未来には情報分析官は不用になるのか!

テククロジーの進化が目覚ましいなか、これまで人間にしかできないと思われていた仕事がAIやロボットなどに代わられるだろう、と予測されています。

英オックスフォード大学でAI(人工知能)などの研究を行うマイケル・A・オズボーン准教授は、今後10~20年程度で、米国の総雇用者の約47%の仕事が自動化されるリスクが高いという、研究結果を発表しています。

▼ 「雇用の二極化」現象が発生

実際、18世紀から19世紀にかけて、綿織物の機械化に端を発したイギリス産業革命では多くの機織職人が職を失いました。そして、怒り狂った失業者たちが機械を破壊する運動まで起きました。こういうこともあってか、ICTやAIが人間の職業を奪うという予測が、現在はややセンセーショナルな話題となっています。

たとえば、自動運転技術の実用化によって、タクシー運転手、宅配業者、引っ越し業者は職を失い、事故が激減することで板金業者も職を失うなどと言われています。

その一方で、AIによっても人間労働者のニーズはなくならない、またAIが新たな職業を生み出す可能性もあるという見方もあります。ICTがAIがどのような職業を奪うのかについてはさまざまな権威が予測しています。

AIなどが現在の多くの仕事を奪うことはほぼ確実とみられますが、それがどの程度なのか、何時ごろなのかについては、十人十色という感じです。

ただし、全体の方向性としては、中スキル層の雇用シェアが減少し、低スキル層と高スキル層での雇用シェアが増加するようです。つまり、事務・管理などの中スキル層の仕事は次第になくなり、ごく少数が高スキル層に移行する。ほとんどどの中スキル層は、手足を使う低スキルに移行すると予測されています。すでにOECD諸国においては、 こうした「雇用の二極化」現象が確認されているようです。

▼情報分析官も商売あがったりか?

ところで情報分析官あるいは経営コンサルタントという仕事も必要なくなるのでしょうか?

近い未来、初めての外国旅行でも、データを見れば、危険な地域を避けて、最短なルートで目的地に行って、観光やビジネスを 楽しむようになると予測されています。

これは、AI、ビッグデータと統計学などで、「いつ、いかなる場所、どのようなテロ事 件が生起するか?」といったことが瞬時に解析されてしまうとい うことです。

つまり、AIによるビッグデータの解析があれば、人による情報分析などは必要ないということです。 

▼すでにビッグデータは身近に浸透

すでに現在、AI、IoT、ビッグデータの発達により、筆者が過去にどんなものを検索したか、注文したかなどの情報はクラウドに保存されています。それを基に、アマゾンメールなどが購入商品の推薦をするようになってきました。

でもアマゾンメールは私の欲しくないものを紹介してきます。時には筆者の著書を購入するよう推奨してきます。私は買おうとして、自分の著書を検索しているのではなく、「どの程度売れているのかな」など考えて検索しているのです。しかし、AIはこのことを認識 していないようです。  

つまり、AIやビッグデータは、人の行動パターンは読めても、 人の心や意図までは読めないということなります(未来はわかりませんが)。そして心や意図は容易に変化します。

また、世の中の出来事は、善人による無意識なデータの積み上げばか りでは対応できません。たとえば、テロリストは自らの作戦が失敗 したならば、自らの行動パターンが察知されているとして、かな らず対抗策を講じようとするでしょう。

つまり、行動パターンを変える、データに偽情報を混入して操作する、 データを保有するクラウドに対してサイバー攻撃を仕掛けるなどが考えられます。敵対国家もまたしかりです。

▼情報分析官のスキルアップが必要となる

だから、安全保障の世界では依然として人間臭い、アナログ的な情報分析が必要であるし、情報分析官の仕事もなくならないと考えます。いや、なくならないと信じています。

しかし、これまでのように情報を集めてその傾向を見出すだけの分析手法に固執しているわけにはいきません。こうした分野においては、AIがどんどんと活用されていくとみられます。

だから情報分析官には、AIの対応できない多層的かつ多角的な視点での分析が求められます。そして分析の失敗を解明するために、常に複次の仮説を立てる柔軟性が求められます。

また、AIが読めない相手側の意図を探ることが求められます。このため、歴史、文化、心理、哲学などに立脚された重層な思考法を磨かなければならないと考えます。

▼佐藤一斎の格言に触発

筆者は、すでに組織の情報分析官をリタイアした身であり、まもなく60歳を迎えようとしています。しかし、「老(お)いて学べば、則ち死して朽(く)ちず。 」を座右の銘に勉強を続けたいと思います。


これは「少(わか)くして学べば、則(すなわ)ち壮にして為(な)すこと有り。壮にして学べば、 則ち老いて衰(おとろ)えず。老(お)いて学べば、則ち死して朽(く)ちず。 」の 佐藤一斎の『言志四録』からの抜出です。

