中露は同盟に向かうのか!

はじめに

最近、中露関係が緊密化し、中露が同盟を結ぶのではないかと、 騒がれています。  

10月29日の共同通信は、「ロシアが中国に対し、ミサイル攻撃の早期警戒システムの構築を支援していることが判明、両国 が事実上の軍事同盟締結を検討しているとの見方が強まっている。 (中略)両国が同盟関係を結べば北東アジアで日米韓との対立が 深まり、日本との関係にも影響が出るのは必至」などと報じてい ます。  

今年6月、中露両国は「包括的・戦略的協力パートナーシップ」 を発展させることで合意しました。これについて表向きには「同盟ではなく、対立もせず、第三国を標的にしない新しいタイプの国家関係」と説明しましたが、一方で中露関係の専門家であるロ シア国立高等経済学院のマスロフ教授は、「両国指導部は軍事同 盟締結の方針を決定済みだ」と発言しています。  

さて、中露は今どうなっているのか、これからどうなるのでし ょうか?  これついて、11月11日発売の週刊『プレイボーイ』に、筆者と米海軍系シンクタンクで戦略アドバイザーを務める北村淳氏 が解説していますので、よろしければご覧ください。

私は、この記事のなかでも述べましたが、「同盟か、同盟でないか」を論じることよりも、現実の中露がどのような連携にあるかを見ることの方が重要だと考えています。

そこで、これまでの中露の簡単な関係と、最近の連携状況を整理しておきます。以下、現状、経緯、親密度(内面的な不信感)などに分けて述べます。

(1) 現状

まず現状を政治、経済、軍事に分けて概観します。

ア 政 治

プーチン大統領と習近平主席は、すでに20回以上の首脳会談を行っています。米中首脳会談よりも常に米露首脳会談が優位(頻度、米中首脳会談に先行)になるよう歴史的にも配慮されてきました。

たとえば、2019年6月、米中首脳会談の開催(6月29日)前に習主席は先に訪露して、北朝鮮の非核化(平和的な解決)、軍縮分野での協力、保護主義の高まりに対抗する考えを表明しました。つまり、中露は「国連を中心とする国際体制を断固として守る」として通商問題で対立するトランプ政権を牽制し、イランに対する米国の一方的な制裁への反対を表明しました。

こうした一方、中露双方ともに米国との戦略関係の構築についても重視しています。双方ともに米国を刺激しないで、自らの核心的利益を守る、そのために中露は連携しています。

 経 済

ロシアにとっては中国は圧倒的に重要ですが、中国にとってはロシアはさほど重要でないとみられています(貿易では中国はロシアの第1位,中国にはとってロシアは10位以下)。 とくにロシアは2014年以降、G8から経済制裁を受けているので、中国との経済的な連携が重要になっています。

中国の経済力は世界第2位ですが、ロシアは世界のトップ10にも入りません。中国の経済力はロシアの6倍です。

だからロシアの中国への経済的な依存が進展しています。ロシアが天然ガスや石油などを買ってくれ、中国もエネルギー輸入の多角化から、ロシアとの経済関係を維持することは都合がよいという関係です。

つまり、中国は経済原則にあえぐロシアを政治的に引き付けようとして、ロシア原油を積極的買い入れているのです[1]。最近では中国はロシア製の大豆、鶏肉も購入する計画を示し、ロシアの歓心を得ています。

中国としては、「一帯一路」の推進、米中貿易戦争といった現状の中で対米牽制のためにロシアとの戦略的な協調を重視している。その手段として経済という牌を使っているということだと思います。

しかしながら、中露の経済関係に問題がない訳ではありません。中国の企業も欧米企業との関係から、ロシアへの取引に応じないこともありますし、ロシアに対する直接投資も不十分、中央アジアにおけるロシアの経済的権益を中国が奪うなどの情況が見られています。

この点は、「後進国が先進国に不平・不満を言うが、でもその依存から脱却できない」といった状況とよく似ています。

ウ 軍 事

(ア)条約等

中露は2001年「善隣友好協力条約」[2]を締結しています。

この条約は、旧条約のように「共同防衛」については規定していませんが、第9条で「一方が侵略の脅威などを認識した場合には、双方はその脅威を除去するために協議する」ことが定められており、軍事同盟的な性格をも一部に有していると言えます。

2019年7月、中国は新たな軍事協力協定を締結したとされます。その内容は明らかにされていませんが、軍艦の寄港、士官学校学生の相互派遣などではないかとみられています。さらには軍事秘密情報の共有、合同軍事演習に関する規定が盛り込まれている可能性もあります。

最近、INF全廃条約の破棄が決定された後の、中露による共同巡回飛行の実施(後述)などから、中露が安全保障上の連携を強化する必要性から新軍事協定を締結した可能性があります。

(イ)2019年版中国国防白書における注目点

本年7月24日、中国は4年振りの国防白書(2019年版中国国防白書)を発表しました[3]

そこで中国は「世界の安定を損ねている」と米国を名指しで批判し、米国と国際社会を対立せる構図を描き、その中で他国との連携強化を図る方向性示しています。

台湾に関しては「中国の分裂を狙ういかなる勢力も絶対に許さない」「台湾を巡っても統一のため「武力の使用を放棄しない」と主張しました。

米軍艦船の台湾海峡通過などに不快感を示し、南シナ海での人工島建設 や、東シナ海の尖閣諸島周辺の艦船航行は「法に基づく国家主権の行使だ」と明示しました。

こうした海洋正面での米中の軋轢が上昇しているといった文脈のなかで、中国はロシアとは共同軍事訓練や高官の往来などで連携を強める方針をわざわざ明記したのです。これは、我の核心的利益に米国が介入してくるならば中露の連携を強化するぞ、との政治メッセージでもあります。

