わが国の情報史(16) 

明治のインテリジェンス将校

対外インテリジェンス活動の開始

川上操六

明治の世に入り、わが国は「アジア主義」と「脱亜論」が拮抗するなか、「領 事裁判権なし」と「関税自主権なし」の二つの不平等条約撤廃を外交目標に掲げつつ、急速にアジアへの接近を強化した。

まず朝鮮の権益を巡り清国と対立し、1894年に日清戦争が生起した。さらに満州・朝鮮の権益をめぐってロシアと対立し、日露戦争(1904年-1905年)へと突入することになる。

こうした大きな情勢推移のなか、わが国は明治維新直後から朝鮮半島や清国をはじめとする対外情報収集を開始した。1875年には、初の海外公使館付武官となった清国公使館付武官を派遣した。このほか、ドイツなどの各国に武官を次々と派遣することになる。

日清戦争以前には、イギリス、フランス、ドイツ、ロシア、清国、韓国の六カ国に武官を派遣していた。

1880年(明治13年)3月、対外関係の正常化を狙いに、初めての大(公)使館となる清国大使館を開局した。以降、ここが中国(シナ)大陸における陸軍諜報の一大拠点となった。ここから参謀本部直属の諜報員などを朝鮮半島や中国大陸に派遣することになる。

山県有朋、インテリジェンスを握る

山県有朋(1838~1922)は、日本の軍人にして政治家である。彼は長州藩の下級武士の家柄の出身でありながら、立身出世を果たし、内閣総理大臣や陸軍参謀総長などを歴任した。

彼は日本陸軍の基礎を築つき、「国軍の父」と称されることもあるが、それよりも、1877年の西南戦争において、西郷隆盛に対する討伐軍の長として有名である。しかし、山県がインテリジェンスを重視し、卓越した情報力で一時代を築いたことはあまり知られていない。

 山県は、これから触れる桂太郎、川上操六、福島安正などをよく登用した。また、筆者がインテリジェンス大家として崇めてやまない吉田松陰が継承した山鹿流兵法の門下である乃木希典(のぎまれすけ)の上司でもある。

すなわち、山県こそは明治初期の最大のインテリジェンス・フィクサーであるといえよう。

山鹿流兵法の門下生 、乃木希典(のぎまれすけ)

乃木希典(1849~1912)は長州藩の出身である。日露戦争において旅順攻囲戦などで活躍するが、明治天皇の後を慕って殉死したことや、戦後に『坂の上の雲』を書いた司馬遼太郎によって“愚将”として断定されたことのほうが有名である。

ただし、この愚将説はまったく根拠のない小説であることは、歴史家諸氏が異議をとなえているところである。

乃木は1864年、13歳にして出身地の長府(現在の下関市)から70km離れた萩に赴き、吉田松陰の叔父である玉木文之進の弟子となり、山鹿流兵法を学ぶ。

この山鹿流兵法とはわが国の志向の兵法家である山鹿素行を開祖とする。孫子の兵法と、そして楠木正成にも影響を与えた我が国の闘戦経の両方の流れを継ぐ江戸期の兵法であり、幕末維新に多大な影響を与えた。

1865年に、第二次長州征討が開始されると、乃木は奇兵隊の山県有朋の指揮下で戦い、功名を果たす。

1868年、陸軍に入営し、1872年にわずか22歳で大日本帝国陸軍の少佐に任官した。異例の抜擢であった。

1974年、乃木は山県の伝令使に登用され、1875年12月、乃木は熊本鎮台第14歩兵連隊長心得(小倉)に赴任するが、これは、そののちに反乱を起こす、 前原一誠の動向を探ることが兼務であった。

 乃木の前任の連隊長・山田頴太は、のち叛乱で有名になった前原一誠の弟である。そして前原党の首脳の一人が乃木の実弟の乃木真人(玉木正誼)であった。真人は松下村塾の創始者である玉木文之進の養子になっていた。

その前原党の動きを探るため、山県はあえて乃木を山田の後任に送ったのである。

乃木は、弟たちから得た情報を山県に送った。これにより1876年10月の前原一誠の乱は拡大することなく、鎮定されたのである。

このように、乃木は諜報員として軍人生活を開始したのであった。

情報将校が出発点、桂太郎

桂太郎

桂太郎(1848~1913)は長州出身の政治家である。総理を3回歴任するなど、明治の政治家の重鎮である。

桂は1970年から3年間ドイツに留学し、帰国後に陸軍大尉に任官し、第6局(参謀本部の前身)勤務、ついで少佐に進級して参謀本部設置(参謀長は山県有朋)とともにその諜報堤理(ちょうほうていり)の職に就いた。

そして、75年から3年間ドイツ公使館附武官として赴任する。そして、78年7月に帰国し、参謀局諜報堤理の職に復帰した。つまり、桂の軍人としてのキャリアは情報将校である。

 桂家は、孫子などの兵法を管理し、闘戦経を開祖した大江家、そして大江家の末裔である毛利家、祖先とする。だから、桂には兵学、諜報の血が流れていたのかもしれない。

 桂がドイツに赴任している間に西南戦争が起こった。山県はこの戦争を鎮定し、内戦に備える軍隊から決別し、対外的な脅威、すなわちロシアによる東方侵攻に備える軍隊に再生させるための軍事改革を図ることになる。

この改革の主導的な役割を担ったのが、この桂と次に登場する川上操六であった。

参謀本部創設の父、川上操六(かわかみそうろく)

川上操六 (1848~1899) は薩摩藩の出身であり、1977年の西南戦争では苦渋の選択から陸軍に残り、尊敬する薩摩藩の西郷隆盛と戦った。

川上は桂太郎、児玉源太郎とともに「明治陸軍の三羽烏」と呼称される逸材である。川上は「参謀本部創設の父」と呼ばれ、参謀本部の発展に多大な貢献をした。おそろく、52歳という若さで鬼籍に入られなければ、もっと著名な大人物になっていたことは間違いない。

川上は1870年の普仏戦争に桂と共に観戦武官として派遣された。その後、国内の連隊長職などを歴任し、頭角を現した。

1884年、川上は桂太郎とともに大山巌・陸軍卿(大臣)に伴って欧州に視察旅行にいく。桂、川上ともに35歳であった。

大山は、今後の陸軍を建設し、近代化するためには、長州の桂と、薩摩の川上の両大佐が必要であるとして、この欧州視察に大抜擢した。

このとき、二人は「軍政の桂」「軍令の川上」になることを将来の誓いとした。なお軍政とは人事・予算・制度等を主務とする、軍令は作戦運用を主務とするものである。

1885年1月にドイツから帰国し、山県有朋・参謀本部長のもとで、川上は参謀次長(少将)に就任し、参謀本部の改編に着手する。わが国は1882年、陸軍はフランス式の兵制からドイツ式に切り替え、編制・用兵を外征型に改め、ドイツ式の教範整備などを推進することに決したが、その改革はこれからの課題であった。

この切り替えを決定的なものにしたのが、1985年にドイツから陸軍大学に招聘されたメッケル少佐である。

川上は、桂、児玉源太郎とともに、メッケル少佐を顧問にドイツ式の兵制を導入することに尽力した。このころ、陸軍ではフランス式かドイツ式かの議論があったが、川上は「普仏戦争において勝利したドイツを見習うことが当たり前だ」と忌憚なき意見を述べた。

1887年、川上はふたたびドイツに留学する。ここでは乃木とともに、ドイツのモルトケに執事した。

また、この時に森鴎外(当時25歳)に面会して、クラウゼヴィッツの『戦争論』の翻訳と、その内容を後述する田村怡与造に講義するよう依頼した。

1988年に帰国し、ふたたび参謀次長(名称変更)に就任し、1890年に陸軍中将に昇任して日清戦争の開戦に大きくかかわることになる。

日清戦争前の1893年、川上(参謀次長)は清国と朝鮮を視察し、「先制奇襲すれば清国への勝利は間違いない」と確信を得て帰国する。この際、田村怡与造(中佐)とともに連れて行ったのが情報参謀の柴五郎大尉(のちに大将)であった。

なお、柴は陸軍大学を出ずに、情報将校としての活躍で陸軍大将まで上り詰めた希有な軍人である。柴については次回以降触れることにする。

日清戦争では、川上が推進した陸軍の近代化が勝利に大いに貢献した。日清戦争以後、わが国の対外情報機能はさらに強化されることになる。

1998年1月、川上(中将)は参謀総長に就任する。彼は作戦を司る第一部長に田村怡与造(当時は大佐、のちに中将)、情報を司る第二部長に福島安正(当時大佐、のちに大将)を当て、近代的な参謀部の組織改革を目指した。

その一方で、川上は大陸に対ロ諜報員を派遣して、対外情報網の構築に尽力した。日露戦争時に活躍する花田仲之助、石光真清は川上が放った諜報員であつた。

1898年9月、川上は大将に昇任し、日増しに高まるロシアの脅威に立ち向かうためには、川上はなくてはならない存在になった。しかし、日露戦争開始前の1999年5月に、川上は激務がたたって死亡した。

今信玄、田村怡与造(たむらいよぞう)

田村 怡与造 (1854~1903) は山梨県の出身である。その優秀さから甲斐の戦国武将・武田信玄にちなんで、川上から「今信玄」と呼ばれていた。中尉から大尉時代にかけてドイツに留学したドイツ通である。

1875年、陸軍士官学校に入学(旧2期制)。1883年にドイツに留学し、ベルリン大学で学ぶ。この時、川上と交流し、軍事研究に励む。

1888年に帰国し、以後は参謀本部に勤務し、陸軍のフラン式からドイツ式軍制への転換に務め、『野外要務令』『兵站要務令』の策定などに従事した。

1898年参謀本部第一部長に就任し、川上の右腕として対ロシアの脅威に備える。同年、川上が死亡したのち、田村はしばらく第一部長を務めていたが、1902年4月に参謀次長に就任する。

田村は情報将校としての主たる経歴はないが、参謀次長としてインテリジェンスの重要性を認識していた。階級が上の福島を情報部長として、対ロ情報を強化する一方、ウラジオストックに町田経宇少佐を派遣するなどした。

日露戦争は、この田村によって指導される運びであったが、彼もまた川上と同様に無理がたたって日露戦争開戦前に急死することになる(同日、中将に昇任)。

参謀本部の創設に多大な貢献をした両雄が日露戦争前に急死したのだから帝国陸軍の脱力感はいかばかりであったろうか。これを見て動いたのが、当時の内務大臣であった児玉源太郎である。

児玉は、“火中の栗”を拾うとばかり、内務大臣から二階級降格の形で参謀次長に就任する。

シベリア単騎横断の福島安正

福島安正

福島 安正(1852~1919) はきっすいの情報将校である。明治維新後、英語翻訳官から軍人に転換し、情報一筋で大将まで進級した最初の軍人である。

福島は長野県で生まれ、1865年、13歳で江戸留学、1869年に東京の開成高校で英語を学んだことが、のちの出世の登竜門となった。

福島は1874年から陸軍に転籍し、1976年の24歳の時に通訳官として西郷従道が率いるアメリカの博覧会視察に随行した。77年の西南戦争では山県有朋の幕下で伝令使(中尉)として活躍した。

1879年、福島は上海・天津・北京・内蒙古を五ヶ月にわたって現地調査(当時、中尉)する。これが情報将校としての本格的な第一歩となった。

その後、陸軍大学校で、ドイツから赴任したメッケル少佐に学ぶ。この縁で、

1987年にドイツ・ベルリン公使館に赴任し、ここでは公使の西園寺公望(さいおんじこうぼう、のちの総理大臣)とともに、ロシアのシベリア鉄道施設の状況などを報告した。

1892年の帰国に際しては、冒険旅行との名目でポーランドから東シベリアまでの約18000キロを1年4か月かけて騎馬で横断して現地調査を行った。これが世に有名な「シベリア単騎横断」と呼ばれるものである。

福島の活躍は、日露戦争において最盛期を迎えるが、これについては次回以降に述べることとする。

このほかの情報将校の活躍

岸田吟香

このほか、日清戦争前後においては荒尾精(あらおせい、1858~1896)、根津一(ねずはじめ、1860~1927)らの傑出した情報将校が活躍した。

一方、ジャーナリストの先駆けといわれる岸田吟香(きしだぎんこう、1833~1905)をはじめとする民間有志が商取り引きなどを通じて大陸深くに情報基盤を展開し、これに応じる参謀本部の若手参謀が現役を退き、その基盤を拡充し、活動要員の養成に捨身の努力を払った。このような軍民一体の活動が陸軍の情報活動を支えていた。

荒尾は1859年に尾張藩士の長子として誕生。外国語学校でフランス語を修得したのちに、78年(明治11年)に陸軍卿満天星砲兵科に入学、80年に陸軍士官学校に入学した。

1885年、参謀本部シナ部附に転じ、86年に清国に赴任した。荒尾が陸軍に入隊したそもそもの理由が清国の歴史や事情を学び、清国に赴任することであったのであり、ようやく念願がかなったという訳である。

荒尾は清国で、ジャナリスの先駆けといわれる岸田吟香の協力を得て、書籍、薬、雑貨を扱う雑貨屋「楽楽堂」を営み、清国官憲の監視の目をごまかし、現地調査や諜報組織の設置に着手する。

1889年に帰国し、黒田清隆首相、松方正義大蔵大臣らの有力者に対して、「日清貿易研究所」の設立を要請したほか全国行脚し、清国の事情について講演し、募金を集い、90年に職員と生徒あわせて200名程度からなる「日清貿易研究所」を上海に設立し、日中貿易実務担当者の育成に努力した。

また、1892年、日清貿易株式会社の岡崎栄次郎の資金援助を得て『清国通称総覧』の編集に着手した。

荒尾は台湾でペストに罹り、38歳の若さで死亡するが、日清貿易研究所は彼の死後に、東亜同文会会長・近衛篤麿親友の根津一らの手によって、東亜同文書院(のちに東亜同文書院大学)に発展し、日本人のための高等教育機関となった。

他方、根津一は1860年に甲斐国の富家の次男に生まれ、陸軍士官学校に入学し、荒尾精と知り合い、中国への志を強めた。のちに陸軍大学への入学を果たし、ここでメッケル少佐に学ぶ。しかし、彼のドイツ至上主義と日本陸軍蔑視の姿勢に反発し、論旨退学処分となった。

結局、少佐で予備役に編入、荒尾の招聘で上海に赴任し、日清貿易研究所の運営、教育活動への従事を経て、1901年に初代の東亜同文書院の院長に就任した。

こうしたインテリジェンス重視の気風と活動が日清戦争におけるわが国の勝利に貢献したのであった。

貴乃花親方の引退

インテリジェンスの視点から考察する

平成の大横綱、貴乃花引退

最近のビッグニュースの一つが貴乃花親方の引退騒ぎです。貴乃花は平成の大横綱であり、相撲界の大変な功労者です。世間には衝撃と無念さが走っています。

そもそも、今回の争議の発端は昨年10月の日馬富士暴行事件にさかのぼります。貴乃花部屋の力士である貴ノ岩が、横綱の日馬富士から暴行を受けました。この事件に対し、貴乃花親方は相撲協会ではなく、警察に届け出ました。 貴乃花としては、警察にゆだねなければ、事件がうやむやにされると判断したのでしょう。

