わが国の情報史(8) 

鎖国体制の確立と三大風説書

▼ イギリスから来た諜報員

1598年、オランダ商船団は新たな貿易相手国を求めて大西洋を渡り、マゼラン海峡を通ってチリに向かった。しかし、折からの暴風、食糧欠乏と病気で、チリを出港する頃には衰弱の極に達していた。

1600年2月、そのようなオランダ商船団が帰国の途にいている頃、1隻の船が船団から離れて日本に向かった。その乗組員は日本については一片の知識もなかったが、日本において毛織物の需要があることは知っていた。その船とはリフーデ号である。

リフーデ号は逆風にあおられ、重大な損傷を受けたまま日本沿岸を漂流した。そして、日本漁船によってその漂流船とオランダ船員が保護されることになった。その中に水先案内人のイギリス人であるウィリアム・アダムズがいた。彼はのちに日本人女性と結婚して三浦按針(みうらあんじん)と名乗ることになる。

  リフーデ号が保護されて数日後、幕府はイエスズ会の宣教師を連れて漂流者の下を訪れた。宣教師はすぐにアダムズに注目して、彼に対する事情聴取を行った。アダムズは宣教師に対し、日本側に毛織物を渡すかわりに、船の修理が終わったら本国に帰れるように食糧や水を提供してほしいと伝えた。

ところが、それ以前から少数ながら日本にいたスペイン・ポルトガル人はイギリスやオランダが交易に割り込んでくるのを警戒した。また、カソリックの普及を試みるスペイン、ポルトガルからすれば、プロテスタントのイギリス、オランダは排除すべき存在であった。だから宣教師は、「交易はポルトガルの代表を通して行わなければならない」と応じた。しかし、アダムズは日本人以外の誰とも交渉しないと明言した。

  これに激怒した宣教師は、アダムズの話の要点をスペイン、ポルトガルの両代表者に伝えた。二人は結託し、幕府がアダムズやオランダ人の船員を即刻追放するか、あるいは処刑するよう企んだ。

しかし、家康は別の世界からきたアダムズを客人としてもてなし、新しい知識を吸収することが、幕府の繁栄につながると判断した。だから、スペイン・ポルトガルの両代表者の助言を一蹴した。洞察力鋭い家康は、両代表者に潜む邪悪のたくらみをたちまち見抜いたのである。ただし、天下統一を巡って鎬を削る西軍との戦いを間近に控えていた家康は、すぐには決断を下さず、オランダ船員らの処刑はしばらく待つように命じた

家康は関ヶ原の合戦(1603年)に勝利し、意気揚々自城に凱旋した。オランダ船の乗員が家康の前に引き出されたとき、またしてもスペイン人とポルトガル人は、彼らを処刑するか、さもなければ国外追放すべしと要求した。しかし、家康はこれに断固として応じなかった。ぎゃくに家康はアダムズの頭脳明晰さに感銘を受け、彼を江戸に招いて外交・貿易の顧問としたのであった。

家康は、アダムズが帰国することは許さなかったが、アダムズを厚遇し、最高の助言者にして情報提供者としてもてなした。彼は家康に航海術や数学などさまざまな知識を伝授した。また、スペインやポルトガルが何かを企んでいると察知した場合、アダムズに複数の日本人配下につけて、スペイン・ポルトガル人らの意図や動向を探らせた。家康はアダムズを諜報員として運用し、スペイン・ポルトガルの動向を探った。一方で、アダムズを使ってイギリス・オランダという新たな世界の扉を開放したのであった。

▼ 鎖国状態の完遂

こうしたアダムズの活躍があって、オランダは1609年に、イギリスは1613年に幕府から許可を得て平戸に商館を開いた。一方、家康は朝鮮や琉球王国を介して明との国交回復を交渉したが、明からは拒否された。

家康は当初、スペインやポルトガルとの貿易にも積極的であった。しかし、貿易を通じて西国の大名が富強になることや、キリスト教の布教によってスペイン・ポルトガルの侵略を招く恐れを感じるようになった。またキリスト教の信徒が信仰のために団結することを懸念し、家康は1612年にキリスト教の禁令を発出した。

家康が死亡する1616年には、中国船を除く外国船の寄港地を平戸と長崎に制限した。23年に将軍職に就いた三代将軍・徳川家光は閉鎖主義を強めた。24年にはスペイン船の来航を禁じた。

さらに35年には日本人の海外渡航を禁止した。島原の乱(1637年)の後にはポルトガル船の来航を禁止(1639年)し、欧州の国で残ったのはオランダとなった(イギリスは1923年にオランダとの競争に敗れ商館を閉鎖して引き上げたが、これは幕府による措置ではなかった)。1941年には、そのオランダの商館を出島に移し、長崎奉行が厳しく監視する“軟禁状態”においた。こうして幕府は“鎖国状態”を完遂した。

以後、日本は200年余りのあいだ、オランダ商館(出島)、中国の民間商船、朝鮮国・琉球王国・アイヌ民族以外との交渉を閉ざすことになったのである。鎖国により貿易は長崎(出島)に絞られ、それも中国とオランダに限定された。そのため、中国とオランダは、徳川幕府が世界について知見を得るための重要な情報源となった。

▼ 唐船風説書

当時、長崎奉行が中国人やオランダ人から得た情報をまとめたのが「風説書」(ふうせつがき)である。風説書は、長崎から江戸に送られ、厳重に保管・管理され、大老、老中、若年寄らの一部の高級武士しか閲覧が許されなかった。特別に重要な風説書は将軍のみにしか閲覧が許されなかった。すなわち、幕府にとって貴重な秘密の海外情報であった。

中国人から得た情報を纏めたものを「唐人風説書」あるいは「唐船風説書」という。学者である浦兼一著『華夷変態解題』(1955年3月)によれば、唐人(船)風説書は1644年(正保元年)から1724年(享保9年)にかけて現存したようである。

江戸時代においては中国人を「唐人」、中国船を「唐船」、中国との貿易を「唐船貿易」や「唐人貿易」と称していた。中国人との通訳にあたったのが「唐通詞」という役人であった。唐通詞は唐船が入港してから寄港するまでの過程においてさまざま業務に携わった。唐人から海外情報を収集し「風説書」を書くのも唐通詞の仕事であった。なお唐通詞は中国語を話せなくてはならなかったため、原則的に唐人あるいは唐人の子孫が就いた。

唐風説書には一定の形式があってわけではなく、口述のメモ書きが大部分であった。これがのちの1732年に、林春勝、信篤父子によって『華夷変態』(かいへんたい)として編纂された。なお、この著の由来は、漢民族の王朝である明が、満州族(女真族)の清に打倒(1662年)されたことを、中華が夷狄(いてき)に打倒されて変貌を余儀なくされているととらえたものである。

 幕府は唐人風説書から中国の政治、経済、社会情勢のほか、医学、薬学、植物、動物などの科学知識も入手した。

▼ オランダ風説書

一方、オランダ船の来航のたびにオランダ商館長が提出するものを「オランダ風説書」という。この風説書は、商館長(カピタン)が口述したものを、通詞(通訳)が日本語に翻訳して作成した。これが海外の情報を知るための貴重な情報源となった。1644年(正保元年)から1856年(安政3年)までの213年間には、計250件の「オランダ風説書」が現存した。

同風説書の内容で最も重要なものはスペインとポルトガルに関する情報であった。なぜならば、幕府はスペイン・ポルトガルがキリスト教の布教によって日本を侵略することを強く警戒していたからである。その後は逐次に情報関心が欧州、インド、中国などに拡大して、これらの内容もオランダ風説書に含まれていった。

  オランダ風説書は唐人風説書よりも重要度が高く、オランダ船が入港するとすぐに飛脚を飛ばし、その情報は江戸に伝えられた。幕府はオランダ風説書によって、西欧の情報を知った。

また、オランダ商館長が自ら将軍の下に参上する機会を設定し、幕府はこれにより西欧の情報を得た。1633年からオランダ人の江戸参府(さんぷ)が定期的に行われ、それ以降、あわせて167回の参府のうち150回くらいまでは、毎年1回の参府であった。

▼ 別段風説書

長崎で作られるオランダ風説書のほかに、パタヴィア(インドネシアの首都ジャカルタのオランダ植民地時代の名称)の植民地政庁で作られた風説書を「別段風説書」という。この風説書は、植民地政庁がアヘン戦争の影響を幕府に知らせて方が良いと判断したことから、1840年から提供された。

別段風説書はオランダ語で作成され日本語に翻訳された。1845年までの別段風説書は主としてイギリスと清国とのアヘン戦争の関連情報が書かれていた。しかし、46年からは、アヘン戦争関係に限らず、世界的な情報が提供されるようになった。

以上のように、日本は1639年のポルトガル船入港禁止以来、ペリーの黒船が来航(1853年)し開国を迫るまで、ずっと鎖国を続けたが、アダムズ、カビタン、風説書などによって海外情報を入手する努力は続けていた。

▼ 鎖国時代においても世界の重大事件のことは知っていた

むろん、主な情報源は中国、オランダといった限定的なものではあったが、1789年のフランス革命のこともオランダ風説書により知っていた。そして1952年には、アメリカのペリーが翌年に来航(1953年)することも知っていた。

海外への大いなる関心はあったが、キリスト教の普及によって日本が侵略されること、そして海外貿易によって各地の大名が権力基盤を増大させて、幕府の安定を損なうことを警戒し、鎖国主義を取らざるを得なかった。

結果、260年の安定政権が継続し、国内では絢爛たる日本文化が栄えたことを見るならば、江戸幕府は決してインテリジェンス音痴ではなかったということがわかろう。

わが国の情報史(7)

