わが国の情報史(16) 

明治のインテリジェンス将校

対外インテリジェンス活動の開始

川上操六

明治の世に入り、わが国は「アジア主義」と「脱亜論」が拮抗するなか、「領 事裁判権なし」と「関税自主権なし」の二つの不平等条約撤廃を外交目標に掲げつつ、急速にアジアへの接近を強化した。

まず朝鮮の権益を巡り清国と対立し、1894年に日清戦争が生起した。さらに満州・朝鮮の権益をめぐってロシアと対立し、日露戦争(1904年-1905年)へと突入することになる。

こうした大きな情勢推移のなか、わが国は明治維新直後から朝鮮半島や清国をはじめとする対外情報収集を開始した。1875年には、初の海外公使館付武官となった清国公使館付武官を派遣した。このほか、ドイツなどの各国に武官を次々と派遣することになる。

日清戦争以前には、イギリス、フランス、ドイツ、ロシア、清国、韓国の六カ国に武官を派遣していた。

1880年(明治13年)3月、対外関係の正常化を狙いに、初めての大(公)使館となる清国大使館を開局した。以降、ここが中国(シナ)大陸における陸軍諜報の一大拠点となった。ここから参謀本部直属の諜報員などを朝鮮半島や中国大陸に派遣することになる。

山県有朋、インテリジェンスを握る

山県有朋(1838~1922)は、日本の軍人にして政治家である。彼は長州藩の下級武士の家柄の出身でありながら、立身出世を果たし、内閣総理大臣や陸軍参謀総長などを歴任した。

彼は日本陸軍の基礎を築つき、「国軍の父」と称されることもあるが、それよりも、1877年の西南戦争において、西郷隆盛に対する討伐軍の長として有名である。しかし、山県がインテリジェンスを重視し、卓越した情報力で一時代を築いたことはあまり知られていない。

 山県は、これから触れる桂太郎、川上操六、福島安正などをよく登用した。また、筆者がインテリジェンス大家として崇めてやまない吉田松陰が継承した山鹿流兵法の門下である乃木希典(のぎまれすけ)の上司でもある。

すなわち、山県こそは明治初期の最大のインテリジェンス・フィクサーであるといえよう。

山鹿流兵法の門下生 、乃木希典(のぎまれすけ)

乃木希典(1849~1912)は長州藩の出身である。日露戦争において旅順攻囲戦などで活躍するが、明治天皇の後を慕って殉死したことや、戦後に『坂の上の雲』を書いた司馬遼太郎によって“愚将”として断定されたことのほうが有名である。

ただし、この愚将説はまったく根拠のない小説であることは、歴史家諸氏が異議をとなえているところである。

乃木は1864年、13歳にして出身地の長府(現在の下関市)から70km離れた萩に赴き、吉田松陰の叔父である玉木文之進の弟子となり、山鹿流兵法を学ぶ。

この山鹿流兵法とはわが国の志向の兵法家である山鹿素行を開祖とする。孫子の兵法と、そして楠木正成にも影響を与えた我が国の闘戦経の両方の流れを継ぐ江戸期の兵法であり、幕末維新に多大な影響を与えた。

1865年に、第二次長州征討が開始されると、乃木は奇兵隊の山県有朋の指揮下で戦い、功名を果たす。

1868年、陸軍に入営し、1872年にわずか22歳で大日本帝国陸軍の少佐に任官した。異例の抜擢であった。

1974年、乃木は山県の伝令使に登用され、1875年12月、乃木は熊本鎮台第14歩兵連隊長心得(小倉)に赴任するが、これは、そののちに反乱を起こす、 前原一誠の動向を探ることが兼務であった。

 乃木の前任の連隊長・山田頴太は、のち叛乱で有名になった前原一誠の弟である。そして前原党の首脳の一人が乃木の実弟の乃木真人(玉木正誼)であった。真人は松下村塾の創始者である玉木文之進の養子になっていた。

その前原党の動きを探るため、山県はあえて乃木を山田の後任に送ったのである。

乃木は、弟たちから得た情報を山県に送った。これにより1876年10月の前原一誠の乱は拡大することなく、鎮定されたのである。

このように、乃木は諜報員として軍人生活を開始したのであった。

情報将校が出発点、桂太郎

桂太郎

桂太郎(1848~1913)は長州出身の政治家である。総理を3回歴任するなど、明治の政治家の重鎮である。

桂は1970年から3年間ドイツに留学し、帰国後に陸軍大尉に任官し、第6局(参謀本部の前身)勤務、ついで少佐に進級して参謀本部設置(参謀長は山県有朋)とともにその諜報堤理(ちょうほうていり)の職に就いた。

そして、75年から3年間ドイツ公使館附武官として赴任する。そして、78年7月に帰国し、参謀局諜報堤理の職に復帰した。つまり、桂の軍人としてのキャリアは情報将校である。

 桂家は、孫子などの兵法を管理し、闘戦経を開祖した大江家、そして大江家の末裔である毛利家、祖先とする。だから、桂には兵学、諜報の血が流れていたのかもしれない。

 桂がドイツに赴任している間に西南戦争が起こった。山県はこの戦争を鎮定し、内戦に備える軍隊から決別し、対外的な脅威、すなわちロシアによる東方侵攻に備える軍隊に再生させるための軍事改革を図ることになる。

