強制思考とアナロジー思考を活用しよう!

▼「1県50」とは

筆者が住んでいる近隣に立ち飲み屋があります。そこに、この前から秋田出身の女性が働いています。 ここで秋田の話になったのですが、秋田と言えば、日本一深い湖の田沢湖、横手のかまくら、キリタンポ鍋、桜田淳子(古い話でごめんなさい)くらいしか出てきません。

彼女の出身は田沢湖近くの仙北市だということですが、「それどこ?」という感じです。 しだれ桜の有名な角館町と田沢湖町、それに西木村が2005年に合併して新設された市です。

筆者は、仕事やプライベートで、ほとんどの都道府県に行ったことがあります。残すところ愛媛、高知、和歌山、秋田の4県です。だから、日本の地理には結構、薀蓄がありますが、秋田は苦手の部類ではありました。

以前、私が若かりし頃に情報教育を受けた時のことを思い出しました。ある教官は「初対面で会った人とスムーズに会話するためには、○○県と言えば、最低でも50のキーワードが次々に出てくるようでなければならない」といいました。 のちに、教官になった筆者も「1県50」と称して、学生にこれを紹介し、時々授業で一緒にやったりしていました。

▼強制思考とフレームワーク

この「1県50」にはコツがあります。アトランダムに考えると、だいたい20くらいで途絶えてしまいます。そこで、政治、経済、社会、地理、人物などのフレームワークを使用します。このような思考法を「強制思考」と称し、情報分析における仮説を立てるなど、さまざまな局面で活用されています。

今日ではいくつかの既存のフレームワークが提示されています。

ビジネスにおいて外部環境を分析するためのフレームワークが「PEST」です。これは政治(Politics)、経済(Economics)、社会(Society)、技術(Technology)の頭文字をもじったものです。これは記憶しやすいための“語呂合わせ”です。

なお、最近は、社会の中に含まれる環境(Ecology)を分岐させて「SEPTEmber」(セプテンバー、9月)」と呼称されることが多いようです。

他方、内部環境を分析するためのフレームワークには「3C」(Customer、Competitor、Company)、「4C」(3Cにチャンネル(Channel)を加える)、「4P」(Product,Price, Place(販路),Promotion)などがあります。

「競合分析」(CI、コンペティティブ・インテリジェンス)の祖であるマイケル・ポーターは、自社を業界のなかに位置づけるために業界内部の環境要因を5つの要素にわけて分析する「5フォース」を提唱しました。

国家安全保障の領域では「STAMPLES」(Social、Technological、Environmental、Military、Political、Legal、Economic、Security)があります。

このほか「PMESII」(Political、Military、Economic、Social、Infrastructure、Information)、「DIME」(Diplomatic、Information、Military、Economic)などよく活用されます。

▼アナロジー思考とは

強制思考と並んで、 良質のアイデアを生み出す発想法には アナロジー思考があります。これは類似思考、類比思考ともいい、野球、サッカー、スポーツ、オリンピックというように類似したものを思い出すことです。フレームワークとアナロジー思考を組み合わせることでアイデアが生まれというわけです。

アナロジー思考はは前例、他の業界や商品などから学ぶことですが、これには縦の思考、すなわち歴史的類推法があります。これは、過去に起こった歴史的事象に基づいて未来を予測する方法です。

ハーバード大学のグレアム・T・アリソン教授は著書『米中戦争前夜』の中で「トゥキディデスの罠」について述べています。

アリソン教授はアナロジー思考により大国スパルタを現在の米国、新興するアテネを現在の中国に見立てて「米中はトゥキディデスの罠を免れることができるか?」をテーマに米中関係および国際社会の未来図を描いています。

トゥキディデスは古代ギリシャのペロポネソス戦争を描いた『ペロポネソス戦争史』を遺した歴史家です。つまり、覇権国家スパルタに挑戦した新興国アテネの「脅威」が、スパルタをペロポネソス戦争に踏み切らせたことにアリソン教授は着目し、覇権を争う国家どうしは戦争を免れることが難しいとして、それを「トゥキディデスの罠」と名づけたのです。

アナロジー思考には横の思考もあります。これは現在起きている他の類似した事物や状態に着目することで未知のことを類推する手法です。

この時、すでに生起している先行事象を探すことが重要です。たとえば地方では少子高齢化は進んでいますが、そこでは家屋の過剰、交通機関の閉鎖、市町村の合併、その一方で自動販売車の進出などが起きています。つまり、これの減少が、やがて急速に少子高齢化を迎える都市部の近未図でもあります。

▼越境とリベラルアーツ

このほか発想力を鍛える方法として、最近は〝越境〟という言葉が知友黙されます。これは池上彰氏の造語です。A1時代を生き抜くためには、一つの専門性では太刀打ちできない、でも専門性を二つ、三つと増やすことができればAIの追随を許さない。だから〝越境〟が必要ということになります。

また、学問の世界では「リベラル・アーツ」が注目を集め始めています。この語義は『ウィキペディア』などで調べていただければわかりますが、要するに、専門の世界に入る前に、いろいろなことを横断的(越境的)に学ぶということです。

▼乱読のススメ

今日、勉強はどこでもできます。しっかりと学ぼうとすれば学校に行けばよいでしょうが、経費を節約しようとすればネット講座も利用できます。私は、1か月1300円で「10mtv」を契約しています。

でも、 もっとも手っ取り早い勉強法は読書でしょう。 ある本に、ビジネスパーソンが時代に対応するためには1年に最低50冊を読むことが必要だと書かれていました。かの佐藤優氏は1か月に300冊から500冊だそうです。これは、とても凡人には無理できすが、個人で少し難しいくらいの目標を定めて挑戦したら良いと思います。

なお、筆者は1か月に30冊の読破を目標にして乱読しています。これにはキンドルの「アンリミテッド」を契約 (Ⅰか月1000円) しているので経費はあまりかかりません。ただし、アンリミテッドには制限がありますので、これはあくまでも思考の裾野を広げるための乱読用です。読みたい本や書籍や論文などの執筆用には別途購入していますので、書籍代が1か月1000円で済むという話ではありません。

わが国の情報史(33)  昭和のインテリジェンス(その9)   ─満洲事変から日中戦争までの情報活動(2)─

▼はじめに

さて、前回は満洲事変以後の陸軍の情報体制について述べまし

たが、今回は海軍の情報体制について述べることとします。

▼海軍の想定敵国の第一位は米国  

日露戦争以後、わが国陸軍はロシアを、一方の海軍は米国を想 定敵国とした。そして、両者の対抗意識が軍備の拡充競争を引き起こすことになる。これを憂慮した元帥山県有朋は、1906年 にわが国の「国防方針」の必要性を上奏し、同年末に初の帝国国 防方針が確立した。  

この国防方針の確定に際して、山県は想定敵国の第1位ロシア、 第2位清国、第3位にロシアと清国の2国を挙げた。しかし、海軍との討議の末に、第1位ロシア、第2位米国、第3位フランス が想定敵国となった。このような経緯からしても、陸軍と海軍に は国際情勢の脅威認識における相違があったのである。  

日本海軍が米国を強く意識した背景には、1980年代末から 1990年代の諸島にかけての、ハワイ併合、フィリンピン占領 といった太平洋への進出に加えて、米国の「オレンジプラン」の存在があった。

日露開戦直後から、米国は陸海軍の統合会議を開 催して、世界戦略の研究に着手した。つまり、ドイツを仮想敵国 にしたのが「ブラックプラン」、イギリスに対しては「レッドプ ラン」、日本に対してはオレンジプランといったように色分けした戦争予定準備計画を策定したのである。  

