わが国の情報史(14)

開国と明治維新

ペルー来航と鎖国からの撤退

ペリー

1853年のペルーの浦賀来航以降、欧米列強に対する我が国の危機意識は日増しに高まった。 江戸幕府は、こうした列強の威力に屈し、朝廷の意に反する形で開国・通商路線を採択することになる。

1853年3月、わが国はアメリカと日米和親条約を締結した。次いでイギリス・ロシア・オランダとも類似の内容の和親条約を結んだ。ここに200年以上にわたった鎖国政策から完全に撤退した。

1858年6月、わが国は屈辱の不平等条約を結ぶことになる。それが、大老・井伊直弼(いいなおすけ、1815~60)の手で進められた日米修好通商条約であった。 この条約では、神奈川(下田→横浜)・長崎・新潟・兵庫(神戸)の開港や江戸・大坂の開市のなどが規定されたほか、わが国は日本に滞在する自国民への領事裁判権を認め(治外法権の規定)、関税についても日本に税率の決定権がない(関税自主権の欠如)などを許容した。

ひとつに妥協すると、次々と新たな圧力が襲ってくる。幕府はこのような不平等条約を、ついでオランダ・ロシア・イギリス・フランスとも結ばざるを得なくなった(安政の5カ国条約)。

不平等条約の改正が原動力となって、わが国は国際社会の中で近代的自立国家を目指した努力を開始した。 この近代的自立国家の歩みの延長線上に出てくるのが日清、日露の二つの戦争である。

公武合体論と尊攘運動の高まり

日米通商修好条約の締結当時、第13代将軍・徳川家定(いえさだ、1824~58)は幼少から病弱で子供ができないとの懸念から、早くから跡継ぎ問題を起き、それを巡って一橋派と南紀派が対立していた。

一橋派とは一橋徳川家の慶喜(第15代将軍・徳川慶喜、よしのぶ、1837~1913)を推す派である。
一方の南紀派は紀州徳川家の藩主・徳川慶福(よしとみ)を推す派である。

慶喜の父は、井伊直弼との政争で有名な徳川斉昭(なりあき、1800~60)である。斉昭は会沢正志斎(※吉田松陰が感化された人物、わが国の情報史(13)参照)のもとで水戸学を学び、藩校・弘道館を作り、学問を奨励し、藩政改革で成果を挙げるなど、聡明な指導者であった。 そして西洋の文物を取り入れることには積極的であったが、尊王攘夷、開国反対論者であった。

慶喜が将軍になれば、斉昭が大御所として権勢を振うことを明らかであった。

これを警戒したのが南紀派である。
南紀派 の筆頭である彦根藩主・井伊直弼や、老中・堀田正睦(ほったまさよし、1810~64)であった。 彼らは「日本は開国すべし」との信念を持っており、通商条約の調印を推し進めようとした。だから、斉昭の存在は彼らにとってやっかいであった。

つまり、跡継ぎ問題は「開国か非開国か」を巡る政争であったのである。

井伊と堀田は跡継ぎ問題では、慶福改め家茂(第14代将軍・徳川家茂、いえもち、1846~66)を将軍の跡継にすることに成功した。また、日米修好通商条約の調印を強行した。

しかし、日米修好条約への調印は天皇の勅許を得ない違勅調印であったために、孝明天皇が大激怒した。 堀田は孝明天皇(1831~67)から勅許を得ようとして努力したが、孝明天皇は穏健攘夷論者であり、開国には断固として反対であった。だから、井伊や堀田はやむをえずに違勅調印に走ったというわけである。

こうしたことから、一橋派の大名、そして尊王と攘夷をとなえる志士から強い非難が起こった。井伊は強硬な態度でこれらの反対派をおさえ込み、反対派の家臣たち多数を処罰したのである。これが世に有名な安政の大獄である。

安政の大獄では、斉昭、慶喜、松平慶永らが隠居・謹慎を命じられ、越前藩士の橋本左内や吉田松陰は捕えられて死刑となった。 安政の大獄以後、全国各地では下級武士による尊王攘夷論が跋扈した。

1860年、尊攘派は井伊を江戸城桜田門外で暗殺(桜田門外の変)するという暴挙に出る。 桜田門外の変ののち、幕政の中心となった老中・安藤信正(あんどうのぶまさ)は、朝廷(公)を幕府(武)の融和をはかる公武合体の政策を取り、孝明天皇の妹・和宮(かずのみや)を将軍・家茂の妻に迎えた。

しかし、この政略結婚があだとなり、尊王攘夷論者から非難される。結局、安藤は水戸藩士から襲撃され負傷し、老中を退いた(坂下門外の変)。

ここで薩摩藩が独自の公武合体論の立場から仲介を買って出た。藩主の島津忠義の父である島津久光が 1862年に江戸にくだり、幕政改革を要求した。
幕府は薩摩藩の意向を入れて、松平慶永を政治総裁職に、徳川慶喜を将軍後見職に、京都守護職をおいて会津藩主・松平容保(まつだいらかたもり)をこれに任命した。

他方、妥協的な公武合体運動に対立する動きも生じた。それが朝廷権力の復活運動として強力に展開されることになる。とくに尊攘派の長州藩がその急先鋒となった。 長州藩はテロ行為を含む過激な事件を起こし、幕府方と真っ向から対立した。 1863年5月、長州藩は下関海峡を通過する諸外国船を砲撃し、攘夷を実行に移した。