他方、相撲協会側としては、事件を調査して公表する立場にありました。しかし、貴乃花親方が相撲協会と貴ノ岩の面会を認めないなど、調査には断固として応じませんでした。

相撲協会側は、「巡業中の事件である。相撲協会の一員であり、しかも巡業部長であった貴乃花が相撲協会に事件を報告するのは当たり前だ」などと論じました。

両者の対立が深まり、相撲協会は貴乃花親方を処分し、日馬富士は引退に追い込まれました。

理事長選挙で敗北

こうした対立が続くなか、本年2月、今後の角界を大きく左右する相撲協会の理事選の選挙が行われました。貴乃花一門は、貴乃花親方が再出馬することに反対して、阿武松(おうのまつ)親方を立てました。

しかし、貴乃花は個人で理事選に出馬します。結局、獲得票はわずか2票で落選します。

その結果、貴乃花親方は本年6月に一門を返上し、無所属になりました。一方、理事に当選した 阿武松親方は8人のグループ (阿武松グループ) を形成しました。

これで、5つの一門と、一つのグループ、そして無所属が貴乃花親方含む4人となったのです。

貴乃花親方、一兵卒からやり直す

貴乃花親方は本年3月に内閣府へ「日馬富士の事件で相撲協会が適切な調査を行わなかった」旨の告発状を提出しました。ここに、いったんは両者の政治闘争の幕が切って落とされたのです。

しかし、ここで想定外のことが起きました。貴乃花部屋の力士である貴公俊(たかよしとし)が付き人に暴力を加えたのです。

この時、すでに日馬富士は暴力事件の責任を取る形で引退しています。だから暴力を振った貴公俊も退職するのが筋ということになります。

貴乃花親方は 貴公俊に相撲を取らせていた一心で 告発状を取り下げました。つまり、貴乃花親方は相撲協会に許しを乞うたわけです。

貴乃花は理事から5階級下の年寄に降格し(理事、副理事、役員待遇、委員、主任、年寄)、「一兵卒からやり直す」と称して、相撲協会の審判部に所属してその職務に精励していました。

貴乃花、引退届を提出

しかしながら、相撲協会と貴乃花親方の対立は完全解決には至らず、水面下でくすぶっていました。

9月25日、貴乃花親方は相撲協会に引退届を提出し、都内で記者会見をしました。年寄を引退し、所属力士は千賀ノ浦部屋に所属先を変更するというものです。

これは突然の事態というわけではありません。といういのは、マスコミが「相撲協会が親方はすべていずれかの一門に入らなければならないこと決定した。その期限が9月27日になっている」などと報道していました。また、すでに 阿武松グループの8人と無所属の3人は二所ノ関一門などに所属していました。

そして、唯一所属先が未定となった貴乃花親方は9月22日、「所属先はどうするのか」という報道陣の質問に対し「それは答えられないです」と発言していました。さらにマスコミは、貴乃花親方の所属先が決まらなければ、厳罰や部屋の取り潰しなどの可能性を示唆していました。

つまり、マスコミやわれわれも貴乃花親方の去就に注目していましたし、貴乃花親方がこの理事会の決定に従わなければ厳罰がある可能性を認識していたのです。

相撲協会もこうした動向はすべて承知しつつ、貴乃花親方の次なる行動を注視していたわけです。

圧力があったと旨を主張する貴乃花

貴乃花親方の引退の理由は、相撲協会から「告発状は事実無根な理由に基づいてなされたもの」と結論付けられた揚げ句、これを認めないと親方を廃業せざるを得ないなど有形・無形の要請(圧力)を受けたというものです。

貴乃花親方によれば8月7日、相撲協会から依頼された外部の弁護士の見解を踏まえたという、 「告発状は事実無根な理由に基づいてなされたもの」との文書での書面が届けられたようです。

これに対し、貴乃花は告発状の内容は事実無根でないことを説明したが、上述のような有形・無形の要請があったということのようです。

貴乃花親方の主張の要点は次のとおりです。

相撲協会はすべての親方は一門のいずれかに所属しなければならず、一門に所属しない親方は部屋を持つことができない旨の決定がなされたようだ。

自分は一門に所属していないので、このままだと廃業になる。

一門に入るよう説得は受けたが、同時にいずれかの一門に入る条件として、告発状の内容は事実無根な理由に基づいてなされたものであると認めるよう要請(圧力)を受けた。

しかし、自分は真実を曲げて、告発は事実無根だと認めることはできない。だから引退届を提出した。

相撲協会側は圧力を否定

これに対して相撲協会側が圧力の介在をまっこうから否定しました。これも周囲の予想通りの対応です。

ここで芝田山(元横綱・大乃国)広報部長が窓口に立ちます。

芝田山親方の言い分は次のとおりです。

7月末の理事会で全親方が5つある一門に所属するという決議をした。これは、予算使用の透明性など、相撲協会のガバナンスの強化が目的である。

告発状が事実無根であることを認めないと一門にいれないということわけではない。そういったことを言って貴乃花親方に圧力かけた事実はない。

一門に所属しない親方がやめなければならないという事実はない。

5月に貴乃花から3月の告発状のコピーの提出を受け、「間違っている点があれば指摘ほしい」との貴乃花親方の発言に応じて、相撲協会が顧問契約のない法律事務所に検証作業を依頼した。

(なお、貴乃花親方から同コピーを提出したのか、相撲協会から提出を要請されたのかかは明らかにされていませんが、相撲協会は全親方に貴乃花親方の告発状を全員に配布したとの報道が以前にありましたので、相撲協会側が提出を求めたものとみられます)

その検証を踏まえ、告発状の主張は「事実無根の理由に基づいてなされた」と貴乃花親方に書面で伝達した。なお、同書面には事実無根と認めるよう貴乃花親方に要請する表現は一切ない、

さらに、報道によれば、相撲協会の意向は 、9月27日に開かれる理事会の時点で、所属一門が未定の親方がいた場合は、その日の理事会で協議する。期間をとって一門への招請を調整するというものだったようです。

本当なのかどうかはわかりませんが、いささか後付けの印象を受けます。

世間には貴乃花親方の早合点を指摘する声があるが

一部には、貴乃花親方は思い込みが強いので相撲協会の対応を勝手に圧力だと誤解した」などの意見が出ています。

これには、貴乃花親方にまだ相撲協会に残ってほしいとの、幾分かの期待値がふくまれているのでしょうが、少なくとも貴乃花親方がありもしない圧力を圧力だと誤解した、早合点したなどは、ありえないことだと考えます。

相撲協会が、貴乃花親方を相撲協会から排除しようとまでは考えていたかどうかはわかりません。しかし、相撲協会の内部において、「反協会派である貴乃花親方の行動を統制・牽制する必要がある。二度と勝手な行動はさせない」との意図があったと考えるのは極めて自然です。

「親方全員の一門所属制度」もガバナンスの強化というよりも、貴乃花親方の反協会的な行動をとらせないための措置であったと考えるほうがしっくりときます。

つまり、 8月に貴乃花親方に提出された「告発状は事実無根だった」との通知は、9月27日までに一門に所属しなければならないとの決定事項とセットであり、いわば「告発状は事実無根だ」と認めることが一門に所属するための“免罪符”であったとみられます。

すなわち、圧力は存在したと考えます。

誰が圧力を掛けたのか

親方全員が一門に入らなければならないということも、文書で通知されたわけでくなく、理事を通じての口頭伝達で行われたようです。相撲協会の言い分では、こうした決定事項は文書で行わないのが慣例なのだそうです。

おそらく貴乃花親方に対しての伝達は、以前に貴乃花一門であった阿武松理事を通じておこなわれたのでしょう。その際、 阿武松親方は貴乃花親方に一門に入るよう真摯に説得を試みたのでしょう。

この際、 阿武松親方 は圧力を掛ける気持ちはなかったと考えます。

ただし、他の理事が間接的に阿武松親方 に対し、貴乃花親方が一門に入るための条件として、「告発状は事実無根であった」ことを認めさせるよう要請した可能性は否定できません。

阿武松親方自信も親方業を続ける、さらに理事として残るために二所ノ関一門に所属しました。そのような立場にあった 阿武松親方が、「貴乃花さん、あなたも一門に入って一緒にやっていこうよう。ただし、一門に入るためには、告発状は事実無根だったと認めないと、一門の他の親方衆はなかなか受け入れてくれるないよ」くらいのことは言った可能性はあると判断します。

無論、芝田山親方が言うように相撲協会が表面的に圧力を掛けた形跡はありません。しかし、これは貴乃花親方に不満を持つ理事や親方衆が生み出した組織全体の暗黙の圧力だといえます。そもそも圧力というものは、無言の圧力がもっとも多いのであり、もっとも効果があるのです。

貴乃花親方がこうした周囲の環境を有形・無形の圧力と認識し、それをもはや回避できない脅威であると感知して、「窮鼠猫をかむ」の言葉どおりの行動に出たのでしょう。

逃げ道が閉ざされた時に、圧力を掛けられた側は乾坤一擲に反撃にでます。それが、今回の相撲協会側と貴乃花親方の対立の縮図であると考えます。

暗黙知の世界で生きた貴乃花

暗黙知とは主観的で言語化することができない知識のことをいいます。言語化して説明可能な知識(形式知)に対する対比語です。

たとえば、歩行や自転車の乗り方は言葉では容易に説明できませんが、脳がその行動を知識として記憶しています。

最近では、暗黙知はビジネスの世界でよく使われる言葉です。徒弟制度のように体で技術を覚えるのではなく、マニュアル化できるものはマニュアル化する、すなわち形式知にすることが重要であるという文脈として使われることが多いようです。

相撲界の四股はまさに暗黙知であると思います。そして相撲界は全体は、明確な規則による定めや、理論的な解釈よりも、過去の伝統や経験に基づく暗黙知が組織全体を支配してきたと考えます。

貴乃花親方は15歳の頃から相撲界に入り、四股を中心に想像を絶する稽古を重ねて横綱になりました。 つまり、貴乃花親方自身も、暗黙知が支配する世界のなかで、経験や勘に基づく生き方や判断力を蓄えてきたのです。

情報分析の世界にもある暗黙知

情報分析の世界ではアルゴリズムとヒューリスティックという言葉が存在します。前者は、
「人間やコンピューターに仕事をさせる時の手順」の意味であり、一歩ずつ手順を経て解答を導き出す思考法です。論理的思考に該当します。

他方、ヒューリスティックは「自己の直感や洞察に基づき、複雑な問題に対する、完璧ではないがそれに近い回答をえる思考法」という意味で用いられています。これは、必ず正しい答えが導きだせるわけではありませんが、ある程度に近い答えを出せる方法です。思考法としては創造的あるいは直感的思考法に該当します。

ヒューリスティクは迅速に答えを導きだすことができますが、思い込みや心理的なバイアスが介在して誤判断することがあります。だから、ヒューリスティクはバイアスの排除に努力しなければなりません。

実は、このヒューリステイクは暗黙知と非常に類似しています。つまり、経験や勘を蓄えて身に着ける思考法です。

情報分析においてはアルゴリズムとヒューリスティクの併用が重要だといわれます。つまりアルゴリズムだけで、迅速に正しい判断ができません。さらに驚くべきは、実は、専門家や経験者によるヒューリステイクの方がアルゴリズムよりも正解率が高いといわれるのです。

貴乃花親方は誤判断だったのか

今回の貴乃花親方の決断は、9月場所終了後の短期間で行われたことから、ヒューリスティクの判断だったとみられます。

上述のように、その判断は誤解である場合もありますが、多くの場合は正しい場合が多いのです。貴乃花親方が、他の事項についてヒュリスティックによる直観的な判断をしたならば、それは誤判断の可能性が大いにあると言えます。

しかし、こと勝負の世界、争いごとの判断において、勝負師の貴乃花親方がそうそう誤解をするとは到底思われません。

これは、相撲協会と貴乃花親方の政治闘争です。つまり、勝負師として類まれな感性を持つ貴乃花親方が、ありもしない圧力を掛けられたと一方的に誤解して、早まって退職を決断したなどという見解は的外れです。

貴乃花親方は、この種の圧力はもはや通常の手段では回避できないと直観的に判断して引退を決意したのでしょう。結果として早まったのかもしませんが、この段階においての貴乃花親方の決断は、取り得る最善の判断であった可能性の方が高いのです。

相撲協会側には圧力の認識はなかったのか

そもそも相撲協会側が、自分達にマイナスになるようなことを言うはずはありません。たとえ圧力があったとしても、圧力はなかったというでしょう。しかし、文書や口頭での圧力をにおわせる具体的なものはなかったとしても、上述のとおり暗黙的な圧力はあったと考えます。

相撲協会側の方々も暗黙知の世界の人たちです。彼らも自然と戦いのやり方を身に着けています。反協会派である貴乃花親方から、最初に政治闘争は仕掛けられたのですから、相撲協会側は黙ってはおれません。

戦いにおいて、心理的な圧力を掛けるのは常套手段です。相撲協会側は、このことは十分に認識し、貴乃花親方の行動を心理的に縛っていったはずです。

つまり、無所属の親方をいずれかの一門に入れ、外堀を固め、所属先の未定が貴乃花親方一人なる状況を作為しました。その状況を好機とみなし、さらに貴乃花親方に心理的に圧力を掛けていくことを意図的に行った可能性があります。

相撲協会側には貴乃花親方を完全に排除する派と、貴乃花親方の勝手な行動を諌め、軍門に下らせる派が存在していると考えます。いずれにせよ、政治闘争が継続している限り、貴乃花は相撲協会の敵であるわけです。

ただし、相撲協会側の本当の敵が貴乃花親方であったのか、それとも相撲を愛してくれるファンであったのか、さらには将来を取り巻く相撲がどのような環境に遭遇するのかというという情勢判断については、相撲界という狭い暗黙知の世界で生きてきた方々には少し難問であるのかもしれません。

思い起こす「パールハーバー」

話しは少し飛びますが、今回の両者の対立には「パールハーバー」を思い起こします。太平洋戦争の口火となる真珠湾攻撃は、日本の開戦通告が攻撃開始後の40分後になったことから、アメリカは日本の“卑怯なだまし討ち”を喧伝しました。

しかし、ルーズベルトはすでに蒋介石軍を支援し、厳しい対日経済制裁を発動し、対日決戦を行う決意を固めていました。

実は、真珠湾攻撃以前にもアメリカはわが国を攻撃するという計画もありました。これは350機会のカーチス戦闘機、150機のロッキード・ハドソン爆撃機を使用し、木造住宅の多い日本民家を焼夷弾を使用して爆撃するというものです。

実際には、欧州戦線への爆撃機投入を優先したため、この計画が遅れて真珠本攻撃となったにすぎないのです。むしろ、卑怯なだまし討ちはアメリカが行っていたかもしれません。

日本は1931年の満州事変以降、欧米からの圧力を受けました。そして国連から脱退して孤立化します。アメリカから石油をはじめとする資源の供給を停止され、じりじりと追い込まれています。そして対米戦争を最終的に決定したのが「ハルノート」です。これが提出された翌日の11月26日、日本はアメリカとの交渉の打ち切りを決定しました。

日本にも非難される点は多々ありました。しかし、欧米による歴史的なアジア侵略、迫りくるロシアの脅威、資源の枯渇などから、やむなく大陸進出を選択し、 欧米列強からのアジアの開放を目指したのです。

そこには、自らの利益追求を目的にアジアに侵略した欧米よりも十分な正統性があったと考えます。

貴乃花親方は孤立化した日本であった

まさに今回の貴乃花親方は、当時の日本の状況であると思われます。

貴乃花親方の行動には批判される点が多々あります。 しかし、ガチンコ力士であった親方が八百長につながる馴れ合い所帯の体制の撤廃、暴力の追放などを柱とした、相撲改革を目指したことは間違っていたとはいえません。

ただし、急進改革を求めるあまり、他との協調性を欠き、孤立化し、相撲協会側との関係が深刻化しました。

貴乃花の今回の行動を、私はかつての日本の状況とだぶられせてしまい、無念な感情から抜け出せないのです。

姑息な印象を受ける相撲協会

一方の相撲協会側のやり方が間違っているとは、私は思っていません。いささか反協会派の貴乃花親方の包囲網の形成を焦った感はありますが、組織としてはむしろ当然の措置だったのでしょう。

しかしながら、外堀を固めながら、じりじりと貴乃花親方を追い込んでおきながら、最後にのところで貴乃花親方の想定外の行動を受けた。

そのため、「9月27日の時点で一門に所属していない親方がいたら話し合いをする予定だった」「一門は受け入れる予定であった」などとのマスコミ報道を使った弁明は、詭弁以外の何物でもありません。

さらには引退届けが正式でない、所属力士の移動届けにも瑕疵があるなどとの芝田山親方の発言です。 そして未だに退職届は受理していないので、9月27日の番付編成会議に出るべきであるとの見解を主張しています。

そして、同編成会議に出なかったことにマスコミは「無断欠席」と書き立てるのです。すでに貴乃花親方は明確に引退の意志を明確に表示し、その理由を相撲協会の圧力だと言っているのです。少なくとも、無断であるとはいえません。

なにゆえ、貴乃花親方一人だけが無所属で、全員の親方が一門に所属した状況の会議に参加できるというのでしょうか。それこそ、明確な圧力行為ではないでしょうか?

