“SNS・ブログメディア”はマスメディアの監視機構になれるか?

安田純平氏、無事に解放

2018年10月24日、 内戦下のシリアに2015年6月、トルコ南部から陸路で密入国し、武装勢力に拘束されていたとされるフリージャーナリスト安田純平氏(44)が無事解放されました。

このことは、日本人の一人として大いに喜ぶべきことですが、SNSやブログでは「自己責任」論を展開するバッシングで盛り上がりました。これも、安田氏の記者会見などにおける真摯な謝罪などにより、ようやく下火になったようです。

今日のSNSやブログでは過激な意見も多々散見されます。ただし、筆者はこれまで情報発信力を持たなかった“サイレントメジャー”の意見を見る上で、ブログの存在は重要であると、思います。

なかには、自由に匿名での書き込みが行われるため、SNSやブログが大衆世論を反映したものではないとの批判もあります。しかし、私の言いたいこと、思っていることを、結構、ずばっと代弁してくれているような気がします。

SNSやブログによる意見の内訳

今回の安田氏の行動をめぐっては批判と擁護の両論が生起しました。

マスメディアには擁護派が多いように思われます。マスメディアは報道を商売としていますので、当然に取材活動や報道の自由を主張し、取材の価値を高く評価します。ある意味、安田氏の行動を肯定的に評価するのは当たり前なのかもしれません。

一方のSNSやブログでは、批判派と擁護派に分かれていたようです。批判派は安田氏の行動を批判し、さらに安田氏の行動を擁護するマスメディアに対して批判の目を向けました。擁護派は安田氏を“英雄”視し、日本政府の過去3年間の“無為無策”を批判しました。

ただし、私が見る限りでは、ブログメディアの趨勢は、圧倒的に批判派によるバッシングで占められていたように思います。それだけ、今回の安田氏の行動に対して、日本国民の多くが疑問を感じていたように思います。

なぜ、バッシングが起きたのか?

日本政府は、邦人保護という直接的な政府課題や、国際テロ協調、さらには国内政治などにおける間接的デメリットが発生する可能性を懸念して、安田氏に対して、再三にわたり、渡航を自粛するよう注意喚起していました。

これにもかかわらず安田氏が渡航し、“案の定”ともいうべきか、武装勢力に拘束されたのですから、日本政府としては、これを“迷惑事件”だと考えていたとしても不思議ではありません。しかし、日本政府が「自己責任」を理由に、邦人保護の義務を怠ることはありえません。

他方、今回の安田氏の解放に対して、日本政府は終始、淡々と対応していた様子がうかがえました。まるで“火中の栗”は拾わないといったような、冷静で抑制的なコメントが続けられました。

そうした一方で、SNSやブログでは「日本政府の注意喚起を無視して危険地域に行って武装勢力に拘束された。自業自得だ。「自己責任」だから解放にかかった費用を払うべきだ」など、さまざまなバッシングを繰り広げました。

これに対して、いつものように反政府批判を繰り返す、マスメディア(正確には一部マスメディア)が、「自己責任」論を捕えて、攻撃の矛先をブログメディアに向けました。これに対して、SNS上では、コメンティターの発言に批判の大合唱を展開するという事態が生起しました。つまり、ここ最近見られる新しい形の“メディア戦争”が勃発したのです。

一部マスメディアの論調

今回の事件に関して、テレビ朝日解説員の玉川徹氏は、「自己責任」を主張するブログバッシングをとらえて、「未熟な民主主義だ!」と断じたり、安田氏を「英雄と迎えよう」などと主張しました。

玉川氏:「兵士は国を守るために命を懸けます。その兵士が外国で拘束され、捕虜になった場合、解放されて国に戻ってきた時は『英雄』として扱われますよね。同じことです。民主主義が大事だと思っている国民であれば、民主主義を守るためにいろんなものを暴こうとしている人たちを『英雄』として迎えないでどうするんですか」

これに対し、ジャーナリストの江川紹子氏は次のようにコメントしました。

「国の命を受けて戦地に赴く兵士と、自分の意志で現場に向かうジャーナリストは、本質的に異なる。それをいっしょくたにした物言いは、安田氏を非難したい人たちに、格好の攻撃材料を提供した。「ひいきの引き倒し」「親方思いの主倒し」とは、こういうことを言うのだろう。」

「ひいきの引き倒し」「親方思いの主倒し」はさておき、江川氏の論じるように、本質が異なるものを無理無理に類似するする見識の低さにはあきれました。

「自己責任」論は政治的案件なのか?

