翻訳した『佛國歩兵陣中要務實地演習軌典』(内外兵事新聞局)です。同著では、情報は「情状の知らせ、ないしは様子」という意味で使用されました。つまり、情報は敵の「情状の報知」を縮めたものでした。

その後1882年に『野外演習軌典』(陸軍省)において「情報」が初めて陸軍の軍事用語(兵語)として採用されました。1901年にはドイツから帰国した森鴎外が、ナポレオンの軍事将校として勤務したクラウゼヴィッツの『戦争論』を翻訳(大戦学理)した際、情報とは「敵と敵国に関する我が智識の全体を謂ふ」と定義しました。

また鴎外は情報とは「これ、我が諸想定及び諸作業の根底なり。敵の情報とは『敵の状・情』に関するものなり。『状』とは、敵の兵力や装備等の状況(事実)を明らかにするもの。『情』とは、敵の感情の動きや内部のそれぞれの事情を含めた士気・規律・団結の状況を示すもの」と解説しました。

『野外陣中軌典』で「情報」が使われるようになった以降、他の兵書でも「情報」という言葉が使われるようになります。それと同時に「状報」という言葉も使用されます。上述のような用例の違いはあったとしても、両用語は明確な区別なく使用されていました。

1989年(明治24年)、わが国最初の体系的な陸軍教範『野外要務令』が制定されました。同要務令をひも解きますと、情況、情状、敵情、事情などの「情」がつく言葉は随所に登場します。しかし「情報」が登場する箇所はわずか二箇所です(筆者の検証ミスがあったらお許しください)。

ここでの使用法を抜粋します。

・「……このごとき情報を蒐集(しゅうしゅう)するは主として最前線にある騎兵の任務に属す。……」

・ 「情況を判決するには直接に敵を探偵観察して得たる情報と他の諸点より得たる認識推測を集めてなれる証迹(しょうせき、証跡)とをもってするを最も確実なるものとする。・・・・・・」

つまり、「情報」は、上述のとおり、敵や地域に関する「状」や「情」であって、戦場において敵及び地域と直接接触して得ることがおおむね認識されていたと考えられます。ただし、軍内に広く定着する軍事用語ではありませんでした。

1914年(大正3年)には、『野外要務令』を基礎に『陣中要務令』が制定されました。ここでの「情報」の使用は『野外要務令』と比べると多少増えています。しかし、「情報」の定義及び内容などを直接的に説明した箇所は見当たりません。

他方、同要務令では、「捜索」と「諜報」の定義とその内容が具体的に記述されました。同要務令は計13編の構成になっていますが、その第3編が「捜索」、第4編「諜報」となっています。つまり、「捜索」と「諜報」がそれぞれ章立てされたということになります。

そして、「捜索」とは、戦場において、主として騎兵などの第一線部隊が敵と接触して得る「敵の状・情」である旨が記述されています。 一方の「諜報」は、主として諜報専門部隊が住民の発言、新聞、信書、電信、その他の郵便物、俘虜などから得る「敵の状・情」である旨が記述されています。

つまり、「捜索」は戦時における戦場において第一線部隊が獲得するもの、「諜報」は戦時・平時及び戦場・非戦場を問わず諜報専門部隊が獲得するものとして、大まかに区分されたと解釈できます。

さらに昭和期に至り、1932年(昭和7年)に『統帥参考』が制定されました。同書では「情報収集」の手段を「諜報勤務」と「軍隊に行う捜索」に区分する、としています。また、同年制定の『作戦要務令』の第3編「情報」では、第1章「捜索」、第2章「諜報」に区分して、その意義や内容を具体的に記述しています。

つまり、昭和期に至ってようやく「情報」が「捜索」と「諜報」の上位概念であり、「捜索」と「諜報」を網羅するものであることが規定されたのです。

(次回に続く)

わが国の情報史(24)

大正期のインテリジェンス(その2)

▼一時しのぎの「石井・ランシング協定」

第一次世界大戦は明治末期からの不況と財政危機とを一挙に吹き飛ばした。日本は英・仏・露などの連合軍に軍需品を、欧州列強が撤退したアジア市場には綿織物を、アメリカには生糸を輸出して大幅な輸出超過となった。

また、大戦により世界的な船舶不足になり、日本はイギリス・アメリカに次ぐ世界第三位の海運国となった。こうした日本の大躍進に警戒したのが、ほかならぬアメリカであった。

第一次世界大戦が開始した頃から、中国大陸における日米両国の利権問題やアメリカ国内での日本人移民排斥運動の動きなど、日米間には緊張した空気が流れていた。

1917年(大正6年)11月2日、日本の特命全権大使・石井菊次郎とアメリカ合衆国国務長官・ランシングとの間で「石井・ランシング協定」が締結された。 この協定は、中国の領土保全・門戸開放と、地理的な近接性ゆえに日本は中国(満州・東部内蒙古)に特殊利益をもつとする公文書であった。さらに付属の秘密協定では、両国は第一次世界大戦に乗じて中国で新たな特権を求めることはしないことに合意した。

つまり、日米双方は第一次世界大戦の最中であったので、無用な衝突を回避するために双方の妥協点を見出すという、一時しのぎの“苦肉の策”に出たのであった。

▼シベリア出兵によってアメリカの対日警戒が増大  

第一次世界大戦の最中の1917年、レーニンの指導するボリシェヴィキにより世界最初の社会主義革命が起き、1918年にロシア帝国は崩壊した。 1918年3月、ボリシェヴィキ政権は単独でドイツ帝国と講和条約(ブレスト=リトフスク条約)を結んで戦争から離脱した。

連合国側としてドイツと戦っていたソ連が裏切ったのである。 そのためドイツは東部戦線の兵力を西部戦線に振り向けることができた。これに慌てた連合国は、ドイツに再び東部戦線に目を向けさせるとともに、社会主義国家の誕生を恐れて、シベリアのチェコスロバキア軍救援を名目として内戦下のロシアに干渉戦争を仕掛けた。

しかし、英・仏はすでに西部戦線で手一杯で、大部隊をシベリアへ派遣する余力はなかった。そのため必然的に地理的に近く、本大戦に陸軍主力を派遣していない日本とアメリカに対してシベリア出兵の主力になるように打診した。

1918年7月になってアメリカがチェコスロバキア軍救援のために日米共同で限定出兵することを提起すると、寺内正毅内閣は1918年8月、シベリア・北満州への派兵を決定した(シベリア出兵)。

しかし、アメリカと日本の派兵目的は異なっていた。日本は共産主義の浸透が満州、朝鮮、そして日本に浸透することを警戒していた。そのため、オムスクに反革命政権を樹立することを目的に出兵兵力をどんどんと増大させた。

一方のアメリカの出兵目的は日本の北満州とシベリアの進出に抵抗することであった。アメリカは共産主義を脅威だとは認識していなかった。だから、ロシアの共産主義者と戦う日本軍に協力せず、かえってボルシェビキに好意を示す有様だった。