相撲協会のこうした言動は法律的にも適正とはいえません。また、これには、日本を戦略的に追い込んで起きながら、日本の卑怯なだまし討ちを喧伝して、開戦気運を盛り上げたアメリカのやり方と非常に似た、ずるさ、いやらしさを感じます。

つまり、相撲協会のやり方は、武士道精神の潔さがまったく感じられないのです。いささか姑息手段がすぎるように感じます。

双方に望むこと

今後の貴乃花親方も、敗戦した日本のように前途は多難なのでしょう。 でも、少年に相撲を教えて、相撲界を盛り上げたい、その言におおいに賛成です。

相撲協会はもはや枝葉末節にこだわらず、早々に貴乃花親方の引退を認めていただきたいと思います。そして、同親方の行動にも一理あることを認めて、是正できることに取り組んでいっていただきたいと思います。

わが国の情報史(15) 

軍事制度の改革と参謀本部

軍事制度の改革

山県有朋

新たな世界情勢に対応するため、わが国の近代化、国力養成を進めるための政治体制が構想され、模索された。とくに国力養成の観点から軍事制度の改革が急務であった。 以下、軍事制度の改革の概要を時系列で述べることにする。

1868年1月(慶応3年12月)の王政復古により摂政・関白が廃止され、新政府に総裁・議定(ぎじょう)・参与の三職が置かれ、新体制がスタートした。

1868年2月10日(慶応4年・明治元年1月17日)、三職七科制(総裁・議定・参与,神祇事務科・内国事務科・外国事務科・海陸軍事務科・会計事務科・刑法事務科・制度寮が採用され、ここに海陸軍の部署として海陸軍事務科が置かれた。

議定のなかから、海陸軍務総督(小松宮彰人親王、岩倉具視、島津忠義)が、参与のなかから海陸軍務掛(広沢実臣、西郷隆盛、土倉正彦、林通顕、吉井友実)が就任し、練兵・守衛・軍務を担当した。

1868年2月25日、三職七科制を改めて三職八局(総裁・議定・参与,総裁局、神祇事務局・内国事務局・外国事務局・軍防事務局・会計事務局・刑法事務局・制度事務局)として、海陸軍事務科は軍防事務局となった。

1868年6月11日、三職八局の体制を太政官七官(議政官、神祇官、行政官、会計官、軍務官、外国官、刑法官)として、ここに新たに軍務官が置かれた。

1969年6月17日の版籍奉還を経て、8月15日(明治2年7月8日)、官制が大改正され、新たに2官6省(神祇官・太政官,民部省・兵部省・外務省・大蔵省・宮内省・刑部省)が置かれ、軍務官は兵部省(ひょうぶしょう)に再編された。すなわち、中央政府が兵部省を通じて陸海両軍に対する軍令・軍政を司る体制が確立した。

1870年(明治3)10月、新政府は陸軍の兵式にフランス式を採用することを定め、71年2月に薩・長・土三藩が貢献した兵をもって御親兵(のちの近衛兵)を設置し、はじめて政府直属の軍隊をもった。

この兵力を背景として71年7月に廃藩置県を断行して中央集権国家を成立させた。 つまり、明治初期の軍事制度の草分けは、天皇および御所の護衛を目的とする御親兵(ごしんぺい)の設置に始まる。これは1868年の鳥羽伏見の戦い後の軍事的緊張に対応するために設置されたのである。

そして廃藩置県後の軍事体制は国内の内乱対処を想定し、御親兵に代わり鎮台を設置することになる。 1871年には4鎮台(東京、大阪、鎮西(熊本)、東北(仙台))を設置したが、73年に名古屋、広島を加えて6鎮台に拡充した。

1872年2月、兵部省は陸軍省、海軍省に分かれた。この際の陸軍省の行政長官である陸軍卿は欠員であり、次官たる陸軍大輔(たゆう)は文官の山形有朋(やまがたありとも、1838年~1922年)であった。 同年3月に山県は武官職である近衛都督(近衛兵の総司令官)に就任し陸軍中将に任じ、行政官庁の次官(長官代理)を武官が兼任する先例が成立した。

他方、海軍卿も最初は欠員であり、同年5月に勝海舟/安芳(かつ かいしゅう / やすよし、1823年~ 1899年)が文官として海軍大輔に任命された。

山県は1872年7月に近衛都督を辞任したが、陸軍中将の身分はそのままであり、73年6月に行政長官である陸軍卿に就任した。

なお、欧米巡遊中の岩倉使節団に副使として加わっていた参議の木戸孝允は、武官の身分を保持する山県が行政長官に就任することに強く反対した。しかし、在外中であったのでその意見は通らなかった。

それでもシビリアン・コントロールを維持しようとする試みは行われた。 1874年の佐賀の乱(1874年2月1日~3月1日)が起きると、同年2月、内務卿の大久保利通(おおくぼ としみち、1830年~1878年)が九州に派遣された。文官である大久保に軍事指揮権があたえられ、陸軍卿の山県は武官であったために閣議にも参加できなかった。

大いに不満であった山県は、そのため陸軍卿を辞任して近衛都督兼陸軍省第6局(73年4月施行、後述)に就任し、陸軍卿の事務は陸軍大輔である西郷従道に任せた。組織上は、山県が格下である西郷の部下となったが、山県には軍事作戦を指導する第6局を牛耳る狙いがあった(後述)。  

佐賀の乱以降も、国内の治安は安定しなかった。熊本の神風連の乱(新風連の乱、1876年10月24日~10月25日)、萩の乱(1876年10月28日~12月8日)、福岡の秋月の乱(1876年10月27日~11月14日)などが起こり、そして1877年には西南戦争が起った。

反乱軍の首将は当時の日本でただ一人の陸軍大将西郷隆盛(西郷隆盛、1828年~1877年)であった。政府軍(参軍)の実質的な指揮官には、すでに陸軍卿に復活していた山県有朋(陸軍中将)と海軍大輔の川村純義(すみよし、海軍中将)が就任した。

西南戦争の終了をもって、もはや国内対処は新政府にとって軍事の最重要課題ではなくなった。他方、清国、ロシアに対する脅威感が増大した。このため鎮台から機動本位の師団編成への編成替えの必要性が生じた。

当時、海軍はイギリス、陸軍はフランスをモデルに軍整備を推進していた。当時の陸軍の教範である1971年の歩兵操典もフランス式であった。 陸軍においては、従前どおりのフランスか、それともプロシアに変更するかが検討された。結局、普墺戦争(1866年)でオーストリアに勝利し、普仏戦争(1870年~71年)ではフランスに勝利したプロシアを参考に陸軍の編成替を行うことに決した。この背景には、桂太郎などのプロシア留学組が影響力を及ぼしたことはいうまでもない。

かくして1882年、陸軍はフランス式の兵制からドイツ式に切り替え、編制・用兵を外征型に改め、ドイツ式の教範整備などを推進するに至ったのである。 1883年、陸軍卿の大山巌(おおやま いわお、1842年~1916年)は渡欧し、参謀将校の日本派遣とその人選を依頼した。

その結果に、85年には、プロシアからメッケル少佐が来日し、陸軍大学で講義することになった。つまり、陸軍はメッケル少佐から、モルトケ時代のプロシアの参謀本部制度を導入するとともに、88年に師団編成への転換を成就したのである。

 参謀本部の沿革

次に、戦争を指導する組織である参謀本部についてみておこう。 1871年(明治4年)7月、兵部省に陸軍参謀局が設置された。局長(都督)には兵部大輔(太夫)の山県有朋が充てられた。

1872年2月に兵部省が陸軍省と海軍省に分割されたことにともない、陸軍参謀局は陸軍省参謀局(以下、参謀局)に改編された。 1873年3月、陸軍省條例が発せられ、参謀局は第6局に改称された(4月1日施行)。

佐賀の乱の最中の1974年2月8日、上述のように山県が陸軍第6局の局長に就任した。しかし、すぐに(同年2月19日)、山県は第六局を廃止し、ふたたび参謀局に改めた。そして山形は第6局長から参謀局長になった。

参謀局から参謀本部への改編においては長州出身の桂太郎(かつらたろう、1848年~1913年)が活躍した。桂は1870年(明治3年)8月、プロシアに留学した。1873年10月半ば、プロシア留学から帰国した桂に対し、木戸孝允/ 桂 小五郎 (きどたかよし/かつら こごろう、1833年~1877年)は、当時の陸軍卿である山県に依頼し、桂を陸軍に入れて大尉に任命した。

1874年、桂はプロシア留学の成果を踏まえ陸軍省から参謀局を分離独立させることを建議した。その甲斐があって、78年(明治11年)に陸軍省から分離独立して参謀本部が設置された。初代の参謀本部長には山県が就任した。

以降、陸軍においては、軍政は陸軍省が担任し、軍令は参謀本部が担任する、軍政・軍令の二元化が確立されたのであった。 1886年(明治19年)、参謀本部条例が大幅に改正され、陸軍省と海軍省が軍政機関として並立し、陸海軍の統合参謀部門として参謀本部が設立された。これにより、参謀本部が軍令機関として、参謀本部陸軍部と参謀本部海軍部を経由して両軍を統括することになった。

1888年、参謀本部条例が廃止され、参軍官制が制定された。これにともない参軍(天皇の軍隊、有栖川宮熾仁親王)の元に、陸軍参謀本部と海軍参謀本部が設置された。

1889年に参軍官制、陸軍参謀本部条例、海軍参謀本部条例が廃止され、参謀総長を設けた参謀本部条例が制定された。これにより、陸軍参謀本部は参謀本部となり陸軍の軍令を担当し、海軍参謀本部が海軍の軍令を担当することになった。
当初は、参謀本部が海軍の軍令も管轄するものとみられていたが、海軍の強い反発により、参謀本部と海軍参謀本部が並列となったのである。 

日清戦争の前年にあたる1893年の参謀本部条例の改正により、戦時大本営条例が制定された。これにより参謀総長が陸軍と海軍の軍令を担当することになった。在外公館付武官を統括する任務も参謀総長に与えられた。

日清戦争前の参謀本部の編成は、副官部、第一局、第二局、編纂課であり、第一局が動員計画・運輸計画を担任、第二局の第一課が作戦計画を、第二課が外国情報などを担任した。

日清戦争後の1896年(明治29年)5月、参謀本部はそれまでの局制を廃止し、部制をとり、副官部、第一部、第二部、第三部、第四部、編纂部の六部編制となった。人員は100名を越える規模になった。

1899年の改正では副官部が総務部、編纂部が第4部に改編され、この体制で日露戦争を迎えることになるのである。

参謀本部におけるインテリジェンス機能

参謀本部の機能について、インテリジェンスの側面から考察を加えておこう。 1871年に設置された参謀局の任務は、兵用地誌の作成、政誌の編纂、間諜(スパイ)の運用など、作戦機能よりも情報(インテリジェス)機能の方が強かった。 しかし、征韓論及び制台論が高まるにともない、軍部は当面の海外出師(派遣)のため、作戦機能を強化する狙いで参謀局の改編に着手することになった。

その結果、1878年に陸軍省から分離独立して設置された最初の参謀本部は、参謀本部長及び参謀本部次長の下に、総務課、管東局、管西局、地図課、編纂課、翻訳課、測量課、文庫課から構成された。

管東局、管西局がこの組織の中心であり、両局は兵用地誌の作成、政誌の編纂、諜報を担当した。管東局が1・2軍管ならびに北海道・樺太・満州を、管西局が3・4・5・6軍管ならびに朝鮮、清国沿海を担当した。

要するに、最初の参謀本部の機能は地域分担制であり、作戦組織と情報組織は未分化であった。言いかえれば、インテリジェンスを司る情報組織は作戦組織のなかに埋没状態にあった。

しかし、1885年7月、朝鮮半島をめぐる日・清の紛糾のさなかに、参謀本部は大改正され、管東局・管西局は廃止され、第1局と第2局になった。これにより、第1局が作戦を、第2局が情報を担当することとなり、作戦と情報(インテリジェンス)が分化されることになった。

この際、第2局の事務は「外国軍の調査、外国地理の調査及びその地図の編集」とされ、第2局の第1課が国外の兵制・地理・政誌の収集及び分析を、第2課が運輸法及び全国の地理・政誌の収集及び分析を、第3課が諸条規の調査などを担任した。

諜報(ヒューミント情報)については参謀本部条例第12条で「諜報のことは第2局長これを主任す」と定められ、第2局長(大佐)が自ら扱ったものとみられる。

日清戦争後の1896年5月の6部編制では、「外国の軍事及び地理、諜報、軍事統計」を所掌することになったのが第3部である。

1885年の改編と96年の改編により、作戦と情報の分化は定着されたかにみえた。 しかし、日露関係の雲行きがあやしくなる1899年、川上操六(かわかみ そうろく、1848年~1899年)参謀総長は作戦部門と情報部門が合体させ、地域分担制に逆戻りさせてしまう。

この理由についてはドイツ参謀本部の影響を受けたとの見方もある。なお、この改編で第1部が東京以北・ロシア・朝鮮・満州、第2部が名古屋以南・台湾・清国の担当することにした。