他方、江川氏は次のような論説を展開しています。

◇「自己責任」が言われるようになったのは、2004年にイラクで日本人の若者3人が武装勢力に拘束された事件においてであった。

◇当時の小泉政権で環境相だった小池百合子氏が「危ないと言われている所にあえて行くのは、自分自身の責任の部分が多い」と発言したのを機に、「自己責任」の大合唱となった。

◇当時、政府・与党の政治家があえて「自己責任」を持ち出して3人を非難する世論を誘導したのは、この事件が金目当ての誘拐事件や遭難などの事故とは異なり、政治的案件だったからだ。

こうした江川氏の論説の展開に対し、過去における「自己責任」論の生起の経緯を起点に、「自己責任」論が政府の「公的責任回避」論を結びく危険性という論理を掲げ、現政府への間接的攻撃を加えようとしている。そこには、今回の「自己責任」論の沸騰のなかで、一般大衆による反政府批判が十分に熟さないことに焦りを感じている様相がうかがえる、といったら、いささか穿った見方でしょうか?

海外における安全対策においては「自己責任」は常識

「自己責任」とは何か?について私見を述べます。筆者は1992年から95年まで、在バングラデシュ大使館で邦人保護の業務に従事したことがあります。当時の外務省『安全対策マニュアル』では、海外における安全対策においては「自己責任」が基本的原則であると明記されていたように記憶しています。

筆者も「自己責任」論に基づいて邦人の安全対策指導に従事していました。 また、他国の安全対策専門家とも多くの意見交流を持つ機会がありましたが、彼らも、海外における安全対策は自己責任が原則であるとの認識を有していました。

つまり、上述の小池氏が述べたようなことは、海外の安全対策においては至極当たり前のことなのです。

ただし、誤解しないでください。「自己責任」は、政府が邦人保護の責任を回避するというものではまったくありません。海外において邦人が不測の事態に遭遇したならば、全力でその生命や財産を守ることは当然のことです。

しかしながら、海外ではわが国の警察権などは及びません。在住する外国人の安全を守る第一義的責任は任国政府にあります。ここが国内とは大いに違います。

だから、邦人が海外で危険な目に遭遇したとしても、日本政府ができることは限定されます。現地では邦人の安否を確認し、その救出などの措置を任国政府に要請する、これらのことしかできないのです。この点はペルー人質事件が良い例です。

だから、政府は事前に関連情報を収集して、危険な地域に対して、渡航注意喚起や渡航自粛勧告などを発出しますが、邦人に対して、明確な犯罪行為などは別として、「行くな!」という権利はありません。

だから、危険な地域に行く、行かないの判断を含めて、海外に行く邦人には、原則は「自己責任」であることを認識してもらうしかないのです。

こうした背景により、「自己責任」論が確立されているのです。国民は、政府から守られる権利がありますが、公共の福祉に従うことや、政府の政策を擁護する責任もあります。

日本国民として海外に赴任する、あるいは旅行する上で、なるべく政府に迷惑をかけてはならないことは当たり前の常識であり、そのことを、政治的案件と結びつけるのも短絡的であると考えます。

一部邦人の行動が全体の公共サービスを低下させる

私のバングラデシュでの勤務時代のことです。1994年から95年にかけて任国の政治情勢が悪化したため、3カ月以上に及ぶ「渡航注意喚起」を継続的に発出していました。本省に対しては、一段上の「渡航自粛勧告」への引き上げも要請しましたが、これは発出されませんでした。

現地在住の邦人に対しては毎日定時に治安情報や安全対策情報を提供し、緊急連絡網を整備し、安否確認を行いました。この際における邦人安全対策においては、できるだけ自主的に日本への帰国や第三国への出国を奨励して、現地の在住の邦人数を減少することがキモとなります。なぜならば、政府専用機による出国などの最終想定で退避できる出国者数を限られているからです。

このような最終的なオペレーションを念頭に、現地の情勢変化を日々判断して、邦人安全対策の措置を検討します。だから、現地大使館としては邦人に対して不用な入国は控えてほしいわけです。

しかし、「渡航注意喚起」にもかかわらず、一部の邦人旅行者や自営業者などの何人かは確実に入国していました。 それら邦人は、ホテルなどを利用するよりも、簡易なゲストハウスに宿泊・滞在するために、安全対策情報を如何にして提供するのかを思案しました。その時に、渡航注意喚起などがいかに無力なものかということを、つくづく感じました。

こうした状況下、邦人からのトラブルの通報を受けました。「それ見たことか」というわけにはいきません。公的機関は日本国民に対してひとしくサービスを提供しなければなりません。しかし、自らの恣意的な使命感、冒険的、野心的なかれられた一部邦人の予期しない事件が起きれば、全体としての公的サービスは低下してしまうのです。

