『孫子』から学ぶインテリジェンス講座(2)

インテリジェンスとは何を知ることか!

戦いには何を知ることが必要か

まず戦いにはいかなることを知らなければならないか?その知識(インテリジェンス)はどのようにして得るのか?

孫武は「彼(敵)を知り、己を知れば百戦危うからず。彼を知らずして己を知れば、一勝一負す。彼を知らず己を知らざれば、戦う毎に必ず敗れる」(謀攻編)と述べている。また、「彼を知りて己を知らば、勝ち乃ち殆うかず」(地形編)との記述もある。

つまり、孫武は敵と己を知れと言っている。

敵を知るとはいかなることか

まず敵について考えてみよう。現代の安全保障は熾烈な競争原理によって突き動かされている。冷戦構造が崩壊し、かつてのように明確な敵の存在がなくなったといわれるが、敵は必ずどこかに存在している。

だから、我が敵に対して優越するためには敵の戦略や作戦を知ることが基本となる。これが、インテリジェンスの基本でもある。

敵を知るとは、まず敵が何のために(目標)、何をしようとしているのか(目的)を知ることである。この目標と目的から生み出されるのが意図ということになる。

次に何ができるのかという能力を見る。そして最後に、何をしてくるのか、すなわち、相手側の未知なる行動を明らかにしなければならない。

未知なる行動を予測するためには、平素から相手側の意図と能力の両面をしっかりと分析することが重要である。

意図分析は見誤りやすい

ところが、意図分析の対象となる意図は目に見えない(不可視的)ものである。国際情勢の急変、指導者の心情変化などによって容易に変化する。すなわち、見誤りやすい。

だから、アメリカは朝鮮戦争において「中国は国内経済優先の折だから中国軍の介入意図はない」と誤判断した。ベトナム戦争でも、アメリカは自らの北ベトナムに対する空爆の効果を過大視して、「北ベトナムが立ち上がる気力(意図)は失せた」と誤判断した。

スターリン

このほか、スターリンは希望的観測と猜疑心によって、ヒトラーの意図を見誤り、1941年6月の奇襲を受けた。世に有名なバルバロッサ作戦である。 この時、スターリンは、自らの戦争準備は不十分だったために、ドイツには侵攻意図はないと信じこもうとした。

まさに、スターリンの心境は「信じるものは救われる」の境地であったのであろう。かくして、ドイツによる侵攻の重要な兆候は英国側の欺瞞であるとして、ことごとく排除された。

能力分析の基本として意図分析を併用する

このような戦史の反省も踏まえて、意図分析よりも能力分析、すなわち、相手側が何をできるかを明らかにすることが基本であるといわれている。

たしかに、能力は可視的であり、変化の速度も小さい。 たとえば、北朝鮮の指導者の心は何時でも変化するが、核ミサイル能力は一朝一石に保有できるものでない。

また、能力分析は何ができるかという視点で敵のあらゆる可能行動を検証するのであるから、奇襲防止の観点から優れている。

その一方で、相手側の取り得る可能行動の幅があまりにも拡大してしまえば、我は対応ができなくなってしまう。

そこで、能力分析を基本としてもその上で意図分析を併用する。まず、敵の可能行動を列挙し、意図分析によって常識的に考えて敵がおよそとり得ない可能行動を排除する。そして敵の可能行動をある程度まで特定化して、採用する公算(蓋然性)の高い可能行動に焦点を絞って、さらに詳細に分析するとい過程が必要となる。

ただし、蓋然性は低くても、我に対して影響が大きいものは別途、慎重に分析する。これが「蓋然性小/影響性大分析」の考え方である。

孫子は能力分析を重視している

孫武は、敵の能力を知ること、すなわち能力分析を重視している。それがもっとも特徴的にみられるのは、第1「始計編」の「五事七計」である。孫武は、「戦争は国の重要事項であるので、五事を以て計(はか)る」と述べる、この「五事」とは、道、天、地、将、法である。