この改革の主導的な役割を担ったのが、この桂と次に登場する川上操六であった。

参謀本部創設の父、川上操六(かわかみそうろく)

川上操六 (1848~1899) は薩摩藩の出身であり、1977年の西南戦争では苦渋の選択から陸軍に残り、尊敬する薩摩藩の西郷隆盛と戦った。

川上は桂太郎、児玉源太郎とともに「明治陸軍の三羽烏」と呼称される逸材である。川上は「参謀本部創設の父」と呼ばれ、参謀本部の発展に多大な貢献をした。おそろく、52歳という若さで鬼籍に入られなければ、もっと著名な大人物になっていたことは間違いない。

川上は1870年の普仏戦争に桂と共に観戦武官として派遣された。その後、国内の連隊長職などを歴任し、頭角を現した。

1884年、川上は桂太郎とともに大山巌・陸軍卿(大臣)に伴って欧州に視察旅行にいく。桂、川上ともに35歳であった。

大山は、今後の陸軍を建設し、近代化するためには、長州の桂と、薩摩の川上の両大佐が必要であるとして、この欧州視察に大抜擢した。

このとき、二人は「軍政の桂」「軍令の川上」になることを将来の誓いとした。なお軍政とは人事・予算・制度等を主務とする、軍令は作戦運用を主務とするものである。

1885年1月にドイツから帰国し、山県有朋・参謀本部長のもとで、川上は参謀次長(少将)に就任し、参謀本部の改編に着手する。わが国は1882年、陸軍はフランス式の兵制からドイツ式に切り替え、編制・用兵を外征型に改め、ドイツ式の教範整備などを推進することに決したが、その改革はこれからの課題であった。

この切り替えを決定的なものにしたのが、1985年にドイツから陸軍大学に招聘されたメッケル少佐である。

川上は、桂、児玉源太郎とともに、メッケル少佐を顧問にドイツ式の兵制を導入することに尽力した。このころ、陸軍ではフランス式かドイツ式かの議論があったが、川上は「普仏戦争において勝利したドイツを見習うことが当たり前だ」と忌憚なき意見を述べた。

1887年、川上はふたたびドイツに留学する。ここでは乃木とともに、ドイツのモルトケに執事した。

また、この時に森鴎外(当時25歳)に面会して、クラウゼヴィッツの『戦争論』の翻訳と、その内容を後述する田村怡与造に講義するよう依頼した。

1988年に帰国し、ふたたび参謀次長(名称変更)に就任し、1890年に陸軍中将に昇任して日清戦争の開戦に大きくかかわることになる。

日清戦争前の1893年、川上(参謀次長)は清国と朝鮮を視察し、「先制奇襲すれば清国への勝利は間違いない」と確信を得て帰国する。この際、田村怡与造(中佐)とともに連れて行ったのが情報参謀の柴五郎大尉(のちに大将)であった。

なお、柴は陸軍大学を出ずに、情報将校としての活躍で陸軍大将まで上り詰めた希有な軍人である。柴については次回以降触れることにする。

日清戦争では、川上が推進した陸軍の近代化が勝利に大いに貢献した。日清戦争以後、わが国の対外情報機能はさらに強化されることになる。

1998年1月、川上(中将)は参謀総長に就任する。彼は作戦を司る第一部長に田村怡与造(当時は大佐、のちに中将)、情報を司る第二部長に福島安正(当時大佐、のちに大将)を当て、近代的な参謀部の組織改革を目指した。

その一方で、川上は大陸に対ロ諜報員を派遣して、対外情報網の構築に尽力した。日露戦争時に活躍する花田仲之助、石光真清は川上が放った諜報員であつた。

1898年9月、川上は大将に昇任し、日増しに高まるロシアの脅威に立ち向かうためには、川上はなくてはならない存在になった。しかし、日露戦争開始前の1999年5月に、川上は激務がたたって死亡した。

今信玄、田村怡与造(たむらいよぞう)

田村 怡与造 (1854~1903) は山梨県の出身である。その優秀さから甲斐の戦国武将・武田信玄にちなんで、川上から「今信玄」と呼ばれていた。中尉から大尉時代にかけてドイツに留学したドイツ通である。

1875年、陸軍士官学校に入学(旧2期制)。1883年にドイツに留学し、ベルリン大学で学ぶ。この時、川上と交流し、軍事研究に励む。

1888年に帰国し、以後は参謀本部に勤務し、陸軍のフラン式からドイツ式軍制への転換に務め、『野外要務令』『兵站要務令』の策定などに従事した。

1898年参謀本部第一部長に就任し、川上の右腕として対ロシアの脅威に備える。同年、川上が死亡したのち、田村はしばらく第一部長を務めていたが、1902年4月に参謀次長に就任する。

田村は情報将校としての主たる経歴はないが、参謀次長としてインテリジェンスの重要性を認識していた。階級が上の福島を情報部長として、対ロ情報を強化する一方、ウラジオストックに町田経宇少佐を派遣するなどした。