安田氏に対するバッシングの背景

今回の安田氏の拉致及び解放事件は、残念ながら利敵行為になってしまいました。だから、税金を支払い公的サービスを受益する権利がある国民は、「結果的に自分たちに不利益が生じた」と主張する権利もあります。

つまり、日本国民が「やさいしくないとか思いやりがない」などの議論はさておき、政府のさいさんの警告に反して行動して、予想どおりに拘束された安田氏に対して「自己責任」論を主張することは特段に不思議な現象ではないと考えます。

民主主義とはなにか

むしろ、それを「未熟な民主主義である!」などと報じる、上述のコメンテーターや、民主主義を大上段に構えて自らの主義主張をとなえる、一部のマスメディアに対して、筆者は異常性を感じます。

一部のマスメディアは、自らが民主主義の“番人”かのように「民主主義」を連呼しますが、ここで「民主主義とは何か?」、この美名の背後に存在するものを冷静に考えてみる必要があります。ちなみに朝鮮民主主義人民共和国も「民主主義」をかたっています。

筆者は今回のマスメディアの主張に対して、次のような疑問を改めて思い起こしました。◇そもそも民主主義に未熟、成熟はあるのか? 本当に欧米の民主主義が理想なのか?ほんとうに絶対無比の民主主義の理想はあるのか?

◇中国は民主主義ではないから崩壊するという仮説は正しいのか?民族、文化、国家体制の実情に即したさまざまなな形があるではないか?日本には日本独自の民主主義があり、それを欧米と短絡的に比較することはいかがなものか?

◇マスメディアが主張する民主主義とは政府などの権力機構を監視することに矮小化されていないか?民主主義は国民優先の原則であり、国民の自由なさまざまな発言を容認する“懐の深さ”こそが民主主義ではないのか?

マスメディアの役割

ここ最近まで、マスメディアはスーパー的な存在であったと考えます。マスメディアが時の権力構造の腐敗を暴き、社会正義を保持した功績は大であったと思います。

他方で一部のマスメディアが誤った歴史認識を国内外に流布して国益に重大な損害を与えたり、捏造記事に手を染めて視聴率を稼いだ歴史もあります。

こうしたマスメディアによる“光と影”がほぼ独占的に横行したのは、ほとんどの国民が情報発信の手段をまったく持っていなかったからです。しかし、IT化が進展した今日、マスメディアは、権力を監視して、世論を形成する絶対無比の存在でありません。つまり、一般人の無知を愚弄するかのような驕り、恣意的な判断の下での報道はもはや許されません。

マスメディアが誤った報道をすれば、たちまちSNSやブログでのバッシングを起こります。上述のようなコメンティターの発言に対しても、ただちに反撃が展開され、それが増幅され、一つの力を形成します。

安田氏の事件で生起したバッシングに対して、一部のマスメディアは「日本で起きているバッシングは信じられない」といった欧米のメディア人のコメントを引き合いにして、わが国の異常性を浮き彫りにしようとしています。

しかし、“虎の威を借る“ような方法で、自分たちの主張にとって都合の良い情報だけをを使って、民衆の無知に付けこむかのようなな、旧態依然のやり方では、たちまちSNSやブログバッシングの反撃が起こるでしょう。

マスメディアが、これまでのような特権意識に立ち、民主主義や社会正義を振りかざし、“社会の権力悪”と戦っていることを自尊しているならば、ますます国民はメディアから離れていくと思います。

ジャーナリズムに求められる質の高さ

今回の安田氏が自ら紛争地帯に入って拘束されたことを非難する声の背景には、「シリアについての情報なんか、自分の人生や生活に関係ない、特に興味もない」という多数派の意見が根底にあります。

他方で、わが国のジャーナリストが危険な現地に行かなくても、わが国のマスメディアが報道しなくても、CNNなどがほぼ十分すぎることは報道してくれる点も見逃せません。おそらく国民の知的ニーズとしては、それで十分満足なのです。

もちろん、わが国が他国に依存しない情報収集力や取材力を持つことの重要性を否定はしません。また、紛争地域に命を懸けて潜入し、渾身のルポ記事を書くことが必要ないとはいいません。多くの日本人も、このような懇親ルポが発表されれば、日本人として誇りに思うし、感動するでしょう。

しかしもう一度繰り返しますが、危険地域での取材や情報活動は非常に困難である一方、 人工衛星、インターネットなどがIT技術が発達するなか、国際社会におけるさまざま場所と領域における有力情報を入手できる可能性は高まっています。そして、これらのオシント(公的情報)をしっかりとウォッチしておけば相当なことは分かります。

それでも、マスメディアやジャーナリストが、「日本人にとって、現地に行って密着した取材によって得た情報が必要だ!」「危険をおかして、日本に対して不利益をもたらす可能性を差し引いても現地情報が必要なのだ!」というのであるならば、そのことを国民に対して真摯に説明して理解を得る必要があるのではないでしょうか?

