わが国の情報史(47) 秘密戦と陸軍中野学校(その9)

-陸軍中野学校の曲解を排斥する-

▼中野学校の過大評価は禁物  

 ともすれば、戦後の中野学校に関する映画などの影響により、同校が「秘密戦士のスーパー養成機関」のようにもてはやされる。さらに中野学校を謀略機関のように扱い、中野学校が学生を教育して謀略に差し向けたかのような誤解さえ生じている。中野学校は教育機関であって、謀略機関ではないし、特務機関でもない。  

 また戦後になって「中野学校の設立が10年早ければ」とよく回顧されたようである。しかしながら、この評価についても、もうすこし冷静に判断しなければならない。  

 8丙の加藤正夫氏は自著『陸軍中野学校 秘密戦士の実態』の中で、「歴史に『もしも……』ということはありえないが、陸軍中野学校の設立が昭和13年ではなく、それより10年早い昭和3年であったら、大東亜戦争の日本のあのような敗北はなかったのではないかとの見方もできる」と述懐している。  

 加藤氏の見解を整理してみよう。

・中野学校出身者の主流は普通の大学、高等専門学校出身者であり、柔軟な思考法で戦争に対処し、武力戦で強引に勝つこととのみは考えず、秘密戦によって難局打開を目指していた。  

・しかしながら、1期生の陸軍での最高階級は少佐であり、軍部内での影響力はなかった。  

・仮に、昭和3年であれば、将官クラスをも輩出し、軍内での影響力を有したであろうし、世界情勢を正確につかみ、正確に判断することを常に心がけていた中野学校出身者であれば、秘密戦による早期和解も可能であったであろう。  

 筆者は、これも客観的根拠のない中野学校への過大評価である。

 当時の陸軍内においては陸軍大学校出の作戦将校が幅を利かせ、同じ陸大出でも情報将校は軽視された。さらには陸軍内では東條英機率いる「統制派」あるいは「親独派」が幅を利かせ、海軍内部においても陸軍を北進から南進へと転換させ、対英米決戦に持ち込もうとする派閥もあった。 松岡洋介外務大臣も親独派で、それに追随する外務省幹部も対英戦争を指向した。  

 このように1920年代から30年代にかけてのわが国は、国家全体として戦争遂行の道を歩んでいたのである。わが国の世論の全般も戦争を支持する趨勢にあった。  ようするに、軍内では官僚主義が蔓延(はびこ)り、国家全体が戦争賛美にかられていた。中野学校がもう10年早くできようが、そしてリベラルな一般大学での卒業生が将軍ポスト就任しようが、作戦重視、親独主義という牙城を崩すことは容易ではない。  

 中野学校は「替らざる武官」を養成するために設立された。当時、情報戦に後れをとっていたわが国であったが、起死回生とばかりに中野学校の期待する者は、陸軍参謀本部のロシア課などを中心とする一部であって、陸軍参謀本部の総意ではなかった。

 たしかに当時、秘密戦の重要性に対する認識は高まったが、それも、しょせんは「“縁の下の力持ち”的な、割に合わないことはやりたくない」とする陸大出の作戦将校あるいは情報将校などのエゴにすぎなかったのではなかったのか?  

 当時の諸外国では、情報将校としてずっと同じ場所で外国勤務を続けて昇進していたという。しかしわが国の官僚制度が同一の補職や同じ勤務地では昇任条件を満たさなかった。むしろ、「替らざる武官」を新たに養成するより、官僚制度の弊害を改める努力はしなかったのか?ここにも疑問が残る。  

 ひるがえって明治の時代においては、陸大を出ずにほぼ情報一筋で海外勤務を続けた柴五郎は大将まで昇任した。桂太郎も最初は情報将校であり、川上操六参謀総長は情報将校を優遇した。この点は教訓にならなかったのか?  

 日清・日露戦争における勝利は、縁の下の力持ちに徹した情報将校の活躍があったと思われる。しかし、情報活動というか、秘密戦というものは目に見えないから、評価が難しい。あの明石大佐でさえ、情報関係者からは絶大の評価が与えられたが、凱旋帰国はなし、その復命書はホコリ塗(まみ)れ、という状態で決して評価は高くなかった。  

 結局、日清・日露の勝利の手柄は、声の大きい作戦将校に持っていかれ、情報将校やその関係者は隅におかれ、やがて情報の軽視が始まったのではないか? 『孫子』がいうように情報を成果が見えにくいので、最も手厚く報いなければならなかったが、その原則がわが国には確立できなかったのではないか?  

 この点、織田信長が今川義元を桶狭間で破った時、信長は、功名第一は、「義元、ただいま、田楽狭間に輿(こし)をとどめ、昼食中」と義元の居場所を伝えた梁田政綱(やなだまさつな)、第二は義元に一番槍をつけた服部小平太、第三は義元の首をとった毛利新助(義勝)とした。奇襲のお膳立てをした梁田の諜報・謀略を最も重視したのである。 すなわち、我が国は日本史から学ぶ貴重な戦訓も忘れて、日清・日露の戦争にうかれた。  

 ソ連はKGB出身者が大統領になる国である。そこには、民族と地勢、そして宗教が複雑に交錯した国境線を持ち、内乱や革命を経験した情報重視の伝統が生き続けている。しかるに、わが国のような島国国家にはなかなか情報重視の気風は育たない。

 この弱点を真に認識し、国家上層部が真にインテリジェンスの重要性を理解し、情報重視の気風を育て、人材育成に予算を重点配分しなければない。でなければ、どのような時代に中野学校、いや第二の中野学校ができようとも、たいした影響はないのだと考える。  

 中野学校のスーパー性を風潮することで満足して、本質を忘れて、思考停止に陥ってはならないのである。

▼中野学校に関する曲解が横行  

 戦後になって中野卒業生がわが国において暗殺や毒殺、拉致などを働いたなどの記事が書籍や雑誌に掲載されることは多々ある。誤解ならぬ、意図的な曲解である。  

 たとえば、元公安調査庁第2部長の菅沼光弘氏の著書『ヤクザ説妓生(キーセン)が作った大韓民国-日韓国戦後裏面史』(2019年2月、ビジネス社)には、中野学校出身者が金大中拉致に関わった旨が書かれている。 しかし、これには根拠といえるようなことはなにもない。  

 また、2015年4月の雑誌『ムー』(学研パブリッシング)に「陸軍中野学校極秘ファイル:終戦直後、スパイが画策した恐るべき謀略 禁断のマッカーサー暗殺計画」と題する斉藤充功氏の記事が掲載されが、これも信憑性に欠ける。  

 さらに過去に遡れば、わが国の帝銀事件や下山事件などの歴史的事件にも、中野学校出身者の関与を匂わせるような文脈があるが、これも説得力はない。これらに対しては、すでに中野学校関係者などによる論駁がなされているので、ここでは詳細は避けたい。