オレンジプランでは、日本はフィリピンとグアムに侵略するこ とが想定された。つまり、米国が占領した太平洋の拠点を防衛す る上で、日本は想定敵国に位置付けられたていたのである。  

そして日露戦争における日本勝利によって、オレンジプランはより具体化されていくことになる。日露戦争が終った翌年の19 06年には、セオドア・ルーズベルト大統領は、軍部に対し米海 軍をすみやかに東洋に派遣する計画を命じた。その具体化事例の 一つが、1907年から1908年にかけての「白船事件」であ る(わが国の情報史24)。

こうした米国の動向に対し、海軍は「国防方針」にもとづき米国を想定敵国とし、1907年4月「用兵綱領」を策定し、来攻 する米艦隊を我が近海に向けてこれを撃滅する方針を確立した。  

その後、国防方針は1915年(第1次改定)、1923年 (第2次改定)の二度の改定を経て1936年に第3次改定を行 なうことになる。 第1次改定は、1915年にわが国が袁世凱政権に対して行な った「対華二十一カ条要求」に対して中国の対日感情が悪化したことを背景とする。この改定では、仮想敵国は第1位ロシア、第 2位米国、第3位清国となった。  

第2次改定は、帝政ロシアの崩壊(1917年)、ワシントン 海軍軍縮条約の締結(1922年)を背景とする。この改定では、 「帝国は特に米国、露国および支那の三国に対して警戒する必要がある。なかんずく近い将来における帝国国防は、わが国と衝突 の可能性が最大であり、かつ強大な国力と兵備を有する米国を目 標として、主としてこれに備える」とされた。つまり、ロシアの 崩壊により、わが国として米国が仮想敵国の第一位となったので ある。  

第3次改定は、ロンドン軍縮会議(1930年)、満洲事変 (1931年)、国連脱退(1933年)を背景として行なわれ たが、米国、ソ連(露国)、支那、英国を仮想敵国とする用兵綱 領が規定された。

▼第一次大戦後の米国の対日情勢認識  

第一次世界大戦の結果、「ブラック」のドイツは破れ、「レッ ド」の英国は疲弊した。そして、米国にとっては「オレンジ」の 日本の脅威のみが増大することになる。  

第一次世界大戦の結果、わが国は、マーシャル、マリアナおよ びカロリンといった旧ドイツ領南洋諸島を委任統治領とした。1 919年のベルサイユ会議において米国は、自らのフィリピンの防衛を損なうとして、日本の委任統治に強く反対したが、画策むなしく、日本による委任統治が認められた。  

これにより、日本は赤道以北の西太平洋を支配した。一方の米 国はハワイとアリューシャンの北東太平洋を支配し、日本の支配 した領域の西方にグアムとフィリピンを孤立した前哨拠点として 保持することになった。  

こうした情勢下、米国はますます対日脅威認識を強め、オレン ジプランの具体化を進めることになる。 1931年の満洲事変に対して米国は強く日本を批判した。1 932年1月、スチムソン国務長官は「不戦条約(ケロッグ・ブ リリアン条約)の条項と義務に反する手段によってもたらされた 事態や条約や協定を承認するつもりはない」とする方針を日中両 国に通知した。それはのちに「スティムソン・ドクトリン」と呼ばれることになる。  

ただし、米国は当面は世界恐慌への対処を重視したことから対 日経済制裁などの実力行使は行われなかった。またイギリスも事 態が満洲に限られている間は黙認するという態度をとった。これ が、わが国の満洲国の建設と地歩拡大につながった。  

そしてスティムソン・ドクトリンは、以後の米国の対日政策の 基調となり、やがてルーズベルト大統領の同ドクトリンへの支持 を表明、次いで石油と屑鉄の対日禁輸(ABCD包囲網)となり、 太平洋戦争へと向かうことになる。

▼海軍軍令部の改編  

海軍における情報を担当する機構の創設は1884年(明治1 7年)2月に遡る。当時、海軍省軍務局が廃止され、海軍省軍事 部を置いた際に、それまでに軍務局が管掌していた事務のほか、 艦隊編成(第1課)と出師準備(第2課)、海防(第3課)、諜報(第5課)を司ることになった。つまり、第5課が情報を担当 した。  

1886年には軍事部が廃止され、参謀本部海軍部が新設された。この改編にともない、海軍部第3局が諜報(情報)を担当す ることとなり、その内部構成は第1課が欧米諜報、第2課が隣邦諜報および水路地理政誌となった。このように海軍は早くから米 国に対する情報を重視した。  

その後、情報を司る海軍の機構は数回の改編を経て、満洲事変開始前には海軍軍令部第3班が情報を担当していた。第3班は第 3班長(少将)以下、第5課と第6課で編成され、第5課が欧米 列国を、第6課がソ連および支那ならびに戦史研究を担当した。  

満洲事変と上海事変を経た1932年10月、海軍軍令部の機構改編にともない、第3班は、班長直属を創設するとともに4課編成(第5、第6、第7、第8)となった。  

これにより、第3班長直属が情報計画および情報の総合などを担当し、地域別の軍事並び国情概況調査については、第5課が南北アメリカ、第6課が支那および満洲国、第7課が欧州列国を担 任することになった。なお、第8課は戦史の研究並びに編纂を担 当した。  

つまり、満洲事変以後に日米間の緊張化が高まったことで、アメリカ合衆国を含む米州を単独の課が担当することとなったのである。一方、ソ連は第7課の担当になった。  

満洲事変以後の対ソ連脅威の高まりに対しては、陸軍の情報体制の強化が図られた。1936年6月に参謀本部第2部第4課第 2班が昇格して第2部第5課となり、いわゆるソ連課が新設され た。つまり、陸軍においては、単独の課がソ連を担当することになった。

一方の米州は参謀本部第6課の、いわゆる欧米課が欧州 列国を見る一部として米国を見ていた。また、第2部長はもとよ り、欧米課長も“ソ連派”で占められ、陸軍における対米軽視の風潮があった。  このように満洲事変以後、陸軍はソ連重視、海軍は米国重視の傾向がさらに顕著になったのである。  

なお、1933年10月に海軍軍令部条令の廃止によって、従 来の班が部に改められ、第8課が廃止されたので、軍令部第3班 は軍令部第3部となり、その下に第5課、第6課、第7課がぶら 下がる体制になった。

▼米西岸における駐在員の配置  

満洲事変以後、太平洋における米艦隊の動向が、日本海軍の重 大関心事項となった。このため1932年7月、米東岸で語学の 修得や米国事情の研究に専念していた、中沢佑少佐と鳥居卓哉少佐を米太平洋艦隊の根拠地である米西岸に駐在させ、米艦隊の動 向監視、訓練状況、艦隊乗組員の対日感情の把握などを行なわせ ることとした。  

ところが、鳥居少佐は不慮の自動車事故で死亡したため、中沢少佐のみがサンフランシスコ郊外のサンマテに拠点を構えて艦隊動向の情報収集にあたった。しかし、わずか一人の駐在員が広大 な米西岸を管掌するのには無理があったため、1933年12月 から宮崎俊男少佐がロサンゼルスに着任して、中沢少佐と協力し て米艦隊の情報にあたることになった。  

その後、中沢少佐の帰国(サンマテ駐在の廃止)、シアトルへ の駐在員の新規派遣、シアトル駐在員の廃止、ロサンゼルス駐在 員の交代などを経つつ、ほそぼそと、艦隊の情報収集は継続され た。しかしながら、駐在員1名での情報収集には限界があり、め ざましい成果は確認されていない。

