わが国の情報史(15) 

軍事制度の改革と参謀本部

軍事制度の改革

山県有朋

新たな世界情勢に対応するため、わが国の近代化、国力養成を進めるための政治体制が構想され、模索された。とくに国力養成の観点から軍事制度の改革が急務であった。 以下、軍事制度の改革の概要を時系列で述べることにする。

1868年1月(慶応3年12月)の王政復古により摂政・関白が廃止され、新政府に総裁・議定(ぎじょう)・参与の三職が置かれ、新体制がスタートした。

1868年2月10日(慶応4年・明治元年1月17日)、三職七科制(総裁・議定・参与,神祇事務科・内国事務科・外国事務科・海陸軍事務科・会計事務科・刑法事務科・制度寮が採用され、ここに海陸軍の部署として海陸軍事務科が置かれた。

議定のなかから、海陸軍務総督(小松宮彰人親王、岩倉具視、島津忠義)が、参与のなかから海陸軍務掛(広沢実臣、西郷隆盛、土倉正彦、林通顕、吉井友実)が就任し、練兵・守衛・軍務を担当した。

1868年2月25日、三職七科制を改めて三職八局(総裁・議定・参与,総裁局、神祇事務局・内国事務局・外国事務局・軍防事務局・会計事務局・刑法事務局・制度事務局)として、海陸軍事務科は軍防事務局となった。

1868年6月11日、三職八局の体制を太政官七官(議政官、神祇官、行政官、会計官、軍務官、外国官、刑法官)として、ここに新たに軍務官が置かれた。

1969年6月17日の版籍奉還を経て、8月15日(明治2年7月8日)、官制が大改正され、新たに2官6省(神祇官・太政官,民部省・兵部省・外務省・大蔵省・宮内省・刑部省)が置かれ、軍務官は兵部省(ひょうぶしょう)に再編された。すなわち、中央政府が兵部省を通じて陸海両軍に対する軍令・軍政を司る体制が確立した。

1870年(明治3)10月、新政府は陸軍の兵式にフランス式を採用することを定め、71年2月に薩・長・土三藩が貢献した兵をもって御親兵(のちの近衛兵)を設置し、はじめて政府直属の軍隊をもった。

この兵力を背景として71年7月に廃藩置県を断行して中央集権国家を成立させた。 つまり、明治初期の軍事制度の草分けは、天皇および御所の護衛を目的とする御親兵(ごしんぺい)の設置に始まる。これは1868年の鳥羽伏見の戦い後の軍事的緊張に対応するために設置されたのである。

そして廃藩置県後の軍事体制は国内の内乱対処を想定し、御親兵に代わり鎮台を設置することになる。 1871年には4鎮台(東京、大阪、鎮西(熊本)、東北(仙台))を設置したが、73年に名古屋、広島を加えて6鎮台に拡充した。

1872年2月、兵部省は陸軍省、海軍省に分かれた。この際の陸軍省の行政長官である陸軍卿は欠員であり、次官たる陸軍大輔(たゆう)は文官の山形有朋(やまがたありとも、1838年~1922年)であった。 同年3月に山県は武官職である近衛都督(近衛兵の総司令官)に就任し陸軍中将に任じ、行政官庁の次官(長官代理)を武官が兼任する先例が成立した。

他方、海軍卿も最初は欠員であり、同年5月に勝海舟/安芳(かつ かいしゅう / やすよし、1823年~ 1899年)が文官として海軍大輔に任命された。

山県は1872年7月に近衛都督を辞任したが、陸軍中将の身分はそのままであり、73年6月に行政長官である陸軍卿に就任した。

なお、欧米巡遊中の岩倉使節団に副使として加わっていた参議の木戸孝允は、武官の身分を保持する山県が行政長官に就任することに強く反対した。しかし、在外中であったのでその意見は通らなかった。

それでもシビリアン・コントロールを維持しようとする試みは行われた。 1874年の佐賀の乱(1874年2月1日~3月1日)が起きると、同年2月、内務卿の大久保利通(おおくぼ としみち、1830年~1878年)が九州に派遣された。文官である大久保に軍事指揮権があたえられ、陸軍卿の山県は武官であったために閣議にも参加できなかった。

大いに不満であった山県は、そのため陸軍卿を辞任して近衛都督兼陸軍省第6局(73年4月施行、後述)に就任し、陸軍卿の事務は陸軍大輔である西郷従道に任せた。組織上は、山県が格下である西郷の部下となったが、山県には軍事作戦を指導する第6局を牛耳る狙いがあった(後述)。  

