わが国の情報史(13)

吉田松陰、間諜の重要性を説く

吉田松陰の生涯

山鹿素行と佐久間象山の二人の年代は異なるが、共に江戸時代の思想や兵法に多大な影響を及ぼした。この二人から思想的影響を受けて、さらに修学を重ねて、幕末維新の志士に多大な思想的影響を与えたのが吉田松陰である。  

松陰は優れた思想家であった。長州藩(山口県)萩の松下村塾において久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋、吉田稔麿、入江九一、前原一誠、品川弥二郎、山田顕義、野村靖、渡辺蒿蔵、河北義次郎などの面々を教育していった。  早速、松陰の生涯を簡単に辿ることにしよう。

松陰は1830年(文政13年)8月、長州藩士・杉百合之助(杉常道)の次男として誕生。 1834年、5歳で叔父で山鹿流兵学師範である吉田大助の養子となり、兵学を修める。

1835年、6歳の時、大助が死亡したため、叔父の玉木文之進(1810~1876)に師事して『孫子』と『山鹿流兵法』を修学。 1838年、9歳の時に明倫館の山鹿流兵法師範に就任。

9歳で師範に就任とは尋常ではない。その後、松陰の驚くべき進化はさらに続く。

1841年、11歳の時、藩主・毛利慶親への御前会議で名を成す。 1842年、12歳のとき、アヘン戦争(1840~42)で清が西洋列強に大敗したことを知って、松陰はさらに西洋流兵術の重要性についても認識する。

1845年、15歳で、同じ長州藩の山田亦介(またすけ)より「長沼流兵法」を教わり、山鹿流、長沼流の江戸時代の兵学の双璧を収めた。

1850年(嘉永3年)、21歳の時に九州に遊学する。 この九州遊学では、熊本で宮部鼎蔵(みやべていぞう)と知り合い、生涯の友人関係を結んだ。

1851年に江戸に出て佐久間象山に師事する。 象山はクラウゼウィッツの『戦争論』を日本ではじめて研究した人物であ り、松陰は、ここで象山門下の勝海舟、長岡藩の河井継之助、土佐藩の坂本龍馬、福井藩の橋本佐内、久留米藩の真木和泉、熊本藩の宮部鼎蔵らと交流した。

1852年、宮部鼎蔵らと東北旅行を計画するが、約束の出発日を守るため、 長州藩からの通行手形の発行を待たず脱藩した。 この東北旅行は、佐渡から弘前を経て小泊、青森、盛岡、石巻、仙台、米沢をとおり、会津若松、日光、足利を経由して江戸に帰った。まさに東北を一周の旅であった。
しかし、江戸に帰着後、脱藩の罪に問われて士籍剥奪・世禄没収の処分を受けた。

 1853年、24歳のとき、諸国遊学の許可が下り、第二回の江戸遊学に出かけた。ちょ うどこの時に、ペリー艦隊の浦賀来航を知り、象山と黒船を遠望視察した。 その後、象山の薦めもあって、松陰は外国留学を決意する。同郷で足軽の金子重輔と長崎に寄港していたプチャーチンのロシア軍艦に乗り込もうとするが、これに失敗した。

1854年、またも金子重輔とともにペリーが乗船している旗艦ミシシッピ 号に自ら乗り込んで、アメリカへの渡航を嘆願した。しかし、残念ながら、この要求はペリーに拒絶され、目的を果たすことができなかった。(下田事件)。

幕府に自首し、萩の野山獄に幽囚され、かくして松陰の自由行動は終わる。この獄中で密航の動機とその思想的背景を『幽囚録』に記した。

1855年、野山獄を出され、杉家に幽閉の処分となる。57年(安政4年) に叔父の玉木が主宰していた松下村塾の名を引き継ぎ、杉家の敷地に松下村塾を開塾した。以来約2年間、高杉晋作をはじめ幕末維新の指導者となる人材を多く輩出した。

1858年、29歳のとき、幕府が無勅許で日米修好通商条約を締結したこと を知って、松陰は激怒し、老中・間部詮勝(まなべあきかつ)の暗殺を謀るが、警戒した藩により再び投獄される。

1859年、幕命により江戸に送致。10月27日、伝馬町の獄舎で斬首刑に処 せられる。享年30歳であった。

 吉田松陰の時代背景

幕末は1853年のペリーの黒船来航から、1869年の戊辰戦争までの期間とされる。このわずか16年間は、わが国のもっとも激動な時代であった。 「西洋の衝撃」を受けた幕藩体制の動揺とナショナリズムの高まりのなか、日本が鎖国から開国へと舵取りし、「尊王攘夷」の思想の一方で西洋文明を取り入れた文明開化に向かう歴史であった。

この幕末における最大のヒーローが吉田松陰である。しかし、松陰はこの幕末期の前半6年間に生存したのみであり、30歳という若さで夭折し、これといった政治的偉業は残していない。 にもかかわらず、松陰の思想が幕末の志士たちの心を動かし、近代日本の幕開けの原動力になっていたのである。  

