わが国の情報史(18) 

明治最高のインテリジェンス将校

明治の軍政・軍令のオールスターズ

柴五郎

明治時代の軍政・軍令のオールスターズは戦国時代の武将オールスターズと同様に、愛国心、個性、人間的魅力、戦略眼、情報センスなど、なにをとっても傑出した強者ぞろいである。

現在、米中関係、米朝関係が変動期にあるが、それにともないわが国も対中政策や対北朝鮮政策をどのように規定していくのかの岐路に立ちつつある。

今の世の中に、彼らの一人でも現存していたならば、わが国はどうなっただろうか?そして、わが国が直面している難局にいかなる意思決定を下すのか、実際に見てみたいきがする。

まず筆者独自の選択で、最初に明治の軍政・軍令における偉人を列挙したい。

・第一世代(幕末維新の功労者) 勝海舟(1823~1899)、西郷隆盛(1828~1877)、大久保利通(1830~1878)、木戸孝允(1833~)、坂本龍馬(1836~1867)

・第二世代(日清戦争の功労者) 山県有朋(1838~1922)、樺山資紀(1837~1922)、大山巌(1842~)、伊藤博文(1841)、陸奥宗光(1844~1897)

・第三世代(日露戦争の功労者) 桂太郎(1848~1913)、川上操六(1848)、乃木希典(1849~1912)、山本権兵衛(1852〜1933)、福島安正(1852~1919)、児玉源太郎(1852~1906)、田村恰与造(1854~1903)、明石元二郎(1864~1919)

日清戦争の功労者

日清戦争開戦時の組閣の主要メンバー(主として軍政・軍令)は、総理大臣・伊藤博文(52歳)、外務大臣・陸奥宗光(49歳)である。 戦後の下関条約においても、日本側代表としてこの両名が清国側の李鴻章との交渉に臨んだ。

他方、陸海軍に目を転じてみると、陸軍省は陸軍大臣・大山巌(大将、51歳)、陸軍次官・児玉源太郎(少将、42歳)である。大山は西郷隆盛、従道兄弟の甥にあたり、1884年に桂太郎や川上操六を引き連れて欧州視察に赴き、その後の陸軍をドイツ流に改めた人物である。児玉は日露戦争で大活躍することになるが、すでに42歳の若さで陸軍次官のポストにつき、早くも頭角を現していた。

作戦指揮を司る参謀本部においては、参謀総長・有栖川宮熾仁親王(大将、59歳)、参謀次長・川上操六(中将、45歳)という陣容であった。参謀総長は皇族職であるので、実際に陸軍の指揮運用は川上が全権を握っていたことになる。

日清戦争の派遣軍については、第1軍司令官が山県有朋(大将、56歳)、第2軍司令官が大山巌(兼務)である。 当時、桂太郎(中将、46歳)は第1軍の第3師団長、乃木希典(少将、44歳)は第2軍の歩兵第1旅団長であった。

この中では、第1軍司令官の山県が圧倒的な存在感を放っていた。彼はすでに陸軍の大御所、陸軍最大の実力者であり、大山や川上のはるか上に聳え立つ存在であった。 山県は1889年に第1次山県内閣を組閣した内閣総理大臣経験者である。

そのような山県がなぜ前線の司令官になったか、それは山県自らが第1軍司令官に就任することを熱望したからである。山県は「敵国は極めて残忍の性を有す。生擒となるよりむしろ潔く一死を遂ぐべし」と訓示しているから、死をかけて戦地に赴いたのであろう。

山県が率いる任務は平壌から北京を攻略することであり、大山率いる、遼東半島から北京を目指す第2軍の側背掩護が任務であった。配下の野津道貫が率いる第5師団によって早々に平壌を陥落させるなど戦果はあげたが、これで満足する山県ではない。 なんと山県は第2軍よりも先に北京を攻略したくなったのである。

山県は優れた戦略家であり、情報政治家であったが、自信過剰で、功名心にかられた自我意識の強い人物であった。 川上は、長老の山県が派遣軍の司令官につくことに正面から異を唱えることはできなかったが、山県が大本営の方針どおりに動かないことを最初から懸念した。

結局、山県自身は体調を崩し、1984年11月に明治天皇に「病気療養のため」という勅命で戦線から呼び返され、12月に帰国している。しかし実はこれを表向きであって、独断専行する山県を、山県とともに現地に赴いていた桂太郎と川上が、内密に申し合わせて、山県を退けたという理由が正しいようである。 桂は山県の申し子であったが、これが原因で、以後は関係が悪くなったとされる。

一方の海軍は海軍大臣・西郷従道(大将、51歳)、海軍軍令部長・樺山資紀(中将、56歳)、連合艦隊司令長官・伊東祐亨(いとう ゆうこう、51歳)という陣容であった。

川上は、大本営が設定されると、海軍軍令部長である同郷の樺山を事実上統制し、日清戦争における陸海軍の作戦全般の指揮を担当した。日清戦争における勝利の最大功労者である川上は、清国をはじめ全世界に諜報網を展張し、作戦と情報を一体運用した。これが勝利を呼んだのである。

北進事変が勃発

日清戦争に勝利したわが国は旅順の割譲を受けるが、これがロシアを刺激し、ロシアはフランス・ドイツ両国を誘って同半島の返還を日本に要求した。いわゆる三国干渉である。 日本はしぶしぶこの干渉を受け入れたが、臥薪嘗胆を合言葉に、軍備の拡張に走ることになった。

一方、日清戦争によって清国の弱体ぶりを知った欧米列強は、あいついで清国に勢力を設定した(中国分割)。ドイツは山東半島の膠州湾、ロシアが遼東半島の旅順・大連、イギリスが九龍半島・威海衛、フランスが広州湾を租借した。

こうした状況で1900年、清国では「扶清滅洋」をとなえる義和団を称する秘密結社が勢力をまし、各地で外国人を襲い、北京の列国公使館を包囲した。  清国の西太后がこの叛乱を支持して1900年6月21日に欧米列国に宣戦布告したため国家間戦争となった。いわゆる北清事変である。

日本を含む列国13カ国は、連合軍を派遣し、義和団を北京から追って清国を克服させた。 この時、わが国は、福島安正少将を指揮官とする第五師団約8000名を派遣して、欧米諸国との連合軍を構成して8月には首都北京及び紫禁城を制圧した。同年10月、第5師団の指揮下にあった混成1個旅団により清国駐屯隊を設置し、在留邦人の保護に当たらせた。これが新たな諜報活動の拠点になった。

ロシアとの対立と日英同盟の締結

北清事変を機にロシアは中国東北部(満州)を事実上占領し、同地における独占的権益を清国に承認させた。ロシアの脅威は朝鮮半島に南下し、やがて日本に及ぶことになる。日露の関係は刻一刻と深刻化の様相を呈した。 その牽制の大きな手段となったのが1902年の日英同盟である。

日英同盟はやがて日本がロシアと戦うことを想定して結ばれた軍事同盟であった。日本はイギリスの後ろ盾によって、中型の「大国」としての地位を固めることに成功した。 1904年、わが国はロシアとついに衝突する。そして奇跡的に勝利する。

その最大の成功要因はとりもなおさず日英同盟であった。 そして、その日英同盟を締結した影の功労者が、世界から今日も称賛されて止まない、明治日本が生んだ傑出した一人のインテリジェンス将校であった。それが「コロネル・シバ」と列強から称賛された柴五郎である。

柴五郎の生い立ち

陸軍大学を出ずに陸軍大将まで上り詰めたのは後にも先にも柴しかいない。柴はそれほど傑出した将軍であり、彼のほとんどの経歴はインテリジェンス将校としてのものである。 では早速、柴の経歴をみてみよう。

柴は1859年1月、会津藩士・柴佐多蔵の五男として生まれた。会津では藩祖・保科正之の精神を受け継ぎ、「武士道」が盛んなところであった。 明治の偉人はいずれも江戸時代の武士道精神の教育により、傑出した人物へと成長したが、柴もまた武士道によって育てられた一人である。

さらに会津藩は、1868年1月の鳥羽伏見の戦いで、薩摩と長州の策略で新政府軍の朝敵となった。こうした会津藩にあって、柴の反骨精神と負けず魂が育まれたのである。 その後、柴は藩校・日新館に学び、青森県庁の給仕につくが、上京の念は立ちがたかった。

やがて1873年(明治6年)に陸軍幼年学校に入校、1877年に陸軍士官学校に進んだ。 士官生徒第3期の同期には、上原勇作元帥や内山小二郎・秋山好古・本郷房太郎の各大将がいる。彼らとの交流も柴の人生に大きな影響を与えた。

 インテリジェンス将校として歩み始める

1884年、陸軍中尉に進級し、同年10月に清国福州の駐在を命じられた。これがインテリジェンス将校としての柴の船出であった。 当時、清国とフランスとの間で戦争が勃発した。この戦争は仏領インドシナ(ベトナム、カンボジア、ラオス)と清国との国際紛争に端を発し、清国軍が仏領深く侵入してフランス軍を破り、その兵士たちを捕えて虐殺したことから全面戦争に発展していた。

柴は世界の戦争というものに直接接したことで、インテリジェンス将校としての大きな財産が築かれることになる。 柴は福州での3年間の滞在により、軍事に関する知識、清国の暮らしや考え方をまなび、中国語や英語にも精通した。 1887年4月、柴に対して北京駐在の命令が下った。柴はたちまち北京においても民情の収集にあたった。さらには、天津、満州、朝鮮半島も視察して、地域情報を蓄えていった。

1894年3月にイギリスの在日本公使館附武官心得を命じられたが、同年7月に日清戦争が生起した。そこで同年9月に日本帰国し、大本営で、清国本土上陸作戦の計画に携わることになる。ここでは、中国通の柴のインテリジェンスが大いに役立った。 下関条約締結後の台湾の陸軍参謀に命じられ、さらに柴の対外インテリジェンスは研ぎ澄まされる。

1896年、ふたたびイギリス公使館附陸軍武官として、イギリスに赴任、1898年(明治31年)5月の米西戦争においては、観戦武官としてアメリカにも派遣された。 柴は、このアメリカ出張で、のちに日露戦争の日本海海戦で大活躍する秋山真之と会う。真之は柴の陸軍士官学校同期の秋山好古の実弟である。 柴はアメリカ陸軍を、真之はアメリカ海軍を視察した。彼らのインテリジェンスセンスからして、おそらくは、ここでアメリカが将来の日本の敵になる可能性を感じ取ったのであろう。

義和団の乱が勃発

1900年2月、柴にイギリスから清国への転属が命じられた。そこで直面することになったのが北清事変である。 当時、義和団の狼藉は日増しに高まっていた。同年5月、義和団の乱が起こる。暴徒が各国の大使館を取り囲み、日本公使館書記生やドイツ公使が殺害された。 北京の各公使館の代表者がイギリス公使館に集まり、義和団についての話し合いがもたれた。柴はこの会議に参加した。 各国は北京で籠城して戦うことを決意した。

その警備の総指揮官をオーストリア公使館附武官のトーマン中佐に決めたが、彼の判断ミスが続いた。 そこで、軍人出身のイギリス公使のクロード・マクドナルドが後任の総指揮官に就任した。

そのマクドナルドが関心を持ったのが、柴であった。マクドナルドは柴を五か国の指揮官に命じた。 柴は事前に北京城およびその周辺の地理を調べ尽くし、さらには間者を駆使した情報網を築き上げていたのである。義和団によるキリスト教虐殺を逃れてきた総勢3000人を収容確保したのも柴の判断であった。

柴の活躍は各国の称賛

大松明則『歴史は鏡なり』では、柴の活躍振りを以下のように紹介している。

イギリス公使館の書記生であったランスロット・ジャイルズは日記で、「日本軍が最も優秀であることは確かだし、ここにいる士官のなかでは柴中佐が最優秀と見做されている。日本軍の勇気と大胆さは驚くべきものだ。わがイギリス水兵が、これに続く。しかし、日本軍は、ずば抜けて一番だと思う」と記している。

『北京籠城』を書いたピーター・フレミングは「日本軍を指揮していた柴中佐は、籠城軍のどの士官よりも有能で経験も豊かであった。誰からも好かれ日本の勇気、信頼性、そして、明るく、籠城者一同の称賛の的となった。籠城に関する数多い記録の中で、直接的にも間接的にも、一言の非難をあびていないのは、日本人だけである」と書いている。

さらに、アメリカ人女性・ポリー・C・スミスも、「柴中佐は小柄で素晴らしい人だった。彼が交民港で現在の地位をしめるようになったのは、一つに彼の智力と実行力によるものです。今では、すべての国の指揮官が柴中佐の見解と支援を求めるようになったのです」と語っている。

柴の活躍が日英同盟をもたらす

北清事変後、柴はイギリスのビクトリア女王をはじめ各国政府から勲章を授与された。『ロンドン・タイムス』はその社説で「籠城中の外国人の中で、日本人ほど男らしく奮闘し、その任務を全うした国民はいない。日本兵の輝かしい武勇と戦術が、北京籠城を持ちこたえさせたのだ」と記した。 なお、柴自身はアメリカ軍人が最も勇敢だったと評している。冷静で謙虚な柴の性格をうかがわせる。

イギリス公使マクドナルドは、共に戦った柴と配下の日本兵の勇敢さと礼儀正しさに大いに心を動かされ深く信頼するようになった。1901年の夏の賜暇休暇中に英国首相ソールズベリー侯爵と何度も会見し、7月15日には日本公使館に林董を訪ねて日英同盟の構想を述べ、以後の交渉全てに立ち会い日英同盟締結の強力な推進者となった。 このことから柴は日英同盟のきっかけをつくった影の立役者として評価されているのである。

