わが国の情報史(10) 

江戸時代における兵法の発展

 兵法の伝来

山鹿素行

  『孫子兵法』では、「彼を知り、己を知らば百戦危うからず」と喝破し、5種類の間者(スパイ)を利用した。つまり、兵法が今日のインテリジェンスの源流であることは間違いない。

その兵法のわが国への伝来と発展の歴史については、本連載の「わが国の情報活動の起源」(連載1)と「楠木正成の思想的源流とは」(連載3)において言及したが、要点をおさらいしておこう。

わが国の『孫子』の伝来についてはおおむね三つの説があるが、今日のもっとも有力な説が、遣唐使の吉備真備(きびのまきび)が唐から持ち帰ったとする説である。

真備は、717年に遣唐使として唐に到着し、35年までの18年間にわたり唐に滞在し、ここで『孫子』や『呉子』などを学んだとされる。帰国後、これらの文献を朝廷に献上し、その後、『孫子』の兵法研究が開始されたとみられている。

真備は754年に、二度目の渡唐から帰朝した後で大宰府に派遣されるが、ここで760年、大宰府に派遣された6人の下級武士に諸葛孔明の「八陣の法」や『孫子』の「九地」(第11編)を教えたとされる。

真備は764年、藤原仲麻呂(恵美押勝)の叛乱をわずか数日で鎮圧した。ここには『孫子』の軍事情報理論が活用されたとみられる。

大江氏による兵法の管理

その後、大江家の初期の祖である大江維時(おおえのこれとき、888年~963年)が930年頃唐から兵書『六韜(りくとう)』『三略』『軍勝図(諸葛孔明の八陣図)』を持ち帰ったことが縁で、『孫子』は大江家が門外不出として管理することになった。

その後、大江家第35代の大江匡房(まさふさ 1041~1111年)は、河内源氏の源義家(八幡太郎)に請われて兵法を教えることになる。

匡房は「兵は詭道なり」とする『孫子兵法』は優れた書物ではあるが、必ずしも日本の文化や伝統に合致せず、正直、誠実、協調と和、自己犠牲などの日本古来の精神文化を損なう危険性があると認識していた。

そこで匡房は自ら『闘戦経』を著し、『孫子兵法』を学ぶ者は、同時に『闘戦経』を学ばなければならないと説いた。

その匡房の孫が大江広元(ひろもと 1148~1225)であり、彼は1184年に源頼朝に仕え、鎌倉幕府設立の立役者となった。なお、その後の大江氏は毛利氏をはじめとする武家の祖となる。

その後、大江家第42代の大江時親(ときちか ?~1341)が、河内の観心寺で楠木氏に兵法を伝授したとされる。楠木正成は幼少の頃から、時親から孫子の兵法を学んでいたとされる。

なお大江時親は一般的には毛利時親と呼ばれることの方が多い。大江広元が相模国毛利荘を四男・李光に譲り、李光の四男の経光が越後国佐橋荘と安芸国吉田荘を保持した。経光は大江家第39代となるが、李光も経光もそれぞれ毛利李光、毛利経光と呼ばれる。そして李光から佐橋荘と吉田荘を譲られたのが四男の時親である。時親は、毛利元就など安芸毛利氏の始祖とされる。

徳川幕府の兵法は武田氏の兵法が源流

戦国時代には、兵法は毛利氏のほかには武田氏などに伝えられた。その兵法は武田氏によって甲州流軍学へと発展し、これがのちに徳川に流れることになる。

甲州流軍学の創始者として名高いのは、武田氏の家臣の子として生まれた小畑景憲(おばたかげのり 1572~1663)である。

彼は、武田信玄や勝頼の戦略・戦術を研究して、甲州流軍学を確立した。

景憲の弟子が北条氏長(ほうじょううじなが 1609~1670)である。彼は、景憲から甲州流軍学を学び、それを改良して北条流兵法を開いた。

氏長の弟子が山鹿素行(1662~1685)である。素行は、甲州流と北条流の兵法を学び、山鹿流兵法を開いた。

山鹿素行が江戸時代の兵法を主導

素行は奥羽国会津の浪人の子として生まれたが、6歳で江戸に上京し、9歳のとき、大学頭を務めていた林羅山の門下に入り、朱子学を学んだ。15歳のときに、景憲や氏長の下で軍学を学んだ。素行はそのほかにも神道や歌学にも長じた類まれなる博学者であった。

素行はやがて幕府御用達の朱子学を攻撃し、『聖教要録』を刊行して孔子・孟子の古典に直接立地戻ることを主張した。このことから、幕府によって播磨国赤穂(あこう)に流された。

赤穂藩では赤穂浪士の教育に携わった。ここでの研鑽によって、素行は『武教要録』『配所残筆』『山鹿類語』『中朝事実』などの優れた多くの書籍を生み出した。

なお、門弟の一人が赤穂藩家老の大石良雄(内蔵助、くらのすけ)である。赤穂事件以降、山鹿流兵法は実践的な学問として世の注目を浴びた。

山鹿流兵法の源流には『孫子兵法』と『闘戦経』の教えが流れている。なお素行は『孫子諺義』という解説書も記している。

 山鹿流兵法は、謀略・計略・知略からなる。この考え方は『孫子兵法』に基づく。

そして、一方では『闘戦経』の流れも汲み、皇統を尊重する思想と武士道精神が貫かれている。

山鹿流の教えは、幕末期には、勝海舟、日米修好通商条約の批准で活躍する小栗上野介、そして吉田松陰へと受け継がれた。

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