そのためには成果の積み上げが必要となります。 それがなくして「日本人は世界のことを知るべきだ」的な発見は、まさに“上から目線”のマスメディアの自己擁護論と主張の押しつけだと言わざるをえません。

諜報員が危険地域に潜入して、その行動が暴露されれば、おそらくニュースにもならずに殺害されてしまうでしょう。武装集団にとっては諜報員もジャーナリストも区別はつきません。危険地域におけるジャーナリストは諜報活動と同程程度の情勢判断と慎重な活動が求められます。 

かりに、諜報員のような訓練を受けていないジャーナリストが危険地域に潜入してすばらしい情報を入手したとしても、インテリジェンスの世界では、その情報はすぐには真実とはみなされません。そこには、「武装集団がその人物に対してメッセンジャーや広告塔としての価値を見出したからではないか?その情報は真実か?」などの信頼性評価の問題が生じます。

このように貴重な情報を得るということは様々な危険性に直面しています。現在のIT社会においてジャーナリズムが成果を挙げるためには、行き当たりばったりの“成果主義”に駆られることなく、十分な事前勉強を行い「何を明らかにすべき」「何が明らかにできるか」などを事前に検討する必要があります。

その上で事前準備、行動の慎重性などが過去以上に求められると考えます。つまり、たとえばシリアに行くジャーナリストであれば、知識一つをとっても中東専門家に負けないだけの事前勉強が必要になるということだと考えます。

“SNS・ブログメディア”はマスメディアの監視機構になれるか?

たしかにウェブ上にはさまざまな扇動的、差別的な発言があります。また、必ずしも“サイレントメジャー”の意見を反映するものではないとの批判もある意味正しいと思います。こうした一方でウエブ上には「群衆の叡智」を反映した秀逸な論評が多々見られます。一部のコメンテエイターの勉強不足を一刀両断するような鋭い見識があることに、筆者は驚きを隠せません。

今回の安田氏に対するSNSやブログ上でのバッシングに対して、一部のマスメディアが民主主義を掲げて攻撃したことから、ブーメランのようにメディアバッシングが生起しました。ここに、筆者はブログメディアが権力の監視機構として台頭しつつる状況を感じます。

これまで政府という権力集団を監視するのがマスメディアでした。今度は、そのマスメディアに対して国民、すなわち“SNS・ブログメディア”が監視する力を持ち始めたのです。これは、まさしく新しい変化です。

この“SNS・ブログメディア”が政府、マスメディアを監視する第三の勢力として成長するためには、国民が真摯に勉強する、ウソやデマを流さない、愛国心に立った意見を誠実に発信するなどを心がけて、さらに「群衆の叡智」を高める必要があります。

わが国の情報史(20-後段) 日露戦争の勝利の要因その2 -戦略的インテリジェンスとシビリアンコントロール-

高橋是清

高橋是清の資金獲得

軍事と経済との連携においては高橋是清の活躍が特筆される。いうまでもなく、戦争遂行には膨大な物資の輸入が不可欠である。この資金を調達したのが、当時の日本銀行副総裁の高橋である。

高橋は、日本の勝算を低く見積もる当時の国際世論の下で外貨調達に非常に苦心した。日清戦争において相当の戦費が海外に流失したので、その穴埋めのためにも膨大な外貨調達が必要であった。 しかし、開戦とともに日本の外債は暴落しており、外債発行もまったく引き受け手が現れない状況であった。 つまり、国際世論は日本の勝利の見込みうすしと判断した。

日露戦争が勃発した直後の1904年2月24日、高橋是清はまず米国に向かった。高橋はニューヨークに直行して、数人の銀行家に外債募集の可能性を諮ったが、米国自体が産業発展のために外国資本を誘致しなければならない状態で、とうてい起債は無理とのことであった。

そこで、高橋は米国を飛び立ち英国に向かった。しかし、ロンドン市場での日本公債に対する人気は非常に悪かった。一方、ロシア政府の方は同盟国フランスの銀行家の後援を受けて、その公債の価格はむしろ上昇気味だった。 英国の銀行家は、日本がロシアに勝利する可能性は極めて低いと分析して日本公債の引き受けに躊躇していたのである。

また、英国はわが国の同盟国ではあったが、建前としては局外中立の立場をとっており、公債引受での軍費提供を行えば中立違反となるのではないかと懸念していた。 それを知った高橋は、日本にも勝ち目があることを英国側に理解させるよう、宣伝戦略に打って出た。つまり、このたびの戦争は自衛のためやむを得ず始めたものであり、日本は万世一系の皇室の下で一致団結し、最後の一人まで闘い抜く所存であることを主張した。