つまり、老年にな ってからも学習することをやめなければ、死んだ後も自分の業績は後世にも引き継が れていく、という意味です。 筆者はインテリジェンス・リテラシーを後世に少しでも残したいのです。

佐藤一斎が42歳の時に書き始め、82歳になるまで 『言志四録』133条を書き続けたといいます。 佐藤一斎、佐久間象山、吉田松陰の師弟系譜から学ぶこと極めて多し。彼らに大いに触発されます。

インテリジェンス関連用語を探る(その3)「宣伝」及び「謀略」について


▼ 謀略の淵源

 「謀略」という言葉は中国では古代から用いられていたとみられます。ただし、中国における研究においても「謀略」という言葉の淵源には様々な見方があるようです。

 もともと「謀略」という言葉がいきなり登場したのではなく、「謀」と「略」が異なる時代に登場し、いつのまにか一体化して用いられるようになったとされます。 

中国の『説文大字典』によれば、謀の登場は略の登場よりも一千年早く登場したようです。

 同字典では、「謀」は「計なり、議なり、図なり、謨なり」とされ、古代ではこれらの言葉は非常に似通った意味で使用されました。『尚書』で謨が登場しますが、この字の形と読音が謀と似通っており、謨が謀に発展したとみられています。 

 なお「謀」が中国において最初に使用されたのは『老子』の「不争而善勝、不言而善応、不召而自来、繟然而善謀」です。

 『孫子』における「計」、「智」、「略」、「廟朝」、『呉子』における「図」などは謀の別称といえます。(以上、柴宇球『謀略論』、藍天出版社から取り纏め)

▼わが国において謀略という兵語の使用はいつから?

 総力戦研究所所長などを歴任した飯村譲中将によれば、「謀略は西洋のインドリーグ(陰謀)の訳語であり、参謀本部のロシア班長小松原道太郎少佐(のちの中将)の手によるものであって、陸大卒業後にロシア班に入り、始めて謀略という言を耳にした」ということです。

 そして、飯村中将は「日露戦争のとき、明石中佐による政治謀略に関する毛筆筆記の報告書がロシア班員の聖典となり、小松原中佐が、これらから謀略の訳語を作った」と推測しています。

 しかし、「謀略」の用例については、1884(明治17)年の内外兵事新聞局出版の『應地戰術 第一巻』「前哨ノ部」に「若シ敵兵攻撃偵察ヲ企ツルノ擧動ヲ察セハ大哨兵司令ハ其哨兵ノ報知ヲ得ルヤ直チニ之ヲ其前哨豫備隊司令官ニ通報シ援軍ノ到着ヲ待ツノ間力メテ敵ノ謀略ヲ挫折スルコトヲ計ルヘシ」という訳文があります。

 また「偕行社記事」明治25年3月第5巻の「參謀野外勤務論」(佛國將校集議録)に「情報及命令ノ傳達 古語ニ曰ク敵ヲ知ル者ハ勝ツト此言ヤ今日モ尚ホ真理タルヲ失ハサルナリ何レノ世ト雖モ夙ニ敵ノ謀略ヲ察知シ我衆兵ヲ以テ好機ニ敵ノ薄弱點ヲ攻撃スル將師ハ常ニ赫々タル勝利ヲ得タリ」という訳文があります。

 したがって、どうやら飯村中将の説は誤りのようですが、いずれにせよ日露戦争以後に謀略と言う言葉は軍内における兵語として普及したとみられます。

 ▼『陣中要務令』において「宣伝」が登場

 1889年に制定され、 日露戦争の戦訓を踏まえて1907年(明治40年)に改訂された 『野外要務令』では、「情報」及び「諜報」はわずかに確認できますが、「謀略」や「宣伝」という用語は登場しません。

 しかし、『野外要務令』の後継として、大正期に制定された『陣中要務令』では、以下の記述があります。

第3篇「捜索」第73
「捜索の目的は敵情を明らかにするにあり。これがため、直接敵の位置、兵力、行動及び施設を探知するとともに、諜報の結果を利用してこれを補綴確定し、また諜報の結果によりて、捜索の端緒を得るにつとめざるべからず。捜索の実施にありては、敵の欺騙的動作並びに宣伝等に惑わされるに注意を要する。」

第4編「諜報」第125「諜報勤務は作戦地の情況及び作戦経過の時期等に適応するごとく、適当にこれを企画し、また敵の宣伝に関する真相を解明すること緊要なり。しかして住民の感情は諜報勤務の実施に影響及ぼすこと大なるをもって上下を問わない。とくに住民に対する使節、態度等ほして諜報勤務実施に便ならしむるごとく留意すること緊要なり。」