ただし、いざ日露戦争が開始されると、陸軍首脳も作戦・情報組織を地域別に混在させていては実戦に対応することができないことを悟ったようである。大本営陸軍参謀本部、その機能の大部分を戦域に移動させた満州軍総司令部の編成では、地域分担制を廃止し、作戦部門(作戦課)と情報部門(情報課)を臨時措置として分離・独立させた。  

情報部が作戦部から独立しないことの弊害は、とかく作戦担当者が、自ら策案した作戦に都合がいいような情報ばかりを選択して、その作戦の有効性を否定するような情報を無視しがちになることである。すなわち作戦が情報を軽視した、主観的で独りよがりなものになりがちな弊害を生むことである。

南北首脳会談

会議は踊る、されど進まず

第5回南北首脳会談が開催

さる9月19日から20日にかけて、今年に入って第3回目、歴史的には第5回の南北首脳会談が開催されました。 平壌で南北首脳会談が行われるのは今回で3回目となります。過去の2回は、2000年6月の金大中政権、2007年10月の盧武鉉政権の時代であり、北朝鮮側は金正日氏です。韓国側の両政権はいずれも親北朝鮮政権であり、当時は、「太陽政策」という外交的緊張緩和政策が取られていました。

いずれも南北関係の改善に向けたさまざまな取り決めがなされましたが、現在までの南北対立の継続や、北朝鮮の核ミサイル開発の経緯を見るにつけ、過去の南北首脳会談が関係改善に成果があったとは言えません。

今次の南北首脳会談は規定路線

今回の南北首脳会談の経緯は本年2月にさかのぼります。金永南・最高人民会議常任委員会委員長と金正恩委員長の実妹・金与正氏が、平昌オリンピック開催期間中に韓国を訪問し、文在寅・韓国大統領と会談を開きます。その際、与正氏は、文大統領に金委員長の親書を手渡し、近く北朝鮮を訪問するよう要請しました。

その後、4月27日に文大統領と金委員長との間で、第3回南北首脳会談が板門店(韓国側施設)で開催され、その共同宣言(板門店宣言)のなかで、本年秋に文大統領が平壌を訪問することが合意されました。

報道ぶりを見ますと、 今回の南北首脳会談が、このところの米朝関係の膠着状態を打開するために行われたかのような印象を受けますが、まずは南北が 両国関係の改善の礎石となる終結宣言、さらには南北統一のための布石を打つことに狙いがある点を押さえておく必要があります。

第2に、北朝鮮が経済再建をうたい、韓国経済が停滞するなか、両国における経済関係の進展に狙いがありました。 それは、今回の文大統領の訪朝に際し、サムスン電子副会長はじめとする4大財閥トップなど17人の経済人が同行したことからも明らかです。

今回の平壌共同宣言では、鉄道と高速道路の連結事業に関し年内に着工式を実施する、中断中の開城(ケソン)工業団地や金剛山の韓国事業を再開する、経済共同特区の創設を協議するなどがうたわれています。

平壌宣言には新味なし

今回の南北首脳会談では、文大統領は北朝鮮側の演出を凝らした大歓迎を受け、聖地である白頭山を訪問し、全世界に向けて、同一民族の融和と統一に向けた正統性を訴えました。

さらには、金正恩国務委員長が文在寅大統領の招請により、近い時機にソウルを訪問することが合意されました。また、2020年の東京オリンピックを始めとする国際競技に共同で積極的に進出し、2032年夏季オリンピックの南北共同開催を誘致するための協力が謳われました。

このように、南北の友好ムードが最高潮に演出されましたが、平壌宣言自体は、今年の過去2回の首脳会談に比べて新味があるものとはいえません。 4月の南北首脳会談では2018年内に目指して停戦協定を平和協定に転換することが話し合われ、8月13日の南北閣僚級会談において、9月の南北首脳会談の開催が決定されました。

南北朝鮮は今回の首脳会談において、敵対関係の解消と融和路線の前進を全面的にアピールし、9月下旬に予定されている国連総会での米韓首脳会談あるいは米朝外相会談において終結宣言に向けた米国の同意を得るよう画策する腹づもりなのでしょう。

しかし、終戦宣言は米国にとって、米韓同盟の在り方、在韓米軍駐留、韓国に対する核の拡大抑止といった複雑な問題に影響を及ぼすため、おいそれと応じることはできないようです。 ここには、現在の核を保有したままで南北統一を目論む北朝鮮の野心と、文大統領が率いる韓国親北朝鮮が見え隠れしているのです。

北朝鮮は8月3日と4日にわたって開かれたアセアン地域フォーラムの閣僚会合で、米国側に北朝鮮制裁の緩和と終結宣言を要求したようですが、米国は非核化が先に行われない限り制裁を継続すると応じ、終結宣言に「ノー」を突き付けたようです。

一方、北朝鮮は米国の終結宣言などが、非核化の前提であるとの立場を保持しています。しかも、北朝鮮の非核化ではなく、在韓米軍の撤退などをも長期的視野に入れた朝鮮半島の非核化を主張しています。したがって、米朝間の食い違いが鮮明となっていました。

今回の首脳会談の合意を見るかぎり、終結宣言という言葉自体も盛り込まれることがありません。この点では4月の南北首脳会談から、朝鮮戦争終結宣言はまったく進展しているとはみられません。

非核化の進展はあったのか

6月12日のシンガポールでの米朝首脳会談では、米朝双方は朝鮮半島の核の完全廃棄では合意したものの、具体的な核廃棄プロセスの合意には至りませんでした。     今回の平壌宣言では、 核の非核化について、東倉里(トムチャンリ)ミサイル発射施設を専門家の立ち合いの下で廃棄する、米国が相応の措置をとれば寧辺(ヨンビョン)核施設を廃棄することがうたわれました。

両施設はいずれも対米向けの施設です。南北の合意文書に「米国が相応に措置を取れば」という文言を入れること自体が異質であり、北朝鮮は今回の南北首脳会談において、対米懐柔を相当に意識したとみられます。

今回の平壌宣言の内容は、 核の長距離ミサイルの発射施設を専門家の立ち合いの下で廃棄する点はやや目新しさの感があります。しかし、これまで米国が要求してきた、①すべての核兵器と保存場所を公開して査察に応じる、②核兵器や大陸間弾道ミサイルの一部を早期に国外に搬出する、などの要求レベルに答えるものではありません。

また、核施設についても国内に100か所近くあると推定され、すでに35発程度あるとされる核弾頭の扱いなどはまったく不明です。

つまり、北朝鮮は、米国が終結宣言や経済制裁の解除に応じるならば、米国に指向される核ミサイルの開発は断念します、と言っているのに過ぎないのです。
これでは非核化の前進と評価することは到底できません。

北朝鮮による対中接近

米朝首脳会談が実現する見通しが立った3月以降、北朝鮮の顕著な行動の一つとして対中接近が見られました。

3月25日から26日かけて、金正恩委員長は、中国を非公式に訪問し、26日には習近平主席との首脳会談に臨みます。これは金委員長にとっての初の外遊となりました。

韓国と米国との二つの外交交渉に臨むに際し、まずは「中国ファースト」という歴史的な慣例を遵守することで、ここ最近の険悪化した中朝関係を修復するとともに、二つの歴史的会談を前に中国の後ろ盾を得たいとの思惑があったとみられます。

そして、4月27日の南北首脳会談前の4月21日には、北朝鮮は核実験とICBMの発射実験を中止して、核実験場を廃棄するという宣言を行いました(ただし、この際に非核化には言及していない)。

ところが、ポンペオ米国務長官は5月2日、北朝鮮に「恒久的かつ検証可能で不可逆的な」核廃棄を求める方針を示しました。まずアメリカが北朝鮮に対して米朝首脳会談におけるハードルを設定したとみられます。なお、これに対する北朝鮮側の回答はありませんでした。

5月7日~8日、金委員長は再び訪中します。これは、ポンペオ国務長官の訪朝の直前でした。 この時、金委員長は大連で習主席と会談しましたが、おそらく4月27日の南北首脳会談の結果などを報告したほか、米朝首脳会談における中国の支持獲得が狙いであったとみられます。

中国国営新華社が金委員長の訪中を受けて次のように報じます。

「関係国が敵視政策をやめれば、朝鮮は核を持つ必要がなくなり、非核化が実現できる。朝米対話を通じて、互いの信頼を確立し、関係国が責任を負って段階的で同時に措置を取ることを望んでいる。 習主席は、北朝鮮が核実験の停止や核実験場の廃棄などを表明したことを称賛し、その上で朝鮮が経済建設に戦略の重心を移し、発展の道を進むことを支持すると応じた」。

米国の強硬姿勢に対し、 おそらく金委員長は、朝鮮半島の非核化についての「北朝鮮プラン」(段階的、同時・並行的解決)についての中国から支持を得るとともに、米朝関係の修復ができないとしても中国から水面下での経済支援を受ける確約を取り付けた可能性があります。

すなわち、米朝交渉に臨むにあたって米国が要求する「北朝鮮の完全で検証可能かつ不可逆な非核化(CVID)」ではなく、中国の支援を受けて「段階的、同時・並行的な朝鮮半島の非核化」で応じる戦術を固めたとみられます。

北朝鮮による硬軟両用の戦術

中国の後ろ盾を得た北朝鮮は硬軟両様の駆け引きを展開します。

5月9日、ポンペオ国務長官が訪朝します。金委員長はポンペオ氏と会談し、北朝鮮が拘束していた米国人3人を解放しました。

ポンペオ氏は、「すべての核兵器と保存場所を公開し、査察に応じる。核兵器やICBMの一部を早期に国外に搬出する」ことなどを要請したとされますが、これに対する金委員長の反応は明らかとなつていません。おそらく、論点をすり替えた玉虫色の回答に終始したとみられます。 他方で6月12日シンガポールで首脳会談を正式に開くことを決定されました。

5月12日、北朝鮮外務省が豊渓里の核実験場を23~25日に廃棄する旨を発表しました。 このように、北朝鮮は対外向けのパーホーマンスも意識したソフト戦術に出ます。

一方、5月11日から、25日までの予定で、米韓合同演習「マックスサンダー」が朝鮮半島周辺で開始されました。 これに対して、北朝鮮は5月16日、この演習を批判して、南北閣僚級会談を中止すると一方的に通告します。

さらに、同日、北朝鮮、米朝首脳会談のため予定されていた米朝実務協議を無断欠席し、金桂冠第1外務次官、ボルトン米大統領補佐官を批判した上で、「首脳会談に応じるかを再考するしかない」と発言します。 これはソフト戦術を駆使しながらのハード戦術の併用だと言えます。 こうした硬軟両用の戦術が取り得たのは、中国の後ろ盾を得たという安心感があったからだとみられます。

米朝における舌戦

このような北朝鮮に対して米国も戦術を修正します。

トランプ大統領は5月17日、「中朝首脳会談の結果、「物事が変化した。正恩氏は間違いなく取引したいと思っていたが、今はしたくないいのかもしれない」との見方を示しました。 そして、17日から18日かけて行われた米中間の貿易協議において、トランプ大統領は、中国が北朝鮮への圧力を緩めれば、貿易問題などで中国の圧力を強める構えを示唆したのです。

5月22日、ペンス副大統領「金正恩氏がトランプ大統領をもてあそぶことができると考えているなら、大きな過ちとなる」「金正恩氏は取引しなければリビアの轍を踏む」と発言します。

同日、トランプ大統領は「6月12日の会談開催はうまくいかないかもしれない」と発言し、「中朝国境が最近少し開かれた。気に入らない」と不満を吐露しました。

5月24日、北朝鮮・崔善姫外務次官は、自国を核保有国と位置づけ、ペンス氏を「愚鈍な間抜け」と批判し、「会談場で会うか、核対核の対決場で会うかは米国にかかっている」と挑発的な発言をしました。

このような米朝間の舌戦の末の5月25日、トランプ大統領は米朝首脳会談の中止を発表しました。米朝首脳会談の開催がまさに危ぶまれ、米朝関係や半島情勢の緊張化が再び懸念されることになったのです。

米朝首脳会談は妥協の産物

これに対し、北朝鮮は5月26日、本年2回目の南北首脳会談を開催します。ここでは、南北が協力して米朝関係の修復と米中首脳会談に向けた努力を行うことが話し合われたとみられます。

こうした米朝間の駆け引きと紆余曲折のすえに、当初の予定どおり、6月12日に米朝首脳会談が開催されました。

米朝首脳会談では、両国指導者が相互に相手を称える友好モードが演出されました。
2017年の緊張状態が当面回避されたことは評価すべきですが、 北朝鮮と米国との非核化に関する溝が埋まるはずはなく、 結局は非核化においてなんら中身のない劇場型会談に終始しました。

紆余曲折を経つつも米朝会談が実現できたのは、まず金委員長が北朝鮮が現在の経済制裁の全面的な解除を目指すためには米国との交渉しかないと意識したからです。

第二に、トランプ大統領が先行き不透明であっても、とりあえず北朝鮮の暴挙をやめさせて〝前進〟をアピールすることで、今年11月の中間選挙の敗北、そして大統領弾劾を回避できるカードを持つ必要があつたからです。

第三に、韓国の文大統領が、経済政策の失敗で支持率が下がるなか、南北関係の改善と経済交流が起死回生の一手となることを強く認識ているからです。 このように、三国の指導者の思惑は異なれど、米朝首脳会談の開催は利するとの判断が働いたとみられます。

すなわち、米朝首脳会談は三者三様の思惑による妥協の産物であったわけです。

非核化は一向に進展せず

6月26日、「38ノース」は、米朝首脳会談から9日後に撮影された衛星写真に基づき、寧辺にある核施設のインフラ整備が急ピッチで進んでいるほか、ウラン濃縮工場の稼働も続いているとの分析結果を公表します。米国による北朝鮮に対する牽制が開始されました。

6月 7月6日から8日、北朝鮮の非核化交渉のためにポンぺオ国務長官が訪朝しました。これは6月12日に行われた米朝首脳会談のフォローアップです。

しかし、金委員長はポンペオ氏に会いませんでした。非核化交渉に訪れた米国の国務長官に会わないのは異例です。 さらに北朝鮮は、ポンペオ氏の訪朝に関し、「米国側の「強盗的」な要求を北朝鮮が受け入れざるを得ないと思っているなら、それは致命的な誤りだ」と非難します。

トランプ大統領は、7月17日、ホワイトハウスで共和党議員との会合で「非核化には期限を設けない」と発言します。北朝鮮との交渉決裂を懸念して、対北朝鮮懐柔策に出た可能性があります。

米国の北朝鮮分析サイト「38ノース」は7月23日、22日に撮影した衛星写真により、北朝鮮が、北西部・東倉里(トンチャンリ)にあるミサイル発射施設「西海(ソヘ)衛星発射場」を解体・撤去している様子が見えると、分析結果を発表しました。今度は、北朝鮮が米国に揺さぶりをかけた可能性があります。

米国が再び強硬策に転じる

しかし、この解体・撤去作業は「38ノース」によれば、この解体作業は8月3日から中断したとされます。これは先述した、8月の3日と4日にわたって開かれたアセアン地域フォーラムの閣僚会合で、米国側から終結宣言に「ノー」を突き付けられたことと関係があるのかもしれません。

8月23日、進展しない非核化の打開のため、ポンペオ国務長官は8月下旬に2回目の訪朝を行うことを公表します。 ところが、24日、金英哲(キムヨンチョル)朝鮮労働党副委員長からポンペオ氏宛てに書簡が届きます。