260年の安定した江戸時代を築いた徳川家康

▼ 徳川家康は「泣かぬなら、殺してしまえホトトギス」

徳川家康は「泣かぬなら、泣くまで待とうホトトギス」で有名である。織田信長が「泣かぬなら、殺してしまえホトトギス」、豊臣秀吉が「泣かぬなら、泣かせてみようホトトギス」であるから、家康は辛抱強く、温厚な人物であるかのような錯覚に陥る。

たしかに、家康は幼少期に今川家や織田家の人質として預けられ、成年になってからは“忍の一字”で辛抱した苦労人ではある。しかし、家康を世の不動な地位に高めた「関ヶ原の合戦」などの戦い方をみると、臨機における決断は鋭く、その合理的かつ非常な指揮ぶりからは、「家康こそが「泣かぬなら、殺してしまえホトトギス」であった」とさえいわれている。

生誕年は信長が1534年、秀吉が37年、家康が43年となっている。信長は「桶狭間の戦い」(1560年)で今川義元(1519~60)を破って天下に名を成したが、その時の齢(よわい)は26歳である。

一方の義元は41歳であるから、現在の自衛隊に例えるならば、幹部になりたてのペイペイの新米小隊長が、脂の乗り切った、歴戦練磨の中隊長に勝利したようなものである。まさに、伏兵が大物を仕留めたのである。

そして、その最大の勝因がインテリジェンスであったことはすでに述べたとおりである(わが国の情報史(5))。

一方の秀吉は当時24歳であり、その2年前に今川家から出奔(しゅっぽん)して信長に仕え、この「桶狭間の戦い」に参加した。秀吉は、作戦戦場となっていた駿河と三河といった今川領の事情に詳しかったため、おそらくは対今川の情報収集の担い手の一人として活躍したとみられる(わが国の情報史(6))。

つまり「桶狭間の戦い」は、のちに天下人となる信長と秀吉がインテリジェンスを駆使して、天下取りに最も近いとされていた義元を破ったということだ。すなわち、インテリジェンスが、兵力や戦術・戦法を凌いだ戦いであった。

さて「桶狭間の戦い」で、今回の主人公である家康はどうしていたのか?彼はこの頃松平元康を名乗り、なんと若干17歳にして、三河勢を率いる今川軍の先鋒隊として、織田軍の城壁を次々と陥落させていたのである。

家康の初陣はさらにその2年前の15歳の時である。信長、秀吉でもなく、家康こそが“早熟の天才軍事指揮官”だったのである。

家康は、その後もたびたび戦場に赴く。武田信玄との「三方ケ原の合戦」(1573年)では完膚なきまでに叩かれた(わが国の情報史(4))。その後も、数々の危機状況に瀕したが、しぶとい負けない戦いをして、のし上がっていくことになる。

徳川家康、豊臣の5大老のトップになる

 「桶狭間の戦い」で今川義元が討死にしたことを契機に、家康は今川氏から独立して信長と同盟を結び、三河国・遠江に版図(はんと)を広げた。

1582年、「本能寺の変」において信長が明智光秀に討たれ死ぬと、家康は甲斐

国・信濃国を収めた。

信長の死後は豊臣秀吉(羽柴秀吉)が台頭する。1584年の「小牧・長久手の戦い」では、家康は織田信雄(おだのぶかつ、信長の子供)と連合して豊臣軍と戦い、かろうじて引き分けに持ち込む。ただし、この戦いで家康は秀吉に臣従(しんじゅう)することになる。

小田原征伐(1590年)を秀吉から託された家康は、北条氏政(氏康の子)を滅ぼし、関東に移り住み、約250万石の領地を支配する大名となった。

かくして豊臣家の五大老(徳川家康、前田利家、宇喜多秀家、上杉景勝、毛利輝元)の筆頭地位を得ることになったのである。

▼石田三成の挙兵

 秀吉は1598年の朝鮮出兵の最中に発病した。病床から五奉行(石田三成、前田玄以、浅野長政、増田長盛、長束正家)を呼び寄せ、「自分の死後は宿怨を捨てて、息子の秀頼を盛り立ててくれ」と命じた。しかし、5奉行の中には「私怨は解きがたい」と述べる者もいたほど、仲が悪かった。

こうしたなか秀吉はついに死亡する。慶長3年(1598年)8月18日のことである。この時、愛息の秀頼はわずか6歳であった。

家康の求心力が急速に高まった。それでも徳望においては前田利家にかなわなかった。だから利家の生存中には家康は隠忍自戒に努めた。しかし、その利家が死亡(1599年4月)すると、家康は各種の手段を講じて秀吉にとって代わろうとした。

これに対し、石田三成が家康の台頭に抵抗した。しかし、上述のように5奉行は一枚岩ではない。しかも三成は嫌われ者であって、豊臣家の武将7名(福島正則、加藤清正、黒田長政、藤堂高虎、細川忠興、加藤嘉明、浅野幸長)によって暗殺未遂事件を起こされる始末であった。

この内紛を仲裁したのも家康であった。ますます家康の勢力が強まった。三成が暗殺未遂事件で失脚すると、家康は豊臣家の中枢であった大阪城に入城し、自ら政務を司った。このため、家康と五奉行の対立が深まることになった。

そうこうしているうち、前田利長(前田利家亡き後の前田家の頭首)と浅野長政による「家康暗殺未遂事件」が起きる。これが発覚し、前田家と浅野家は家康に従うことになった。

さらに家康は、五大老の一人である上杉景勝が反抗的であるとみるや、5万人の兵を率いて会津にいる景勝の討伐(会津攻め)を開始した。時は慶長5年6月のことである。

家康の会津攻めで大阪城には徳川派がいなくなった。これを千載一遇のチャンスとみた三成は、増田長盛、小西行長などと相談し、家康打倒のための有力諸兵を集めて挙兵する。これは、家康が福島らとともに会津に向かう途上の慶長5年(1600年)7月15日、関ヶ原の合戦の2か月前のことであった。

▼会津の上杉景勝との情報戦

三成の家康打倒の狼煙を受けて、中国地方を収めていた毛利輝元(元就の子)が1万の兵を率いて、秀頼のいる大阪城に入城した。たちまち各国の大名や武将がこれを支持し、三成が組織した西軍は10万人に膨れ上がった。

三成の挙兵を聞いた家康は、想定外の事態ではなかったが、さすがに10万の軍勢には大いなる危惧心を覚えた。しかも、秀頼を表に立てて、政権の正統性を世に訴え、家康を謀反者の地位に貶めたのであるから尋常ではない。

しかし、類まれな家康のインテリジェンス・リテラシーがこの窮地を脱することになる。

家康軍は慶長5年(1960年)7月24日、小山(現在の栃木県小山市)で作戦会議を開いた(小山評定)。福島正則、黒田長政、細川忠興、山内一豊らが三成の討伐を決断し、兵を反転させ、西へと向かうことを決断した。

この時の最大の懸念が、西に反転した家康の軍勢を上杉景勝が背後から追跡し、家康軍は三成軍と景勝軍によって挟撃されることであった。

しかし、景勝は結局、徳川相手に何もしなかった。実は、上杉景勝は動くにも動けなかったのである。なぜならば、会津の背後には、仙台の伊達正宗と、山形の最上義光がいたからである。

家康は連絡員を派遣し、伊達、最上と連絡を取り合っていた。つまり、家康は景勝が政宗や義光を警戒して南進しないと判断し、一挙に軍勢を西に向けたのである。

これは、のちにスターリンの情勢判断と共通するものがある。1940年代初頭、スターリンはゾルゲの日本における情報活動などを通して、日本軍が南進すると判断し、一挙にヒトラー軍との決戦をおこなうために極東の兵力を欧州方面に転用した。

如何にして二正面作戦を回避するかはいつの時代も戦勝の要訣である。そのためには、卓越したインテリジェンス・リテラシーと的確な情勢判断が重要なのである。

▼関ヶ原の合戦を前にした心理作戦

慶長5年8月1日、西軍は家康の家臣が守る京都の伏見城を落とし、岐阜の大垣城へと向かった。

 一方の東軍は、福島正則が先方隊となり、東海道を西進し、岐阜の清州城へ入城した。しかし、家康は江戸城に籠もって一向に動こうとしなかった。

これに腹を立てた正則は、自ら戦果を得るべく、8月21日、清州城を出て、難攻不落と言われた岐阜城をわずか半日で攻め落とした。さらには、西軍が陣取る大垣城まで4㎞の美濃赤坂に兵力を展開した。

その頃、家康は約1か月の間、江戸城に籠もっていた。そこで何をしてかというと、諸国の大名や福島、黒田、細川ら一人一人に書状を書いていたのである。

というのは、福島、黒田らは徳川派の武将ではなく、秀吉に忠誠を誓った豊臣派の大名である。福島、黒田らが三成と仲が悪いのを利用して、家康に加担したに過ぎない。だから、家康は彼らが寝返る可能性があると懸念していた。

そのため、家康は一人一人に対する書状によって彼の離反を防ぐとともに、彼らの真意を見極めていた。また、戦勝の暁には十分な報償を与えることを約束し、彼らの懐柔工作に余念がなかった。つまり、心理戦によって豊臣派の武将を三成軍と戦わせるよう仕向けたのである。

▼戦場の関ヶ原に集結

慶長5年9月1日、家康は徳川約3万の兵を率いて江戸城を出発した。東海道を西進し、同月11日、清州に到着した。清州において、徳川の主力部隊36000を率いて中仙道を西進する秀忠(家康の次男)軍と合流し、西軍との決戦に臨むという計画であった。

しかし、ここで予想外のことが起きた。秀忠軍は信州上田において、小山評定の後に忽然と姿をくらました真田昌幸(さなだまさゆき)の軍勢に進軍を妨害されていたのである。だから、家康がいくら待ってもて、秀忠は清州に到着しなかったのである。