 ここでの宣伝は、我の諜報、捜索活動の阻害する要因であって、敵によって行われる 宣伝(プロパガンダ)を意味しているとみられます。

 ▼ 「宣伝」「謀略」 がわが国の軍事用語として定着


 「宣伝」「謀略」 がわが国の軍事用語として定着したのは、1928年に制定された『諜報宣伝勤務指針』及び『統帥綱領』だとみられます。

 『諜報宣伝勤務指針』 の第二編「宣伝及び謀略勤務」では、宣伝、謀略について、用語の定義、実施機関、実施要領、宣伝及び謀略に対する防衛などが記述されています。

 同指針では、以下のように記述されています。

「平時・戦時をとわず、内外各方面に対して、我に有利な形成、雰囲気を醸成する目的をもって、とくに対手を感動させる方法、手段により適切な時期を選んで、ある事実を所要の範囲に宣明伝布するを宣伝と称し、これに関する諸準備、計画及び実施に関する勤務を宣伝勤務という。」 

「間接あるいは直接に敵の戦争指導及び作戦行動の遂行を妨害する目的を持って公然の戦闘員もしくは戦闘団体以外の者を使用して行う行為もしくは政治、思想、経済等の陰謀並びにこれらの指導、教唆に関する行為を謀略と称し、これが為の準備、計画及び実施に任ずる勤務を謀略勤務とする。」

一方の『統帥綱領』では以下のように記述されています。

第1「統帥の要義」の6
「巧妙適切なる宣伝謀略は作戦指導に貢献すること少なからず。宣伝謀略は主として最高統帥の任ずるところなるも、作戦軍もまた一貫せる方針に基づき、敵軍もしくは作戦地域住民を対象としてこれを行ない、もって敵軍戦力の壊敗等に努むること緊要なり。殊に現代戦においては、軍隊と国民とは物心両面において密接なる関係を有し、互いに交感すること大なるに着意するを要す。敵の行う宣伝謀略に対しては、軍隊の志気を振作し、団結を強固にして、乗ずべき間隙をなからしむるとともに、適時対応の手段を講ずるを要す。」

時代はやや下り、1932年の『統帥参考』では以下のように記述されています。

第4章「統帥の要綱」34
「作戦の指導と相まち、敵軍もしくは作戦地の住民に対し、一貫せる方針にもとずき、巧妙適切なる宣伝謀略を行ない、敵軍戦力の崩壊を企図すること必要なり」

以上のように、「捜索」あるいは「諜報」のように、敵に対する情報を入手するだけでなく、敵戦力の崩壊を企図する、敵の作戦指導などを妨害する、あるいは我に有利な形成を醸成する機能を持つ「宣伝」及び「謀略」が軍事用語として一般化されました。

その背景には、第一次世界大戦において、戦争が総力化、科学化、非戦場化して平時及び軍事、戦場及び非戦場において、「戦わずして勝つ」をモットーとする秘密戦が重要な要因になったことが挙げられます。

(次回に続く)

わが国の情報史(26)  昭和のインテリジェンス(その2)   ─『作戦要務令』の制定と重要「情報理論」の萌芽─       

▼『作戦要務令』の制定  

 前回は、昭和期になって作成された『統帥綱領』および『統帥 参考』を引き合いに、情報収集の手段が軍隊の行なう捜索勤務と 諜報に分けられ、戦術的情報は捜索により、戦略的情報は航空部 隊および諜報によって収集する、などについて述べた。

 今回はもう一つの軍事教典である『作戦要務令』を取り上げる。 これは、陸軍の、戦場での勤務や作戦・戦闘の要領などについて 規定した行動基準であり、少尉以上の軍幹部に対する公開教範で あった。  

 綱領、第1部、第2部、第3部、第4部に区分され、1938 (昭和13)年から1940年にかけて編纂された。  1938年9月、日中事変(1937年7月)から得た教訓を 取り入れ、『陣中要務令』(大正3年)と『戦闘綱要』の重複部 分を削除・統合して、対ソ連を仮想敵として『作戦要務令』の綱 領、第1部と第2部が制定された。1939年には第3部、19 40年には第4部がそれぞれ制定された。

▼『作戦要務令』の沿革  

 ここで簡単に『作戦要務令』の歴史を回顧しておこう。  

 徳川幕府以来、陸軍はフランスの陸軍将校を顧問として着々と した兵制の建設を行なってきたが、参謀次長・川上操六らの尽力 により、1882(明治15)年にこれを一挙にドイツ式に切り 替えた(前坂俊之『明治三十七年のインテリジェンス外交』)。  

 こうした動きにともない、陸軍教範もフランス式からドイツ式 に切り替わった。1887年、ドイツの「野外要務令」を翻訳し た『野外要務令草案』が作成され、1889年に『野外要務令』 が制定された。  