(ウ)共同訓練等の実施

▼上海協力機構の枠組みでの対テロ演習

中露は2005年8月、上海協力機構の枠組みで初の中露共同軍事演習「平和の使命2005」を開催しました[4]。その後、対テロ演習を名目とした「平和の使命」演習を継続的に実施しています。。

2018年にロシアで実施された「平和の使命2018」では、中国、ロシア、カザフスタン、タジキスタン、キルギスタン、インド、パキスタンで、ウズベキスタン(オブザーバー)が参加しました。中国は700人ほど派遣しました。SCOに新たに加盟したインドとパキスタンが軍隊派遣しました。これは印パ両国の独立後初となる軍事演習の同時参加とあって広く外部の注目を集めました。

「海上協力」演習

2012年からは、中露の2国間での海上での共同演習(「海上協力」演習[5])を毎年実施しています。

その内容は次第に展示的から実戦的に進化し、演習実施地域には両国にとって政治的に機微な地域(南シナ海や東シナ海、黒海、地中海など)が選ばれるようになっています(下記)。

2013年の「海上協力2013」は、中露の共同演習がはじめて日本海側で実施されました。

2016年の「海上協力2016」は中露の海兵隊による初めて共同での島嶼奪還に関する演連が行われました。これは、東シナ海、南シナ海問題などで対立する米国をけん制する狙いがみられました。

本年の「海上協力 2019」では、初めての共同による地対空ミサイルの実弾発射と、複雑な状況下での対潜戦(ASW)の訓練を行ったとされます。

「海上協力」演習の実施地域

海上協力2012 2014年4月 山東省青島付近の黄海
海上協力2013 2013年 7 月 ウラジオストク沖の日本海
海上協力2014 2014年 5 月 上海沖の東シナ海
海上協力2015(Ⅰ) 2015年 5 月 地中海東部
海上協力2015(Ⅱ) 2015年 8 月 日本海の海空域
海上協力2016 2016年9月 南シナ海
海上協力2017 2017年9月 バルト海
海上協力2018 2018年10月 南シナ海の広東州湛江
海上協力2019 2019年4月~5月 山東省青島

▼共同巡回飛行の実施

国防白書におけるロシアとの軍事訓練の強化を裏付ける形で、白書発表 の前日の7月23日、中露は両軍機によるアジア太平洋地域での初めての共同巡回飛行を行いました。

これは、中露軍爆撃機(中国軍のH6爆撃機×2機と露軍のTU95爆撃機×2機)の飛行を露軍のA50空中警戒管制機×1機と中国軍のKJ-2000空中官制機×1が共同して支援するというものだったようです[6]

韓国側によれば、露軍のA50空中警戒管制機1機が竹島(島根県隠岐の島町)上空を2回にわたり領空侵犯したとされ、中露軍爆撃機(中国軍のH6爆撃機×2機と露軍のTU95爆撃機×2機)[7]は韓国の防空識別圏(ADIZ)内に侵入しました。

これは、日韓関係が停滞しているなか、日米同盟や米韓同目の機能を探る意図があったとみられます。

中露双方ともにA50に触れず、爆撃機の行動は正常な訓練活動である旨を主張しました。

中国国防省の呉謙報道官は24日の記者会見で「中ロは互いの核心的利益を支持し実戦を想定した訓練で協力を深める」と話しました。

また、呉報道官は今回の警戒監視活動の目的を、中ロの包括的な戦略的協力関係を深め、両国軍の合同作戦能力を高めるとともに「世界の戦略的安定性を共に守る」ことだと説明。6月の中露双方による「包括的・戦略的協力パートナーシップ」の発展の実態を具体的な行動をもって示したと言えます。

他方、「今回の作戦は中露両軍の年次協力計画に沿ったもので、第三者を標的としたものではない」と述べ、無用な詮索はするなとばかり、自らに対する批判の排除と、自らの行動の正当性を喧伝しました。

軍事的には、中露双方が宇宙や地上にあるセンサーから得たデータを共通のネットワークを通じて共有するという性格のものであり、今後は爆撃機、戦闘機、戦艦や潜水艇も含んだより大きなバトルフォーメーションの実現を予見させます。

またわが国視点では、中露爆撃機の双方2機が竹島周辺の上空で合流し、さらに編隊を組み対馬海峡上空を抜けて東シナ海に入った後、尖閣諸島に向けて針路を取り、尖閣上空において領空侵犯ぎりぎりの行動を取ったとされる[8]ことが注目されます。

日本政府内には「中露が連携し、竹島と尖閣諸島という日本の領土2カ 所に連続して挑戦してきた」(防衛省関係者)との分析もあるようです。(2019.9.28 『産経新聞』)

▼中国がロシアの演習に参加

中国軍は2018年にロシアが実施する演習に初参加し、2019年にもこれを継続したことは新たな変化として注目されます。

018年の「ヴォストーク(東方)2018」はソ連崩壊後のロシアが実施した演習としては過去最大規模となりました[9]。これに対して中国軍が初参加しました。参加兵力自体は演習全体の規模から見てさほど大きなものとはいえませんが[10]、それでも中国が外国に送った陸軍の中では最大規模です。

もともと、この演習は対中戦争演習と対日米戦争演習2本立てで構成される演習であり、中国は仮想敵として扱われてきたので、それまでの仮想敵国が「友軍」として扱われるようになったこと意味したと受け止められ、国際社会に重大なインパクトを与えました。

ロシア軍は演習に先立って北方領土の択捉島に戦闘機や攻撃機を初配備していたほか、「ヴォストーク2018」の準備演習(8月20日~25日)には国後島のラグンノエ演習場が演習エリアに含まれていましたが、結局、演習本番では北方領土はエリアに含まれませんでした。これは、ロシアの対日配慮が影響した可能性が考えられます。

2019年の「ツェントル(中央)2019」にも中国軍は参加し、2年連続で中露の軍事的連携を誇示した。なお、この演習には中露が主導する上海協力機構(SCO)加盟国のインドやパキスタン、中央アジア諸国も参加しました。