このままでは西軍が数の上でも有利であり、しかも戦場に先に到着して、東軍を包囲する体制を敷いていた。

家康は、秀忠軍のさらに到着を待つか、それとも現在の集結兵力で決選に臨むか、思案に暮れた。そこで家康の出した結論は決選に臨むであった。

ここに「天下分け目の戦い」と呼ばれる関ヶ原の合戦が生起した。三成率いる西軍は総勢8万人、家康率いる東軍は総勢7万人である(資料によりかなりバラツキあり)。

東軍の主力は福島正則、黒田長政、細川忠興、池田長政らである。一方の西軍は毛利輝元、宇喜田秀家、大谷吉継、小早川秀秋らである。

正則の部隊が秀家の部隊に発砲したことで、戦いの火蓋はきられた。軍勢では西軍有利かに見られた。しかし、実は戦争開始になったら東側に寝返るよう小早川秀秋、脇坂安治、吉川広家らは調略を受けていたのである。

つまり、家康が秀忠の到着を待たずして決戦に臨むことを決断したのは、秀秋らの寝返りを算定していたからである。

小早川秀秋は15000人の兵をつれ戦場の緊要地形を支配していた。だから彼が西軍の脇腹を突く形で攻撃すれば形成は一挙に変わる。しかし、戦いの火ぶたが切られても秀秋は一向に動こうとしない。というのは、予想外にも三成軍が健闘し東軍と“五分五分”の戦いを演じていたからである。つまり、秀秋は勝ち馬に乗ろうと企んでいたのである。

この様子をみて激怒した家康は、鉄砲隊に秀秋の陣を目がけては発砲するよう命じた。この発砲が“導火線”となり、秀明は西軍を裏切って、大谷吉継の陣に突撃した。脇坂や吉川もこれに続いた。

かくして戦況は一挙に東軍有利に傾き、まもなく西軍は総崩れとなった。戦いはわずか半日にして東軍の大勝利となったのである。

 このように関ヶ原の合戦はわずか半日で終わったが、実は家康が戦勝した要因は情報戦にあった。上述のような寝返り工作に加え、三成とともに西軍の軍事計画を立てた増田長盛を内通者として獲得していた。家康は長盛を通じて、西軍の軍事計画や事前の動きを入手していたのである。

大阪の夏の陣

徳川家康は関ヶ原の合戦で勝利した。東軍とした戦った豊臣派の武将には多大な領地を報酬として分け与えた。家康は信長や秀吉の中央集権型の国家ではなく、地方分権型の国家の創設を目指した。

1603年、家康は征夷大将軍となり、江戸幕府を開いた。家康は、娘の千姫を秀頼の下に嫁がせ、豊臣家の懐柔策を取った。

しかし、秀頼の母である淀が家康に抵抗した。淀を後ろ盾にした秀頼の権威が一向に落ちることはなかった。1613年頃から、徳川対豊臣の対立基調になっていた。

 秀頼を生かしておいては将来に禍根を残すと判断した家康は、1614年冬から1615年夏にかけての大阪の陣を引き起こし、ついには秀頼に自害を強要した。

ここに、徳川260年の安定政権の礎が確立されたのである。

わが国の情報史(6)

天下統一を達成した豊臣秀吉

▼情報家として出世街道を歩み始めた豊臣秀吉

豊臣(羽柴)秀吉は、尾張の地侍の家に生まれた。織田信長に仕えて次第に才能を発揮し、出世魚のように木下(藤吉郎)→羽柴→豊臣と苗字を改め、どんどんと出世し、やがて信長の有力家臣になった。

秀吉は、まず今川家に仕えるが出奔(しゅっぽん)し、信長に仕える。信長は1560年の桶狭間の戦いで今川義元を破り、天下に名を知らしめるが、この時、織田軍のなかに秀吉がいたことは確かである。

秀吉は当時24歳、信長に仕えてまだ2年程度であり、おそらく足軽組頭をしていたとみられている。

ただ、対今川の情報収集の担い手の一人であった可能性は高い。戦国時代の史料である『武功世話』も、秀吉が駿河と三河といった今川領の事情に詳しかったことを伝えている。

つまり、秀吉が情報家として、信長の目に留まった可能性がある。これがのちのおおいなる出世の切っ掛けになったのだから、秀吉は戦における情報の価値を十分に認識したとみられる。

▼天下統一を達成した豊臣秀吉

秀吉が天下統一の歩みを開始するのは、織田信長の亡き後である。まず1582年、山城の「山崎の合戦」で、信長の敵となった明智光秀を討った。翌83年に信長の重臣であった柴田勝家(しばたかついえ)を賤ヶ岳(しずがだけ)の戦いで破り、大阪城を築いた。84年に尾張・長久手の戦いで織田信勝(のぶかつ、信長の次男)・徳川家康連合軍と戦った。この戦いは引き分けた。

1585年、朝廷から関白に任じられ、長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)をくだして四国を平定し、86年に太政大臣に任じられ、豊臣の姓を与えられた。

そして、全国の戦国大名に停戦を命じ、その領国の確定を自らの裁量に従うよう強要した。これに違反したとして、87年に九州の島津義久を討った。90年に小田原の北条氏政を滅ぼし、同年に東北地方の伊達政宗を服属させ、ここに全国統一を成し遂げたのである。

▼秀吉の軍事的勝利を支えたもの

 秀吉は戦いにおける情報の価値を認識し、相手の弱点を捉え、謀略や外交交渉による「戦わずして勝つ」を追求した。

つまり、秀吉の軍事的勝利は、戦場での戦略に劣らず、敵に関する情報収集と、事前の周到な計画に負うところが大であった。彼は「孫子」の教訓に従ったが、これを独創的で巧妙極まる形に応用したのである。

 彼は、全国各地の情勢を把握するために、大勢の間諜からなる集団を組織して、全国津々浦々に間諜を派遣した。間諜はリレー方式により、秀吉のもとに最新の情報を届けた。現代でいう通信・連絡組織を確立した。

秀吉を支えた二人の有名な軍師がいる。その一人は美濃の国の竹中半兵衛(重治)である。半兵衛は当初は織田信長に敵対する斎藤家に仕えていたが、のちに信長側に寝返った。

秀吉がまだ信長の家来であった時、近江(おうみ)の浅井長政の攻めを担当した(1573年9月)。この際、半兵衛は秀吉に仕え、近江・美濃の国境に近いところの領主だった堀次郎の寝返りを成功させた。この内応が引き金となり、連鎖反応のように浅井家の家来が次々と寝返り、ついに浅井氏は戦う前から負けていたというわけである。以後、半兵衛を軍師として得た秀吉は、ますます謀略(調略)を重視するようになった。

▼秀吉、九州を平定す

 秀吉の九州征伐は、年表では1587年のことである。しかし、戦いそのものは1584年から始まっていた。

 この九州の平定においては、秀吉の諜報・謀略の才が如何なく発揮された。秀吉は間諜に命じて、より多くの情報を集めさせるだけでなく、住民の士気を挫く宣伝活動をさせるために、わざわざ進攻を1年以上も遅らせた。

また、彼が要求して入手した情報は、その土地の詳細な描写と地図、作物の収穫状況、食糧事情にとどまらず、大名とその軍隊との関係に関する報告も含まれていた。つまり、大名の家来を如何にして寝返らせるかといった視点からの内実情報を求めたのである。

この九州の平定において、1514年10月にこの地に派遣したのが、半兵衛に勝るとも劣らない、もう一人の軍師の黒田官兵衛である。

 官兵衛は、北九州の諸大名に対して、「味方になれば本領を安堵しよう」、しかし、「敵対すれば、来年、秀吉殿が大軍を率いて攻め込んでくるので、滅亡させられるだろう」と脅した。

「本領安堵」という言葉に誘われて、諸大名は早々と秀吉に投降した。しかし、これは秀吉の詭弁であった。投降した一部の大名は無情にも転封(てんぽう、所領を別の場所に移すこと)を命ぜられた。

たとえば、豊前の国(ぶぜん、福岡県東部から大分県北部)の勇猛な武将である宇都宮鎮房(城井鎮房、きいしげふさ)は、官兵衛の求めに応じて秀吉の九州平定に協力したが、豊前の治めを任されたのは官兵衛であった。秀吉は鎮房に対し、伊予の国(愛媛)に転封を命じた。鎮房はこれを不服として官兵衛に立ち向かったが、鎮房は結局、謀殺されてしまった。

このように、秀吉は諜報・謀略を駆使して全国統一を進めたのであった。

▼秀吉、キリスト教禁止令を出す

 1590年、秀吉は宿願の日本統一を果たした。その後、徳川家康と同盟を結んだあと、海外に目を向け、日本からベトナム、マニラ、シャム向けの船積みを許可しはじめた。

 その頃、1549年に日本に初渡来したキリスト教宣教師たちは次々と日本人を改宗していった。秀吉は信長と同様に最初は、宣教師たちの布教を奨励した。しかし、長崎がイエズス会領となっていることに危機感を覚え、1587年7月、筑前箱崎において伴天連(バテレン)追放令を発令する。そして「スペイン国王がキリスト教宣教師をスパイに利用して、布教により他国を制圧していく」という話を聞き及び、ついに96年にキリスト教禁止令を発令し、ヨーロッパ人宣教師6名と日本人信者20名を処刑した。

スパイを利用して布教により他国を制圧する、これはまさに秀吉が天下統一のためにとった調略そのものであった。それゆえに、誰よりも布教による間接的侵略の恐ろしさを、秀吉は熟知していたのだろう。

