わが国の情報史(46)  秘密戦と陸軍中野学校(その8)    

-陸軍中野学校の精神養育、国体学-

はじめに

前回は中野学校卒業生に求められる精神要素について解説したが、今回はそのための精神機育、すなわち国体学について解説する。

▼吉原政巳教官による国体学とは

 第1期生から国体学の授業は行われたが、第2期生の途中からは吉原政巳教官が中野学校に赴任し、1945年8月に富岡で閉校になるまで吉原が本校での国体学の教育に携わった。  

 吉原は中野学校に来てくれないかとして勧誘された時、若干30歳(満で29歳)であった。そこで、彼は己れの未熟さを自覚したうえで全軍から選り抜きの中野学校の秀英を国士として養成する任務の重さを認識し、教育を引き受ける上で、以下の3つの提案を行った。

 1)楠公社(なんこうしゃ)を建て、朝夕ここに詣(もう)で、楠公の忠誠を偲(しのぶ)と共に、自分の魂を省察点検できるようにする。

 2)記念館(室)を設け、明治以来の先輩、秘密戦士の遺品・遺影、その他の関係資料を掲げて、ここに講堂をあてる。  

 3)単に講堂の授業で終わらず、国事に殪(たお)れた先烈の士の遺跡を訪ね、現地で精神的結晶の総仕上げを試みる。        (吉原『中野学校教育-教官の回想』)   

 以上の3つは、学校当局の賛同を得て関係者の並々ならぬ実現に向けた努力が払われた結果、予算化がなされ、めだてたく完全実施に至った。

▼楠木正成、大江氏から「孫子」を学ぶ

 楠公(なんこう)とは鎌倉時代の武将・楠木正成のことである。彼は1334年の「建武の中興」の立役者である。 当時、鎌倉幕府の長である北条高時を打倒し、天皇の権限を強化しようと後醍醐天皇が立ち上がった。そこに馳せ参じたのが、忍者の系統を持つ「悪党」のリーダー、河内の土豪であった正成であった。

 正成は、農業や商業に従事する500騎の地侍を率い、智謀を駆使して圧倒的に優勢な幕府軍に立ち向かった。そこには「孫子」の兵法を応用した悪党流のゲリラ戦法が発揮された。 正成に「孫子」は伝授したのは大江時親(ときちか、毛利時親ともいう)であるとされる。

 大江家は世々代々、兵法書を管理する家柄であった。中国からわが国に伝来した「孫子」などは、「人の耳目を惑わすもの」として大江家が厳重に管理していたのである。 大江家の初期の祖である大江維時(おおえのこれとき、888年~963年)は930年頃に唐から兵書『六韜(りくとう)』『三略』『軍勝図(諸葛孔明の八陣図)』を持ち帰った。

 大江家はこれらのほかに『孫子』『呉子』『尉繚子(うつりょうし)』などを門外不出の兵法書として管理した。 大江家第35代の大江匡房(まさふさ 1041~1111年)は、河内源氏の源義家(八幡太郎)に請われて兵法を教えた。兵法を伝授された義家は「前9年の役」(1056~1064年)、「後3年の役」(1083~1086)で奥羽の安倍氏を討伐した。 その後も「孫子」は大江家によって厳重に管理され、第42代の時親が、河内の観心寺で楠木正成に「孫子」の兵法を伝授したとされる。

▼正成に伝えられたもう一つの兵法

 正成が後世において敬仰されるようになるのは、「孫子」に裏打ちされた智謀だけではない。 後醍醐天皇のために殉死した湊川(兵庫県神戸市)における正々堂々の戦いや、「七生報告」(何度生まれ変わっても国のために尽力する」という意味)にみられる主君に対する忠誠心が人の心をとらえて離さなかったのである。

 正成は足利尊氏の軍に敗れて、「七生報告」を誓って、弟の正季(まさすえ)と刺し違えて自刃した。 こうした正成の忠誠心滅は「兵は軌道である」と説く「孫子」の解釈では説明できない。 実は、そこには匡房が確立した、わが国古来の兵法書「闘戦経」の教えがあった。匡房は「孫子」は優れた書物ではあるが、必ずしも日本の文化や伝統に合致せず、正直、誠実、協調と和、自己犠牲などの日本古来の精神文化を損なう危険性があると認識した。

 そこで自ら「闘戦経」を著し、「孫子」を学ぶ者は、同時に『闘戦経』を学ばなければならないと説いたとされる。 大江時親が楠木正成に観心寺で兵法を伝授した時、同時に「闘戦経」も伝授したと伝えられている。つまり「孫子」のわが国風土における欠落を「闘戦経」で補完したわけである。それが楠木流兵法であった。