佐賀の乱以降も、国内の治安は安定しなかった。熊本の神風連の乱(新風連の乱、1876年10月24日~10月25日)、萩の乱(1876年10月28日~12月8日)、福岡の秋月の乱(1876年10月27日~11月14日)などが起こり、そして1877年には西南戦争が起った。

反乱軍の首将は当時の日本でただ一人の陸軍大将西郷隆盛(西郷隆盛、1828年~1877年)であった。政府軍(参軍)の実質的な指揮官には、すでに陸軍卿に復活していた山県有朋(陸軍中将)と海軍大輔の川村純義(すみよし、海軍中将)が就任した。

西南戦争の終了をもって、もはや国内対処は新政府にとって軍事の最重要課題ではなくなった。他方、清国、ロシアに対する脅威感が増大した。このため鎮台から機動本位の師団編成への編成替えの必要性が生じた。

当時、海軍はイギリス、陸軍はフランスをモデルに軍整備を推進していた。当時の陸軍の教範である1971年の歩兵操典もフランス式であった。 陸軍においては、従前どおりのフランスか、それともプロシアに変更するかが検討された。結局、普墺戦争(1866年)でオーストリアに勝利し、普仏戦争(1870年~71年)ではフランスに勝利したプロシアを参考に陸軍の編成替を行うことに決した。この背景には、桂太郎などのプロシア留学組が影響力を及ぼしたことはいうまでもない。

かくして1882年、陸軍はフランス式の兵制からドイツ式に切り替え、編制・用兵を外征型に改め、ドイツ式の教範整備などを推進するに至ったのである。 1883年、陸軍卿の大山巌(おおやま いわお、1842年~1916年)は渡欧し、参謀将校の日本派遣とその人選を依頼した。

その結果に、85年には、プロシアからメッケル少佐が来日し、陸軍大学で講義することになった。つまり、陸軍はメッケル少佐から、モルトケ時代のプロシアの参謀本部制度を導入するとともに、88年に師団編成への転換を成就したのである。

 参謀本部の沿革

次に、戦争を指導する組織である参謀本部についてみておこう。 1871年(明治4年)7月、兵部省に陸軍参謀局が設置された。局長(都督)には兵部大輔(太夫)の山県有朋が充てられた。

1872年2月に兵部省が陸軍省と海軍省に分割されたことにともない、陸軍参謀局は陸軍省参謀局(以下、参謀局)に改編された。 1873年3月、陸軍省條例が発せられ、参謀局は第6局に改称された(4月1日施行)。

佐賀の乱の最中の1974年2月8日、上述のように山県が陸軍第6局の局長に就任した。しかし、すぐに(同年2月19日)、山県は第六局を廃止し、ふたたび参謀局に改めた。そして山形は第6局長から参謀局長になった。

参謀局から参謀本部への改編においては長州出身の桂太郎(かつらたろう、1848年~1913年)が活躍した。桂は1870年(明治3年)8月、プロシアに留学した。1873年10月半ば、プロシア留学から帰国した桂に対し、木戸孝允/ 桂 小五郎 (きどたかよし/かつら こごろう、1833年~1877年)は、当時の陸軍卿である山県に依頼し、桂を陸軍に入れて大尉に任命した。

1874年、桂はプロシア留学の成果を踏まえ陸軍省から参謀局を分離独立させることを建議した。その甲斐があって、78年(明治11年)に陸軍省から分離独立して参謀本部が設置された。初代の参謀本部長には山県が就任した。

以降、陸軍においては、軍政は陸軍省が担任し、軍令は参謀本部が担任する、軍政・軍令の二元化が確立されたのであった。 1886年(明治19年)、参謀本部条例が大幅に改正され、陸軍省と海軍省が軍政機関として並立し、陸海軍の統合参謀部門として参謀本部が設立された。これにより、参謀本部が軍令機関として、参謀本部陸軍部と参謀本部海軍部を経由して両軍を統括することになった。

1888年、参謀本部条例が廃止され、参軍官制が制定された。これにともない参軍(天皇の軍隊、有栖川宮熾仁親王)の元に、陸軍参謀本部と海軍参謀本部が設置された。

1889年に参軍官制、陸軍参謀本部条例、海軍参謀本部条例が廃止され、参謀総長を設けた参謀本部条例が制定された。これにより、陸軍参謀本部は参謀本部となり陸軍の軍令を担当し、海軍参謀本部が海軍の軍令を担当することになった。
当初は、参謀本部が海軍の軍令も管轄するものとみられていたが、海軍の強い反発により、参謀本部と海軍参謀本部が並列となったのである。 

