わが国の情報史(47) 秘密戦と陸軍中野学校(その9)

-陸軍中野学校の曲解を排斥する-

▼中野学校の過大評価は禁物  

 ともすれば、戦後の中野学校に関する映画などの影響により、同校が「秘密戦士のスーパー養成機関」のようにもてはやされる。さらに中野学校を謀略機関のように扱い、中野学校が学生を教育して謀略に差し向けたかのような誤解さえ生じている。中野学校は教育機関であって、謀略機関ではないし、特務機関でもない。  

 また戦後になって「中野学校の設立が10年早ければ」とよく回顧されたようである。しかしながら、この評価についても、もうすこし冷静に判断しなければならない。  

 8丙の加藤正夫氏は自著『陸軍中野学校 秘密戦士の実態』の中で、「歴史に『もしも……』ということはありえないが、陸軍中野学校の設立が昭和13年ではなく、それより10年早い昭和3年であったら、大東亜戦争の日本のあのような敗北はなかったのではないかとの見方もできる」と述懐している。  

 加藤氏の見解を整理してみよう。

・中野学校出身者の主流は普通の大学、高等専門学校出身者であり、柔軟な思考法で戦争に対処し、武力戦で強引に勝つこととのみは考えず、秘密戦によって難局打開を目指していた。  

・しかしながら、1期生の陸軍での最高階級は少佐であり、軍部内での影響力はなかった。  

・仮に、昭和3年であれば、将官クラスをも輩出し、軍内での影響力を有したであろうし、世界情勢を正確につかみ、正確に判断することを常に心がけていた中野学校出身者であれば、秘密戦による早期和解も可能であったであろう。  

 筆者は、これも客観的根拠のない中野学校への過大評価である。

 当時の陸軍内においては陸軍大学校出の作戦将校が幅を利かせ、同じ陸大出でも情報将校は軽視された。さらには陸軍内では東條英機率いる「統制派」あるいは「親独派」が幅を利かせ、海軍内部においても陸軍を北進から南進へと転換させ、対英米決戦に持ち込もうとする派閥もあった。 松岡洋介外務大臣も親独派で、それに追随する外務省幹部も対英戦争を指向した。  

 このように1920年代から30年代にかけてのわが国は、国家全体として戦争遂行の道を歩んでいたのである。わが国の世論の全般も戦争を支持する趨勢にあった。  ようするに、軍内では官僚主義が蔓延(はびこ)り、国家全体が戦争賛美にかられていた。中野学校がもう10年早くできようが、そしてリベラルな一般大学での卒業生が将軍ポスト就任しようが、作戦重視、親独主義という牙城を崩すことは容易ではない。  

 中野学校は「替らざる武官」を養成するために設立された。当時、情報戦に後れをとっていたわが国であったが、起死回生とばかりに中野学校の期待する者は、陸軍参謀本部のロシア課などを中心とする一部であって、陸軍参謀本部の総意ではなかった。

 たしかに当時、秘密戦の重要性に対する認識は高まったが、それも、しょせんは「“縁の下の力持ち”的な、割に合わないことはやりたくない」とする陸大出の作戦将校あるいは情報将校などのエゴにすぎなかったのではなかったのか?  

 当時の諸外国では、情報将校としてずっと同じ場所で外国勤務を続けて昇進していたという。しかしわが国の官僚制度が同一の補職や同じ勤務地では昇任条件を満たさなかった。むしろ、「替らざる武官」を新たに養成するより、官僚制度の弊害を改める努力はしなかったのか?ここにも疑問が残る。  

 ひるがえって明治の時代においては、陸大を出ずにほぼ情報一筋で海外勤務を続けた柴五郎は大将まで昇任した。桂太郎も最初は情報将校であり、川上操六参謀総長は情報将校を優遇した。この点は教訓にならなかったのか?  

 日清・日露戦争における勝利は、縁の下の力持ちに徹した情報将校の活躍があったと思われる。しかし、情報活動というか、秘密戦というものは目に見えないから、評価が難しい。あの明石大佐でさえ、情報関係者からは絶大の評価が与えられたが、凱旋帰国はなし、その復命書はホコリ塗(まみ)れ、という状態で決して評価は高くなかった。  

 結局、日清・日露の勝利の手柄は、声の大きい作戦将校に持っていかれ、情報将校やその関係者は隅におかれ、やがて情報の軽視が始まったのではないか? 『孫子』がいうように情報を成果が見えにくいので、最も手厚く報いなければならなかったが、その原則がわが国には確立できなかったのではないか?  

 この点、織田信長が今川義元を桶狭間で破った時、信長は、功名第一は、「義元、ただいま、田楽狭間に輿(こし)をとどめ、昼食中」と義元の居場所を伝えた梁田政綱(やなだまさつな)、第二は義元に一番槍をつけた服部小平太、第三は義元の首をとった毛利新助(義勝)とした。奇襲のお膳立てをした梁田の諜報・謀略を最も重視したのである。 すなわち、我が国は日本史から学ぶ貴重な戦訓も忘れて、日清・日露の戦争にうかれた。  

 ソ連はKGB出身者が大統領になる国である。そこには、民族と地勢、そして宗教が複雑に交錯した国境線を持ち、内乱や革命を経験した情報重視の伝統が生き続けている。しかるに、わが国のような島国国家にはなかなか情報重視の気風は育たない。

 この弱点を真に認識し、国家上層部が真にインテリジェンスの重要性を理解し、情報重視の気風を育て、人材育成に予算を重点配分しなければない。でなければ、どのような時代に中野学校、いや第二の中野学校ができようとも、たいした影響はないのだと考える。  