 なお、同要務令はのちに参謀次長として日露戦争の準備を取り 仕切る田村怡与造が中心になって作成し、この要務令のお蔭で日本はロシアに勝利できたとされる。

『野外要務令』は第1部「陣中要務」と第2部「秋季演習」か らなる。陣中要務とは「軍陣での勤務」、すなわち戦場勤務のこ とである。  

 第1部では、司令部と軍隊間の命令・通報・報告の伝達、捜索 勤務、警戒勤務、行軍、宿営、行李、輜重(兵站)、休養、衛生 などの実施要領などが記述された。第2部では、演習の要領、演 習の構成、対抗演習や仮設敵演習、演習の審判、危害予防などに ついて記述された。  

 同要務令は日露戦争(1904年)の戦訓を踏まえての190 7(明治40)年の改訂を経て、大正期に入り、第1部「陣中要 務」と第2部「秋季演習」がそれぞれ分離独立した。1914 (大正3)年6月に第1部が『陣中要務令』となり、これが『作 戦要務令』の基礎となったのである。 『作戦要務令』のもう一つの基礎である『戦闘綱要』について みてみよう。『戦闘綱要』は個人の徒歩教練、射撃、歩兵として の部隊の戦闘法などを記述する教範である。  

 これは1871年に「フランス式歩兵操典」として定められた ものが、まず1891年に「ドイツ式歩兵操典(1888年版)」 に翻訳したものに改訂された。この『歩兵操典』は1909年 (明治42年)に日露戦争の教訓を踏まえて再度改訂された。  1926(大正15)年に『歩兵操典』の基本事項をもとに 『戦闘綱要草案』が示され、1929(昭和4)年に『戦闘綱要』 が制定された。これが、もう一つの『陣中要務令』と合体して 『作戦要務令』になったという次第である。

▼1909年の『歩兵操典』の改正に注目  

 1909年の『歩兵操典』の改訂においては日露戦争の勝利に 自信を深めた陸軍が精神主義を強調し、攻撃精神と白兵銃剣突撃 を核とする歩兵戦術を確立した(NHK取材班『敵を知らず己を 知らず』)として、この教範改定がしばしば情報軽視によって太平洋戦争に敗北した原因として引き合いに出されるのである。  

 これに関して、筆者は明治期のインテリジェンスの総括でも述 べたが、情報は戦略情報と作戦情報に分けて論じなければなら ない、と改めて指摘しておきたい。  

 かのクラウゼヴィツは「戦争中に得られる情報の大部分は相互 に矛盾しており、誤報はそれ以上に多く、その他のものとても何 らかの意味で不確実だ。いってしまえばたいていの情報は間違っ ている」(『戦争論』)と述べていることをもう一度思い起こし てほしい(わが国の情報史(21))。  

「精神主義が情報軽視を生み、それが日中戦争、太平洋戦争へ 進み、ガダルカナルでは情報を無視して玉砕した。ここでの教範改定から軍事の独断専行が強まり、先の太平洋戦争は敗北した」  

 このように、何らかの原因を特定することで歴史に決着をつけ るといった恣意的かつ浅薄な分析が横行している点は非常に残念 である。  

 ここで精神主義は、戦場における陸軍基準としての教範改定に論をあてている。戦場における編成や装備および戦術・ 戦法の近代化を精神主義が妨げたという検証結果ならば十分な価値はある。  

 しかし、精神主義と情報軽視という短絡的な連接では何 らの教訓も生まれない。 繰り返すように情報は戦略情報と作戦情報に区分される。『統帥参考』などで示すとおり、戦略情報は国家の戦争指導や作戦指導の全局面に活用されるものである。

 だから、国家がなぜ先の無 謀な戦争に向かったのかは、軍人のみならず国家全体で作成すべ きであった戦略情報がどうだったのかの分析が第一義的に必要で あろう。  

 精神主義、白兵銃剣突撃といった一局面をとらえ、それと情報軽視を結びつけて、「軍人が精神主義によって無謀な戦争に駆り 立て、敗北した」と結論付け、すべての原因を軍事独走に押し付ける のは“お門違い”ではないだろうか?  

 戦略情報を作成すべき内閣、外務省はどうだったのか? そしてマスコミや国民はどうだったのか? これらの点もよくよく分析しなければならない。

▼情報関係の記述  

 情報関係の記述は『野外要務令』から『陣中要務令』の系譜に求められる。  明治期の『野外要務令』では、捜索という用語は随所にみられ るが、情報、諜報はそれぞれ1か所である。  

 大正期の『陣中要務令』では「情報」の使用は『野外要務令』 と比べると多少増えてはいるが、「情報」の定義および内容など を直接的に説明した箇所は見当たらない。他方で同要務令では、 「捜索」と「諜報」の定義とその内容が具体的に記述された点は 注目に値する。

 同要務令は計13編の構成になっているが、その第3編が「捜 索」、第4編が「諜報」となっており、「捜索」と「諜報」がそ れぞれ編立てされた。このような経緯を踏まえて、先述の『統帥 綱領』および『統帥参考』では、情報が捜索と諜報から構成され る、ということが体系的に整理されたのである。  