柴のその後の活躍

なお、柴の活躍はとどまらず、陸軍大佐に順調に進級し、日露戦争では野戦砲兵第15連隊長として出征した。 1906年3月、イギリス大使館附の辞令が発せられ、7月ロンドンに着任した。 その後、しばらくは閑職につくが、1914年(大正3年)5月に第12師団長に栄転し、1919年(大正8年)8月には陸軍大将に進級し、同年11月、台湾軍司令官に進んだ。

なお、1945年(昭和20年)、太平洋戦争敗戦後に身辺の整理を始め9月15日に自決図った。自殺は老齢のため果たせなかったが同年12月13日、その怪我がもとで病死する。最期まで武士道精神を貫いたインテリジェンス将校、それが柴五郎大将であった。

現在の防衛駐在官制度

柴は中尉から中佐まで海外に勤務した。そこで世界を見て、語学を学んだ。しかし、大正、昭和と時代が下ると、駐在武官は出世の一つのキャリアとなり、柴や明石のようにずっと海外における情報勤務について、実務をつうじて対外インテリジェンスの感性を練磨するということはなくなった。

この弊害を是正するため、転属のない駐在武官を輩出する試みが陸軍中野学校の創設の目的でもあった。しかし、こうした構想への着手が遅すぎ、結局、陸軍中野学校は本来の目的を達成することなく、大東亜戦争の開戦によって、ゲリラ戦教育へと変化を遂げた。つまり、「戦わずして勝つ」を信条とする秘密戦の教育がゲリラ戦へと変わったのである。

現在の自衛隊もしかりである。2013年のアルジェリア事件により、防衛駐在官が増員されたが、必ずしも情報の経験者が配置されているわけではない。 むしろ、防衛駐在官は出世のための“箔付け”という意味合いが大きい。

防衛駐在官の増員が「情報収集能力を強化しています」という政府の詭弁以上のものにするためには、防衛駐在官制度の見直しなどやるべきことは多々あろう。その一つには、柴や明石のような、明治期のインテリジェンス将校の育成要領、陸軍中野学校の当初の構想などにも学ぶ必要があるのではないだろうか。

わが国の情報史(17) 

日清戦争とインテリジェンス

日清両国の対立化の経緯

明治政府は、朝鮮が清国から独立して近代化すること狙っていた。この背景には、ロシアが南下を続け、朝鮮国境まで領土を広げていた。もし半島が、ロシアに領有されるか、列強に分割されるかすれば、日本の国土防衛が不可能になる、との情勢判断があった。 なお、これが明治期の征韓論の背景でもあった。

1873年、大院君(だいいんくん,1820~98)が失脚し、改革派官僚に支えられた王妃の親戚である閔(みん)氏一族が政治の実権を握った。これにより、日本と国交を開く許可が清国から朝鮮に降りた。

1876年、日本は日朝修好条規により朝鮮を開国させた。以来、朝鮮国内では、親日派が台頭していった。 しかし、1882年、日本への接近を進める閔氏一族に対し、大院君を支持する軍隊が反乱を起こした。これに呼応して、民衆が日本公使館を包囲した(壬午事変)。

これ以後、閔氏一族は日本から離れて清国に依存し始めた。 これに対し、金玉均(きんぎょくきん1851~94)が率いる親日改革派(独立派)は1884年、日本公使館の援助を受けてクーデターを起こしたが、清国軍の来援で失敗した(庚申事変)。

この関係で悪化した日清関係を打破するため、1885年、政府は伊藤博文を派遣し、清国全権・李鴻章(1823~1901)との間に天津条約を結んだ。これにより、日清両国は朝鮮から撤兵し、今後同国に出兵する場合には、たがいに事前通告することになり、当面の両国衝突は回避された。

日清戦争の勃発とインテリジェンス将校の活躍

1885年、福沢諭吉は「脱亜論」を発表し、アジアを脱して欧米列強の一員となるべきこと、清国・朝鮮に対しては武力をもって対処すべきこと、を主張した。これにより日本と清国との間は次第に緊張が高まることになる。

1894年、朝鮮で東学の信徒を中心に減税と排日を要求する農民の反乱(甲午農民戦争)が起きると、清国は朝鮮政府の要請を受けて出兵した。わが国も天津条約に従って朝鮮に出兵した。  

1894年8月、日本が清国に宣戦し日清戦争が勃発した。 戦争指導のため、明治天皇と大本営が広島に移った。

戦局は、軍隊の規律・訓練、兵器の統一性に勝る日本側の圧倒的優勢のうちに進んだ。日本軍は清国軍を朝鮮半島から駆逐し、遼東半島を占領し、清国の北洋艦隊を黄海海戦で撃破し、根拠地の威海衛を占領とした。かくして、わずか9か月で日本が戦争に勝利した。

こうした大勝利の陰で、軍民一体の情報活動が陸軍の作戦活動を支えていた。ジャーナリストの先駆けといわれる岸田吟香(きしだぎんこう、1833~1905)をはじめとする民間有志が商取引などを通じて大陸深くに情報基盤を展開した。これに応じる荒尾精、根津一らの参謀本部の若手参謀が現役を退き、その基盤を拡充し、活動要員の養成に捨身の努力を払った(わが国の情報史(16))。

また、ドイツ式の近代化した陸軍を創設した川上操六の貢献が大であった。 日清戦争前の1893年、川上(参謀次長)は参謀本部を改編し、国外に派遣されている公使館附武官を参謀本部の所管とした。公使館附武官は情報網の先端になったのである。

また1893年、川上は田村怡与造(中佐)及び情報参謀の柴五郎大尉(のちに大将)を帯同して清国と朝鮮を視察し、「先制奇襲すれば清国への勝利は間違いない」と確信を得て帰国した。 このように、作戦とインテリジェンスが調和され、わが国は勝つべくして勝ったのである。

条約改正で貢献した陸奥宗光

陸奥宗光

こうした日清戦争のさなか、インテリジェンスのもう一つの局面として条約改正への取り組みを無視できない。この最大の立役者が陸奥宗光である。

明治政府にとって、江戸幕府が結んだ不平等条約、特に関税自主権なしと領事裁判権なしの撤廃は重大な課題であった。 条約改正交渉は紆余曲折を経たが、最大の難関であったイギリスは、シベリア鉄道を計画して東アジア進出を図るロシアを警戒して日本に対して好意的になっていた。

陸奥は日清戦争の前年、ついに領事裁判権なしと、関税の引き上げ、および相互対等の最恵国待遇を内容とする日英通商航海条約の調印に成功した。 この背後には陸奥の戦局眼と脅しともいえる外交交渉が功を奏した。

陸奥は、「日本は清国と戦争するにあたって文明国として国際法を守り、イギリス人の生命・財産を守るつもりでいる。だから条約を改正してほしい。もし日本が文明国でないというならば、日本は文明国が定めている国際法を守る義務はない」と発言したのであった。  

当時、イギリスは多くの英国人を清国に租界させていた。よって陸奥の理論的であり、しかも脅しもいえる交渉をイギリスは飲まないわけにはいかなかったのである。

下関条約の背後でインテリジェンス戦が展開 

李鴻章

1895年4月、日本全権伊藤博文・陸奥宗光と清国全権李鴻章とのあいだで下関条約を締結した(条約5月8日発行)。 その内容は、①清国は朝鮮の独立を認め、②遼東半島および台湾・澎湖諸島を日本にゆずり、③賠償金2億両(テール)を支払い、④新たに沙市・重慶・蘇州・杭州の4港を開くことなどであった。

わが国は戦勝国であったので日本側に有利な条約を結ぶことができた。ただし、ここでもインテリジェンス戦が貢献したことを見逃してはならない。

というのは交渉は下関で行われたため、李鴻章は暗号通信により、本国の意向を確かめながら条約交渉を行わなければならなかった。日本は、この暗号通信を完全に傍受して交渉に臨んだ。

たとえば、わが国は賠償金は当初3億両を要求していたが、清国から李鴻章のもとに1億両ならば交渉に応じても良いとなどの連絡が届いていることを承知し、2億両というぎりぎりの駆け引きに出た。

また、日本の提示した講和条件の一部が清国から都合のよいように全世界に伝えられる状況を傍受して事前探知した。日本は、清国の機先を制して、自ら英・米・仏・露・独・伊に対して講和条件の全文を通告したのである。これにより、イギリスの支持を得ることになり、交渉を有利に進めることができたのであった。

わが国の情報史(16) 

明治のインテリジェンス将校

対外インテリジェンス活動の開始

川上操六

明治の世に入り、わが国は「アジア主義」と「脱亜論」が拮抗するなか、「領 事裁判権なし」と「関税自主権なし」の二つの不平等条約撤廃を外交目標に掲げつつ、急速にアジアへの接近を強化した。

まず朝鮮の権益を巡り清国と対立し、1894年に日清戦争が生起した。さらに満州・朝鮮の権益をめぐってロシアと対立し、日露戦争(1904年-1905年)へと突入することになる。

こうした大きな情勢推移のなか、わが国は明治維新直後から朝鮮半島や清国をはじめとする対外情報収集を開始した。1875年には、初の海外公使館付武官となった清国公使館付武官を派遣した。このほか、ドイツなどの各国に武官を次々と派遣することになる。

日清戦争以前には、イギリス、フランス、ドイツ、ロシア、清国、韓国の六カ国に武官を派遣していた。

1880年(明治13年)3月、対外関係の正常化を狙いに、初めての大(公)使館となる清国大使館を開局した。以降、ここが中国(シナ)大陸における陸軍諜報の一大拠点となった。ここから参謀本部直属の諜報員などを朝鮮半島や中国大陸に派遣することになる。

山県有朋、インテリジェンスを握る

山県有朋(1838~1922)は、日本の軍人にして政治家である。彼は長州藩の下級武士の家柄の出身でありながら、立身出世を果たし、内閣総理大臣や陸軍参謀総長などを歴任した。

彼は日本陸軍の基礎を築つき、「国軍の父」と称されることもあるが、それよりも、1877年の西南戦争において、西郷隆盛に対する討伐軍の長として有名である。しかし、山県がインテリジェンスを重視し、卓越した情報力で一時代を築いたことはあまり知られていない。

 山県は、これから触れる桂太郎、川上操六、福島安正などをよく登用した。また、筆者がインテリジェンス大家として崇めてやまない吉田松陰が継承した山鹿流兵法の門下である乃木希典(のぎまれすけ)の上司でもある。

すなわち、山県こそは明治初期の最大のインテリジェンス・フィクサーであるといえよう。

山鹿流兵法の門下生 、乃木希典(のぎまれすけ)

乃木希典(1849~1912)は長州藩の出身である。日露戦争において旅順攻囲戦などで活躍するが、明治天皇の後を慕って殉死したことや、戦後に『坂の上の雲』を書いた司馬遼太郎によって“愚将”として断定されたことのほうが有名である。

ただし、この愚将説はまったく根拠のない小説であることは、歴史家諸氏が異議をとなえているところである。

乃木は1864年、13歳にして出身地の長府(現在の下関市)から70km離れた萩に赴き、吉田松陰の叔父である玉木文之進の弟子となり、山鹿流兵法を学ぶ。

この山鹿流兵法とはわが国の志向の兵法家である山鹿素行を開祖とする。孫子の兵法と、そして楠木正成にも影響を与えた我が国の闘戦経の両方の流れを継ぐ江戸期の兵法であり、幕末維新に多大な影響を与えた。

1865年に、第二次長州征討が開始されると、乃木は奇兵隊の山県有朋の指揮下で戦い、功名を果たす。

1868年、陸軍に入営し、1872年にわずか22歳で大日本帝国陸軍の少佐に任官した。異例の抜擢であった。

1974年、乃木は山県の伝令使に登用され、1875年12月、乃木は熊本鎮台第14歩兵連隊長心得(小倉)に赴任するが、これは、そののちに反乱を起こす、 前原一誠の動向を探ることが兼務であった。

 乃木の前任の連隊長・山田頴太は、のち叛乱で有名になった前原一誠の弟である。そして前原党の首脳の一人が乃木の実弟の乃木真人(玉木正誼)であった。真人は松下村塾の創始者である玉木文之進の養子になっていた。

その前原党の動きを探るため、山県はあえて乃木を山田の後任に送ったのである。

乃木は、弟たちから得た情報を山県に送った。これにより1876年10月の前原一誠の乱は拡大することなく、鎮定されたのである。

このように、乃木は諜報員として軍人生活を開始したのであった。

情報将校が出発点、桂太郎

桂太郎

桂太郎(1848~1913)は長州出身の政治家である。総理を3回歴任するなど、明治の政治家の重鎮である。

桂は1970年から3年間ドイツに留学し、帰国後に陸軍大尉に任官し、第6局(参謀本部の前身)勤務、ついで少佐に進級して参謀本部設置(参謀長は山県有朋)とともにその諜報堤理(ちょうほうていり)の職に就いた。

そして、75年から3年間ドイツ公使館附武官として赴任する。そして、78年7月に帰国し、参謀局諜報堤理の職に復帰した。つまり、桂の軍人としてのキャリアは情報将校である。

 桂家は、孫子などの兵法を管理し、闘戦経を開祖した大江家、そして大江家の末裔である毛利家、祖先とする。だから、桂には兵学、諜報の血が流れていたのかもしれない。

 桂がドイツに赴任している間に西南戦争が起こった。山県はこの戦争を鎮定し、内戦に備える軍隊から決別し、対外的な脅威、すなわちロシアによる東方侵攻に備える軍隊に再生させるための軍事改革を図ることになる。

この改革の主導的な役割を担ったのが、この桂と次に登場する川上操六であった。

参謀本部創設の父、川上操六(かわかみそうろく)