 中野学校のスーパー性を風潮することで満足して、本質を忘れて、思考停止に陥ってはならないのである。

▼中野学校に関する曲解が横行  

 戦後になって中野卒業生がわが国において暗殺や毒殺、拉致などを働いたなどの記事が書籍や雑誌に掲載されることは多々ある。誤解ならぬ、意図的な曲解である。  

 たとえば、元公安調査庁第2部長の菅沼光弘氏の著書『ヤクザ説妓生(キーセン)が作った大韓民国-日韓国戦後裏面史』(2019年2月、ビジネス社)には、中野学校出身者が金大中拉致に関わった旨が書かれている。 しかし、これには根拠といえるようなことはなにもない。  

 また、2015年4月の雑誌『ムー』(学研パブリッシング)に「陸軍中野学校極秘ファイル:終戦直後、スパイが画策した恐るべき謀略 禁断のマッカーサー暗殺計画」と題する斉藤充功氏の記事が掲載されが、これも信憑性に欠ける。  

 さらに過去に遡れば、わが国の帝銀事件や下山事件などの歴史的事件にも、中野学校出身者の関与を匂わせるような文脈があるが、これも説得力はない。これらに対しては、すでに中野学校関係者などによる論駁がなされているので、ここでは詳細は避けたい。

▼曲解の第一は、中野学校に対する認識不足  

 こうした事件や謀略に対する中野学校の関与説を振り回す原因を考えてみれば、第一に中野学校に対する認識不足があげられる。 中野学校は秘匿された存在であったので、のちに中野学校の映画が制作された際、中野学校に隣接する憲兵学校出身者が自分たちのことを世間が中野学校出身者だと信じ込んで、撮影のアドバイザーになったとの、笑えない“笑い話”もある。  

 中野学校はまず謀略機関ではないし、たとえ中野学校出身者が特務機関に配備されたとしても、その行動の主体は特務機関であって中野学校ではない。これに関しては、当時の陸軍の軍事制度や教育制度に対する認識不足を改める必要があろう。  

 また、中野学校において“007的”な技術教育が行なわれたことも事実ではあるが、これまで述べたとおり中野学校で最も重視されたのは「誠の教育」であった。  

 筆者は、中野学校を研究して創設者の秋草氏などの思想の一端に触れ、国体学を教育した吉原教官の思想に思いを馳せるようになって、中野卒業生が、安易に謀略に手を染めたなどは信じられなくなったし、また信じたくもない。  ただし、「やっていない」ことを証明することは「悪魔の証明」といって不可能であるので、そこに勝手解釈なストーリーが蔓延ることになる。  

 そして、戦後の映画などに登場した盗聴器、マイクロカメラ、隠しインクなどの秘密戦器材や、時限式爆弾、毒ガス、開錠、暗号解読、変装などの秘密戦技術を使用した訓練状況などが、観客を引き付けるストーリー性を持った。 このことで中野学校=スパイ学校、さらには秘密戦実行機関、中野学校卒業生=スパイという認知が短絡思考によって行なわれた。  

 映画などでも「誠の教育」については強調しているが、視聴者はどうしても、わかりやすい、短絡的思考による認知へと向かわざるを得なかった。 ようするには、誠の精神教育の存在を無視して、上述のような点ばかりに注目して表層的かつ断定的な判断をしていては、なんらの教訓を得ることもできないのである。

▼中野学校を封印したことも原因  

 第二に、書籍など販売数を上げるための商売主義や、あるいは自分に注目させる売名行為から、意図的に中野学校を面白おかしく語る輩もいる。これについてあまり触れたくもない。  

 第三に、「中野学校関係者は黙して語らず」を信条として、さまざまな誤解や風説に異議を唱えてこなかった。  戦後は自虐史観が蔓延り、たとえば自衛官でも堂々と身分を名乗ることも躊躇される時代が続いた。ましてや秘密戦という、崇高であるものの、その一方で残虐性を帯びた任務に従事した秘密戦士について語ることが憚(はばか)れたのも致し方のないことである。 しかし、世の中が情報化社会になるにつれ、誤った情報は氾濫するし、容易に入手できる。他方、真実の情報は、結構、「なんだ、そんなことか!」というのが多いので、面白さに欠けてなかなか伝わらない。  

 情報化社会のなかでは、黙っていては負ける。たとえば、中国や韓国が声を大きくして嘘も喧伝したとする。それに反駁しなければ、嘘は真実になる。沈黙は金、ではないのである。

▼筆者の認識不足を大いに反省する  

 筆者は2016年に『戦略的インテリジェンス入門』を上梓した際、佐藤優氏と高永喆氏の共著『国家情報戦略』を引用して以下の記述を行なった。

「終戦後、北朝鮮は現地に残った中野学校出身者を利用してスパイ工作機関を設立していたという。これに関しては、元韓国軍の情報将校であった高永喆は佐藤優との対談において『国防省の情報本部にいた時、北朝鮮のスパイ工作機関が優れた工作活動をしているのは日本帝国時代の陸軍中野学校の教科書を使ってスパイ活動のノウハウを覚えたからだ、と教育されたことがある』との逸話を紹介している」  

 その後、中野学校出身者の親族から構成される「中野二誠会の代表者の方から、筆者は次のメールをいただいた。

「大戦後の中野学校出身者と北朝鮮との関係を結びつけるような事実はいっさい確認できていません。中野学校では教科書を使う授業の際には授業後すべて回収していたと聞いています。しかも敗戦前夜までにすべて焼却したようです。戦後、間違えて卒業生の実家宛のコオリに混入していて見つかった例や、陸軍省のある人物が隠し持っていた教本が出てきた例があるのみです。つまり『陸軍中野学校の教科書』なるものは存在しません」(増刷本では訂正した)  

 高氏がどのような根拠で上述の話をしたかは定かではないが、今日は、中野学校に対する誤った風説があまりにも多く流布している。 筆者も、そうした誤った風説を拡散してしまった。元陸上自衛官で情報に従事していた者として恥ずかしいし、中野学校関係者のみならず、さまざまな読者にご迷惑をおかけし申し訳ないと思っている。  