中露は安全保障や貿易問題をめぐり米国と対立を深めています。自国が大 きな影響力を持つ国際的枠組みで合同軍事演習を行うことで、結束力を大きくして米国をけん制する意図を示したとみられます。

(エ)武器輸出

1990年代からロシアから中国に対する武器輸出が行われています。ロシアからSu-27、Su-30戦闘機、キロ級潜水艦、ソブレメンヌイ級駆逐艦等の新型兵器を輸入しました。中国の軍近代化はロシアからの武器輸出に支えられてきたと言っても過言でありません[11]

 ロシアは従来からインドに対して中国よりもワンランク上の武器を輸出していました。またかつてロシア製兵器の違法コピー問題(たとえばロシアのSu-27SK戦闘機を中国がJ-11Bとして勝手にコピー・改良した事案)ことから両国間に武器輸出をめぐる軋轢も生じ、一時的にロシアから中国への武器輸出が停滞したこともありました。

しかし、2014年のロシアのクリミヤ併合以降、ロシアは中国に最先端兵器の超長距離ミサイルS-400と第5世代戦闘機Su-35を売却を開始するなど[12]、両国の軍需産業間の関係は良好です。ロシアの軍需産業は中国製兵器の開発・設計に関しても幅広い協力を行っています。

なお、ロシアから中国に対する最先端技術が解禁なっている要因の一つには、ロシアが輸出を禁止しても、ウクライナが中国に最先端技術を中国に輸出するということも挙げられます。

(2)経 緯

▼ 冷戦期の当初は友好、のちに中ソ対立へと発展

中国は建国(1949年10月)翌年の1950年2月に当時ソ連と「中ソ友好同盟相互援助条約」[13]を締結(80年に失効)します。この条約では日本を仮想敵国と名指していますが、実質的には日本の米軍基地を共同で攻撃する、すなわち真の仮想敵国が米国であったことは疑う余地もないことです。

中露は1950年代半ばからのイデオロギー対立や、同年代末にソ連が原爆供与に関する対中協力を放棄[14]したことから、両国関係は悪化に向かいます。1962年の中印紛争でソ連がインドに武器援助を行ったことから両国関係は緊張化し、1969年には国境問題をめぐってウスリー江のダマンスキー島(珍宝島)で武力衝突に至りました。

1970年代に入ると中国は米国に接近します。一方の中ソ関係は停滞し たままで、1980年には中国が一方的に条約を更新しないことを通告[15]して「中ソ友好同盟相互援助条約」が失効します。

▼ ポスト冷戦で中露は最接近

1980年代に入り、改革開放政策を重視する中国はソ連との関係回復に着手します。冷戦末期の1989年5月、ゴルバチョフ大統領の訪中によって中ソ関係は約30年振りに正常化されます。一方、中露双方は米国とも経済発展を重視する関係から比較的に良好な関係を維持します。

ポスト冷戦期においては、中国がより積極的に対露関係の強化を図りました。1989年に天安門事件が生起しますが、中国が天安門事件の背後で米国が画策していたと見なします。また米国が対中経済制裁を主導したことから、中国は米国への警戒感を強めます。

1990年代に入り、湾岸戦争(1991年)、台湾海峡危機(1996年)などにより、中国は米国の一強支配(覇権主義)を警戒します。

こうした米中関係の悪化とのバランスで、中国によるソ連(ロシア)に対する接近政策が開始されることになります。

中国はロシアとの戦略的パートナーシップ(1996.4)を確立し、ロシアから最新武器を購入して、軍の近代化をはかります。ただし、中国は米国との関係も悪化しないよう米国との戦略関係にも配慮しました。

2001年、中露は善隣友好協力条約を締結し、以後両国は頻繁に首脳会談を開催し、新条約を実現するための「共同声明」の調印や「行動計画」の承認等を行いました。しかし中露は双方ともに米国への配慮から、米国を刺激しないように関係強化には慎重でした。

2001年の「9.11事件」では、中露双方ともに対テロで米国との協調関係に配慮します。

▼ カラー革命が中露の関係強化を促進

米露関係および中露関係における最初の変化の兆しは2003年頃だとみられます。2003年にグルジアに端を発するカラー革命[16]により、ロシア周辺の3か国では親ロシア系指導者が次々と欧米系に代わるという事態が生起します。ロシアはその背後における米国の介在を強く意識します。

他方の中国も中央アジアのトルコ系民族と繋がる新疆ウイグル自治区を有している関係から、民主化ドミノの阻止を狙って中央アジアにおける米国の影響力を排除する必要がありました。ここに両者の利害が一致したとみられ、その結果、中露関係は大きく前進します。

まず長年の課題であった国境画定は、2005年に完全決着します[17]

全般的な両国関係の前進とあいまって、軍事交流も急速に進展し、定期的な防衛首脳クラスなどの往来に加えて、ロシアから中国への最新兵器の輸出が加速されました。

中露両国の「反米統一戦線」の形成は、「上海協力機構(SCO)」[18]の枠組みで、中央アジアを包摂する形で展開されていきます。

2005年7月のSCO首脳会議(アスタナ会議)では、米国によるSCOへのオブザーバー参加を拒否し、キルギスから米軍の撤退を求める方向を明確に打ち出しました。さらに、イラン、インド、パキスタンのオブザーバー参加を認めました。同年8月には初の中露共同軍事演習「平和の使命2005」が開催されました(先述)。

2010年から2012年にかけて「アラブの春」という民主化運動が起こりますが、中国とロシアは共にその波及を強く警戒するとともに、背後に米国が介在しているとみなします。