▼通信諜報の本格運用  

わが国の通信諜報の開始は日露戦争時期に遡る。そして海軍の通信諜報組織は、1929年初めに海軍軍令部第2班に第4課別室を新設し、きわめて少人数の暗号解読班が編成されたことが、 その濫觴(らんしょう)である。  

当時の傍受は、初め海軍技術研究所の平塚で、ついで東京通信隊橘村受信所を利用した。第4課別室の職員は、中佐×1、少佐 ×1、大尉×2、タイピスト×3であり、作業の主目標は米国と 英国の軍事通信であった。  

1932年の上海事変(第一次上海事変)において、通信諜報 の有効性が認識されことから、その組織強化が図られた。上海事 変が勃発するや、海軍は上海特別陸戦隊に対中国作業班(C作業 班)をおき、中国軍の暗号解読にあたらせた。これが上海機関 (X機関)の発端である。  

作業班は、南京政府が、わが空母を攻撃する意図のもとに、その飛行機群を杭州飛行場に集中待機させたことを探知し、我が航 空部隊をもって同飛行場を先制攻撃した。  

1933年1月、ハワイ近海で実施する大演習の通信諜報かを 実施するため、「襟裳」(タンカー)をハワイ近郊に派遣し、数 名の軍令部部員を乗艦させ、米海軍大演習に関する情報収集を実 施した。その結果、米海軍演習の構成部隊の編制や演習の経過などが判明した。  

1933年10月、海軍軍令部条令の改正によって、従来の第 2班第4課別室は第4部第10課となった。上海機関を特務機関 として同地の海軍武官の下に付属させることに改められ、A作業 班(対米)を増強した。  

1936年になると、傍受専門の受信所を新設することになり、 埼玉県大和田に大規模な受信所が開設された。当初に配置された 電信員は、予備役下士官を嘱託として採用した者がわずか9名であった。  以上、満洲事変以後の海軍の情報体制をざっと見てきたが、米 国との衝突を想定し、少しずつ対米情報体制を強化したものの、 全般的には不十分であった。

「パレートの法則」を活用しよう

▼パレートの法則とは

現在、筆者は新著出版に向けて準備を進めています。もうすでに本文を書きおわり、校正・推敲という最終段階に来ています。 いつも思うことですが、8割方が概成してから完成に持っていくまでが大変ということです。

さらには、よくよく気つけて校正・推敲しても、出版してから読者から誤字・脱字、事実関係の誤り、氏名の誤り、年代の誤りなど、いくつも指摘をいただきます。

実は、これには法則があるようです。 「パレートの法則」あるいは 「80対20の法則」あるいはといいます。 イタリアの経済学者ヴィルフレド・パレートが発見した法則で、経済において、全体の数値の大部分は、全体を構成するうちの一部の要素が生み出しているという理論です。簡単に言えば、20%が全利益の80%を生み出している、ということです。

これは次のように応用できます。

仕事の成果の8割は、費やした時間全体のうちの2割の時間で生み出している。だから、私の著作作業の8割概成は、まだ全体の2割の時間しかかかっていない。よって著作というものは終着点が見えてからが本当に遠く感じるのも道理ある。

▼パレートの法則の一般的適用

 パレートの法則はさまざまに適用できるといいます。商品の20%が全体の売り上げの80%を引き出している。20%の社員が会社利益の80%を生み出している、などです。

 したがって、成功者の2割に入る、わずか2割が大事、あと20%の努力をすれば成果が劇的に増大する、日曜日にすこしの努力をすることで大きな成果が得られるといった教訓が導きだすことができます。

 このように、「パレートの法則」は、ちょっとした努力が自分の置かれている状況を劇的に変え、他との優位性を保持するコツであるというように、ポジティブ思考に解釈されるのが一般的です。

▼パレートの筆者的運用

でも、2割をどのように捉えるかは自由です。筆者はこの法則を次のように解釈しています。

冒頭の著作を例にとりましょう。

著作作業の完成に向けた2割は大変な時間と労力がかかります。しかし、これを専門の校正者がやったらどうでしょうか。残り2割の労力でさらに8割進むことにになり、より短時間で100%に近くなります。さらに、その残りを別の人に依頼すれば、短時間でさらに100%に近づきます。

つまり、一人で物事を100%完璧におこなうことはできません。「漢字の誤記などは人格を疑われるとか」といった批判はあまり気にせずに、8割完成に精神を注力する、そして、残り2割は人と共同してやればよい、これも一つの考えです。

編集者にとってもっとも苦手な作者は、「時間を守らない」「全部自分でやろうとする」「文書の誤りを指摘すると自分流で直そうとする」、このような人だといいます。完璧主義者の陥りやすいところだと思います。

こういうことを踏まえ、「パレートの法則」から、筆者は他の人と協調して物事の完成を目指せということを教訓としています。

▼必要なことはコミュニケーション能力

現代社会が速度が勝負です。完全性よりも創造性や柔軟性がより重要となってきます。完全性に時間がかかっても、状況がすでに変化していたということも生起します。

だから、創造性を発揮して2割の労力で8割の完成を目指す。あとの2割は仲間と協調して行う。ぎゃくに仲間の仕事の完成には2割の力で支援する。こういったことが重要になると思います。

仲間との協調を成立させる最も重要な資質や能力はコミュニケーションということです。最近、コミュニケーションの重要性が取り沙汰されていますが、予測不能で不確実な時代、変化が激しい時代だからこそでしょう。

わが国の情報史(32)  昭和のインテリジェンス(その8)   ─満洲事変から日中戦争までの情報活動(1)─

▼はじめに

 前回まで、張作霖事件を題材に、主として情報の評価について述べたが、今回から、主として満洲事変がわが国の情報体制に及ぼした影響について述べることとする。

▼満洲事変から日中戦争まで

満洲事変から日中戦争までの経緯を山川出版の『詳説日本史B』より抜粋する。なお、( )内は筆者による注記である。

 関東軍は参謀の石原莞爾(いしわらかんじ)を中心として、1931年9月18日、奉天(瀋陽)郊外の柳条湖で南満洲鉄道の線路を爆破し(柳条湖事件)、これを中国軍のしわざとして軍事行動を開始して満洲事変が始まった。(中略)

 1932年9月、斎藤内閣(斎藤実、まこと)は日満議定書を取り交わして満洲国を承認した。日本政府は既成事実の積み重ねで国際連盟に対抗しようとしたが、連盟側は1933年2月の臨時総会で、リットン調査団の報告にもとづき、満洲国は日本の傀儡国家であると認定し、日本が満洲国の承認を撤回することを求める勧告案を採択した。松岡洋介ら日本全権団は、勧告案を可決した総会の場から退場し、3月に日本政府は正式に国際連盟からの脱退を通告した。(中略)

 1935年以降、中国では関東軍によって華北(チャハル・綏遠・河北・山西・山東)を国民政府の統治から切り離して支配しようとする華北分離工作が公然と進められた。(中略)

 関東軍は華北に傀儡政権(冀東防共自治委員会)を樹立して分離工作を強め、翌1936年には日本政府も華北分離を国策として決定した。これに対し、中国国民のあいだでは抗日救国運動が高まり、同年12月の西安事件をきっかけに、国民政府は共産党攻撃を中止し、内戦を終結させ、日本への本格的な抗戦を決意した。