 とはいえ、その後も秀吉は長崎での南蛮貿易を許可し、キリシタン大名である黒田孝高(くろだよしたか、黒田如水)と小西行長(こにしゆきなが)を大いに利用した。おそらくは、秀吉は一定のパイプだけは確保し、相手側の情報を入手する必要性を認識していたのだろう。

 話はそれるが、我が国は北朝鮮に対する制裁によって、北朝鮮との人的交流を自ら遮断した。このため、北朝鮮に対する高質のヒューミント情報を得られなくなったという。つくづくインテリジェンスは奥が深い。

▼秀吉、朝鮮出兵で敗北

 秀吉は1592年から98年にかけて2度にわたって朝鮮出兵を行った(文禄・慶長の役)。秀吉は朝鮮半島を経由して明に攻め込もうとした。この計2回の出兵で、秀吉は有力な配下の武将が率いる15万以上を派兵した。

92年の文禄の役は、当初は“破竹の勢い”であり、1か月で京城(ソウル)を攻め落し、2か月で北朝鮮のほぼ全域を支配した。しかし、明軍の援軍により、侵攻は停滞した。

秀吉はいったんは「和議」を結び派遣軍を撤退させたが、再び97年に朝鮮半島に軍を派遣した。しかし、秀吉は98年に病死し、派遣軍は朝鮮半島から撤退した。

この長期に及んだ遠征は惨憺たる失敗に終わった。この無謀ともいえる朝鮮出兵をなぜ秀吉がおこなったのか、諸説あって、真実は依然として謎である。

 一つの説ではあるが、秀吉は当時のスペインをはじめとするアジアへの侵略を阻止するため、日本の支配権を拡大し、軍事力を誇示することで対抗しようとした、との見方もある。

 ただし、伝えられる秀吉の数々の奇行から察するには、私利私欲にかられた無意味な戦いであったように思われる。

ともあれ、これにより、豊臣方は膨大な資金と兵力を損耗し、勢力を温存した徳川にとってかわられることになる。

インテリジェンスに長けた武将、豊臣秀吉であっても権力を握ると周りが見えなくなる。孫子でいう敵を知ること以上に己を知ることができなくなるのである。客観性を失えば、もはや有用なインテリジェンスを生まれないということであろう。

わが国の情報史(5)

インテリジェンス武将、織田信長

▼天下統一の意志を示す織田信長

応仁の乱から約100年後の16世紀中頃には、全国各地で戦国大名が台頭した。そのオールスターズが、相模小田原の北条氏康(1515~71)、越後の上杉謙信(1530~78)、甲斐の武田信玄(1521~73)、駿河の今川義元(1519~60)、美濃の斎藤道山(1494~1556)、越前の朝倉義景(1533~73)、安芸の毛利元就(1497~1571)、豊後の大友宗麟(1530~87)、薩摩の島津貴久(1514~71)である。

 このなかで、まず天下統一の偉業達成にもっとも近かったのが今川義元である。しかし、義元は尾張の桶狭間の戦いで、伏兵ともいえる織田信長に敗れてしまう。

義元を破った信長は1567年、美濃の斎藤氏を滅ぼし、岐阜城に移ると、「天下布武(てんかふぶ)」の印判を使用して天下を武力によっておさめる意思を明らかにした。

翌1568年、畿内を追われていた足利義昭を立てて入京し、義昭を将軍職につけて、天下統一の第一歩を踏み出したのである。

信長が戦国大名の中で勝ち残っていけたのは、彼の卓越した戦略・戦術眼による。そして、それを支えるインテリジェンスの重要性を最も認識していたからである。信長は諜報活動を重視し、謀略を駆使して、自らの勢力を拡大したのであった。

▼信長、桶狭間で今川義元を破る

信長の名を世に知らしめたのは、なんといっても今川義元との桶狭間の戦いにおける大勝利である。この戦いでは、信長がいかに諜報・謀略を重視したのかがよくわかる。

1560年5月18日夜、織田信長は清州城において、「今川義元、19日大高泊り」という情報を入手した。信長は、義元が大高締城に入る前に、奇襲すると決心して、「直ちに出陣!」と号令した。

出発を前に幸若舞を舞い、夜半2時の丑三つ時に、側近数騎を従えて出陣した。大部隊を編成していては好機逸してしまう。とりあえず出陣すれば、部隊が急いで追随するだろう。時間調整は出陣後にすればよい、との読みがあった。 

織田信長の狙いはただ一つ、敵将の今川義元の首を取ることであった。だから、諜報網を展張し、義元の動向をつぶさに把握したのである。

 西進を期する義元の軍勢3万は19日朝、沓掛(くつがけ、愛知県豊明市)を出発した。信長は義元軍が桶狭間を抜けて鳴海(なるみ)に展開するとみて、熱田(あつた)を立ちて鳴海に向かった。

しかし、なかなか義元の現在地が掴めなかった。そこに、19日12時、梁田政綱(やなだまさつな)から急報が来た。「義元、ただいま、田楽狭間に輿(こし)をとどめ、昼食中」

信長は一挙に義元本陣への斬りこみを決した。部下3000のうちの精鋭隊1000人を選出した。義元の本陣は土地の有力者が持ち込んできた、ごちそうを食べ、祝い酒に酔いしれていた。実は、これらの有力者も梁田が雇った工作員であった。

 奇襲を受けた義元以下多数の有力武将は次々と討たれ、指揮官を失った義元の軍勢は一挙に壊滅へと向かったのである。

 信長は、功名第一は梁田、第二は義元に一番槍をつけた服部小平太、第三は義元の首をとった毛利新助(義勝)とした。奇襲のお膳立てをした梁田の諜報・謀略を最も重視したのである。

 信長は、梁田政綱の働きを高く評価したのは『孫子兵法』の影響である。『孫子兵法』の第13編「用間」には、「賞は間より厚きは莫(な)く、事は間よりも密なるはなし」の記述がある。

つまり、「インテリジェンスに携わる者は表に出せないし、階級を与えるわけにはいかないので、禄を与えよ」と言っているのである。

このように信長は、孫子の兵法に教えを忠実に守ったのである。

▼長篠の戦いで、織田信長が武田勝頼を撃破

信長が不動の地位を築いのが1574年の長篠(三河設楽郡長篠)の戦いである。長篠の戦いは織田・徳川連合軍と武田軍の決死の戦いであった。この戦いに至る経緯を少しだけさかのぼろう。

1573年、武田信玄は、「三方ケ原の合戦」で徳川家康を完膚なきまでに叩いた(「我が国の情報史(4)」参照)。

この余勢を買って、信玄は遠江(とおとうみ、静岡県西部)、三河(みかわ、愛知県東部)の諸地域を支配下においていった。

しかし、1573年4月、信玄が突如、陣中で死亡する。このため武田軍はいったん撤退することを決した。劣勢である家康軍とその連合軍である信長軍は“九死に一生”を拾ったのである。

武田軍の圧力が削がれた好機を利用して信長は1573年7月、反信長の包囲網の形成を企む足利義明を京都から追放した。ここに室町幕府は滅亡した。

同年8月、信長は越前の朝倉義景に攻め込み、義景に自害を強要した。9月に近江(おうみ)の浅井長政、11月に河内の三好義継をそれぞれ自害させ、逐次に勢力を拡大した。

一方の武田軍においては、信玄の後を継いだのが四男の武田勝頼であった。勝頼は信玄の意思を継ぎ、1574年2月、信長の領地になっていた美濃(岐阜県)に攻め込み、明智城(長山城)を攻略した。

1574年4月、勝頼は15000の兵を率いて、長篠城に攻め込んだ。長篠城を守る家康軍の兵はわずか500であったが、200丁の鉄砲隊がよく持ちこたえた。その間、信長は家康を救援するため、3万の兵を動員した。

これにより織田信長・家康連合軍は38000人となり、武田軍15000人の倍以上の勢力になった。

信長は鉄砲隊3000丁を結集し、一挙に武田軍の打倒を企図した。しかし、当時の火縄銃は次弾を撃つまでに時間がかかるので、一挙に突撃されてしまっては敵の進撃を阻止できない。そこで長篠城の南4kmにある設楽原(したらはら)において、河川と丘陵の自然障害を利用して数線の強固な土塁を編成した。この土塁に鉄砲の射線を向けて武田軍を狙い討つ構えを整えた。

あとは、勝頼軍を設楽原の待ち受け陣地に誘致導入することであった。勝頼に長篠城の包囲に3000を当てていたので、設楽原に充当する12000千になる。これでは38000人の織田・徳川軍には立ち向かえない。

勝頼の部下は挙って撤退を進言した、勝頼は聞き入れず、1575年5月21日早朝、設楽原の防御陣地に攻めかかる。しかし、周到に陣地配備した織田・徳川連合軍に完膚なきまでに叩きのめされたのは言うまでもなかった。

▼信長の実施した「反間計」

 長篠の戦いの勝因は、首尾よく勝頼を設楽原に誘致導入したことである。実は、ここには信長の諜報・謀略が生かされているのである。

 勝頼は、信長の様子を探るため、家来の甘利新五郎を内応させた。孫子でいうところの死間である。

 信長は新五郎が間者であることを見抜き、これを反間(二重スパイ)として利用することにした。すなわち、甘利のみているところで重臣である佐久間信盛をしかりつけ、その面上に鞭をくれた。信盛は無念の目で信長を睨み返し、人々は信長のやり方を「重臣を遇する道ではない」と非難した。