1863年9月、長州藩を中心とする尊攘派の動きに対し、会津・薩摩藩は穏健攘夷派である孝明天皇らとともに、朝廷の実権を握っていた長州藩勢力と過激攘夷派である三条実美らを京都から追放した(この事件は旧暦の文久3年8月18日のことで「8月18日の政変」と呼ばれる)。

この政変の“復讐劇”とばかりに、長州藩が引き起こしたのが1964年8月の禁門の変(蛤御門の変)である。長州藩は勢力を回復するために、会津藩主・京都守護職の松平容保らの排除を目指し、京都市中で大乱闘を繰り広げたのである。 この政変で長州藩は敗北した。京都市中は戦火により約3万戸が焼失したとされる。

禁門の変後、長州藩は朝敵となった。幕府は1864年8月、長州征討(第一次)を開始する。同時期、貿易の妨げになる攘夷派に一撃を加える機会を狙っていた列国は、イギリスを中心にフランス・アメリカ・オランダ四国の連合艦隊を編成して、下関の砲台を攻撃した(馬関戦争、四国艦隊下関砲撃事件)。 長州藩は幕府方に恭順を示すとともに、武力での攘夷を断念し、海外から新知識や技術を積極導入し、軍備・軍制改革に着手した。

薩摩藩は長州藩よりも早くに列国の洗礼を受けた。1863年8月、前年の生麦事件(神奈川県横浜市鶴見区生麦において、江戸から帰る島津久光の行列を横切ったイギリス人を殺傷した事件)の報復のため鹿児島湾に侵入してきたイギリス軍艦と薩摩藩が激突した(薩英戦争)。薩摩藩はイギリス軍艦の砲撃の激しさに驚愕した。

討幕運動の高まりと幕府の滅亡

薩英戦争により、薩摩藩はイギリスに接近する開明政策に転じた。西郷隆盛、大久保利通ら下級武士の改革派が藩政を掌握することになった。

一方、馬関戦争により、吉田松陰が育てた高杉晋作、桂小五郎(のちに木戸孝允、きどよしたかと改め、1833~77)は攘夷を断念した。 かくして、封建的排外主義を捨てて積極開国による富国強兵を目指す新しい反幕勢力が生まれた。

そして坂本龍馬(さかもとりょうま、1836~67)、中岡慎太郎(なかおかしんたろう、1838~67)らの仲介により薩長同盟が秘密裡に結ばれ(1866年)、反幕運動は討幕運度へと化していたのである。

徳川家茂のあと15代将軍になった徳川慶喜は、フランスの援助のもと、幕政の立て直しにつとめた。しかし、薩長両藩は1867年に武力倒幕を決意した。 このため、土佐藩士の後藤象二郎(ごとうしょうじろう、1838~97)と坂本龍馬が、前藩主の山内豊信(とよしげ、容堂)を通して、慶喜に討幕派の機先を制して政権を返還するようを進めた。 

これは、将軍からいったん政権を朝廷に返させ、朝廷のもとに諸般の連合政権を樹立する構想であった。 慶喜は慶応3年10月14日(1867年11月9日)、この策を受け入れた。これを「大政奉還」という。

しかし、薩長連合は倒幕の名分を失わせられたうえ、実質は慶喜体制が継続されるこの体制に不満を持った。そこで、新体制を樹立するためのクーデターを企てた。そして1867年12月、討幕派は「王政復古の大号令」を発して、天皇を中心とする新政府を樹立した。 これをもって江戸幕府の260年以上にわたる歴史に終止符が打たれたのである。

戊辰戦争の勃発

しかし、慶喜を擁する旧幕府側が最後の抵抗をはかることになる。1868年1月、慶喜派は大阪城から京都に進撃した。しかし、「鳥羽・伏見の戦い」で新政府軍に敗れ、慶喜は江戸に逃れた。 新政府はただちに慶喜を朝敵として追討する東征軍を発した。

しかし、慶喜の命を受けた勝海舟(かつかいしゅう、1823~99)と東征軍参謀の西郷隆盛(さいごうたかもり、1828~77)の交渉により、1869年に江戸城は無血開城された。 さらに東征軍は東北諸藩の征伐に向かい、会津若松、函館五稜郭を攻め落とした。こうした戦いが1年半近くにわたって続いた。いわゆる戊辰戦争である。

新政府による改革

この間、新政府による政治の刷新が進められ、1868年3月の「五箇条の誓文」では、公議世論の尊重と開国和親などが新政府の国策の基本とされた。 1868年7月、江戸は東京と改め、同年9月に年号が明治と改元された。

翌1869年に京都から東京に首都を移した。 同年1月、木戸孝允と大久保利通(おおくぼとしみち、1830~78)らが画策して、薩摩・長州・土佐・肥前の4藩主に朝廷への版籍奉還を出願させ、多くの藩がこれにならった。

新政府は、旧大名には石高に応じた家禄を与え、旧領地の知藩事に任命した。 1871年、新政府は藩制度の全廃をついに決心し、廃藩置県を断行した。旧大名である知藩事は罷免され、東京居住を命じられ、かわって中央政府が派遣する府知事・県令が地方行政にあたることになった。

かくして、ペルーの浦賀来航から20年弱にして、江戸幕府は討幕され、国内の政治的統一が完成したのである。 歴史用語としては、黒船来航に始まり、廃藩置県に至る一連の激動の時代を総称して、明治維新と呼んでいる。

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