米ワシントン・ポスト紙は27日に報じるところによれば、複数の米政府高官の話として、予定されていたポンペオ米国務長官の訪朝が直前に中止されたのは、北朝鮮から「好戦的」な書簡が届いたからだとされます。

トランプ米大統領は8月28日、ポンペオ長官が予定している4回目の北朝鮮訪問に関し、ツイッターで「ポンペオ氏に訪朝をとりやめるよう求めた」と表明しました。 この理由について、トランプ氏は「朝鮮半島の非核化に十分な進展が見られないと感じた」と説明しました。

また米国との「貿易戦争」が激化している中国が、国連安全保障理事会の決議を受けた北朝鮮に対する制裁圧力で「かつてのように協力していない」と指摘し、中国の対応を非難しました。 さらにポンペオ氏の次回訪朝は「恐らく中国との貿易関係が改善した後になる」との見通しを明らかにしたのです。

8月28日、マティス国防長官は、記者会見で「米朝首脳会談を受けて、米国は誠意の表現として大規模演習をいくつか中止したが、現時点では、もはや追加的な演習を中止する計画はない」と述べました。 このように、アメリカは北朝鮮に対する強硬政策に転じたかのような行動を取ります。

北朝鮮が南北首脳会談を利用して対米関係を修復

9月9日、北朝鮮は建国70周年記念の軍事パレードを実施しましたが、注目されていた長距離弾道ミサイルだけでなく、短距離弾道ミサイルも登場させませんでした。これは、非核化交渉を意識したものとみられます。

そして、北朝鮮は今回の南北首脳会談を利用して、米国や世界に対して、真摯に非核化に取り組む意思を表明します。

今後の注目点

これまで述べたように、6月の米朝首脳会談はもともと米・朝、さらには韓国の打算的な妥協によっておこなれました。もともと米朝は同床異夢なのですから、非核化に向けた具体的な進展を望むのが無理なのかもしれません。

現段階では、米朝双方が硬軟両用の戦術を駆使し、相手の出方を見ているという状況です。今回の非核化に関する北朝鮮側のメッセージもその範疇ですが、 トランプ大統領が、「いくつかのすばらしい回答があった」と評価していることはやや気がかりです。
トランプ大統領が11月の中間選挙を意識して、基本路線を勝手に修正し、終結宣言に応じるなど、対北朝鮮譲歩の戦術に出る可能性がまつたくないとはいえません。

当面は、9月下旬の国連総会での米韓首脳会談の行方と、そこで第2回の米朝首脳会談についてどのような話し合いが行われるのかに注目したいと考えます。         わが国は、あわてることなく、これまでの基本路線を淡々と実行しながら、関連の動向を注視すれば良いと思われます。

わが国の情報史(14)

開国と明治維新

ペルー来航と鎖国からの撤退

ペリー

1853年のペルーの浦賀来航以降、欧米列強に対する我が国の危機意識は日増しに高まった。 江戸幕府は、こうした列強の威力に屈し、朝廷の意に反する形で開国・通商路線を採択することになる。

1853年3月、わが国はアメリカと日米和親条約を締結した。次いでイギリス・ロシア・オランダとも類似の内容の和親条約を結んだ。ここに200年以上にわたった鎖国政策から完全に撤退した。

1858年6月、わが国は屈辱の不平等条約を結ぶことになる。それが、大老・井伊直弼(いいなおすけ、1815~60)の手で進められた日米修好通商条約であった。 この条約では、神奈川(下田→横浜)・長崎・新潟・兵庫(神戸)の開港や江戸・大坂の開市のなどが規定されたほか、わが国は日本に滞在する自国民への領事裁判権を認め(治外法権の規定)、関税についても日本に税率の決定権がない(関税自主権の欠如)などを許容した。

ひとつに妥協すると、次々と新たな圧力が襲ってくる。幕府はこのような不平等条約を、ついでオランダ・ロシア・イギリス・フランスとも結ばざるを得なくなった(安政の5カ国条約)。

不平等条約の改正が原動力となって、わが国は国際社会の中で近代的自立国家を目指した努力を開始した。 この近代的自立国家の歩みの延長線上に出てくるのが日清、日露の二つの戦争である。

公武合体論と尊攘運動の高まり

日米通商修好条約の締結当時、第13代将軍・徳川家定(いえさだ、1824~58)は幼少から病弱で子供ができないとの懸念から、早くから跡継ぎ問題を起き、それを巡って一橋派と南紀派が対立していた。

一橋派とは一橋徳川家の慶喜(第15代将軍・徳川慶喜、よしのぶ、1837~1913)を推す派である。
一方の南紀派は紀州徳川家の藩主・徳川慶福(よしとみ)を推す派である。

慶喜の父は、井伊直弼との政争で有名な徳川斉昭(なりあき、1800~60)である。斉昭は会沢正志斎(※吉田松陰が感化された人物、わが国の情報史(13)参照)のもとで水戸学を学び、藩校・弘道館を作り、学問を奨励し、藩政改革で成果を挙げるなど、聡明な指導者であった。 そして西洋の文物を取り入れることには積極的であったが、尊王攘夷、開国反対論者であった。

慶喜が将軍になれば、斉昭が大御所として権勢を振うことを明らかであった。

これを警戒したのが南紀派である。
南紀派 の筆頭である彦根藩主・井伊直弼や、老中・堀田正睦(ほったまさよし、1810~64)であった。 彼らは「日本は開国すべし」との信念を持っており、通商条約の調印を推し進めようとした。だから、斉昭の存在は彼らにとってやっかいであった。

つまり、跡継ぎ問題は「開国か非開国か」を巡る政争であったのである。

井伊と堀田は跡継ぎ問題では、慶福改め家茂(第14代将軍・徳川家茂、いえもち、1846~66)を将軍の跡継にすることに成功した。また、日米修好通商条約の調印を強行した。

しかし、日米修好条約への調印は天皇の勅許を得ない違勅調印であったために、孝明天皇が大激怒した。 堀田は孝明天皇(1831~67)から勅許を得ようとして努力したが、孝明天皇は穏健攘夷論者であり、開国には断固として反対であった。だから、井伊や堀田はやむをえずに違勅調印に走ったというわけである。

こうしたことから、一橋派の大名、そして尊王と攘夷をとなえる志士から強い非難が起こった。井伊は強硬な態度でこれらの反対派をおさえ込み、反対派の家臣たち多数を処罰したのである。これが世に有名な安政の大獄である。

安政の大獄では、斉昭、慶喜、松平慶永らが隠居・謹慎を命じられ、越前藩士の橋本左内や吉田松陰は捕えられて死刑となった。 安政の大獄以後、全国各地では下級武士による尊王攘夷論が跋扈した。

1860年、尊攘派は井伊を江戸城桜田門外で暗殺(桜田門外の変)するという暴挙に出る。 桜田門外の変ののち、幕政の中心となった老中・安藤信正(あんどうのぶまさ)は、朝廷(公)を幕府(武)の融和をはかる公武合体の政策を取り、孝明天皇の妹・和宮(かずのみや)を将軍・家茂の妻に迎えた。

しかし、この政略結婚があだとなり、尊王攘夷論者から非難される。結局、安藤は水戸藩士から襲撃され負傷し、老中を退いた(坂下門外の変)。

ここで薩摩藩が独自の公武合体論の立場から仲介を買って出た。藩主の島津忠義の父である島津久光が 1862年に江戸にくだり、幕政改革を要求した。
幕府は薩摩藩の意向を入れて、松平慶永を政治総裁職に、徳川慶喜を将軍後見職に、京都守護職をおいて会津藩主・松平容保(まつだいらかたもり)をこれに任命した。

他方、妥協的な公武合体運動に対立する動きも生じた。それが朝廷権力の復活運動として強力に展開されることになる。とくに尊攘派の長州藩がその急先鋒となった。 長州藩はテロ行為を含む過激な事件を起こし、幕府方と真っ向から対立した。 1863年5月、長州藩は下関海峡を通過する諸外国船を砲撃し、攘夷を実行に移した。

1863年9月、長州藩を中心とする尊攘派の動きに対し、会津・薩摩藩は穏健攘夷派である孝明天皇らとともに、朝廷の実権を握っていた長州藩勢力と過激攘夷派である三条実美らを京都から追放した(この事件は旧暦の文久3年8月18日のことで「8月18日の政変」と呼ばれる)。

この政変の“復讐劇”とばかりに、長州藩が引き起こしたのが1964年8月の禁門の変(蛤御門の変)である。長州藩は勢力を回復するために、会津藩主・京都守護職の松平容保らの排除を目指し、京都市中で大乱闘を繰り広げたのである。 この政変で長州藩は敗北した。京都市中は戦火により約3万戸が焼失したとされる。

禁門の変後、長州藩は朝敵となった。幕府は1864年8月、長州征討(第一次)を開始する。同時期、貿易の妨げになる攘夷派に一撃を加える機会を狙っていた列国は、イギリスを中心にフランス・アメリカ・オランダ四国の連合艦隊を編成して、下関の砲台を攻撃した(馬関戦争、四国艦隊下関砲撃事件)。 長州藩は幕府方に恭順を示すとともに、武力での攘夷を断念し、海外から新知識や技術を積極導入し、軍備・軍制改革に着手した。

薩摩藩は長州藩よりも早くに列国の洗礼を受けた。1863年8月、前年の生麦事件(神奈川県横浜市鶴見区生麦において、江戸から帰る島津久光の行列を横切ったイギリス人を殺傷した事件)の報復のため鹿児島湾に侵入してきたイギリス軍艦と薩摩藩が激突した(薩英戦争)。薩摩藩はイギリス軍艦の砲撃の激しさに驚愕した。

討幕運動の高まりと幕府の滅亡

薩英戦争により、薩摩藩はイギリスに接近する開明政策に転じた。西郷隆盛、大久保利通ら下級武士の改革派が藩政を掌握することになった。

一方、馬関戦争により、吉田松陰が育てた高杉晋作、桂小五郎(のちに木戸孝允、きどよしたかと改め、1833~77)は攘夷を断念した。 かくして、封建的排外主義を捨てて積極開国による富国強兵を目指す新しい反幕勢力が生まれた。

そして坂本龍馬(さかもとりょうま、1836~67)、中岡慎太郎(なかおかしんたろう、1838~67)らの仲介により薩長同盟が秘密裡に結ばれ(1866年)、反幕運動は討幕運度へと化していたのである。

徳川家茂のあと15代将軍になった徳川慶喜は、フランスの援助のもと、幕政の立て直しにつとめた。しかし、薩長両藩は1867年に武力倒幕を決意した。 このため、土佐藩士の後藤象二郎(ごとうしょうじろう、1838~97)と坂本龍馬が、前藩主の山内豊信(とよしげ、容堂)を通して、慶喜に討幕派の機先を制して政権を返還するようを進めた。 

これは、将軍からいったん政権を朝廷に返させ、朝廷のもとに諸般の連合政権を樹立する構想であった。 慶喜は慶応3年10月14日(1867年11月9日)、この策を受け入れた。これを「大政奉還」という。

しかし、薩長連合は倒幕の名分を失わせられたうえ、実質は慶喜体制が継続されるこの体制に不満を持った。そこで、新体制を樹立するためのクーデターを企てた。そして1867年12月、討幕派は「王政復古の大号令」を発して、天皇を中心とする新政府を樹立した。 これをもって江戸幕府の260年以上にわたる歴史に終止符が打たれたのである。

戊辰戦争の勃発

しかし、慶喜を擁する旧幕府側が最後の抵抗をはかることになる。1868年1月、慶喜派は大阪城から京都に進撃した。しかし、「鳥羽・伏見の戦い」で新政府軍に敗れ、慶喜は江戸に逃れた。 新政府はただちに慶喜を朝敵として追討する東征軍を発した。

しかし、慶喜の命を受けた勝海舟(かつかいしゅう、1823~99)と東征軍参謀の西郷隆盛(さいごうたかもり、1828~77)の交渉により、1869年に江戸城は無血開城された。 さらに東征軍は東北諸藩の征伐に向かい、会津若松、函館五稜郭を攻め落とした。こうした戦いが1年半近くにわたって続いた。いわゆる戊辰戦争である。

新政府による改革

この間、新政府による政治の刷新が進められ、1868年3月の「五箇条の誓文」では、公議世論の尊重と開国和親などが新政府の国策の基本とされた。 1868年7月、江戸は東京と改め、同年9月に年号が明治と改元された。

翌1869年に京都から東京に首都を移した。 同年1月、木戸孝允と大久保利通(おおくぼとしみち、1830~78)らが画策して、薩摩・長州・土佐・肥前の4藩主に朝廷への版籍奉還を出願させ、多くの藩がこれにならった。

新政府は、旧大名には石高に応じた家禄を与え、旧領地の知藩事に任命した。 1871年、新政府は藩制度の全廃をついに決心し、廃藩置県を断行した。旧大名である知藩事は罷免され、東京居住を命じられ、かわって中央政府が派遣する府知事・県令が地方行政にあたることになった。

かくして、ペルーの浦賀来航から20年弱にして、江戸幕府は討幕され、国内の政治的統一が完成したのである。 歴史用語としては、黒船来航に始まり、廃藩置県に至る一連の激動の時代を総称して、明治維新と呼んでいる。

わが国の情報史(12)

武士道とは士道なり

山鹿素行と吉田松陰

武士道という言葉は明治期に新渡戸稲造の著書『武士道』で世 間に広まった。しかし、武士道は日本建国以来発達してきたものである。それが、徳川時代になって、武士の道徳的規範として確立された。その後、武士道が幕末維新を主導し、日清・日露戦争 における出征軍人の目覚ましい働きを促し、日露戦争における歴 史的勝利に貢献したとされる。

徳川時代における武士道の確立に寄与したのが、吉田松陰(1830~59)の師である山鹿素行(1622~85)である。松陰には二人の傑出した師匠がいる。その一人が兵学の師である素行、もう一人が洋学の師である佐久間象山(1811~64)というわけだ(わが国 の情報史(11)を参照)。

松陰が「家学」というのは山鹿素行の学問のことである。松陰 の著書『武教講録』のなかで「先師」と仰いでいるのは素行であ る。ただし、松陰と素行は 約200年も 時代が隔たるので、当然直接の師弟関係にはない。

松陰の祖先の吉田重矩(しげのり)が、素行の長子である山鹿 藤助の門下生にあたる。また松陰は、叔父で山鹿流兵学師範であ る吉田大助の養子となり、大助死亡後は、叔父の玉木文之進が開いた松下村塾(しょうかそんじゅく)で素行の兵法を学んだとい う関係にある。

これに対して、松陰が時々「わが師」としているのが象山であ る。象山には、1850年に江戸で直接師事している。

儒学の興隆   

武士道を述べる前に、まず徳川時代の儒学の興隆について述べ る必要がある。儒学とは端的にいえば孔子・孟子の教えを学ぶ学問のことである。儒学は社会の身分秩序を重んじ、「中興・礼儀」 を尊ぶこと基本とする。だから儒学は徳川の幕藩体制の安定を支 える上で好都合であった。    

とくに朱子学(南宋の朱熹が興した学問、宋学とも呼ばれる) の思想は大義名分論(平安末期における後醍醐天皇の討幕運動の理論的根拠となった)を基礎に、封建社会を維持するための教学と して幕府に重んじられた。この系譜には林羅山、木下順庵、新井白石などがいる(朱子学派)。

一方、戦国時代に土佐で開かれたとされる南学派も朱子学の一 派である。その系譜からは山崎闇斎(やまざきあんさい、1618~ 82)や野中兼山が出た。闇斎は神道を儒教流に解釈して垂加神道 (すいかしんとう)を説いた。闇斎一門の崎門学(きもんがく) は、神の道と天皇の徳が一体であることを説き、尊王論の根拠と なった。なお、崎門学は陸軍中野学校の教材として用いられた。

朱子学に対して中江藤樹(なかえとうじゅ)や熊沢蕃山(くま ざわばんさん)らは、明の王陽明が始めた陽明学を学んだ。蕃山 は、古代中国の道徳秩序をうのみにする儒学を批判し、主著『大学惑問』などで武士土着論を説いて幕政を批判した。このため、 下総古河に幽閉され、そこで病死した。

これに対し、古学派と称せられる山鹿素行や伊藤仁斎らは、外 来の儒学にあきたらず、孔子・孟子の古典に直接立ち返ろうとす る運動を進めた。素行は朱子学を攻撃し、『聖教要録』を刊行し て孔子・孟子の古典に直接立ち戻ることを主張した。このことか ら、幕府によって播磨国赤穂(あこう)に流された。赤穂藩では 赤穂浪士の教育に携わるとともに『武教要録』『中朝事実』など を著した。  

なお、門弟の一人が赤穂藩家老の大石良雄(内蔵助、くらのす け)である。赤穂事件以降、山鹿流兵法は実践的な学問として世の注目を浴びた(「わが国の情報史(10)」)

武士道は儒学をもとに確立されたのか?