 「中野学校は黙して語らず」によって恣意的な中野文書が氾濫している。それに対する批判が対外的に行なわれなかったことが曲解を野放しにしていることの原因でもあろう。 慶応義塾大学の「慶応義塾大学メディア・コミュニケーション研究所」の都倉研究会の現役学生が、「陸軍中野学校の虚像と実像」という調査研究を行なっている。その論考集における学生の真摯な研究態度と客観性に配慮した分析は称賛に値する。こうしたテーマに関心を持つ学生諸氏と指導教官に深甚なる謝意を送りたい。  

 最後に申し述べたい。 「わが国の情報史」の連載は、これをもって終了するが、筆者が最も伝えたかったことは、由緒正しき日本の文化、伝統、誠を愛する日本人としての良質なDNAが、明治、大正、昭和、平成、令和へ、戦争のあるなしにかかわらず連綿として伝えられているということである。  

 日本を愛する、愛国心をすててしまったら、真実は見えなくなる。  そして情報、すなわちインテリジェンスを軽視する国は亡ぶ。だから、国家、国民のインテリジェンス・リテラシーを高めることが必要である、ということだ。  そのためには歴史勉強が必要である。その際には、さまざまな説を受け入れる柔軟な思考力と、それを批判的に論駁する二律背反的な思考力を常に持たなければならない、ということである。(おわり)

わが国の情報史(46)  秘密戦と陸軍中野学校(その8)    

-陸軍中野学校の精神養育、国体学-

はじめに

前回は中野学校卒業生に求められる精神要素について解説したが、今回はそのための精神機育、すなわち国体学について解説する。

▼吉原政巳教官による国体学とは

 第1期生から国体学の授業は行われたが、第2期生の途中からは吉原政巳教官が中野学校に赴任し、1945年8月に富岡で閉校になるまで吉原が本校での国体学の教育に携わった。  

 吉原は中野学校に来てくれないかとして勧誘された時、若干30歳(満で29歳)であった。そこで、彼は己れの未熟さを自覚したうえで全軍から選り抜きの中野学校の秀英を国士として養成する任務の重さを認識し、教育を引き受ける上で、以下の3つの提案を行った。

 1)楠公社(なんこうしゃ)を建て、朝夕ここに詣(もう)で、楠公の忠誠を偲(しのぶ)と共に、自分の魂を省察点検できるようにする。

 2)記念館(室)を設け、明治以来の先輩、秘密戦士の遺品・遺影、その他の関係資料を掲げて、ここに講堂をあてる。  

 3)単に講堂の授業で終わらず、国事に殪(たお)れた先烈の士の遺跡を訪ね、現地で精神的結晶の総仕上げを試みる。        (吉原『中野学校教育-教官の回想』)   

 以上の3つは、学校当局の賛同を得て関係者の並々ならぬ実現に向けた努力が払われた結果、予算化がなされ、めだてたく完全実施に至った。

▼楠木正成、大江氏から「孫子」を学ぶ

 楠公(なんこう)とは鎌倉時代の武将・楠木正成のことである。彼は1334年の「建武の中興」の立役者である。 当時、鎌倉幕府の長である北条高時を打倒し、天皇の権限を強化しようと後醍醐天皇が立ち上がった。そこに馳せ参じたのが、忍者の系統を持つ「悪党」のリーダー、河内の土豪であった正成であった。

 正成は、農業や商業に従事する500騎の地侍を率い、智謀を駆使して圧倒的に優勢な幕府軍に立ち向かった。そこには「孫子」の兵法を応用した悪党流のゲリラ戦法が発揮された。 正成に「孫子」は伝授したのは大江時親(ときちか、毛利時親ともいう)であるとされる。

 大江家は世々代々、兵法書を管理する家柄であった。中国からわが国に伝来した「孫子」などは、「人の耳目を惑わすもの」として大江家が厳重に管理していたのである。 大江家の初期の祖である大江維時(おおえのこれとき、888年~963年)は930年頃に唐から兵書『六韜(りくとう)』『三略』『軍勝図(諸葛孔明の八陣図)』を持ち帰った。

 大江家はこれらのほかに『孫子』『呉子』『尉繚子(うつりょうし)』などを門外不出の兵法書として管理した。 大江家第35代の大江匡房(まさふさ 1041~1111年)は、河内源氏の源義家(八幡太郎)に請われて兵法を教えた。兵法を伝授された義家は「前9年の役」(1056~1064年)、「後3年の役」(1083~1086)で奥羽の安倍氏を討伐した。 その後も「孫子」は大江家によって厳重に管理され、第42代の時親が、河内の観心寺で楠木正成に「孫子」の兵法を伝授したとされる。

▼正成に伝えられたもう一つの兵法

 正成が後世において敬仰されるようになるのは、「孫子」に裏打ちされた智謀だけではない。 後醍醐天皇のために殉死した湊川(兵庫県神戸市)における正々堂々の戦いや、「七生報告」(何度生まれ変わっても国のために尽力する」という意味)にみられる主君に対する忠誠心が人の心をとらえて離さなかったのである。

 正成は足利尊氏の軍に敗れて、「七生報告」を誓って、弟の正季(まさすえ)と刺し違えて自刃した。 こうした正成の忠誠心滅は「兵は軌道である」と説く「孫子」の解釈では説明できない。 実は、そこには匡房が確立した、わが国古来の兵法書「闘戦経」の教えがあった。匡房は「孫子」は優れた書物ではあるが、必ずしも日本の文化や伝統に合致せず、正直、誠実、協調と和、自己犠牲などの日本古来の精神文化を損なう危険性があると認識した。