▼曲解の第一は、中野学校に対する認識不足  

 こうした事件や謀略に対する中野学校の関与説を振り回す原因を考えてみれば、第一に中野学校に対する認識不足があげられる。 中野学校は秘匿された存在であったので、のちに中野学校の映画が制作された際、中野学校に隣接する憲兵学校出身者が自分たちのことを世間が中野学校出身者だと信じ込んで、撮影のアドバイザーになったとの、笑えない“笑い話”もある。  

 中野学校はまず謀略機関ではないし、たとえ中野学校出身者が特務機関に配備されたとしても、その行動の主体は特務機関であって中野学校ではない。これに関しては、当時の陸軍の軍事制度や教育制度に対する認識不足を改める必要があろう。  

 また、中野学校において“007的”な技術教育が行なわれたことも事実ではあるが、これまで述べたとおり中野学校で最も重視されたのは「誠の教育」であった。  

 筆者は、中野学校を研究して創設者の秋草氏などの思想の一端に触れ、国体学を教育した吉原教官の思想に思いを馳せるようになって、中野卒業生が、安易に謀略に手を染めたなどは信じられなくなったし、また信じたくもない。  ただし、「やっていない」ことを証明することは「悪魔の証明」といって不可能であるので、そこに勝手解釈なストーリーが蔓延ることになる。  

 そして、戦後の映画などに登場した盗聴器、マイクロカメラ、隠しインクなどの秘密戦器材や、時限式爆弾、毒ガス、開錠、暗号解読、変装などの秘密戦技術を使用した訓練状況などが、観客を引き付けるストーリー性を持った。 このことで中野学校=スパイ学校、さらには秘密戦実行機関、中野学校卒業生=スパイという認知が短絡思考によって行なわれた。  

 映画などでも「誠の教育」については強調しているが、視聴者はどうしても、わかりやすい、短絡的思考による認知へと向かわざるを得なかった。 ようするには、誠の精神教育の存在を無視して、上述のような点ばかりに注目して表層的かつ断定的な判断をしていては、なんらの教訓を得ることもできないのである。

▼中野学校を封印したことも原因  

 第二に、書籍など販売数を上げるための商売主義や、あるいは自分に注目させる売名行為から、意図的に中野学校を面白おかしく語る輩もいる。これについてあまり触れたくもない。  

 第三に、「中野学校関係者は黙して語らず」を信条として、さまざまな誤解や風説に異議を唱えてこなかった。  戦後は自虐史観が蔓延り、たとえば自衛官でも堂々と身分を名乗ることも躊躇される時代が続いた。ましてや秘密戦という、崇高であるものの、その一方で残虐性を帯びた任務に従事した秘密戦士について語ることが憚(はばか)れたのも致し方のないことである。 しかし、世の中が情報化社会になるにつれ、誤った情報は氾濫するし、容易に入手できる。他方、真実の情報は、結構、「なんだ、そんなことか!」というのが多いので、面白さに欠けてなかなか伝わらない。  

 情報化社会のなかでは、黙っていては負ける。たとえば、中国や韓国が声を大きくして嘘も喧伝したとする。それに反駁しなければ、嘘は真実になる。沈黙は金、ではないのである。

▼筆者の認識不足を大いに反省する  

 筆者は2016年に『戦略的インテリジェンス入門』を上梓した際、佐藤優氏と高永喆氏の共著『国家情報戦略』を引用して以下の記述を行なった。

「終戦後、北朝鮮は現地に残った中野学校出身者を利用してスパイ工作機関を設立していたという。これに関しては、元韓国軍の情報将校であった高永喆は佐藤優との対談において『国防省の情報本部にいた時、北朝鮮のスパイ工作機関が優れた工作活動をしているのは日本帝国時代の陸軍中野学校の教科書を使ってスパイ活動のノウハウを覚えたからだ、と教育されたことがある』との逸話を紹介している」  

 その後、中野学校出身者の親族から構成される「中野二誠会の代表者の方から、筆者は次のメールをいただいた。

「大戦後の中野学校出身者と北朝鮮との関係を結びつけるような事実はいっさい確認できていません。中野学校では教科書を使う授業の際には授業後すべて回収していたと聞いています。しかも敗戦前夜までにすべて焼却したようです。戦後、間違えて卒業生の実家宛のコオリに混入していて見つかった例や、陸軍省のある人物が隠し持っていた教本が出てきた例があるのみです。つまり『陸軍中野学校の教科書』なるものは存在しません」(増刷本では訂正した)  

 高氏がどのような根拠で上述の話をしたかは定かではないが、今日は、中野学校に対する誤った風説があまりにも多く流布している。 筆者も、そうした誤った風説を拡散してしまった。元陸上自衛官で情報に従事していた者として恥ずかしいし、中野学校関係者のみならず、さまざまな読者にご迷惑をおかけし申し訳ないと思っている。  

 「中野学校は黙して語らず」によって恣意的な中野文書が氾濫している。それに対する批判が対外的に行なわれなかったことが曲解を野放しにしていることの原因でもあろう。 慶応義塾大学の「慶応義塾大学メディア・コミュニケーション研究所」の都倉研究会の現役学生が、「陸軍中野学校の虚像と実像」という調査研究を行なっている。その論考集における学生の真摯な研究態度と客観性に配慮した分析は称賛に値する。こうしたテーマに関心を持つ学生諸氏と指導教官に深甚なる謝意を送りたい。  

 最後に申し述べたい。 「わが国の情報史」の連載は、これをもって終了するが、筆者が最も伝えたかったことは、由緒正しき日本の文化、伝統、誠を愛する日本人としての良質なDNAが、明治、大正、昭和、平成、令和へ、戦争のあるなしにかかわらず連綿として伝えられているということである。  

 日本を愛する、愛国心をすててしまったら、真実は見えなくなる。  そして情報、すなわちインテリジェンスを軽視する国は亡ぶ。だから、国家、国民のインテリジェンス・リテラシーを高めることが必要である、ということだ。  そのためには歴史勉強が必要である。その際には、さまざまな説を受け入れる柔軟な思考力と、それを批判的に論駁する二律背反的な思考力を常に持たなければならない、ということである。(おわり)

わが国の情報史(46)  秘密戦と陸軍中野学校(その8)    

-陸軍中野学校の精神養育、国体学-

はじめに

前回は中野学校卒業生に求められる精神要素について解説したが、今回はそのための精神機育、すなわち国体学について解説する。

▼吉原政巳教官による国体学とは

 第1期生から国体学の授業は行われたが、第2期生の途中からは吉原政巳教官が中野学校に赴任し、1945年8月に富岡で閉校になるまで吉原が本校での国体学の教育に携わった。  

 吉原は中野学校に来てくれないかとして勧誘された時、若干30歳(満で29歳)であった。そこで、彼は己れの未熟さを自覚したうえで全軍から選り抜きの中野学校の秀英を国士として養成する任務の重さを認識し、教育を引き受ける上で、以下の3つの提案を行った。