 では、『作戦要務令』では情報関連の記述はどうなっているだろうか? 『作戦要務令・第1部』(1938年版)では第3編 「情報」を編立てにし、第1章「捜索」と第2章「諜報」をそれ ぞれ章立てしている。

 記述内容は『陣中要務令』および『統帥参考』の、ほぼ“焼き 直し”という状態であり、特段に注目する条文があるわけでない。 ただし、72条に「収集せる情報は的確なる審査によりてその真否、価値等を決定するを要す。これがため、まず各情報の出所、 偵知の時機及び方法等を考察し正確の度を判定し、次いでこれと 関係諸情報とを比較総合し判決を求めるものとす。また、たとえ 判決を得た情報いえども更に審査を継続する着意あるを要す」の条文がある。

 ここでの「情報を審査して、比較総合し、判決する」というこ とは、今日のインフォメーションからインテリジェンスへの転換 のことを述べている。すなわち、情報循環(インテリジェンンス・ サイクル)という今日のもっとも重要な「情報理論」の萌芽を 『作戦要務令』に求めることができるのである。

 この点は大いに 注目すべきである。 しかし、実はこの『情報理論』の萌芽にはもう少し時代を遡る 必要がある。すなわち、ある「軍事極秘」の軍事教典に着目する 必要がある。それは1928年に作成された、幻の軍事教典とも いうべき『諜報宣伝勤務指針』である。

インテリジェンス関連用語を探る(その2) 諜報と『諜報宣伝指針』   

「諜報」という用語の源流

諜報や間諜という言葉の歴史は古く、中国では『孫子』の13編において間諜について記述しています。

わが国においても「諜報」と「間諜」の歴史は日本書紀まで遡ります。山本石樹が『間諜兵学』(1943年)に記すように、「間諜」は狭くみれば「敵情を探りてその主に報ずるもの」ということになりますが、「敵勢を不利に導き、味方を有利にならしむべき隠密行動を為すもの」という解釈が一般的でした。
[1]

「情報」は1882年の『野外陣中軌典』において初登場しますが、間諜はそれよりも古くから旧軍において登場します。1871年(明治4年)に参謀本部の前身である兵部省陸軍参謀局が設置され、その下の間諜都督使が間諜隊を統括しました。 また、同参謀局の職責は「機務密謀に参画し、地図政誌を編纂し、並びに間諜通報等の事を掌る」とされました。

1874年6月に制定された参謀局条例は、参謀局の任務と権限について[2]、諜報堤理佐官[3]を置くことが定められ、その任務として「戦時諜報の事を総理せしむ、平時に在りては事の視察すべきあるに臨んで諜を発す」と定められました[4]

つまり、「情報」が登場する以前に「諜報」は軍隊用語として存在していたのです。

海軍においても、1896年(明治29年)3月、海軍軍令部に第1局、第2局のほかに牒報課が新設されました。なお「 牒報 」は1897年(明治30年)勅令第423号から「諜報」に改められました。

 このように、わが国の参謀本部機構が形成されるなかで、「諜報」は早くからその骨格を現し始めていました。

しかし、1907年の『野外要務令』では、第13条において「諜報勤務」との用語が一ケ所出てくるだけであり、「諜報」の具体的な内容は言及されていません。

つまり、「情報」と同じく「諜報」も、明治期においては馴染みの薄い用語であったといえます。

『諜報宣伝指針』について

前回は、1914年(大正3年)の『陣中要務令』[5] と1932年の『統帥参考』及び『作戦要務令』を根拠に、情報捜索、諜報の関係が明確になったことを述べました。今回は、1928年(昭和3年)2月に陸軍参謀本部が作成した『諜報宣伝指針』を見てみましょう。

同指針は当時の諜報及び宣伝謀略などのことを専門的に記述した「軍事極秘」書であり、参謀本部第8課(謀略課)が保管していました。のちに陸軍中野学校の教範として使用されました。

構成は、第1編「諜報勤務」で、第2編「宣伝及び謀略勤務」からなります。第1編は5編からなり、計175の条文があります。そのなかに以下の条文があります。

「敵国、敵軍そのほか探知せんとする事物に関する情報の蒐集(しゅうしゅう)、査覈(さかく)、判断並びに、これが伝達普及に任ずる一切の業務を情報勤務と総称し、戦争間兵力もしくは戦闘器材の使用により、直接敵情探知の目的を達せんとするものは、これを捜索勤務と称し、平戦両時を通じ、兵力もしくは戦闘器材の使用によることなく、爾(じ)多の公明なる手段もしくは隠密なる方法によりて実施する情報勤務はこれを諜報勤務と称す。」