中立問題については米国の南北戦争中に中立国が公債を引き受けた事例があることを説いた。  高橋の説得が徐々に浸透して、1ヶ月もするとロンドンの銀行家たちが相談の上、公債引受けの条件をまとめてきた。ただし、関税担保において英国人を日本に派遣して税関管理する案を出してきた。 これに対して高橋は、「日本国は過去に外債・内国債で一度も利払いを遅延したことがない」ときっぱりと拒絶した。交渉の結果、英国は妥協して、高橋の公債募集は成功し、戦費調達が出来た。

クラウゼヴイィツの『戦争論』の影響とシビリアンコントロール

わが国の勝利の要因は政治、経済、軍事が一体となってロシアに立ち向かったことにある。そこには、政治が軍事を統制するシビリアンコントロールが機能したといえよう。

そのシビリアンコントロールの思想的底流にはドイツから流入したクラウゼヴイィツの『戦争論』の影響があったとみられる。 『戦争論』では、「戦争とは他の手段をもっておこなう政治の継続である」「戦争は政治の表現である。政治が軍事よりも優先し、政治を軍事に従属させるのは不合理である。政治は知性であり、戦争はその手段である。戦争の大綱は常に政府によって、軍事機構によるのではなく決定されるべきである」と述べられている。 つまり、政治が軍事に優先すること、すなわちシビリアンコントロールが強調されている。

前述の川上や田村はドイツにおいてクラウゼヴイィツの思想を学んだ。これが日露戦争前の帝国陸軍の戦略・戦術思想を形成していったとみられる。このことから、大筋において、当時の一流の軍人がシビリアンコントロールの重要性を理解したのではないだろうか。

総理の桂太郎も軍人であり、元老の山県有朋も軍人であった。いわば当時の軍政は軍人と文人が混在していたが、そこには政治優位の思想が確立されたとみられる。時には軍事優先による日露開戦論が先走ったが、大筋において抑制がきいていたというへきであろう。

つまり、明治期の一流の軍人は、大局的な物の見方と、国家レベルの情勢判断力、政治優位の底流思想を持っていたと判断できる。児玉らのインテリジェンス能力に長けた軍人が、国家レベルの視点から物事を判断して、シビリアンコントロール(政治優先)を維持していった。 この点が、軍事という狭い了見から情勢判断を行い、政治を軽視し、軍事の独断専行に走った昭和期の軍人との最大の相違ではないだろうか?

わが国の情報史(20-前段) 日露戦争の勝利の要因その2 -戦略的インテリジェンスとシビリアンコントロール

前回から日露戦争における勝利の要因についてインテリジェンスの視点から考察しています。 前回においては、兵法家の大橋武夫氏の説を取り上げ、以下の6つの勝利の要の同盟に焦点を当てた。

(1)英国との同盟(1902年) (2)開戦から始められた金子堅太郎の終戦工作 (3)高橋是清の資金獲得とロシアに対する資金枯渇  (4)明石元二郎(大佐)の謀略工作 (5)特務機関の活動(青木宣純) (6)奉天会戦、日本海海戦の勝利

今回は、(2)の金子堅太郎の活躍を中心に、若干(3)の高橋是清の活躍についても触れつつ、日露戦争の勝利の要因を考察する。

日露戦争に向けた政治指導体制

日清戦争後、桂太郎(1848年~1913年)は第三次伊藤内閣(1898年1月~同年6月)で陸軍大臣として初入閣し、その後も出世街道を驀進した。 そして明治34年(1901年)6月、第一次桂太郎内閣が誕生することになる。

この内閣は、海軍大臣・山本権兵衛(1852年~1933年)と陸軍大臣・児玉源太郎(1852年~1906年)の留任を除いては、その他は初めて大臣になるという官僚が大半であった。 しかも、その多くが内務省出身の山県(有朋)閥の官僚であったため、世人は「小山県内閣」「第二流内閣」と揶揄した。 しかし、この桂内閣が日露戦争を戦い、わが国の歴史上の大勝利をもたらしたのである。

桂は1901年9月に小村寿太郎を外相に起用して日英同盟の締結を目指した。二人にとって、その先にあるものはロシア問題の解決にほかならなかった。 当時、ロシア問題をめぐっては日本政府内では山県、桂、小村らの対露主戦派と、伊藤、井上馨らの戦争回避派との論争が続いていた。 桂はこれらの元老たちの意向を汲み、微妙に調整しつつ、わが国の生存・発展戦略を模索しなければならなかった。  