信長方の陣地の要地を死守していた信盛は、その夜、勝頼に内応を示し、「手招きしますから、私の陣地に無二無三に突進されたい」と誘った。

勝頼は、甘利から信盛が粗末に扱われている状況を知らされていたから、ためらいもなく信盛の誘いを信じ、重臣の反対を押し切って攻撃に出たのである。

つまり、信長は甘利を利用し、見事なまでに「反間計」(兵法第33計)をやってのけたのである。

▼ 信長、暗殺される

  信長は京都を押さえ、近畿・東海・北陸地方を支配下に入れ、統一事業を完成しつつあったが、独裁的な政治手法はさまざまな不安を生んだ。1582年、毛利氏征伐の途中、滞在した京都の本能寺で配下の明智光秀に背かれた敗死した(本能寺の変)。

わが国の情報史(4)

戦国大名屈指の忍者の使い手、武田信玄

▼南北朝時代の動乱から守護大名が芽生え

1336年5月の「湊川の戦い」に勝利した足川尊氏は同年11月、建武式目17条を定め、新たな武家政権の成立を宣言した。ここに、後醍醐天皇による「建武の中興」はわずか3年余りで崩壊することとなった。

尊氏は、傀儡の光明(こうみょう)天皇をたて北朝を開いた。これに対し、後醍醐天皇は吉野に逃れ、南朝を開いた。ここに南北に2つの朝廷が存在するという動乱の幕開けを迎えるのであった。この動乱の時代は、3代将軍の足利義満(あしかがよしみつ、1358~1408)が1392年に南北朝を合一するまで、約60年間続くことになる。

1338年、南朝側は、重鎮の北畠顕家(きたばたけあきいえ、1318~38)、新田義貞が相次いで死亡し、劣勢に立たされた。しかし、顕家の父親である北畠親房(ちかふさ、1293~1354)らが中心となって、東北・関東・九州などに拠点を築いて、北朝側に対し抗戦を続けた。

なお親房は、南朝の正統性を述べた『神皇正統記』(じんのうしょうとうき)を著し、皇室・皇統が神聖不可侵のものであることを説いた。『神皇正統記』については、おそらく後に触れることになるような気がするので、ここで記憶にとどめてほしい。

一方の北朝側は、1338年11月、尊氏が征夷大将軍に任命された。ここに室町幕府が成立した。ところが、北朝側も、尊氏の弟の直義を支持する勢力と尊氏の執事である高師直(こうのもろなお、?~1351)を中心とする勢力が対立し、1350年には激しい武力対決に発展した(観応の擾乱)。

観応の擾乱の以後も、尊氏派(幕府)、直義派、南朝勢力の三者の対立が続き、それが全国化し、地方武士の力が増大した。これら地方武士を各国ごとに統括する守護が、やがて守護大名となって台頭することになるのである。

『孫子兵法』はすでに門外不出ではなくなった 

室町時代は、一般的には、1338年に尊氏が征夷大将軍に任命された以降から、15代将軍の足利義昭(あしかがよしあき、1537~97)が織田信長によって京都から追放される1573年までの237年間をいう。

ただし、建武の中興(1333年)を含む最初の約60年間を「南北朝時代」、1467年の応仁の乱から1573年までを「戦国時代」として細分化することもある。

室町幕府の呼び名の由来は、3代将軍の足利義満が1378年に京都北小路室町に花の御所を造営して以降、歴代の将軍がここで執政を行ったためである。義満の治世は、まさに室町時代の絶頂期であった。

1368年、朱元璋が元の支配を滅ぼし、漢民族の王朝である明を建国した。義満は、この明と日明貿易(勘合貿易)を開始した。日本国内の支配権を確立するための豊富な資金力を獲得することが狙いであった。これは、義満が明に使者を派遣して国交を開いた1401年から1549年まで計19回に及んだ。

日明貿易の以前は、『孫子兵法』は朝廷の命を受けた大江氏などによって先祖代々大切に保管されていた。その時々において、源氏や楠木正成などに伝授されたが、基本的には門外不出であった。

しかし、日明貿易の開始により、『孫子兵法』やその注釈本などが明から大量に日本に入ってきた。かくして『孫子兵法』は民間にも伝播し、従前のような門外不出の代物ではなくなったのである。

他方、1432年には、守護大名の上杉憲実が、下野国(しもつけのくに)に足利学校を復興させ、全国から学生を集めて、無料で兵学を教えた。兵学を学んだものが守護大名に雇われて、「軍師」となった。こうして世の中は情報戦、謀略戦などが飛び交う戦国時代へと向かうことになるのであった。

▼戦国大名と「孫子」の兵法

 1467年、戦国時代の幕開けとなる応仁の乱が始まった。全国の守護大名は細川勝元(東軍)と山名宗全(西軍)の両軍に分かれて戦い、主戦場となった京都は戦火によって荒廃した。この騒乱により、幕府の体制は崩壊し始めた。やがて全国には「下剋上」(下の者が上の者をしのいでいく現象)の風潮が蔓延し、各地では国一揆がおこった。

応仁の乱から約100年後の16世紀中頃には、全国各地で地方権力を独自に握る動きが起こり、有力な守護大名が続々登場した。これらの大名はのちに戦国大名と呼ばれるようになった。

すなわち、相模小田原の北条氏康(1515~71)、越後の上杉謙信(1530~78)、甲斐の武田信玄(1521~73)、駿河の今川義元(1519~60)、美濃の斎藤道山(1494~1556)、越前の朝倉義景(1533~73)、安芸の毛利元就(1497~1571)、豊後の大友宗麟(1530~87)、薩摩の島津貴久(1514~71)の登場と相成ったのである。

これら戦国大名の中では、毛利元就が「孫子」の使い手として有名である。毛利家兵法の特徴は「策」が多いことが特徴であり、謀略も多用された。それもそのはず、毛利家は、『孫子兵法』の大家にして『闘戦経』の著者である大江匡房の子孫になるからだ。

元就は1554年の厳島の合戦(いつくしまのがっせん)では、山口を本拠とする陶晴賢(すえはるかた)を破った。晴賢は、主君の大内義隆を殺害し、大友家の養子、義長を擁立して実権を握ったのであるから、元就にとっては正義の戦いということになる。

ただし、元就の戦い方は“だまし討ち”などの謀略を駆使したものであった。まず敵方の勇将3名を、高禄を餌にして内応させた。このうちの江良房栄(えらふさひで)については内応後の態度に腹心ありと見て、流言を放ち、敵のスパイに「房栄が内応した」とわざと漏らして晴賢に報告させた。さらに、内通書を偽作して、陶軍の本拠、山口の町で落とした。

この反間を利用した欺瞞工作にマンマと引っかかった晴賢は、疑心暗鬼になって房栄を殺害した。彼の死が前線将兵に不安を与え、上下不信の機運を生み、戦力に多大な悪影響を及ぼしたのである。

 元就と同様に「孫子」を知悉していたとされるもう一人の戦国大名が武田信玄である。信玄は「風林火山」の軍旗で有名であるが、この四文字は、『孫子兵法』の第7「軍争編」からの引用であることがよく知られている。

 信玄の戦いと言えば、上杉謙信との「川中島の戦い」(1553年~64年)が殊に有名である。しかし、信玄のもっとも代表的な戦いをあげるとすれば、「三方ケ原の合戦」(1573年)であろう。

信玄は、この合戦で徳川家康を完膚なきまでに叩いた。この際の信玄の侵攻速度が恐ろしく速く、この“怒涛の攻め”に対応できない家康軍は浜松城に、命からがら逃げ帰った。まさに、信玄の戦いは「侵略すること火のごとし」であった。

忍者のその後の発展史

 『孫子兵法』といえば、最も有名なのが、第13「用間編」における5種類のスパイ(郷間、内間、反間、生間、死間)の運用である。すなわち、孫武は「戦わずして勝つ」を信条に情報戦をもっとも重視したのである。

血で血を洗う戦国時代においては、この情報戦が熾烈を窮めた。その中心的な役割を担ったのが、五間に相当する忍者であった。

紀州の軍学者・名取三十郎正澄(藤一水子正武)が1681年に書いた忍術書『正忍記』(しょうにんき)は、郷間を「因口の間」、内間を「内良の間」、反間を「反徳の間」、死間を「死長の間」、生間を「天生の間」として説明し、これら五間が忍者だと述べている。

忍者の起源と発展の概要については、『我が国の情報史(2)』にて、すでに概略を述べたが、もう一度要点をおさらいしておこう。

忍者は飛鳥時代、聖徳太子の頃に発生し、当時は志能便(しのび)と呼ばれていた。平安時代になって、忍術の技術が修験者(山伏)の活動の中で発展した。鎌倉時代になって、荘園領主に抵抗した「悪党」が甲賀衆や伊賀衆などの忍者集団を形成していた。楠木正成は伊賀衆を使って、情報戦を展開し、後醍醐天皇による建武の中興に貢献した。

ここで、さらに戦国時代になってからの発展史を追記しよう。『正忍記』によれば、「北条氏康が風麻(かざま)という盗人に知行を与えて各地を探らせ、甲州の信玄はスッパ(徒者・透波)という盗人を使った」ともある。

(『忍者の兵法 三大秘伝書を読む』 )

この風麻から、やがて相模の国の忍者集団の頭目である風魔小太郎(かざまこたろう、ふうまこたろう)が登場する。彼は風麻から風魔を名乗ったのである。この頃、関東では忍者のことをラッパ(乱波)と言い、風魔小太郎は、小田原を根城にする北条氏康の配下で活躍する「北条ラッパ」であった。

 一方、甲州以西では忍者はスッパと呼ばれた。武田信玄が「甲州スッパ」を使って各国の情報を精力的に集めたことは有名である。「孫子」に通じている信玄は、自らの情報を守る防諜と、敵方の情報を入手する諜報のために、忍者を養成し、忍者を使って情報活動を行ったのである。