 ここでは、情報勤務、捜索勤務、諜報勤務の意義が定義されています。前回、『統帥参考』(1932年)及び『作戦要務令・第2部』(1936年)において、情報を得る手段が諜報と捜索からなることについては既述しました。ただし、『諜報宣伝指針』は両教典に先行していますので、『諜報宣伝指針』において、情報、諜報、捜索の関係が整理されたと見るべきでしよう。

 ここでは情報勤務は「敵国等に関する情報の収集、査覈(さかく)、判断並びに、これが伝達普及に任ずる一切の業務である」とされますが、査覈とは「調べる」という意味です。今日では使われない用語です。

中野学校卒業生・平館勝治氏によれば、参謀本部第8課から中野学校に派遣された教官である矢部中佐の謀略についての講義のなかで、講義中「査覈」と黒板に書き、「誰かこれが読めるか」と尋ねったが、誰も読める者がいなかったといいいます。

『作戦要務令』では以下の条文があります。

「収集せる情報は的確なる審査によりてその真否、価値等を決定するを要す。これがため、まず各情報の出所、偵知の時機及び方法等を考察し正確の度を判定し、次いでこれと関係諸情報とを比較総合し判決を求めるものとす。また、たとえ判決を得た情報いえども更に審査を継続する着意あるを要す。

敵情の逐次変化する過程を系統的に討究するときは、その状態、企図等を判断するの憑拠を得ることすくなからざるをもって連続的に情報を収集すること緊要なり。

既得の情報により、的確なる判決を求め得ざる場合においても、爾後速力に偵知すべき事項を判定し、もって情報収集に便ならしむるを要す。」(72条)

「情報の審査にあたりて先入主となり、或は的確なる憑拠なき想像に陥ることなきを要す。また、一見瑣末の情報いいえど全般より観察するか、もしくは他の情報 と比較研究するときは重要なる資料を得ることあり。なお局部的判断にとらわれ、あるいは 敵の欺騙、宣伝等により、おうおう大なる誤謬を招来することあるに注意するを要す。」(74条)

査覈を現代の言葉で説明すれば、その情報(インフォメーション)の情報源の信頼性や情報の正確性などを調べて評価することに相当するとみられます。

今日、インテリジェンスの世界では、情報サイクル(循環)という概念が「情報理論」として定着しています。『諜報宣伝指針』の記述内容には、すでに情報サイクルの概念、理論が盛り込まれていることに驚かされます。

わが国の軍事情報においても、戦後、米軍の教範『MILITARY INTELLIGENCE』をもとに、情報教範が作成され、そこではインテリジェンスとインフォーメーションを明確に区分し、インフォーメーションを情報資料、インテリジェンスを情報と呼称するようになりました。そして、情報資料を情報循環の過程のなかで処理して得た有用な知識が情報であり、これが伝達・配布されます。

戦後、米軍の「情報教範」から陸上自衛隊の「情報教範」を作成した、元陸上自衛隊幹部学校研究員であった松本重夫氏(陸士53期)は次のよう述べています。

「戦後、米軍の「情報教範」が理論的、体系的に記述されていたことに対し、旧軍の情報教育は“情報”をというものを先輩から徒弟職的に引き継がれていたもの程度にすぎず、「情報学」や「情報理論」と呼ばれるような教育はなかったということである」(松本重夫『自衛隊「影の部隊」情報戦)。

前出の平館氏は、以下のような発言をしています。

「私が自衛隊に入ってから、情報教育を自衛隊の調査学校でやりましたが、同僚の情報教官(旧内務省特高関係者)にこの指針を見せましたが反応はありませんでした。

 私が1952年7月に警察予備隊(後の自衛隊)に入って、米軍将校から彼等の情報マニュアル(入隊一か月位の新兵に情報教育をする一般教科書)で情報教育を受けました。その時、彼等の情報処理の要領が私が中野学校で習った情報の査覈と非常によく似ていました。

 ただ、彼等のやり方は五段階法を導入し論理的に情報を分析し評価判定し利用する方法をとっていました。それを聞いて、不思議な思いをしながらも情報の原則などというものは万国共通のものなんだな、とひとり合点していましたが、第四報で報告した河辺正三大将のお話を知り、はじめてなぞがとけると共に愕然としました。

 ドイツは河辺少佐に種本をくれると同時に、米国にも同じ物をくれていたと想像されたからです。しかも、米国はこの種本に改良工夫を加え、広く一般兵にまで情報教育をしていたのに反し、日本はその種本に何等改良を加えることもなく、秘密だ、秘密だといって後生大事にしまいこみ、なるべく見せないようにしていました。

 この種本を基にして、われわれは中野学校で情報教育を受けたのですが、敵はすでに我々の教育と同等以上の教育をしていたものと察せられ、戦は開戦前から勝敗がついていたようなものであったと感じました(『諜報宣伝勤務指針』の解説、2012年12月22日)。

 時代は遡りますが、日露戦争時、日本海海戦の大勝利の立役者・秋山真之少佐が米国に留学し、米国海軍においては末端クラスまでに作戦理解の徹底が図られていることを学習しました。