▼パリ講和条約における日米の軋轢

第一次世界大戦は1918年11月に休戦が成立した。両国とも連合国の一員として、戦勝国として1919年のパリ講和会議に参加した。 パリ講和会議のヴェルサイユ条約では、日本は山東省の旧ドイツ権益の継承が認められ、赤道以北の旧ドイツ領南洋諸島の委任統治権を得た。

しかし、その少し前に朝鮮で起きた「三・一独立運動」の影響もあって、日本のドイツ利権の継承に対して、北京の学生数千人が1919年5月4日、ヴェルサイユ条約反対や親日派要人の罷免などを要求してデモ行進をし、デモ隊は暴徒化した(五・四運動)。 この五・四運動が中国共産党の設立を促し、やがて泥沼の日中戦争へとわが国は向かうことになる。

山東還付問題については会議中からアメリカが反対した。我が国は戦勝国として臨んだ講和会議であったが山東還付問題でアメリカから批判されたことで、講和会議に参加した外交官や新聞各紙の記者は衝撃を受けた。

▼ペリー来航の目的

このように大正期において日米対立が顕著になるが、その対立の歴史はさらに遡る。 1853年のベリー来航の第一の目的は、アメリカは日本を捕鯨船団の寄港地にすることであった。当時、太平洋を漁場にした捕鯨の最盛期でもあった。日本近海には、アメリカの捕鯨船がひしめきあい、灯火の燃料にするため盛んにクジラをとっていた。

しかし、アメリカのもっと大きな狙いは中国(清)利権の獲得であった。つまり、当時4億人の市場を持つ中国への市場拡大を狙っていた。そのための寄港地が日本というわけである。

米国のアジア大陸の進出の目論みは南北戦争(1861~65年)によって、いったん中断されたが、この戦争が終わり、米国は本格的にアジア・太平洋の支配を狙いにスペインとの戦争を開始した。 1898年にハワイ、次いでフィリピンを獲得し、1902年までにフィリピン独立戦争に勝利してここを植民地として、加えてウェーク、サモア、ミッドウェー等を押さえ、南太平洋上に日本を取り巻く形で、太平洋の支配に乗り出した。

そして、いよいよ中国への進出である。しかし、すでに1898年、イギリス・フランス・ドイツ・ロシアが相次いで租借地を設けるなど中国分割が進んでいた。 そこで、アメリカの国務長官ジョン=ヘイは、1899年と1900年の二度にわたり、「清国において通商権・関税・鉄道料金・入港税などを平等とし、各国に同等に開放されるべきである」として、中国に関する門戸開放(もんこかいほう)・機会均等の原則を求めた(門戸開放宣言)。さらに1900年、ヘイは清国の領土保全の原則を宣言した。

▼アメリカのオレンジ計画

1904年、満州利権をめぐって日露戦争が生起した。この時、イギリスとアメリカはロシアの満州占領を反対して、日本支持を支持したが、日本がロシアに勝利したことで、アメリカは日本に対する脅威を増大させていった。

アメリカは1904年、陸海軍の統合会議を開催して、世界戦略の研究に着手した。ドイツを仮想敵国にしたのがブラックプラン、イギリスに対してはレッドプラン、日本に対してはオレンジプランといったように色分けした戦争予定準備計画を策定したのである。

オレンジ計画では、日本はフィリピンとグアムに侵略することが想定された。つまり、アメリカが占領した太平洋の拠点を防衛する上で、日本は想定敵国に位置付けられた。日露戦争の日本勝利によってオレンジ計画はより具体化されていった。

▼白船事件

オレンジ計画の具体化のひとつともいうべき事象が白船事件である。アメリカは1907年に大西洋艦隊を西海岸のサンフランシスコへ回航すると議会で発表した。この時にはまだ世界一周航海であることは伏せられていた。

同年12月16日、大西洋艦隊は出港し、翌1908年の3月11日にメキシコのマグダレナに到着すると、3月13日にルーズベルトは航海の目的が世界一周だと発表した。 つまり、アメリカは大西洋艦隊を大挙して太平洋に回航させ、日本近海に近づけるということ行動に出たのである。

日本の連合艦隊の2倍の規模もある大艦隊の接近は日本に恐怖をもたらした。船は白いペンキが塗られていたのでかつての黒船と区別して「白船」と言われた。

米国は、海軍力を誇示することでロシアのバルチック艦隊を破った日本海軍を牽制したのである。 アメリカのハースト系新聞その他は、日本軍がこれを迎え撃った場合は大戦争が始まるということで、世界に一斉に煽情的な報道を流した。 これに対して、日本政府とマスコミは「白船歓迎作戦」に出た。この作戦が奏功し、何事もなくアメリカ艦隊はサンフランシスコへ去っていった。

▼日本人移民排斥運動

日米関係の悪化のもう一つの背景には、アメリカ国内における日本人の移民問題があった。 1848年1月、カルフォルニア州で金鉱山が発見されると、鉱脈開発や鉄道工事で多数の中国人労働者が受け入れられた。

しかし、中国人労働者の入植によって自分たちの地位が奪われるとして、カルフォルニアの白人労働者が1860年代から脅威を覚えるようになった。そこで、1882年に中国人の移民が禁止された(排華移民法)。

他方、日本からのハワイへの移民は明治時代初頭から開始されていた。上述の排華移民法の成立と1898年のアメリカによるハワイを併合が、日本人による米大陸本土への移民を促した。

こうして日本人移民は1900年代初頭に急増した。急増に伴って中国人が排斥されたのと同様の理由で、日本人移民は現地社会から排斥されるようになり、1905年5月に日本人・韓国人排斥連盟が結成された。

1906年4月、サンフランシスコ大地震が発生した。この際、大地震で多くの校舎が損傷を受け、学校が過密化していることを口実に、サンフランシスコ当局は公立学校に通学する日本人学童(総数わずか100人程度)に、東洋人学校への転校を命じた(日本人学童隔離問題)。

この事件を契機に、アメリカでは「黄禍」は「日禍」として捉えられるようになった。この隔離命令はセオドア・ルーズベルト大統領の異例とも言える干渉により翌1907年撤回されたが、その交換条件としてハワイ経由での米本土移民は禁止されるに至った。 その後も、アメリカ合衆国の対日感情は強硬になり、1924年7月(大正13年)、排日移民法が制定されたのであった。

▼ワシントン会議における対日圧力

1921年11月12日から 翌22年2月6日かけて、第一次世界大戦後のアジア太平洋地域の新秩序を形成するための国際会議がアメリカのワシントンで行われた。 この会議には、太平洋と東アジアに権益がある日本・イギリス・アメリカ・フランス・イタリア・中華民国(中国)・オランダ・ベルギー・ポルトガルの計9カ国が参加したがソ連は会議に招かれなかった。

同会議では、重要な三つの条約が締結された。第一は「四か国条約」(1921.12月)である。これは米・英・日・仏が参加した太平洋の平和に関する条約であり、これによって日英同盟は破棄された。

第二は「9か国条約」(1922.2)である。これは中国問題に関する条約であり、中国の主権尊重、門戸開放、機会均等などが約束され、「石井・ランシング協定」は破棄された。 つまり、この条約締結により、日本の中国に置ける特殊地位は否認され、た。山東省における旧ドイツ権益を中国へ還付することになった。