続けて『孫子』では「……故にこれを経(はか)るに五事を以てし、これを校(くら)ぶるに計を以てして、其の状を索(もと)む」(始計)と述べる。つまり、孫武は、平素から我が準備しておく五事を基本として、敵に対する活発な情報活動により、主(君主)、将(将軍)、天地(気象・地形)、法(軍紀)、民衆、士卒(将校および下士官)、賞罰の七計(七つの要素)を収集せよと説いている。すなわち、彼我の能力を分析するためである。

敵を知る以上に我を知れ

孫武は「敵に勝利するためには、敵だけではなく我のことも知れ」と説いている。孫武は「敵を知り、己を知らば百戦危うからずや」のあとに、「彼を知らずして己を知れば、一勝一負す」と述べる。すなわち己を知ることで、最低でも引き分けに持ち込めると、説いているのである。

孫武の「五事七計」においても、基本は平素から我が五事を確立することである。五事を現代風に解釈すれば、「道」は国家あるいは君主が民意を統一して戦争に向かわせる基本方針であり、国家戦略に相当する。「天」とは明暗、天候、季節などの気象または時機(タイミング)を指す。「地」とは地形や地理などの環境的条件、「将」とは国家指導者や作戦指揮官、「法」とは組織、制度、指揮法などとなる。

つまり、我が相手国に勝利するためには、これらの要素が不十分でないかを調査し、強点と弱点を知る必要がある。 敵を知ることに対し、我のことはいつでも知ることができると考えられているためか、軽視されやすい。だから、誰しも我に関することは意外と知らないものである。

先の太平洋戦争では、相手国である米国のことも知らなかったが、それ以上に我の補給・継戦能力、陸軍・海軍双方の戦略・思考など、我に関するインテリジェンスが不十分であった。まさに、「戦う毎に必ず敗れる」の状況であったのである。  

9.11以降、己の弱点を知ることが潮流

2001年の9月11日の同時多発テロ以降、国際テロ組織が主たる脅威の対象となってきた。テロ組織は、冷戦期の敵のように所在が明確ではない。だから、テロ組織が何を考えているのか、どのような能力があるのかよくわからないのである。

そのため、アメリカの趨勢は「敵を知る」ことから、「己を知る」、とくに「己の弱点を知らなければならない」という流れに変わってきているという。 なお、この考え方が派生して、アメリカでは「己の弱点を知る」ためのビジネス・インテリジェンスが活性化しているといわれている。つまり、不透明な社会において、己の力量を知ることはさまざまな分野において重要になっているということである。

地形・気象を知ることが重要

孫武は、「戦争は国の大事である」ので、「之を経(筋道をつける意)するに五事をもってする」とし、その五事(後述)のなかで「天」と「地」をあげている。「天」とは気象、「地」とは地形を指す。気象と地形を合わせたものを地域と呼ぶ。

そして孫武は、「彼を知りて己を知らば、勝ち乃ち殆うかず。地を知り、天を知れば、勝すなわち窮(きわま)らず」(地形編)と述べる。つまり、「彼我に加えて地域に関するインテリジェンスを獲得することで戦勝が確実になる」説いているのである。

また、「それ地形は兵の助けなり。敵を料(はか)って勝ちを制し、険夷・遠近を計るは、上将の道なり。これを知りて戦いをおこなう者は必ず勝ち、これを知らずして戦い行う者は必ず負ける」(地形編)と述べている。

これは、簡潔に訳せば、地形は補助手段にすぎず、まず敵を知り、戦勝の法則を確立したうえで、敵と我を地形の上に乗せて、その利・不利を考察せよ、ということである。 これらの記述に限らず、第7編「軍争」から第11編「九地」にわたる五つの編において地形や気象を取り扱わない編はない。