 そこで自ら「闘戦経」を著し、「孫子」を学ぶ者は、同時に『闘戦経』を学ばなければならないと説いたとされる。 大江時親が楠木正成に観心寺で兵法を伝授した時、同時に「闘戦経」も伝授したと伝えられている。つまり「孫子」のわが国風土における欠落を「闘戦経」で補完したわけである。それが楠木流兵法であった。

  「闘戦経」の特徴のひとつが、戦いに勝つために、戦場における「兵は軌道なり」はあってもよいが、戦略上はすべて謀略に頼るのではなく、時には正々堂々とよく戦うことも重要である、という点である。 こうした教えの下で「湊川に戦い」において〝負け戦〟と分かっていながら、尊氏軍に対する16度の突撃が繰り返されたのである。

▼楠木正成への敬仰

 正成の忠戦は、その死後からわずか35年後に著された『太平記』によって描かれている。 吉原は、「『太平記』は正史ではなく、記事の資料にも難があるといわれる。しかし、虚実を超えた真ともいうべきものを、強く人に訴えてやまない書であり、当時の公卿から武士、庶民にいたるまで、広く読まれて、日本人の心の中に、深く影響を残してゆくのである」(吉原『中野学校教育―教官の回想』)、と述べている。

 ようするに、史実であるかどうかということよりも、いかにのちの日本人の精神や生き方に影響力を与えたかがより重要なのである。むしろ、それを知ることが歴史の本質だと筆者は考える。 約100年後の1467年には『太平記評判』が著され、正成は兵法の神様として国民の間に尊敬を高めていく。当時、足利幕府は正成を朝敵として扱っていたが、正成の死後223年(1559年)にして、その後裔の楠木正虎が朝敵の赦免を嘆願した。

 朝廷がこれを認め、正虎を河内守に復し、正五位下に除した。 江戸時代になり、水戸光圀などにより正成を敬仰(けいぎょう)する動きが全国的に起こり、楠木精神は「武士道」精神のなかに浸透していった。そして、幕末の吉田松陰を通じて志士へと受け継がれ、倒幕の精神的原動力になった。 明治以降は「大楠公(だいなんこう)」と称され、1880年(明治13年)、の明治天皇御幸の際、正成は正一位を追贈された。

▼楠公社建立の願意  

 吉原は正成を秘密戦士の理想像とした。吉原の要請を受けて、学校当局者が楠公社の設立許可を陸軍省から得て、学校から派遣した使者によって湊川神社から分霊(わけみたま)が運ばれ、学内に公社が建立された。 楠公社建立の願意は、次のとおりであった。

1)醇乎(じゅんこ、混じりけのない)たる日本人の代表としての楠公を祀り、日夜その遺烈を慕い学ぶ。

2)うぶすなの神(筆者注:生まれた土地を守護する神)とし、われ等が魂の誕生を告げ、且つ生涯に亙(わた)って、ここに魂のふるさとを持つ。

3)中野学校卒業戦没殉職者を配祀し、永くこれら英霊との語らいを続け、遺烈を継承する。

4)奇策縦横の智謀を学ぶべし、大敵・大軍にたじろかぬ不適の大勇学ぶべし、そしてそれらが由って発する所の、至忠至純の精神に、最も学ぶべし。

▼記念室での正座と座禅  

 記念室には身近い先覚の遺影をかかげ、先覚の遺品が展示された。また図書室には、できるだけ多くの関係図書が揃えられた。日清戦争前における民間有志の奮起や東亜同文会などの活躍を描いた『東亜先覚志士記伝』、日露戦争時の『明石元二郎伝』、菅沼貞風の『新日本の図南の夢』などがよく閲覧された。  

 先覚の遺影には、日清・日露戦争時に大陸で情報活動に従事した、荒尾静、根津一、岸田吟香、浦敬一、菅沼貞風、沖禎介、横川省三らのほか、中野学校における秘密戦士の理想とされた明石元二郎の遺影がかかげられた。  

 記念室は畳敷きであり、ここを講堂として学生は各人が小さな机に向かって、座布団なしで正座し、国体学の教育を受講した。すなわち、吉田松陰が塾生に講義するスタイルが取られたのである。  

 吉原は、「自分は和服だし正座は慣れていたが、学生諸氏は窮屈な背広を着用し、若くて張り切った大腿であったから、不慣れな正座は苦痛そのものであったとろう」との感想を述べている。  

 その上で、吉原は「しかし私は、何の躊躇もなく正座を要求した。正座の苦痛のために、私の講義が耳に入らないこともあるのは、十分考えられることであったが、それでもあえて正座講義を行った。人間の意志伝達は、耳や眼など以上に、体全体で受け入れる方が大事と疑わなかったからである。」と述べている。 実際に卒業生からはこの正座の厳しさが、戦後になっても懐かしい思い出ともなり、昔話しに花を咲かせたようだ。

 他方、2期生は夏休みを利用して、自主的に三浦半島の禅寺で1週間の座禅を研修し、精神修養におおきな成果があったとされている。自ら苦行を実践して、精神修練につとめたというわけだ。

 今日、暴力や強要がタブー視される傾向がより顕著となっている。よって正座の強要などは精神修養の手段とはなりえまい。しかし、人間は安きに流れるものである。精神面の鍛錬に肉体的な苦痛を伴うことは、時と場合によっては必要なのかもしれない、このようにふっと考えることもある。

▼国体学の柱が楠木精神を学ぶこと

 国体学とは、わが国の由緒正しい国家の体制を歴史的に学ぶ学問である。  

 吉原が活用した教材には、南北朝時代において北畠親房が記した『神皇正統記』、江戸時代において日本固有の儒学を確立した山崎闇斎の『崎門学』(きもんがく)、水戸藩の藤田東湖の『弘道館記述義』、そして吉田松陰の『講孟箚記』(こうもうさつき)などがある。