川上操六 (1848~1899) は薩摩藩の出身であり、1977年の西南戦争では苦渋の選択から陸軍に残り、尊敬する薩摩藩の西郷隆盛と戦った。

川上は桂太郎、児玉源太郎とともに「明治陸軍の三羽烏」と呼称される逸材である。川上は「参謀本部創設の父」と呼ばれ、参謀本部の発展に多大な貢献をした。おそろく、52歳という若さで鬼籍に入られなければ、もっと著名な大人物になっていたことは間違いない。

川上は1870年の普仏戦争に桂と共に観戦武官として派遣された。その後、国内の連隊長職などを歴任し、頭角を現した。

1884年、川上は桂太郎とともに大山巌・陸軍卿(大臣)に伴って欧州に視察旅行にいく。桂、川上ともに35歳であった。

大山は、今後の陸軍を建設し、近代化するためには、長州の桂と、薩摩の川上の両大佐が必要であるとして、この欧州視察に大抜擢した。

このとき、二人は「軍政の桂」「軍令の川上」になることを将来の誓いとした。なお軍政とは人事・予算・制度等を主務とする、軍令は作戦運用を主務とするものである。

1885年1月にドイツから帰国し、山県有朋・参謀本部長のもとで、川上は参謀次長(少将)に就任し、参謀本部の改編に着手する。わが国は1882年、陸軍はフランス式の兵制からドイツ式に切り替え、編制・用兵を外征型に改め、ドイツ式の教範整備などを推進することに決したが、その改革はこれからの課題であった。

この切り替えを決定的なものにしたのが、1985年にドイツから陸軍大学に招聘されたメッケル少佐である。

川上は、桂、児玉源太郎とともに、メッケル少佐を顧問にドイツ式の兵制を導入することに尽力した。このころ、陸軍ではフランス式かドイツ式かの議論があったが、川上は「普仏戦争において勝利したドイツを見習うことが当たり前だ」と忌憚なき意見を述べた。

1887年、川上はふたたびドイツに留学する。ここでは乃木とともに、ドイツのモルトケに執事した。

また、この時に森鴎外(当時25歳)に面会して、クラウゼヴィッツの『戦争論』の翻訳と、その内容を後述する田村怡与造に講義するよう依頼した。

1988年に帰国し、ふたたび参謀次長(名称変更)に就任し、1890年に陸軍中将に昇任して日清戦争の開戦に大きくかかわることになる。

日清戦争前の1893年、川上(参謀次長)は清国と朝鮮を視察し、「先制奇襲すれば清国への勝利は間違いない」と確信を得て帰国する。この際、田村怡与造(中佐)とともに連れて行ったのが情報参謀の柴五郎大尉(のちに大将)であった。

なお、柴は陸軍大学を出ずに、情報将校としての活躍で陸軍大将まで上り詰めた希有な軍人である。柴については次回以降触れることにする。

日清戦争では、川上が推進した陸軍の近代化が勝利に大いに貢献した。日清戦争以後、わが国の対外情報機能はさらに強化されることになる。

1998年1月、川上(中将)は参謀総長に就任する。彼は作戦を司る第一部長に田村怡与造(当時は大佐、のちに中将)、情報を司る第二部長に福島安正(当時大佐、のちに大将)を当て、近代的な参謀部の組織改革を目指した。

その一方で、川上は大陸に対ロ諜報員を派遣して、対外情報網の構築に尽力した。日露戦争時に活躍する花田仲之助、石光真清は川上が放った諜報員であつた。

1898年9月、川上は大将に昇任し、日増しに高まるロシアの脅威に立ち向かうためには、川上はなくてはならない存在になった。しかし、日露戦争開始前の1999年5月に、川上は激務がたたって死亡した。

今信玄、田村怡与造(たむらいよぞう)

田村 怡与造 (1854~1903) は山梨県の出身である。その優秀さから甲斐の戦国武将・武田信玄にちなんで、川上から「今信玄」と呼ばれていた。中尉から大尉時代にかけてドイツに留学したドイツ通である。

1875年、陸軍士官学校に入学(旧2期制)。1883年にドイツに留学し、ベルリン大学で学ぶ。この時、川上と交流し、軍事研究に励む。

1888年に帰国し、以後は参謀本部に勤務し、陸軍のフラン式からドイツ式軍制への転換に務め、『野外要務令』『兵站要務令』の策定などに従事した。

1898年参謀本部第一部長に就任し、川上の右腕として対ロシアの脅威に備える。同年、川上が死亡したのち、田村はしばらく第一部長を務めていたが、1902年4月に参謀次長に就任する。

田村は情報将校としての主たる経歴はないが、参謀次長としてインテリジェンスの重要性を認識していた。階級が上の福島を情報部長として、対ロ情報を強化する一方、ウラジオストックに町田経宇少佐を派遣するなどした。

日露戦争は、この田村によって指導される運びであったが、彼もまた川上と同様に無理がたたって日露戦争開戦前に急死することになる(同日、中将に昇任)。

参謀本部の創設に多大な貢献をした両雄が日露戦争前に急死したのだから帝国陸軍の脱力感はいかばかりであったろうか。これを見て動いたのが、当時の内務大臣であった児玉源太郎である。

児玉は、“火中の栗”を拾うとばかり、内務大臣から二階級降格の形で参謀次長に就任する。

シベリア単騎横断の福島安正

福島安正

福島 安正(1852~1919) はきっすいの情報将校である。明治維新後、英語翻訳官から軍人に転換し、情報一筋で大将まで進級した最初の軍人である。

福島は長野県で生まれ、1865年、13歳で江戸留学、1869年に東京の開成高校で英語を学んだことが、のちの出世の登竜門となった。

福島は1874年から陸軍に転籍し、1976年の24歳の時に通訳官として西郷従道が率いるアメリカの博覧会視察に随行した。77年の西南戦争では山県有朋の幕下で伝令使(中尉)として活躍した。

1879年、福島は上海・天津・北京・内蒙古を五ヶ月にわたって現地調査(当時、中尉)する。これが情報将校としての本格的な第一歩となった。

その後、陸軍大学校で、ドイツから赴任したメッケル少佐に学ぶ。この縁で、

1987年にドイツ・ベルリン公使館に赴任し、ここでは公使の西園寺公望(さいおんじこうぼう、のちの総理大臣)とともに、ロシアのシベリア鉄道施設の状況などを報告した。

1892年の帰国に際しては、冒険旅行との名目でポーランドから東シベリアまでの約18000キロを1年4か月かけて騎馬で横断して現地調査を行った。これが世に有名な「シベリア単騎横断」と呼ばれるものである。

福島の活躍は、日露戦争において最盛期を迎えるが、これについては次回以降に述べることとする。

このほかの情報将校の活躍

岸田吟香

このほか、日清戦争前後においては荒尾精(あらおせい、1858~1896)、根津一(ねずはじめ、1860~1927)らの傑出した情報将校が活躍した。

一方、ジャーナリストの先駆けといわれる岸田吟香(きしだぎんこう、1833~1905)をはじめとする民間有志が商取り引きなどを通じて大陸深くに情報基盤を展開し、これに応じる参謀本部の若手参謀が現役を退き、その基盤を拡充し、活動要員の養成に捨身の努力を払った。このような軍民一体の活動が陸軍の情報活動を支えていた。

荒尾は1859年に尾張藩士の長子として誕生。外国語学校でフランス語を修得したのちに、78年(明治11年)に陸軍卿満天星砲兵科に入学、80年に陸軍士官学校に入学した。

1885年、参謀本部シナ部附に転じ、86年に清国に赴任した。荒尾が陸軍に入隊したそもそもの理由が清国の歴史や事情を学び、清国に赴任することであったのであり、ようやく念願がかなったという訳である。

荒尾は清国で、ジャナリスの先駆けといわれる岸田吟香の協力を得て、書籍、薬、雑貨を扱う雑貨屋「楽楽堂」を営み、清国官憲の監視の目をごまかし、現地調査や諜報組織の設置に着手する。

1889年に帰国し、黒田清隆首相、松方正義大蔵大臣らの有力者に対して、「日清貿易研究所」の設立を要請したほか全国行脚し、清国の事情について講演し、募金を集い、90年に職員と生徒あわせて200名程度からなる「日清貿易研究所」を上海に設立し、日中貿易実務担当者の育成に努力した。

また、1892年、日清貿易株式会社の岡崎栄次郎の資金援助を得て『清国通称総覧』の編集に着手した。

荒尾は台湾でペストに罹り、38歳の若さで死亡するが、日清貿易研究所は彼の死後に、東亜同文会会長・近衛篤麿親友の根津一らの手によって、東亜同文書院(のちに東亜同文書院大学)に発展し、日本人のための高等教育機関となった。

他方、根津一は1860年に甲斐国の富家の次男に生まれ、陸軍士官学校に入学し、荒尾精と知り合い、中国への志を強めた。のちに陸軍大学への入学を果たし、ここでメッケル少佐に学ぶ。しかし、彼のドイツ至上主義と日本陸軍蔑視の姿勢に反発し、論旨退学処分となった。

結局、少佐で予備役に編入、荒尾の招聘で上海に赴任し、日清貿易研究所の運営、教育活動への従事を経て、1901年に初代の東亜同文書院の院長に就任した。

こうしたインテリジェンス重視の気風と活動が日清戦争におけるわが国の勝利に貢献したのであった。

わが国の情報史(15) 

軍事制度の改革と参謀本部

軍事制度の改革

山県有朋

新たな世界情勢に対応するため、わが国の近代化、国力養成を進めるための政治体制が構想され、模索された。とくに国力養成の観点から軍事制度の改革が急務であった。 以下、軍事制度の改革の概要を時系列で述べることにする。

1868年1月(慶応3年12月)の王政復古により摂政・関白が廃止され、新政府に総裁・議定(ぎじょう)・参与の三職が置かれ、新体制がスタートした。

1868年2月10日(慶応4年・明治元年1月17日)、三職七科制(総裁・議定・参与,神祇事務科・内国事務科・外国事務科・海陸軍事務科・会計事務科・刑法事務科・制度寮が採用され、ここに海陸軍の部署として海陸軍事務科が置かれた。

議定のなかから、海陸軍務総督(小松宮彰人親王、岩倉具視、島津忠義)が、参与のなかから海陸軍務掛(広沢実臣、西郷隆盛、土倉正彦、林通顕、吉井友実)が就任し、練兵・守衛・軍務を担当した。

1868年2月25日、三職七科制を改めて三職八局(総裁・議定・参与,総裁局、神祇事務局・内国事務局・外国事務局・軍防事務局・会計事務局・刑法事務局・制度事務局)として、海陸軍事務科は軍防事務局となった。

1868年6月11日、三職八局の体制を太政官七官(議政官、神祇官、行政官、会計官、軍務官、外国官、刑法官)として、ここに新たに軍務官が置かれた。

1969年6月17日の版籍奉還を経て、8月15日(明治2年7月8日)、官制が大改正され、新たに2官6省(神祇官・太政官,民部省・兵部省・外務省・大蔵省・宮内省・刑部省)が置かれ、軍務官は兵部省(ひょうぶしょう)に再編された。すなわち、中央政府が兵部省を通じて陸海両軍に対する軍令・軍政を司る体制が確立した。

1870年(明治3)10月、新政府は陸軍の兵式にフランス式を採用することを定め、71年2月に薩・長・土三藩が貢献した兵をもって御親兵(のちの近衛兵)を設置し、はじめて政府直属の軍隊をもった。

この兵力を背景として71年7月に廃藩置県を断行して中央集権国家を成立させた。 つまり、明治初期の軍事制度の草分けは、天皇および御所の護衛を目的とする御親兵(ごしんぺい)の設置に始まる。これは1868年の鳥羽伏見の戦い後の軍事的緊張に対応するために設置されたのである。

そして廃藩置県後の軍事体制は国内の内乱対処を想定し、御親兵に代わり鎮台を設置することになる。 1871年には4鎮台(東京、大阪、鎮西(熊本)、東北(仙台))を設置したが、73年に名古屋、広島を加えて6鎮台に拡充した。

1872年2月、兵部省は陸軍省、海軍省に分かれた。この際の陸軍省の行政長官である陸軍卿は欠員であり、次官たる陸軍大輔(たゆう)は文官の山形有朋(やまがたありとも、1838年~1922年)であった。 同年3月に山県は武官職である近衛都督(近衛兵の総司令官)に就任し陸軍中将に任じ、行政官庁の次官(長官代理)を武官が兼任する先例が成立した。

他方、海軍卿も最初は欠員であり、同年5月に勝海舟/安芳(かつ かいしゅう / やすよし、1823年~ 1899年)が文官として海軍大輔に任命された。

山県は1872年7月に近衛都督を辞任したが、陸軍中将の身分はそのままであり、73年6月に行政長官である陸軍卿に就任した。

なお、欧米巡遊中の岩倉使節団に副使として加わっていた参議の木戸孝允は、武官の身分を保持する山県が行政長官に就任することに強く反対した。しかし、在外中であったのでその意見は通らなかった。

それでもシビリアン・コントロールを維持しようとする試みは行われた。 1874年の佐賀の乱(1874年2月1日~3月1日)が起きると、同年2月、内務卿の大久保利通(おおくぼ としみち、1830年~1878年)が九州に派遣された。文官である大久保に軍事指揮権があたえられ、陸軍卿の山県は武官であったために閣議にも参加できなかった。

大いに不満であった山県は、そのため陸軍卿を辞任して近衛都督兼陸軍省第6局(73年4月施行、後述)に就任し、陸軍卿の事務は陸軍大輔である西郷従道に任せた。組織上は、山県が格下である西郷の部下となったが、山県には軍事作戦を指導する第6局を牛耳る狙いがあった(後述)。  