地の利を生かす

孫武は第10「地形編」で、地形をその特性からまず6つの基本的な地形に区分(通、掛、隘、支、険、遠)し、第11編九地編では、さらに戦場が国境内(国境地域含む)にあるか、あるいは故国から遠く離れた国境外にあるかで、9つに区分(散地、軽地、争地、交地、衢地 、重地 、圮地 、囲地 、死地 )し、その地形活用上の要点を論じている。

前の4つ、すなわち散地、軽地、争地、交地が国境内部で、後ろの5つが 国境外に相当する。後ろの5つは、第8「九変編」では「絶地」 という用語で登場する。 そして「絶地に留まること勿れ」(九変編)、「重地には則ち掠(かす)め」(地形編)などと述べ、遠く離れた国境外では長く駐留すべきではない旨と説いている。

わが国は先の大戦において、中国大陸に奥深く進出し、やがて兵站戦が延び切ってしまい、物資に支障を来たした。その後、米国を相手に遠く洋上の真珠湾を攻撃して開戦の火蓋を切ったが、やがては太平洋上の島嶼への補給が途絶えて、敗戦した。まさに絶地での戦いを強いられたのである。ここにおいても『孫子』の原則が生かされることはなかったといえるのだろう。

気象を味方にする

一方の気象についても、孫武は重要な示唆を説いている。とくに、第11「火攻編」では、「火を発するには時あり。火を起こすには日あり。時とは天の燥(かわ)くなり。日とは、月の箕(み)、壁(なまめ)、翼(たぬき)、軫(みつうち) 在るなり。およそこの四宿は風の起こるの日なり」と述べる。

これは、火攻めを行うには、適した時期があり、火を燃やすには適した日がある。それは乾燥して火が燃えやすい時である。日というのは月が天体の4星宿(28宿のうち)の方向にある時で、月がこれら4つの星座にかかるときが風の起こる日である、と訳せる。

火攻めは、現代に例えるならば軍事攻撃、一方の水攻めは経済制裁ということになる。経済制裁は遅行性であるが、軍事攻撃は即効性であり、時機(タイミング)が命である。 ヒトラーのソ連攻撃は“冬将軍”の到来で頓挫した。2003年のアメリカの軍事攻撃は、砂漠の砂嵐の時期を回避するよう慎重に決定された。

現代戦では戦略環境を知ることが重要

『孫子』は、ほぼ全編にわたって地形や気象が作戦に影響を与えること、地形や気象を有利に活用することを述べている。現代戦においても、戦争の場における地形を偵察したり、気象の影響を考慮したりして、それらを作戦計画に反映することはいうまでない。 

ただし、現代戦は『孫子』の時代とは異なり、総力戦を帯びており、様々な環境要因が戦いの趨勢に影響を及ぼす。よって、ここでいう「地」と「天」は広く解釈する必要がある。つまり、「地」とは固定的な空間であり、すなわち地理的環境、一方の「天」とは流動的かつ時間的であり、国内外情勢にあたると解釈できる。

つまり、わが国が生存・繁栄するうえで影響を受ける地理や国際情勢などの戦略環境を広く理解する必要があるということである。

地政学の視点を持つ

今日、国際情勢を見る上で地政学という考え方がある。地政学の論拠は「人 間集団としての国家の意図は地理的条件を活動の基盤としている」という点にある。つまり、地理的条件が民族の特性を形成し、国家の活動基盤になると考え方である

 マキャベリは「寒い地方の人は勇気があるが慎重さに欠け、厚い地方の人は慎重だが勇気に欠ける」と評した。

和辻哲郎

日本の思想家である和辻哲郎は、モンスーン、砂漠、牧場に区分して、人間存在の構造を把握した。このように地理と国民性との関連性は従来から戦略家・思想家が認めるところである。

現在の地域紛争も畢竟、地域的に偏在する資源、資源の輸送ルート、集中する市場などを巡る角逐である。よって地域紛争の動向を予測するうえでも地政学的思考は欠かせない。

わが国の地政学的な環境に目を向ければ、米・中・ロという三大超大国に囲まれ、資源を海外に依存する海洋国家という特徴がある。海洋国家は自国の生存と繁栄を海上交通路に依存している。したがって、それをコントロールできる海軍強国と連携するのが得策である。