日清戦争の前年にあたる1893年の参謀本部条例の改正により、戦時大本営条例が制定された。これにより参謀総長が陸軍と海軍の軍令を担当することになった。在外公館付武官を統括する任務も参謀総長に与えられた。

日清戦争前の参謀本部の編成は、副官部、第一局、第二局、編纂課であり、第一局が動員計画・運輸計画を担任、第二局の第一課が作戦計画を、第二課が外国情報などを担任した。

日清戦争後の1896年(明治29年)5月、参謀本部はそれまでの局制を廃止し、部制をとり、副官部、第一部、第二部、第三部、第四部、編纂部の六部編制となった。人員は100名を越える規模になった。

1899年の改正では副官部が総務部、編纂部が第4部に改編され、この体制で日露戦争を迎えることになるのである。

参謀本部におけるインテリジェンス機能

参謀本部の機能について、インテリジェンスの側面から考察を加えておこう。 1871年に設置された参謀局の任務は、兵用地誌の作成、政誌の編纂、間諜(スパイ)の運用など、作戦機能よりも情報(インテリジェス)機能の方が強かった。 しかし、征韓論及び制台論が高まるにともない、軍部は当面の海外出師(派遣)のため、作戦機能を強化する狙いで参謀局の改編に着手することになった。

その結果、1878年に陸軍省から分離独立して設置された最初の参謀本部は、参謀本部長及び参謀本部次長の下に、総務課、管東局、管西局、地図課、編纂課、翻訳課、測量課、文庫課から構成された。

管東局、管西局がこの組織の中心であり、両局は兵用地誌の作成、政誌の編纂、諜報を担当した。管東局が1・2軍管ならびに北海道・樺太・満州を、管西局が3・4・5・6軍管ならびに朝鮮、清国沿海を担当した。

要するに、最初の参謀本部の機能は地域分担制であり、作戦組織と情報組織は未分化であった。言いかえれば、インテリジェンスを司る情報組織は作戦組織のなかに埋没状態にあった。

しかし、1885年7月、朝鮮半島をめぐる日・清の紛糾のさなかに、参謀本部は大改正され、管東局・管西局は廃止され、第1局と第2局になった。これにより、第1局が作戦を、第2局が情報を担当することとなり、作戦と情報(インテリジェンス)が分化されることになった。

この際、第2局の事務は「外国軍の調査、外国地理の調査及びその地図の編集」とされ、第2局の第1課が国外の兵制・地理・政誌の収集及び分析を、第2課が運輸法及び全国の地理・政誌の収集及び分析を、第3課が諸条規の調査などを担任した。

諜報(ヒューミント情報)については参謀本部条例第12条で「諜報のことは第2局長これを主任す」と定められ、第2局長(大佐)が自ら扱ったものとみられる。

日清戦争後の1896年5月の6部編制では、「外国の軍事及び地理、諜報、軍事統計」を所掌することになったのが第3部である。

1885年の改編と96年の改編により、作戦と情報の分化は定着されたかにみえた。 しかし、日露関係の雲行きがあやしくなる1899年、川上操六(かわかみ そうろく、1848年~1899年)参謀総長は作戦部門と情報部門が合体させ、地域分担制に逆戻りさせてしまう。

この理由についてはドイツ参謀本部の影響を受けたとの見方もある。なお、この改編で第1部が東京以北・ロシア・朝鮮・満州、第2部が名古屋以南・台湾・清国の担当することにした。

ただし、いざ日露戦争が開始されると、陸軍首脳も作戦・情報組織を地域別に混在させていては実戦に対応することができないことを悟ったようである。大本営陸軍参謀本部、その機能の大部分を戦域に移動させた満州軍総司令部の編成では、地域分担制を廃止し、作戦部門(作戦課)と情報部門(情報課)を臨時措置として分離・独立させた。  

情報部が作戦部から独立しないことの弊害は、とかく作戦担当者が、自ら策案した作戦に都合がいいような情報ばかりを選択して、その作戦の有効性を否定するような情報を無視しがちになることである。すなわち作戦が情報を軽視した、主観的で独りよがりなものになりがちな弊害を生むことである。

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