第三は「海軍軍縮条約」(1922.2)であった。この条約により、主力艦保有はアメリカ・イギリスが各5、日本3、フランス・イタリア各1.67として、今後10年間は老朽化しても代艦を建造しないことが約束された。 日本国内では、この軍縮条約をめぐって、海軍軍令部が対英米7割論を強く主張したが、海軍大臣で全権の加藤友三郎が部内の不満を押さえて調印した。

▼帝国国防方針の改定

こうした情勢下、わが国は1918年(大正7年)と1923年(大正12年)に帝国国防方針を改定した。 1918年の第一次改定では、海軍の対米作戦計画は、「敵海軍を日本本土近海沿岸に引き付けて集中攻撃を行う」こと本旨とする守勢作戦であった。

これがため、米艦隊の現出を硫黄島西方海域やフィリピン島東方海面に予想し、我が根拠地を奄美大島、沖縄に求めることにしていた。 しかし、1923年の第二次改定では、「開戦劈頭、まず敵の東海における海上兵力を掃討し陸軍と協同してその根拠地を攻略し、西太平洋を制御して帝国の通商貿易を確保するとともに敵艦隊の作戦を困難にならしめ、然る後、敵本国艦隊の進出を待ちこれを邀撃し撃滅する」と改められた。

つまり、陸海軍は対米戦の場合、フィリピン島攻略を本格的に取り組むことになった。また、毎年実施された海軍大演習はこれに準拠して訓練の向上に努力させられたが、陸軍部隊の南洋委任統治領に使用することなど全然考慮されていなかった。

▼ワシントン条約からの撤退

1930年(昭和5年)に締結されたロンドン海軍軍縮条約は日本で政治問題化し、海軍内では艦隊派(条約撤退)と条約派の対立が生起した。当初は条約派が主導してようやく締結にこぎ着けたが、32年からは艦隊派が優勢になった。 1931年の満州事件とともに、海軍軍縮条約を締結するかいなかの重大な案件が持ち上がった。

元老、重臣は国力からして国際協調路線であった。陸軍も満州国建設や対ソ作戦準備の点から条約維持を主張した。 林 銑十郎(はやし せんじゅうろう、1876年~ 1943年)陸軍大臣は、大角岑生(おおすみ みねお、1876年~1941年)海軍大臣に対して条約継続を強く希望した。

岡田 啓介(おかだ けいすけ、1868年~ 1952年)総理も、軍縮会議の存続を望み五相会議で論議されたが、大角大臣は、「それでは部内が収まらない」として、ワシントン会議よりの脱退を主張した。かくして、海軍出身の岡田総理は1934年12月、ワシントン海軍軍縮条約脱退通告を米政府にいたした。

とかく陸軍が引き起こした満州事変及び日中戦争が太平洋戦争を招いたとの文脈で捉えられるが、太平洋戦争の遠因はペリー来航から始まっていた。そして、大正期の軍縮条約を是としない海軍艦艇派は対米戦に向けて準備を進めたのである。 そこには、陸海軍を統制する国家の情報機関の不在と、国際問題を大局的に分析するインテリジェンスが欠如していた。

未来において必要とされる能力と資質!  

我々の未来の環境はさまざまですが、AI(ITC含む)環境とグローバル環境に集約されます。

総務省はAI環境に必要な能力と資質について、人間的資質、企画発想力や創造性、対人間能力、業務遂行能力、基礎的素養に区分して、以下の能力や資質をあげています。

◇人間的資質:チャレンジ精神、主体性、行動力、洞察力

◇企画発想力や創造性 ◇対人間能力:コミュニケーション能力、コーチングなど

◇業務遂行能力:情報収集力、課題解決力、論理的思考力など

◇基礎的素養:語学力、理解力、表現力など  

他方、文部科学省はグローバル人材の定義に関して、要素Ⅰ、要素Ⅱ、要素Ⅲに区分して、以下の能力や資質をあげています。

◇要素Ⅰ:語学力、コミュニケーション能力

◇要素Ⅱ:主体性、積極性、チャレンジ精神、協調性・柔軟性、責任感・使命感

◇要素Ⅲ:異文化に対する理解と日本人としてのアイデンティティー

また、文部科学省は、以上のほか、幅広い教養と深い専門性、課題発見・解決能力、チームワークと(異質な者の集団をまとめる)リーダーシップ、公共性・倫理観、メディア・リテラシー等が重要であるとしています。  

筆者は20数年前、陸上自衛隊調査学校(現在の情報学校)の新米の情報教官でした。当時、1992年の自衛隊カンボジア派遣などを契機に、“情報化”と“国際化”に対応する人材育成が喫緊の課題として認識されていたように記憶しています。

そうしたなか、陸上自衛隊の情報要員に対して「養成すべき資質や能力は何か?」というテーマが“侃侃諤々”と論議されていました。

筆者は現職時、教官業務の一環として相当数の「教育課目表(レッスンプラン)」を作成してきました。 これは簡略化すれば、上級司令部が示す教育基準、学校長の教育指針、前年度の成果、内外情勢及び教育環境などを踏まえ、基本的に修得すべき能力及び資質と、内外情勢の変化を対応して修得すべき能力及び資質について、それらの具体的な内容やバランス(配当時間)を明確にします。

次に、それらの能力及び資質を明らかにしたうえで、それらを達成するための課目及び課目内容を案出して、教育基準で示された精神教育、知識教育、実習、研修などの大項目区分に従って、課目と課目内容を割り当てていくことになります。

この作成過程において、もっとも苦心するのが、養成すべき能力及び資質を案出することですが、20年前の「教育課目標」の作成過程において、上述の総務省や文科省が列挙する項目はほぼ網羅されていたように記憶しています。

当時のAI環境、グローバル環境に比べて、現在は相当に進化しています。そ して、「今後10~20年程度で米国の総雇用者の約47%の仕事が自動化さ れるリスクが高い(英オックスフォード大学でAIなどの研究を行うマイケル・A・オズボーン准教授)」、「2045年にAIが人間の能力を超えるシンギュラリティが訪れる(AI分野における世界的権威であるレイ・カーツワイル、ソフトバンク会長兼社長の孫正義氏など)」などの予測もあります。

また、グローバル化においては「ヒト」「モノ」「カネ」のボーダレスな流通が恒常化され、ITC発展とあいまって外国人労働者の流入、キャッシュレス社会、消費社会からシェア社会といった生活環境の変化がすでに起きいています。これが未来はさらに急速に進展すると予測されます。

このような環境変化に関する予測を受けて、多くの人が「10年先はわからない」、「私たちの仕事がAIに奪われる」といった不安感が次第に蔓延しつつあります。また「どのようなスキルを身に着けるべきか」などの暗中模索の思考がおこなれています。

たしかに、今後、これまでの職業がAIにとって代わられたりするといった状況が起こることは間違いないでしょう。つまり、ドライバーが自動運転技術にとって代わられた、精密技工や外国語の翻訳などがAIにとって代わられることになるでしょう。

「時代は流れる」「環境は変化する」、これは自然の法則です。そして結局のところ、先行きは 不透明であり、未来をずばっと言い当てることなど、神様でもなければ不可能です。

だから、「万物は流転する」といった自然の法則を受け入れ、そのうえで未来のシナリオを複数想定して、 基本的に必要とされる識能と資質をベースに、 自らが修得すべき識能と資質に磨きを掛けることが求められます。

ただし、筆者は上述の経験から、基本的に必要とされる能力・資質はいつの時代においても大きく異なるものではないと考えています。もちろん、それらの能力及び資質のうち、どれがより重視されるか、どの程度の語学レベルが求められるのかといった点には変化はあるでしょう。

環境の変化に柔軟に対応する(環境は変化するという事実を受け入れて、周囲の意見を聞いて自分の出来ることをやる)、リスクを恐れずに主体的・積極的に物事に取り組む、多様な仲間達と協調して困難を克服する、これらの基本的な能力及び資質があれば、「どのような環境であれ、世界であれ、領域であれ、やっていける」のではないでしょうか?