 戦国時代になって、各地の戦国大名は忍者を本格運用して、情報戦を仕掛け、これが戦いの趨勢を決するようになった。まだ、天下統一に向けた兆しはないが、やがて時代は一人の卓越した軍事の天才を迎えることになる。その男こそは名将・織田信長(1534~82)である。

わが国の情報史(3)

楠木正成、湊川の合戦で死す

 後醍醐天皇による建武の中興は、それまでの武士の社会で作られていた慣習を無視していたため、多くの武士の不満と抵抗を引き起こした。このような中、武士の再建を目指していた足利尊氏(あしかがたかうじ)が朝廷に反旗を翻した。

朝廷は新田義貞、楠木正成、北畠顕家(きたばたけあきいえ)らを派遣し、いったんは尊氏軍を撃退した。尊氏は九州に逃れた。だが、この際、朝廷軍から多くの将兵が尊氏に追随したのである。

正成は、尊氏の能力の高さもさることながら彼の人望を高く評価し、尊氏が再び朝廷の脅威になることを見抜き、後醍醐天皇に尊氏との和睦を奏上する。しかし、尊氏に対する勝利に浮かれた天皇や公家は、正成の忠言を一顧だにせず、正成は朝廷から不興を買ってしまった。

一方の尊氏は、九州で軍勢を建て直し、朝廷に不満を持つ勢力や民衆を引き連れ、再び京都に攻め込もうとする。その数や優に10万人を超えていた。

朝廷は新田義貞を派遣し、尊氏軍を阻止しようとした。しかし、力の差は歴然であり、すぐに天皇のもとに義貞軍退却の報が知らされると、正成に「尊氏軍を迎え討て」との命が下された。

正成は、尊氏とまともに戦っては勝目がないと考え、帝は比叡山に潜伏していただき、義貞軍とともに京都で尊氏軍を挟撃し、兵糧攻めにする案を進言した。だが、この進言も後醍醐天皇によって退けられ、正成は義貞の麾下で京都を出て戦うよう出陣を命じられたのであった。

1336年5月16日、正成は京都から兵庫に下向した。道中、正成は息子の正行(まさつら)に「今生にて汝の顔を見るのも今日が最後かと思う。自分が討死にをしても、お前は生きて帰り、いつの日か朝敵を倒せ」と述べ、桜井の宿から河内へ帰るよう正行に命じた。

これが有名な楠木父子が訣別する『太平記』に描かれる「桜井の別れ」(史実であるかどうかは不明)である。正行はこの時、数え11歳であった。

5月24日、正成は兵庫に到着し、義貞の軍勢と合流した。正成は義貞に撤退を促すものの、義貞はこれに応じない。ついに翌25日、正成・義貞連合軍は尊氏軍と湊川(みなとがわ)で対峙することになった(湊川の戦い)。しかし、戦いが始まるとすぐに、正成と義貞の軍勢は分断され、前後を遮断された。

正成はやむなく700余騎を引き連れ、足利直義の軍勢に正面突撃を敢行した。正成とその弟の正季(まさすえ)はよく奮戦し、7回合流してはまた分かれて戦い、ついには直義の近くまで攻め立てた。

直義は辛くも逃げ延びた。尊氏は直義が退却するのを見て、軍6千余騎を湊川に増援させた。

6時間の合戦のすえ、正成と正季は敵軍に16度の突撃を敢行し、最後には正成軍は73騎になっていた。疲弊した正成軍は湊川近傍の民家に駆け込み、正成は正季ともに「7度生まれ変わっても、国に忠義を尽くし、国の恩に報いろう」(七生報告)と述べ、皆の者に別れを告げた。

正成は正季と刺し違えて自害し果て、その他の一族16人、家人50余人もまた自害した。

▼正成は『孫子兵法』の達人

正成は、軍勢が圧倒的に不利であった赤坂城の戦いや千早城の戦いでは、ゲリラ戦法を駆使し、山伏(修験者)や忍者などの協力を得て、商人や農民などの民衆との広大な情報網を築き、水や食糧を調達し、民衆を蜂起させることで、幕府軍を苦しめた。

いったん戦況が有利になった際の宇都宮軍との天王寺の戦いにおいては、「一気呵成に攻撃に出ましょう」との周囲の者の進言を却下し、「良将は戦わずして勝つ」と言い放ち、民衆のかがり火で宇都宮軍を包囲し、戦いによって一滴の血も流すことなく敵を撤退へと追い込んだ。

 こうした戦い方は、とりもなおさず正成が「孫子」の兵法を知悉していたことを物語るものであろう。

では「孫子」は如何に正成に伝授されたのであろうか?家村和幸著『闘戦経』および『図解孫子兵法』(いずれも並木書房)などを基にみてみよう。

『孫子兵法』が我が国に伝来した説についてはすでに述べたが(我が国の情報史(1)を参照)、その後の『孫子兵法』は大江家によって管理されることになる。

大江家は古代の氏族である土師氏(はじし)を源流とする。平安時代には、大江千里(おおえのちさと)、大江匡衡(まさひら)、和泉式部(いずみしきぶ)などの優れた歌人を輩出した。すなわち、栄えある文人の家系としても有名である。

一方、大江家の初期の祖である大江維時(おおえのこれとき、888年~963年)は、930年頃に唐から兵書『六韜(りくとう)』『三略』『軍勝図(諸葛孔明の八陣図)』を持ち帰った。

しかし、維時はこれらの兵書を「人の耳目を惑わすもの」として秘して伝えなかった。大江家はこれらのほかに『孫子』『呉子』『尉繚子(うつりょうし)』などを、門外不出の兵法書として大切に管理していた。

しかし、匡衡の孫である大江家第35代の大江匡房(まさふさ 1041~1111年)は、河内源氏の源義家(八幡太郎)に請われて兵法を教えることになる。その匡房の孫が大江広元であり、彼は1184年に源頼朝に仕え、鎌倉幕府設立の立役者となった。なお、その後の大江氏は毛利氏をはじめとする武家の祖となる。

後冷泉(ごれいぜい)天皇の御代、陸奥の安倍氏が朝廷に反旗を翻した。この際に討伐を命じられたのが、当時の鎮守府将軍であった源頼義(みなもとのよりよし)である。頼義は10年近くにわたり戦うが、いっこうに安倍氏を攻め落とすことができなかった。これが「前9年の役」(1056~1064年)である。

そこで、頼義は息子の義家に命じて兵法を学ばせることにした。義家は父の命にしたがって京都の大江匡房のもとを訪れた。当初、匡房から兵法書は門外不出であるとして、その伝授を断られたが、やっとのことで伝授を許された。それが『孫子兵法』であったのである。

『孫子兵法』を伝授された義家は陸奥の戦地に復帰し、難攻不落の安倍氏を討伐し、「前9年の役」に決着をつけた。さらの「後3年の役」(1083~1086)においても『孫子兵法』によって勝利し得たのである。

その後、『孫子兵法』は大江家によって厳重に管理され続け、大江家第42代の時親(ときちか)が、河内の観心寺で楠木氏に兵法を伝授したとされる。楠木正成は幼少の頃から、時親から孫子の兵法を学んでいたとされる

▼正成の忠誠心の源流は『闘戦経』

他方、湊川における正々堂々の戦いと、「七生報告」にみられる後醍醐天皇に対する忠誠心はどこから生まれたのであろうか。これは「兵は軌道である」と説く『孫子兵法』の解釈では説明できない。

実は、大江正房が源義家に兵法を伝授した際に『孫子兵法』と同時に伝えたもうひとつの兵法書があった。それがわが国古来の兵法書・『闘戦経』であった。

匡房は「兵は詭道なり」とする『孫子』は優れた書物ではあるが、必ずしも日本の文化や伝統に合致せず、正直、誠実、協調と和、自己犠牲などの日本古来の精神文化を損なう危険性があると認識していた。

そこで匡房は自ら『闘戦経』を著し(その先祖の大江維時の著とする説もある)、『孫子兵法』を学ぶ者は、同時に『闘戦経』を学ばなければならないと説いた。

その後も『闘戦経』は『孫子兵法』とともに大江氏が管理し、その時々において源氏や北条氏へと伝授されていった。この間、匡房の教えは家訓として伝えられた。そして、大江時親が楠木正成に兵法を伝授した時、同時に『闘戦経』も伝授したのである。

かくして兵法の天才である正成は『孫子兵法』ともに『闘戦経』の教えを実践の場で遺憾なく発揮したのであった。

『闘戦経』は53の教えからなる。その教えの第一の特徴は、『闘戦経』は『孫子兵法』を否定しているものではなく、『孫子兵法』を補完するものとしている点である。

第二の特徴は、戦い(武)を第一義とし、武は秩序を確立するものとして、そこに積極的価値を置いている点である。そして「武」の知恵と「和」の精神を結合さることの重要性を説いている。

第三の特徴は、戦いに勝つために、戦場における「兵は軌道なり」はあってもよいが、戦略上はすべて謀略に頼るのではなく、時には正々堂々とよく戦うことも重要である、という点である。

ここから、湊川に戦いにおいて、負け戦と分かっていながら、尊氏軍に対する16度の突撃が繰り返されたのである。また、のちの「謀略は誠なり」の言葉が発祥し、楠木正成の思想が、太平洋戦争期における秘密戦・戦士の精神的支柱になっていくのであった。

正成が後世に与えた影響

楠木正成の忠戦は、正成の死後からわずか35年後に著された『太平記』によって描かれている。

『太平記』は正史ではなく、記事の資料にも難があるといわれる。しかし、「虚実を超えた真ともいうべきものを、強く人に訴えてやまない書でり、当時の公卿から武士、庶民にいたるまで、広く読まれて、日本人の心の中に、深く影響を残してゆくのである」(吉原政巳『中野学校教育 一教官の回想』)。