わが国は海洋国家との連携が必要

わが国は1902年に海洋国家である英国と同盟を結び、朝鮮半島から大陸に進出する海上交通路をコントロールしたことで日露戦争に勝利した。しかしその後、中国大陸に進出し、大陸国家ドイツと同盟を結び、海洋国家米・英を敵にしたことで資源が途絶され、このことが敗戦の原因となった。

かかる地理的環境や歴史を踏まえるならば、わが国の戦略は米国との同盟を堅持して、中国及びソ連に対する防衛に備えることになろう。このような戦略眼を『孫子』から養うことも肝要である。

我が国が生存・繁栄するための有用なインテリジェンスを生成するうえでは、地理と国民性、地理と歴史という視点を考察することが重要である。これらのことを『孫子』から汲み取ることができるのである。

わが国の情報史(17) 

日清戦争とインテリジェンス

日清両国の対立化の経緯

明治政府は、朝鮮が清国から独立して近代化すること狙っていた。この背景には、ロシアが南下を続け、朝鮮国境まで領土を広げていた。もし半島が、ロシアに領有されるか、列強に分割されるかすれば、日本の国土防衛が不可能になる、との情勢判断があった。 なお、これが明治期の征韓論の背景でもあった。

1873年、大院君(だいいんくん,1820~98)が失脚し、改革派官僚に支えられた王妃の親戚である閔(みん)氏一族が政治の実権を握った。これにより、日本と国交を開く許可が清国から朝鮮に降りた。

1876年、日本は日朝修好条規により朝鮮を開国させた。以来、朝鮮国内では、親日派が台頭していった。 しかし、1882年、日本への接近を進める閔氏一族に対し、大院君を支持する軍隊が反乱を起こした。これに呼応して、民衆が日本公使館を包囲した(壬午事変)。

これ以後、閔氏一族は日本から離れて清国に依存し始めた。 これに対し、金玉均(きんぎょくきん1851~94)が率いる親日改革派(独立派)は1884年、日本公使館の援助を受けてクーデターを起こしたが、清国軍の来援で失敗した(庚申事変)。

この関係で悪化した日清関係を打破するため、1885年、政府は伊藤博文を派遣し、清国全権・李鴻章(1823~1901)との間に天津条約を結んだ。これにより、日清両国は朝鮮から撤兵し、今後同国に出兵する場合には、たがいに事前通告することになり、当面の両国衝突は回避された。

日清戦争の勃発とインテリジェンス将校の活躍

1885年、福沢諭吉は「脱亜論」を発表し、アジアを脱して欧米列強の一員となるべきこと、清国・朝鮮に対しては武力をもって対処すべきこと、を主張した。これにより日本と清国との間は次第に緊張が高まることになる。

1894年、朝鮮で東学の信徒を中心に減税と排日を要求する農民の反乱(甲午農民戦争)が起きると、清国は朝鮮政府の要請を受けて出兵した。わが国も天津条約に従って朝鮮に出兵した。  

1894年8月、日本が清国に宣戦し日清戦争が勃発した。 戦争指導のため、明治天皇と大本営が広島に移った。

戦局は、軍隊の規律・訓練、兵器の統一性に勝る日本側の圧倒的優勢のうちに進んだ。日本軍は清国軍を朝鮮半島から駆逐し、遼東半島を占領し、清国の北洋艦隊を黄海海戦で撃破し、根拠地の威海衛を占領とした。かくして、わずか9か月で日本が戦争に勝利した。

こうした大勝利の陰で、軍民一体の情報活動が陸軍の作戦活動を支えていた。ジャーナリストの先駆けといわれる岸田吟香(きしだぎんこう、1833~1905)をはじめとする民間有志が商取引などを通じて大陸深くに情報基盤を展開した。これに応じる荒尾精、根津一らの参謀本部の若手参謀が現役を退き、その基盤を拡充し、活動要員の養成に捨身の努力を払った(わが国の情報史(16))。