以上のように、儒学は徳川時代を支えるための思想であり、平穏な時代における武士の在り様を儒学思想でもって理念化されたのである。このことから今日、武士道は儒学をもとに確立され たとの誤解が生じている。

しかし、のちに『武士道』(1990年)を著す新渡戸稲造は、わ が国の武士道の起源は、封建制が確立した源頼朝の時代よりも先史にある旨を主張し、仏教や日本古来の神道が武士道に与えた影響性について説いている。

そして、上述のようなわが国の儒学の興隆を見れば、中国からの儒学思想を無批判には受け入れてはいない。陽明学や古学派は、当時の中国の思想を批判さえしている のである。このことは素行の著書『中朝事実』が如実に表してい る。

素行の教えこそは幕末、明治期の武士道精神の起源である。素行が他の儒学者と異なる点は、彼が兵法家であることだ。『孫子 諺義』の著書であることが象徴するように素行は孫子兵法の大家である。

一方で素行は『楠木正成一巻書』(1654年)の序文を書 いている。その正成は大江時親から、孫子とともに日本古来の兵 法である『闘戦経』を授けられていた。 つまり、素行が興した山鹿流兵法の源流には「兵は詭道なり」 をモットーとする『孫子』と、「戦い(武)を第一義とし、武は 秩序を確立する」「戦いに勝つためには謀略に頼るのではなく、 正々堂々と戦う」などを説く『闘戦経』の二つの教えがあった。  

そうした素行であったからこそ、太平天国の徳川時代において、 武士がいかに生きるべきかを、その在り様を説く上での説得力が あったのである。

▼素行の士道と『葉隠』武士道  

素行の武士道は「士道」と呼ばれる。武士(もののふ)は平安 時代に発生し、鎌倉、室町、戦国、安土・桃山時代を通じてずっ と戦いに明け暮れた。しかし、徳川時代になって戦乱の世が終わり、武士は「戦い」から解放された。

そこで素行は、百姓は町民などの身分が下の者に対する道徳的 指導者となるよう人格的な修養を努める士道を提唱した。 素行は、生産に従事しない武士たるものは、為政者として高い道徳性を備え、人倫の道を実現し、道徳の面で万民の模範になれ、 と主張した。そして、人倫の道の実現する勇気を奨励し、 (1)気を養う、(2)度量、(3)志気、(4)温籍、(5)風度、 (6)義利を弁ずること、(7)命に安んずること、(8)清廉、 (9)正直、(10)剛操、の心術を養わねばならないとした。

他方、「武士道と云は死ぬ事と見付けたり」という『葉隠』武士道がある。これは、1716年頃、佐賀鍋島藩士の山本常長が口頭で言い伝えたものを、同藩士の田代陣基(つらもと)が書き残したとされる。 『葉隠』は武士としての理想像を説いたものであり、山鹿素行な どが提唱した儒学的武士道とはやや異なる。

1941年陸軍省の東条英機によって制定された『戦陣訓』には「生きて虜囚の辱めを受けず。死して罪過の汚名を残すこと勿(なか)れ」との有名な一句があるが、これは『葉隠』に代表される死生観に影響を受けたと の見方がある。

他方、素行の教えは、1882年に明治天皇から下賜された「軍人勅諭」の5箇条の徳目、すなわち、忠節、礼儀、武勇、信義、質素に反映された。この5つの徳目は、いずれも山鹿素行の士道が掲げる武士の規範であった。つまり、素行の士道が、天皇と国民の「忠義」の関係性を定義し、明治維新後の日本の秩序形成を目指したといえるのである。

武士道とインテリジェンス

畠山清行著・保坂正康編『秘録 陸軍中野学校』には次のような一文がある。

「つぎに忍者だが、これを諸大名がかかえて諜報を集めるという ことになれば、幕府の弱点や痛いところをさぐられる心配がある。 そこで、伊賀者・甲賀者の忍者をすべて幕府の直属として『お庭番』という組織をつくりあげる一方、御用学者に命じて『武士道』 なるものを盛んにとなえさせた。つまり、『内緒で人の欠点や弱点を探ることは、武士にあるまじき卑怯な行為である』とうたいあげたのである。 太平洋戦争の敗因をさぐる場合、日本の歴史家 は、明治以前にさかのぼることを忘れているが、遠因はじつにこ の徳川幕府の政策にあるのだ。幕府時代の武士道精神をそのまま うけついだから日本の軍隊は、諜報機関を卑怯なものとして、もっともそれが必要な陸軍大学にさえ、太平洋戦争がはじまるまで、 諜報を教える課目はなかったのである。(以下、略)」 

ここでの武士道が『葉隠』武士道なのか、山鹿素行の士道なのか、あるいは山岡鉄舟の唱えた「武士道」なのかは定かではない。 ただし、武士道がインテリジェンスの軽視を生んだという見方も 確かに存在している。

上述の「軍人勅諭」では、「軍人たらんもの暫も忽にすへからすさて之を行はんには一の誠心こそ大切なれ」と述べられている。 つまり、忠節、礼儀、武勇、信義、質素の五つの徳目の最後の締 めくくりのとして「一つの誠心」が示されている。

また「抑此五ケ条は我軍人の精神にして一つの精神は又五ケ条の精神なり」と記述された。つまり、誠は精神の精神、徳目ではな く徳目を徳目たらしめるものであると解釈されるのである。

のちに誕生する陸軍中野学校では「謀略は誠なり」が象徴され るように、「誠」の精神教育が重視された。つまり、武士道にお ける「誠」の存在が、武士道によるインテリジェンス軽視という 風潮を凌駕したとも考えられる。 ただし、軍人教育で教えられた一般的な「誠」と、陸軍中野学 校の「誠」には差異があった。このあたりについては、のちに述 べることとしたい。

わが国の情報史(10) 

江戸時代における兵法の発展

 兵法の伝来

山鹿素行

  『孫子兵法』では、「彼を知り、己を知らば百戦危うからず」と喝破し、5種類の間者(スパイ)を利用した。つまり、兵法が今日のインテリジェンスの源流であることは間違いない。

その兵法のわが国への伝来と発展の歴史については、本連載の「わが国の情報活動の起源」(連載1)と「楠木正成の思想的源流とは」(連載3)において言及したが、要点をおさらいしておこう。

わが国の『孫子』の伝来についてはおおむね三つの説があるが、今日のもっとも有力な説が、遣唐使の吉備真備(きびのまきび)が唐から持ち帰ったとする説である。

真備は、717年に遣唐使として唐に到着し、35年までの18年間にわたり唐に滞在し、ここで『孫子』や『呉子』などを学んだとされる。帰国後、これらの文献を朝廷に献上し、その後、『孫子』の兵法研究が開始されたとみられている。

真備は754年に、二度目の渡唐から帰朝した後で大宰府に派遣されるが、ここで760年、大宰府に派遣された6人の下級武士に諸葛孔明の「八陣の法」や『孫子』の「九地」(第11編)を教えたとされる。

真備は764年、藤原仲麻呂(恵美押勝)の叛乱をわずか数日で鎮圧した。ここには『孫子』の軍事情報理論が活用されたとみられる。

大江氏による兵法の管理

その後、大江家の初期の祖である大江維時(おおえのこれとき、888年~963年)が930年頃唐から兵書『六韜(りくとう)』『三略』『軍勝図(諸葛孔明の八陣図)』を持ち帰ったことが縁で、『孫子』は大江家が門外不出として管理することになった。

その後、大江家第35代の大江匡房(まさふさ 1041~1111年)は、河内源氏の源義家(八幡太郎)に請われて兵法を教えることになる。

匡房は「兵は詭道なり」とする『孫子兵法』は優れた書物ではあるが、必ずしも日本の文化や伝統に合致せず、正直、誠実、協調と和、自己犠牲などの日本古来の精神文化を損なう危険性があると認識していた。

そこで匡房は自ら『闘戦経』を著し、『孫子兵法』を学ぶ者は、同時に『闘戦経』を学ばなければならないと説いた。

その匡房の孫が大江広元(ひろもと 1148~1225)であり、彼は1184年に源頼朝に仕え、鎌倉幕府設立の立役者となった。なお、その後の大江氏は毛利氏をはじめとする武家の祖となる。

その後、大江家第42代の大江時親(ときちか ?~1341)が、河内の観心寺で楠木氏に兵法を伝授したとされる。楠木正成は幼少の頃から、時親から孫子の兵法を学んでいたとされる。

なお大江時親は一般的には毛利時親と呼ばれることの方が多い。大江広元が相模国毛利荘を四男・李光に譲り、李光の四男の経光が越後国佐橋荘と安芸国吉田荘を保持した。経光は大江家第39代となるが、李光も経光もそれぞれ毛利李光、毛利経光と呼ばれる。そして李光から佐橋荘と吉田荘を譲られたのが四男の時親である。時親は、毛利元就など安芸毛利氏の始祖とされる。

徳川幕府の兵法は武田氏の兵法が源流

戦国時代には、兵法は毛利氏のほかには武田氏などに伝えられた。その兵法は武田氏によって甲州流軍学へと発展し、これがのちに徳川に流れることになる。

甲州流軍学の創始者として名高いのは、武田氏の家臣の子として生まれた小畑景憲(おばたかげのり 1572~1663)である。

彼は、武田信玄や勝頼の戦略・戦術を研究して、甲州流軍学を確立した。

景憲の弟子が北条氏長(ほうじょううじなが 1609~1670)である。彼は、景憲から甲州流軍学を学び、それを改良して北条流兵法を開いた。

氏長の弟子が山鹿素行(1662~1685)である。素行は、甲州流と北条流の兵法を学び、山鹿流兵法を開いた。

山鹿素行が江戸時代の兵法を主導

素行は奥羽国会津の浪人の子として生まれたが、6歳で江戸に上京し、9歳のとき、大学頭を務めていた林羅山の門下に入り、朱子学を学んだ。15歳のときに、景憲や氏長の下で軍学を学んだ。素行はそのほかにも神道や歌学にも長じた類まれなる博学者であった。

素行はやがて幕府御用達の朱子学を攻撃し、『聖教要録』を刊行して孔子・孟子の古典に直接立地戻ることを主張した。このことから、幕府によって播磨国赤穂(あこう)に流された。

赤穂藩では赤穂浪士の教育に携わった。ここでの研鑽によって、素行は『武教要録』『配所残筆』『山鹿類語』『中朝事実』などの優れた多くの書籍を生み出した。

なお、門弟の一人が赤穂藩家老の大石良雄(内蔵助、くらのすけ)である。赤穂事件以降、山鹿流兵法は実践的な学問として世の注目を浴びた。

山鹿流兵法の源流には『孫子兵法』と『闘戦経』の教えが流れている。なお素行は『孫子諺義』という解説書も記している。

 山鹿流兵法は、謀略・計略・知略からなる。この考え方は『孫子兵法』に基づく。

そして、一方では『闘戦経』の流れも汲み、皇統を尊重する思想と武士道精神が貫かれている。

山鹿流の教えは、幕末期には、勝海舟、日米修好通商条約の批准で活躍する小栗上野介、そして吉田松陰へと受け継がれた。

わが国の情報史(13)

吉田松陰、間諜の重要性を説く

吉田松陰の生涯

山鹿素行と佐久間象山の二人の年代は異なるが、共に江戸時代の思想や兵法に多大な影響を及ぼした。この二人から思想的影響を受けて、さらに修学を重ねて、幕末維新の志士に多大な思想的影響を与えたのが吉田松陰である。  

松陰は優れた思想家であった。長州藩(山口県)萩の松下村塾において久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋、吉田稔麿、入江九一、前原一誠、品川弥二郎、山田顕義、野村靖、渡辺蒿蔵、河北義次郎などの面々を教育していった。  早速、松陰の生涯を簡単に辿ることにしよう。

松陰は1830年(文政13年)8月、長州藩士・杉百合之助(杉常道)の次男として誕生。 1834年、5歳で叔父で山鹿流兵学師範である吉田大助の養子となり、兵学を修める。

1835年、6歳の時、大助が死亡したため、叔父の玉木文之進(1810~1876)に師事して『孫子』と『山鹿流兵法』を修学。 1838年、9歳の時に明倫館の山鹿流兵法師範に就任。

9歳で師範に就任とは尋常ではない。その後、松陰の驚くべき進化はさらに続く。

1841年、11歳の時、藩主・毛利慶親への御前会議で名を成す。 1842年、12歳のとき、アヘン戦争(1840~42)で清が西洋列強に大敗したことを知って、松陰はさらに西洋流兵術の重要性についても認識する。

1845年、15歳で、同じ長州藩の山田亦介(またすけ)より「長沼流兵法」を教わり、山鹿流、長沼流の江戸時代の兵学の双璧を収めた。

1850年(嘉永3年)、21歳の時に九州に遊学する。 この九州遊学では、熊本で宮部鼎蔵(みやべていぞう)と知り合い、生涯の友人関係を結んだ。

1851年に江戸に出て佐久間象山に師事する。 象山はクラウゼウィッツの『戦争論』を日本ではじめて研究した人物であ り、松陰は、ここで象山門下の勝海舟、長岡藩の河井継之助、土佐藩の坂本龍馬、福井藩の橋本佐内、久留米藩の真木和泉、熊本藩の宮部鼎蔵らと交流した。

