わが国の情報史(17) 

日清戦争とインテリジェンス

日清両国の対立化の経緯

明治政府は、朝鮮が清国から独立して近代化すること狙っていた。この背景には、ロシアが南下を続け、朝鮮国境まで領土を広げていた。もし半島が、ロシアに領有されるか、列強に分割されるかすれば、日本の国土防衛が不可能になる、との情勢判断があった。 なお、これが明治期の征韓論の背景でもあった。

1873年、大院君(だいいんくん,1820~98)が失脚し、改革派官僚に支えられた王妃の親戚である閔(みん)氏一族が政治の実権を握った。これにより、日本と国交を開く許可が清国から朝鮮に降りた。

1876年、日本は日朝修好条規により朝鮮を開国させた。以来、朝鮮国内では、親日派が台頭していった。 しかし、1882年、日本への接近を進める閔氏一族に対し、大院君を支持する軍隊が反乱を起こした。これに呼応して、民衆が日本公使館を包囲した(壬午事変)。

これ以後、閔氏一族は日本から離れて清国に依存し始めた。 これに対し、金玉均(きんぎょくきん1851~94)が率いる親日改革派(独立派)は1884年、日本公使館の援助を受けてクーデターを起こしたが、清国軍の来援で失敗した(庚申事変)。

この関係で悪化した日清関係を打破するため、1885年、政府は伊藤博文を派遣し、清国全権・李鴻章(1823~1901)との間に天津条約を結んだ。これにより、日清両国は朝鮮から撤兵し、今後同国に出兵する場合には、たがいに事前通告することになり、当面の両国衝突は回避された。

日清戦争の勃発とインテリジェンス将校の活躍

1885年、福沢諭吉は「脱亜論」を発表し、アジアを脱して欧米列強の一員となるべきこと、清国・朝鮮に対しては武力をもって対処すべきこと、を主張した。これにより日本と清国との間は次第に緊張が高まることになる。

1894年、朝鮮で東学の信徒を中心に減税と排日を要求する農民の反乱(甲午農民戦争)が起きると、清国は朝鮮政府の要請を受けて出兵した。わが国も天津条約に従って朝鮮に出兵した。  

1894年8月、日本が清国に宣戦し日清戦争が勃発した。 戦争指導のため、明治天皇と大本営が広島に移った。

戦局は、軍隊の規律・訓練、兵器の統一性に勝る日本側の圧倒的優勢のうちに進んだ。日本軍は清国軍を朝鮮半島から駆逐し、遼東半島を占領し、清国の北洋艦隊を黄海海戦で撃破し、根拠地の威海衛を占領とした。かくして、わずか9か月で日本が戦争に勝利した。

こうした大勝利の陰で、軍民一体の情報活動が陸軍の作戦活動を支えていた。ジャーナリストの先駆けといわれる岸田吟香(きしだぎんこう、1833~1905)をはじめとする民間有志が商取引などを通じて大陸深くに情報基盤を展開した。これに応じる荒尾精、根津一らの参謀本部の若手参謀が現役を退き、その基盤を拡充し、活動要員の養成に捨身の努力を払った(わが国の情報史(16))。

また、ドイツ式の近代化した陸軍を創設した川上操六の貢献が大であった。 日清戦争前の1893年、川上(参謀次長)は参謀本部を改編し、国外に派遣されている公使館附武官を参謀本部の所管とした。公使館附武官は情報網の先端になったのである。

また1893年、川上は田村怡与造(中佐)及び情報参謀の柴五郎大尉(のちに大将)を帯同して清国と朝鮮を視察し、「先制奇襲すれば清国への勝利は間違いない」と確信を得て帰国した。 このように、作戦とインテリジェンスが調和され、わが国は勝つべくして勝ったのである。

条約改正で貢献した陸奥宗光

陸奥宗光

こうした日清戦争のさなか、インテリジェンスのもう一つの局面として条約改正への取り組みを無視できない。この最大の立役者が陸奥宗光である。

明治政府にとって、江戸幕府が結んだ不平等条約、特に関税自主権なしと領事裁判権なしの撤廃は重大な課題であった。 条約改正交渉は紆余曲折を経たが、最大の難関であったイギリスは、シベリア鉄道を計画して東アジア進出を図るロシアを警戒して日本に対して好意的になっていた。

陸奥は日清戦争の前年、ついに領事裁判権なしと、関税の引き上げ、および相互対等の最恵国待遇を内容とする日英通商航海条約の調印に成功した。 この背後には陸奥の戦局眼と脅しともいえる外交交渉が功を奏した。

陸奥は、「日本は清国と戦争するにあたって文明国として国際法を守り、イギリス人の生命・財産を守るつもりでいる。だから条約を改正してほしい。もし日本が文明国でないというならば、日本は文明国が定めている国際法を守る義務はない」と発言したのであった。  

当時、イギリスは多くの英国人を清国に租界させていた。よって陸奥の理論的であり、しかも脅しもいえる交渉をイギリスは飲まないわけにはいかなかったのである。

下関条約の背後でインテリジェンス戦が展開 

李鴻章

1895年4月、日本全権伊藤博文・陸奥宗光と清国全権李鴻章とのあいだで下関条約を締結した(条約5月8日発行)。 その内容は、①清国は朝鮮の独立を認め、②遼東半島および台湾・澎湖諸島を日本にゆずり、③賠償金2億両(テール)を支払い、④新たに沙市・重慶・蘇州・杭州の4港を開くことなどであった。

わが国は戦勝国であったので日本側に有利な条約を結ぶことができた。ただし、ここでもインテリジェンス戦が貢献したことを見逃してはならない。

というのは交渉は下関で行われたため、李鴻章は暗号通信により、本国の意向を確かめながら条約交渉を行わなければならなかった。日本は、この暗号通信を完全に傍受して交渉に臨んだ。

たとえば、わが国は賠償金は当初3億両を要求していたが、清国から李鴻章のもとに1億両ならば交渉に応じても良いとなどの連絡が届いていることを承知し、2億両というぎりぎりの駆け引きに出た。

また、日本の提示した講和条件の一部が清国から都合のよいように全世界に伝えられる状況を傍受して事前探知した。日本は、清国の機先を制して、自ら英・米・仏・露・独・伊に対して講和条件の全文を通告したのである。これにより、イギリスの支持を得ることになり、交渉を有利に進めることができたのであった。

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