 1)楠公社(なんこうしゃ)を建て、朝夕ここに詣(もう)で、楠公の忠誠を偲(しのぶ)と共に、自分の魂を省察点検できるようにする。

 2)記念館(室)を設け、明治以来の先輩、秘密戦士の遺品・遺影、その他の関係資料を掲げて、ここに講堂をあてる。  

 3)単に講堂の授業で終わらず、国事に殪(たお)れた先烈の士の遺跡を訪ね、現地で精神的結晶の総仕上げを試みる。        (吉原『中野学校教育-教官の回想』)   

 以上の3つは、学校当局の賛同を得て関係者の並々ならぬ実現に向けた努力が払われた結果、予算化がなされ、めだてたく完全実施に至った。

▼楠木正成、大江氏から「孫子」を学ぶ

 楠公(なんこう)とは鎌倉時代の武将・楠木正成のことである。彼は1334年の「建武の中興」の立役者である。 当時、鎌倉幕府の長である北条高時を打倒し、天皇の権限を強化しようと後醍醐天皇が立ち上がった。そこに馳せ参じたのが、忍者の系統を持つ「悪党」のリーダー、河内の土豪であった正成であった。

 正成は、農業や商業に従事する500騎の地侍を率い、智謀を駆使して圧倒的に優勢な幕府軍に立ち向かった。そこには「孫子」の兵法を応用した悪党流のゲリラ戦法が発揮された。 正成に「孫子」は伝授したのは大江時親(ときちか、毛利時親ともいう)であるとされる。

 大江家は世々代々、兵法書を管理する家柄であった。中国からわが国に伝来した「孫子」などは、「人の耳目を惑わすもの」として大江家が厳重に管理していたのである。 大江家の初期の祖である大江維時(おおえのこれとき、888年~963年)は930年頃に唐から兵書『六韜(りくとう)』『三略』『軍勝図(諸葛孔明の八陣図)』を持ち帰った。

 大江家はこれらのほかに『孫子』『呉子』『尉繚子(うつりょうし)』などを門外不出の兵法書として管理した。 大江家第35代の大江匡房(まさふさ 1041~1111年)は、河内源氏の源義家(八幡太郎)に請われて兵法を教えた。兵法を伝授された義家は「前9年の役」(1056~1064年)、「後3年の役」(1083~1086)で奥羽の安倍氏を討伐した。 その後も「孫子」は大江家によって厳重に管理され、第42代の時親が、河内の観心寺で楠木正成に「孫子」の兵法を伝授したとされる。

▼正成に伝えられたもう一つの兵法

 正成が後世において敬仰されるようになるのは、「孫子」に裏打ちされた智謀だけではない。 後醍醐天皇のために殉死した湊川(兵庫県神戸市)における正々堂々の戦いや、「七生報告」(何度生まれ変わっても国のために尽力する」という意味)にみられる主君に対する忠誠心が人の心をとらえて離さなかったのである。

 正成は足利尊氏の軍に敗れて、「七生報告」を誓って、弟の正季(まさすえ)と刺し違えて自刃した。 こうした正成の忠誠心滅は「兵は軌道である」と説く「孫子」の解釈では説明できない。 実は、そこには匡房が確立した、わが国古来の兵法書「闘戦経」の教えがあった。匡房は「孫子」は優れた書物ではあるが、必ずしも日本の文化や伝統に合致せず、正直、誠実、協調と和、自己犠牲などの日本古来の精神文化を損なう危険性があると認識した。

 そこで自ら「闘戦経」を著し、「孫子」を学ぶ者は、同時に『闘戦経』を学ばなければならないと説いたとされる。 大江時親が楠木正成に観心寺で兵法を伝授した時、同時に「闘戦経」も伝授したと伝えられている。つまり「孫子」のわが国風土における欠落を「闘戦経」で補完したわけである。それが楠木流兵法であった。

  「闘戦経」の特徴のひとつが、戦いに勝つために、戦場における「兵は軌道なり」はあってもよいが、戦略上はすべて謀略に頼るのではなく、時には正々堂々とよく戦うことも重要である、という点である。 こうした教えの下で「湊川に戦い」において〝負け戦〟と分かっていながら、尊氏軍に対する16度の突撃が繰り返されたのである。

▼楠木正成への敬仰

 正成の忠戦は、その死後からわずか35年後に著された『太平記』によって描かれている。 吉原は、「『太平記』は正史ではなく、記事の資料にも難があるといわれる。しかし、虚実を超えた真ともいうべきものを、強く人に訴えてやまない書であり、当時の公卿から武士、庶民にいたるまで、広く読まれて、日本人の心の中に、深く影響を残してゆくのである」(吉原『中野学校教育―教官の回想』)、と述べている。

 ようするに、史実であるかどうかということよりも、いかにのちの日本人の精神や生き方に影響力を与えたかがより重要なのである。むしろ、それを知ることが歴史の本質だと筆者は考える。 約100年後の1467年には『太平記評判』が著され、正成は兵法の神様として国民の間に尊敬を高めていく。当時、足利幕府は正成を朝敵として扱っていたが、正成の死後223年(1559年)にして、その後裔の楠木正虎が朝敵の赦免を嘆願した。

 朝廷がこれを認め、正虎を河内守に復し、正五位下に除した。 江戸時代になり、水戸光圀などにより正成を敬仰(けいぎょう)する動きが全国的に起こり、楠木精神は「武士道」精神のなかに浸透していった。そして、幕末の吉田松陰を通じて志士へと受け継がれ、倒幕の精神的原動力になった。 明治以降は「大楠公(だいなんこう)」と称され、1880年(明治13年)、の明治天皇御幸の際、正成は正一位を追贈された。

▼楠公社建立の願意  

 吉原は正成を秘密戦士の理想像とした。吉原の要請を受けて、学校当局者が楠公社の設立許可を陸軍省から得て、学校から派遣した使者によって湊川神社から分霊(わけみたま)が運ばれ、学内に公社が建立された。 楠公社建立の願意は、次のとおりであった。

1)醇乎(じゅんこ、混じりけのない)たる日本人の代表としての楠公を祀り、日夜その遺烈を慕い学ぶ。

2)うぶすなの神(筆者注:生まれた土地を守護する神)とし、われ等が魂の誕生を告げ、且つ生涯に亙(わた)って、ここに魂のふるさとを持つ。

3)中野学校卒業戦没殉職者を配祀し、永くこれら英霊との語らいを続け、遺烈を継承する。

4)奇策縦横の智謀を学ぶべし、大敵・大軍にたじろかぬ不適の大勇学ぶべし、そしてそれらが由って発する所の、至忠至純の精神に、最も学ぶべし。

▼記念室での正座と座禅  

 記念室には身近い先覚の遺影をかかげ、先覚の遺品が展示された。また図書室には、できるだけ多くの関係図書が揃えられた。日清戦争前における民間有志の奮起や東亜同文会などの活躍を描いた『東亜先覚志士記伝』、日露戦争時の『明石元二郎伝』、菅沼貞風の『新日本の図南の夢』などがよく閲覧された。  

