わが国の情報史(12)

武士道とは士道なり

山鹿素行と吉田松陰

武士道という言葉は明治期に新渡戸稲造の著書『武士道』で世 間に広まった。しかし、武士道は日本建国以来発達してきたものである。それが、徳川時代になって、武士の道徳的規範として確立された。その後、武士道が幕末維新を主導し、日清・日露戦争 における出征軍人の目覚ましい働きを促し、日露戦争における歴 史的勝利に貢献したとされる。

徳川時代における武士道の確立に寄与したのが、吉田松陰(1830~59)の師である山鹿素行(1622~85)である。松陰には二人の傑出した師匠がいる。その一人が兵学の師である素行、もう一人が洋学の師である佐久間象山(1811~64)というわけだ(わが国 の情報史(11)を参照)。

松陰が「家学」というのは山鹿素行の学問のことである。松陰 の著書『武教講録』のなかで「先師」と仰いでいるのは素行であ る。ただし、松陰と素行は 約200年も 時代が隔たるので、当然直接の師弟関係にはない。

松陰の祖先の吉田重矩(しげのり)が、素行の長子である山鹿 藤助の門下生にあたる。また松陰は、叔父で山鹿流兵学師範であ る吉田大助の養子となり、大助死亡後は、叔父の玉木文之進が開いた松下村塾(しょうかそんじゅく)で素行の兵法を学んだとい う関係にある。

これに対して、松陰が時々「わが師」としているのが象山であ る。象山には、1850年に江戸で直接師事している。

儒学の興隆   

武士道を述べる前に、まず徳川時代の儒学の興隆について述べ る必要がある。儒学とは端的にいえば孔子・孟子の教えを学ぶ学問のことである。儒学は社会の身分秩序を重んじ、「中興・礼儀」 を尊ぶこと基本とする。だから儒学は徳川の幕藩体制の安定を支 える上で好都合であった。    

とくに朱子学(南宋の朱熹が興した学問、宋学とも呼ばれる) の思想は大義名分論(平安末期における後醍醐天皇の討幕運動の理論的根拠となった)を基礎に、封建社会を維持するための教学と して幕府に重んじられた。この系譜には林羅山、木下順庵、新井白石などがいる(朱子学派)。

一方、戦国時代に土佐で開かれたとされる南学派も朱子学の一 派である。その系譜からは山崎闇斎(やまざきあんさい、1618~ 82)や野中兼山が出た。闇斎は神道を儒教流に解釈して垂加神道 (すいかしんとう)を説いた。闇斎一門の崎門学(きもんがく) は、神の道と天皇の徳が一体であることを説き、尊王論の根拠と なった。なお、崎門学は陸軍中野学校の教材として用いられた。

朱子学に対して中江藤樹(なかえとうじゅ)や熊沢蕃山(くま ざわばんさん)らは、明の王陽明が始めた陽明学を学んだ。蕃山 は、古代中国の道徳秩序をうのみにする儒学を批判し、主著『大学惑問』などで武士土着論を説いて幕政を批判した。このため、 下総古河に幽閉され、そこで病死した。

これに対し、古学派と称せられる山鹿素行や伊藤仁斎らは、外 来の儒学にあきたらず、孔子・孟子の古典に直接立ち返ろうとす る運動を進めた。素行は朱子学を攻撃し、『聖教要録』を刊行し て孔子・孟子の古典に直接立ち戻ることを主張した。このことか ら、幕府によって播磨国赤穂(あこう)に流された。赤穂藩では 赤穂浪士の教育に携わるとともに『武教要録』『中朝事実』など を著した。  

なお、門弟の一人が赤穂藩家老の大石良雄(内蔵助、くらのす け)である。赤穂事件以降、山鹿流兵法は実践的な学問として世の注目を浴びた(「わが国の情報史(10)」)

武士道は儒学をもとに確立されたのか?

以上のように、儒学は徳川時代を支えるための思想であり、平穏な時代における武士の在り様を儒学思想でもって理念化されたのである。このことから今日、武士道は儒学をもとに確立され たとの誤解が生じている。

しかし、のちに『武士道』(1990年)を著す新渡戸稲造は、わ が国の武士道の起源は、封建制が確立した源頼朝の時代よりも先史にある旨を主張し、仏教や日本古来の神道が武士道に与えた影響性について説いている。

そして、上述のようなわが国の儒学の興隆を見れば、中国からの儒学思想を無批判には受け入れてはいない。陽明学や古学派は、当時の中国の思想を批判さえしている のである。このことは素行の著書『中朝事実』が如実に表してい る。

素行の教えこそは幕末、明治期の武士道精神の起源である。素行が他の儒学者と異なる点は、彼が兵法家であることだ。『孫子 諺義』の著書であることが象徴するように素行は孫子兵法の大家である。

