わが国の情報史(9) 

幕藩体制を支えた忍者集団

幕藩体制の確立

1615年、大阪の役の直後、幕府は大名の居城を一つに限り(一国一城令)、さらに武家諸法度を制定して、大名を厳しく統制した。

三代将軍の徳川家光の時には、大名が国元と江戸とを1年交代で往復する参勤交代制度を義務付け、大名の妻子は江戸に住むことを強制した。

かくして、将軍と諸大名との主従関係が確立され、強力な領主権を持つ将軍と大名(幕府と藩)が、土地と人民を統治する支配体制、すなわち幕藩体制が確立された。

▼忍者を最も愛した徳川家康

こうした体制確立の一方で、諸国の大名が謀反を行なえように水面下での情報収集を強化した。ここで活躍したのが、隠密と呼ばれる忍者集団であった。

ここで少し、忍者の歴史をざっと振り返っておこう。

忍者・忍術は飛鳥・源平時代に発祥し、鎌倉時代には荘園の中で発生した「悪党」が「伊賀衆」を形成し、楠木正成はこれらの衆を使って後醍醐天皇をお守りした。

戦国時代に「伊賀衆」と呼ばれる者たちが、「忍び」と呼ばれるようになり、やがて「忍び」は、各地の大名に召し抱えられて、敵国への侵入、放火、破壊、闇討ち、待ち伏せ、情報収集などを行うようになった。(我が国の情報史(2))
 

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の3人の天下人はともに「インテリジェンス・リテラシー」に長けた人物であった。ただし、忍者の活用については三者三様であつた。

信長は伊賀忍者の集団的謀反性を警戒し、もう一つの忍者集団である甲賀忍者を使って、1581年に伊賀忍者を討伐した(第二次天正伊賀の乱)。

秀吉は、非常に小さい時から忍術というものに慣れていたようであるが、1580年の、織田信長と石山本願寺勢力との戦い(石山合戦)の時、忍者の裏切りによって、四苦八苦したことから、あまり忍者を愛さなかった。

これに対し、家康は忍者を召し抱え、隠密として利用した。すなわち、忍者を愛した人物という意味では家康が一番である。こういう点も、家康が、他の二人より一歩抜き出ていた、と筆者は思う。

▼家康の伊賀越え

これを家康は、信長の死を泉州の堺で知った。この時の家康のお供は、本多忠勝、服部半蔵、武田氏の旧臣の穴山梅雪等のわずか30人余りであった。

家康と忍者との関係は深い。
1582年6月2日、明智光秀による「本能寺の変」が起きた。 この時、家康は信長の招聘によって畿内各地を見学中であった。

家康は、日頃恩顧をこうむった信長のために、光秀と一戦を交えることも覚悟した。   それができなければ、知恩院で腹を切るまでだと、家康はわずかな軍勢を本能寺に向けようとした。

しかし、それを知った忠勝が今いっては危ないから一度三河まで帰って準備を整えて兵をあげてからでも遅くないと、家康を諭した。

そのため家康一行は、伊賀越えをし、伊勢の海から三河に帰ることにした。しかし、最大の難所は伊賀の山中である。そこには、地侍や土豪による一揆の恐れが潜んでいた。実際、家康一行から遅れて出発した穴山梅雪は、土豪に襲われて殺害された。家康、生涯における大きなピンチの一つであった。

▼ 服部半蔵の大活躍

その時、最大の功労者となるのが服部半蔵(はっとりはんぞう)である。彼は伊賀出身であった。半蔵はその地縁・血縁を生かし、伊賀衆と甲賀衆からなる200名の忍者を招いた。

これら忍者を山中の要点に配置し、家康一行を警護し、伊勢の山中を無事踏破し、三河に帰るつくことができた。

こうした縁から、家康は1590年、江戸に居城を構えた際、服部半蔵以下200人の忍者を召し抱え、江戸城下に住まわせ、大奥や無人の大名屋敷などの警備、普請場の勤務状態の観察、全国各地のなどを行うせるようになった。

現在の四谷の伊賀町、神田の甲賀町の地名は、伊賀者、甲賀者が居を構えた名残である。その首領である服部半蔵が護っていた麹町御門が半蔵門となった。むかし、バスツアーガイドが、「この半蔵門はむかし将軍様に象をご覧にいれようとして、ここまで連れてきたが、この門を半分しか入らなかったのでそれで半蔵門といった」という笑い話しがあるが、真っ赤な嘘ということになる。

▼ お庭番制度の確立

200名の忍者集団はやがて、8代将軍の綱吉の時代には、お庭番制度へと発展する。お庭番は幕府の役職であり、将軍から直接の命令を受けて秘密裡に諜報活動を行った隠密である。

時代劇や小説などでは、将軍が庭を散歩すれば、お庭番として入っている隠密がすっと近寄って来る。将軍が隠密に諸国の情勢を見てくるように命じる。するとお庭番は、その場に箒を捨てて、2~3年間の猶予をもらって諸国の情勢を取りに行くといった、描写がよく描かれている。

こうした描写は、脚色された作りものであるが、お庭番は遠国に実状調査に出かけた、これを遠国御用という。テレビドラマのような派手な間諜行動はなかったとみられるが、地方に対する隠密調査が行われた。この調査は多くの支援組織によって支援され、お庭番が隠密となり、地方の実情を調査した。

かくして、現在の警察網のようなネットワークが全国に展開された。このように、江戸時代の平和な時代が訪れると、かつて忍者は、幕府の命で情報を得たり、幕府警護をすることが主な任務となった。お庭番は、その土地の人と仲良くなって情報を聞き出し、幕府にその実情を伝えたのである。孫子でいう「郷間」の活用が行われた。

こうした忍者集団の存在が、徳川260年の太平を保ったと言ってよい。

▼ インテリジェンス・サイクルの確立

 インテリジェンスの理論の中で、インテリジェンス・サイクルという用語がある。これは、使用者が情報要求を発し、収集機関が情報を収集し、集めた情報(インフォメーション)を分析し、インテリジェンスを生成し、使用者に提供する。使用者をインテリジェンスに基づいて、政策決定などの判断を行うというものである。

 我が国の情報体制の欠点でよく指摘されているのが、このサイクルが機能不十分ということである。とくに、国家指導者(総理大臣)から、具体的な情報要求が発出されることがないと言われる。

インテリジェンスに詳しいジャーナリスト・作家の手島龍一氏によれば、この情報要求を実際に発出していた歴代総理は橋本龍太郎氏ぐらいだったらしい。

残念なことに、その橋本総理も一方では、中国女性によるハニートラップ疑惑があるのだか・・・・。

すでに綱吉の時代には、国家トップが情報要求を発出し、これを受けて、忍者集団が隠密として全国における情報収集活動を展開していた。そして、それを下に、幕藩体制の維持に活用した。この点から、江戸時代には国家的なインテリジェンス・サイクルが確立されていたと言えるかもしれない。

たどすれば、もっとインテリジェンス・サイクルは日本の文化として定着してもよかったのではないだろうか?

この点は、今後の一つの検証課題かもしれない。

投稿者:

atsumori

元防衛省情報分析官。1960年広島県生まれ。退職後、ほそぼそとインテリジェンス・リテラシーの普及活動を開始。著書、『情報戦と女性スパイ』『中国戦略“悪”の教科書』、『中国が仕掛けるインテリジェンス戦争』、『戦略的インテリジェンス入門』など。その他、講演、雑誌投稿など。

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