韓国海軍艦艇のレーダー照射事件について思うこと!

日韓レーダー照射問題で対立

現在、「P1哨戒機が火器管制レーダー照射による威嚇を受けた」とする日本側の主張に対して、日韓両国が真っ向から対立しています。

わが国の見識者は、「事実関係の解明が重要だ」としています。しかし、韓国側が完全否定している以上、事実関係を対外的に明らかにするためには決定的な証拠を公開して第三者の公的判断を仰ぐ以外にはありません。

つまり、P1哨戒機が解析しているであろう、『異常かつ不明』な電磁波信号を公開する必要があります。しかし、これは、自らの技術を明かし、そうでなくても先行きが不透明な韓国軍に火器管制レーダーの改良を促し、そうした情報が他の第三国に流れる懸念もあります。

こんなことは到底不可能です。その足元を見透かすかのように、韓国は逆に、「哨戒機が威嚇的低空飛行をしてきた」などと反論し、日本に対して謝罪を要求しています。他方、韓国は実務協議で問題解決を図る姿勢をちらつかせていますが、これはP1哨戒機が収集した電波情報の共同分析の提案という“魔の一手”(要は、日本側の電波情報だけが提示される)になる可能性があります。

思い起こされる大韓航空機007便撃墜事件

1983年9月に発生した「大韓航空機007撃墜事件」では、あくまでも事実を否認するソ連に対し、米国は国連の場において陸上幕僚監部調査部別室(当時)が行なった傍受交信の記録テープを証拠に「ソ連軍機が007便を撃墜した」と発表しました。

このテープの公開については、当時の中曽根総理や後藤田官房長官は当初、了承していなかったといいいます。

米国はわが国のインテリジェンスを利用することで、ソ連による航空機撃墜の事実を証明しました。しかし、わが国が長年かけて蓄積した、対ソ連のシギント収集のための指向周波数が公表され、ソ連はそれまで使用していた通信暗号を全面的に変更した。

その結果、わが国の傍受器材や傍受要領が通用しなくなり、シギント基盤は大打撃をこうむり、その再構築には多大な経費と時間を要したといいいます。

つまり、今回のような事案では、わが国は韓国に決定的な証拠を突きつけることは困難なのです。結局は事実関係の対外的公表はできないことになります。

国内向けに宣伝戦を続ける両国

日本は懸命に韓国側の危険行為の事実と、韓国側の主張の正当性のなさを主張しています。しかし、上述のように決定的な証拠が出せないのですから、あまり対外的な効果はありません。

国民に対して、粛々たる対応姿勢をアピールすることが狙いかもしれませんが、その国民からは「韓国側に明確な抗議を示せ」「具体的な措置を取れ」といった厳しい意見も多いようです。

韓国は完全に開き直って、韓国政府の立場をまとめた日本語を含む計6カ国語の動画を追加公開して、自国の立場を国際社会にアピールしています。

これに対して、日本では、「ほとんどは日本側の映像だ」とか、「こんな根拠のない主張は国際的には認めらないし、宣伝は効果はない」と、高をくくっていますが、はたしてそうでしょうか?

世界にとって日韓問題は極東アジアの些末な問題であり、どうでもよいことなのでしょう。たくさん目にしたもの、耳にしたものを批判なく信じ、利益を与えてくれるものに味方し、世論が少しづつ形成されて、固定観念になっていきます。それは、慰安婦問題などの歴史問題をみればよくわかります。

つまり、事実が正しいかどうかではなく、なりふり構わないロビー活動などにしてやられているのが現状です。

情報分析して何をするのか?

この問題については自衛官OBも含めて専門家などがコメントされています。主な意見は次のように整理できます。

◇現場サイドによる恣意的な判断でレーダーを照射したのであろう。

◇謝罪すれば済む話であった。ただし国防部は、南北関係の重視と歴史問題で支持率維持を狙う文在寅政権に対する忖度によって謝罪に応じられなくなっている。

◇日韓の軍事関係は以前として良好である。韓国海軍は実務協議で問題解決のメッセージを送ってきている。

つまり、現在の日韓関係のほとんどの問題は、文政権という不正常な一時的な状態に起因しているという見解です。

それにしても、事実関係の解明だとか、韓国側の意図だとか、情報分析ばかりしているような気がします。

筆者に言わせれば、「事実は日本側の主張どおり。でも、そんなことはもういい。それよりも、何ゆえに韓国側の意図を分析しようしているのか、情報分析の結果をどのような戦略・戦術に反映するのか、明確なスタンスを持ってほしい」ということです。

韓国はほんとうに友好国なのか?

上述のような専門家のコメントには隠れた前提があります。つまり、「日韓関係は基本的に変化がなく、韓国は依然としてわが国の友好国である。だから、昨今の北朝鮮情勢や中国情勢を踏まえた場合、韓国との緊密な軍事関係を維持する必要があるのだ」というものです。

これでは、いくら情報分析しても戦略・戦術は変わりません。すなわち、戦略・戦術にインテリジェンスを反映できません。

しかし、本当にこの前提が本当に正しいのか、一度考え直す時期に来ていると筆者は考えます。

中・韓・北VS日・米という地殻変動はすでに起きているのではないか?その背景には地政学的な力学のほかに地経学的な力学が働いているのではないか?日韓の軍事関係は良好であったのは過去、あるいは一部の高級幹部に限られているのであって、韓国軍の中堅幹部は反日・親中に傾斜しているのではないか?