しかし、秋山は帰国後の1902年に海軍大学校の教官について教鞭したところ、基本的な戦術を艦長クラスが理解していないことに驚いたといJます。なぜならば、秘密保持の観点から、戦術は一部の指揮官、幕僚にしか知らされなかったからです。

 秋山は「有益なる技術上の智識が敵に遺漏するを恐るるよりは、むしろその智識が味方全般に普及・応用されざることを憂うる次第に御座候(ござそうろう)」との悲痛の手紙を上官にしたためました。

 なんでもかんでも秘密、秘密にする風潮は結局、昭和の軍隊においては改められなかったのです。『諜報宣伝指針』というすばらしい情報教範があったのにもかかわらず、それが改良と工夫され、情報教育の普及に反映されなかったのは残念といえます。


[1] (小野「情報という言葉を尋ねて(2)」)

[2] 「参謀局長は陸軍卿に属し、日本総陸軍の定制節度をつまびらかにし兵謀兵略を明らかにし、もって機務密謀を参画するをつかさどる。平時にあり地理をつまびびらかにし政誌をつまびらかにし、戦時に至り図を案じ部署を定め路程をかぎり戦略を区画するは、参謀局長の専任たり」とされた。大江士乃夫『日本の参謀本部』(中公新書、一九八五年)

[3] なお、初代の諜報堤理は桂太郎である。桂は1870年から3年間ドイツに留学し、帰国後に陸軍大尉に任官し、第6局勤務、ついで少佐に進級し参謀局の設置とともにその諜報堤理の職につき、75年間からドイツ公使館附武官として海外赴任し、帰国して、78年7月に再び諜報堤理に補職された。

[4] 有賀傳『日本陸海軍の情報機関とその活動』、

[5] 『野外要務令』は大正期に入り、第1部「陣中要務」と第2部「秋季演習」が分離独立し、1914年(大正3年)6月に、この第1部を基に軍隊での勤務要領を定めたものが『陣中要務令』となった。同要務令は1924年(大正13年)に改訂された。

[6]同章は第一節「騎兵集(旅)団」、第二節「師団騎兵」、第三節「斥候」に区分。

わが国の情報史(25)  昭和のインテリジェンス(その1)   ─軍事教範の制定─

▼大正期から昭和へと移行

 大正天皇は1926年(大正15年/昭和元年)12月25日
に崩御された。この時、新たな元号は「光文」と報じられたが、
誤報として「昭和」に訂正された(わが国の情報史(23))。

大正期におけるわが国の対外情勢の大きな変化の一つは、ロシ アで社会主義革命が起きて共産主義国家ソ連が誕生したことである。そのソ連はコミンテルンを結成して世界に対する共産主義革命の輸出に乗り出した。

それに対する地政学上の防波堤となったのが満洲であり、国内における共産主義の浸透を食い止める活動が諜報・防諜であった。こうした活動の中心となったのが陸軍であった。

 大正期におけるもう一つの重大な対外情勢の変化は、アメリカによる日本に対する封じ込めが顕著になったことである。アメリカは、米国内における日本人移民の排斥、海軍艦艇をはじめとする軍縮、わが国による中国進出に対する容喙(ようかい)など、さまざまな対日圧力を仕掛けてきた。

 このアメリカを仮想敵国の第1位として、将来の対米決戦を視野において準備を開始したのが海軍であった。つまり、日本陸軍と日本海軍は、異なる情勢認識の下で、軍事力の整備や軍事戦略および作戦計画を立案していったのである。

▼陸軍教範の制定

 昭和期に入り、新たな陸軍教範が制定された。つまり、いかなる戦いをするのかという用兵思想、すなわちドクトリンが固まったのである。その傑作は『統帥綱領』『統帥参考』および『作戦要務令』である。

 『統帥綱領』は1928年(昭和3年)に制定された。同綱領は日本陸軍の将軍および参謀のために国軍統帥の大綱を説いたものである。

 また『統帥綱領』を陸軍大学で講義するために使用する参考(解説)書として『統帥参考』があり、こちらの方は1932年に作成された。

 一方の『作戦要務令』は軍隊の勤務や作戦・戦闘の要領などについて規定したものである。これは少尉以上の軍幹部に対する公開教範である。

 『作戦要務令』は1938年(昭和13年)9月に制定された。これは大正期に編纂された『陣中要務令』(大正3年)と『戦闘綱要』(昭和4年)の重複部分を削除・統合するとともに、1937年の日中戦争の戦訓を採り入れ、対ソ連を仮想敵として制定された。

 なお、海軍にも『海戦要務令』があり、こちらの方は1901年に制定され、その後の日露戦争のときの連合艦隊参謀・秋山真之が改正し、大艦巨砲による艦隊決戦の思想を確定した。その後、大正期に2回、昭和期に2回改正されたが、全体が海軍機密に指定されていたので、一般には知られていない。