約100年後の1467年には『太平記評判』が著され、楠木正成は兵法の神として国民の間に尊敬を高めていく。

当時、足利幕府としては、正成を朝敵として扱っていたが、正成の死後223年(1559年)にして、その後裔の楠木正虎が朝敵の赦免を嘆願し、朝廷がこれを認め、正虎を河内守に復し、正五位下に除した。

そして、江戸時代になり、楠木正成を敬仰(けいぎょう)する動きが全国的に起こり、楠木精神は「武士道」精神の中に浸透していった。

その後、幕末の吉田松陰を通じて、幕末志士へと受け継がれ、倒幕の精神的原動力になったのである。

そして、明治以降は「大楠公(だいなんこう)」と称され、1880年(明治13年)、の明治天皇御幸の際、正成は正一位を追贈されたのである。

わが国の情報史(2)

▼神話に登場する女性スパイ

わが国には神話の時代から、女性スパイにまつわる話がある。日本書紀などに登場する須佐之男命(スサノウ)の、娘である須世理姫(スセリビメ)は大国主命(オオクニヌシ)に出会って一目惚れした。スセリビメがオオクニヌシを父親のスサノウに紹介したところ、スサノウはヘビやハチ、ムカデのいる部屋にオオクニヌシを入れたりして嫌がらせや虐待を続けた。スセリビメは、それをオオクニヌシにいち早く知らせ、こっそりと救いの手を差し伸べた。スセリビメは惚れた男のために情報活動を行なったのである。スセリビヒメはさしずめ日本最古の女性スパイといったところである。

岩戸神話では、姉の天照大神(アマテラス)が、弟のスサノウの振る舞いに怒って天の岩戸に隠れて世界が暗闇になった。その時、岩戸の前でアメノウズメが胸乳や女陰を露わにして踊って八百萬(ヤオヨロズ)の神々を大笑いさせた。その大笑いの様子を不思議に思い、アマテラスは戸を少し開けた。そこをアメノウズメは見逃さず、アマテラスを首尾よく外に引っ張り出した。アメノウズメが仕掛けたハニートラップによる国家謀略である。

日本武尊(ヤマトタケル)が16歳で熊襲(九州の豪族)征伐に向かった際、ヤマトタケルは美少女に変装して熊襲の寝床に忍び込み、熊襲を斬り、使命を果たした。ヤマトタケルは女ではないから、女性スパイというわけではないが、女性を利用した意味では軌を一にする。(『東京=女性スパイ』など)

スパイは、娼婦につづく歴史上、二番目にふるい職業とされるが、人類の発祥と共に、男女の営みや、戦いの歴史が開始され、同時に秘密を守る重要性とそれを暴く情報活動や謀略工作が進展していったようである。

忍者と情報活動との関係

わが国の情報活動は忍者や忍術とも関係が深い。秘密戦を教育する陸軍中野学校で忍術を教えた(実際にはわずかばかりの講義であった模様)、甲賀流忍者第14世の藤田西湖は次のように、忍術とスパイとの関係を述べている。

「忍術は常に何時の時代においても行われており、忍術というものの行われない時は一日としてない、ことに現代のごとく生存競争の活舞台が層一層の激甚を加える時、人事百般、あらゆることに、あらゆる機会においてこの忍術は行われ、忍術の行われない社会はない。ただ忍術という名前において行われないだけである。忍術というものはかつての軍事偵察、今日でいう間諜の術=スパイ術である。このスパイ、間諜というものは、何時の時代においても盛んに活躍していたもので、今日支那事変や大東亜戦争が起こると、世界各国の種々なる間諜、スパイが一層活躍しているのである」(藤田西湖『忍術からスパイ戦争』、現代かな遣いに改め)

 藤田によれば、忍術が支那事変や大東亜戦争のスパイ活動に応用されたということであるが、ここで忍者の歴史などについてみてみよう。

忍者の歴史

わが国では飛鳥時代、源平時代から忍術・忍者が発祥したようである。『伊賀忍者博物館』及び『日本忍者協議会』の公式HPや、その他の文献から忍者について要点を整理しておこう。

◇忍術を使う人を忍者と呼ぶ。忍者(にんじゃ)という呼び名が定着したのは江戸時代からである(昭和30年代になってからのこととの説もある)。

◇忍術の起源には多くの説があり、始祖などもはっきりしていないが、一説には、聖徳太子に仕えた、甲賀馬杉に住む大伴細入(さいにゅう、または、さびと)という人物が最初の忍者であるともいわれている。その当時は、忍者は志能便(しのび)と呼ばれていた。

◇伊賀の忍者は、鎌倉時代に荘園の中で発生した「悪党」に起源があると考えられる。

◇戦国時代、「伊賀衆」と呼ばれる者たちが、「忍び」と呼ばれるようになった。「忍び」は、乱波(らっぱ)・透波(すっぱ)・草(くさ)・奪口(だっこう)・かまりなど、地方によりさまざまな名前で呼ばれていた。「忍び」は、各地の大名に召し抱えられて、敵国への侵入、放火、破壊、闇討ち、待ち伏せ、情報収集などを行ったが、最も重要なのは敵方の状況を主君に伝えることであった。

◇徳川家康は、伊賀者・甲賀者を取り立て、江戸城下に住まわせ、大奥や無人の大名屋敷などの警備、普請場の勤務状態の観察などを行うせたほか、寛永初年(1624)ころまでは隠密としても活動させた。

江戸時代の平和な時代が訪れると、「忍び」は情報を得たり警護をすることが主な任務となり、隣国の政治状況を知って自国の政治に活かすということもしていた。実際はその土地の人と仲良くなって情報を聞き出すことの方が多かったようである。

◇忍術おいて、女性に化けたり、女性を利用したりする方法を「くノ一」(三字を一字に合体すれば女)の術という。徳川家康は隠密網を全国に形成し、伊賀、甲賀などの忍者を活用したが、当時を語る時代劇では、「くノ一」が全身黒ずくめの装束を着て銀幕上を賑わしている。なお国民的人気を誇る『水戸黄門』では「陽炎(かげろう)のお銀」が悪者に接近し、悪事の証拠を収集するなどする場面が描かれているが、これはフィクションである。実際の「くノ一」は、対象とする屋敷の女中などとして送り込まれ、働きながら屋敷の実情を見聞きするスパイ活動を行なっていたという。

以上、忍者の歴史について述べたが、これらには諸説あって定かではないが、いずれにもしても、はるか昔から江戸時代の頃まで、戦時や平時において忍者集団が水面下での諜報活動や破壊工作などの任務に携わったようである。わが国の情報組織の一つの源流とみなすこともできよう。

忍者と山伏、悪党との関係

 忍術の基本理論は中国から伝来した『孫子』に基づき、その技術は平安時代における修験者(山伏)の活動によって発展したとみられている。

修験者とは、修験道(しゅげんどう)は実践する者のこという。修験道は中国大陸から伝来した仏教に、日本古来の山岳信仰が取り入れられた、日本独特の宗教である。その悟り得るためには、山中に籠もって厳しい修業を行うことから、修験道を行う修験者は山伏とも呼ばれた。

修験道は、奈良時代が起源とされるが、盛んに信仰されるようになったとの平安時代の頃である。さらに、鎌倉時代後期から南北朝時代には独自の立場を確立した。

13世紀末の二度の蒙古襲来(元寇)に対して、運よく“神風”が吹き、鎌倉幕府は奇跡的に蒙古軍に勝利した。しかし、御家人たちに多大な犠牲を払わせたばかりで、財政に窮乏し、御家人に対しろくに恩償を与えることもできなかった。

一方で幕府のトップ北条高時は、田楽や闘犬に興じ、政(まつりごと)を顧みようとせず、農民に重税をかすばかりであった。やがて鎌倉幕府が滅亡し、建武中興、南北朝と続く時代には、伊賀忍者の起源といわれる「悪党」が勢力を拡大した。「悪党」は現在の極悪非道な人物を総称するものではなく、鎌倉幕府の秩序体系に反抗した者を総称する。

そこに播磨の国をはじめ、畿内やその周辺では、荘園領主に対抗する地頭や非御家人の新興武士たちが、武力に訴えて年貢の納入を拒否し、荘園領主の年貢米、牛馬、銭などの財産を奪うようになった。

これらの武士は当時、悪党と呼ばれた。やがて悪党は大きな勢力となり、城を構えては石つぶてを打ち、山から材木を転がしては敵を倒し、さらに荘園へ討ち入り、ものを奪いとるようになった。

また商業や運送業も営み、全国的に農民や商人に対するネットワークを拡大し、地方から地方への移動経路を熟知していた山伏とも連携を深めるようになった。こうして、悪党から伊勢の忍者集団が形成され、忍者は悪党と融合し、それが山伏とも連携し、いわば秘密結社のような、反幕府の秘密組織団体を形成していったのである。

▼日本最古の謀略家、楠木正成の登場

こうした時代、幕府の長である北条高時を打倒し、積極的に天皇の権限を強化しようとする人物が現れた。その人物が後醍醐天皇である。

後醍醐天皇は討幕の計画を進めるが、しかし、幕府の強大な軍事力におそれ、志願兵は容易に集まらなかった。そこに馳せ参じたのが、悪党のリーダーであった、河内の土豪、楠木正成であった。

正成は、農業や商業に従事する500騎の地侍を率いて後醍醐天皇の下に馳せ参上し、討幕のために、わずかな兵を従えては圧倒的に優勢な幕府軍に立ち向かった。武器や兵力に優れた幕府軍に立ち向かうには智謀が必要であった。