 先覚の遺影には、日清・日露戦争時に大陸で情報活動に従事した、荒尾静、根津一、岸田吟香、浦敬一、菅沼貞風、沖禎介、横川省三らのほか、中野学校における秘密戦士の理想とされた明石元二郎の遺影がかかげられた。  

 記念室は畳敷きであり、ここを講堂として学生は各人が小さな机に向かって、座布団なしで正座し、国体学の教育を受講した。すなわち、吉田松陰が塾生に講義するスタイルが取られたのである。  

 吉原は、「自分は和服だし正座は慣れていたが、学生諸氏は窮屈な背広を着用し、若くて張り切った大腿であったから、不慣れな正座は苦痛そのものであったとろう」との感想を述べている。  

 その上で、吉原は「しかし私は、何の躊躇もなく正座を要求した。正座の苦痛のために、私の講義が耳に入らないこともあるのは、十分考えられることであったが、それでもあえて正座講義を行った。人間の意志伝達は、耳や眼など以上に、体全体で受け入れる方が大事と疑わなかったからである。」と述べている。 実際に卒業生からはこの正座の厳しさが、戦後になっても懐かしい思い出ともなり、昔話しに花を咲かせたようだ。

 他方、2期生は夏休みを利用して、自主的に三浦半島の禅寺で1週間の座禅を研修し、精神修養におおきな成果があったとされている。自ら苦行を実践して、精神修練につとめたというわけだ。

 今日、暴力や強要がタブー視される傾向がより顕著となっている。よって正座の強要などは精神修養の手段とはなりえまい。しかし、人間は安きに流れるものである。精神面の鍛錬に肉体的な苦痛を伴うことは、時と場合によっては必要なのかもしれない、このようにふっと考えることもある。

▼国体学の柱が楠木精神を学ぶこと

 国体学とは、わが国の由緒正しい国家の体制を歴史的に学ぶ学問である。  

 吉原が活用した教材には、南北朝時代において北畠親房が記した『神皇正統記』、江戸時代において日本固有の儒学を確立した山崎闇斎の『崎門学』(きもんがく)、水戸藩の藤田東湖の『弘道館記述義』、そして吉田松陰の『講孟箚記』(こうもうさつき)などがある。

 また、学生の卒業に際しては、先烈の遺跡を訪れる「国体学現地演習」が行われた。この研修では、吉野、笠置、赤坂、千早、湊川、鎌倉等の楠木正成のゆかりの地、幕末の水戸藩の史跡、吉田松陰が獄中生活を送った伝馬町獄跡や松陰の墓がある小塚原回向院(えこういん)など、幕末志士たちのゆかりの跡を訪ねて国事に殉ずる精神の陶冶がはかられた。 これら教材や研修先から、時代を超えた楠木精神の伝承を学ぶことが国体学のひとつの柱であったようにみられる。 正成の後醍醐天皇に対する忠義と永遠に変わらぬ誠の心、そして彼の生きざまは、江戸時代の「水戸のご老公」こと水戸光圀の研究対象とされて、武士の鑑としてもてはやされた。  

 光圀は、歴代天皇を扱った歴史書『大日本史』を編纂(へんさん)するなかで、南朝と北朝に天皇がそれぞれ並び立つ14世紀の南北朝時代において、南朝の後醍醐天皇を正統とする立場をとった。すなわち、北畠親房の『神皇正統記』の正統性を認めた。

 光圀は1692(元禄5)年12月、正成の墓があった湊川に墓碑(楠公碑)を建立した。碑面に自筆揮毫で「嗚呼(ああ)忠臣楠子(なんし)之墓」と刻んだ。 以後、水戸藩の学問「水戸学」を通して藩内には正成の精神がいきわたる。その中心人物が会沢正志斎(1782~1863)と藤田東湖(1806~1855)である。そのうち東湖が書いたものが、教材となった『弘道館記述義』である。 水戸藩士は尊王攘夷を掲げ、幕府の大老、井伊直弼(なおすけ)を襲撃した桜田門外の変を起こした。この際の精神的支柱になったのも正成であった。

 楠木精神の継承者として忘れてはならないのが士道を確立した山賀素行である。素行は『楠正成一巻書』(1654年)の序文を執筆し、「忠孝は武士の励む最もたる徳で、非常に難しいが、歴史上もっとも忠孝を尽したのは楠木正成・正行しかいない」 と述べた。

 素行は士道において「誠」を強調した。その思想が吉田松陰や乃木希助へと継承された。なお、松陰は著書『武教講録』のなかで素行を「先師」と尊敬しているが、松陰と素行とは時代が200年ほどことなるので直接な交流はない。 松陰もまた、湊川神社の正成の墓所を訪問(1851年)するなど、正成を敬仰した。そして松陰は水戸の会沢正志斎と藤田東湖と交流し、尊王思想に感化を受けた。 このようにして、楠木精神が山鹿素行や水戸藩によって継承され、松陰によってその精神がなお高められ、高杉晋作、桂小五郎などを動かして明治維新を成し遂げたのであった。

 こうした正成の思想が伝授されるなかで、「謀略は誠なり」の言葉の発祥とともに、正成が太平洋戦争期における秘密戦士の精神的支柱になっていったと考えられる。 かくして中野学校において楠公社が建立され、そこで学生は座禅を組み、精神修養に日夜は励んだ。こうして中野学校に教えに日本の伝統的な「誠」の精神が注入されたのである。

 米軍は太平洋戦争時、わが国に対して無差別爆撃を実施した。これは「孫子」の第12編「火攻」である。 しかし、中野学校卒業生は、アジア解放の戦士となることを目指した。彼らは、「孫子」の知恵の戦いは踏襲したが、『孫子』とは一線を画する「闘戦教」の教えに根差した「誠」の心を持ってアジアの人々と接した。 それゆえに、彼らの行動はアジアの人々の琴線に触れたのである。

わが国の情報史(45)  秘密戦と陸軍中野学校(その7)    -秘密戦士に求められる精神要素とは-

▼秘密戦士として要請される精神要素

陸軍中野学校が参謀本部直轄学校となり、教育、研究体制が整備された時点で秘密戦士の精神綱領が次のごとく示された。  

「秘密戦士の精神とは、尽忠報国の至誠に発する軍人精神にして、居常(きょじょう)積極敢闘、細心剛胆、克(よ)く責任を重んじ、苦難に堪え、環境に眤(なず)まず、名利を忘れ、只管(ひたすら)天業恢弘(かいこう)の礎石たるに安んじ、以て悠久の大義に生くるに在り」。(校史『陸軍中野学校』)  

伊藤貞利氏の『中野学校の秘密戦』によれば、この精神綱領を次のようにかみ砕いている。  

「精神綱領による秘密戦士の精神とは君国に恩返しをするために私心をなくして命を捧げるという「まこごろ」から出る軍人精神である。常日頃(つねひご)、ことを行うにあたっては積極的に勇敢に、こまかく心をくばると同時に大胆に、責任をや重んじ、苦難にたえ、自主性を堅持し、物心の欲望を捨て去り、ひたすら世界人類がそれぞれ自由に幸せに生きることができる世界をつくるという天業を押し広める土台石にとなることに満足し、たとえ自分の肉体は滅びても、精神は普遍的な大きな道義の実現を通して悠久に生きるということである。」

▼至誠に発する軍人精神とは 至誠の誠とは何か?