佐賀の乱以降も、国内の治安は安定しなかった。熊本の神風連の乱(新風連の乱、1876年10月24日~10月25日)、萩の乱(1876年10月28日~12月8日)、福岡の秋月の乱(1876年10月27日~11月14日)などが起こり、そして1877年には西南戦争が起った。

反乱軍の首将は当時の日本でただ一人の陸軍大将西郷隆盛(西郷隆盛、1828年~1877年)であった。政府軍(参軍)の実質的な指揮官には、すでに陸軍卿に復活していた山県有朋(陸軍中将)と海軍大輔の川村純義(すみよし、海軍中将)が就任した。

西南戦争の終了をもって、もはや国内対処は新政府にとって軍事の最重要課題ではなくなった。他方、清国、ロシアに対する脅威感が増大した。このため鎮台から機動本位の師団編成への編成替えの必要性が生じた。

当時、海軍はイギリス、陸軍はフランスをモデルに軍整備を推進していた。当時の陸軍の教範である1971年の歩兵操典もフランス式であった。 陸軍においては、従前どおりのフランスか、それともプロシアに変更するかが検討された。結局、普墺戦争(1866年)でオーストリアに勝利し、普仏戦争(1870年~71年)ではフランスに勝利したプロシアを参考に陸軍の編成替を行うことに決した。この背景には、桂太郎などのプロシア留学組が影響力を及ぼしたことはいうまでもない。

かくして1882年、陸軍はフランス式の兵制からドイツ式に切り替え、編制・用兵を外征型に改め、ドイツ式の教範整備などを推進するに至ったのである。 1883年、陸軍卿の大山巌(おおやま いわお、1842年~1916年)は渡欧し、参謀将校の日本派遣とその人選を依頼した。

その結果に、85年には、プロシアからメッケル少佐が来日し、陸軍大学で講義することになった。つまり、陸軍はメッケル少佐から、モルトケ時代のプロシアの参謀本部制度を導入するとともに、88年に師団編成への転換を成就したのである。

 参謀本部の沿革

次に、戦争を指導する組織である参謀本部についてみておこう。 1871年(明治4年)7月、兵部省に陸軍参謀局が設置された。局長(都督)には兵部大輔(太夫)の山県有朋が充てられた。

1872年2月に兵部省が陸軍省と海軍省に分割されたことにともない、陸軍参謀局は陸軍省参謀局(以下、参謀局)に改編された。 1873年3月、陸軍省條例が発せられ、参謀局は第6局に改称された(4月1日施行)。

佐賀の乱の最中の1974年2月8日、上述のように山県が陸軍第6局の局長に就任した。しかし、すぐに(同年2月19日)、山県は第六局を廃止し、ふたたび参謀局に改めた。そして山形は第6局長から参謀局長になった。

参謀局から参謀本部への改編においては長州出身の桂太郎(かつらたろう、1848年~1913年)が活躍した。桂は1870年(明治3年)8月、プロシアに留学した。1873年10月半ば、プロシア留学から帰国した桂に対し、木戸孝允/ 桂 小五郎 (きどたかよし/かつら こごろう、1833年~1877年)は、当時の陸軍卿である山県に依頼し、桂を陸軍に入れて大尉に任命した。

1874年、桂はプロシア留学の成果を踏まえ陸軍省から参謀局を分離独立させることを建議した。その甲斐があって、78年(明治11年)に陸軍省から分離独立して参謀本部が設置された。初代の参謀本部長には山県が就任した。

以降、陸軍においては、軍政は陸軍省が担任し、軍令は参謀本部が担任する、軍政・軍令の二元化が確立されたのであった。 1886年(明治19年)、参謀本部条例が大幅に改正され、陸軍省と海軍省が軍政機関として並立し、陸海軍の統合参謀部門として参謀本部が設立された。これにより、参謀本部が軍令機関として、参謀本部陸軍部と参謀本部海軍部を経由して両軍を統括することになった。

1888年、参謀本部条例が廃止され、参軍官制が制定された。これにともない参軍(天皇の軍隊、有栖川宮熾仁親王)の元に、陸軍参謀本部と海軍参謀本部が設置された。

1889年に参軍官制、陸軍参謀本部条例、海軍参謀本部条例が廃止され、参謀総長を設けた参謀本部条例が制定された。これにより、陸軍参謀本部は参謀本部となり陸軍の軍令を担当し、海軍参謀本部が海軍の軍令を担当することになった。
当初は、参謀本部が海軍の軍令も管轄するものとみられていたが、海軍の強い反発により、参謀本部と海軍参謀本部が並列となったのである。 

日清戦争の前年にあたる1893年の参謀本部条例の改正により、戦時大本営条例が制定された。これにより参謀総長が陸軍と海軍の軍令を担当することになった。在外公館付武官を統括する任務も参謀総長に与えられた。

日清戦争前の参謀本部の編成は、副官部、第一局、第二局、編纂課であり、第一局が動員計画・運輸計画を担任、第二局の第一課が作戦計画を、第二課が外国情報などを担任した。

日清戦争後の1896年(明治29年)5月、参謀本部はそれまでの局制を廃止し、部制をとり、副官部、第一部、第二部、第三部、第四部、編纂部の六部編制となった。人員は100名を越える規模になった。

1899年の改正では副官部が総務部、編纂部が第4部に改編され、この体制で日露戦争を迎えることになるのである。

参謀本部におけるインテリジェンス機能

参謀本部の機能について、インテリジェンスの側面から考察を加えておこう。 1871年に設置された参謀局の任務は、兵用地誌の作成、政誌の編纂、間諜(スパイ)の運用など、作戦機能よりも情報(インテリジェス)機能の方が強かった。 しかし、征韓論及び制台論が高まるにともない、軍部は当面の海外出師(派遣)のため、作戦機能を強化する狙いで参謀局の改編に着手することになった。

その結果、1878年に陸軍省から分離独立して設置された最初の参謀本部は、参謀本部長及び参謀本部次長の下に、総務課、管東局、管西局、地図課、編纂課、翻訳課、測量課、文庫課から構成された。

管東局、管西局がこの組織の中心であり、両局は兵用地誌の作成、政誌の編纂、諜報を担当した。管東局が1・2軍管ならびに北海道・樺太・満州を、管西局が3・4・5・6軍管ならびに朝鮮、清国沿海を担当した。

要するに、最初の参謀本部の機能は地域分担制であり、作戦組織と情報組織は未分化であった。言いかえれば、インテリジェンスを司る情報組織は作戦組織のなかに埋没状態にあった。

しかし、1885年7月、朝鮮半島をめぐる日・清の紛糾のさなかに、参謀本部は大改正され、管東局・管西局は廃止され、第1局と第2局になった。これにより、第1局が作戦を、第2局が情報を担当することとなり、作戦と情報(インテリジェンス)が分化されることになった。

この際、第2局の事務は「外国軍の調査、外国地理の調査及びその地図の編集」とされ、第2局の第1課が国外の兵制・地理・政誌の収集及び分析を、第2課が運輸法及び全国の地理・政誌の収集及び分析を、第3課が諸条規の調査などを担任した。

諜報(ヒューミント情報)については参謀本部条例第12条で「諜報のことは第2局長これを主任す」と定められ、第2局長(大佐)が自ら扱ったものとみられる。

日清戦争後の1896年5月の6部編制では、「外国の軍事及び地理、諜報、軍事統計」を所掌することになったのが第3部である。

1885年の改編と96年の改編により、作戦と情報の分化は定着されたかにみえた。 しかし、日露関係の雲行きがあやしくなる1899年、川上操六(かわかみ そうろく、1848年~1899年)参謀総長は作戦部門と情報部門が合体させ、地域分担制に逆戻りさせてしまう。

この理由についてはドイツ参謀本部の影響を受けたとの見方もある。なお、この改編で第1部が東京以北・ロシア・朝鮮・満州、第2部が名古屋以南・台湾・清国の担当することにした。

ただし、いざ日露戦争が開始されると、陸軍首脳も作戦・情報組織を地域別に混在させていては実戦に対応することができないことを悟ったようである。大本営陸軍参謀本部、その機能の大部分を戦域に移動させた満州軍総司令部の編成では、地域分担制を廃止し、作戦部門(作戦課)と情報部門(情報課)を臨時措置として分離・独立させた。  

情報部が作戦部から独立しないことの弊害は、とかく作戦担当者が、自ら策案した作戦に都合がいいような情報ばかりを選択して、その作戦の有効性を否定するような情報を無視しがちになることである。すなわち作戦が情報を軽視した、主観的で独りよがりなものになりがちな弊害を生むことである。

わが国の情報史(14)

開国と明治維新

ペルー来航と鎖国からの撤退

ペリー

1853年のペルーの浦賀来航以降、欧米列強に対する我が国の危機意識は日増しに高まった。 江戸幕府は、こうした列強の威力に屈し、朝廷の意に反する形で開国・通商路線を採択することになる。

1853年3月、わが国はアメリカと日米和親条約を締結した。次いでイギリス・ロシア・オランダとも類似の内容の和親条約を結んだ。ここに200年以上にわたった鎖国政策から完全に撤退した。

1858年6月、わが国は屈辱の不平等条約を結ぶことになる。それが、大老・井伊直弼(いいなおすけ、1815~60)の手で進められた日米修好通商条約であった。 この条約では、神奈川(下田→横浜)・長崎・新潟・兵庫(神戸)の開港や江戸・大坂の開市のなどが規定されたほか、わが国は日本に滞在する自国民への領事裁判権を認め(治外法権の規定)、関税についても日本に税率の決定権がない(関税自主権の欠如)などを許容した。

ひとつに妥協すると、次々と新たな圧力が襲ってくる。幕府はこのような不平等条約を、ついでオランダ・ロシア・イギリス・フランスとも結ばざるを得なくなった(安政の5カ国条約)。

不平等条約の改正が原動力となって、わが国は国際社会の中で近代的自立国家を目指した努力を開始した。 この近代的自立国家の歩みの延長線上に出てくるのが日清、日露の二つの戦争である。

公武合体論と尊攘運動の高まり

日米通商修好条約の締結当時、第13代将軍・徳川家定(いえさだ、1824~58)は幼少から病弱で子供ができないとの懸念から、早くから跡継ぎ問題を起き、それを巡って一橋派と南紀派が対立していた。

一橋派とは一橋徳川家の慶喜(第15代将軍・徳川慶喜、よしのぶ、1837~1913)を推す派である。
一方の南紀派は紀州徳川家の藩主・徳川慶福(よしとみ)を推す派である。

慶喜の父は、井伊直弼との政争で有名な徳川斉昭(なりあき、1800~60)である。斉昭は会沢正志斎(※吉田松陰が感化された人物、わが国の情報史(13)参照)のもとで水戸学を学び、藩校・弘道館を作り、学問を奨励し、藩政改革で成果を挙げるなど、聡明な指導者であった。 そして西洋の文物を取り入れることには積極的であったが、尊王攘夷、開国反対論者であった。

慶喜が将軍になれば、斉昭が大御所として権勢を振うことを明らかであった。

これを警戒したのが南紀派である。
南紀派 の筆頭である彦根藩主・井伊直弼や、老中・堀田正睦(ほったまさよし、1810~64)であった。 彼らは「日本は開国すべし」との信念を持っており、通商条約の調印を推し進めようとした。だから、斉昭の存在は彼らにとってやっかいであった。

つまり、跡継ぎ問題は「開国か非開国か」を巡る政争であったのである。

井伊と堀田は跡継ぎ問題では、慶福改め家茂(第14代将軍・徳川家茂、いえもち、1846~66)を将軍の跡継にすることに成功した。また、日米修好通商条約の調印を強行した。

しかし、日米修好条約への調印は天皇の勅許を得ない違勅調印であったために、孝明天皇が大激怒した。 堀田は孝明天皇(1831~67)から勅許を得ようとして努力したが、孝明天皇は穏健攘夷論者であり、開国には断固として反対であった。だから、井伊や堀田はやむをえずに違勅調印に走ったというわけである。

こうしたことから、一橋派の大名、そして尊王と攘夷をとなえる志士から強い非難が起こった。井伊は強硬な態度でこれらの反対派をおさえ込み、反対派の家臣たち多数を処罰したのである。これが世に有名な安政の大獄である。

安政の大獄では、斉昭、慶喜、松平慶永らが隠居・謹慎を命じられ、越前藩士の橋本左内や吉田松陰は捕えられて死刑となった。 安政の大獄以後、全国各地では下級武士による尊王攘夷論が跋扈した。

1860年、尊攘派は井伊を江戸城桜田門外で暗殺(桜田門外の変)するという暴挙に出る。 桜田門外の変ののち、幕政の中心となった老中・安藤信正(あんどうのぶまさ)は、朝廷(公)を幕府(武)の融和をはかる公武合体の政策を取り、孝明天皇の妹・和宮(かずのみや)を将軍・家茂の妻に迎えた。

しかし、この政略結婚があだとなり、尊王攘夷論者から非難される。結局、安藤は水戸藩士から襲撃され負傷し、老中を退いた(坂下門外の変)。

ここで薩摩藩が独自の公武合体論の立場から仲介を買って出た。藩主の島津忠義の父である島津久光が 1862年に江戸にくだり、幕政改革を要求した。
幕府は薩摩藩の意向を入れて、松平慶永を政治総裁職に、徳川慶喜を将軍後見職に、京都守護職をおいて会津藩主・松平容保(まつだいらかたもり)をこれに任命した。

他方、妥協的な公武合体運動に対立する動きも生じた。それが朝廷権力の復活運動として強力に展開されることになる。とくに尊攘派の長州藩がその急先鋒となった。 長州藩はテロ行為を含む過激な事件を起こし、幕府方と真っ向から対立した。 1863年5月、長州藩は下関海峡を通過する諸外国船を砲撃し、攘夷を実行に移した。