また、ドイツ式の近代化した陸軍を創設した川上操六の貢献が大であった。 日清戦争前の1893年、川上(参謀次長)は参謀本部を改編し、国外に派遣されている公使館附武官を参謀本部の所管とした。公使館附武官は情報網の先端になったのである。

また1893年、川上は田村怡与造(中佐)及び情報参謀の柴五郎大尉(のちに大将)を帯同して清国と朝鮮を視察し、「先制奇襲すれば清国への勝利は間違いない」と確信を得て帰国した。 このように、作戦とインテリジェンスが調和され、わが国は勝つべくして勝ったのである。

条約改正で貢献した陸奥宗光

陸奥宗光

こうした日清戦争のさなか、インテリジェンスのもう一つの局面として条約改正への取り組みを無視できない。この最大の立役者が陸奥宗光である。

明治政府にとって、江戸幕府が結んだ不平等条約、特に関税自主権なしと領事裁判権なしの撤廃は重大な課題であった。 条約改正交渉は紆余曲折を経たが、最大の難関であったイギリスは、シベリア鉄道を計画して東アジア進出を図るロシアを警戒して日本に対して好意的になっていた。

陸奥は日清戦争の前年、ついに領事裁判権なしと、関税の引き上げ、および相互対等の最恵国待遇を内容とする日英通商航海条約の調印に成功した。 この背後には陸奥の戦局眼と脅しともいえる外交交渉が功を奏した。

陸奥は、「日本は清国と戦争するにあたって文明国として国際法を守り、イギリス人の生命・財産を守るつもりでいる。だから条約を改正してほしい。もし日本が文明国でないというならば、日本は文明国が定めている国際法を守る義務はない」と発言したのであった。  

当時、イギリスは多くの英国人を清国に租界させていた。よって陸奥の理論的であり、しかも脅しもいえる交渉をイギリスは飲まないわけにはいかなかったのである。

下関条約の背後でインテリジェンス戦が展開 

李鴻章

1895年4月、日本全権伊藤博文・陸奥宗光と清国全権李鴻章とのあいだで下関条約を締結した(条約5月8日発行)。 その内容は、①清国は朝鮮の独立を認め、②遼東半島および台湾・澎湖諸島を日本にゆずり、③賠償金2億両(テール)を支払い、④新たに沙市・重慶・蘇州・杭州の4港を開くことなどであった。

わが国は戦勝国であったので日本側に有利な条約を結ぶことができた。ただし、ここでもインテリジェンス戦が貢献したことを見逃してはならない。

というのは交渉は下関で行われたため、李鴻章は暗号通信により、本国の意向を確かめながら条約交渉を行わなければならなかった。日本は、この暗号通信を完全に傍受して交渉に臨んだ。

たとえば、わが国は賠償金は当初3億両を要求していたが、清国から李鴻章のもとに1億両ならば交渉に応じても良いとなどの連絡が届いていることを承知し、2億両というぎりぎりの駆け引きに出た。

また、日本の提示した講和条件の一部が清国から都合のよいように全世界に伝えられる状況を傍受して事前探知した。日本は、清国の機先を制して、自ら英・米・仏・露・独・伊に対して講和条件の全文を通告したのである。これにより、イギリスの支持を得ることになり、交渉を有利に進めることができたのであった。

『孫子』から学ぶインテリジェンス講座(1)  

孫武

はじめに

中国では歴史的に諜報及び謀略の研究が重視され、その研究成果を纏めた体系的な兵法書の編纂が発展した。『孫子』『呉子』『司馬法』『尉繚子』『李衛公問対』『六韜』及び『三略』はその代表的な兵法書である。これらは『武経七書』と総称されている。