1852年、宮部鼎蔵らと東北旅行を計画するが、約束の出発日を守るため、 長州藩からの通行手形の発行を待たず脱藩した。 この東北旅行は、佐渡から弘前を経て小泊、青森、盛岡、石巻、仙台、米沢をとおり、会津若松、日光、足利を経由して江戸に帰った。まさに東北を一周の旅であった。
しかし、江戸に帰着後、脱藩の罪に問われて士籍剥奪・世禄没収の処分を受けた。

 1853年、24歳のとき、諸国遊学の許可が下り、第二回の江戸遊学に出かけた。ちょ うどこの時に、ペリー艦隊の浦賀来航を知り、象山と黒船を遠望視察した。 その後、象山の薦めもあって、松陰は外国留学を決意する。同郷で足軽の金子重輔と長崎に寄港していたプチャーチンのロシア軍艦に乗り込もうとするが、これに失敗した。

1854年、またも金子重輔とともにペリーが乗船している旗艦ミシシッピ 号に自ら乗り込んで、アメリカへの渡航を嘆願した。しかし、残念ながら、この要求はペリーに拒絶され、目的を果たすことができなかった。(下田事件)。

幕府に自首し、萩の野山獄に幽囚され、かくして松陰の自由行動は終わる。この獄中で密航の動機とその思想的背景を『幽囚録』に記した。

1855年、野山獄を出され、杉家に幽閉の処分となる。57年(安政4年) に叔父の玉木が主宰していた松下村塾の名を引き継ぎ、杉家の敷地に松下村塾を開塾した。以来約2年間、高杉晋作をはじめ幕末維新の指導者となる人材を多く輩出した。

1858年、29歳のとき、幕府が無勅許で日米修好通商条約を締結したこと を知って、松陰は激怒し、老中・間部詮勝(まなべあきかつ)の暗殺を謀るが、警戒した藩により再び投獄される。

1859年、幕命により江戸に送致。10月27日、伝馬町の獄舎で斬首刑に処 せられる。享年30歳であった。

 吉田松陰の時代背景

幕末は1853年のペリーの黒船来航から、1869年の戊辰戦争までの期間とされる。このわずか16年間は、わが国のもっとも激動な時代であった。 「西洋の衝撃」を受けた幕藩体制の動揺とナショナリズムの高まりのなか、日本が鎖国から開国へと舵取りし、「尊王攘夷」の思想の一方で西洋文明を取り入れた文明開化に向かう歴史であった。

この幕末における最大のヒーローが吉田松陰である。しかし、松陰はこの幕末期の前半6年間に生存したのみであり、30歳という若さで夭折し、これといった政治的偉業は残していない。 にもかかわらず、松陰の思想が幕末の志士たちの心を動かし、近代日本の幕開けの原動力になっていたのである。  

松陰の愛国的な生き様は当時の時代背景に求められよう。彼は30年という短い生涯のなか、旅人として生きる。それは、迫りくる「西洋の衝撃」という未曽有の危機に対し、まず孫子兵法の「敵を知り、我を知る」ことの具現から発した。 松陰が脱藩し、罪を問われた東北旅行の目的は、異国に対する北方の備えを検分するためであった。

高まる対外脅威

18世紀末から北方には、ロシアによる浸透が進んでいた。1789年(寛政元年)、国後島のアイヌによる蜂起がおこった。これは、松前藩に鎮圧されたが、幕府はアイヌとロシアの連携の可能性を危惧した。

1792年、ロシア使節ラクスマンが根室に来航し、伊勢国白子の漂流民大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう)を届けるとともに、通商を求めた。 その際、江戸湾入港を要求されたことが契機となり、幕府は江戸湾と蝦夷地の海防の強化を諸藩に命じた。

1804年、ロシア使節レザノフが、ラクスマンのもちかえった入港許可証をもって長崎に来航した。幕府はこの正式使節に冷淡な対応をして追い返したため、1807年、レザノフの部下が樺太や択捉などの各地で略奪行為を働き、日露間を一挙に緊張化した。

わが国は1808年、間宮林蔵に命じて樺太とその対岸を探査させるなど、北方ロシアの脅威に備えた。1811年、日本に接近しつつあったディアナ号艦長であるゴローウニンが国後島に少人数で上陸した。彼らは日本の警備兵に捕えられ函館・松前に監禁された。

これに対してロシア側は翌年、択捉航路を開拓した淡路の商人・高田屋嘉兵衛を抑留した。嘉兵衛は1813年に送還され、その尽力でゴローウニンは釈放され、この事件(ゴロー人事件)は解決した。これにより、日本とロシアとの関係はいったん改善された。

しかし、1808年、イギリス軍艦フェートン号が、当時敵国となったオランダ船の拿捕を狙って長崎に入り、オランダ商館員を人質にし、薪水・食糧を強要するという事件(フェートン号事件)も起きていた。 そこで、幕府は1810年、白川・会津両藩に江戸湾の防備を命じた。

その後も、イギリス船、アメリカ船が日本近海に出没したため、ついに1825年、江戸幕府は異国船打ち払い令を出し、外国船の撃破を命じた。 37年には、アメリカ商船のモリソン号が浦賀港に接近し、日本人漂流民7人を送還して日米交易を図ろうとしたが、幕府は異国船打払令にもとづいてこれを撃退させた(モリソン号事件)。

揺れる国内情勢

一方、国内では1833年から始まる天保の大飢饉で、農村や都市には困窮した人々が満ち溢れ、百姓一揆や打ちこわしが続発した。36年の飢饉はとくに厳しく、餓死者が全国各地であいついだ。

1937年、大阪奉行所の元与力で陽明学者の大塩平八郎は、貧民救済のために門弟や民衆を動員して武装蜂起した。これはわずか半日で鎮圧されたが、大阪という重要な直轄都市で、幕府の元役人であった武士が主導して、公然と武力で抵抗したことは、幕府や諸藩に大きな衝撃を与えた。

その波紋は全国に及び、国学者生田万(いくたよろず)が大塩門弟として称して越後柏崎で陣屋を襲撃したり、各地で大塩に共鳴する百姓一揆がおきた。

「内憂外患」の言葉に象徴される国内外の危機的状況に対し、幕府勢力が弱体化して威信を発揮できなくなると、これにとつてかわる上位の権威としての天皇・朝廷が求められ始められることになる。 こうしたなか、水戸の会沢正志斎(あいざわせいしさい)は1825年に『新論』を著し、天皇を頂点に位置付ける国体論を提示した。

松陰の思想と行動

吉田松陰は自ら弟子に送った手紙の中で「僕、孫子に妙を得たり」と書き残しているほどに、『孫子』の解釈には自信を持っていたようである。 松陰の兵法修学の中枢をなした山鹿流兵法は、謀略、知略、計策の三本柱からなるが、これらは『孫子』第1編「始計」の五事・七計・詭道に該当している。(家村和幸『図解孫子兵法』、並木書房)

さらに、松陰が生きた時代は、先述のようにロシアや欧米列強からの侵略の脅威をいかに対処するかが課題であった。 山鹿流兵法の三本柱のうちの謀略において、松陰は五事(道・天・地・将・法)のうちの道・将・法の三事に重きを置いて、これを「主本」と名づけた。そして、軍事とは、道・将・法という人のなすべき最高の道理であるのだから、いっさいの私的な思いを排して、毅然として自ら天下国家のために尽せと主張した。そして、わが国の有史以来、兵権が朝廷にあるのが武義(ぶぎ)の「盛」であり、兵権が武臣に帰したが武義の「衰」である、とした(前掲家村『図解孫子兵法』)。

つまり松陰は、天皇を中心とした道義に基づく国家を確立せよと説いたのである。そして全国で西洋人の侵寇の意図を喪失させる「武備」を完成することや、とくに皇室を中心とした精神的武備が重要であるなどを説いた。

こうした松陰の兵学思想には、山鹿素行の教えに加えて、先述の東北遊学において、水戸で正志斎と面会したことの影響が大きかった。 松陰は『東北遊日記』のなかで、「会沢(正志斎)を訪(とぶら)ふこと数次、卒(おおむ)ね酒を説(まう)く。……会々(たまたま)談論の聴くべきものあれば、必ず筆を把(と)りて之を記す。其の天下の事に通じ、天下の力を得る所以か」と記した(宮崎正弘『吉田松陰が復活する!』並木書房)

松陰はほとんど酒を飲まなかったが、50歳になろうとする正志斎の流儀に合わせた、微笑ましい松陰像が浮かぶ。しかも、酒席であっても、重要な会話は筆記して備忘録を取った。

このほか、水戸では『大日本史』などから、水戸学の歴史観に強い影響を受けて、「尊王攘夷」の思想的を確立していた。また、和気清麿呂、楠木正成の偉業を知った。  

松陰の武士道

国家の国難には自らを犠牲にする松陰の精神には、武士道が影響していた。この武士道は山鹿素行の士道の影響を受けている。 新渡戸稲造は、『武士道』のなかで、吉田松陰にふれ、「武士道は一つの無意識的かつ抵抗し難き力として、国民及び個人を動かしてきた。新日本のもっとも輝かしい先駆者の一人たる吉田松陰」として、「かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂」の松陰の辞世を紹介している。

松陰が自ら犠牲となり、間諜となり、留学を志した経緯にも武士道精神が色濃く反映していたのである。

松陰のインテリジェンス・リテラシー

山鹿流兵法の二つ目の柱である知略とは、国外の事を知って、比較し、実状を把握することである。松陰は知略には七計のみならず、その手段としての「用間」をとくに重視すべきであるとした。  

こうした思想は、松陰が師事した佐久間象山から影響を受けた。象山は1853年のペリー来航の危機に、「下田ではなく横浜をすぐに開港すべきだ」「それがいやならオランダから軍艦を輸入し、将来有為な若者をオランダへ留学させて造船を学ばせよ」として、開国論や国防論を唱えた。

1854年3月の日米和親条約の締結では、象山は、鎖国のためにアメリカの内部事情も知らないままに弱腰で外交交渉に臨んだ幕府を批判した。 インテリジェンスがなくては「尊王攘夷」であれ、「開国」であれ、戦略を立てられない。象山は「私のような身分の低い家臣ではあるが、幕府のやり方とは別に、敵の謀を失敗させることで勝つという策略がある。風船を手に入れてワシントンまで飛んでいけないものか」と願っていた。

しかし、象山には藩と日本を離れがたい事情があった。そこで、自分の代わりにこの務めを松陰に果たしてもらおうとした。松陰は武士道精神から、象山の期待に応えようとした。しかし、松陰はそれに失敗し、牢獄に入れられた。

松陰は『幽囚碌』のなかで、今こそ「用間」を世界中に派遣して、海外の事を知るべきだと指摘した。松陰は、日本にとって知っておくべき国々とは、欧米諸国、オーストラリア、シナ、朝鮮などであり、それらに関する伝聞や文書だけからの貧弱な知識に頼るのは、策を得たものではない。俊才を海外に送り、その実情を視察させるものでなければ役に立たないと主張した。 まさにヒューミントの重視である。

日本の歴史から、再び消されようとしている松陰

松陰が鎖国の禁をおかしてまでも海外渡航を企てたのは、自らが「上智」の間者となって、命を懸けて国家防衛に不可欠なインテリジェンスを得ようとしたのである。 さて、現在、わが国のインテリジェンスに携わる者が、どれほどの者が吉田松陰について知っているのだろうか? 

筆者の陸上自衛隊時代、ほとんどの者は吉田松陰の名前くらいしか知らなかった。 これも、GHQによる占領政策、戦後の左翼主義が、松陰を軍国主義として断罪し、歴史から葬りさろうとした影響なのかもしれない。筆者は「松陰を知らずして、わが国のインテリジェンスを語る資格なし」と言いたい。

高校と大学の教員らで作る「高大連歴史教育研究会」(会長=油井大三郎・東京大学名誉教授)が、大学入試で歴史の細かい用語が出題され、高校の授業が暗記中心になっているのは問題として、教科書の本文に乗せ、知識を入試で問う用語を現在の3500語程度から約半分にすべき、としている。

このなかで、吉田松陰の名前は、坂本龍馬や武田信玄などともに消されようとされている。彼らが果たした「実際の役割は小さい」ということが理由だそうだ。 しかし、政治的功績は残さずとも、後世に多大な思想的、精神的な影響を与えた人物を、どうして「実際の役割が小さい」といえるのか?

「高大連歴史研究会」の思想的背景を知る必要があるのではないか!

三人集まれば文殊の知恵?

グループシンク(集団浅慮)の弊害

▼  「群衆の叡智」

前回、『ウキペディア』を例に「群衆の叡智」について述べました。これは、ジェームズ・スロウィッキー著の『「みんなの意見」は案外正しい 』(角川書店)の中に出てくる、「Wisdom of Crowds(WOC)」という概念で、「群衆の叡智」あるいは「集合知」と呼ばれています。 つまり、これは少数の権威による意思決定や結論よりも、多数の意見の集合による結論や予測の方が正しいということを意味しています。

実際、集団で合議を行うことは、想像力を向上させ、個人のバイアスを回避するなど、プラスの効果をもたらすことが多々あります。まさに、「三人集まれば文殊の知恵」といえそうです。

▼ 集団思考の危険性とは

しかし、ぎゃくに集団合議は個人で考えるよりも大きな失敗を起こす危険性が高いとのマイナス面の影響も指摘されています。

これを、一般的に集団思考、グループシンク、集団浅慮(しゅうだんせんりょ)といいます。 集団浅慮とは、集団で合議を行う場合、少数意見や地位の低い者の意見を排除し、不合理な意思決定を行うというものです。

集団浅慮の研究の第一人者である、心理学者のアービング・ジャニスは、 1961年のビッグス湾事件(キューバ侵攻)や62年のキューバミサイル危機につながった意思決定を分析し、「小さな結束の強い集団に所属する者は『集団精神』を保持する傾向がある。
この結果、集団内で不合理あるいは危険な意思決定が容認されることになる」と指摘しています。

▼ ビッグス湾事件の失敗

1961年、アメリカのCIAは、在アメリカの亡命キューバ人部隊をキューバに侵攻させ、フィデル・カストロ革命政権の打倒を試みました。しかし、上陸部隊はビッグス湾で待ち受けていたキューバ兵によって一網打尽にされました。この作戦において事前の空爆に正規軍が関与していたことが明らかになり、アメリカは世界から非難を受けて、ケネディ政権は出足からキューバ政策で大きく躓いたのです。

ジャニスは、のちにキューバ侵攻に至る意志決定などについて研究しました。そこでわかったことは、ケネディ政権の側近は、侵攻の極秘計画がニューヨーク・タイムズ紙の一面に暴露されても、「アメリカ兵を上陸させず、アメリカの関与さえ否定できればればよい。世界は我々の言い分を信じるだろう」と考えた、ということです。誰ひとりとして、キューバ侵攻に異論を唱える者はいなかつたのです。

計画が大失敗に終わったのち、ケネディは失敗の原因追及を命じました。その結果、居心地のよい全会一致主義が根本原因であるとの指摘がなされました。

キューバ危機における意思決定

ビッグス湾事件の翌年の1962年夏、ソ連とキューバは極秘に軍事協定を結び、ソ連がキューバに密かに核ミサイルなどを運搬しました。アメリカは戦略偵察飛行で核ミサイル基地の建設を発見し、アメリカがキューバを海上封鎖し、各未済基地の撤去迫り、一触即発の危機的状況に至りました。これがキューバ危機です。