このように、中露は米国主導の民主化から自国の統治体制を維持するた めには相互連携することが有利であることを強く認識しています。

▼日米との軋轢増大が中露関係を強化

2008年に中国の胡錦濤政権は増大する経済力は背景により積極的な対外戦略方針に転換します。(韜光養晦(とうこうようかい)、有所作為→堅持韜光養晦積極有所作為)

この後、アデン湾への海軍派遣などさまざまな海外活動に従事します。また、南シナ海や東シナ海での権益擁護活動や遠洋軍人訓練を活発化させます。

この文脈において、2010年9月の尖閣諸島領海内での中国漁船衝突、2012年9月のわが国による尖閣諸島国有化などにより、日中関係は緊張化します。

こうしたなか、2012年から中露両国は海軍による初の二国間合同軍事演習(「海上協力2012」)を開始したわけです。

この演習は明らかに中国による反日米統一戦線へのロシアの取り込みの様相が見られました。同演習の実施に先立ち、中国はこれを日本海上で行うとか、中露艦隊が合同で対馬海峡を抜けるのだといった「中露連携」を強く打ちだそうとし、メディアでもこれを喧伝しました。

しかし、ロシアはこうした中国の動きには乗らず、結果的に実施場所は黄海に決定されました。

翌年の「海上協力2013」演習も、中国メディアは、中露が日本海の真ん中で演習を行うような報道を繰り返しました。しかし、実際の実施エリアはウラジオストク沖のピョートル大帝湾というごく狭い範囲に限定され、日本の排他的経済水域にはみださないように配慮されたほか、訓練内容もごく限定的なものとなりました。

つまり、中国は政治的に中露連携を強く模索したが、一方のロシアは米国や日本との関係に配慮して冷静に対処したというわけです[19]

ウクライナ危機以降、中露関係はワンステージアップ

中露関係が明らかにワンランクアップしたのは2014年から2015年のウクライナ危機が契機になったとみられます。

ロシアがクリミアを併合したことに対して、欧米は連携してロシアをG8から除外して経済制裁を発動しました。これに対してロシアは中国と連携し、日本に対しては北方領土問題という〝餌〟で揺さぶりをかけるという目論みに出ます。

中国はロシアのクリミア併合を表立っては承認せず、ロシアとの交渉ではロシアを支持し、経済制裁の発動には応じませんでした。ここには、国際社会を敵に回したくないという中国のしたたかさが垣間見られました。

他方の中国も2013年頃以降から中国の南シナ海における人工島の埋め立てを開始します。これに対して米国が2015年10月に「航行の自由作戦」を展開します。さらに、2017年には英国、2018年にフランスが南シナ海での「航行の自由」作戦に参加し、本年も米国は「航行の自由作戦」を行っています。

2016年7月に仲裁裁判所が南シナ海における中国の主張を退けます。これに対して、日本は関係国などと共に中国に対し「国際法を守るよう」主張しますが、中国は日本の行動を内政干渉と一蹴し、日本がもっとも挑発的であると批判しました。

このように、ロシアが国際的孤立を強めたことで中国への接近をもたらし、中国は南シナ海での人工島作成後の西側と対立するというなかで、急速な露中接近が軍事協力の面を中心に起こったみられます。

(3)現在の「親密度」

上述のように、中露関係は2014年のウクライナ危機、2015年頃からの南シナ海における米中対立を契機に、中露の連携度は確実に高まっています。

しかしながら、親密度は表面的な連携だけではなかなか測れません。国民心理、信頼感情など表に出ない要素の検討が重要になってきます。

この点を踏まえれば、中露関係はよく「離婚なき便宜的結婚」といわれます。つまり、双方に根深い不信感があるものの打算的利害によって成り立っているので離婚はしない。しかし、相互に不信感がある以上、かつてのようなラブラブな同盟関係には至らないというわけです。

そもそも中露は共に核を保有する超大国であって、長大な国境を接しています。互いに安全保障上の懸念があるから、中露国境沿いに軍事力を配備して睨みをきかしています。

双方にとっての戦略拠点である中央アジア、北極海航路をめぐる縄張り争いもありますし、極東に住むロシア人の人口に対して、隣接する中国東北部の人口は膨大であり、出稼ぎなどを通じた“占領”状態が起きています。

ロシアには、かつては共産主義国家の兄弟国の兄として中国を指導しましたが現在では経済的に完全に逆転され、そのプライドが傷つきました。

このようなことから、ロシアは中国に対する根深い警戒感を払拭することができません。だから、これまではインドに対して中国以上のハイスペックな兵器を輸出するなど、インドとの戦略関係を重視して中国を牽制しました。つまり、中国の軍事力をインド正面に貼り付けることで自らの軍事的圧力を牽制する狙いがあったと見られます。

こうしたやり方に対して、中国も同様にロシアに対する警戒感を緩めてはいません。

以上のことは中露関係を分析する上で十分に考慮すべき要因ですが、ただし、内面的な相互不信感などいうものは外部からは、その変化が容易に判断できないため、おうおうにして誤った判断をすることになります。

だから、まずは目に見える形で中露の連携が強化されているという事実は、しつかりと押さえておくことが重要です。


[1] 2018年度の両国の貿易日24.5%増の1080億ドル(約11兆6600億)と過去最高を記録した。

[2] 2001年7月16日、江沢民国家主席(当時)とプーチン大統領とのクレムリン首脳会談において調印。1950年2月に調印された「中ソ友好同盟相互援助」にかわる中露間の新たな条約で02年から発効。新条約の有効期間は20年。でその後、どちらかが効力停止通告をしない限り、条約は5年毎に自動更新。新条約は全25条の条文からなり、政治、経済、外交などの幅広い分野での中露間の協力強化を謳っているほか、軍事面では、相互に核兵器を先制使用せず戦略核ミサイルの照準を合わせないこと、国境地域の軍事分野における信頼および相互兵力削減を強化すること、軍事技術協力を促進することなどが明記されている。第5条でロシア側による「一つの中国」原則の支持および「台湾独立」への反対が明記されている。