 第一次近衛文麿内閣設立直後の1937年7月7日、北京郊外の盧溝橋付近で日中両国軍の衝突事件が発生した。いったん現地で停戦協定が成立したが、近衛内閣は軍部の圧力に屈して当初の不拡大方針を変更し、兵力を増派して戦線を拡大した。これに対し、国民政府の側も断固たる抗戦の姿勢をとったので、戦闘は当初の日本側の予想をはるかに超えて全面戦争に発展した。(引用終わり)

▼対ソ作戦計画をめぐる対立

 わが国は伝統的にソ連に対する脅威を第一においた。しかし、日露戦争後にロシアが崩壊したことで、幣原喜重郎外相時代に一時的に対ロシアの脅威が薄れた。

 しかし、1928年10月に開始された第一次5か年計画と、1929年4月から始まったソ支紛争、とくに同年11月のソ連による満洲里の占領にかみがみ、日本はソ連情報の重要性を再認識した。

 満洲事変の勃発によって、一挙にソ連情報の重要性が高まった。この事変で、日ソ両国は満洲をめぐって直接対峙することになったが、ソ連から日本に対して、1932年10月に不可侵条約の締結申し入れがあった。

 しかし、日本政府は時期尚早としてソ連の提案を受け入れなかった。この理由には共産勢力の国内浸透を恐れたからであったが、なにより陸軍の反対が強かったことが大きな原因であった。満洲を占領した陸軍の鼻息の荒さが窺える。

 不可侵条約締結に失敗したソ連は、極東ソ連軍の軍備を急速に増大した。関東軍の満洲全般における兵力配置に対し攻防いずれにも対応できるよう、1933年頃から狙撃師団や騎兵部隊を増強し、国境地帯におけるトーチカ陣地を構築した。1934年頃から戦車・飛行機の増加などの措置をとった。また、極東海軍の再建も図った。

 当時のソ連軍対関東軍の戦力比は3~4:1であったとされる。しかし、参謀本部第1部の作戦課長であった小畑敏四郎大佐は、極東ソ連軍の戦力を低く評価し、日本軍の伝統的精神要素、統帥能力の優越、訓練等の成果等を強調した。その後任の鈴木従道大佐も同意見であった。彼らは、米英や国民政府との提携により、ソ連に対する攻撃を主張した。

 これに対し、参謀本部第2部長の永田鉄山は、ソ連に対する軍事的劣勢を認識して、当面の間、ソ連との関係緩和を模索し、この間に軍近代化を図るべし、と主張した。彼らは、ソ連を西方に牽制するためのドイツ等の提携を模索し、英米や国民党軍との提携には乗り気ではなかった。

 国家戦略をめぐって第1部と第2部が対立したが、作戦至上主義のもとで第1部の案が採用され、1933年(昭和8年)に作戦計画が大きく修正され、「まず満洲東方方面で攻勢作戦をとってソ連極東軍主力を撃破し次いで軍を西方に反転して侵攻を予想するソ連軍を撃滅せんとする」ものであった。

 この作戦計画は、日本軍の戦力がソ連軍よりも優位においてこそ成り立つものであって、当初から成立しないものであった。また、第1部と第2部の対立が永田、小畑両少将を中心とする対立抗争へと発展し、後々、世間で言われる皇道派、統制派の派閥抗争へと繋がり、永田少将の暗殺事件、1936年に2.26事件を引き起こした。

▼陸軍の情報体制

満洲事変以後、陸軍の情報体制はソ連情報に対する強化が図られた。主要な変化は以下のとおりである。

1)参謀本部の組織改正

1934年初頭の参謀本部第2課の編制は以下のとおりであった。 

 第4課(欧米)

   第1班(南北アメリカおよび米国の植民地)

   第2班(ソ連、東欧、トルコ、イラン、アフガン、ルーマニア、ブルガリア、フィンランド、バルト3国、満洲)

   第3班(欧州各国および英仏伊の植民地、タイ、英の自治領)

  第5課

    第5班(暗号解読及び作)

    第6班(支那ただし満洲のぞく)

    第7班(兵用地誌、経済、資源の調査、陸地測量関係業務)

    第4班(総合)

 1936年6月に行なわれた改正では、第4課第2班が昇格し、第5課となった。いわゆるロシア課が新設された。この改正に伴い、従来の欧米情報担当の第4課が第6課に、支那情報担当の第5課が第7課になった。

 つまり、第2部の編制は、5課(ソ連)、6課(欧米)、7課(中国)と、第1班と暗号班から構成された。第1班は部長直属で、情勢に関する総合判断を行なったものと見られる。

2)関東軍総司令部の整備

 満洲事変以前の関東軍第2課(情報課)には、たいした情報収集能力はなく、関東軍の情報活動は南満洲鉄道株式会社(満鉄)の調査部に依存した。満鉄調査部は1907年に設立され、主たる任務は、満洲や北支の政治、経済、地誌等の基礎的調査・研究である。したがって、ソ連情報については不十分であった。

 満洲事変以後も、関東軍は満鉄調査部に依存していたが、ソ連軍との対峙を想定して関東軍第2課の強化を逐次にはかった。満洲事変以前の第2課の情報関心は主として北支に向けられ、支那関係者をもって要員にしていた。しかし、参謀本部第5課の新設の動きと連動して関東軍第2課もソ連専門家をもってあたられた。

3)特務機関の増設

 日本軍は1918年のシベリア出兵以後からシベリア各地に特務機関を配置していた。しかし、1922年10月末の撤兵までには逐次閉鎖され、ハルビン、黒河、満洲里のみが残され、静かに対ソ情報を収集していた。その後、黒河は1925年3月に閉鎖された。

 他方、1928年の張作霖事件が象徴するように、北支那や満洲が混沌化していた。よって特務機関の主要関心事項は支那情報であった。

 しかしながら、満洲事変以後、ソ連情報の価値が高まり、1932年に黒河が再開され、ハイラルが新設された。1933年には琿春、密山に、1934年に富錦に特務機関が新設された。これらは、琿春を除き関東軍に直属し、業務はハルビン特務機関長が統制した。

4)在外武官の新設と配置

 満洲事変以後、ソ連は国境警備と防諜態勢を強化した。そのため、日本軍は従来の密偵諜報に行き詰まりを感じ、ソ連情報の主要手段として文書諜報、科学諜報を重視した。

 また、なるべく多くの将校を合法的にソ連邦に入れる努力をした。ソ連をめぐる隣接国における公館開設と公使館附武官の配置、ソ連国内に対する駐在員の派遣、在ソ日本領事館における情報将校の配置などを行なった。

5)文書諜報の強化

 参謀本部第2部第4課第2班(ロシア班)(のちの第5課)とハルビン特務機関(のちの関東軍情報部本部)が、それぞれ文書諜報を本格的に開始した。

 1935年3月、小野打寛大尉がハルビン機関の中に、文書諜報班を設置することで本格的な公開情報分析が始まった。

 この文書諜報班は、ソ連国内の出版物をできるだけ集め、参謀本部と分担して公開情報の分析を行った。

 主に「プラウダ」「イズベスチャ」などの中央機関紙、「チホオケアンスカヤ・ズヴェズダ」「ザイバイカルスキー・ラボーティ」などの地方紙、「クラスナヤ・ズヴェズダ」「ヴォエンナヤ・ムイスリ」などの軍事専門誌を集めて丹念に分析した。

 また同組織は無線電話の傍受も行なっており、これらは音秘・音情と呼ばれていた。(小谷賢『日本軍のインテリジェンス』)