1863年9月、長州藩を中心とする尊攘派の動きに対し、会津・薩摩藩は穏健攘夷派である孝明天皇らとともに、朝廷の実権を握っていた長州藩勢力と過激攘夷派である三条実美らを京都から追放した(この事件は旧暦の文久3年8月18日のことで「8月18日の政変」と呼ばれる)。

この政変の“復讐劇”とばかりに、長州藩が引き起こしたのが1964年8月の禁門の変(蛤御門の変)である。長州藩は勢力を回復するために、会津藩主・京都守護職の松平容保らの排除を目指し、京都市中で大乱闘を繰り広げたのである。 この政変で長州藩は敗北した。京都市中は戦火により約3万戸が焼失したとされる。

禁門の変後、長州藩は朝敵となった。幕府は1864年8月、長州征討(第一次)を開始する。同時期、貿易の妨げになる攘夷派に一撃を加える機会を狙っていた列国は、イギリスを中心にフランス・アメリカ・オランダ四国の連合艦隊を編成して、下関の砲台を攻撃した(馬関戦争、四国艦隊下関砲撃事件)。 長州藩は幕府方に恭順を示すとともに、武力での攘夷を断念し、海外から新知識や技術を積極導入し、軍備・軍制改革に着手した。

薩摩藩は長州藩よりも早くに列国の洗礼を受けた。1863年8月、前年の生麦事件(神奈川県横浜市鶴見区生麦において、江戸から帰る島津久光の行列を横切ったイギリス人を殺傷した事件)の報復のため鹿児島湾に侵入してきたイギリス軍艦と薩摩藩が激突した(薩英戦争)。薩摩藩はイギリス軍艦の砲撃の激しさに驚愕した。

討幕運動の高まりと幕府の滅亡

薩英戦争により、薩摩藩はイギリスに接近する開明政策に転じた。西郷隆盛、大久保利通ら下級武士の改革派が藩政を掌握することになった。

一方、馬関戦争により、吉田松陰が育てた高杉晋作、桂小五郎(のちに木戸孝允、きどよしたかと改め、1833~77)は攘夷を断念した。 かくして、封建的排外主義を捨てて積極開国による富国強兵を目指す新しい反幕勢力が生まれた。

そして坂本龍馬(さかもとりょうま、1836~67)、中岡慎太郎(なかおかしんたろう、1838~67)らの仲介により薩長同盟が秘密裡に結ばれ(1866年)、反幕運動は討幕運度へと化していたのである。

徳川家茂のあと15代将軍になった徳川慶喜は、フランスの援助のもと、幕政の立て直しにつとめた。しかし、薩長両藩は1867年に武力倒幕を決意した。 このため、土佐藩士の後藤象二郎(ごとうしょうじろう、1838~97)と坂本龍馬が、前藩主の山内豊信(とよしげ、容堂)を通して、慶喜に討幕派の機先を制して政権を返還するようを進めた。 

これは、将軍からいったん政権を朝廷に返させ、朝廷のもとに諸般の連合政権を樹立する構想であった。 慶喜は慶応3年10月14日(1867年11月9日)、この策を受け入れた。これを「大政奉還」という。

しかし、薩長連合は倒幕の名分を失わせられたうえ、実質は慶喜体制が継続されるこの体制に不満を持った。そこで、新体制を樹立するためのクーデターを企てた。そして1867年12月、討幕派は「王政復古の大号令」を発して、天皇を中心とする新政府を樹立した。 これをもって江戸幕府の260年以上にわたる歴史に終止符が打たれたのである。

戊辰戦争の勃発

しかし、慶喜を擁する旧幕府側が最後の抵抗をはかることになる。1868年1月、慶喜派は大阪城から京都に進撃した。しかし、「鳥羽・伏見の戦い」で新政府軍に敗れ、慶喜は江戸に逃れた。 新政府はただちに慶喜を朝敵として追討する東征軍を発した。

しかし、慶喜の命を受けた勝海舟(かつかいしゅう、1823~99)と東征軍参謀の西郷隆盛(さいごうたかもり、1828~77)の交渉により、1869年に江戸城は無血開城された。 さらに東征軍は東北諸藩の征伐に向かい、会津若松、函館五稜郭を攻め落とした。こうした戦いが1年半近くにわたって続いた。いわゆる戊辰戦争である。

新政府による改革

この間、新政府による政治の刷新が進められ、1868年3月の「五箇条の誓文」では、公議世論の尊重と開国和親などが新政府の国策の基本とされた。 1868年7月、江戸は東京と改め、同年9月に年号が明治と改元された。

翌1869年に京都から東京に首都を移した。 同年1月、木戸孝允と大久保利通(おおくぼとしみち、1830~78)らが画策して、薩摩・長州・土佐・肥前の4藩主に朝廷への版籍奉還を出願させ、多くの藩がこれにならった。

新政府は、旧大名には石高に応じた家禄を与え、旧領地の知藩事に任命した。 1871年、新政府は藩制度の全廃をついに決心し、廃藩置県を断行した。旧大名である知藩事は罷免され、東京居住を命じられ、かわって中央政府が派遣する府知事・県令が地方行政にあたることになった。

かくして、ペルーの浦賀来航から20年弱にして、江戸幕府は討幕され、国内の政治的統一が完成したのである。 歴史用語としては、黒船来航に始まり、廃藩置県に至る一連の激動の時代を総称して、明治維新と呼んでいる。

わが国の情報史(12)

武士道とは士道なり

山鹿素行と吉田松陰

武士道という言葉は明治期に新渡戸稲造の著書『武士道』で世 間に広まった。しかし、武士道は日本建国以来発達してきたものである。それが、徳川時代になって、武士の道徳的規範として確立された。その後、武士道が幕末維新を主導し、日清・日露戦争 における出征軍人の目覚ましい働きを促し、日露戦争における歴 史的勝利に貢献したとされる。

徳川時代における武士道の確立に寄与したのが、吉田松陰(1830~59)の師である山鹿素行(1622~85)である。松陰には二人の傑出した師匠がいる。その一人が兵学の師である素行、もう一人が洋学の師である佐久間象山(1811~64)というわけだ(わが国 の情報史(11)を参照)。

松陰が「家学」というのは山鹿素行の学問のことである。松陰 の著書『武教講録』のなかで「先師」と仰いでいるのは素行であ る。ただし、松陰と素行は 約200年も 時代が隔たるので、当然直接の師弟関係にはない。

松陰の祖先の吉田重矩(しげのり)が、素行の長子である山鹿 藤助の門下生にあたる。また松陰は、叔父で山鹿流兵学師範であ る吉田大助の養子となり、大助死亡後は、叔父の玉木文之進が開いた松下村塾(しょうかそんじゅく)で素行の兵法を学んだとい う関係にある。

これに対して、松陰が時々「わが師」としているのが象山であ る。象山には、1850年に江戸で直接師事している。

儒学の興隆   

武士道を述べる前に、まず徳川時代の儒学の興隆について述べ る必要がある。儒学とは端的にいえば孔子・孟子の教えを学ぶ学問のことである。儒学は社会の身分秩序を重んじ、「中興・礼儀」 を尊ぶこと基本とする。だから儒学は徳川の幕藩体制の安定を支 える上で好都合であった。    

とくに朱子学(南宋の朱熹が興した学問、宋学とも呼ばれる) の思想は大義名分論(平安末期における後醍醐天皇の討幕運動の理論的根拠となった)を基礎に、封建社会を維持するための教学と して幕府に重んじられた。この系譜には林羅山、木下順庵、新井白石などがいる(朱子学派)。

一方、戦国時代に土佐で開かれたとされる南学派も朱子学の一 派である。その系譜からは山崎闇斎(やまざきあんさい、1618~ 82)や野中兼山が出た。闇斎は神道を儒教流に解釈して垂加神道 (すいかしんとう)を説いた。闇斎一門の崎門学(きもんがく) は、神の道と天皇の徳が一体であることを説き、尊王論の根拠と なった。なお、崎門学は陸軍中野学校の教材として用いられた。

朱子学に対して中江藤樹(なかえとうじゅ)や熊沢蕃山(くま ざわばんさん)らは、明の王陽明が始めた陽明学を学んだ。蕃山 は、古代中国の道徳秩序をうのみにする儒学を批判し、主著『大学惑問』などで武士土着論を説いて幕政を批判した。このため、 下総古河に幽閉され、そこで病死した。

これに対し、古学派と称せられる山鹿素行や伊藤仁斎らは、外 来の儒学にあきたらず、孔子・孟子の古典に直接立ち返ろうとす る運動を進めた。素行は朱子学を攻撃し、『聖教要録』を刊行し て孔子・孟子の古典に直接立ち戻ることを主張した。このことか ら、幕府によって播磨国赤穂(あこう)に流された。赤穂藩では 赤穂浪士の教育に携わるとともに『武教要録』『中朝事実』など を著した。  

なお、門弟の一人が赤穂藩家老の大石良雄(内蔵助、くらのす け)である。赤穂事件以降、山鹿流兵法は実践的な学問として世の注目を浴びた(「わが国の情報史(10)」)

武士道は儒学をもとに確立されたのか?

以上のように、儒学は徳川時代を支えるための思想であり、平穏な時代における武士の在り様を儒学思想でもって理念化されたのである。このことから今日、武士道は儒学をもとに確立され たとの誤解が生じている。

しかし、のちに『武士道』(1990年)を著す新渡戸稲造は、わ が国の武士道の起源は、封建制が確立した源頼朝の時代よりも先史にある旨を主張し、仏教や日本古来の神道が武士道に与えた影響性について説いている。

そして、上述のようなわが国の儒学の興隆を見れば、中国からの儒学思想を無批判には受け入れてはいない。陽明学や古学派は、当時の中国の思想を批判さえしている のである。このことは素行の著書『中朝事実』が如実に表してい る。

素行の教えこそは幕末、明治期の武士道精神の起源である。素行が他の儒学者と異なる点は、彼が兵法家であることだ。『孫子 諺義』の著書であることが象徴するように素行は孫子兵法の大家である。

一方で素行は『楠木正成一巻書』(1654年)の序文を書 いている。その正成は大江時親から、孫子とともに日本古来の兵 法である『闘戦経』を授けられていた。 つまり、素行が興した山鹿流兵法の源流には「兵は詭道なり」 をモットーとする『孫子』と、「戦い(武)を第一義とし、武は 秩序を確立する」「戦いに勝つためには謀略に頼るのではなく、 正々堂々と戦う」などを説く『闘戦経』の二つの教えがあった。  

そうした素行であったからこそ、太平天国の徳川時代において、 武士がいかに生きるべきかを、その在り様を説く上での説得力が あったのである。

▼素行の士道と『葉隠』武士道  

素行の武士道は「士道」と呼ばれる。武士(もののふ)は平安 時代に発生し、鎌倉、室町、戦国、安土・桃山時代を通じてずっ と戦いに明け暮れた。しかし、徳川時代になって戦乱の世が終わり、武士は「戦い」から解放された。

そこで素行は、百姓は町民などの身分が下の者に対する道徳的 指導者となるよう人格的な修養を努める士道を提唱した。 素行は、生産に従事しない武士たるものは、為政者として高い道徳性を備え、人倫の道を実現し、道徳の面で万民の模範になれ、 と主張した。そして、人倫の道の実現する勇気を奨励し、 (1)気を養う、(2)度量、(3)志気、(4)温籍、(5)風度、 (6)義利を弁ずること、(7)命に安んずること、(8)清廉、 (9)正直、(10)剛操、の心術を養わねばならないとした。

他方、「武士道と云は死ぬ事と見付けたり」という『葉隠』武士道がある。これは、1716年頃、佐賀鍋島藩士の山本常長が口頭で言い伝えたものを、同藩士の田代陣基(つらもと)が書き残したとされる。 『葉隠』は武士としての理想像を説いたものであり、山鹿素行な どが提唱した儒学的武士道とはやや異なる。

1941年陸軍省の東条英機によって制定された『戦陣訓』には「生きて虜囚の辱めを受けず。死して罪過の汚名を残すこと勿(なか)れ」との有名な一句があるが、これは『葉隠』に代表される死生観に影響を受けたと の見方がある。

他方、素行の教えは、1882年に明治天皇から下賜された「軍人勅諭」の5箇条の徳目、すなわち、忠節、礼儀、武勇、信義、質素に反映された。この5つの徳目は、いずれも山鹿素行の士道が掲げる武士の規範であった。つまり、素行の士道が、天皇と国民の「忠義」の関係性を定義し、明治維新後の日本の秩序形成を目指したといえるのである。

武士道とインテリジェンス

畠山清行著・保坂正康編『秘録 陸軍中野学校』には次のような一文がある。

「つぎに忍者だが、これを諸大名がかかえて諜報を集めるという ことになれば、幕府の弱点や痛いところをさぐられる心配がある。 そこで、伊賀者・甲賀者の忍者をすべて幕府の直属として『お庭番』という組織をつくりあげる一方、御用学者に命じて『武士道』 なるものを盛んにとなえさせた。つまり、『内緒で人の欠点や弱点を探ることは、武士にあるまじき卑怯な行為である』とうたいあげたのである。 太平洋戦争の敗因をさぐる場合、日本の歴史家 は、明治以前にさかのぼることを忘れているが、遠因はじつにこ の徳川幕府の政策にあるのだ。幕府時代の武士道精神をそのまま うけついだから日本の軍隊は、諜報機関を卑怯なものとして、もっともそれが必要な陸軍大学にさえ、太平洋戦争がはじまるまで、 諜報を教える課目はなかったのである。(以下、略)」 