 また、学生の卒業に際しては、先烈の遺跡を訪れる「国体学現地演習」が行われた。この研修では、吉野、笠置、赤坂、千早、湊川、鎌倉等の楠木正成のゆかりの地、幕末の水戸藩の史跡、吉田松陰が獄中生活を送った伝馬町獄跡や松陰の墓がある小塚原回向院(えこういん)など、幕末志士たちのゆかりの跡を訪ねて国事に殉ずる精神の陶冶がはかられた。 これら教材や研修先から、時代を超えた楠木精神の伝承を学ぶことが国体学のひとつの柱であったようにみられる。 正成の後醍醐天皇に対する忠義と永遠に変わらぬ誠の心、そして彼の生きざまは、江戸時代の「水戸のご老公」こと水戸光圀の研究対象とされて、武士の鑑としてもてはやされた。  

 光圀は、歴代天皇を扱った歴史書『大日本史』を編纂(へんさん)するなかで、南朝と北朝に天皇がそれぞれ並び立つ14世紀の南北朝時代において、南朝の後醍醐天皇を正統とする立場をとった。すなわち、北畠親房の『神皇正統記』の正統性を認めた。

 光圀は1692(元禄5)年12月、正成の墓があった湊川に墓碑(楠公碑)を建立した。碑面に自筆揮毫で「嗚呼(ああ)忠臣楠子(なんし)之墓」と刻んだ。 以後、水戸藩の学問「水戸学」を通して藩内には正成の精神がいきわたる。その中心人物が会沢正志斎(1782~1863)と藤田東湖(1806~1855)である。そのうち東湖が書いたものが、教材となった『弘道館記述義』である。 水戸藩士は尊王攘夷を掲げ、幕府の大老、井伊直弼(なおすけ)を襲撃した桜田門外の変を起こした。この際の精神的支柱になったのも正成であった。

 楠木精神の継承者として忘れてはならないのが士道を確立した山賀素行である。素行は『楠正成一巻書』(1654年)の序文を執筆し、「忠孝は武士の励む最もたる徳で、非常に難しいが、歴史上もっとも忠孝を尽したのは楠木正成・正行しかいない」 と述べた。

 素行は士道において「誠」を強調した。その思想が吉田松陰や乃木希助へと継承された。なお、松陰は著書『武教講録』のなかで素行を「先師」と尊敬しているが、松陰と素行とは時代が200年ほどことなるので直接な交流はない。 松陰もまた、湊川神社の正成の墓所を訪問(1851年)するなど、正成を敬仰した。そして松陰は水戸の会沢正志斎と藤田東湖と交流し、尊王思想に感化を受けた。 このようにして、楠木精神が山鹿素行や水戸藩によって継承され、松陰によってその精神がなお高められ、高杉晋作、桂小五郎などを動かして明治維新を成し遂げたのであった。

 こうした正成の思想が伝授されるなかで、「謀略は誠なり」の言葉の発祥とともに、正成が太平洋戦争期における秘密戦士の精神的支柱になっていったと考えられる。 かくして中野学校において楠公社が建立され、そこで学生は座禅を組み、精神修養に日夜は励んだ。こうして中野学校に教えに日本の伝統的な「誠」の精神が注入されたのである。

 米軍は太平洋戦争時、わが国に対して無差別爆撃を実施した。これは「孫子」の第12編「火攻」である。 しかし、中野学校卒業生は、アジア解放の戦士となることを目指した。彼らは、「孫子」の知恵の戦いは踏襲したが、『孫子』とは一線を画する「闘戦教」の教えに根差した「誠」の心を持ってアジアの人々と接した。 それゆえに、彼らの行動はアジアの人々の琴線に触れたのである。

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拙著は10月16日に出版しましたが、新書にもかかわらず、内容が少し専門的で、一般読者用にブレークダウンできていなかったかなと反省しておりましたが、非常に嬉しい知らせでした。

「TOPPOIN」は定期頒布物で書店では販売されていません。大半の読者が経営者ということで、「軽めの本」よりも、どちらかといえば「重厚な本」のほうが好まれるということでした。企業の方々にお読みいただき、私の思考法が少しでも参考になると思っていただければ、嬉しいです。

なお、拙著が紹介された12月号を送っていただき拝読しました。現在、ビジネス本も読み始めた私にとって非常に参考になる所がありましたので、来年1月から1年間定期購読することにしました。

沢尻容疑者の逮捕は、政府の陰謀?

沢尻エリカ容疑者の逮捕で、「桜を見る会」から衆目を逸らすためだという説が有識者や芸能人から起きているようです。

いつも、このような突発的な事件(捜査関係者からすれば計画的捜査?)が起きると、いわゆる“陰謀論”が沸き起こります。 「桜を見る会」と沢尻容疑者逮捕とに因果関係があったのかどうかは定かではありませんが、野党などに追及されていた困窮していた安倍政権にとって、この逮捕は“渡りに船”であったのかもしれません。

このように想像力を駆使して物事をつなげて見ることは重要です。2001年の9.11事件の前に複数の事前兆候がありました。しかし、これらの有力な兆候を個別の点として見るだけで、線を描けなかったことから、9.11事件が予測できなかったとされます。すなわち、想像力が欠如したとの反省がなされました。

ぎゃくに2003年のイラク戦争では、イラクのフセイン大統領が大量破壊兵器を保有していないにもかかわらず、保有していると決めつけて、米国はイラクを攻撃しました。 これは過去にイラクが大量破壊兵器を持っていたという事実、ドイツと米国の関係者から「カーブボール」というコードネームをつけられたイラク人科学者の情報を有力視して、当時のパウエル国務長官が、イラクは大量破壊兵器を持っていると判断したわけです。 のちに「カーブボール」はフセイン大統領を失脚させたいために嘘を言ったことを自供しました。

このように、時機をとらえた人の発言にはさまざまな意図が含まれている場合が多々あるので注意が必要です。 冒頭の発言を行った芸能人たちが何らかの意図をもって発言したのか、それとも純粋に思ったことを発したのかはわかりません。