6)暗号情報の強化

 1930年5月、第2部5課(支那情報)に「暗号ノ解読及び国軍使用暗号ノ立案」の任務が付加された。これにより、第5課は4班(総合)、5班(暗号)、第6班(支那ただし満洲除く、満洲はソ連とともに第4課第2班の所掌)、第7班(併用地誌等)となった。

 1934年に関東軍参謀部第2課に関東軍特殊情報機関を設置し、新京(長春)においてソ連軍の軍事暗号を解読する任務を開始した。

 1935年に将校2人をポーランド参謀本部に将校を派遣して、1年間の暗号解読の教育を受けさせた。

上述の1936年6月の改編で、第5課4班は、暗号班となり、第2部長の直轄となった。

 1937年3月31日、暗号班が1班と改められ、所掌業務の「暗号ノ解読及び国軍暗号ノ立案」のうち「及び国軍暗号ノ立案」が削除された。及び(なお、原文は竝)が削除されたことは、この頃から暗号解読の重要性が認識されたことを意味する。

7)防諜態勢の強化

 1936年8月に陸軍省に兵務局が新設された。兵務局は防諜に関する業務を担当した。なお、これが陸軍中野学校の発足の一つの経緯となる。

1936年7月14日の「陸軍省官制改正」第15條には兵務課の任務が示され、同課は歩兵以下の各兵下の本務事項の統括、軍規・風紀・懲罰、軍隊の内務、防諜などを担当した。

同官制改正の六では、「軍事警察、軍機の保護及防諜に関する事項」が規定され、これが防諜の最初の用例だとみられる。

 1937年3月に参謀本部内に、防諜態勢の強化を図るための防諜委員が設置された。

8)ドイツとの情報提携強化

 1936年11月25日、日独防共協定の調印に伴い、諜報・謀略に関して日独情報提携を約束した。従前参謀本部第2部は在ポーランド駐在武官のソ連情報を重視していたが、本協定以後、ドイツ駐在武官のソ連情報を重視するようになった。

 当時のドイツ駐在武官は、ドイツ通の大島浩大佐であった。大島は、1921年(大正10年)以降には、断続的にベルリンに駐在し、1933年以降はドイツの政権を得ていたナチス党上層部との接触を深めた。

以上、満洲事変以後から、日中戦争にかけての陸軍の情報体制を概略みてきたが、次回は海軍の情報体制について少しだけ言及したい。

「令和」元年と天皇制について思う

▼新元号は「令和」に決定  

 新元号が「令和」に決定!元号としては248個目になります。ただし、「一世一元」の制が実施されたのは1886年の慶応から明治への改元の時からであり、それ以前は天皇の在位中にも災害などさまざまな理由で改元がおこなわれていました。ぎゃくに天皇が即位しても、元号が変わらない場合もありました。

  元号は前漢に始まり、日本への導入は645年の「大化」が始めとされます。 日本の元号は、ほとんど全てが中国古典を出典としていますが、最も多く引用されたのは『書経』です。

 しかし、新元号「令和」は、わが国の「万葉集」の梅花の歌が出典です。 「万葉集」とは、奈良時代の日本最古の歌集です。 ここには、天皇や皇族、歌人、さらには農民など幅広い階層の人々が読んだ「約4,500首」の歌が収められています。

 新元号の出典を日本古来の歌集「万葉集」の梅花の歌としたのは、ICT化、グローバル化、少子高齢化に向かう世の中で、あらゆる階層や年代層が、これら環境に押し流されることなく、それぞれの目標に向けて積極的に困難に立ち向かい、大きな花を咲かせていこうとの、願いがあると思われます。 

▼「万世一系」の継続を末永く祈願

 皇太子徳仁親王は第126代目の天皇として即位されました。

 筆者は平素より、新天皇の慎ましくて勇気ある言動、慈愛に満ちた所作など、そこに日本人としての由緒正しき血統を感じています。令和におけるわが国の発展を心から願うものです。

 永久に一つの天皇の系統が続くことを「万世一系(ばんせいいっけい)」といいます。日本の国歌、「君が代」にも万世一系の永続性が謳われています。

 令和がつつがなく発展し、万世一系の安定した継続を末永く祈願します。

▼わが国にとっての天皇制とは  

 ところで、過去125代のなかで、幕府から天皇に政権が移ったことが2回ありました。まずは1333年の「建武の中興」です。これは、鎌倉幕府を倒し、後醍醐天皇(第96代)の執政による復古的政権を樹立したものです。

 そして1867年の大政奉還です。これは、江戸幕府の徳川慶喜将軍から明治天皇に政権が奏上されました。

 両政権移管の背景をみますと、ともに外的脅威の出現によって、国内秩序に危機が起こり、国民のなかから勇士が登場し、天皇の権威にすがって国体をようやく維持した、という構図があります。

「建武の中興」は二度の蒙古襲来(元寇)が原因です。“神風”が吹き、鎌倉幕府は蒙古軍に勝利しますが、御家人たちに多大な犠牲を払わせたばかりで、財政に窮乏し、御家人に対し、ろくに恩償を与えることもできなくなります。

 一方で幕府のトップ北条高時は、田楽や闘犬に興じ、政(まつりごと)を顧みようとはせず、農民に重税を課すばかりでありました。幕府は腐敗し、御恩と奉公の秩序は崩れ、それが農民や商人に伝播し、社会は乱れていきました。

 そこで、後醍醐天皇が秩序維持の回復のために、自ら親政をおこなうことを決意したのです。

 他方の大政奉還は、1853年のペリーの黒船来航が直接の原因になります。それ以前から、外国船が各地に出没して、列強が日本に開国を迫るという状況は生起していましたが、黒船は政治中枢である江戸に直接に開国要求を突き付けたのですから、日本としては待ったなしの決断を迫られたのです。

 幕府は大いに動揺します。一方の庶民は、本来は守ってくれるはずの武士階級の無為無策、堕落した姿に不安を覚えます。幕府としても、家柄ではなく能力主義の人材登用に着手したことで、薩摩藩や長州藩から有為な先進的人材が出てくるようになります。

 これらの先進的人材から、もはや徳川幕府では新たな時代に対応できない、だから天皇の御世への復活を図ろうとの「尊王攘夷」の思想が芽生え、やがて外国にかなわないことを自覚して倒幕に向かいます。

 外国からの未曽有の脅威が発生した場合、外敵から国家を守るためには内部が一致団結するほかありません。つまり、天皇の権威のもとに国民が結集して、愛国心を発揚して、自己犠牲を顧みずに国家存続のために一心奉仕する以外に道はなかったのです。

 国家体制が危機を迎えるなか、有志は「万世一系」の天皇制によって国体を維持した、ここにわが国の天皇制の持つ意義があるのかもしれません。

▼傑出した思想家の登場

 また、国家体制が危機を迎えると、愛国心を鼓舞する傑出した思想家が登場します。これまでの国家体制で立ち行かなくなり、そのためには体制変換だけではなく思想変換も必要ということでしょう。

 思想変革をリードしたのが「建武の中興」における楠木正成であり、明治維新における吉田松陰であったのです。

 正成と松陰もともに尊王愛国の士です。時代が愛国心を、また尊王愛国の士を必要とした。つまり、激動と変革な時代が優れた思想家を誕生させたのだと思います。

▼現在のわが国が直面している脅威

 さて筆者は現在、第三の〝脅威の波〟がわが国に押し寄せていると感じています。それは、テクロノロジーとグローバリズムです。

 この二つの潮流が今後、現実の脅威となるか、それとも日本再生の好機となるかは、我々次第でしょう。

対応を誤れば、AIと外個人労働者が人々の職業を奪って、失業者が町中に溢れる。反政府デモが頻発する。

社会では所得格差が増大し、テクロノジーとグローバル化の波に乗れない人々は、倦怠感に打ちひしがれて孤立する。社会は活性力がなくなる。

 少子高齢化という負のベクトルが、さらなる追い打ちをかける。疎外された一部の老人は、世間を注目させるためにテロを起こす。国民は治安に怯える。

 このような、〝悪の未来シナリオ〟は排除されません。

〝悪の未来シナリオ〟の方向に向かうなか、すぐれた思想家は登場するのでしょうか?