ここでの武士道が『葉隠』武士道なのか、山鹿素行の士道なのか、あるいは山岡鉄舟の唱えた「武士道」なのかは定かではない。 ただし、武士道がインテリジェンスの軽視を生んだという見方も 確かに存在している。

上述の「軍人勅諭」では、「軍人たらんもの暫も忽にすへからすさて之を行はんには一の誠心こそ大切なれ」と述べられている。 つまり、忠節、礼儀、武勇、信義、質素の五つの徳目の最後の締 めくくりのとして「一つの誠心」が示されている。

また「抑此五ケ条は我軍人の精神にして一つの精神は又五ケ条の精神なり」と記述された。つまり、誠は精神の精神、徳目ではな く徳目を徳目たらしめるものであると解釈されるのである。

のちに誕生する陸軍中野学校では「謀略は誠なり」が象徴され るように、「誠」の精神教育が重視された。つまり、武士道にお ける「誠」の存在が、武士道によるインテリジェンス軽視という 風潮を凌駕したとも考えられる。 ただし、軍人教育で教えられた一般的な「誠」と、陸軍中野学 校の「誠」には差異があった。このあたりについては、のちに述 べることとしたい。

わが国の情報史(10) 

江戸時代における兵法の発展

 兵法の伝来

山鹿素行

  『孫子兵法』では、「彼を知り、己を知らば百戦危うからず」と喝破し、5種類の間者(スパイ)を利用した。つまり、兵法が今日のインテリジェンスの源流であることは間違いない。

その兵法のわが国への伝来と発展の歴史については、本連載の「わが国の情報活動の起源」(連載1)と「楠木正成の思想的源流とは」(連載3)において言及したが、要点をおさらいしておこう。

わが国の『孫子』の伝来についてはおおむね三つの説があるが、今日のもっとも有力な説が、遣唐使の吉備真備(きびのまきび)が唐から持ち帰ったとする説である。

真備は、717年に遣唐使として唐に到着し、35年までの18年間にわたり唐に滞在し、ここで『孫子』や『呉子』などを学んだとされる。帰国後、これらの文献を朝廷に献上し、その後、『孫子』の兵法研究が開始されたとみられている。

真備は754年に、二度目の渡唐から帰朝した後で大宰府に派遣されるが、ここで760年、大宰府に派遣された6人の下級武士に諸葛孔明の「八陣の法」や『孫子』の「九地」(第11編)を教えたとされる。

真備は764年、藤原仲麻呂(恵美押勝)の叛乱をわずか数日で鎮圧した。ここには『孫子』の軍事情報理論が活用されたとみられる。

大江氏による兵法の管理

その後、大江家の初期の祖である大江維時(おおえのこれとき、888年~963年)が930年頃唐から兵書『六韜(りくとう)』『三略』『軍勝図(諸葛孔明の八陣図)』を持ち帰ったことが縁で、『孫子』は大江家が門外不出として管理することになった。

その後、大江家第35代の大江匡房(まさふさ 1041~1111年)は、河内源氏の源義家(八幡太郎)に請われて兵法を教えることになる。

匡房は「兵は詭道なり」とする『孫子兵法』は優れた書物ではあるが、必ずしも日本の文化や伝統に合致せず、正直、誠実、協調と和、自己犠牲などの日本古来の精神文化を損なう危険性があると認識していた。

そこで匡房は自ら『闘戦経』を著し、『孫子兵法』を学ぶ者は、同時に『闘戦経』を学ばなければならないと説いた。

その匡房の孫が大江広元(ひろもと 1148~1225)であり、彼は1184年に源頼朝に仕え、鎌倉幕府設立の立役者となった。なお、その後の大江氏は毛利氏をはじめとする武家の祖となる。

その後、大江家第42代の大江時親(ときちか ?~1341)が、河内の観心寺で楠木氏に兵法を伝授したとされる。楠木正成は幼少の頃から、時親から孫子の兵法を学んでいたとされる。

なお大江時親は一般的には毛利時親と呼ばれることの方が多い。大江広元が相模国毛利荘を四男・李光に譲り、李光の四男の経光が越後国佐橋荘と安芸国吉田荘を保持した。経光は大江家第39代となるが、李光も経光もそれぞれ毛利李光、毛利経光と呼ばれる。そして李光から佐橋荘と吉田荘を譲られたのが四男の時親である。時親は、毛利元就など安芸毛利氏の始祖とされる。

徳川幕府の兵法は武田氏の兵法が源流

戦国時代には、兵法は毛利氏のほかには武田氏などに伝えられた。その兵法は武田氏によって甲州流軍学へと発展し、これがのちに徳川に流れることになる。

甲州流軍学の創始者として名高いのは、武田氏の家臣の子として生まれた小畑景憲(おばたかげのり 1572~1663)である。

彼は、武田信玄や勝頼の戦略・戦術を研究して、甲州流軍学を確立した。

景憲の弟子が北条氏長(ほうじょううじなが 1609~1670)である。彼は、景憲から甲州流軍学を学び、それを改良して北条流兵法を開いた。

氏長の弟子が山鹿素行(1662~1685)である。素行は、甲州流と北条流の兵法を学び、山鹿流兵法を開いた。

山鹿素行が江戸時代の兵法を主導

素行は奥羽国会津の浪人の子として生まれたが、6歳で江戸に上京し、9歳のとき、大学頭を務めていた林羅山の門下に入り、朱子学を学んだ。15歳のときに、景憲や氏長の下で軍学を学んだ。素行はそのほかにも神道や歌学にも長じた類まれなる博学者であった。

素行はやがて幕府御用達の朱子学を攻撃し、『聖教要録』を刊行して孔子・孟子の古典に直接立地戻ることを主張した。このことから、幕府によって播磨国赤穂(あこう)に流された。

赤穂藩では赤穂浪士の教育に携わった。ここでの研鑽によって、素行は『武教要録』『配所残筆』『山鹿類語』『中朝事実』などの優れた多くの書籍を生み出した。

なお、門弟の一人が赤穂藩家老の大石良雄(内蔵助、くらのすけ)である。赤穂事件以降、山鹿流兵法は実践的な学問として世の注目を浴びた。

山鹿流兵法の源流には『孫子兵法』と『闘戦経』の教えが流れている。なお素行は『孫子諺義』という解説書も記している。

 山鹿流兵法は、謀略・計略・知略からなる。この考え方は『孫子兵法』に基づく。

そして、一方では『闘戦経』の流れも汲み、皇統を尊重する思想と武士道精神が貫かれている。

山鹿流の教えは、幕末期には、勝海舟、日米修好通商条約の批准で活躍する小栗上野介、そして吉田松陰へと受け継がれた。

わが国の情報史(13)

吉田松陰、間諜の重要性を説く

吉田松陰の生涯

山鹿素行と佐久間象山の二人の年代は異なるが、共に江戸時代の思想や兵法に多大な影響を及ぼした。この二人から思想的影響を受けて、さらに修学を重ねて、幕末維新の志士に多大な思想的影響を与えたのが吉田松陰である。  

松陰は優れた思想家であった。長州藩(山口県)萩の松下村塾において久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋、吉田稔麿、入江九一、前原一誠、品川弥二郎、山田顕義、野村靖、渡辺蒿蔵、河北義次郎などの面々を教育していった。  早速、松陰の生涯を簡単に辿ることにしよう。

松陰は1830年(文政13年)8月、長州藩士・杉百合之助(杉常道)の次男として誕生。 1834年、5歳で叔父で山鹿流兵学師範である吉田大助の養子となり、兵学を修める。

1835年、6歳の時、大助が死亡したため、叔父の玉木文之進(1810~1876)に師事して『孫子』と『山鹿流兵法』を修学。 1838年、9歳の時に明倫館の山鹿流兵法師範に就任。

9歳で師範に就任とは尋常ではない。その後、松陰の驚くべき進化はさらに続く。

1841年、11歳の時、藩主・毛利慶親への御前会議で名を成す。 1842年、12歳のとき、アヘン戦争(1840~42)で清が西洋列強に大敗したことを知って、松陰はさらに西洋流兵術の重要性についても認識する。

1845年、15歳で、同じ長州藩の山田亦介(またすけ)より「長沼流兵法」を教わり、山鹿流、長沼流の江戸時代の兵学の双璧を収めた。

1850年(嘉永3年)、21歳の時に九州に遊学する。 この九州遊学では、熊本で宮部鼎蔵(みやべていぞう)と知り合い、生涯の友人関係を結んだ。

1851年に江戸に出て佐久間象山に師事する。 象山はクラウゼウィッツの『戦争論』を日本ではじめて研究した人物であ り、松陰は、ここで象山門下の勝海舟、長岡藩の河井継之助、土佐藩の坂本龍馬、福井藩の橋本佐内、久留米藩の真木和泉、熊本藩の宮部鼎蔵らと交流した。

1852年、宮部鼎蔵らと東北旅行を計画するが、約束の出発日を守るため、 長州藩からの通行手形の発行を待たず脱藩した。 この東北旅行は、佐渡から弘前を経て小泊、青森、盛岡、石巻、仙台、米沢をとおり、会津若松、日光、足利を経由して江戸に帰った。まさに東北を一周の旅であった。
しかし、江戸に帰着後、脱藩の罪に問われて士籍剥奪・世禄没収の処分を受けた。

 1853年、24歳のとき、諸国遊学の許可が下り、第二回の江戸遊学に出かけた。ちょ うどこの時に、ペリー艦隊の浦賀来航を知り、象山と黒船を遠望視察した。 その後、象山の薦めもあって、松陰は外国留学を決意する。同郷で足軽の金子重輔と長崎に寄港していたプチャーチンのロシア軍艦に乗り込もうとするが、これに失敗した。

1854年、またも金子重輔とともにペリーが乗船している旗艦ミシシッピ 号に自ら乗り込んで、アメリカへの渡航を嘆願した。しかし、残念ながら、この要求はペリーに拒絶され、目的を果たすことができなかった。(下田事件)。

幕府に自首し、萩の野山獄に幽囚され、かくして松陰の自由行動は終わる。この獄中で密航の動機とその思想的背景を『幽囚録』に記した。

1855年、野山獄を出され、杉家に幽閉の処分となる。57年(安政4年) に叔父の玉木が主宰していた松下村塾の名を引き継ぎ、杉家の敷地に松下村塾を開塾した。以来約2年間、高杉晋作をはじめ幕末維新の指導者となる人材を多く輩出した。

1858年、29歳のとき、幕府が無勅許で日米修好通商条約を締結したこと を知って、松陰は激怒し、老中・間部詮勝(まなべあきかつ)の暗殺を謀るが、警戒した藩により再び投獄される。

1859年、幕命により江戸に送致。10月27日、伝馬町の獄舎で斬首刑に処 せられる。享年30歳であった。

 吉田松陰の時代背景

幕末は1853年のペリーの黒船来航から、1869年の戊辰戦争までの期間とされる。このわずか16年間は、わが国のもっとも激動な時代であった。 「西洋の衝撃」を受けた幕藩体制の動揺とナショナリズムの高まりのなか、日本が鎖国から開国へと舵取りし、「尊王攘夷」の思想の一方で西洋文明を取り入れた文明開化に向かう歴史であった。

この幕末における最大のヒーローが吉田松陰である。しかし、松陰はこの幕末期の前半6年間に生存したのみであり、30歳という若さで夭折し、これといった政治的偉業は残していない。 にもかかわらず、松陰の思想が幕末の志士たちの心を動かし、近代日本の幕開けの原動力になっていたのである。  

松陰の愛国的な生き様は当時の時代背景に求められよう。彼は30年という短い生涯のなか、旅人として生きる。それは、迫りくる「西洋の衝撃」という未曽有の危機に対し、まず孫子兵法の「敵を知り、我を知る」ことの具現から発した。 松陰が脱藩し、罪を問われた東北旅行の目的は、異国に対する北方の備えを検分するためであった。

高まる対外脅威

18世紀末から北方には、ロシアによる浸透が進んでいた。1789年(寛政元年)、国後島のアイヌによる蜂起がおこった。これは、松前藩に鎮圧されたが、幕府はアイヌとロシアの連携の可能性を危惧した。

1792年、ロシア使節ラクスマンが根室に来航し、伊勢国白子の漂流民大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう)を届けるとともに、通商を求めた。 その際、江戸湾入港を要求されたことが契機となり、幕府は江戸湾と蝦夷地の海防の強化を諸藩に命じた。

1804年、ロシア使節レザノフが、ラクスマンのもちかえった入港許可証をもって長崎に来航した。幕府はこの正式使節に冷淡な対応をして追い返したため、1807年、レザノフの部下が樺太や択捉などの各地で略奪行為を働き、日露間を一挙に緊張化した。

わが国は1808年、間宮林蔵に命じて樺太とその対岸を探査させるなど、北方ロシアの脅威に備えた。1811年、日本に接近しつつあったディアナ号艦長であるゴローウニンが国後島に少人数で上陸した。彼らは日本の警備兵に捕えられ函館・松前に監禁された。

これに対してロシア側は翌年、択捉航路を開拓した淡路の商人・高田屋嘉兵衛を抑留した。嘉兵衛は1813年に送還され、その尽力でゴローウニンは釈放され、この事件(ゴロー人事件)は解決した。これにより、日本とロシアとの関係はいったん改善された。

しかし、1808年、イギリス軍艦フェートン号が、当時敵国となったオランダ船の拿捕を狙って長崎に入り、オランダ商館員を人質にし、薪水・食糧を強要するという事件(フェートン号事件)も起きていた。 そこで、幕府は1810年、白川・会津両藩に江戸湾の防備を命じた。