これらのことを慎重に判断して、韓国との軍事関係のスタンスを見直すことが重要なのではないでしょうか。

筆者は日・米・韓の軍事関係がどの程度変化しているのかはわかりません。また、韓国の指導層にもさまざまな意見や派閥が存在することは間違いないでしょう。

ただし、インテリジェンスの視点からは「日・米・韓が協力して中国の台頭や北朝鮮の突発行動に対処すべき」との前提論に固執しすぎると、情報分析を誤りかねない、このことを申し上げておきます。

この点、有村香氏は相手の意図を分析することに終始して対応が遅れることの問題点を指摘されています。まことに拝聴の価値があります。

韓国と中国の相似性

それにしても、このような問題をめぐる韓国と中国の相似性には驚くべきものがあります。これは儒教文化など歴史的にも起因するのでしょうが、中国、北朝鮮、韓国はまさに双生児といってもよいかもしれません。

ここにはまったく日本的な禅譲、謙虚、誠実といった文化はありません。それでも、新聞等をみますと、文大統領が日本に対して“謙虚”になれ、といっているようですが、これはおそらく翻訳の誤りでしょう。中国や韓国に謙虚という言葉があるとは思えません。

第七計「無中生有」(むちゅうしょうゆう)―捏造 される領有権 問題

以下は、筆者の2016年に出版した『中国戦略悪の教科書』からの抜粋です。

― 「でっちあげ」の計略 -

「無中生有」は「無の中から有を生ず」と読む。語源は「万物は無から生ずる」との『老子』からの引用であるとされる。 本来はなかった物をあるようにみせ、その間に着実に実態を整える計略である。いわゆる「でっちあげ」「はったり」の計略である。

「無中生有」は中国の常套手段だ

二〇一二年九月、わが国による尖閣諸島国有化の以降、日中間の軋轢が急上昇した。中国国内での反日デモはまもなく収まったが、「海監」および「漁政」などの法執行船による尖閣諸島領海内への侵犯が常態化した。

二〇一三年一月一三日、尖閣諸島北方の東シナ海公海上で、中国海軍のフリゲート艦が海上自衛隊護衛艦に対し、約三キロ離れた所から、約三分にわたって射撃管制用レーダー(FCレーダー)を照射した。

わが国が中国側に対し二月五日、中国側がFCレーダーを使用したことを公表して、「危険きわまりない」と抗議した。 翌二月六日、中国外交部(外務省に相当)の定例記者会見で華春瑩(女性)・副報道局長は「外交部は日本から抗議されるまで知らなかったのか」との質問に対し、「そう理解してもよい」と返答した。

二月八日、国防部は「照射したのは監視レーダーだ」とし、FCレーダーの使用を完全否定した。そして副報道局長が「日本側の無中生有だ」と言い放った。 開き直りともいうべき完全否定は、FCレーダーを照射することの重大性を認識できる国際常識は持ち合わせていたことを示すものであろうが、一方、中国指導部は予期しない事態の対応に迫られたことで、「無中生有」だと居直り、完全否定を押し通すしかなかったと推察される。 また、副報道局長の「無中生有」発言は、中国がこの計略を常套手段として、平素から多用している証左であろう。

抗議には逆抗議で居直る

二〇一四年五月二四日、中国の戦闘機二機(Su-27)が東シナ海上空で自衛隊の情報収集機(YS-11EB)に約三〇メートまで接近した。同年六月一一日に、オーストラリアの国防相と外務相が来日中に、中国の戦闘機二機がふたたび自衛隊の情報収集機に接近した。

小野寺防衛大臣(当時)が、「こうした危険な飛行を行なわないよう」に外交ルートを通じて抗議した。これに対し六月一二日、中国国防部は「東シナ海の中国の防空識別圏で定期哨戒飛行中のTu-154型機が日本のF-15戦闘機二機に三〇メートルの距離に異常接近された」として、〝証拠〟の動画を公表した。

この動画を分析したわが国の専門家によれば、日中双方の航空機の距離は十分に保たれており、中国側の主張はまったくの捏造であった。 中国国防部は、わが国の抗議に対して居直り、逆に「自衛隊機の異常接近」をでっち上げることで、わが国を逆牽制するとともに、諸外国に対して、自らの正当性をアピールする国際宣伝戦に出たものとみられる。

尖閣諸島の領有権は〝でっちあげ〟

最近の日中間対立の直接原因は尖閣問題にある。これについても、中国側による「無中生有」であることを指摘しておかねばならない。

わが国は一八八五年から尖閣諸島に対する現地調査を開始し、台湾割譲が合意される下関条約の締結以前に、同諸島が占有者のいない土地、すなわち国際法上の無主地であることを確認し、わが国領土に編入した。 これに対し、当時の清国からは、なんらの異議申し立てはなかった。

その後、尖閣諸島は一九五一年の「サンフランシスコ平和条約」で沖縄本島とともに一時的に米国施政下に置かれ、七一年に、「沖縄返還協定」に基づき、沖縄とともに施政権が返還された。

この間、中国は尖閣諸島の領有権を公式に主張したことは一度もない。中国が五八年に発表した「領海声明」においても、尖閣諸島は中国の領土だと主張されていない。

ところが、中国は一九七一年、「尖閣諸島は中国古来の領土である」との領有権主張を開始した。これは、国連アジア極東経済委員会が同海域の海洋調査を実施し、六八年に「同海域には大規模な石油・ガス田が存在する可能性が高い」こと発表したことに対応したものである。

その後、「日中平和友好条約」の締結が大詰めに近づいていた一九七八年四月、中国の武装漁船が同諸島付近に集結し、日中に一挙に緊張が高まった。この際、鄧小平(とうしょうへい)・副主席が「問題を後代に委ねよう」と「棚上げ」を提唱し、尖閣問題は一応の沈静化をみた。 

しかし一九九二年、中国は「領海法」を制定し、南沙諸島などに加え、尖閣諸島の領有権を明記した。つまり、中国はいったん自ら「棚上げ」を提唱しておきながら、一方的にそれを放棄した。 中国は尖閣諸島の領有権を〝でっち上げ〟、そして「棚上げ」論でわが国を油断させ、その間に尖閣諸島が「自らの古来の歴史的領土」であることを正当化する文献の収集と、自国にとって都合の悪い日本側の文献・地図の棄却を行ない、「領海法」という国内法でもって外堀を固めた。

明代に著された書物に釣魚台の文字が記述されてあったとの主張を中心に、領有権の存在を国内外に喧伝していく一方で、尖閣諸島と記述されている『中国地図集』は都合が悪いため、中国政府が躍起になって回収しているといわれている。 まさに「無中生有」の実践が行なわれているのである。(以上、引用終わり)

さいごに

今回のレーダー照射事件はおそらく、今後の日韓関係の未来に起こり得ることの氷山の一角なのでしょう。

事実関係や直接的な原因を追求することも重要ですが、一角の現象はどこから来ているのか?地理、歴史、文化など、さまざな根底要因を洞察することが重要です。そして、大きな変化はとらえることが重要です。

その分析手法を氷山分析といいます。興味のある方は検索してみてください。

外国人労働者はわが国に幸運をもたらすか!