 ICT社会のなかでは、とかくカリスマ経営者などが脚光を浴びて拝金主義が横行し、なかなか優れた思想家が現れる環境ではないような気もします。

 逆に、一部の者は新興宗教やイスラム過激派などのアイデンティティ探しの活路を求めているのかもしれません。

▼象徴天皇制という問題

 時代が先行き不透明で変化が激しくなれば、「象徴天皇制」という問題がいやが上にも頭を擡げてくるでしょう。

 誰しも、自分が苦境の時は、誰かに助けてほしい、心の拠り所が欲しい、そう思うものです。このことは日本だけではありません。タイでは、政治が不安定になって収拾がつかなくなれば、国王が出てきて決着をつけます。イギリスでも似たような状況があります。

 経済苦境、増税、貧富の格差、世間との断絶、外国人の流入、そうした苦しい生活環境のなかに身をおくことになるとすれぎ、国民は、「万世一系」の天皇制に心の安寧や、アイデンティティの礎を追い求めるかもしれません。

そうしたなか、皇室の行動が自由奔放に映り、そこに節度が感じられず、一方の国民が重税や自制を強いられるとした場合、どのような発想が起こり得るでしょうか?

多くの国民は天皇制の在り方に疑問を抱くかもしれません。

 戦後、「象徴天皇制」の時代が長くなるにつれ、皇室教育は多様化し、皇室の発言や行動にも変化が生まれているように感じます。これはある意味致し方ないのかもしれませんが、ICT化によるネット情報が拡大するなか、一部皇室の行動が国民の期待値から遠くなるとすれば、さまざまな〝バッシング〟が起こるでしょう。

 それが、やがて政争の論点になるかもしれません。天皇制を否定する政党も存在します。こうした状況が進展していくなか、国民全体が「象徴天皇制」に対して、どのような判断を下していくことになるのでしょうか?

【わが国の情報史(31)】昭和のインテリジェンス(その7) ─張作霖爆殺事件から何を学ぶか(3)─ 

▼はじめに

 前回までは、張作霖爆殺事件が関東軍の計画的な謀略にもとづく河本大作の犯行であるとの定説は、戦後において首謀者とされる河本の「手記」が発表されたこと、田中隆吉元少将が極東軍事裁判(東京裁判)において、河本が首謀者であるとして、当時の犯行の情況を縷々証言したことが根拠になっていること、などを述べた。

 そして上述の「手記」については河本本人が直接書いたものではないことから、情報の正確性には疑義がある。田中の人物評価や、本人が置かれた当時の環境情勢などから、田中の情報源と しての信頼性はあまり高くない、などと述べた。 今回は最初に情報の正確性について述べることとする。

▼情報の正確性  

 情報の評価は情報源の信頼性と情報の正確性を別個に評価する。 そして情報の正確性は、「誰が言ったか」ということはいったん度外視し、情報それ自体の妥当性、一貫性、具体性、関連性という 尺度で評価することになる。  

 ここでは田中元少将が東京裁判で述べた証言内容の引用につい ては割愛するが、彼の証言には、当時の国際情勢や日本政府およ び陸軍を取り巻く環境情勢から「なるほど!」と言える妥当性がある。

 「最初の証言とあとの証言が食い違っている」といったこともな く、彼の証言内容は終始一貫性がある。  

 爆発方法や関与した人物など縷縷詳細に及び具体性もある。

 「手記」を始めとする他の情報との重要な部分が一致しており、 関連性もある。  

 つまり、彼の証言について、情報の正確性からは「ほとんど真 実である」といった高レベルの評価を下すことになるであろう。 しかし、ここで注意しなければならないのは、「巧妙な嘘は、 真実よりも一貫性があるし具体性がある」という点である。

 そして、これは情報源の信頼性に関わることであるが、田中証言の“胡散臭い”と感じるところは、あまりにも多くの主要な史実を、田中自らが第一人称で直接見た、聞いたというように語っている点なのである。  そこに〝出来ストリー〟という疑惑がかかるのである。

▼コミンテルン関与説

 田中元少将の情報源としての信頼性には疑義があったにせよ、 張作霖爆殺事件にかかる情報の正確性の評価は高い。さらに、か なりの具体的な資史料が揃えられていることから、戦後から一貫 して張作霖爆殺事件に関しては河本犯行説という定説が覆ること はなかった。  

 しかし、これから述べるコミンテルン説が2000年代になり、 急浮上したことで上述の関連性に疑義が出た。そうなると情報の正確性の評価をやり直す必要が出てくる。これがインテリジェン ス理論である。  

 ここで、コミンテルン説について言及しておこう。この仮説は、 2005年、邦訳本『マオ─誰も知らなかった毛沢東』(ユン・ チアン、ジョン・ハリディ著)が発刊されたことで俄かに注目さ れた。

 同書における記述を引用しよう。 「張作霖爆殺事件一般的に日本軍が実行したとされているが、 ソ連情報機関の史料から最近明らかとなったところによると、実際にはスターリンの命令にもとづいてナウム・エイティゴンが計 画し、日本軍の仕業にみせかけたものだという」  

 これが契機となって張作霖爆殺事件の“謎解き”に火がついた。 まず同著の引用注釈から『GRU帝国』という著書が注目された。 そして、『正論』および『諸君』といった論壇誌が、同著の著者 であるドミトリー・プロホロフに対するインタビュー記事を引用する形で、〝コミンテルン説〟の特集を組んだのである。

▼コミンテルン関与説の根拠  

 加藤康男氏は2011年に『謎解き「張作霖爆殺事件」』を執筆した。同氏の著書をもとに〝コミンテルン説〟に関する記述 (要旨)を拾ってみよう。

・当時、ソ連政府は張作霖との間で鉄道条約を結んでいたが、両者の間で激しい抗争が進んでいた。反共主義を前面に押し出す張作霖側は、ロシアが建設した中東鉄道(旧東清鉄道)を威嚇射撃 したり、鉄道関係者を逮捕したりしたため、遂にOGPU(筆者 注:ソ連KGBの前身機関)は張作霖の暗殺計画を実行計画に移 す決定を下した。

・1回目は、1926年9月、奉天にある張作霖の宮殿に地雷を設置し、爆殺する計画であり、極東における破壊工作の実力者といわれたフリストフォル・サルヌインが実行計画を立案した。し かし、爆発物の運搬を担当したサルヌインの部下工作員が爆発物 を発見されて、失敗した。

・1927年4月6日、張作霖の指示によって行なわれた北京の ソ連大使館捜索と関係者の大量逮捕が動機となり、1928年初頭に2回目の暗殺計画が行なわれた。今度は、1926年から在上海ソ連副領事をカバーとする重要な諜報員ナウム・エイティゴ ン(トロツキー暗殺の首謀者、詳細は拙著『情報戦と女性スパイ』 を参照)から、サルヌインとその補佐役のイワン・ヴィナロフと いう工作員に暗殺計画が下され、爆殺に成功した。