キューバ危機においては、ビッグス湾事件の反省から、礼儀作法や上下関係は自由な議論の妨げになるため排除されました。新たな視点を取り入れるために新たなアドバイザーが招聘されました。側近たちに徹底的に議論をさせるために、ジョン・F・ケネディが会議の席をはずこともあったとされます。

ケネディ自身は少なくともソ連のミサイル発射装置への先制空爆は承認せざるを得ないとの危機感を持っていましたが、 議論に影響を与えないよう誰にも言いませんでした。その結果、10の選択肢が徹底的に議論され、大統領の意見も変わり始めました。かくして核戦争が回避され、交渉による平和がもたらされました。

集団浅慮はどのようにして起こるのか

ジャニスによれば、集団浅慮は時間的制約、専門家の存在、特定の利害関係の存在などによって引き起こされ、以下の8項目の兆候があると指摘しています。

①無敵感が生まれ、楽観的になる。 ②自分たちは道徳的であるという信念が広がる。 ③決定を合理的なものと思い込み、周囲からの助言を無視する。 ④ライバルの弱点を過大評価し、能力を過小評価する。 ⑤みんなの決定に異論をとなえるメンバーに圧力がかかる。 ⑥みんなの意見から外れないように、自分で自分を検閲する。 ⑦過半数にすぎない意見であっても、全会一致であると思い込む。 ⑧自分たちに都合の悪い情報を遮断してしまう。

集団浅慮からの脱却

集団合議が「群衆の叡智」になるのか、それとも「集団浅慮」になるのか、集団は賢明にも愚かにも、その両方になれます。ケネディの側近たちが示したように、集団のメンバーできまるのではありません。合議の進め方ひとつで、個人の独立性を保持して、活発で自由な議論は可能なのです。

とくに注意しなければならないのは、権力者、声の大きい者、弁の立つ者、権威者、専門家です。これらの者が集団をリードして、個人たちの独自の意見を放棄させていきます。第4次中東戦争においても、イスラエル軍情報部においてエリ・ゼイラ将軍による独断横行と集団浅慮が見られました。

キューバ危機、第四次中東戦争のような事例は、我々の周辺においても珍しいことではありません。いま一度、集団浅慮になっていないか検証してみることが重要です。

なお、キューバ危機、第四次中東戦争は、拙著『情報戦と女性スパイ』にて興味深い記事を収録していますので、ご参照ください。

わが国の情報史(11) 

洋学の隆盛と対外インテリジェンス

▼ 洋学の魁(さきがけ)、新井白石

新井白石

18世紀になると、学問・思想の分野では幕藩体制の動揺という現実を直視して、これを批判し、古い体制から脱しようとする動きもいくつか生まれた。その一つが洋学である。 

鎖国の影響により、西洋の学術・知識の吸収は停滞していた。しかし、18世紀はじめに天文学者である西川女見(にしかわじょけん1648~1724)や、儒学者の新井白石(あらいはくせき1657~1725)が世界の地理・物産・民族などを説いて、洋学の魁となった。

なかでも新井白石は当代随一の博識家であり、洋学や対外インテリジェンスの面において後世に大きな影響を及ぼした。

ただし白石は洋学者ではない。1686年、白石は朱子学者・木下順庵(きのしたじゅんあん)に入門して朱子学を学んだ。93年、順庵の推挙で甲府藩主・徳川綱豊(のちの6代将軍・家宣)の儒臣となる。白石37歳の時である。

1704年、白石は幕臣にとりたてられ、家宣(いえのぶ)の将軍就任(1709年)後は家宣を補佐し、幕政を動かす重要な地位を占めた。
家宣が12年に病死した翌年、家宣の子供の家継(いえつぐ)が、わずか4歳で7代将軍に就任した。

白石は御用人・間部詮房(まなべあきふさ)とともに幼将軍・家継(いえつぐ)を補佐した。しかし、その家継はわずか8歳で夭折し、1716年に8代将軍に吉宗が継位すると、白石は詮房とともに失脚する。失脚後の白石はひたすら著作活動に没頭した。

政治家としての白石は儒学思想を根本とし、教化・法令などによって世をおさめる文治政治(「正徳の治」)をおこなった。外交面では朝鮮使節の待遇改め(簡素化)、経済面では財政再建のために良質貨幣の鋳造などの改革を行った。
しかし、極端な文治主義であったため、幕臣の反対が多く、しかも根本的な経済政策を欠いたため、一種の理想に終わった。

それよりも真骨頂なのは学者としての白石である。白石がとくに力を注いだのが歴史学の研究である。『読史余論』(とくしよろん)などの優れた書籍を多く執筆し、国体思想における啓蒙の師となった。

1708(宝永5)年、白石を洋学の魁として世に知らしめた事件が発生する。シドッチ密航事件である。イタリア人宣教師シドッチがキリスト教布教のため屋久島に潜入して捕らえられた。彼は江戸小石川のキリシタン屋敷に幽閉され、5年後に死ぬことになる。

1709年、白石は江戸で計4回にわたり、シドリッチに尋問した。これにより、彼の東洋来訪の経緯のほか、西洋の世界地理・歴史・風土人情、世界情勢及び西洋における自然科学の発展趨勢などに関する広範な知識を得た。

このほか、1712年初、白石は江戸に参府するオランダ商館長などからも、さまざまな海外事情を得た。こうして得た知識をもとに書かれたのが『西洋紀聞』と『采覧異言』である。

『西洋紀聞』は1715年頃に完成したとされるが、鎖国下のためになかなか公表されなかったが、1807年以来、広く流通し、鎖国下における世界認識に大いに役立った。

『采覧異言』は、日本最初の体系的な世界地理の学術書として評価が高い。これは、単に地理学への影響にとどまらず、各国の軍事制度への考察も踏まえており、のちのわが国の海防論や富国強兵論の根拠となった。

つまり、白石の書籍が後世に西洋に対するインテリジェンスの関心を切り開き、のちの国防体制の礎を築いたのである。

▼ 蘭学の隆盛

洋学と言えば、江戸時代初期にはスペインやポルトガルから日本に伝わってきた学問が中心であった。したがって「南蛮学(蛮学)」と呼んでいた。

しかし、徳川吉宗(1684~1751)の享保年間(1716~1736)において、蘭学が隆盛することになる。つまり洋学は蘭学として発達し始めた。

蘭学はその字面(じづら)から「オランダ学」を意味する。しかし、それは片面的な解釈であるといえよう。
本来の蘭学は、江戸時代から幕末の開国にかけての西洋に関する学問、技術、西洋情勢に関する知識および研究である。主としてオランダ語を媒体として研究されたので蘭学という。

8代将軍・吉宗は漢訳制限をゆるめて、青木昆陽(あおきこんよう1698~1769)および野呂元丈(のろげんじょう1694~1761)にオランダ語を学ばせた。彼らはオランダ通詞からオランダ語を学び、『和蘭話訳』(1743年成立)や『和蘭文字略考』(1746年成立)を著した。

これが蘭学を学ぶ者の語学的基礎となったのはいうまでもない。

蘭学はまず医学の分野において発達した。1774年、昆陽からオランダ語を学んだ前野良沢(まえのりょうたく1723~1803)、町医者の杉田玄白(すぎた1733~1817)が、共同で西洋医学の解剖書を記述した『解体新書』を著した。

その後、蘭学は急速に隆盛し、医学から天文学、本草学(博物学)、兵学、物理学、化学などの分野へと拡大した。

蘭学隆盛の立役者には大槻玄沢(おおつきげんたく1757~1827)や宇田川玄随(うだがわげんずい1755~97)、平賀源内(1728~79)らがいる。

玄沢は『蘭学階梯』という蘭学の入門書を著し、江戸に芝蘭堂(しらんどう)を開いて多くの門人を育てた。

玄随はもともと漢方医であったが、杉田玄白や前野良沢らと交流するうちに蘭学者へと転じ、芝蘭堂で学び、のちに西洋の内科書を訳して『西洋内科撰要』を著した。

源内は長崎でオランダ人・中国人とまじわり本草学を研究した。のちに江戸に出て、学んだ科学の知識をもとに物理学の研究で成果を収めた。今日は、江戸の大天才、異才、発明王、日本のダ・ヴィンチなどと呼ばれ、巷で有名である。

▼ 地理学の発展

蘭学の影響により発達した学問の一つに地理学である。地理学とインテリジェンスの関係は深い。

なぜならば、他国の情勢を正確に知るために地図が必要である。国土を防衛するためにも地図が不可欠である。その地図を作成するために天文・測量・観測などの地理学が要求されたからである。

わが国の地図の作成における最大の功労者が、高橋至時(よしとき 1764~1804)、その子景保(かげやす1785~1829)、そして伊野忠敬(いのうただたか1745~1818)である。

幕府天文方の至時は、西洋歴を取り入れた寛政暦を1797年に完成した。また、天文方に「蛮所和解御用(ばんしょわげごよう)」を設け、景保を中心に洋書の翻訳に当たらせた。景保は語学の達人であり、オランダ語、ロシア語、満州語に通じており、多くの洋書を翻訳した。

なお、「蛮所和解御用」は幕末期に洋学の教育機関である蛮所調所となり、近代以降における大学の前身となった。

1804年、景保は至時の跡を次いで幕府天文方に就任した。当時、西洋諸国の東洋進出によって日本近海に異国船が出没し始めた。幕府は国策上の必要に迫られ、07年に世界地図の作成を景保に命じたのである。

景保は1780年製のイギリス、アーロスミスの世界図を『世界図』に基づいて、東西の多くの資料や、間宮林蔵(まみやりんぞう)の樺太への調査報告なども取り入れて、1810年に『新訂万国地図』を作成した。

▼ 伊能忠敬による日本地図の完成

一方、忠敬は隠居後に学問を本格的に開始し、全国を測量して歩き、最初に日本地図を作製した人物として有名である。

1795(寛政7)年に上京し、江戸にて幕府天文方の至時に師事し、測量・天文学などをおさめた。この時、忠孝は50歳、師匠の至時が31歳であったが、学問において年功序列は無用ということである。

至時は、自らが完成した寛政暦に満足していなかった。そして、暦をより正確なものにするためには、地球の大きさや、日本各地の経度・緯度を知ることが必要だと考えていた。
そこで、至時と忠敬は、江戸から蝦夷地までの各地の経度・緯度を図ることにした。

その頃1792年にロシアの特使アダム・ラクスマンが、伊勢国の漂流民大黒屋光太夫を連れて、根室に到着した。
その後もロシア人による択捉島上陸などの事件が起こった。これが蝦夷地の調査や地図作成の必要性を認識させた。

至時はこうした北方の緊張を踏まえた上で、蝦夷地の正確な地図をつくる計画を立て、幕府に願い出た。なかなか、幕府の許可は下りなかったが、苦心の末、忠敬が第一次測量のため蝦夷地へ向かった。時は1800年、忠敬が55歳の時である。

忠敬の測量は1800年から16(文化13年)まで及び、足かけ17年をかけて日本全国を測量して『大日本沿海輿地全図』を完成させ、国土の正確な姿を明らかにした。

ただし、忠敬が死亡(1818年)時には、実際には、地図はまだ完成していなかった。そこで忠敬の死は隠され、高橋景保を中心に地図の作成作業は進められ、1821年に『大日本沿海輿地全図』と名付けられた地図はようやく完成したのである。

▼ 景保とシーボルト事件

この地図が新たな事件を呼ぶことになる。それがシーボルト事件である。

シーボール(1796~1866)はドイツの医師である。江戸時代後期の1823年長崎オランダ商館の医師として来日した。翌年長崎郊外の鳴滝に診療所を兼ねた学塾(なるたきじゅく)を開き、伊藤玄朴、高野長英、黒川良安ら数十名の門下に西洋医学及び一般科学を教授した。

シーボルトはオランダ商館長の江戸参府に随行し、半年間の江戸滞在で天文方を勤める景保と知り合いになる。そして忠敬が作成した『大日本沿海與地図』の縮図を景保から受領した。
景保はシーボルトの持つ貴重な情報が欲しくて、禁制品の地図を渡したのである。つまり、景保もまた、インテリジェンスの人であった。

5年の任期を終えたシーボルトは1828年9月、帰国の途につく。しかし、その際に禁制品である日本地図が発見された。地図の発見経緯については、暴風雨にあった乗船の積荷から発覚した、景保と確執のあった間宮林蔵が密告した、などの説がある。

シーボルトはスパイの容疑を受けて糾問1ヵ年の末29年10月に海外追放となり、再入国禁止を宣告された。景保は翌年獄死し、多数の関係者、洋学者が逮捕された。

いつの世も、地図は常に守るべきインテリジェンスであり、国家の禁制品であった。我が国では現在、1/5万や1/2.5万の地図が市販されているが、多くの国ではこのような地図は禁制品であり、所持すればスパイ罪に問われることもあるので要注意である。

▼ 蘭学の衰退

天保年間(1830年代)には「天保の飢饉」が象徴するように、米不足による治安が乱れ、一揆が発生した。大塩平八郎による武装蜂起など、幕府や諸藩に大きな影響を与えた。

国内問題ら加え、対外問題も続いていた。1837年、アメリカ商戦モリソン号が浦賀に接近し、日本人漂流民7人を送還して日米交易を図ろうとしたが、幕府は異国船内払い令(1825年)に基づいてこれを撃退した。

この事件について、1838年、渡辺崋山(わたなべかざん1793~1841)は『慎機論』を、高野長英(たかのちょうえい1804~1850)は『母戌夢物語』を書いて、幕府の対外政策を批判した。

しかし、翌年、幕府はこれに対して、きびしく処罰した。なお、この処罰事件は「蛮社の獄」と呼ばれるが、高野らの潮流は旧来の国学者たちからは「蛮社」と呼ばれていたためである。

この事件後、蘭学は衰退傾向を辿ることになる。しかし、蘭学がわが国における対外インテリジェンスの萌芽を導いたことは間違いない。

▼洋学への発展と佐久間象山

佐久間象山

これまで述べたように、洋学は江戸時代初期の「蛮学」が中期には蘭学へと発展した。そして、ペリー来航(1853年)による開国以降、オランダ人以外の諸外国人もどんどんと渡来するようになった。

イギリスやフランスなどの学術・文化が、それぞれの国の言語とともに渡来した。もはや洋学は蘭学に止まらず、この時期以降に洋学という用語が一般化した。

洋学は自然科学・社会科学・人文科学の広い分野で西洋の知識・学問を移入するのに力を発揮したが、ことに英学が蘭学にかわって主要な地位を占めた。
また、洋学はわが国の国防体制への啓蒙となり、高島秋帆や佐久間象山(さくまぞうざん1811~1864)らの軍事思想に大きな影響を与えた。

 とくに象山は横浜開港を具申した立役者であり、のちに幕末の志士たちにより徳川幕府が倒され、明治の代が到来するきっかけを作った人物である。福沢諭吉や勝海舟も象山の影響を受けた。

吉田松陰は、アヘン戦争で清が西洋列強に大敗北すると、西洋兵学を学ぶために九州に遊学し、その後江戸に出て象山の門を叩くことになる。

山鹿流兵学師範である松陰は、先師の山鹿素行の思想的影響を受けていたが、松陰に直接的な影響を及ぼした人物としては象山をおいて他はないといえよう。