[3] 領土・領海については周辺国に譲歩しない姿勢で、南シナ海の諸島や沖縄県・尖閣諸島(中国名・釣魚島)は「中国固有の領土だ」と強調した。台湾を巡っても統一のため「武力の使用を放棄しない」と主張した。

[4] 中国この演習を台湾海峡に近い浙江省で実施し、台湾問題でロシアを自国の側に引き込みたかったと言われる。これに対してロシア側は内陸部の新疆ウイグル自治区での実施を主張し、最終的に山東半島が実施場所に決まった。この演習は実質的な内容に乏しい政治的ショーであるという評価が大半を占めた。

[5] 中国名で「海上連合」、日本では「海上協力」あるいは「海上連携」と翻訳されている。

[6] 両空中官制機ともロシアのイリューシンIL−76MD輸送機の派生版。

[7] Tu-95は通常、射程距離3000kmから4000kmのKh-101/102対地攻撃型巡航ミサイル(LACM)8基を搭載。これに対してH-6Kは射程距離2000kmのCJ-20対地攻撃型巡航ミサイル6基を搭載。両方のミサイルとも核弾頭を搭載可能。

[8] 「2019年版中国国防白書」では、領土・領海については周辺国に譲歩しない姿勢で、南シナ海の諸島や沖縄県・尖閣諸島(中国名・釣魚島)は「中国固有の領土だ」と強調した。台湾を巡っても統一のため「武力の使用を放棄しない」と主張した。

[9] 参加兵力は合計29万7000人、戦車を含む装甲戦闘車両約3万6000両、航空機約1000機、艦艇約80隻が動員されたという。これまでにロシア軍が実施した最大規模であったのは15万5000人を動員した「ヴォストーク2014」。ソ連時代まで遡っても1981年の「ザーパド81」以来の規模。ロシア軍の総兵力は定数101万3000人、実数は95万人以下と見られているので、総兵力の3分の1程度が参加した計算になる。

[10] 中国からの参加兵力は人員約3,200人、装備品約900点、固定翼機・ヘリコプター約30機とされる。

[11]  スウェーデンのストックホルム国際平和研究所(SIPRI)によれば、2000年から2017年にかけて中国に輸出されたロシア製兵器は約278億ドル(3兆円以上)にも上る。

[12]  2018年10月にはSU-35の追加購入が決定

[13] 本条約は前文と6か条からなり、日本および日本に同盟する国の侵略を共同で阻止する(第1条)、対日全面講和の促進(第2条)、相手国に反対する同盟・集団行動・措置への不参加(第3条)、重要な国際問題の協議(第4条)、経済・文化協力の強化(第5条)、条約の有効期間30年(第6条)などを規定している。付属協定では、中ソ共同管理の中国長春鉄道、旅順(りょじゅん/リュイシュン)・大連(だいれん/ターリエン)の海運基地の早期返還、および3億ドルの対中国経済援助を約束している。交換公文は、旧条約の失効、モンゴルの独立の再確認を明記している。

[14] 中ソ間の国防用新技術協定を破棄

[15] 中ソ対立、米中および日中国交正常化などにより有名無実化し、条約の期限切れ1年前の1979年、中国がソ連に満期後の条約廃棄を通告し、1980年4月に30年間の期間切れと同時に廃棄された。

[16] 2003年のグルジア(ジョージア)での「バラ革命」、2004年のウクライナでの「オレンジ革命」、そして2005年のキルギスでの「チューリップ革命」を指す。

[17] 2004年10月のプーチン訪中により中露国境の未画定部分について最終的に確定するための追加協定が署名され、2005年6月には追加協定の批准文書を交換した。

[18] ロシア、中国、カザフスタン、キルギス、タジキスタン、ウズベキスタン、インド、パキスタンの8カ国の協力機構。オブザーバー国はアフガニスタン、ベラルーシ、イラン、モンゴル。1996年の上海ファイブが前身。2001年6月にウズベキスタンが加わり、上海協力機構に格上げ。2001年の米同時多発テロで米ロは一時的に接近するが、2003年のイラク戦争とその後のカラー革命を経て米国との対立基調が鮮明になる。

[19] 当時、ロシアは中国との連携を強化しつつも、アジア・太平洋地域の安全歩保障へのコミットメントを同時に強化しており、米国との二国間合同海上演習や、米国主催の環太平洋多国間演習RIMPACへの初参加(2012年)、日米韓への艦艇の寄港、日米露安全保障有識者対話(毎年)といったイニシアティブを次々と打ち出していた。

わが国の情報史(44)  秘密戦と陸軍中野学校(その6)   陸軍中野学校における教育の温度差     

▼講義内容がテンデバラバラ?  

 中野学校での教育について、乙Ⅰ長期(2期生)原田統吉氏は、 『風と雲 最後の諜報将校』において、「最初に奇妙に感じた ことは、それそれぞれの講義の内容がテンデバラバラであること だ」と述べ、次のような事例を挙げている。  