しかし、影響力のある人の発言を我々はある種のバイアスをもって受け取ることになるので注意が必要です。この場合は、逮捕事件がなぜ起きたのかを自分自身が納得したいがために、そこに因果関係をむりむり探すことがよくあります。 そこで、桜を見る会で困窮している安倍政権と、安倍政権が国民の目をそらすために逮捕劇を仕組んだという、分かりやすい構図が提示されると、このような論理を短絡的に受け入れる「因果関係バイアス」が生じる可能性があります。

また影響力のある人が発言すると、それが大量に伝播・流布し、その情報が氾濫し、その他の情報に目が届かなくなります。 そこで目先の利用しやすい情報ばかりによって仮説を立てることになります。これを「利用可能バイアス」といいます。

さらには安倍政権の支持率を下げたいと思う側は、安倍政権による“陰謀説”に容易に飛びついて、これを批判ネタにできると考える傾向にあります。これを希望的観測といいます。

このように、さまざまなバイアスの存在が、物事の真実を見る目を曇らすしてしまうのです。よくよく注意が必要です。

なお、バイアスについて本格的に研究したい方は心理学の本を読むのが良ろしいでしょうが、拙著『武器になる情報分析力』でも一部の事例を挙げて紹介していますので、よろしければご参考ください。

わが国の情報史(45)  秘密戦と陸軍中野学校(その7)    -秘密戦士に求められる精神要素とは-

▼秘密戦士として要請される精神要素

陸軍中野学校が参謀本部直轄学校となり、教育、研究体制が整備された時点で秘密戦士の精神綱領が次のごとく示された。  

「秘密戦士の精神とは、尽忠報国の至誠に発する軍人精神にして、居常(きょじょう)積極敢闘、細心剛胆、克(よ)く責任を重んじ、苦難に堪え、環境に眤(なず)まず、名利を忘れ、只管(ひたすら)天業恢弘(かいこう)の礎石たるに安んじ、以て悠久の大義に生くるに在り」。(校史『陸軍中野学校』)  

伊藤貞利氏の『中野学校の秘密戦』によれば、この精神綱領を次のようにかみ砕いている。  

「精神綱領による秘密戦士の精神とは君国に恩返しをするために私心をなくして命を捧げるという「まこごろ」から出る軍人精神である。常日頃(つねひご)、ことを行うにあたっては積極的に勇敢に、こまかく心をくばると同時に大胆に、責任をや重んじ、苦難にたえ、自主性を堅持し、物心の欲望を捨て去り、ひたすら世界人類がそれぞれ自由に幸せに生きることができる世界をつくるという天業を押し広める土台石にとなることに満足し、たとえ自分の肉体は滅びても、精神は普遍的な大きな道義の実現を通して悠久に生きるということである。」

▼至誠に発する軍人精神とは 至誠の誠とは何か?

軍人精神とは何か?について、もう少し考えてみよう。 まず軍人精神であるが、その本質は命を賭して使命に生きることにある。 「文民銭を愛し、武臣命を惜しめば国亡ぶ」という諺があるように、軍人には時として命を犠牲にすることが求められる。 これは現在でも同様であり、自衛官の服務の宣誓にも、「・・・・・・事に臨んでは危険を顧みず、身をもって責務の完遂に務め、もって国民の負託にこたえることを誓います。」の一文がある。  

中野学校では私服で教育を受け、軍人とは思われない風姿や動作が要求された。だから、「天皇陛下」と聞いても直立不動の姿勢を取ってはならなかった。 しかし、軍人であることが否定されたわけでは決してない。むしろ軍人精神の本質はしっかりと教育されたのである。

中野学校の国体学の教官であった吉原政巳氏(1940年4月から中野学校に赴任、2期生以降を教育)は、自著『中野学校教育-教官の回想』のなかで、で次のように述べる。

「軍隊教育と中野教育とは、自(おの)ずから違う。卒業生の中には、中野の精神は、全く軍人のそれと違うのだ、といい切る人もある。事実、はじめに触れたように、両者その任務を異にしているのを、疑うことはできない。しかし深く根源を思えば、両者その核心は同じなのである。」

そして、吉原がその核心としているものが軍事勅諭における誠の精神である。 では誠とはいったい何であろうか? 1882年に明治天皇から下賜された軍人勅諭では、忠節、礼儀、武勇、信義、質素の5か条の徳目が述べられている。 そして、その後で「右の五ヶ條は、軍人たらんもの暫(しばらく)も忽(ゆるがさ)にすべからず。さて之を行わんには一の誠心(まごころ)こそ大切なれ。抑此(そもそも)五ヶ條は我軍人の精神にして、一の誠心はまた五ヶ條の精神なり。・・・・・・(振り仮名、句濁点、現代読みに筆者改め)」とある。

ここには五箇条の徳目の最後の締めくくりのとして「一つの誠心」が提示されている。つまり、誠は「精神のなかの精神、徳目ではなく徳目を徳目たらしめるもの」、すなわち誠は一段上位の徳目であると解釈できる。 ようするに。明治の軍人の人格完成の目標は、明き・清き・直(なお)き・誠の心であり、明治天皇は軍人に勅諭を下し給い、忠節・礼儀・武勇・信義・質素の五徳を示し、この五徳は一誠に帰する、とのたまわれたのである。

吉原は以下のように述べる。

「誠は、軍人勅諭をしめくくられた言葉であり、軍籍に身をおいた者には、忘れぬ言葉であった。それは日本人伝統の、基本的心情が尊ぶものであり、真の日本人が目指すとき、手ごたえが確かに体認せられるべきものであった。」(前掲『中野学校教育-教官の回想』)  ようするに、真の軍人、そして真の日本人たるための修養を行うことが、真の秘密戦士になりえるのだ、ということを吉原は強調したのである。