▼英国は当時、複数の犯行説を考察していた  

 さらに加藤氏は、1928年7月3日付けの北京駐在英国公使 ランプソンによる本国外相宛ての次の公電に着目している。そこ には以下の記述がある。 「(殺意を抱く者は)ソヴィエトのエージェント、蒋介石の国民 党軍、張作霖の配信的な部下など多岐にわたる。日本軍を含めた 少なくとも4つの可能性がある。どの説にも支持者がいて、自分 たちの説の正しさを論証しようとしている」  

 こうした根拠をもとに加藤氏は、少なくとも以下の4つの説が ある旨主張する。 (1)関東軍の計画にもとづく河本の犯行 (2)ソ連コミンテルンの犯行 (3)張作霖の息子である張学良が、コミンテルンの指示を受けて、 もしくは親子の覇権争いの側面から実行 (4)河本大作や関東軍の上層部がコミンテルンにそっくり取り込 まれたうえで実行  

 これらのうち、どの仮説であった蓋然性が高いのかなど、その “謎解き”は加藤氏の秀逸なる著書に譲るとしよう。  

 ここで言うべきことは、結局のところ事件の謎は現在に至るも解明されていない。すなわち、関東軍の謀略にもとづく河本犯行説であったと断定するに足る明確な歴史的根拠はないのである (やったかもしれない)。

▼仮説を一つに絞ることの問題点  

 インテリジェンス上の問題は、加藤氏も指摘するように「一途 に河本犯行説と信じ切って問題を収束させようとした」という点 にある。 仮説を一つしか立てなければ、その仮説が外れてしまえば、もはや対応できなくなる。想定外だと、慌てふためくことになる。  

 また、仮説を一度立ててしまうと、とりあえずの仮説がアンカ ー(錨)のようになって、新たな情報が提供されても修正できな くなる。これを「アンカーリングのバイアス」という。

 さらに、一度仮説を立てると、それを証明する情報ばかり集め てしまう。これを「確証バイアス」という。  

 つまり、さしたる調査や検証なしに、張作霖事件が河本の犯行であるという唯一の仮説を立ててしまったことで、それを裏付け る具体的な資史料ばかり集めてしまい、河本犯行説を定説へと導 いた可能性がある。すなわち、バイアスによって河本犯行説が導 かれたかもしれないのである。

▼イラク戦争を教訓にした米情報機関  

 米国は、サダム・フセイン大統領が大量破壊兵器を保有してい るとの仮説に基づいて、それを肯定する情報ばかり集めて、強引 にイラク戦争へと向かった。

 その反省から、米国では「代替分析」という手法に着目し、当 然と思われている前提を疑問視して分析するという手法を取り入 れた。 この手法は、「イラクは大量破壊兵器を保有していない。フセ インは事実を話している」という前提で分析を行なうものである。  

 ここから学ぶことは、張作霖爆殺事件においても「河本は真実 を言っている。河本は犯行を行なっていない」という前提で調査 しなければならなかったということだ。そうすれば、英国のよう に複数の仮説にたどり着いたかもしれなかったのである。

▼発達していた英国の情報理論と情報体制   

 当時の日本においては、仮説は複数立てて、不確実性を低減するなどという情報理論も確立されていなかった。また、国家としての情報体制も未熟であった。  

 当時、英国は外務大臣指揮下のMI6を世界的に展開し、グロ ーバルな視点から新生ソ連の動向を把握し、共産主義の波及を危険視していた。だから英国は、張作霖爆発事件に対するソ連の関 与という仮説にすぐに辿りついた。  

 ただし、その一つの仮説に固執することなく、他の仮説を立て て、これらを検証しようとした。

 また中国大陸においてはMI6とは別個に極東担当の特務機関 MI2c(陸軍情報部極東課)を活動させていた。つまり、情報 を複数筋から入手しようとしていた。

 つまり、仮説を複数立てて検証する、複数の情報ルートを活用 して情報の正確性を高めるといった、今日では当たり前の情報理論を確立していたのである。

▼遅れていたわが国の情報理論と情報体制  

 一方のわが国の当時の中国大陸における情報活動といえば、南満洲鉄道株式会社(1906年設立、満鉄)の調査部(満鉄調査部)と1918年のシベリア出兵後の特務機関の存在が挙げられ る。  

 しかしながら、英国のような国家情報機関があったわけではな いし、満鉄調査部と特務機関がそれぞれの所掌範囲の情報活動を ほそぼそと行なっていたにすぎない。

 また国家全体として見るならば、外務大臣・幣原喜重郎の対外ソフ ト路線の影響により、新生ソ連の共産主義に対する脅威は薄れて いた。つまり、国家の情報要求が未確立であった。

 だから、水面下における共産主義勢力の急速な浸透が探知できなかったのであ ろう。 孫文が1923年頃から連ソ容共・工農扶助を受け入れたり、 1924年1月にコミンテルン工作員ミハイル・ボロディンの肝 いりで国民党と共産党の国共合作(第一次)が成立させたりする ことに無頓着であった。 そして、1927年末から、蒋介石がドイツの軍事顧問団を招 き、軍事的・経済的協力(中独合作)を進めていたことも分からなかったのである。

▼張作霖爆殺事件の教訓とは何か  

 張作霖爆殺事件の検証において、コミンテルン説は一顧だにさ れなかった。このことが、その後の中国大陸において、ゾルゲと尾崎秀実(おざきほつみ)の邂逅を見逃し、やがては来日するゾルゲにせっせっと国家重要情報を漏えいすることになった根本の原因があるのかもしれない。  

 実は、もっと大きな問題は戦後の歴史認識問題である。今日の わが国の主流の歴史認識は以下のとおりである。

「関東軍が張作霖爆殺の謀略を企てたが 失敗した。その失敗を教訓にして満洲事変の契機となる1931年9月8日の柳条湖事件の開戦謀略を成功させた。これが『軍の命脈』である命令・服従関係を基本とする軍機の破壊を意味し、 日本陸軍の没落の第一歩となった」  

 戦後、このような歴史認識が主流となってきたので、最近のコ ミンテルン説が出てきても、これを否定して受けつけようともしない。これが社会全体の趨勢である。  

 たしかに、定説を覆すのは容易ではない。これをインテリジェ ンス用語で「レイヤーイング」(多層化バイパス)という。前任者が利用した前提や 判断を、後任者が疑うことなく鵜呑みにして分析を行なうバイア スである。  

 分析の前提に間違いがあっても最初に戻って修正することは、 その後の分析をすべて否定することになるため、なかなか修正さ れないのである。

 米国の上級情報委員会と大量破壊兵器委員会は、 イラクの大量破壊兵器保有に関する情報分析で、この多層化バイ アスがあったと結論付けた。

 歴史学は実証を重んずる学問である。歴史家は真実を追求すればよいし、そうしてほしい。しかし、我々のような一般人は真実 を追求するほどの知識もなければ、技能もない。また、歴史の真実が分かったところで、現実問題の対処が変わるわけではない。

 では、 どうすればよいのか? インテリジェンスにおいては、仮説に妥当性があるのではあれば、“白黒をつける”のではなく、複数の仮説を同時に受け入れ ることが鉄則である。 なぜならば、そうした柔軟性こそが、対策としての戦略・戦術 における不確実性を低減することになるからだ。

 歴史を学び、そこには必ずしも定説があるわけではないことに気づく。複数 の仮説があるし、さまざまな見方があるならば、これを受容する。そして、複数の仮説を組み合わせて、いく つかの未来の発展方向を予測するうえでのヒントを得る。それが インテリジェンスに携わる者にとっての歴史を学ぶ意義なのだと、 筆者は考える。