正成の戦いは、悪党流のゲリラ戦法や『孫子』の兵法の応用であった。まさ智謀を駆使した謀略の戦いであった。

1332年7月の宇都宮公綱軍との天王寺の戦いでは、天王寺を占拠する宇都宮公綱軍500~700人に対し、正成軍は2000人であった。正成軍の幕僚は勢いに乗じて戦うことを進言するが、正成は「良将は戦わずして勝つ」と言い放ち、何故か全軍を天王寺から撤退させた。

しかし、夜になると天王寺一体を取り囲む生駒の山々に3万のかがり火が焚かれた。宇都宮軍はこのかがり火に恐怖し、極度の緊張感が三日三晩続き、ついに4日後には、宇都宮軍は天王寺からの撤退を余儀なくされた。

実はこのかがり火は正成が生み出した幻の大軍であった。正成は5000人の民衆を動員して天王寺を取り囲むように、松明に火を灯し、宇都宮軍に大軍に包囲されているという恐怖の幻影を見せつけたのである。つまり、正成は輸送業による民衆とのネットワークを駆使して、「孫子」の「戦わずして勝つ、を実践したのである。

正成の戦いの真骨頂ともいえるのが1333年の千早城の戦いである。正成軍は約1000人、対する幕府軍は10万人(太平記では100万人)であった。千早城をいち早く落そうと戦果を焦る幕府軍の軍勢は、兵力は逐次投入となり、これが正成のゲリラ戦法の餌食となり、幕府軍は多くの死傷者を出した。

そこで、幕府軍は水源を断つ持久戦に乗り換えた。しかし、正成軍は千早城に水源を確保し、食糧も十分に蓄えていたので、なかなか降伏しない。やがて包囲する幕府軍の緊張感が薄れてくるや、種々のゲリラ戦法を駆使して、幕府軍に抵抗するのであった。

逆に兵糧が尽きたのは幕府軍のほうであった。武装した民衆が幕府軍の兵糧を奪っていたのである。実は、正成が場外の民衆に兵糧を奪うように指示していたのである。

この籠城を可能にしたのは多くの民衆の力であった。正成は包囲されていても千早城の外との連絡を可能にする連絡経路をもっていた。それは山伏や忍者の存在であった。彼らは山道を通って、千早城の内外に行き来して、民衆に指示や情報を与えたり、食糧などを調達したりしていたのである。

この予想外の抵抗によって、正成は千早城を守り、幕府の権威は一挙に崩壊した。そして正成は、城外および全国の農民、商人などの民衆に一斉蜂起を呼びかけたのである。

各地の民衆が一斉に蜂起し、やがて幕府内部からの謀反勢力も出てきた。こうした謀反勢力である足利尊氏と新田義貞が鎌倉を攻め落し、ついに100年続いた鎌倉幕府は倒れた。壱岐に流されていた後醍醐天皇は京都に戻り、ここに建武中興の改革が始まったのである。

正成が鎌倉幕府を打倒したのは、まさに民衆の力であり、その民衆の力を結集できたのは情報である。情報力が幕府方の軍事力に勝利したのである。正成こそは情報活動に長じ、情報を力に変えた最初の武将であったといえよう。

わが国の情報史(1)

情報という言葉の定義

情報という言葉がわが国で初めて定義されたのは1876年(明治9年)に酒井忠恕陸軍少佐が翻訳した『佛國歩兵陣中要務實地演習軌典』(内外兵事新聞局)においてである。同書では情報は「情状の知らせ、ないしは様子」という意味で使用された。つまり、情報は敵の「情状の報知」を縮めたものであった。

 その後1882年に『野外演習軌典』(陸軍省)において「情報」が初めて陸軍の軍事用語(兵語)として採用された。1901年にはドイツから帰国した森鴎外が、ナポレオンの軍事将校として勤務したカール・フォン・クラウゼヴィッツの『戦争論』を翻訳(大戦学理)した際、情報とは「敵と敵国に関する我が知識の全体をいう」と訳した。

 このように、わが国における情報という言葉の登場は明治になってからであるが、情報活動というものは戦いの歴史とともに発足している。情報活動の歴史を説くものとして紀元前13世紀の『旧約聖書』がある。ここでは、古代イスラエルの民族指導者であったモーゼが、200万人のユダヤ人を引き連れてエジプトを出発し、目的地であるカナン(現シナイ半島)に入城するに際し、12人の斥候に、敵情と地形の偵察を命じた、との物語が語られている。かように、戦いと情報あるいは情報活動との関係は密接不離なのである。

わが国における情報活動の起源と八咫烏および金鵄

 わが国においても古事記や日本書紀の神話や伝説の中で情報活動の歴史が語られている。日本神話における神武天皇(じんむてんのう)の東征に際して、八咫烏(やたがらす)が、高皇産零尊(たかむすび)によって天皇のもとに遣わされ、熊野から大和の橿原まで天皇を案内したとされている。

ただし、『日本書紀』では、同じ神武東征の場面で、金鵄(金色のトビ)が長髄彦が(ナガスネヒコ)との戦いで神武天皇を助けたともされるため、八咫烏と金鵄がしばしば同一視ないし混同されている。八咫烏は三本脚の鳥である。戦前の1939年(昭和14年)には日中戦争の従軍徽章の意匠として採用された。なお、この時には八咫烏は三本足ではなく二本足であった。

今日では日本サッカー協会のシンボルマークとして採用されているほか、陸上自衛隊中央情報隊以下の情報部隊の部隊記章として採用されている。ゴールにボールをよく導く、戦いを情報によって勝利に導くとの願いがこめられているのであろう。

一方の金鵄は戦前には金鵄勲章などに用いられた。これは戦後に陸上自衛隊調査学校の学校徽章として採用された。この校章の意義として、「この鳥は大嘗祭において天皇を導く燭であり、また戦いの先導であって武勲の象徴である。これは情報の使命である先見洞察を意味し、特に情報の伝統的象徴と言うべきである」(ウィキペディア)と説明されている。この調査学校こそは、筆者が青年将校の時代、インテリジェンスの基礎を築いた学び舎である。すなわち、筆者自身も金鵄や八咫烏の神話には慣れ親しんできた。

このほか八咫烏、金鵄、さらには金烏(きんう)の存在などには諸説あって確かではないが、いずれにせよ、日本の神話や伝説が古代の歴史に溶け込み、それが途絶えることなく後世に語り継がれ、現在に至っているのである。このことは、戦いにおける情報活動の重要性が認識され、戦いの歴史とともに情報活動が発展してきたことを物語るものであるといえよう。

▼後世に影響を与えた『孫子』の兵法

長い世界の歴史の中で、情報活動の研究において嚆矢とされるのは『孫子』である。『孫子』は、今から2500年前、中国の激動の春秋戦国時代において、名将・孫武によって書かれたとされる。

孫武は斉(いまの山東省)の生まれで、呉(いまの江蘇省)の将軍であった。司馬遷の『史記』では「呉が楚を破り、斎や晋を脅かし、天下に名をとどろかせたのは、孫武の働きによるところが大きい」と記されている。

『孫子』は「最強の兵法書」と呼ばれるに相応しく、今日、洋の東西を問わず、時代を超えて世界中の軍事理論に影響を与えている。また、組織統率論や企業経営における参考書としても活用されている。

他方で『孫子』は至高のインテリジェンス教科書でもある。『孫子』の軍事情報理論は唐代の『通典』(つてん)のなかの「兵典・間諜」篇においても引用されている。同じく唐代の著名な兵法家である李靖(りじん)が記した『李衛公問対』は『孫子』が説く情報活動を体系化したものである。清代の朱逢甲による『間書』は中国初の情報専門の兵法書であるが、これも『孫子』の軍事情報理論を基に編纂されたものである。

米国CIAの元長官アレン・ダレスや西ドイツのインテリジェンス・マスターであったラインハルト・ゲーレンの回顧録においても『孫子』が引用されている。このように『孫子』は中国のみならず世界のインテリジェンスに大きな影響を及ぼしたのである。こうした背景から、わが国の情報史を見ていくうえで、『孫子』の日本への伝来などを研究することは、日本書紀や古事記に対する研究と同じように重要なことだと考える。

▼『孫子』の伝来

第二の説は「朝鮮伝来説」である。663年の白村江の戦い以降、百済から複数の兵法家が来日し(ただし、当時は倭の国と呼称され、日本になったのは白村江以降から8世紀までの間とされる)、兵法を教授したとされるが、それが『孫子』の兵法であったとみる説である。

白村江の戦いから、57年後の720年に編纂された『日本書紀』においては、『孫子』の「始計篇」や「虚実編」に出てくる「出其不意」や「赴其所不意」の引用とみられる箇所がある。

第三の説は、遣唐使の吉備真備(きびのまきび)が唐から持ち帰ったとする説である。吉備真備は、717年に遣唐使として唐に到着し、35年までの18年間にわたり唐に滞在し、ここで『孫子』や『呉子』などを学んだとされる。帰国後、これらの文献を朝廷に献上し、その後、『孫子』の兵法研究が開始されたとみられている。

さらに吉備真備は754年に、二度目の渡唐から帰朝した後で大宰府に派遣されるが、ここで760年、大宰府に派遣された6人の下級武士に諸葛孔明の「八陣の法」や『孫子』の「九地」を教えたとされる。吉備真備は764年、藤原仲麻呂(恵美押勝)の叛乱をわずか数日で鎮圧した。、ここには『孫子』の軍事情報理論が活用されたとみられる。

その後、『孫子』は長い間の秘蔵家伝の時代を迎えることになるが、この間には、日本独自の兵法書『闘戦経』の編纂や、陸軍中野学校の精神的支柱たる楠木正成の卓越した情報活動を見ることができる。さらには、わが国の情報活動の発達の歴史においては忍者や陰陽師の存在も無視できない。