日露戦争は、この田村によって指導される運びであったが、彼もまた川上と同様に無理がたたって日露戦争開戦前に急死することになる(同日、中将に昇任)。

参謀本部の創設に多大な貢献をした両雄が日露戦争前に急死したのだから帝国陸軍の脱力感はいかばかりであったろうか。これを見て動いたのが、当時の内務大臣であった児玉源太郎である。

児玉は、“火中の栗”を拾うとばかり、内務大臣から二階級降格の形で参謀次長に就任する。

シベリア単騎横断の福島安正

福島安正

福島 安正(1852~1919) はきっすいの情報将校である。明治維新後、英語翻訳官から軍人に転換し、情報一筋で大将まで進級した最初の軍人である。

福島は長野県で生まれ、1865年、13歳で江戸留学、1869年に東京の開成高校で英語を学んだことが、のちの出世の登竜門となった。

福島は1874年から陸軍に転籍し、1976年の24歳の時に通訳官として西郷従道が率いるアメリカの博覧会視察に随行した。77年の西南戦争では山県有朋の幕下で伝令使(中尉)として活躍した。

1879年、福島は上海・天津・北京・内蒙古を五ヶ月にわたって現地調査(当時、中尉)する。これが情報将校としての本格的な第一歩となった。

その後、陸軍大学校で、ドイツから赴任したメッケル少佐に学ぶ。この縁で、

1987年にドイツ・ベルリン公使館に赴任し、ここでは公使の西園寺公望(さいおんじこうぼう、のちの総理大臣)とともに、ロシアのシベリア鉄道施設の状況などを報告した。

1892年の帰国に際しては、冒険旅行との名目でポーランドから東シベリアまでの約18000キロを1年4か月かけて騎馬で横断して現地調査を行った。これが世に有名な「シベリア単騎横断」と呼ばれるものである。

福島の活躍は、日露戦争において最盛期を迎えるが、これについては次回以降に述べることとする。

このほかの情報将校の活躍

岸田吟香

このほか、日清戦争前後においては荒尾精(あらおせい、1858~1896)、根津一(ねずはじめ、1860~1927)らの傑出した情報将校が活躍した。

一方、ジャーナリストの先駆けといわれる岸田吟香(きしだぎんこう、1833~1905)をはじめとする民間有志が商取り引きなどを通じて大陸深くに情報基盤を展開し、これに応じる参謀本部の若手参謀が現役を退き、その基盤を拡充し、活動要員の養成に捨身の努力を払った。このような軍民一体の活動が陸軍の情報活動を支えていた。

荒尾は1859年に尾張藩士の長子として誕生。外国語学校でフランス語を修得したのちに、78年(明治11年)に陸軍卿満天星砲兵科に入学、80年に陸軍士官学校に入学した。

1885年、参謀本部シナ部附に転じ、86年に清国に赴任した。荒尾が陸軍に入隊したそもそもの理由が清国の歴史や事情を学び、清国に赴任することであったのであり、ようやく念願がかなったという訳である。

荒尾は清国で、ジャナリスの先駆けといわれる岸田吟香の協力を得て、書籍、薬、雑貨を扱う雑貨屋「楽楽堂」を営み、清国官憲の監視の目をごまかし、現地調査や諜報組織の設置に着手する。

1889年に帰国し、黒田清隆首相、松方正義大蔵大臣らの有力者に対して、「日清貿易研究所」の設立を要請したほか全国行脚し、清国の事情について講演し、募金を集い、90年に職員と生徒あわせて200名程度からなる「日清貿易研究所」を上海に設立し、日中貿易実務担当者の育成に努力した。

また、1892年、日清貿易株式会社の岡崎栄次郎の資金援助を得て『清国通称総覧』の編集に着手した。

荒尾は台湾でペストに罹り、38歳の若さで死亡するが、日清貿易研究所は彼の死後に、東亜同文会会長・近衛篤麿親友の根津一らの手によって、東亜同文書院(のちに東亜同文書院大学)に発展し、日本人のための高等教育機関となった。

他方、根津一は1860年に甲斐国の富家の次男に生まれ、陸軍士官学校に入学し、荒尾精と知り合い、中国への志を強めた。のちに陸軍大学への入学を果たし、ここでメッケル少佐に学ぶ。しかし、彼のドイツ至上主義と日本陸軍蔑視の姿勢に反発し、論旨退学処分となった。

結局、少佐で予備役に編入、荒尾の招聘で上海に赴任し、日清貿易研究所の運営、教育活動への従事を経て、1901年に初代の東亜同文書院の院長に就任した。

こうしたインテリジェンス重視の気風と活動が日清戦争におけるわが国の勝利に貢献したのであった。

投稿者:

atsumori

元防衛省情報分析官。1960年広島県生まれ。退職後、ほそぼそとインテリジェンス・リテラシーの普及活動を開始。著書、『情報戦と女性スパイ』『中国戦略“悪”の教科書』、『中国が仕掛けるインテリジェンス戦争』、『戦略的インテリジェンス入門』など。その他、講演、雑誌投稿など。

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