軍人精神とは何か?について、もう少し考えてみよう。 まず軍人精神であるが、その本質は命を賭して使命に生きることにある。 「文民銭を愛し、武臣命を惜しめば国亡ぶ」という諺があるように、軍人には時として命を犠牲にすることが求められる。 これは現在でも同様であり、自衛官の服務の宣誓にも、「・・・・・・事に臨んでは危険を顧みず、身をもって責務の完遂に務め、もって国民の負託にこたえることを誓います。」の一文がある。  

中野学校では私服で教育を受け、軍人とは思われない風姿や動作が要求された。だから、「天皇陛下」と聞いても直立不動の姿勢を取ってはならなかった。 しかし、軍人であることが否定されたわけでは決してない。むしろ軍人精神の本質はしっかりと教育されたのである。

中野学校の国体学の教官であった吉原政巳氏(1940年4月から中野学校に赴任、2期生以降を教育)は、自著『中野学校教育-教官の回想』のなかで、で次のように述べる。

「軍隊教育と中野教育とは、自(おの)ずから違う。卒業生の中には、中野の精神は、全く軍人のそれと違うのだ、といい切る人もある。事実、はじめに触れたように、両者その任務を異にしているのを、疑うことはできない。しかし深く根源を思えば、両者その核心は同じなのである。」

そして、吉原がその核心としているものが軍事勅諭における誠の精神である。 では誠とはいったい何であろうか? 1882年に明治天皇から下賜された軍人勅諭では、忠節、礼儀、武勇、信義、質素の5か条の徳目が述べられている。 そして、その後で「右の五ヶ條は、軍人たらんもの暫(しばらく)も忽(ゆるがさ)にすべからず。さて之を行わんには一の誠心(まごころ)こそ大切なれ。抑此(そもそも)五ヶ條は我軍人の精神にして、一の誠心はまた五ヶ條の精神なり。・・・・・・(振り仮名、句濁点、現代読みに筆者改め)」とある。

ここには五箇条の徳目の最後の締めくくりのとして「一つの誠心」が提示されている。つまり、誠は「精神のなかの精神、徳目ではなく徳目を徳目たらしめるもの」、すなわち誠は一段上位の徳目であると解釈できる。 ようするに。明治の軍人の人格完成の目標は、明き・清き・直(なお)き・誠の心であり、明治天皇は軍人に勅諭を下し給い、忠節・礼儀・武勇・信義・質素の五徳を示し、この五徳は一誠に帰する、とのたまわれたのである。

吉原は以下のように述べる。

「誠は、軍人勅諭をしめくくられた言葉であり、軍籍に身をおいた者には、忘れぬ言葉であった。それは日本人伝統の、基本的心情が尊ぶものであり、真の日本人が目指すとき、手ごたえが確かに体認せられるべきものであった。」(前掲『中野学校教育-教官の回想』)  ようするに、真の軍人、そして真の日本人たるための修養を行うことが、真の秘密戦士になりえるのだ、ということを吉原は強調したのである。

▼中野学校教育における誠の重要性

中野学校では、軍事精神の養成に立脚しつつも、秘密戦士としてのなおいっそうの誠が要請された。 吉原は以下のように述べる。 「防諜・諜報・宣伝・謀略などという、尋常でない工作だけに、これにたずさわる精神の純度が、問われるのである。不純な動機による権謀ほど、憎くして憎むべきものは無い。中野学校において、「秘密戦士は誠なり」と強調されたのは、まことに当然のことであった。」(引用終わり)

誠の語は「マ(真)」と「コト(事・言)」からなっている。すなわち、「虚偽や偽りのないこと」である。 元来、中国の儒教という考え方のなかで「誠」は用いられるようになった。儒教では、「仁、義、礼、智、信」の5つの徳目が強調され、これらの教えを行動として表したものが「誠」である。 この考え方を日本で取り入れたのが「武士道」である。

「武士に二言はない」 という言葉が象徴されるように、正直であって主君に忠誠を誓うことが美徳と して強調された。 このような武士道は徳川幕府が封建体制を維持するためにおおいに利用された。武士道に憧れた幕末の新撰組が「誠」の字を紋章として背負って反幕府勢力の取り締まりを行ったのである。

▼武士道は秘密戦にとって都合が悪かったのか?

畠山清行著・保坂正康編『秘録 陸軍中野学校』 には次の件がある。

「・・・・・・忍者だが、これを諸大名がかかえて諜報を集めるということになれば、幕府の弱点や痛いところさぐられる心配がある。 そこで、伊賀者・甲賀者の忍者をすべて幕府の直属として『お庭番』という組織をつくりあげる一方、御用学者に命じて『武士道』なるものを盛んにとなえさせた。つまり、『内緒で人の欠点や弱点を探ることは、武士にあるまじき卑怯な行為である』とうたいあげたのである。 太平洋戦争の敗因をさぐる場合、日本の歴史家は、明治以前にさかのぼることを忘れているが、遠因はじつにこの徳川幕府の政策にあるのだ。 幕府時代の武士道精神をそのままうけついだから日本の軍隊は、諜報機関を卑怯なものとして、もっともそれが必要な陸軍大学にさえ、太平洋戦争がはじまるまで、諜報を教える課目はなかったのである。……」(畠山清行著・保坂正康編『秘録 陸軍中野学校』 )

つまり、武士道によれば諜報、謀略はまことに都合が悪いということになり、秘密戦を遂行し、秘密戦士を養成する上で、納得できる論理が必要であった。

▼武士道の真髄は秘密戦を否定せず

しかし、実は武士道とはそのような表層的な正直さのみを言うのではない。 江戸時代、儒学者、兵法家、道徳家の三つの顔を持つ山鹿素行(1622~1685年)は「士道」を表した。 士道は、太平天国の徳川時代において武士がいかに生きるべきかを、すなわち武士の道徳的な在り様を説いたものである。 のちの軍人勅諭の5箇条の徳目(忠節、礼儀、武勇、信義、質素)や、誠はいずれも素行(1622~1685)が提唱した士道が掲げる武士の規範 に基づいているとされる。

では、その素行が説く誠とは何か? 素行は「已むことを得ざる、これを誠と謂う」と言っている(『聖教要録』)。つまり、素行によれば誠は抑えようにも抑えられない自然の情である。 さらに素行は次のようにいう。 「一般に世間では、律儀に信をたてることを「誠」だとばかり心得ているらしい。もちろん、うそをついて相手をだましたり、計略を用いたりするのは君子たる者の大いに嫌うところであり、それは勢いものごとを力づくでやろうとする傾向につながるのだから、王者の道とはいえない。 だが、誠が深い場合には、偽ったとしても誠になることがあるのである。」(田原嗣郎『山鹿素行』)