▼中野学校教育における誠の重要性

中野学校では、軍事精神の養成に立脚しつつも、秘密戦士としてのなおいっそうの誠が要請された。 吉原は以下のように述べる。 「防諜・諜報・宣伝・謀略などという、尋常でない工作だけに、これにたずさわる精神の純度が、問われるのである。不純な動機による権謀ほど、憎くして憎むべきものは無い。中野学校において、「秘密戦士は誠なり」と強調されたのは、まことに当然のことであった。」(引用終わり)

誠の語は「マ(真)」と「コト(事・言)」からなっている。すなわち、「虚偽や偽りのないこと」である。 元来、中国の儒教という考え方のなかで「誠」は用いられるようになった。儒教では、「仁、義、礼、智、信」の5つの徳目が強調され、これらの教えを行動として表したものが「誠」である。 この考え方を日本で取り入れたのが「武士道」である。

「武士に二言はない」 という言葉が象徴されるように、正直であって主君に忠誠を誓うことが美徳と して強調された。 このような武士道は徳川幕府が封建体制を維持するためにおおいに利用された。武士道に憧れた幕末の新撰組が「誠」の字を紋章として背負って反幕府勢力の取り締まりを行ったのである。

▼武士道は秘密戦にとって都合が悪かったのか?

畠山清行著・保坂正康編『秘録 陸軍中野学校』 には次の件がある。

「・・・・・・忍者だが、これを諸大名がかかえて諜報を集めるということになれば、幕府の弱点や痛いところさぐられる心配がある。 そこで、伊賀者・甲賀者の忍者をすべて幕府の直属として『お庭番』という組織をつくりあげる一方、御用学者に命じて『武士道』なるものを盛んにとなえさせた。つまり、『内緒で人の欠点や弱点を探ることは、武士にあるまじき卑怯な行為である』とうたいあげたのである。 太平洋戦争の敗因をさぐる場合、日本の歴史家は、明治以前にさかのぼることを忘れているが、遠因はじつにこの徳川幕府の政策にあるのだ。 幕府時代の武士道精神をそのままうけついだから日本の軍隊は、諜報機関を卑怯なものとして、もっともそれが必要な陸軍大学にさえ、太平洋戦争がはじまるまで、諜報を教える課目はなかったのである。……」(畠山清行著・保坂正康編『秘録 陸軍中野学校』 )

つまり、武士道によれば諜報、謀略はまことに都合が悪いということになり、秘密戦を遂行し、秘密戦士を養成する上で、納得できる論理が必要であった。

▼武士道の真髄は秘密戦を否定せず

しかし、実は武士道とはそのような表層的な正直さのみを言うのではない。 江戸時代、儒学者、兵法家、道徳家の三つの顔を持つ山鹿素行(1622~1685年)は「士道」を表した。 士道は、太平天国の徳川時代において武士がいかに生きるべきかを、すなわち武士の道徳的な在り様を説いたものである。 のちの軍人勅諭の5箇条の徳目(忠節、礼儀、武勇、信義、質素)や、誠はいずれも素行(1622~1685)が提唱した士道が掲げる武士の規範 に基づいているとされる。

では、その素行が説く誠とは何か? 素行は「已むことを得ざる、これを誠と謂う」と言っている(『聖教要録』)。つまり、素行によれば誠は抑えようにも抑えられない自然の情である。 さらに素行は次のようにいう。 「一般に世間では、律儀に信をたてることを「誠」だとばかり心得ているらしい。もちろん、うそをついて相手をだましたり、計略を用いたりするのは君子たる者の大いに嫌うところであり、それは勢いものごとを力づくでやろうとする傾向につながるのだから、王者の道とはいえない。 だが、誠が深い場合には、偽ったとしても誠になることがあるのである。」(田原嗣郎『山鹿素行』)

素行が意味するところは実に深い。つまり目的が正しければ、その手段がたとえ卑劣にみえようとも誠を逸脱しない。すなわち誠は目的絶対性のなかにあるのである。 吉原は山鹿素行の『中朝事実』などの書き物を精神教育の教材として用いた。 日本の武士道の表層的な解釈では、諜報、謀略などの秘密戦に対する正統性はなかなか得られない。 そこで、素行の士道による真実の武士道を教示し、素行が主張する「誠」を強調することで秘密戦に対する正統性を付与したのである。

▼中野学校の目指した誠の意味

終戦時に中野学校の解散直前に富岡(本校)において卒業した8丙によれば、吉原が教えた中野学校における誠は、一般軍隊教育における誠とは、次の点が異なった。 「(軍人教育で行われた)「誠」の発露は天皇陛下に対してであり、拡大した場合でも日本国民が最大範囲であったと思われるのに対して、8丙が教えられた「誠」はその範囲が異民族まで拡大しており、一見「誠」とは正反対に考えられる謀略でも「誠」から発足したものでない限り真の成功はないと教えられた」。(校史『陸軍中野学校』) 中野教育では秘密戦士になるとともに民族解放の戦士となれ、と教えられた。 被圧迫民族であるアジア民族を植民地より解放し、その独立と繁栄を与えることが任務として求められたのである。 このため、誠の範囲は異民族まで拡大する必要があった。   

前出の精神綱領の「只管天業恢弘の礎石たるに安んじ、以て悠久の大義に生くるに在り」とある。 戦陣訓にも「死生を貫くものは崇高なる献身奉公の精神なり。生死を超越し一意任務の完遂に邁進すべし。身心一切の力を尽くし、従容として悠久の大義に生くることを悦びとすべし。」とある。

ただし、戦陣訓における悠久の大義とは、その対象を天皇に限定している。しかし、中野学校における悠久の大義とは数百年に及ぶ白人侵略から全アジアを解放して、アジア民族との共存共栄の道を模索することも包含している。  