 少し、長文になるが引用したい。

  「当時参謀本部の英米課の課長の杉田参謀が(筆者注:杉田一次、  すぎたいちじ、陸士37期・陸大44期。最終階級は帝国陸軍では陸軍大佐、陸自では陸上幕僚長を歴任。当時杉田氏は少佐 に昇任したばかりであるので単なる部員)、その『英米事情』 の最初の講義の時間に、英米に対する意見をワラ半紙に書かせて、生徒全員から徴収したことがあった。 これは試験などというものではなく、教官が生徒の理解や知識 の程度を掴むための参考にするデータであって、これによって 教官は講話の内容を決めたものらしい。 甲谷さん(筆者注:甲谷悦男、こうたにえつお、陸軍大佐、陸 士35期、参謀本部ソ連課参謀、ソ連大使館付武官輔、大本営戦争指導課長、ドイツ大使館付武官輔佐官、戦後は公安調査庁参事官やKDK研究所長)などは、『ソ連要人の名前を知っているだけ書け』というような問題を出し、その場でめくって見て『うん、去年の連中よりはよく知っているな……』と軽く言  い放って、講義をはじめたものである。 しかし杉田さんの場合は違っていた。見終ると、T学生を指名して、『君の英米に対する認識および判断の理由は?』と聞く。  Tがその前日、支那事情の教官から受けた講義の線に沿って説明すると、非常に不機嫌になり、他の二、三の学生にもそれと同様の質問をし、同じような答えが返って来ると益々不機嫌になり、多少の論争の後、『本日はこれで終わる』と帰ってしま った。 まだ稚(おさな)かったわれわれは軍の画一主義から抜け出しておらず、しかも参謀本部ともあろうものは、一つの認識と一つの意志とに統一されているべきものだと思っていたのだ。 要するに『諸悪の根源は英米にして、英米やがて討つべし』という先日の教官の意見は、われわれに無批判に受け入れられていたのである。 ところが、杉田参謀はその後一度も講義に来ないのである。多少の誤解もあったのだが、『あのような、単純な反英米的教育が行われているところへ講義に行っても無駄だ…』というのが理由であったらしい。杉田さんというのは後年、自衛隊の陸幕長をつとめた杉田一次氏である。  このように、実に多様の、食い違い、相反する認識と意見が、そこの教壇ではそれぞれ強い情熱とともに語られ、われわれは新しい学び方を急速に身につけなければならなかった。 この学校の最も中心的なテーマである『情報』ということば一つにしても、各人各様の解釈があつたのである」

▼杉田参謀の心中は?  

 原田氏の発言は当時の陸軍参謀部内の情勢認識や戦略判断の相 違を裏付けるものとして興味深い。 杉田氏は戦後になって『情報なき戦争指導─大本営情報参謀の 回想』を著すが、同書では、大本営(陸軍参謀本部)で仕えた1 1人の第2部長の各時代における情報活動が描かれるとともに、 当時の国家の情勢認識や戦略判断が詳細に述べられている。

 杉田氏は米国駐在経験が豊富な知米派であって、米国の国力な どを認識していたから対米戦争絶対回避の立場をとっていた。彼 は、親独派の陸軍高官や松岡外相などが日独伊三国同盟にひた走 り、それがわが国を対米英決戦へと駆り立てたとの批判的な見方 も示している。  

 海軍の山本五十六連合艦隊司令長官については、「表面的には対米戦争回避を主張するも、その実態は真珠湾の先制攻撃がやりたく て仕方なかった」というようなトーンで、その人物像を描いてい る。  

 かいつまんで言えば、杉田氏は、米国との戦争の蓋然性が高く なっても、参謀本部第2部長には米国を知らない親独派がずっと就任し、こうした歪められた恣意的な人事が、正しい情報認識を阻害し、米国との戦争に突き進んだ原因である旨を主張しているのであ る。  

 このような杉田氏であったから、前出の中野学校での講義にお ける学生の応答に対し、激しい嫌悪感あるいは諦念感を抱いたの であろう。決して、「一つの意見や情報を無批判に受け入れるな」 との、学生に対する印象教育が狙いではない。  

 原田氏は「この道においては、すべてが参考に過ぎない。自分で考え、自分で編みだし、自分で結論せよということである」と述べており、結果的に杉田氏の教育放棄から得るものがあったと 語っている。  

 他方、原田氏はロシア課の甲谷氏の温情的なエピソードと対比 して杉田氏の事例を紹介している。ここには参謀本部による中野 学校に対する期待値あるいは温度差がバラバラであることへの悲哀感の吐露もうかがえる。  

 杉田氏の著書『情報なき戦争指導』を読む限りにおいて、筆者は戦略情報に対する杉田氏の見識の高さを覚えるが、杉田氏から、諜報や謀略など、いわゆる秘密戦への関心はほとんど感じられない。同著においては秘密戦のことや陸軍中野学校に関することはほとんど触れられておらず、おそらく杉田氏は、諜報、 謀略などいうものは“邪道”としてみていたのではないだろうか。  

 筆者は平時における戦略情報こそが最も重要であり、その情勢判断こそが国家の生存・繁栄をもたらすと考えている。しかし他方で、秘密戦ともいうべき情報活動は絶対に軽視してはならないと考えている。  

 第二次世界大戦における勝利の要訣は秘密戦にあった。当時の英国首相・チャーチルは、対独戦争を優位に展開するため、米国 を第二次世界大戦の舞台に引っ張りこんでわが国と戦わせた。秘 密戦によって日独の連携を離間させた。  

 杉田氏は戦後に陸上幕僚長に就任する。戦後、陸上自衛隊において秘密戦は忌避され、諜報、防諜、謀略などの言葉も使われな くなった。この両方の相関関係については定かではないが、杉田氏が中野学校や秘密戦についてどのような認識を持っていたか、それを陸上自衛隊の運営において何らかの教訓として活用したのか、この点を聞いてみたかったなと思う次第である。  

 むろん、筆者と杉田氏の年齢差からして物理的に不可能な話ではある。

▼中野学校の創設は陸軍の総意ではなかった  

 中野学校の入校学生は全国から選りすぐりの精鋭であった。しかし、陸軍内では総力戦の趨勢と先行き不透明な時代の“寵児” として中野学校の卒業生に大いに期待する者もいれば、そうでな い者もいた。  

 陸軍上層部と中野学校関係者とでは、卒業生あるいは学校に対 する期待値に大きな温度差があったとみられる。 また参謀本部内においても作戦部門と情報部門では温度差があ り、その情報部門を所掌する参謀本部第2部の中でも中野学校への期待値は異なっていたのである。  