一方で素行は『楠木正成一巻書』(1654年)の序文を書 いている。その正成は大江時親から、孫子とともに日本古来の兵 法である『闘戦経』を授けられていた。 つまり、素行が興した山鹿流兵法の源流には「兵は詭道なり」 をモットーとする『孫子』と、「戦い(武)を第一義とし、武は 秩序を確立する」「戦いに勝つためには謀略に頼るのではなく、 正々堂々と戦う」などを説く『闘戦経』の二つの教えがあった。  

そうした素行であったからこそ、太平天国の徳川時代において、 武士がいかに生きるべきかを、その在り様を説く上での説得力が あったのである。

▼素行の士道と『葉隠』武士道  

素行の武士道は「士道」と呼ばれる。武士(もののふ)は平安 時代に発生し、鎌倉、室町、戦国、安土・桃山時代を通じてずっ と戦いに明け暮れた。しかし、徳川時代になって戦乱の世が終わり、武士は「戦い」から解放された。

そこで素行は、百姓は町民などの身分が下の者に対する道徳的 指導者となるよう人格的な修養を努める士道を提唱した。 素行は、生産に従事しない武士たるものは、為政者として高い道徳性を備え、人倫の道を実現し、道徳の面で万民の模範になれ、 と主張した。そして、人倫の道の実現する勇気を奨励し、 (1)気を養う、(2)度量、(3)志気、(4)温籍、(5)風度、 (6)義利を弁ずること、(7)命に安んずること、(8)清廉、 (9)正直、(10)剛操、の心術を養わねばならないとした。

他方、「武士道と云は死ぬ事と見付けたり」という『葉隠』武士道がある。これは、1716年頃、佐賀鍋島藩士の山本常長が口頭で言い伝えたものを、同藩士の田代陣基(つらもと)が書き残したとされる。 『葉隠』は武士としての理想像を説いたものであり、山鹿素行な どが提唱した儒学的武士道とはやや異なる。

1941年陸軍省の東条英機によって制定された『戦陣訓』には「生きて虜囚の辱めを受けず。死して罪過の汚名を残すこと勿(なか)れ」との有名な一句があるが、これは『葉隠』に代表される死生観に影響を受けたと の見方がある。

他方、素行の教えは、1882年に明治天皇から下賜された「軍人勅諭」の5箇条の徳目、すなわち、忠節、礼儀、武勇、信義、質素に反映された。この5つの徳目は、いずれも山鹿素行の士道が掲げる武士の規範であった。つまり、素行の士道が、天皇と国民の「忠義」の関係性を定義し、明治維新後の日本の秩序形成を目指したといえるのである。

武士道とインテリジェンス

畠山清行著・保坂正康編『秘録 陸軍中野学校』には次のような一文がある。

「つぎに忍者だが、これを諸大名がかかえて諜報を集めるという ことになれば、幕府の弱点や痛いところをさぐられる心配がある。 そこで、伊賀者・甲賀者の忍者をすべて幕府の直属として『お庭番』という組織をつくりあげる一方、御用学者に命じて『武士道』 なるものを盛んにとなえさせた。つまり、『内緒で人の欠点や弱点を探ることは、武士にあるまじき卑怯な行為である』とうたいあげたのである。 太平洋戦争の敗因をさぐる場合、日本の歴史家 は、明治以前にさかのぼることを忘れているが、遠因はじつにこ の徳川幕府の政策にあるのだ。幕府時代の武士道精神をそのまま うけついだから日本の軍隊は、諜報機関を卑怯なものとして、もっともそれが必要な陸軍大学にさえ、太平洋戦争がはじまるまで、 諜報を教える課目はなかったのである。(以下、略)」 

ここでの武士道が『葉隠』武士道なのか、山鹿素行の士道なのか、あるいは山岡鉄舟の唱えた「武士道」なのかは定かではない。 ただし、武士道がインテリジェンスの軽視を生んだという見方も 確かに存在している。

上述の「軍人勅諭」では、「軍人たらんもの暫も忽にすへからすさて之を行はんには一の誠心こそ大切なれ」と述べられている。 つまり、忠節、礼儀、武勇、信義、質素の五つの徳目の最後の締 めくくりのとして「一つの誠心」が示されている。

また「抑此五ケ条は我軍人の精神にして一つの精神は又五ケ条の精神なり」と記述された。つまり、誠は精神の精神、徳目ではな く徳目を徳目たらしめるものであると解釈されるのである。

のちに誕生する陸軍中野学校では「謀略は誠なり」が象徴され るように、「誠」の精神教育が重視された。つまり、武士道にお ける「誠」の存在が、武士道によるインテリジェンス軽視という 風潮を凌駕したとも考えられる。 ただし、軍人教育で教えられた一般的な「誠」と、陸軍中野学 校の「誠」には差異があった。このあたりについては、のちに述 べることとしたい。

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