アジア民族の解放を目的とする秘密戦は敵地、中立地帯の異民族の中に深く入って行わなければならない。当然、かかる秘密戦を行う者には高度かつ広範な知識技能が必要とされるが、それにまして、「真の日本人」にあらねばならない、というわけだ。

吉原は次のように述べる。 「……たとえば自分の人格が確立していないと、他の人格との真の交わりが不可能であるように、まず真の日本人になることが、風俗も信仰も異なる他民族と交わり、広く世界の人々に接するに、不可欠な要素だからである。」(『中野学校教育-教官の回想』)

ここに吉原の教える国体学の真の意味があり、歴史を通して真の日本人になることを要請したのである。 校史『陸軍中野学校』には、戦中及び戦後の状況を鑑みて、以下の件がある。 「実際に、中野学校卒業生は現地人に対する愛情と責任から、みずからの現地軍に身を投じる者すらあった。 中野学校出身者がインド、ビルマ、タイ、アンナン、マレー、インドネシア等の住民と戦後も交流が続いているのも、戦時中に異民族に示した行為や愛情が心の底から「誠」から出たもので、決して一片の謀略や、一時的な工作手段から出たものでなかったことを実証して余りがあるのではないだろうか」(引用終わり)

しょせんは侵略戦争を正当化するための屁理屈だ!といえばそれまでではある。ただし、国家であれ、個人であれ、相手と共存できないとなれば、戦いは回避できないのある。                           

結局のところ熾烈な国益や利益をめぐる死闘が繰り広げられることになる。 米国は英国と独立戦争を戦い、インデアンを駆逐し、ハワイを併合した。そして、太平洋戦争ではわが国の一般市民に対して無差別な絨毯爆撃を行った。  

そこには戦いゆえの残虐な殺生があった。 他方、中野学校においては「誠」の精神が教育され、アジア民族に対する愛情が厳然の事実として溢れていた。筆者はわが国の先の戦争行為を正当化するつもりは毛頭ないが、このことを日本人として誇りに思わざるを得ない。 「満蒙のローレンス」「希代の謀略家」と呼ばれ、A級戦犯として処刑された土肥原賢二将軍(1884~1948)は「謀略は誠なり」が信条であった。 

彼は実に温厚で、中国人に寄り添うやさしい人柄であったという。 軍人のなかには、現地の中国人を虐待する、あるいは婦女子に狼藉を働く輩が世の常としていた。土肥原はそのような輩を厳罰に処した。彼は謀略が誠から生み出されるものを知っていた。 土肥原を始め、当時の日本人には伝統的な誠の心が流れていた。そして謀略などの秘密戦を教育する陸軍中野学校にも、そのような日本人の伝統的な思想が受け継がれていたのである。

▼秘密戦士として名利を求めない精神

中野教育の原点は交替しない海外の駐在武官を育成することであった。後方勤務要員養成所の秋草所長の第1期生に対する訓示は、「本初は替らざる駐在武官を養成する場であり、諸子はその替らざる武官として外地に土着し、骨を埋めることだ」というものである。  

時代の奔流に流されて、太平洋戦争末期になると中野学校は秘密戦士から遊撃戦士の育成へと大きく舵を切ることになるが、この1期生の精神は先輩から後輩へと受け継がれて中野教育の伝統になった。 軍人は命を賭して国家・民族の自主・自立を守るという崇高な使命があるゆえに、軍人にふさわしい名誉が与えられることになる。正規の武官であれば、名誉の戦士として丁重に葬られる。 しかし、替らざる武官である秘密戦士はそうはいかない。任務の特性上、その功績を表沙汰にできないし、時として犯罪者の汚名を着せられ、ひそかに抹殺される可能性もある。 さらに「外地に土着し、骨を埋める」ことが求められた。つまり、残置諜者として黙々と水面下で生き続け、親の死に目にも会えず、やがて自身も誰にも知れずひっそりと死んでいく運命にあった。 そこには、精神綱領の「環境に眤(なず)まず、名利を忘れ」の精神が必要となるのである。 前出の8丙が受けた精神教育の大綱は、「謀略は誠なり」「諜者は死なず」「石炭殻の如くに」の三つの短句で表徴できるとある。(校史『陸軍中野学校』)

まさに「石炭殻の如く」人知られずに「悠久の大義」に生きることが求められたのである。

▼戦陣訓よりも厳しい精神要素が要求

秘密戦士には、一般軍人よりも生に対する執着が求められた。それは死生観から来るものではなく、使命感から生じる現実の要請であった。 江戸時代において、山鹿素行の士道を「上方風のつけあがりたる武士道」と批判する、「武士道と云(いう)は死ぬ事と見つけたり」という「葉隠れ武士道」が生まれた。 これは、1716年頃、佐賀鍋島藩士の山本常長が口頭で言い伝えたものを、同藩士の田代陣基が書き残したものとされる。 「葉隠れ武士道」は、陸軍省の東条英機によって1941年に制定された『戦陣訓』の「生きて虜囚の辱めを受けず。死して罪過の汚名を残すこと勿(なか)れ」へと受け継がれることになる。

しかし、中野学校では任務を完了するまで死んではならないと教えられた。1期生に忍術教育を教えた藤田西湖は中野学校生に以下のように語ったようである。

「武士道では、死ということを、はなはだりっぱなものにうたいあげている。しかし、忍者の道では、死は卑劣な行為とされる。死んでしまえば、苦しみも悩みもいっさいなくなって、これほど安楽なことはないが、忍者はどんな苦しみも乗り越えて生き抜く。足を切られ、手を切られ、舌を抜かれ、目をえぐり取られても、まだ心臓が動いているうちは、ころげても戦陣から逃げ帰って、味方に情報を報告する。生きて生き抜いて任務を果たす。それが忍者の道だ」 つまり、秘密戦士には「戦陣訓」では片づけられない、一般軍人よりもさらに厳しい精神要素が要求されたのである。