 この点は、多くの方に賛同いただけるのでは ないかと思う。

わが国の情報史(30) 昭和のインテリジェンス(その6)      -張作霖爆殺事件から何を学ぶか(2)-     

▼はじめに

 前回は、張作霖爆殺事件が関東軍の計画的な謀略であるとの定説は、首謀者とされる河本大作の「手記」が戦後になって発表されたことが大きな根拠になっている、しかしながら、これは第三者によって書かれた第二次情報にすぎないことを述べた。 今回は、もう一つの関東軍犯行説の根拠となっている極東軍事裁判(東京裁判)における田中隆吉少将の証言について着目する。

▼ 田中隆吉少将の証言

 1946年5月3日から極東軍事裁判(東京裁判)が開かれた。ここで検察側の証人として証言台に立った元陸軍省兵務局長の田中隆吉(元少将)は、「関東軍高級参謀河本大作大佐の計画によって実行された」と証言した。また彼は、1931年9月の満州事変についても、「関東軍参謀の板垣征四郎、次参謀の石原莞爾が行った」旨の証言を行った。

  これにより、日本軍が行った計画的な謀略により、日中戦争、そして太平洋戦争へと向かわせ、国民の尊い命を奪った。その戦争責任は死刑をもって償うべしとの、国民世論が形成された。

 田中の口から直接された証言は第一次情報である。しかし、第一次情報といえども、常に正しいとは限らない(前回のブログを思い起こしてほしい)。 なぜならば、情報源(この場合は田中)が意図的に嘘をつくことがあるからだ。

 したがって、インテリジェンスにおいては、情報源の信頼性と情報の正確性という手順を踏まえて、しっかりと情報を評価しなければならない。とはいうものの、評価するための十分な情報があるわけでもないので、可能な限りという条件がつく。 すくなくとも、情報は無批判に受け入れるということだけは避けなければならない。

▼田中隆吉とはどんな人物か

 ヒューミント(人的情報)においては、「報告したのはどの組織の誰か」「報告者は意図的に自分の意見や分析を加味していないか」「過去の報告あるいは類似の報告から、報告者の履歴、動機および背景にはどのようなことが考えられるか」などを吟味していかなければならない。 これが情報源の信頼性を評価するということである。  

 そこで田中隆吉(1893年~1972年)とはどのような人物であったのかを簡単にみていこう。 彼は1927年7月に参謀本部付・支那研究生として、北京の張家口に駐在し、特務機関に所属した。当時、34歳であり、階級は大尉である。

 1929年8月には 陸軍砲兵少佐に昇級して帰国。参謀本部支那課兵要地誌班に異動になった。 田中が本格的に北支および満州で謀略に従事するのは1930年10月に上海公使館附武官として上海に赴任した以降のことである。

 ここでは著名な川島芳子(満州国皇帝・溥儀の従妹)と出会い、男女の仲になり、川島を諜報員(スパイ)の道に引き入れた。 1932年の第一次上海事変においては、「満州独立に対する列国の注意をそらせ」との板垣征四郎大佐の指示で、当時、上海公使館付陸軍武官補であった田中は、愛人の川島芳子の助けを得て、中国人を買収し僧侶を襲わせた(彼自身の発言から)。

 その後、田中は北支および満州で関東軍参謀部第2課の課員や特務機関長などを歴任し、帰国後の1939年1月には陸軍省兵務局兵務課長、そして1940年12月に兵務局長(憲兵の取り纏め)に就任して、太平洋戦争の開戦を迎えた。1941年6月には陸軍中野学校長も兼務した。 

 開戦時の陸軍大臣は東条英機である。当時、田中は東条から寵愛されていたという。陸軍大臣に仕える最要職の軍務局長には、1期上の武藤章(A級戦犯で処刑)が就いていた。ところが、1942年、田中は〝東条・武藤ライン〟から外され、予備役に編入された。なお、これには田中が武藤のポストを奪う画策が露呈して、左遷されたとの見方もある。     

 戦後に一介の民間人となった田中は、まもなく『東京新聞』に「敗北の序章」という連載手記を発表した。これは1946年1月に『敗因を衝く-軍閥専横の実相』として出版された。

 東京裁判の主席検事のジョセフ・キーナンらが、これらの著作から田中に着目して、1946年2月に田中を呼び出し、その後に尋問を開始した。

 東京裁判では田中は東條を指差して批判し、東條を激怒させた。 武藤においては「軍中枢で権力を握り、対米開戦を強行した」と発言した。 

 ただし、武藤は、太平洋戦争の早期終結を目指し、東條とは一線を画した。つまり、田中証言がなければ、武藤の死刑はなかった可能性が高い。 田中は、東條、武藤以外にも多くの軍人に対して不利となる証言を次々とした。その状況があまりにもすさまじく、田中に対して「裏切り者」「日本のユダ」という罵声を浴びせる者が多数いた。

▼張作霖爆殺事件と田中

 さて、1928年6月の張作霖爆殺事件の当時、田中はこの事件について、どれほど知り得る立場にいたか。彼は、北京に駐在して1年足らずであり、しかも階級は大尉にすぎない。いわば特務工作員の見習い的な存在であったとみられる。  

 他方、河本大作は関東軍の高級参謀であり、田中よりも10歳年長の45歳であった。 張作霖爆殺事件が、河本の計画的な謀略であったとするならば、その秘密はわずかな関係者にしか知らされていなかったであろう。 しかも、両者の階級差や所属の違いから考えても、河本と田中との直接的な交流は考えられない。

 つまり、田中は河本の犯行説を裏付ける第一証言者の立場にはなく、東京裁判における田中証言は伝言レベルのものと判断される。すなわち、情報源の評価としては「信頼性は低い」ということになる。

▼東京裁判における田中の情報源としての信頼性

 彼の著書『敗因を衝く』では「軍閥」の代表である東条英機と武藤章を執拗に非難している。他方、自分自身が日中戦争の早期解決や日米戦争の阻止に奔走したことを強調して、自分自身が行った上海での謀略については述べていない(のちに述べることになるが)。

 本書の記述内容から彼の性格を推測すると、執着心が強く、狡猾な一面が感じられる。 だから、「田中は自分が東條・武藤ラインから外されたことの逆恨みから、彼らに戦争責任を負いかぶせ、自分自身はキーナン検事との「司法取引」によって、処刑を回避して生き延びた」などの批判にも一理ある。

 また、検事たちが作り上げた筋書きに沿った証言を田中が行ったのは、天皇陛下の戦争責任を回避するためだったとの見解もある(作家の佐藤優氏は同見解を主張)。

 他方、東京裁判の終了後、田中は戦時中から住んでいた山中湖畔に隠棲した。ここでは、武藤の幽霊が現れたと口走るなど、精神錯乱に陥ったそうである。そして、1949年に短刀で自殺未遂を図った。その際に遺した遺書では、戦争責任の一端を感じていた記述もある。

 豪放磊落と評された田中が精神錯乱に陥ったのは、嘘の証言によって、太平洋戦争の早期終結を目指した武藤を死刑に追い込んだ、自責の念に堪えかねてのことであった可能性もある。

 いずれにせよ、田中を情報源という視点から見た場合、田中は嘘をつく、真実を秘匿する状況におかれていたことは間違いない。つまり、張作霖爆殺事件における田中の情報源としての評価は「必ずしも信頼できない」というレベルであろう。 しかしながら「彼が語った内容が真実かどうか」は、別途に「情報の正確性」という評価が必要となる。