松陰の愛国的な生き様は当時の時代背景に求められよう。彼は30年という短い生涯のなか、旅人として生きる。それは、迫りくる「西洋の衝撃」という未曽有の危機に対し、まず孫子兵法の「敵を知り、我を知る」ことの具現から発した。 松陰が脱藩し、罪を問われた東北旅行の目的は、異国に対する北方の備えを検分するためであった。

高まる対外脅威

18世紀末から北方には、ロシアによる浸透が進んでいた。1789年(寛政元年)、国後島のアイヌによる蜂起がおこった。これは、松前藩に鎮圧されたが、幕府はアイヌとロシアの連携の可能性を危惧した。

1792年、ロシア使節ラクスマンが根室に来航し、伊勢国白子の漂流民大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう)を届けるとともに、通商を求めた。 その際、江戸湾入港を要求されたことが契機となり、幕府は江戸湾と蝦夷地の海防の強化を諸藩に命じた。

1804年、ロシア使節レザノフが、ラクスマンのもちかえった入港許可証をもって長崎に来航した。幕府はこの正式使節に冷淡な対応をして追い返したため、1807年、レザノフの部下が樺太や択捉などの各地で略奪行為を働き、日露間を一挙に緊張化した。

わが国は1808年、間宮林蔵に命じて樺太とその対岸を探査させるなど、北方ロシアの脅威に備えた。1811年、日本に接近しつつあったディアナ号艦長であるゴローウニンが国後島に少人数で上陸した。彼らは日本の警備兵に捕えられ函館・松前に監禁された。

これに対してロシア側は翌年、択捉航路を開拓した淡路の商人・高田屋嘉兵衛を抑留した。嘉兵衛は1813年に送還され、その尽力でゴローウニンは釈放され、この事件(ゴロー人事件)は解決した。これにより、日本とロシアとの関係はいったん改善された。

しかし、1808年、イギリス軍艦フェートン号が、当時敵国となったオランダ船の拿捕を狙って長崎に入り、オランダ商館員を人質にし、薪水・食糧を強要するという事件(フェートン号事件)も起きていた。 そこで、幕府は1810年、白川・会津両藩に江戸湾の防備を命じた。

その後も、イギリス船、アメリカ船が日本近海に出没したため、ついに1825年、江戸幕府は異国船打ち払い令を出し、外国船の撃破を命じた。 37年には、アメリカ商船のモリソン号が浦賀港に接近し、日本人漂流民7人を送還して日米交易を図ろうとしたが、幕府は異国船打払令にもとづいてこれを撃退させた(モリソン号事件)。

揺れる国内情勢

一方、国内では1833年から始まる天保の大飢饉で、農村や都市には困窮した人々が満ち溢れ、百姓一揆や打ちこわしが続発した。36年の飢饉はとくに厳しく、餓死者が全国各地であいついだ。

1937年、大阪奉行所の元与力で陽明学者の大塩平八郎は、貧民救済のために門弟や民衆を動員して武装蜂起した。これはわずか半日で鎮圧されたが、大阪という重要な直轄都市で、幕府の元役人であった武士が主導して、公然と武力で抵抗したことは、幕府や諸藩に大きな衝撃を与えた。

その波紋は全国に及び、国学者生田万(いくたよろず)が大塩門弟として称して越後柏崎で陣屋を襲撃したり、各地で大塩に共鳴する百姓一揆がおきた。

「内憂外患」の言葉に象徴される国内外の危機的状況に対し、幕府勢力が弱体化して威信を発揮できなくなると、これにとつてかわる上位の権威としての天皇・朝廷が求められ始められることになる。 こうしたなか、水戸の会沢正志斎(あいざわせいしさい)は1825年に『新論』を著し、天皇を頂点に位置付ける国体論を提示した。

松陰の思想と行動

吉田松陰は自ら弟子に送った手紙の中で「僕、孫子に妙を得たり」と書き残しているほどに、『孫子』の解釈には自信を持っていたようである。 松陰の兵法修学の中枢をなした山鹿流兵法は、謀略、知略、計策の三本柱からなるが、これらは『孫子』第1編「始計」の五事・七計・詭道に該当している。(家村和幸『図解孫子兵法』、並木書房)

さらに、松陰が生きた時代は、先述のようにロシアや欧米列強からの侵略の脅威をいかに対処するかが課題であった。 山鹿流兵法の三本柱のうちの謀略において、松陰は五事(道・天・地・将・法)のうちの道・将・法の三事に重きを置いて、これを「主本」と名づけた。そして、軍事とは、道・将・法という人のなすべき最高の道理であるのだから、いっさいの私的な思いを排して、毅然として自ら天下国家のために尽せと主張した。そして、わが国の有史以来、兵権が朝廷にあるのが武義(ぶぎ)の「盛」であり、兵権が武臣に帰したが武義の「衰」である、とした(前掲家村『図解孫子兵法』)。