  「闘戦経」の特徴のひとつが、戦いに勝つために、戦場における「兵は軌道なり」はあってもよいが、戦略上はすべて謀略に頼るのではなく、時には正々堂々とよく戦うことも重要である、という点である。 こうした教えの下で「湊川に戦い」において〝負け戦〟と分かっていながら、尊氏軍に対する16度の突撃が繰り返されたのである。

▼楠木正成への敬仰

 正成の忠戦は、その死後からわずか35年後に著された『太平記』によって描かれている。 吉原は、「『太平記』は正史ではなく、記事の資料にも難があるといわれる。しかし、虚実を超えた真ともいうべきものを、強く人に訴えてやまない書であり、当時の公卿から武士、庶民にいたるまで、広く読まれて、日本人の心の中に、深く影響を残してゆくのである」(吉原『中野学校教育―教官の回想』)、と述べている。

 ようするに、史実であるかどうかということよりも、いかにのちの日本人の精神や生き方に影響力を与えたかがより重要なのである。むしろ、それを知ることが歴史の本質だと筆者は考える。 約100年後の1467年には『太平記評判』が著され、正成は兵法の神様として国民の間に尊敬を高めていく。当時、足利幕府は正成を朝敵として扱っていたが、正成の死後223年(1559年)にして、その後裔の楠木正虎が朝敵の赦免を嘆願した。

 朝廷がこれを認め、正虎を河内守に復し、正五位下に除した。 江戸時代になり、水戸光圀などにより正成を敬仰(けいぎょう)する動きが全国的に起こり、楠木精神は「武士道」精神のなかに浸透していった。そして、幕末の吉田松陰を通じて志士へと受け継がれ、倒幕の精神的原動力になった。 明治以降は「大楠公(だいなんこう)」と称され、1880年(明治13年)、の明治天皇御幸の際、正成は正一位を追贈された。

▼楠公社建立の願意  

 吉原は正成を秘密戦士の理想像とした。吉原の要請を受けて、学校当局者が楠公社の設立許可を陸軍省から得て、学校から派遣した使者によって湊川神社から分霊(わけみたま)が運ばれ、学内に公社が建立された。 楠公社建立の願意は、次のとおりであった。

1)醇乎(じゅんこ、混じりけのない)たる日本人の代表としての楠公を祀り、日夜その遺烈を慕い学ぶ。

2)うぶすなの神(筆者注:生まれた土地を守護する神)とし、われ等が魂の誕生を告げ、且つ生涯に亙(わた)って、ここに魂のふるさとを持つ。

3)中野学校卒業戦没殉職者を配祀し、永くこれら英霊との語らいを続け、遺烈を継承する。

4)奇策縦横の智謀を学ぶべし、大敵・大軍にたじろかぬ不適の大勇学ぶべし、そしてそれらが由って発する所の、至忠至純の精神に、最も学ぶべし。

▼記念室での正座と座禅  

 記念室には身近い先覚の遺影をかかげ、先覚の遺品が展示された。また図書室には、できるだけ多くの関係図書が揃えられた。日清戦争前における民間有志の奮起や東亜同文会などの活躍を描いた『東亜先覚志士記伝』、日露戦争時の『明石元二郎伝』、菅沼貞風の『新日本の図南の夢』などがよく閲覧された。  

 先覚の遺影には、日清・日露戦争時に大陸で情報活動に従事した、荒尾静、根津一、岸田吟香、浦敬一、菅沼貞風、沖禎介、横川省三らのほか、中野学校における秘密戦士の理想とされた明石元二郎の遺影がかかげられた。  

 記念室は畳敷きであり、ここを講堂として学生は各人が小さな机に向かって、座布団なしで正座し、国体学の教育を受講した。すなわち、吉田松陰が塾生に講義するスタイルが取られたのである。  

 吉原は、「自分は和服だし正座は慣れていたが、学生諸氏は窮屈な背広を着用し、若くて張り切った大腿であったから、不慣れな正座は苦痛そのものであったとろう」との感想を述べている。  

 その上で、吉原は「しかし私は、何の躊躇もなく正座を要求した。正座の苦痛のために、私の講義が耳に入らないこともあるのは、十分考えられることであったが、それでもあえて正座講義を行った。人間の意志伝達は、耳や眼など以上に、体全体で受け入れる方が大事と疑わなかったからである。」と述べている。 実際に卒業生からはこの正座の厳しさが、戦後になっても懐かしい思い出ともなり、昔話しに花を咲かせたようだ。

 他方、2期生は夏休みを利用して、自主的に三浦半島の禅寺で1週間の座禅を研修し、精神修養におおきな成果があったとされている。自ら苦行を実践して、精神修練につとめたというわけだ。