1902年に成立した日英同盟を背景に山県・桂らの主戦派は、伊藤らの戦争回避派に対する分裂工作を仕掛けるなど、政界における影響力の増大に努めた。 1903年(明治36年)4月21日に京都にあった山県の別荘で両派による対ロ方針に関する会議が行われた。

この会議において桂は、満洲に対してはロシアの優越権を認める、そのかわりに、朝鮮においては日本の優越権を認めさせる、これらが貫徹できなければ戦争も辞さない、との対ロ交渉方針を掲げ伊藤と山県の同意を得た。

しかしながら、桂の予測どおりともいうべきか、ロシアの南下政策は一向にとどまることない。ついに1904年(明治37年)、桂内閣はロシアとの開戦を決意し、同年2月4日に日露戦争の火ぶたが切って落とされることになる。

日露戦争に向けた軍事指導体制

他方、日露戦争までの軍事指導体制に焦点をあててみることにしよう。1998年に川上操六(1848年~1899年)が参謀総長に就任し、作戦を司る第一部長に田村怡与造(1854年~1903年)、情報を司る第二部長に福島安正(1852年~1919年)を登用した。これにより作戦と情報の両輪体制が整い、ロシアとの対立を視野においた軍事指導体制が確立された。

しかし1899年5月に頼みの綱であった川上操六が急死する。まさに日本は“飛車堕ち”の危機的状況に瀕した。その応急的措置として、長老の大山巌(1842年~1916年)が参謀総長に就任し、同次長には寺内正毅(てらうち まさたけ、1852年~1919年)が就任した。

ただし、参謀本部の実権は徐々に川上の申し子である田村へと移っていく。田村は1900年4月に陸軍少将に進級し、第1部長兼ねて参謀本部総務部長となり、その存在感を陸軍内にとどろかせていた。

一方、第一次桂内閣において陸軍大臣に留任した児玉は、1902年3月に陸軍大臣の職を解かれ、まもなくして内務大臣に転任した。 その陸軍大臣の後任には参謀本部次長の寺内が就任した。これにより、1902年4月、田村が寺内の後任として参謀本部次長に就任した。つまり、ロシアに対する軍事作戦の責任が田村に任されたのである。

田村自身は、大山総参謀長と同じく日露開戦には慎重であったが、ロシアとの戦争を想定して戦略・戦術を練った。これが、まもなく生起する日露戦争において功を奏したことはいうまでもない。 しかし、その田村も川上と同様に過労のため、日露戦争開戦の前年の1903年10月に死去してしまうのであった。享年50歳であった。なお、田村は同日に陸軍中将に進級した。

川上、田村という陸軍の英傑を相次いで失ったわが軍の憔悴振りは、いかばかりであったろうか? この“火中の栗”を拾うとばかりに立ち上がったのが児玉である。児玉は内務大臣から二階級降格(親任官から勅任官の下の奏任官)の形で(ただし、親任官の台湾総督を兼任したままであったので実質的な降格ではなかった)して参謀本部次長に就任した。

田村と違って児玉は日露開戦の積極派である。当時、田村と海軍の山本権兵衛はそりが合わなかったが、児玉が参謀本部次長に就任したことで、陸・海において協同の気風が生まれ、日露開戦へと一歩近づくことになる。 日露戦争の開戦の直後の1904年2月11日、陸軍参謀本部のほぼそのままの陣営を維持して、戦時大本営が設置された。大本営参謀総長には参謀総長の大山(元帥)、同次長には児玉(大将)が就任した。

一方、現地の作戦指揮を一元的に行うことを狙いに1904年6月に満州軍総司令部が設置された。その総司令官には参謀総長であった大山があてられ、満州軍総参謀長には児玉が就任した。 そして、高級参謀として作戦を司る第1課の課長に松川敏胤(参謀本部第1部長、歩兵大佐)、同主任に田中義一(歩兵少佐、のちの総理大臣)、情報を司る第2課の課長に福島安正(同第2部長、少将)、後方を担当する第3課の課長に井口省吾(同総務部長、少将)が就任した。

また、大山及び児玉の満州軍への派遣により、大本営総参謀長には山県有朋(1838年~1922年)、同次長には新たに長岡外史(1858年~1933年)が就任した。

わが国は「6分4分」の勝負を戦略とする

事前に「勝利は間違いなし」と判断した日清戦争とは異なり、日露戦争では明治天皇は戦争決断に際して落涙されたと伝えられている。当時のロシアは、日本の約10倍の国家予算と軍事力を誇り、国際の見方はロシアの圧倒的な有利であった。