つまり松陰は、天皇を中心とした道義に基づく国家を確立せよと説いたのである。そして全国で西洋人の侵寇の意図を喪失させる「武備」を完成することや、とくに皇室を中心とした精神的武備が重要であるなどを説いた。

こうした松陰の兵学思想には、山鹿素行の教えに加えて、先述の東北遊学において、水戸で正志斎と面会したことの影響が大きかった。 松陰は『東北遊日記』のなかで、「会沢(正志斎)を訪(とぶら)ふこと数次、卒(おおむ)ね酒を説(まう)く。……会々(たまたま)談論の聴くべきものあれば、必ず筆を把(と)りて之を記す。其の天下の事に通じ、天下の力を得る所以か」と記した(宮崎正弘『吉田松陰が復活する!』並木書房)

松陰はほとんど酒を飲まなかったが、50歳になろうとする正志斎の流儀に合わせた、微笑ましい松陰像が浮かぶ。しかも、酒席であっても、重要な会話は筆記して備忘録を取った。

このほか、水戸では『大日本史』などから、水戸学の歴史観に強い影響を受けて、「尊王攘夷」の思想的を確立していた。また、和気清麿呂、楠木正成の偉業を知った。  

松陰の武士道

国家の国難には自らを犠牲にする松陰の精神には、武士道が影響していた。この武士道は山鹿素行の士道の影響を受けている。 新渡戸稲造は、『武士道』のなかで、吉田松陰にふれ、「武士道は一つの無意識的かつ抵抗し難き力として、国民及び個人を動かしてきた。新日本のもっとも輝かしい先駆者の一人たる吉田松陰」として、「かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂」の松陰の辞世を紹介している。

松陰が自ら犠牲となり、間諜となり、留学を志した経緯にも武士道精神が色濃く反映していたのである。

松陰のインテリジェンス・リテラシー

山鹿流兵法の二つ目の柱である知略とは、国外の事を知って、比較し、実状を把握することである。松陰は知略には七計のみならず、その手段としての「用間」をとくに重視すべきであるとした。  

こうした思想は、松陰が師事した佐久間象山から影響を受けた。象山は1853年のペリー来航の危機に、「下田ではなく横浜をすぐに開港すべきだ」「それがいやならオランダから軍艦を輸入し、将来有為な若者をオランダへ留学させて造船を学ばせよ」として、開国論や国防論を唱えた。

1854年3月の日米和親条約の締結では、象山は、鎖国のためにアメリカの内部事情も知らないままに弱腰で外交交渉に臨んだ幕府を批判した。 インテリジェンスがなくては「尊王攘夷」であれ、「開国」であれ、戦略を立てられない。象山は「私のような身分の低い家臣ではあるが、幕府のやり方とは別に、敵の謀を失敗させることで勝つという策略がある。風船を手に入れてワシントンまで飛んでいけないものか」と願っていた。

しかし、象山には藩と日本を離れがたい事情があった。そこで、自分の代わりにこの務めを松陰に果たしてもらおうとした。松陰は武士道精神から、象山の期待に応えようとした。しかし、松陰はそれに失敗し、牢獄に入れられた。

松陰は『幽囚碌』のなかで、今こそ「用間」を世界中に派遣して、海外の事を知るべきだと指摘した。松陰は、日本にとって知っておくべき国々とは、欧米諸国、オーストラリア、シナ、朝鮮などであり、それらに関する伝聞や文書だけからの貧弱な知識に頼るのは、策を得たものではない。俊才を海外に送り、その実情を視察させるものでなければ役に立たないと主張した。 まさにヒューミントの重視である。

日本の歴史から、再び消されようとしている松陰

松陰が鎖国の禁をおかしてまでも海外渡航を企てたのは、自らが「上智」の間者となって、命を懸けて国家防衛に不可欠なインテリジェンスを得ようとしたのである。 さて、現在、わが国のインテリジェンスに携わる者が、どれほどの者が吉田松陰について知っているのだろうか? 

筆者の陸上自衛隊時代、ほとんどの者は吉田松陰の名前くらいしか知らなかった。 これも、GHQによる占領政策、戦後の左翼主義が、松陰を軍国主義として断罪し、歴史から葬りさろうとした影響なのかもしれない。筆者は「松陰を知らずして、わが国のインテリジェンスを語る資格なし」と言いたい。

高校と大学の教員らで作る「高大連歴史教育研究会」(会長=油井大三郎・東京大学名誉教授)が、大学入試で歴史の細かい用語が出題され、高校の授業が暗記中心になっているのは問題として、教科書の本文に乗せ、知識を入試で問う用語を現在の3500語程度から約半分にすべき、としている。

このなかで、吉田松陰の名前は、坂本龍馬や武田信玄などともに消されようとされている。彼らが果たした「実際の役割は小さい」ということが理由だそうだ。 しかし、政治的功績は残さずとも、後世に多大な思想的、精神的な影響を与えた人物を、どうして「実際の役割が小さい」といえるのか?

「高大連歴史研究会」の思想的背景を知る必要があるのではないか!

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