▼『統帥綱領』および『統帥参考』の概要

 統帥綱領や統帥参考は、将帥、すなわち将軍と参謀の心構えを規定し、国軍統帥の大綱、つまりわが国の戦略や作戦遂行の在り方を定めたものである。

 『統帥綱領』は、第1「統帥の要義」、第2「将帥」、第3「作戦軍の編組」、第4「作戦指導の要領」、第5「集中」、第6「会戦」、第7「特異の作戦」、第8「陸海空軍協同作戦」、第9「連合作戦」の全9篇176条からなる。

 『統帥綱領』は「軍事機密」書であったので、陸軍大学校卒の一部のエリートのみしか閲覧ができなかった。むろん『作戦要務令』のような公開本ではなかった。

 この綱領は、一部のエリート将校の集まりであった参謀本部が、天皇の有する統帥権を逸脱して「超法的」に日中戦争などを遂行した根拠になったという批判が強い。一方、部下統率の在り方などについては参考すべき点が多々あり、戦後のビジネス本などとしても活用されている。

 もう一つの『統帥参考』は、第1篇「一般統帥」と第2篇「特殊作戦の統帥」に分かれ、さらに第1篇は第1章「将帥」、第2章「幕僚」、第3章「統帥組織」、第4章「統帥の要綱」、第5章「情報収集」、第6章「集中」、第7章「会戦」の195条からなる(なお、第2編については割愛)。

 こちらの方は「軍事機密」に次ぐ「軍事極秘」という扱いになっている。さすがに参考書という位置づけなので『統帥綱領』に比して記述内容の具体性が随所にうかがえる。

▼インテリジェンスの視点からの注目点

 『統帥綱領』の第4「作戦指導の要領」の以下の条文が注目される。

・25、捜索は主として航空部隊及び騎兵の任ずるところとす。両者の捜索に関する能力には互いに長短あるをもって、高級指揮官はその特性及び状況に応じて、任務の配当を適切ならしめ、かつ相互の連携を緊密にならしむること肝要なり。(以下、略)

・26、諜報は捜索の結果を確認、補足するほか、縷々(るる)捜索の端緒を捉え、捜索の手段を持ってならし得ざる各種の重要なる情報をも収集し得るものにして、捜索部隊の不足に伴い、ますますその価値を向上す。(以下、略)

 つまり、この2つの条文から、捜索と諜報がともに情報を収集する手段であることがわかるのである。

 ただし、1914年の『陣中要務令』(計13編)の中の第3編「捜索」、第4編「諜報」において、すでに「捜索」と「諜報」の定義や、その内容は具体的に規定されている。

 『統帥綱領』の25条と26条は、『陣中要務令』の「捜索」と「諜報」の記述内容の要旨を抽出し、それを方面軍の統帥に適用したものであり、内容に何ら目新しさはない。

 他方の『統帥参考』では第5章「情報収集」があり、ここには次のような趣旨の内容が記述されている。要点を抜粋し、要約する。

◇「情報収集において敵に優越することが勝利の発端」「情報収集は敵情判断の基礎にして」と情報収集の重要性について記述している。しかしその一方で「情報の収集は必ずしも常に所望の効果を期待できないので、高級指揮官はいたずらにその成果を待つことなく、状況によっては、任務に基づき主導的行動に出ることに躊躇してはならない」として、敵情を詳しく知りたいがために戦機を逃してならない旨の戒(いまし)めを記述している。

◇情報を戦略的情報と戦術的情報に区分している。方面軍は主として戦略的情報、軍団は戦略的情報と戦術的情報の両者、軍内師団は主として戦術的情報を収集するとしている。

◇情報収集の手段には諜報勤務と軍隊の行なう捜索に分けている。戦術的情報は主として捜索により、これは騎兵、航空部隊、装甲部隊、第一線部隊などを使用するほか、砲兵情報班、無線諜報班、諜報機関などを適宜使用するとして、一方の戦略的情報は主として航空部隊および諜報による、と規定している。

◇諜報についてはとくに紙面を割いて規定している。「最高統帥の情報収集は作戦の効果によるほか、専(もっぱ)ら諜報による」としているほか、作戦軍においても諜報の価値は大きい旨を規定している。

◇諜報勤務の要領について、脈絡一貫した組織の下に行なう、作戦軍のための諜報機関といえどもその骨幹は開戦前より編成配置して開戦後速やかに捕捉拡張するように準備するなどを規定している。

◇諜報勤務は宣伝謀略および保安の諸勤務と密接なる関係があるとして、これらの機関に資料を提供するとともに、その成果を利用することの必要性を規定している。

明治時期以降において形成されてきた情報収集、捜索、諜報の個々の内容や相互の関係性などが、『統帥参考』の作成により、ようやく体系的に整理したといえる。