素行が意味するところは実に深い。つまり目的が正しければ、その手段がたとえ卑劣にみえようとも誠を逸脱しない。すなわち誠は目的絶対性のなかにあるのである。 吉原は山鹿素行の『中朝事実』などの書き物を精神教育の教材として用いた。 日本の武士道の表層的な解釈では、諜報、謀略などの秘密戦に対する正統性はなかなか得られない。 そこで、素行の士道による真実の武士道を教示し、素行が主張する「誠」を強調することで秘密戦に対する正統性を付与したのである。

▼中野学校の目指した誠の意味

終戦時に中野学校の解散直前に富岡(本校)において卒業した8丙によれば、吉原が教えた中野学校における誠は、一般軍隊教育における誠とは、次の点が異なった。 「(軍人教育で行われた)「誠」の発露は天皇陛下に対してであり、拡大した場合でも日本国民が最大範囲であったと思われるのに対して、8丙が教えられた「誠」はその範囲が異民族まで拡大しており、一見「誠」とは正反対に考えられる謀略でも「誠」から発足したものでない限り真の成功はないと教えられた」。(校史『陸軍中野学校』) 中野教育では秘密戦士になるとともに民族解放の戦士となれ、と教えられた。 被圧迫民族であるアジア民族を植民地より解放し、その独立と繁栄を与えることが任務として求められたのである。 このため、誠の範囲は異民族まで拡大する必要があった。   

前出の精神綱領の「只管天業恢弘の礎石たるに安んじ、以て悠久の大義に生くるに在り」とある。 戦陣訓にも「死生を貫くものは崇高なる献身奉公の精神なり。生死を超越し一意任務の完遂に邁進すべし。身心一切の力を尽くし、従容として悠久の大義に生くることを悦びとすべし。」とある。

ただし、戦陣訓における悠久の大義とは、その対象を天皇に限定している。しかし、中野学校における悠久の大義とは数百年に及ぶ白人侵略から全アジアを解放して、アジア民族との共存共栄の道を模索することも包含している。  

アジア民族の解放を目的とする秘密戦は敵地、中立地帯の異民族の中に深く入って行わなければならない。当然、かかる秘密戦を行う者には高度かつ広範な知識技能が必要とされるが、それにまして、「真の日本人」にあらねばならない、というわけだ。

吉原は次のように述べる。 「……たとえば自分の人格が確立していないと、他の人格との真の交わりが不可能であるように、まず真の日本人になることが、風俗も信仰も異なる他民族と交わり、広く世界の人々に接するに、不可欠な要素だからである。」(『中野学校教育-教官の回想』)

ここに吉原の教える国体学の真の意味があり、歴史を通して真の日本人になることを要請したのである。 校史『陸軍中野学校』には、戦中及び戦後の状況を鑑みて、以下の件がある。 「実際に、中野学校卒業生は現地人に対する愛情と責任から、みずからの現地軍に身を投じる者すらあった。 中野学校出身者がインド、ビルマ、タイ、アンナン、マレー、インドネシア等の住民と戦後も交流が続いているのも、戦時中に異民族に示した行為や愛情が心の底から「誠」から出たもので、決して一片の謀略や、一時的な工作手段から出たものでなかったことを実証して余りがあるのではないだろうか」(引用終わり)

しょせんは侵略戦争を正当化するための屁理屈だ!といえばそれまでではある。ただし、国家であれ、個人であれ、相手と共存できないとなれば、戦いは回避できないのある。                           

結局のところ熾烈な国益や利益をめぐる死闘が繰り広げられることになる。 米国は英国と独立戦争を戦い、インデアンを駆逐し、ハワイを併合した。そして、太平洋戦争ではわが国の一般市民に対して無差別な絨毯爆撃を行った。  

そこには戦いゆえの残虐な殺生があった。 他方、中野学校においては「誠」の精神が教育され、アジア民族に対する愛情が厳然の事実として溢れていた。筆者はわが国の先の戦争行為を正当化するつもりは毛頭ないが、このことを日本人として誇りに思わざるを得ない。 「満蒙のローレンス」「希代の謀略家」と呼ばれ、A級戦犯として処刑された土肥原賢二将軍(1884~1948)は「謀略は誠なり」が信条であった。 

彼は実に温厚で、中国人に寄り添うやさしい人柄であったという。 軍人のなかには、現地の中国人を虐待する、あるいは婦女子に狼藉を働く輩が世の常としていた。土肥原はそのような輩を厳罰に処した。彼は謀略が誠から生み出されるものを知っていた。 土肥原を始め、当時の日本人には伝統的な誠の心が流れていた。そして謀略などの秘密戦を教育する陸軍中野学校にも、そのような日本人の伝統的な思想が受け継がれていたのである。

▼秘密戦士として名利を求めない精神

中野教育の原点は交替しない海外の駐在武官を育成することであった。後方勤務要員養成所の秋草所長の第1期生に対する訓示は、「本初は替らざる駐在武官を養成する場であり、諸子はその替らざる武官として外地に土着し、骨を埋めることだ」というものである。  

時代の奔流に流されて、太平洋戦争末期になると中野学校は秘密戦士から遊撃戦士の育成へと大きく舵を切ることになるが、この1期生の精神は先輩から後輩へと受け継がれて中野教育の伝統になった。 軍人は命を賭して国家・民族の自主・自立を守るという崇高な使命があるゆえに、軍人にふさわしい名誉が与えられることになる。正規の武官であれば、名誉の戦士として丁重に葬られる。 しかし、替らざる武官である秘密戦士はそうはいかない。任務の特性上、その功績を表沙汰にできないし、時として犯罪者の汚名を着せられ、ひそかに抹殺される可能性もある。 さらに「外地に土着し、骨を埋める」ことが求められた。つまり、残置諜者として黙々と水面下で生き続け、親の死に目にも会えず、やがて自身も誰にも知れずひっそりと死んでいく運命にあった。 そこには、精神綱領の「環境に眤(なず)まず、名利を忘れ」の精神が必要となるのである。 前出の8丙が受けた精神教育の大綱は、「謀略は誠なり」「諜者は死なず」「石炭殻の如くに」の三つの短句で表徴できるとある。(校史『陸軍中野学校』)

まさに「石炭殻の如く」人知られずに「悠久の大義」に生きることが求められたのである。

▼戦陣訓よりも厳しい精神要素が要求

秘密戦士には、一般軍人よりも生に対する執着が求められた。それは死生観から来るものではなく、使命感から生じる現実の要請であった。 江戸時代において、山鹿素行の士道を「上方風のつけあがりたる武士道」と批判する、「武士道と云(いう)は死ぬ事と見つけたり」という「葉隠れ武士道」が生まれた。 これは、1716年頃、佐賀鍋島藩士の山本常長が口頭で言い伝えたものを、同藩士の田代陣基が書き残したものとされる。 「葉隠れ武士道」は、陸軍省の東条英機によって1941年に制定された『戦陣訓』の「生きて虜囚の辱めを受けず。死して罪過の汚名を残すこと勿(なか)れ」へと受け継がれることになる。