なかでも「兵は詭道である」と喝破する『孫子』が最も有名である。 『孫子』は、今から2500年以前の中国の激動の春秋戦国時代、名将・孫武によって書かれたとの説が主流である。 『孫子』は中国ののちの兵法書に影響を及ぼし、日本でも吉備真備が唐で礼記(らいき)や漢書とともに『孫子』の兵法を学び、帰国後に下級武士に教示したと伝えられている。

『孫子』は「最強の兵法書」と呼ばれるに相応しく、洋の東西を問わず、時代を超えて、のちの軍事理論書に多大な影響を与えた。このほか、今日では組織統率論、企業経営における参考書としても活用されている。

他方、『孫子』は至高のインテリジェンス 教科書でもある。『通典』(つてん)のなかの「兵典・間諜」編では、軍事偵察情報が戦争における重要な役割を占めることが論述されている。

唐代の著名な兵法家の李靖(りじん)が記した『李衛公問対』(りえいこうもんたい)は『孫子』の情報活動を体系化したものである。

清代の朱逢甲による『間書』は中国初の情報専門の兵法誌であるが、これも『孫子』の軍事偵察理論を基に編纂されたものである。

米国CIA元長官アレン・ダレスや西ドイツのインテリジェンス・マスターであったラインハルト・ゲーレンの回顧録においても『孫子』が引用されている。このように『孫子』は世界のインテリジェンス界に大きな影響を与えた。

そこで『孫子』から得られる、インテリジェンス上のさまざまな知見を抜粋し、総括的に解説することとする。

1『孫子』の特質とは

▼『孫子』は春秋時代に誕生

今から2500年以前、中国における激動の春秋時代とはどのような時代であったのだろうか?これを知ることが、『孫子』の本質を理解することの第一歩である。

一般的に、周が滅びた紀元前770年から、紀元前403年に晋が韓・魏・趙の三国に分裂する前の春秋時代という。

なお、それ以降、秦の始皇帝が紀元前221年に全国を統一するまでの間を戦国時代という。

『孫子』の作者である孫武は、紀元前535年、すなわち春秋時代の後期に生まれた。彼は、斉(いまの山東省)に生まれたが、紀元前513年に呉(いまの江蘇省)一家で移ったといわれる。

幼少から兵書に親しみ、その才能が買われ,呉の国王・闔の側近の将軍・伍子胥(ごししょ)によって、彼もまた呉王を補佐する将軍に推挙された。 司馬遷の『史記』には、「呉が楚を破り、斎や晋を脅かし、天下に名をとどろかせたのは、孫武の働きによるところが大きい」と記されている。

当時の中国は、「春秋の五覇」と称する斉、晋、楚、呉、越の諸国による戦争状態にあった。そのため、孫武が仕えた呉は、越や楚などの複数国に対処する必要があった。 つまり、一つの国との戦いが長引いて国力が損耗してしまっては、第三国から攻められ、漁夫の利を奪われる可能性があった。

だから、孫武は「それ兵を鈍らし、鋭を挫き、力を屈し、貸(たから)をつきせば、則ち諸侯、その弊(つかれ)に乗じて起こる。智者ありといえども、その後を善くする能わず」(作戦編)と述べ、第三国から攻められることを警戒した。

孫武は、戦争開始の判断を慎重に行い、「戦わずして勝つ」ことを最善とし、やむを得ずに戦う場合には、速戦即決を信条としたのである。

なお、『孫子』とクラウゼヴィッツの『戦争論』がよく比較されるが、『戦争論』の方は、戦場における1対1の戦闘を想定している。両者を対比して読む場合には、この相違を念頭において考察することが肝要である。

▼『孫子』の記述は全13編

『孫子』は「始計」「作戦」「謀攻」「軍形」「兵勢」「虚実」「軍争」「九変」「行軍」「地形」「九地」「火攻」「用間」の全13の編からなる。 第1編「始計」は戦争の指導に関する総論・序論である。第2編「作戦」は主として経済的側面から、第3編「謀攻」は主として外交的側面から、それぞれ戦争の在り方を説いている。 