その後も、イギリス船、アメリカ船が日本近海に出没したため、ついに1825年、江戸幕府は異国船打ち払い令を出し、外国船の撃破を命じた。 37年には、アメリカ商船のモリソン号が浦賀港に接近し、日本人漂流民7人を送還して日米交易を図ろうとしたが、幕府は異国船打払令にもとづいてこれを撃退させた(モリソン号事件)。

揺れる国内情勢

一方、国内では1833年から始まる天保の大飢饉で、農村や都市には困窮した人々が満ち溢れ、百姓一揆や打ちこわしが続発した。36年の飢饉はとくに厳しく、餓死者が全国各地であいついだ。

1937年、大阪奉行所の元与力で陽明学者の大塩平八郎は、貧民救済のために門弟や民衆を動員して武装蜂起した。これはわずか半日で鎮圧されたが、大阪という重要な直轄都市で、幕府の元役人であった武士が主導して、公然と武力で抵抗したことは、幕府や諸藩に大きな衝撃を与えた。

その波紋は全国に及び、国学者生田万(いくたよろず)が大塩門弟として称して越後柏崎で陣屋を襲撃したり、各地で大塩に共鳴する百姓一揆がおきた。

「内憂外患」の言葉に象徴される国内外の危機的状況に対し、幕府勢力が弱体化して威信を発揮できなくなると、これにとつてかわる上位の権威としての天皇・朝廷が求められ始められることになる。 こうしたなか、水戸の会沢正志斎(あいざわせいしさい)は1825年に『新論』を著し、天皇を頂点に位置付ける国体論を提示した。

松陰の思想と行動

吉田松陰は自ら弟子に送った手紙の中で「僕、孫子に妙を得たり」と書き残しているほどに、『孫子』の解釈には自信を持っていたようである。 松陰の兵法修学の中枢をなした山鹿流兵法は、謀略、知略、計策の三本柱からなるが、これらは『孫子』第1編「始計」の五事・七計・詭道に該当している。(家村和幸『図解孫子兵法』、並木書房)

さらに、松陰が生きた時代は、先述のようにロシアや欧米列強からの侵略の脅威をいかに対処するかが課題であった。 山鹿流兵法の三本柱のうちの謀略において、松陰は五事(道・天・地・将・法)のうちの道・将・法の三事に重きを置いて、これを「主本」と名づけた。そして、軍事とは、道・将・法という人のなすべき最高の道理であるのだから、いっさいの私的な思いを排して、毅然として自ら天下国家のために尽せと主張した。そして、わが国の有史以来、兵権が朝廷にあるのが武義(ぶぎ)の「盛」であり、兵権が武臣に帰したが武義の「衰」である、とした(前掲家村『図解孫子兵法』)。

つまり松陰は、天皇を中心とした道義に基づく国家を確立せよと説いたのである。そして全国で西洋人の侵寇の意図を喪失させる「武備」を完成することや、とくに皇室を中心とした精神的武備が重要であるなどを説いた。

こうした松陰の兵学思想には、山鹿素行の教えに加えて、先述の東北遊学において、水戸で正志斎と面会したことの影響が大きかった。 松陰は『東北遊日記』のなかで、「会沢(正志斎)を訪(とぶら)ふこと数次、卒(おおむ)ね酒を説(まう)く。……会々(たまたま)談論の聴くべきものあれば、必ず筆を把(と)りて之を記す。其の天下の事に通じ、天下の力を得る所以か」と記した(宮崎正弘『吉田松陰が復活する!』並木書房)

松陰はほとんど酒を飲まなかったが、50歳になろうとする正志斎の流儀に合わせた、微笑ましい松陰像が浮かぶ。しかも、酒席であっても、重要な会話は筆記して備忘録を取った。

このほか、水戸では『大日本史』などから、水戸学の歴史観に強い影響を受けて、「尊王攘夷」の思想的を確立していた。また、和気清麿呂、楠木正成の偉業を知った。  

松陰の武士道

国家の国難には自らを犠牲にする松陰の精神には、武士道が影響していた。この武士道は山鹿素行の士道の影響を受けている。 新渡戸稲造は、『武士道』のなかで、吉田松陰にふれ、「武士道は一つの無意識的かつ抵抗し難き力として、国民及び個人を動かしてきた。新日本のもっとも輝かしい先駆者の一人たる吉田松陰」として、「かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂」の松陰の辞世を紹介している。

松陰が自ら犠牲となり、間諜となり、留学を志した経緯にも武士道精神が色濃く反映していたのである。

松陰のインテリジェンス・リテラシー

山鹿流兵法の二つ目の柱である知略とは、国外の事を知って、比較し、実状を把握することである。松陰は知略には七計のみならず、その手段としての「用間」をとくに重視すべきであるとした。  

こうした思想は、松陰が師事した佐久間象山から影響を受けた。象山は1853年のペリー来航の危機に、「下田ではなく横浜をすぐに開港すべきだ」「それがいやならオランダから軍艦を輸入し、将来有為な若者をオランダへ留学させて造船を学ばせよ」として、開国論や国防論を唱えた。

1854年3月の日米和親条約の締結では、象山は、鎖国のためにアメリカの内部事情も知らないままに弱腰で外交交渉に臨んだ幕府を批判した。 インテリジェンスがなくては「尊王攘夷」であれ、「開国」であれ、戦略を立てられない。象山は「私のような身分の低い家臣ではあるが、幕府のやり方とは別に、敵の謀を失敗させることで勝つという策略がある。風船を手に入れてワシントンまで飛んでいけないものか」と願っていた。

しかし、象山には藩と日本を離れがたい事情があった。そこで、自分の代わりにこの務めを松陰に果たしてもらおうとした。松陰は武士道精神から、象山の期待に応えようとした。しかし、松陰はそれに失敗し、牢獄に入れられた。

松陰は『幽囚碌』のなかで、今こそ「用間」を世界中に派遣して、海外の事を知るべきだと指摘した。松陰は、日本にとって知っておくべき国々とは、欧米諸国、オーストラリア、シナ、朝鮮などであり、それらに関する伝聞や文書だけからの貧弱な知識に頼るのは、策を得たものではない。俊才を海外に送り、その実情を視察させるものでなければ役に立たないと主張した。 まさにヒューミントの重視である。

日本の歴史から、再び消されようとしている松陰

松陰が鎖国の禁をおかしてまでも海外渡航を企てたのは、自らが「上智」の間者となって、命を懸けて国家防衛に不可欠なインテリジェンスを得ようとしたのである。 さて、現在、わが国のインテリジェンスに携わる者が、どれほどの者が吉田松陰について知っているのだろうか? 

筆者の陸上自衛隊時代、ほとんどの者は吉田松陰の名前くらいしか知らなかった。 これも、GHQによる占領政策、戦後の左翼主義が、松陰を軍国主義として断罪し、歴史から葬りさろうとした影響なのかもしれない。筆者は「松陰を知らずして、わが国のインテリジェンスを語る資格なし」と言いたい。

高校と大学の教員らで作る「高大連歴史教育研究会」(会長=油井大三郎・東京大学名誉教授)が、大学入試で歴史の細かい用語が出題され、高校の授業が暗記中心になっているのは問題として、教科書の本文に乗せ、知識を入試で問う用語を現在の3500語程度から約半分にすべき、としている。

このなかで、吉田松陰の名前は、坂本龍馬や武田信玄などともに消されようとされている。彼らが果たした「実際の役割は小さい」ということが理由だそうだ。 しかし、政治的功績は残さずとも、後世に多大な思想的、精神的な影響を与えた人物を、どうして「実際の役割が小さい」といえるのか?

「高大連歴史研究会」の思想的背景を知る必要があるのではないか!

わが国の情報史(11) 

洋学の隆盛と対外インテリジェンス

▼ 洋学の魁(さきがけ)、新井白石

新井白石

18世紀になると、学問・思想の分野では幕藩体制の動揺という現実を直視して、これを批判し、古い体制から脱しようとする動きもいくつか生まれた。その一つが洋学である。 

鎖国の影響により、西洋の学術・知識の吸収は停滞していた。しかし、18世紀はじめに天文学者である西川女見(にしかわじょけん1648~1724)や、儒学者の新井白石(あらいはくせき1657~1725)が世界の地理・物産・民族などを説いて、洋学の魁となった。

なかでも新井白石は当代随一の博識家であり、洋学や対外インテリジェンスの面において後世に大きな影響を及ぼした。

ただし白石は洋学者ではない。1686年、白石は朱子学者・木下順庵(きのしたじゅんあん)に入門して朱子学を学んだ。93年、順庵の推挙で甲府藩主・徳川綱豊(のちの6代将軍・家宣)の儒臣となる。白石37歳の時である。

1704年、白石は幕臣にとりたてられ、家宣(いえのぶ)の将軍就任(1709年)後は家宣を補佐し、幕政を動かす重要な地位を占めた。
家宣が12年に病死した翌年、家宣の子供の家継(いえつぐ)が、わずか4歳で7代将軍に就任した。

白石は御用人・間部詮房(まなべあきふさ)とともに幼将軍・家継(いえつぐ)を補佐した。しかし、その家継はわずか8歳で夭折し、1716年に8代将軍に吉宗が継位すると、白石は詮房とともに失脚する。失脚後の白石はひたすら著作活動に没頭した。

政治家としての白石は儒学思想を根本とし、教化・法令などによって世をおさめる文治政治(「正徳の治」)をおこなった。外交面では朝鮮使節の待遇改め(簡素化)、経済面では財政再建のために良質貨幣の鋳造などの改革を行った。
しかし、極端な文治主義であったため、幕臣の反対が多く、しかも根本的な経済政策を欠いたため、一種の理想に終わった。

それよりも真骨頂なのは学者としての白石である。白石がとくに力を注いだのが歴史学の研究である。『読史余論』(とくしよろん)などの優れた書籍を多く執筆し、国体思想における啓蒙の師となった。

1708(宝永5)年、白石を洋学の魁として世に知らしめた事件が発生する。シドッチ密航事件である。イタリア人宣教師シドッチがキリスト教布教のため屋久島に潜入して捕らえられた。彼は江戸小石川のキリシタン屋敷に幽閉され、5年後に死ぬことになる。

1709年、白石は江戸で計4回にわたり、シドリッチに尋問した。これにより、彼の東洋来訪の経緯のほか、西洋の世界地理・歴史・風土人情、世界情勢及び西洋における自然科学の発展趨勢などに関する広範な知識を得た。

このほか、1712年初、白石は江戸に参府するオランダ商館長などからも、さまざまな海外事情を得た。こうして得た知識をもとに書かれたのが『西洋紀聞』と『采覧異言』である。

『西洋紀聞』は1715年頃に完成したとされるが、鎖国下のためになかなか公表されなかったが、1807年以来、広く流通し、鎖国下における世界認識に大いに役立った。

『采覧異言』は、日本最初の体系的な世界地理の学術書として評価が高い。これは、単に地理学への影響にとどまらず、各国の軍事制度への考察も踏まえており、のちのわが国の海防論や富国強兵論の根拠となった。

つまり、白石の書籍が後世に西洋に対するインテリジェンスの関心を切り開き、のちの国防体制の礎を築いたのである。

▼ 蘭学の隆盛

洋学と言えば、江戸時代初期にはスペインやポルトガルから日本に伝わってきた学問が中心であった。したがって「南蛮学(蛮学)」と呼んでいた。

しかし、徳川吉宗(1684~1751)の享保年間(1716~1736)において、蘭学が隆盛することになる。つまり洋学は蘭学として発達し始めた。

蘭学はその字面(じづら)から「オランダ学」を意味する。しかし、それは片面的な解釈であるといえよう。
本来の蘭学は、江戸時代から幕末の開国にかけての西洋に関する学問、技術、西洋情勢に関する知識および研究である。主としてオランダ語を媒体として研究されたので蘭学という。

8代将軍・吉宗は漢訳制限をゆるめて、青木昆陽(あおきこんよう1698~1769)および野呂元丈(のろげんじょう1694~1761)にオランダ語を学ばせた。彼らはオランダ通詞からオランダ語を学び、『和蘭話訳』(1743年成立)や『和蘭文字略考』(1746年成立)を著した。

これが蘭学を学ぶ者の語学的基礎となったのはいうまでもない。

蘭学はまず医学の分野において発達した。1774年、昆陽からオランダ語を学んだ前野良沢(まえのりょうたく1723~1803)、町医者の杉田玄白(すぎた1733~1817)が、共同で西洋医学の解剖書を記述した『解体新書』を著した。

その後、蘭学は急速に隆盛し、医学から天文学、本草学(博物学)、兵学、物理学、化学などの分野へと拡大した。

蘭学隆盛の立役者には大槻玄沢(おおつきげんたく1757~1827)や宇田川玄随(うだがわげんずい1755~97)、平賀源内(1728~79)らがいる。

玄沢は『蘭学階梯』という蘭学の入門書を著し、江戸に芝蘭堂(しらんどう)を開いて多くの門人を育てた。

玄随はもともと漢方医であったが、杉田玄白や前野良沢らと交流するうちに蘭学者へと転じ、芝蘭堂で学び、のちに西洋の内科書を訳して『西洋内科撰要』を著した。

源内は長崎でオランダ人・中国人とまじわり本草学を研究した。のちに江戸に出て、学んだ科学の知識をもとに物理学の研究で成果を収めた。今日は、江戸の大天才、異才、発明王、日本のダ・ヴィンチなどと呼ばれ、巷で有名である。

▼ 地理学の発展

蘭学の影響により発達した学問の一つに地理学である。地理学とインテリジェンスの関係は深い。

なぜならば、他国の情勢を正確に知るために地図が必要である。国土を防衛するためにも地図が不可欠である。その地図を作成するために天文・測量・観測などの地理学が要求されたからである。