人口構造の変化

わが国は少子高齢化に急速に向かっており、労働人口の現象、地方における限界集落など、さまざまな悪影響が懸念しています。他方、世界では未だに人口が増加して、アジアやアフリカにおいては多くの余剰労働力があります。

そこで、わが国の少子高齢化の対策を考えるうえで、世界における爆発的な人口増加は何がもたらしたのか?この要因をPESTで分析してみましよう。

政治(P)では政府の政策に作用される側面が大きいと考えます。

中国は第二次世界大戦後に爆発的な増加の道を辿ります。これは中国政府が「人口が多いのは重要な国家財産である」と楽観的な思想の下で人口増加政策を推し進めたことにあります。

その反動から1979年から「一人子政策」を開始しましたが、2016年から労働者人口が減少に転じたために、一人子政策を廃止しました。

経済的(E)には工業化による経済成長が大きく左右していると考えられます。

世界的な人口爆発は、18世紀の農業革命とその後の産業革命時期に起きます。つまり、大量の食糧や商品を生産して消費する消費経済が人口増に適していたわけです。  

社会的(S)には戦争との関係が大きいとみられます。

第二次世界大戦後、世界各国にはベビーブームが訪れますが、これは終戦による安堵感から沢山の子供が出来たとみられます。   

技術的(T)には、テクノロジーによる食糧や物の生産力の向上があげられます。

農業分野におけるテクロノジーの導入は穀物生産量の大幅増となり、これが人口増加に直結しました。また、医療技術の進歩によって安定出産と長寿化が図られました。

日本の第一次ベビーブームの到来

わが国の第二次大戦後に第一次ベビーブーム期(1947年~1949年)を迎えます。つまり、終戦による社会の変化、安心感が人々に子供を持つ希望と勇気を与えました。

1949年には年間出生数は約270万人の最高値を記録しました。第一次ベビーブーム期の3年間に生まれた人たちが「団塊の世代」と呼ばれます。これは約800万人に達していました。

やはり、人口増の背景には政府の政策が大きく作用しました。第二次世界大戦後、経済復興のための政府は「生めよ、育てよ」をスローガンにした 子供の出生を奨励しました。この政策と、社会的な平和、そして飛躍的な経済発展による景気感が第一次ベビーブームの到来となったのです。

このように出生率が向上して、テクロノジーの恩恵によって医療技術がもたらす長寿化が、わが国の人口を急激に押し上げたのです。

わが国の出生率は早くから低下した

しかしなが、わが国の出生率は意外にも、第一次ベビーブームが終わるとすぐに低下することになります。

第一次ベビーブーム期から約20年後の1970年代初頭、第二次ベビーブーム期(1971年~74年)が訪れます。この時期には毎年約200万人、計800万人の子供が生ました。これは「団塊ジュニア」と呼ばれます。

このベビーブームは、第一次ベビーブームの「団塊世代」による“ボーナスの配当”です。実は、女性一人の少生率に限ってみれば、それ以前から減少していたのです。

合計特殊出生率(15歳から49歳までの女性1人の出産率)は第一次ベビーブーム期には4.3を超えていました。しかし、その後、特殊出生率は急激に落ち込んでいき、第二ベビーブーム期には約2%になっていました。

人口を維持できる合計特殊出生数の水準は2.07とされることから、すでに未来の危機となる少子化の傾向は始まっていたたわけです。 このように、出生数の低下という現象は穏やかに始まっていましたが、「団塊の世代」という大きな分母が「団塊ジュニア世代」という大きな分子を生んだのです。このことが、政府は国民の未来への楽観視へとつながったのかもしれません。

1975年以降の出生数はほぼ減少し続けていきました。合計特殊出生率も漸減していき1989年には1.57まで落ち込み、「1.57」ショックと呼ばれました。なお、この影響には、この年にあたる「丙午(ひのえうま)」に生まれた子供は縁起が悪いというジンクスの影響が加算されました。

合計特殊出生率の低下により、団塊ジュニア世代が結婚適齢期になる1990年代の前半になっても、第三次ベビーブームは起こりませんでした。合計特殊出生率は2005年には過去最低の1.26まで落ち込みました。

その後はやや持ち直し、最近では1.5弱を維持していますが、2016年以降また減少傾向にあります。

出生数の方も1975年以降、減少の一途をたどり2016年からは毎年100万人を下回っています。第二次ベビーブーム期の約半分まで落ち込んだことりなります。

しかし、それでも人口全体の数はずっと増え続けていました。なぜならば医療技術などによって平均寿命が大幅に伸びたからです。このことが、人口構成の変化がもたらす危機についての認識欠如に繋がりました。

平均寿命は戦後ほぼ一貫して伸び続け、1990年と2017年を比較すると、男女ともに5歳以上を伸長しています。 しかし、長寿化の速度を少子化の速度が上回ったことから、わが国は2010年から歴史上初の人口減少を迎えました。

この場に及んでようやく人口の問題がクローズアップされます。しかし、その問題の原因ははるか昔に発生していました。政府や国民の楽観視が問題解決の本質に気づかなかった、気付こうとしなかったといえます。

日本の人口予想

人口減少の傾向は、2010年の1億2806万人が、2040年には1億728万人になると推測されています。 また65歳以上の高齢者が社会全体に占める割合は、2010年には23%であったが、2035年には33%を超えて3人に1人が高齢者となります。2042年には高齢者3878万人でピークを迎えますが、高齢者率はその後も増え続け、2060年には約40%に達すると予測されています。

このようにわが国は少子高齢化に向かって進んでいますが、高齢化の波を押しとどめることは道徳的、倫理的な観点から不可能です。 したがって少子化の改善が急務となっています。つまり直接的な人口減少原因である出生率の低下に歯止めをかける必要があるのです。

先に見てきましたように、世界的な人口増加は終戦、政府の政策、経済発展、テクノロジーの進化がもたらしましたが、これからは消費社会からシェア社会へと移行していきますので、世界的に人口増加という方向には向かうわけではありません。

しかし、わが国における少子高齢化という歪な体制を解消するためには、当面の出生率を回復・上昇することは不可欠です。

その出生率の低下は女性の高学歴化や社会進出の影響が大きいとされます。1950年代の後半から日本は高度成長期に入り、経済の中心は農業から工業・サービス業へと移り、学校を終えた女性が外で働くことが一般的となりました。1967年には、初めて女性雇用者の数が1千万人を超えました。

さらに政府による女性の労働奨励(1986年の男女雇用機会均等法)、中絶合法化、男女同権などの政策が出生数にブレーキをかけていきました。

また人口減少が地方都市での産業の空洞化を生み、大都市に人口流出が起きたことも少子化の原因です。都市部への人口集中が起きると、そこでは経済の過当競争が起こり、共働き家族が増えます。すなわち女性の社会進出によって、ますます少子化が加速することになるのです。

女性の社会進出が少子化につながるという悪循環

わが国は世界でも類をみない少子高齢化社会の到来を迎えて、労働力不足のための外国人労働者の受け入れや、高齢者の活用、さらにはAI(人工知能)などを模索しながら、少子化の根源原因の改善に努めなければならないとみられます。

少子化が直面する喫緊の課題が労働力不足です。この対策の一つとして、政府は女性の活用を挙げています。しかし、 しつかりとした対策を講じなければ、 先述のように女性の社会進出が少子化の原因となったのですから、負のスパイラルに陥る可能性があります。

政府は女性の活用を促進しつつ少子化を抑制するために、子育て支援、働き方改革などを推進する方向を示しています。しかしながら、女性の社会進出によって女性の結婚観、人生観にも変化が見られています。このような価値観の変化には政府による各種の優遇策は無力であるかもしれません。

ただし、同様に少子化で苦労していたフランスでは、金銭的な子育て支援策のほかに、結婚に縛られない出産環境を整えました。現在で50%以上がシングルマザーとなり、合計特殊出生率も2.07%を上回っています。 このことは、わが国にも一縷の希望をもたらすことになるかもしれません。

外国人労働者の問題

労働力不測の対策のもう一つの対策である外国人労働者についてはどうでしょうか?