相澤邦衛『「クラウゼヴィッツの戦争論」と日露戦争の勝利』では、次のように述べている。 「日露戦争当時のわが国の指導者は、ロシアと日本との国力差を認識し、完全勝利はできないし、長期戦になれば、日本に勝ち目がないと判断していた。 そこで、ロシア軍の情勢を分析するなかで、開戦時期を「シベリア鉄道が完全に完成せず、欧州ロシアから送られてくる同国の満州派遣軍の主力が到着する以前とする」とした。

そして日本側の条件は、「武器弾薬の自前生産が可能な大阪砲兵工廠などの軍需工場の完成、八幡製鉄所等工業力の充実、袁世凱の協力を得ての豊富な資源を埋蔵する満州からの石炭の調達、など戦闘準備を終えてから日本軍は一挙に大軍を韓半島・満州へ兵力を送るべく、戦場予定地への動員体制をとっていく。

そして満州において日本軍が優勢な内に、宣戦布告と同時に緒戦において一気に満州在住のロシア軍を撃破しておく」という練りに練った作戦構想を立てた。」 つまりわが国は、敵の準備未完の好機を捕捉し、ロシア側を上回る大軍を要事要点に集中して緒戦において勝利する。

これにより、国際世論において日本の地位を高めて、戦争遂行に必要な外債募集を容易にすることを狙ったのである。 児玉源太郎・満州軍総参謀長の腹積もりは短期決戦、すなわち「6分4分」の勝負に持ち込むというものであった。そこで児玉は、開戦と同時に盟友の杉山茂丸や中島久万吉(桂太郎首相秘書官)に終戦工作を依頼した。 奉天会戦の勝利後は、児玉は元老や閣僚たちに対して終戦を説いて回った。

戦略的インテリジェンスの勝利

開戦とともにわが陸軍は連戦連勝して北進し、1905年3月には奉天会戦で大勝利を得た。しかしながら、大局的にみれば、ロシア軍は外国領内を約300キロ後退させたにすぎず、軍そのものも致命的な打撃は受けていない。

1905年5月27日の日本海海戦の完勝により、わが海軍は見事に大挙来攻するバルチック艦隊の進撃を粉砕して、ロシアの戦意を挫折させた。しかし、進んでその首都を占領するまでの力はわが国にはなかった。

つまり、わが国はロシア領土内に一寸も侵攻しておらず、米国による和解仲介によってやっとのことで辛勝したのである。 そのため、戦争の緒戦に勝利して有利な体制で終戦に持ち込む、それが、わが国の国家戦略であった。ここには「戦わずして勝つ」「計量的思考」「速戦即決」を信条とする「孫子兵法」が縦横無尽に応用されたとみるべきであろう。

それにもまして、こうした戦略を可能にならしめたのが的確な情勢判断であった。当時の指導者はロシアを取り巻く国際情勢を知悉し、「世界列強は日露両国のいずれが勝ちすぎても、負けすぎても困る」という事情を的確に判断していた(大橋武夫『統帥綱領』)。

的確な情勢判断を支える唯一無比なものが戦略的インテリジェンスである。わが国は、そのインテリジェンス能力を過分なく発揮し、英国との同盟をよく維持し、米国を和解仲介へと引き摺り込んだのであった。

金子賢太郎の終戦工作

金子堅太郎
1853~1942

政治と軍事の連携という点では、金子堅太郎(かねこ けんたろう、1853年~1942年)の活躍が特筆される。 金子は明治の官僚・政治家である。彼は1871年、岩倉使節団に同行した藩主・黒田長知の随行員となり、のちの三井財閥の総帥となる團琢磨(だんたくま,1858~1932)とともに米国に留学した。彼が18歳の時のことである。

1878年9月、金子は25歳で帰国する。その後まもなくして、内閣総理大臣・伊藤博文の秘書官として、伊東巳代治(いとうみよじ,1857~1934年)、井上毅(いのうえこわし,1844~1895)らとともに大日本帝国憲法の起草に尽力した。

彼は伊藤博文から厚く信頼され、第2次伊藤内閣の農商務次官、第3次伊藤内閣の農商務大臣、第4次伊藤内閣の司法大臣を歴任した。 また教育者でもあり、日本法律学校(現・日本大学)の初代校長を歴任した。

金子は米国に留学して、はじめはボストンの小学校に入学するが、飛び級で中学に進学し、最終的にハーバー大学で法学士の学位を受領した。 ハーバードにおける修学では、のちの外務大臣となる小村壽太郎(1855~1911)と同宿し勉学に励んだ。

またハーバード大学における修学が縁で、日露戦争時の米大統領となるセオドア・ルーズベルト(1858~1919)の知己を得ることができた。 ルーズベルトも同大学の卒業生であり、のちに彼が弁護士となり日本を訪れた時に二人は知り合い、金子が議会制度調査のために再び渡米するなどして、両者は厚く親交を結ぶようになった。