わが国の地図の作成における最大の功労者が、高橋至時(よしとき 1764~1804)、その子景保(かげやす1785~1829)、そして伊野忠敬(いのうただたか1745~1818)である。

幕府天文方の至時は、西洋歴を取り入れた寛政暦を1797年に完成した。また、天文方に「蛮所和解御用(ばんしょわげごよう)」を設け、景保を中心に洋書の翻訳に当たらせた。景保は語学の達人であり、オランダ語、ロシア語、満州語に通じており、多くの洋書を翻訳した。

なお、「蛮所和解御用」は幕末期に洋学の教育機関である蛮所調所となり、近代以降における大学の前身となった。

1804年、景保は至時の跡を次いで幕府天文方に就任した。当時、西洋諸国の東洋進出によって日本近海に異国船が出没し始めた。幕府は国策上の必要に迫られ、07年に世界地図の作成を景保に命じたのである。

景保は1780年製のイギリス、アーロスミスの世界図を『世界図』に基づいて、東西の多くの資料や、間宮林蔵(まみやりんぞう)の樺太への調査報告なども取り入れて、1810年に『新訂万国地図』を作成した。

▼ 伊能忠敬による日本地図の完成

一方、忠敬は隠居後に学問を本格的に開始し、全国を測量して歩き、最初に日本地図を作製した人物として有名である。

1795(寛政7)年に上京し、江戸にて幕府天文方の至時に師事し、測量・天文学などをおさめた。この時、忠孝は50歳、師匠の至時が31歳であったが、学問において年功序列は無用ということである。

至時は、自らが完成した寛政暦に満足していなかった。そして、暦をより正確なものにするためには、地球の大きさや、日本各地の経度・緯度を知ることが必要だと考えていた。
そこで、至時と忠敬は、江戸から蝦夷地までの各地の経度・緯度を図ることにした。

その頃1792年にロシアの特使アダム・ラクスマンが、伊勢国の漂流民大黒屋光太夫を連れて、根室に到着した。
その後もロシア人による択捉島上陸などの事件が起こった。これが蝦夷地の調査や地図作成の必要性を認識させた。

至時はこうした北方の緊張を踏まえた上で、蝦夷地の正確な地図をつくる計画を立て、幕府に願い出た。なかなか、幕府の許可は下りなかったが、苦心の末、忠敬が第一次測量のため蝦夷地へ向かった。時は1800年、忠敬が55歳の時である。

忠敬の測量は1800年から16(文化13年)まで及び、足かけ17年をかけて日本全国を測量して『大日本沿海輿地全図』を完成させ、国土の正確な姿を明らかにした。

ただし、忠敬が死亡(1818年)時には、実際には、地図はまだ完成していなかった。そこで忠敬の死は隠され、高橋景保を中心に地図の作成作業は進められ、1821年に『大日本沿海輿地全図』と名付けられた地図はようやく完成したのである。

▼ 景保とシーボルト事件

この地図が新たな事件を呼ぶことになる。それがシーボルト事件である。

シーボール(1796~1866)はドイツの医師である。江戸時代後期の1823年長崎オランダ商館の医師として来日した。翌年長崎郊外の鳴滝に診療所を兼ねた学塾(なるたきじゅく)を開き、伊藤玄朴、高野長英、黒川良安ら数十名の門下に西洋医学及び一般科学を教授した。

シーボルトはオランダ商館長の江戸参府に随行し、半年間の江戸滞在で天文方を勤める景保と知り合いになる。そして忠敬が作成した『大日本沿海與地図』の縮図を景保から受領した。
景保はシーボルトの持つ貴重な情報が欲しくて、禁制品の地図を渡したのである。つまり、景保もまた、インテリジェンスの人であった。

5年の任期を終えたシーボルトは1828年9月、帰国の途につく。しかし、その際に禁制品である日本地図が発見された。地図の発見経緯については、暴風雨にあった乗船の積荷から発覚した、景保と確執のあった間宮林蔵が密告した、などの説がある。

シーボルトはスパイの容疑を受けて糾問1ヵ年の末29年10月に海外追放となり、再入国禁止を宣告された。景保は翌年獄死し、多数の関係者、洋学者が逮捕された。

いつの世も、地図は常に守るべきインテリジェンスであり、国家の禁制品であった。我が国では現在、1/5万や1/2.5万の地図が市販されているが、多くの国ではこのような地図は禁制品であり、所持すればスパイ罪に問われることもあるので要注意である。

▼ 蘭学の衰退

天保年間(1830年代)には「天保の飢饉」が象徴するように、米不足による治安が乱れ、一揆が発生した。大塩平八郎による武装蜂起など、幕府や諸藩に大きな影響を与えた。

国内問題ら加え、対外問題も続いていた。1837年、アメリカ商戦モリソン号が浦賀に接近し、日本人漂流民7人を送還して日米交易を図ろうとしたが、幕府は異国船内払い令(1825年)に基づいてこれを撃退した。

この事件について、1838年、渡辺崋山(わたなべかざん1793~1841)は『慎機論』を、高野長英(たかのちょうえい1804~1850)は『母戌夢物語』を書いて、幕府の対外政策を批判した。

しかし、翌年、幕府はこれに対して、きびしく処罰した。なお、この処罰事件は「蛮社の獄」と呼ばれるが、高野らの潮流は旧来の国学者たちからは「蛮社」と呼ばれていたためである。

この事件後、蘭学は衰退傾向を辿ることになる。しかし、蘭学がわが国における対外インテリジェンスの萌芽を導いたことは間違いない。

▼洋学への発展と佐久間象山

佐久間象山

これまで述べたように、洋学は江戸時代初期の「蛮学」が中期には蘭学へと発展した。そして、ペリー来航(1853年)による開国以降、オランダ人以外の諸外国人もどんどんと渡来するようになった。

イギリスやフランスなどの学術・文化が、それぞれの国の言語とともに渡来した。もはや洋学は蘭学に止まらず、この時期以降に洋学という用語が一般化した。

洋学は自然科学・社会科学・人文科学の広い分野で西洋の知識・学問を移入するのに力を発揮したが、ことに英学が蘭学にかわって主要な地位を占めた。
また、洋学はわが国の国防体制への啓蒙となり、高島秋帆や佐久間象山(さくまぞうざん1811~1864)らの軍事思想に大きな影響を与えた。

 とくに象山は横浜開港を具申した立役者であり、のちに幕末の志士たちにより徳川幕府が倒され、明治の代が到来するきっかけを作った人物である。福沢諭吉や勝海舟も象山の影響を受けた。

吉田松陰は、アヘン戦争で清が西洋列強に大敗北すると、西洋兵学を学ぶために九州に遊学し、その後江戸に出て象山の門を叩くことになる。

山鹿流兵学師範である松陰は、先師の山鹿素行の思想的影響を受けていたが、松陰に直接的な影響を及ぼした人物としては象山をおいて他はないといえよう。

わが国の情報史(9) 

幕藩体制を支えた忍者集団

幕藩体制の確立

1615年、大阪の役の直後、幕府は大名の居城を一つに限り(一国一城令)、さらに武家諸法度を制定して、大名を厳しく統制した。

三代将軍の徳川家光の時には、大名が国元と江戸とを1年交代で往復する参勤交代制度を義務付け、大名の妻子は江戸に住むことを強制した。

かくして、将軍と諸大名との主従関係が確立され、強力な領主権を持つ将軍と大名(幕府と藩)が、土地と人民を統治する支配体制、すなわち幕藩体制が確立された。

▼忍者を最も愛した徳川家康

こうした体制確立の一方で、諸国の大名が謀反を行なえように水面下での情報収集を強化した。ここで活躍したのが、隠密と呼ばれる忍者集団であった。

ここで少し、忍者の歴史をざっと振り返っておこう。

忍者・忍術は飛鳥・源平時代に発祥し、鎌倉時代には荘園の中で発生した「悪党」が「伊賀衆」を形成し、楠木正成はこれらの衆を使って後醍醐天皇をお守りした。

戦国時代に「伊賀衆」と呼ばれる者たちが、「忍び」と呼ばれるようになり、やがて「忍び」は、各地の大名に召し抱えられて、敵国への侵入、放火、破壊、闇討ち、待ち伏せ、情報収集などを行うようになった。(我が国の情報史(2))
 

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の3人の天下人はともに「インテリジェンス・リテラシー」に長けた人物であった。ただし、忍者の活用については三者三様であつた。

信長は伊賀忍者の集団的謀反性を警戒し、もう一つの忍者集団である甲賀忍者を使って、1581年に伊賀忍者を討伐した(第二次天正伊賀の乱)。

秀吉は、非常に小さい時から忍術というものに慣れていたようであるが、1580年の、織田信長と石山本願寺勢力との戦い(石山合戦)の時、忍者の裏切りによって、四苦八苦したことから、あまり忍者を愛さなかった。

これに対し、家康は忍者を召し抱え、隠密として利用した。すなわち、忍者を愛した人物という意味では家康が一番である。こういう点も、家康が、他の二人より一歩抜き出ていた、と筆者は思う。

▼家康の伊賀越え

これを家康は、信長の死を泉州の堺で知った。この時の家康のお供は、本多忠勝、服部半蔵、武田氏の旧臣の穴山梅雪等のわずか30人余りであった。

家康と忍者との関係は深い。
1582年6月2日、明智光秀による「本能寺の変」が起きた。 この時、家康は信長の招聘によって畿内各地を見学中であった。

家康は、日頃恩顧をこうむった信長のために、光秀と一戦を交えることも覚悟した。   それができなければ、知恩院で腹を切るまでだと、家康はわずかな軍勢を本能寺に向けようとした。

しかし、それを知った忠勝が今いっては危ないから一度三河まで帰って準備を整えて兵をあげてからでも遅くないと、家康を諭した。

そのため家康一行は、伊賀越えをし、伊勢の海から三河に帰ることにした。しかし、最大の難所は伊賀の山中である。そこには、地侍や土豪による一揆の恐れが潜んでいた。実際、家康一行から遅れて出発した穴山梅雪は、土豪に襲われて殺害された。家康、生涯における大きなピンチの一つであった。

▼ 服部半蔵の大活躍

その時、最大の功労者となるのが服部半蔵(はっとりはんぞう)である。彼は伊賀出身であった。半蔵はその地縁・血縁を生かし、伊賀衆と甲賀衆からなる200名の忍者を招いた。

これら忍者を山中の要点に配置し、家康一行を警護し、伊勢の山中を無事踏破し、三河に帰るつくことができた。

こうした縁から、家康は1590年、江戸に居城を構えた際、服部半蔵以下200人の忍者を召し抱え、江戸城下に住まわせ、大奥や無人の大名屋敷などの警備、普請場の勤務状態の観察、全国各地のなどを行うせるようになった。

現在の四谷の伊賀町、神田の甲賀町の地名は、伊賀者、甲賀者が居を構えた名残である。その首領である服部半蔵が護っていた麹町御門が半蔵門となった。むかし、バスツアーガイドが、「この半蔵門はむかし将軍様に象をご覧にいれようとして、ここまで連れてきたが、この門を半分しか入らなかったのでそれで半蔵門といった」という笑い話しがあるが、真っ赤な嘘ということになる。

▼ お庭番制度の確立

200名の忍者集団はやがて、8代将軍の綱吉の時代には、お庭番制度へと発展する。お庭番は幕府の役職であり、将軍から直接の命令を受けて秘密裡に諜報活動を行った隠密である。

時代劇や小説などでは、将軍が庭を散歩すれば、お庭番として入っている隠密がすっと近寄って来る。将軍が隠密に諸国の情勢を見てくるように命じる。するとお庭番は、その場に箒を捨てて、2~3年間の猶予をもらって諸国の情勢を取りに行くといった、描写がよく描かれている。

こうした描写は、脚色された作りものであるが、お庭番は遠国に実状調査に出かけた、これを遠国御用という。テレビドラマのような派手な間諜行動はなかったとみられるが、地方に対する隠密調査が行われた。この調査は多くの支援組織によって支援され、お庭番が隠密となり、地方の実情を調査した。

かくして、現在の警察網のようなネットワークが全国に展開された。このように、江戸時代の平和な時代が訪れると、かつて忍者は、幕府の命で情報を得たり、幕府警護をすることが主な任務となった。お庭番は、その土地の人と仲良くなって情報を聞き出し、幕府にその実情を伝えたのである。孫子でいう「郷間」の活用が行われた。

こうした忍者集団の存在が、徳川260年の太平を保ったと言ってよい。

▼ インテリジェンス・サイクルの確立

 インテリジェンスの理論の中で、インテリジェンス・サイクルという用語がある。これは、使用者が情報要求を発し、収集機関が情報を収集し、集めた情報(インフォメーション)を分析し、インテリジェンスを生成し、使用者に提供する。使用者をインテリジェンスに基づいて、政策決定などの判断を行うというものである。

 我が国の情報体制の欠点でよく指摘されているのが、このサイクルが機能不十分ということである。とくに、国家指導者(総理大臣)から、具体的な情報要求が発出されることがないと言われる。

インテリジェンスに詳しいジャーナリスト・作家の手島龍一氏によれば、この情報要求を実際に発出していた歴代総理は橋本龍太郎氏ぐらいだったらしい。

残念なことに、その橋本総理も一方では、中国女性によるハニートラップ疑惑があるのだか・・・・。

すでに綱吉の時代には、国家トップが情報要求を発出し、これを受けて、忍者集団が隠密として全国における情報収集活動を展開していた。そして、それを下に、幕藩体制の維持に活用した。この点から、江戸時代には国家的なインテリジェンス・サイクルが確立されていたと言えるかもしれない。

たどすれば、もっとインテリジェンス・サイクルは日本の文化として定着してもよかったのではないだろうか?

この点は、今後の一つの検証課題かもしれない。