これについては賛否などについて侃侃諤々の議論がなされていますが、昨年(2018年)暮れに、筆者はある出版社の社長さんと、銃器の世界的な権威であるT氏と会食する機会があり、その時にT氏がお話しされたことがとても有益だったので、皆様に紹介します。  

T氏はドイツと日本で計50年生活されている国際人です。そ の方から見る、現在の日本人や日本の在り方論には大いに感銘を 受けました。

よく未来予測は「すでに起きている現実に着目せよ」と いわれますが、ドイツは少子高齢化の先進国です。 つまり、日本が労働力不足解消のために外国人労働者の受け入れることが、どのような未来を引き起 こすかを予測するには、ドイツですでに起きている現象を知ることが重要なのです。  

ドイツはその労働力不足の解消や、グローバル化の世界的な影響を受けて、どんどん移民を受け入れています。 T氏によれば、ドイツではイスラム系トルコ人が移民として移 り住んでおり、とくに問題となるのが、ドイツ国籍を取得したトルコ系二世のドイツ人なのだそうです。  

最初に父親たちがトルコからドイツに移住します。彼らはドイ ツ人女性とは結婚せずに、トルコ人女性との結婚が主流のようです。父親は仕事に就くために、努力して語学を修得します。でも、 遅れてドイツにやって来る母親(恋人)は生活に必要なドイツ語 しか修得しようとしません。  

だから、その両親によって育てられる二世は、言語でドイツ人 と障壁を持つことになります。また、風貌もドイツ人とは異なっていますし、宗教はイスラム教です。つまり、ドイツ社会では法 や規則ではわからない、知らず知らずの差別化が生まれているの だそうです。

こうした若者は自分のアイデンティティーに疑問やジレンマを抱くことになります。そして集団に属さない、行き場のない若者が生まれるのだそうです。

おそらく、そこにテロ組織が目をつけて、彼らの所属先を提供 し、これがテロ組織の勢力拡大や、ローンウルフ型のテロを生む原因となっているのだと思います。  

また、イスラムでは4人まで妻を持つことができるようです。 成功したトルコ人は複数の妻を養おうとして、それがドイツ政府との間で問題となっているようです。こんなことはドイツでは当然許されません。

また、心のよりどころが欲 しくなり、成功したトルコ人はモスクを立てようとします。しか し、ドイツとしては、どこでもかしこでも宗教的建築物を建築してもらつてはこまります。だから、それを拒否する政府とイスラム系トルコ人との軋轢という問題が起きているようです。  

つまり、宗教、文化といった障壁が、トルコ人とドイツ人の拭い切れない内部対立を生んでいるようです。  

さらには、一部のドイツ人がトルコ人になりすまし、「いかに差別された労働環境で働かされたか」といったドキュメンタリー記事を書いて、大注目されるといったことも生起したようです。  

どの世界でも、反政府派は存在します。彼らは現政権を打倒す るために、差別や“ブラック”を意図的に用いて大衆の不満に訴 えるというのが常套なのです。

T氏のわが国の未来への警鐘 

そのほかにも、T氏からはさまざまな有益なお話を賜りましたが、わが国の政策についてのT氏の懸念をいつくか紹介します。

○歴史的に民族の往来があるドイツでもこういう状況です。島国である日本に、たとえばインドネシアからイスラム系の外国人労働者がたく さん入国したらどうなりますか?多神教のわが国が、どの程度イスラム教を容認できますか?

○徴用工の問題がありますよね。彼らは自主的に日本での仕事に 志願したにせよ、目に見えない仲間内の差別は当然あったでしょ う。これと同じようなことが、あらたな外語人労働者との問題と して起こる可能性はあります。徴用工のような問題がふたたび未来に起こる、それを政府は理解しているのでしょうか?

○外国人労働者を5年間も日本で働かせて、「ハイ、さよなら」 とはいきません。彼らが自国に帰っても、すでに生活基盤はあり ません。結局は、日本に住むことになります。そうしたことを考 えていますか?都合の良い弥縫的な政策でお茶を濁そうとしていませんか?

○外国人による刑事事件が生じれば、警察には特殊言語の専門家が必要です。また行政の窓口にも特殊言語の専門家がいります。 それも規模が拡大すれば市町村レベルまで必要になります。こ ういう点を考えると、労働力不足の解消にはつながりません。もっとA Iの導入などをしっかりとやるべきでしょう。  

まさに、ドイツの現状を知る人ならではの貴重なお話でした。

わが国の情報史(23)

大正期のインテリジェンス(その1)

▼光と影の大正期  

1912年(明治45年/大正)7月30日、明治天皇崩御の報が日本列島を駆けめぐった。ここに「明治」の御代は終わり大正が始まる。実際は、明治天皇は前日の29日の午後10時4 3分に崩御されたが、公式には2時間遅らせて30日の0時43 分とされた。  

その大正天皇は1926年(大正15年/昭和元年)12月2 5日に崩御された。この時、元号は「光文」と報じられたが、誤報として「昭和」に訂正された。おおらかな時代ではあった。  

大正はわずか14年半と短かかったこともあり、明治と昭和の 激動期に挟まれ、ともすれば注目度が薄い。しかし、インテリジェ ンスの歴史において、シーメンス事件、シベリア出兵、ワシント ン海軍軍縮会議など、決して無視してはならない事件・事案があ る。

大正は明治末の重苦しい時代から解き放たれて、「大正デモク ラシー」「大正ロマン」に象徴されるように社会全体は解放的で軽快なイメー ジがある。たしかに、そこにはサラリーマンを中心とした中間層の文化的な生活欲求によって生み出された明るい生活があった。  

しかし、社会のさまざまな局面で矛盾や問題が露呈していった。 中間層の生活の豊かさと、その影で深刻化する矛盾や問題の進行 という、“光と影”に彩られた大正期を駆け足で眺めてみよう。

▼世界史的には激動の時代  

世界史的にはまさに激動期といえるだろう。20世紀初頭の欧州は、英・仏・露などからなる三国協商と、独・墺・伊からなる三国同盟との両陣営の対立を軸として、複数の地域的対立を抱える複雑な国際関係を形成していった。  

そこに、1914年6月28日、オーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者であるフランツ・フェルディナント大公夫妻がサ ラエボで銃撃された。これが第一次世界大戦の幕開けとなった。  

各国は英・仏・露からなる連合国と、独・墺・伊およびオスマ ン帝国からなる同盟国との両陣営に分かれ総力戦を展開した。中立を宣言していたアメリカまでもが1917年にドイツに宣戦布告する。

この戦争は1918年まで続き、おびただしい惨劇を出 して、やがて連合国の勝利で終わることになる。

わが国は日英同盟に基づき、連合国側に参戦し、中国大陸と太平洋地域のドイツ支配地(膠州湾の青島、マーシャル、マリアナ、 パラオ、カロリンのドイツ領北太平洋諸島)を攻撃したほか、ま た一部艦隊を地中海に派遣した。  