しかし、中野学校では任務を完了するまで死んではならないと教えられた。1期生に忍術教育を教えた藤田西湖は中野学校生に以下のように語ったようである。

「武士道では、死ということを、はなはだりっぱなものにうたいあげている。しかし、忍者の道では、死は卑劣な行為とされる。死んでしまえば、苦しみも悩みもいっさいなくなって、これほど安楽なことはないが、忍者はどんな苦しみも乗り越えて生き抜く。足を切られ、手を切られ、舌を抜かれ、目をえぐり取られても、まだ心臓が動いているうちは、ころげても戦陣から逃げ帰って、味方に情報を報告する。生きて生き抜いて任務を果たす。それが忍者の道だ」 つまり、秘密戦士には「戦陣訓」では片づけられない、一般軍人よりもさらに厳しい精神要素が要求されたのである。

わが国の情報史(44)  秘密戦と陸軍中野学校(その6)   陸軍中野学校における教育の温度差     

▼講義内容がテンデバラバラ?  

 中野学校での教育について、乙Ⅰ長期(2期生)原田統吉氏は、 『風と雲 最後の諜報将校』において、「最初に奇妙に感じた ことは、それそれぞれの講義の内容がテンデバラバラであること だ」と述べ、次のような事例を挙げている。  

 少し、長文になるが引用したい。

  「当時参謀本部の英米課の課長の杉田参謀が(筆者注:杉田一次、  すぎたいちじ、陸士37期・陸大44期。最終階級は帝国陸軍では陸軍大佐、陸自では陸上幕僚長を歴任。当時杉田氏は少佐 に昇任したばかりであるので単なる部員)、その『英米事情』 の最初の講義の時間に、英米に対する意見をワラ半紙に書かせて、生徒全員から徴収したことがあった。 これは試験などというものではなく、教官が生徒の理解や知識 の程度を掴むための参考にするデータであって、これによって 教官は講話の内容を決めたものらしい。 甲谷さん(筆者注:甲谷悦男、こうたにえつお、陸軍大佐、陸 士35期、参謀本部ソ連課参謀、ソ連大使館付武官輔、大本営戦争指導課長、ドイツ大使館付武官輔佐官、戦後は公安調査庁参事官やKDK研究所長)などは、『ソ連要人の名前を知っているだけ書け』というような問題を出し、その場でめくって見て『うん、去年の連中よりはよく知っているな……』と軽く言  い放って、講義をはじめたものである。 しかし杉田さんの場合は違っていた。見終ると、T学生を指名して、『君の英米に対する認識および判断の理由は?』と聞く。  Tがその前日、支那事情の教官から受けた講義の線に沿って説明すると、非常に不機嫌になり、他の二、三の学生にもそれと同様の質問をし、同じような答えが返って来ると益々不機嫌になり、多少の論争の後、『本日はこれで終わる』と帰ってしま った。 まだ稚(おさな)かったわれわれは軍の画一主義から抜け出しておらず、しかも参謀本部ともあろうものは、一つの認識と一つの意志とに統一されているべきものだと思っていたのだ。 要するに『諸悪の根源は英米にして、英米やがて討つべし』という先日の教官の意見は、われわれに無批判に受け入れられていたのである。 ところが、杉田参謀はその後一度も講義に来ないのである。多少の誤解もあったのだが、『あのような、単純な反英米的教育が行われているところへ講義に行っても無駄だ…』というのが理由であったらしい。杉田さんというのは後年、自衛隊の陸幕長をつとめた杉田一次氏である。  このように、実に多様の、食い違い、相反する認識と意見が、そこの教壇ではそれぞれ強い情熱とともに語られ、われわれは新しい学び方を急速に身につけなければならなかった。 この学校の最も中心的なテーマである『情報』ということば一つにしても、各人各様の解釈があつたのである」

▼杉田参謀の心中は?  

 原田氏の発言は当時の陸軍参謀部内の情勢認識や戦略判断の相 違を裏付けるものとして興味深い。 杉田氏は戦後になって『情報なき戦争指導─大本営情報参謀の 回想』を著すが、同書では、大本営(陸軍参謀本部)で仕えた1 1人の第2部長の各時代における情報活動が描かれるとともに、 当時の国家の情勢認識や戦略判断が詳細に述べられている。

 杉田氏は米国駐在経験が豊富な知米派であって、米国の国力な どを認識していたから対米戦争絶対回避の立場をとっていた。彼 は、親独派の陸軍高官や松岡外相などが日独伊三国同盟にひた走 り、それがわが国を対米英決戦へと駆り立てたとの批判的な見方 も示している。  

 海軍の山本五十六連合艦隊司令長官については、「表面的には対米戦争回避を主張するも、その実態は真珠湾の先制攻撃がやりたく て仕方なかった」というようなトーンで、その人物像を描いてい る。  

 かいつまんで言えば、杉田氏は、米国との戦争の蓋然性が高く なっても、参謀本部第2部長には米国を知らない親独派がずっと就任し、こうした歪められた恣意的な人事が、正しい情報認識を阻害し、米国との戦争に突き進んだ原因である旨を主張しているのであ る。  

 このような杉田氏であったから、前出の中野学校での講義にお ける学生の応答に対し、激しい嫌悪感あるいは諦念感を抱いたの であろう。決して、「一つの意見や情報を無批判に受け入れるな」 との、学生に対する印象教育が狙いではない。  

 原田氏は「この道においては、すべてが参考に過ぎない。自分で考え、自分で編みだし、自分で結論せよということである」と述べており、結果的に杉田氏の教育放棄から得るものがあったと 語っている。  

 他方、原田氏はロシア課の甲谷氏の温情的なエピソードと対比 して杉田氏の事例を紹介している。ここには参謀本部による中野 学校に対する期待値あるいは温度差がバラバラであることへの悲哀感の吐露もうかがえる。  

 杉田氏の著書『情報なき戦争指導』を読む限りにおいて、筆者は戦略情報に対する杉田氏の見識の高さを覚えるが、杉田氏から、諜報や謀略など、いわゆる秘密戦への関心はほとんど感じられない。同著においては秘密戦のことや陸軍中野学校に関することはほとんど触れられておらず、おそらく杉田氏は、諜報、 謀略などいうものは“邪道”としてみていたのではないだろうか。  

 筆者は平時における戦略情報こそが最も重要であり、その情勢判断こそが国家の生存・繁栄をもたらすと考えている。しかし他方で、秘密戦ともいうべき情報活動は絶対に軽視してはならないと考えている。  