これら各編と、情報(インテリジェンス)について述べている第13編「用間」が戦争の指導方針を説いている。戦略と作戦・戦術の区分で言えば戦略に相当する。

他方、作戦または戦術に相当するのが、第4編「軍計」から第12編「火攻」まである。これらの編では、作戦対処の基本事項、敵対行動、作戦行動に及ぼす環境要因などが解説されている。

▼ 指導者等に対する戦争の心構えを説く

『孫子』の特徴の第一は、国家指導者や軍事指揮官を対象として、彼らに対する戦争の心構えを述べている点にある。(浅野祐吾『軍事思想史入門』) 第1編「始計」の書き出しは「兵は国の大事である。死生の地、存亡の道なり。察せざるべからず」で始まる。

ここでいう「兵」とは戦争の意味である。つまり、国家指導者などに対し、「戦争は国家の重大事項であるので軽々しく戦争をおこなうべきではない」と戒めているのである。

▼「戦わずして勝つ」という不戦主義

第二の特徴は「戦わずして勝つ」という不戦主義の重視である。(浅野『軍事思想史入門』) 中国には古来、「良い鉄は釘にならない」(好人物は兵士にならないとの意味)との俚諺があり、農耕民族である漢民族特有の文民優位の思想がある。

『孫子』においても、戦争よりも外交・謀略で問題解決をはかる漢民族の思想的特性が反映されているといえる。

たとえば「およそ兵を用うるの法は、国を全うすることを上となし、国を破るはこれに次ぐ。……百戦百勝は善の善なるものにあらず。……戦わずして兵を屈するものは善の善なるものなり」(謀攻編)と述べている。  

また、止むを得ずに戦う場合でも「上兵は謀を伐(う)つ。その次は交わりを伐つ。その次は兵を伐つ。その下は城を攻む」(謀攻編)として、敵や敵陣地を武力によって攻撃することは下策であり、まず謀略や外交での解決を重視せよ、と説いている。  

さらに「……好く戦うものは勝ち易きに勝つなり。ゆえに善く戦う者勝つや、智名もなく勇攻もなし……」「……勝兵は、まず勝ち後に後に戦いを求め、敗兵は先ず戦いて後に勝を求む」(軍計編)として、「無理のない戦いをしなければならない」と説いている。つまり『孫子』によれば、野球のファインプレーなどは最善ではないのである。

▼インテリジェンスを重視

第三の特徴は、冒頭で述べたように、インテリジェンスを重視している点である。(前掲浅野『軍事思想史入門』) 第13編「用間」は、「昔、殷の興るや、伊摯(いし) 夏に在り。周の興るや、呂牙(りょが) 殷に在り。故に惟(た)だ、明主賢将のみ能く上智を以って間者と為して、必ず大功を成す。これ兵の要にして、三軍の恃(たの)みて動くなり」の結句で締めくくられている。

ここでの「上智」伊尹及び呂牙を指すが、その上智とは、「道理を知っている、有能な人物」の意味である。つまり、孫武は「国家指導者や軍事指揮官は有能な人物を間者(スパイ)として活用することで、戦いに勝利し、成功を収めることができる」と説いているのである。

スパイとは一般的に、その国家指導者や軍事指揮官などに対して、インフォメーション(情報)あるいはインテリジェンス(生の情報を加工して戦略や作戦上の判断に資する知識に高めたもの)を提供する者をいう。

つまり、スパイを使用して敵の国情、軍事状況、地勢、物資などの事項を明らかにし、これを基礎に戦略・戦術を立ててれば、全軍の行動は自然と理に適ったものとなり、敵に負けることはない、という意味である。

『孫子』が「用間」を以って最終編としたことは、インテリジェンスが「戦わずして勝つ」または「勝ち易きに勝つ」ための最も重要な要素であることを改めて力説しているものと、筆者は理解する。