ドイツ権益を奪ったかたちの日本は、「対華21カ条の要求」 を出し、袁世凱政府にほぼその要求を呑ませた。これにより、日 本は山東半島などに中国大陸侵出の足場を築いた。また太平洋方 面でもドイツ領を委託統治領として獲得した。

しかし、このような大陸進出の本格的な動きを、アメリカ・イ ギリスが警戒して、日本の大陸政策をめぐる英米との対立の出発 点となったのである。

▼第一次世界大戦で戦訓を学ばなかった日本  

この大戦では、戦車戦や砲兵戦の重視、歩兵における機関銃の役割、炊事車の導入、隊員の休養、家族とのつながり、精神的ケ アなど、多くの学ぶべき戦訓があった。  

海上作戦においては、潜水艦戦と対潜作戦が重視された。この作戦とともに、敵の潜水艦の位置を突き止める熾烈な情報戦、とくに暗号解読戦が繰り広げられた。

空中作戦では新兵器として航空機が登場した。開戦時にはよう やく飛ぶのが精いっぱいであった戦闘機は、わずか4年の大戦中 に大きく進歩した。これにより、偵察飛行、水上機による基地攻 撃、爆撃機による都市爆撃が可能となった。このため、イギリス、 フランス、ドイツでは陸軍航空隊が組織として誕生した。

航空機のもたらす偵察情報はしばしば戦闘に大きな役割を果た し、砲兵観測は既存の直接射撃主体の砲兵の戦術を一新するなど、 航空機は陸戦の勝敗を決する上で非常に重要な兵科となった。

このように、第一次世界大戦は戦訓の宝庫であったが、わが国はあくまでも補助的な限定参加であったこともあり、真摯にその教訓を得ようとはしなかった。また、明治維新の功労者は一人、また一人と第一線を退き、こ の世を去ろうとしていた。つまり、そこには羅針盤のない“昭和丸”の暴風における船出が待っていたことになる。

▼第一次世界大戦で繰り広げられたスパイ戦  

第一次世界大戦を経験し、世界各国は軍事のみならず政治、経済、 思想などを総合的に駆使する総力戦の重要性を認識するに至った。  

戦争が総力戦になるにともない、スパイ戦も熾烈化していった。 この大戦では、ドイツと英・仏との間でも熾烈なスパイ戦争が繰 り広げられた。ドイツは英・仏に対してスパイを潜入させる工作を活発化させた。有名なところで、女性スパイのマタハリが世界 的に注目された。  

ドイツは中立国スペインなどを拠点に英・仏に対するスパイ活動を展開した。 他方、英国は優れたシギント(信号情報)機能を駆使するとと もにロシアの協力を得てドイツの暗号解読に成功し、大戦のほぼ全期間にわたってドイツの艦隊に関する情報を把握していた。  

中東方面では、イギリスから派遣された「アラビアのローレンス」こと、トーマス・エドワード・ローレンスは、オスマントル コに対するアラブ人の反乱工作を展開して、有名になった。  

しかし、わが国は専門の国家中央レベルの情報機関を設置するでもなし、日露戦争後からずっと諜報・謀略を組織的に管理するという方向も示さなかった。

昭和初期まで諜報、謀略を担当する部署はまったくの小所帯で あった。参謀本部第5課第4班でやっと謀略を扱うようになった のは1926年(大正14年)末のことである。

▼シベリア出兵と日ソ基本条約  

大正期にはわが国とソ連との緊張と修復の関係が続いた。第一次世界大戦の末期、1917年に十一月革命(旧:10月革命)が勃発した。革命政府がドイツとの停戦に乗り出すことにな ると、アメリカ・イギリスなど連合国はロシア革命に干渉して革 命政府を倒し、対ドイツ戦争を継続する勢力を支援しようとした。

日本も同調し、1918年には日本軍もシベリア出兵を行ない、 シベリアで革命政府のパルチザンと戦い、途中、ニコライエフス ク事件で日本軍守備隊が全滅するなど、成果を上げられないまま、 22年までシベリアに留まった。  

1917年のロシア革命によって、日ソ両国は国交を断絶した。 しかし、ソビエト連邦の安定化とともに、冷却した日ソ関係が日本経済に大きな不利益を発生させていた。  

基本条約の内容は、外交・領事関係の確立、内政の相互不干渉、 日露講和条約の有効性再確認、漁業資源に関する条約の維持確認および改訂、ソ連側天然資源の日本への利権供与を定めたものであった。日本は、軍を北樺太から撤退させる一方、北樺太の漁業 権と石油・石炭開発権を獲得した。  

当時、日本は共産主義への敵視が強かったため、シベリアから の撤兵後も国交正常化の動きには国内の右翼や外務省は反対した。 外務大臣の幣原喜重郎は、共産主義の宣伝の禁止を明文化して、 国交回復を実現した。

また1924年から、イギリスやイタリアがソ連と国交を回復 した。こうしたことから、1925年1月20日、日本はソ連と 日ソ基本条約を締結して、国交を正常化させた。  

他方、1921年のワシントン海軍軍縮会議の結果調印された 四カ国条約成立に伴って、日英同盟が1923年8月17日に失 効した。このことも、第二次世界大戦での敗戦の原因となった。

▼特務機関の設立  

わが国は米英の要請でシベリアに出兵した(1918~22年)。19 19年に関東都督府が関東庁に改組されると同時に、関東都督府 の陸軍部が、台湾軍、朝鮮軍、駐屯軍と同じく、関東軍として独 立した。  

じ来、満洲地方が日本の大陸進出の拠点として本格的に活用さ れるようになった。また、満洲は経済資源の宝庫であり、満洲事 変にはじまる日中戦争の発火源ともなった。  

陸軍史上初めて特務機関なる名称が登場したのはシベリア出兵 時に設立されたハルビン特務機関である。 初期の特務機関はシベリア派遣軍の指揮下で活動し、特務機関員の辞令はシベリア派遣軍司令部付として発令された。

当初はウ ラジオストク、ハバロフスクなどに設置され、改廃・移動を繰り 返しながらシベリア出兵を支援した。  

黒沢準(くろさわひとし)少将が率いるハルビン特務機関はイ ルクーツク、ウラジオストク、ノボアレクセーエフカ、満洲里、 チチハルなどに駐在していた情報将校グループを統轄し、シベリ ア撤退後も現地に残って終戦まで情報収集にあたった。  

ハルビン特務機関の設置以降、わが国は中国大陸において諜報・ 謀略などの特殊任務(秘密戦)を担当する機関を次々と設置し、 これを特務機関と呼称した。なお、特務機関の名称の発案者は、 当時のオムスク機関長であった高柳保太郎(たかやなぎやすたろ う)陸軍少将で、ロシア語の「ウォエンナヤ・ミシシャ」の意訳 とされる。 こうした特務機関を中心にした諜報・謀略活動は、昭和期の土 肥原賢二(どいはらけんじ)大佐などの特務活動へとつながるこ とになる。