 今日、暴力や強要がタブー視される傾向がより顕著となっている。よって正座の強要などは精神修養の手段とはなりえまい。しかし、人間は安きに流れるものである。精神面の鍛錬に肉体的な苦痛を伴うことは、時と場合によっては必要なのかもしれない、このようにふっと考えることもある。

▼国体学の柱が楠木精神を学ぶこと

 国体学とは、わが国の由緒正しい国家の体制を歴史的に学ぶ学問である。  

 吉原が活用した教材には、南北朝時代において北畠親房が記した『神皇正統記』、江戸時代において日本固有の儒学を確立した山崎闇斎の『崎門学』(きもんがく)、水戸藩の藤田東湖の『弘道館記述義』、そして吉田松陰の『講孟箚記』(こうもうさつき)などがある。

 また、学生の卒業に際しては、先烈の遺跡を訪れる「国体学現地演習」が行われた。この研修では、吉野、笠置、赤坂、千早、湊川、鎌倉等の楠木正成のゆかりの地、幕末の水戸藩の史跡、吉田松陰が獄中生活を送った伝馬町獄跡や松陰の墓がある小塚原回向院(えこういん)など、幕末志士たちのゆかりの跡を訪ねて国事に殉ずる精神の陶冶がはかられた。 これら教材や研修先から、時代を超えた楠木精神の伝承を学ぶことが国体学のひとつの柱であったようにみられる。 正成の後醍醐天皇に対する忠義と永遠に変わらぬ誠の心、そして彼の生きざまは、江戸時代の「水戸のご老公」こと水戸光圀の研究対象とされて、武士の鑑としてもてはやされた。  

 光圀は、歴代天皇を扱った歴史書『大日本史』を編纂(へんさん)するなかで、南朝と北朝に天皇がそれぞれ並び立つ14世紀の南北朝時代において、南朝の後醍醐天皇を正統とする立場をとった。すなわち、北畠親房の『神皇正統記』の正統性を認めた。

 光圀は1692(元禄5)年12月、正成の墓があった湊川に墓碑(楠公碑)を建立した。碑面に自筆揮毫で「嗚呼(ああ)忠臣楠子(なんし)之墓」と刻んだ。 以後、水戸藩の学問「水戸学」を通して藩内には正成の精神がいきわたる。その中心人物が会沢正志斎(1782~1863)と藤田東湖(1806~1855)である。そのうち東湖が書いたものが、教材となった『弘道館記述義』である。 水戸藩士は尊王攘夷を掲げ、幕府の大老、井伊直弼(なおすけ)を襲撃した桜田門外の変を起こした。この際の精神的支柱になったのも正成であった。

 楠木精神の継承者として忘れてはならないのが士道を確立した山賀素行である。素行は『楠正成一巻書』(1654年)の序文を執筆し、「忠孝は武士の励む最もたる徳で、非常に難しいが、歴史上もっとも忠孝を尽したのは楠木正成・正行しかいない」 と述べた。

 素行は士道において「誠」を強調した。その思想が吉田松陰や乃木希助へと継承された。なお、松陰は著書『武教講録』のなかで素行を「先師」と尊敬しているが、松陰と素行とは時代が200年ほどことなるので直接な交流はない。 松陰もまた、湊川神社の正成の墓所を訪問(1851年)するなど、正成を敬仰した。そして松陰は水戸の会沢正志斎と藤田東湖と交流し、尊王思想に感化を受けた。 このようにして、楠木精神が山鹿素行や水戸藩によって継承され、松陰によってその精神がなお高められ、高杉晋作、桂小五郎などを動かして明治維新を成し遂げたのであった。

 こうした正成の思想が伝授されるなかで、「謀略は誠なり」の言葉の発祥とともに、正成が太平洋戦争期における秘密戦士の精神的支柱になっていったと考えられる。 かくして中野学校において楠公社が建立され、そこで学生は座禅を組み、精神修養に日夜は励んだ。こうして中野学校に教えに日本の伝統的な「誠」の精神が注入されたのである。

 米軍は太平洋戦争時、わが国に対して無差別爆撃を実施した。これは「孫子」の第12編「火攻」である。 しかし、中野学校卒業生は、アジア解放の戦士となることを目指した。彼らは、「孫子」の知恵の戦いは踏襲したが、『孫子』とは一線を画する「闘戦教」の教えに根差した「誠」の心を持ってアジアの人々と接した。 それゆえに、彼らの行動はアジアの人々の琴線に触れたのである。

投稿者:

atsumori

元防衛省情報分析官。1960年広島県生まれ。退職後、ほそぼそとインテリジェンス・リテラシーの普及活動を開始。著書、『情報戦と女性スパイ』『中国戦略“悪”の教科書』、『中国が仕掛けるインテリジェンス戦争』、『戦略的インテリジェンス入門』など。その他、講演、雑誌投稿など。

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