 そもそも参謀本部は中野学校の創設や秘密戦士の育成には全体 として乗り気ではなかったようだ。ただ参謀本部第5課(ロシア課)だけが、共産主義イデオロギーの輸出や諜報、謀略を展開するソ連の国家情報機関の恐ろしさを認識していたので、秘密戦士 の育成に積極的であったという。  

 しかし、参謀本部の第6課(欧米課)、第7課(支那課)は 「それができれば駐在武官の必要性がなくなって困る」と考えたのか、強硬に設立反対を唱えた者もいたようである (畠山『秘録 陸軍中野学校』ほか)。  

 陸軍省内では、入校した1期生と当時の兵務局長の今村均少将 との会食が行なわれたり、1期生に対する東條英機陸軍次官の校内巡視があったりなど、中野学校を重視する傾向はうかがえた。  

 しかしながら、総じて言うならば、参謀本部第5課、そして兵務局や軍務局の一部を除いては秘密戦士の育成には無関心であっ たと言わざるを得ない。だから設立費用も乏しく、当初は愛国婦 人会の建物の一部を借りて、寺子屋式で出発したのであろう。  

 教育を担当する学校関係者と陸軍上層部の思いには大きな差が あったことは筆者の経験からも「なるほどな」と思われる節があ る。詳細は割愛するが、筆者は陸上自衛隊では初めての試験選抜の情報課程(総合情報課程)の第1期学生長として入校した。

 我々に対する、学校関係者の高い心意気と、陸上幕僚監部あるい は現場の情報部隊との冷静ともいえる対応には、やはり温度差を感じた。 教育内容ひとつをとっても、学校関係者は学生に対してできる だけ多くのことを、現地研修などを通じて、現地・現物で学ばせ ようと一所懸命に尽力する。しかし、受け入れ側の上級組織や情 報組織の現場では、「保全意識も確立していない学生に対して、 秘匿度の高いものを“おいそれ”とはみせられない」ということ になる。

▼中野学校の基礎教育が功を奏した  

 中野学校の1期生たちの活躍は総じて評価が高かったようであ る。各部署から中野卒業生を多く取ってほしいとの現場の声が止 まないという。これが、後方勤務要員養成所が認知され、陸軍省直轄の中野学校、そして参謀本部直轄の中野学校として発展を遂 げた、一つの要因でもあったろう。  

 ただ、中野学校の1期生たちの卒業後の活躍が、すなわち中野学校の教育がすぐれていたというわけではない。そもそも、1年程度の教育期間をもってして素人を一人前の秘密戦士として大化(おおば)けさせることはほぼ不可能である。  

 単純には比較することはできないが、冷戦期のソ連KGBには 海外に派遣する秘密スパイを養成するための「ガイツナ」と呼ば れる特別訓練施設があったとされる。ここでは、外国人になるき るために10年以上の訓練が行なわれたとされる。  

 それに、中野卒業生に期待する役割についても一様ではなかっ た。太平洋戦争以前の1期生や2期生長期学生に期待されたのは、 『替らざる武官』であった。 しかし、中野卒業生の任務は時代変化に翻弄され、特務機関の 要員、さらには残置諜者、国内ゲリラ戦の従事者などへと変化した。つまり、教育目的の変化に対して、教育内容が追随できたのかも疑わしい。  

 それでも、各所において中野卒業生が目覚ましい働きができた とすれば、それは優秀な学生を選抜したことにつきる。そして、 学校関係者が彼らをエリート学生として尊重し、自由闊達な気風 のなかで、彼らの自主性を重んじたからである。決して画一的な 教育が功を奏したわけではないといえよう。  

 強(し)いて言えば、教育面については、秘密戦士などとして 成長するための素地を授ける基礎教育を重視したことが功を奏したのであろう。さらに言えば、情報戦士の在り方を追求した中野 学校における精神教育が、中野卒業生の中に期を超えた同志愛を 醸成し、すすんで難局な任務にあたらせたと言えよう。

ゲリラ戦と何か

▼ゲリラ戦、遊撃戦、パルチザン戦争とは

 これらは、それぞれ言語の由来する発生地をはじめ、時代、民族、対象などがそれぞれ異なり、厳密にはその意味がことなります。しかしながら、それらの差異は、本来的かつ歴史的なものであり、すでに今日ではこの種の戦いが普遍性と国際性を帯びて世界各地で広く展開されていることから、三者を区別して使い分けることなく、おおむね同じ意味の概念として扱っています。ここではゲリラ戦、あるいはゲリラについて解説します。

▼ゲリラの発祥

 テロとよく混同して使用される言葉にゲリラがあります。ゲリラの語源はフランス革命を輸出しようとしたナポレオン軍に対し、スペインの農民が起こした「国民抵抗運動」に端を発します 。同抵抗運動は農民による小戦闘によるもので、当時ゲリリヤ(guerrilla)という用語が広く流行し、これが英語に転化しました。この点に関してはテロリズムの発祥過程とは異なり、むしろナロードニキによる「抵抗運動」と類似しています。

 第二次世界大戦以前までゲリラによるゲリラ戦は「革命軍による正規戦の補助である」として位置づけられました。当時、著名な軍事戦略家のクラウゼビッツは「ゲリラ戦のみでは政治目標を達成できない」と述べました。

 しかし、第二次世界大戦後のインドネシア独立戦争、アルジェリア独立戦争、キューバ革命及びインドネシア戦争などにおいて、ゲリラ戦のみ又はゲリラ戦を主体として政治目標が達成されたことから、ゲリラ戦が注目された。

▼ゲリラ戦のそれぞれの発展

 ゲリラ戦を戦略・戦術レベルに高めたのは毛沢東の「人民戦線」及び「遊撃戦」理論です。毛沢東は都市から離れた農村ないし山岳に、革命の根拠地を設定し、土地の占領と地域住民を支配することで勢力圏を維持・拡大し、最終的に日本軍と国民党を打倒して新中国を建国しました。