上述のようにわが国の戦略は、「緒戦勝利、早期終戦」であったため、第3国に終戦工作をおこなわせることが課題であった。その命運を枢密院議長の伊藤博文によって託されたのが、ルーズベルト大統領にもっとも親しい日本人であった金子であった。

金子は、伊藤の説得を受けて日露戦争勃発の直後に単独で渡米した。彼は日露戦争終結後のポーツマス講和会議(1905年8月)が終了する1905年10月までずっと米国に滞在して、ルーズベルト大統領に常に接触し、戦争遂行を有利に進めるべく親日世論工作を展開した。 ポーツマス会議においては、償金問題と樺太割譲問題で日露双方の意見が対立して交渉が暗礁に乗り上げたとき、外相でもあった小村壽太郎全権より依頼を受け、ルーズベルト大統領と会見してその援助を求めて講和の成立に貢献した。

金子の米国における大活躍

この時の金子の活躍振りは、前坂俊之著『明治三七年のインテリジェンス外交』(祥伝社新書))に詳述されている。 そのなかからいくつかのエピソードを拾ってみたい。

・日露戦争の開戦を決定した御前会議を終えた伊藤博文は、官邸に帰ると、すぐ電語で腹心の金子堅太郎(前農商務大臣、貴族院議員)を呼んだ。  伊藤は「ついに開戦が決まった。戦争は何年続くかわからない。私も鉄砲かついでロシア兵と戦う覚悟だ。君は直ちにアメリカにとび、親友のルーズベルト大統領に和平調停に乗り出すよう説得してもらいたい」と告げた。

・密命を帯びた金子は(1904年)3月26日、ホワイトハウスに大領を訪ねた。数十人の客が待っていたが、大統領は自ら廊下を走って出てきて「君はなぜもっと早く来なかったか。僕は待っていたのに」と肩を抱きあって大喜びし、執務室へ招き入れた。 開口一番、「今回の戦争で米国民は日本に対して満腔の同情を寄せている。軍事力を比較研究した結果、必ず日本が勝つ」と断言したのには金子の方が驚いた。

・金子はルーズベルト大統領、ハーバード人脈をフルに活用して、全米各地を回って世論工作、外債募集にと獅子奮迅の活躍が見せた。ルーズベルト大統領も「日本の最良の友!」として努力することを金子に約束した。

・全米での日露戦争への関心は高く、金子は政治家、財界人、弁護士、大学人らのパーティーなどに引っ張りだこで、講演依頼が殺到する。英語スピーチの達人の金子は大聴衆を前に日本軍の強さ、武士道精神を説明して感銘をあたえ、日本びいきを増やしていった。

・〝勝った、勝った〝の日露戦争も38年3月10日、奉天での勝利までが限界。弾薬も尽き果てて、兵隊も金もなく、戦争継続はもはや困難な状況となった。一方、ロシアは強大な兵力、武器を温存、これ以上戦えば日本はひとたまりもない。 参謀総長・山県有朋は絶体絶命のピンチを桂首相へ報告し、ル大統領の和平調停の望みを託した。大統領はここぞと腰を上げて仲介、ポーツマス会議となった。仲介役の大統領は「日本の弁護士のようだ」といわれるほど交渉の秘密文書も金子に自由に見せるなど逐一情報をいれて、交渉決裂寸前に「条件に金銭を要求せず、名誉を重んずる」講和条件で、何とか平和にこぎつけた。

金子の思想的背景に武士道精神あり

実際、日露戦争末期、日本の国家財政は軍事費の圧迫により破綻寸前であった。日露戦争には19億円の戦費を費やしたが、これは当時の国家予算の約3倍にも上った。 日本兵の死傷者数も甚大であった。とくに陸軍では士官クラスがほとんど戦死するという壮絶な状況まで追い込まれていた。とても組織的な戦闘継続は不可能に近い状態となっていた。  

金子は終戦工作を成功裏に収めることができたのは、彼が米国留学の経験から米国民の国民性をよく理解していたことや、彼の英語能力と弁術の優秀さがあげられる。 それにもまして、武士道精神を体現した金子の言動が多くの米国人の信頼を得たのである。

ルーズベルト大統領は「日本人の精神がわかる本を教えてほしい」と依頼し、金子は新渡戸稲造の『武士道』の英訳本を贈った。 大統領はこれを読んで感激し、30冊を購入して知人に配布し、5人の子供にも熟読するように指示するなど、一層、日本びいきになった、という。(前述、前坂『明治三七年のインテリジェンス外交』)