 彼の「遊撃戦」理論を踏襲し、共産主義革命を成功に導いたのが、ベトナムのボー・グエンザップ、キューバ革命のチェ・ゲバラです。しかし、彼らのゲリラ戦には毛沢東と異なる点がいくつか指摘されています。

  例えば、グエンザップが活動したベトナムには中国のような広大な根拠地はありません。そこで、グエンザップはまず民衆の中に秘密組織を設定することでし組織を防衛し、次に民衆のなかで暴力行為を行うことでその残虐性を宣伝することで組織拡大をはかりました。グエンザップは、敵に通じる村の有力者や警官らを公開処刑し、敵側の無力さと権威の失墜を示威し、ゲリラ側に味方しなかった場合の報復の恐ろしさを植えつけました 。

 キューバ革命を成功に導いたゲバラは、山中の村などを根拠地として革命反軍の生存をはかる一方で、ラジオ局を開設して革命軍の勇躍を宣伝し、都市部における襲撃や暗殺を繰り返すなどの活動を行いました。また「ゲリラ戦は基本的に奇襲攻撃、サボタージュ、テロの形態をとる」として、テロはゲリラ戦の一手段であると述べました。

  ゲバラと同時期のブラジル人のカルロス・マリゲーラは、都市を基盤とする「都市ゲリラ」という概念を提唱しました。彼は「ラテン・アメリカでは政府軍が海岸に多い都市を包囲する戦略をとっているため、内陸の山岳や農村地帯から都市地域へと攻める戦略は自らの補給路を立たれるので得策ではないと考えました。つまり、都市には食料の備蓄があり、銀行に金があり、警察には武器があるので、都市でのゲリラ戦が有利である」と主張したのです。

▼ゲリラとテロの共通性

 ゲリラとテロとは共に暴力を用いた反政府闘争という共通性があります。実は、毛沢東も農村地帯でのゲリラ戦を展開する一方で、上海などの都市部においては特務組織を活用して国民党要人を暗殺するなどの暴力を繰り返していました。

 さらに、マリゲーラによって「都市ゲリラ」の概念が提起されたことで、「ゲリラ戦が根拠地を中心に地域を支配し拡大する」「テロは地域を支配することなく都市部において反政府闘争のための暴力を行う」という区分概念も不明確になりました。今日では、 テロもゲリラも国際法的に明確な定義がなされていないですから、両者を区分することは困難なのです。

▼国際社会はゲリラを容認せず

 これまで暴力を「正当な暴力」と「不法な暴力」に区分する試みが行われてきました。例えば第一次世界大戦後、イタリアのファシスト党は「革命のための暴力はテロではない」「無辜の民に向けられるのがテロである」と宣伝し、革命のための暴力は正当であることを強調しました。

 第二次世界大戦中のレジスタン運動やパルチザン活動の経験から1949年の「捕虜の待遇に関するジュネーブ条約」は、義勇兵や民兵隊に要求されているとのと同一の条件を満たす場合の「組織抵抗運動団体」の構成員、すなわちゲリラに対して捕虜待遇を認めました。つまり、ゲリラはテロリストとは異なり、武力紛争法の適用が与えられ 、一定の条件を満たせば国際法の主体となり、戦争捕虜として扱われるようになったのです。

 無論、隠密性を有力な手段として一般文民の中に紛れ、又はその支援の下でゲリラ戦を行うゲリラは、戦争捕虜としての資格を有さず、戦時犯罪として処罰を免れません。たとえば、上述の都市ゲリラが戦闘員として認められる余地はほんどないといえます。

 今日では国家が敵対者を非合法化し、敵対者への武力行使を正当化するためにテロを定義していく傾向が強くなっています。米国防省は、テロを「政治的、宗教的あるいはイデオロギー上の目的を達成するために、政府あるいは社会を脅かし、強要すべく人または財産に対し向けられた不法な武力または暴力の行使」と定義しています。

 米連邦捜査局(FBI)も「政治的又は社会的な目的を促進するために、政府、国民あるいは他の構成部分を脅かし、強要するため、人または財産に対して向けられた不法な武力または暴力の行使」と定義しています。つまり、共に「政府等に向けられる不法な行為」である点を強調しています。

 一方で、今日の世界は敵対する過激派組織に対しゲリラとしての資格を認めない方向にあります。1980年代にIRAは自らをゲリラと呼称し、英国政府に対しても自分たちをゲリラという名で呼ぶよう要求したが、英国政府はこれを拒否しました 。つまり、テロ組織に正当な地位を与えないためにテロ組織という名に固執したのです。

 最近では、ISIL(イラク・シリアのアルカイダ)なる組織が「イスラム国」を呼称して、イラクやレバノンの政府軍に対し革命闘争を展開していました。彼らは地域の獲得と住民支配を企図し、地域内での住民行政サービスなども行いました。

 この点は、毛沢東などが展開したゲリラ戦の様相と強い類似性が認められます。しかし、米国を始めとする国際社会はISILを過激派テロ組織と断定し、対テロ戦を展開しました。 我が国としても、残虐な暴力行為を繰り返しているISILに対して国際法的な保護を与えなととの立場を取、非合法なテロ組織と認定してきました。

 現在、 米国が主導する掃討作戦や、ISIL の最高指導者であるバグダディ容疑者の殺害により、ISILは消滅する科に思われます。しかし、一時期のISILの資金獲得、統治体制、巧みな宣伝戦等などは、再びISILが復活する要因でもあります。

 バグダーディーが死亡しても、第二の指導者が名乗りを上げることとなり、指導者の死亡が組織衰退にどれほど影響したのかは定かではありません。我が国はテロや国際的テロ組織の定義を厳格にして、ゲリラとの峻別を明確にしていく必要があると思われます。