 第二次世界大戦における勝利の要訣は秘密戦にあった。当時の英国首相・チャーチルは、対独戦争を優位に展開するため、米国 を第二次世界大戦の舞台に引っ張りこんでわが国と戦わせた。秘 密戦によって日独の連携を離間させた。  

 杉田氏は戦後に陸上幕僚長に就任する。戦後、陸上自衛隊において秘密戦は忌避され、諜報、防諜、謀略などの言葉も使われな くなった。この両方の相関関係については定かではないが、杉田氏が中野学校や秘密戦についてどのような認識を持っていたか、それを陸上自衛隊の運営において何らかの教訓として活用したのか、この点を聞いてみたかったなと思う次第である。  

 むろん、筆者と杉田氏の年齢差からして物理的に不可能な話ではある。

▼中野学校の創設は陸軍の総意ではなかった  

 中野学校の入校学生は全国から選りすぐりの精鋭であった。しかし、陸軍内では総力戦の趨勢と先行き不透明な時代の“寵児” として中野学校の卒業生に大いに期待する者もいれば、そうでな い者もいた。  

 陸軍上層部と中野学校関係者とでは、卒業生あるいは学校に対 する期待値に大きな温度差があったとみられる。 また参謀本部内においても作戦部門と情報部門では温度差があ り、その情報部門を所掌する参謀本部第2部の中でも中野学校への期待値は異なっていたのである。  

 そもそも参謀本部は中野学校の創設や秘密戦士の育成には全体 として乗り気ではなかったようだ。ただ参謀本部第5課(ロシア課)だけが、共産主義イデオロギーの輸出や諜報、謀略を展開するソ連の国家情報機関の恐ろしさを認識していたので、秘密戦士 の育成に積極的であったという。  

 しかし、参謀本部の第6課(欧米課)、第7課(支那課)は 「それができれば駐在武官の必要性がなくなって困る」と考えたのか、強硬に設立反対を唱えた者もいたようである (畠山『秘録 陸軍中野学校』ほか)。  

 陸軍省内では、入校した1期生と当時の兵務局長の今村均少将 との会食が行なわれたり、1期生に対する東條英機陸軍次官の校内巡視があったりなど、中野学校を重視する傾向はうかがえた。  

 しかしながら、総じて言うならば、参謀本部第5課、そして兵務局や軍務局の一部を除いては秘密戦士の育成には無関心であっ たと言わざるを得ない。だから設立費用も乏しく、当初は愛国婦 人会の建物の一部を借りて、寺子屋式で出発したのであろう。  

 教育を担当する学校関係者と陸軍上層部の思いには大きな差が あったことは筆者の経験からも「なるほどな」と思われる節があ る。詳細は割愛するが、筆者は陸上自衛隊では初めての試験選抜の情報課程(総合情報課程)の第1期学生長として入校した。

 我々に対する、学校関係者の高い心意気と、陸上幕僚監部あるい は現場の情報部隊との冷静ともいえる対応には、やはり温度差を感じた。 教育内容ひとつをとっても、学校関係者は学生に対してできる だけ多くのことを、現地研修などを通じて、現地・現物で学ばせ ようと一所懸命に尽力する。しかし、受け入れ側の上級組織や情 報組織の現場では、「保全意識も確立していない学生に対して、 秘匿度の高いものを“おいそれ”とはみせられない」ということ になる。

▼中野学校の基礎教育が功を奏した  

 中野学校の1期生たちの活躍は総じて評価が高かったようであ る。各部署から中野卒業生を多く取ってほしいとの現場の声が止 まないという。これが、後方勤務要員養成所が認知され、陸軍省直轄の中野学校、そして参謀本部直轄の中野学校として発展を遂 げた、一つの要因でもあったろう。  

 ただ、中野学校の1期生たちの卒業後の活躍が、すなわち中野学校の教育がすぐれていたというわけではない。そもそも、1年程度の教育期間をもってして素人を一人前の秘密戦士として大化(おおば)けさせることはほぼ不可能である。  

 単純には比較することはできないが、冷戦期のソ連KGBには 海外に派遣する秘密スパイを養成するための「ガイツナ」と呼ば れる特別訓練施設があったとされる。ここでは、外国人になるき るために10年以上の訓練が行なわれたとされる。  

 それに、中野卒業生に期待する役割についても一様ではなかっ た。太平洋戦争以前の1期生や2期生長期学生に期待されたのは、 『替らざる武官』であった。 しかし、中野卒業生の任務は時代変化に翻弄され、特務機関の 要員、さらには残置諜者、国内ゲリラ戦の従事者などへと変化した。つまり、教育目的の変化に対して、教育内容が追随できたのかも疑わしい。  

 それでも、各所において中野卒業生が目覚ましい働きができた とすれば、それは優秀な学生を選抜したことにつきる。そして、 学校関係者が彼らをエリート学生として尊重し、自由闊達な気風 のなかで、彼らの自主性を重んじたからである。決して画一的な 教育が功を奏したわけではないといえよう。  

 強(し)いて言えば、教育面については、秘密戦士などとして 成長するための素地を授ける基礎教育を重視したことが功を奏したのであろう。さらに言えば、情報戦士の在り方を追求した中野 学校における精神教育が、中野卒業生の中に期を超えた同志愛を 醸成し、すすんで難局な任務にあたらせたと言えよう。

わが国の情報史(43) 秘密戦と陸軍中野学校(その5) 陸軍中野学校における教育の欠落事項

▼はじめに

 前回は陸軍中野学校の1期生の教育内容を紹介し、それを私の経験則から分析して、教育内容の特質を明らかにした。 今回は、その続きであるが、中野学校の教育で欠けていたことに焦点をあてることにする。

▼旧軍には「情報理論」は存在しなかったのか?  

 戦後になって自衛隊入隊し、陸上自衛隊の『情報教範』の作成 に従事した松本重夫氏は、米軍の「情報教範(マニュアル)」な どを引き合いに、次のように回想している。

「私が初めて米軍の『情報教範(マニュアル)』と『小部隊の情 報(連隊レベル以下のマニュアル)を見て、いかに論理的、学問 的に出来上がっている者かを知り、驚き入った覚えがある。それ に比べて、旧軍でいうところの“情報”というものは、単に先輩 から徒弟職的に引き継がれていたもの程度にすぎなかった。私に とって『情報学』または『情報理論』と呼ばれるものとの出会い はこれが最初であった」(松本重夫『自衛隊「影の部隊」情報戦 秘録』)  

 松本氏は、自著の中で「情報とは、『組織』と『活動』によっ て得られた『知識』である」「情報資料(インフォメーション) と情報(インテリジェンス)を峻別することが重要である」「情 報資料を情報に転換する処理は、記録、評価、判定からなり、い かに貴重な情報資料であっても、その処理を誤れば何らその価値 を発揮しない」などの情報理論を縷々述べている。  

 では、松本氏が言うように、旧軍には「情報理論」はまったく 存在しなかったのだろうか?  

 1928年頃に作成されたと推定される「諜報宣伝勤務指針」 においては諜報、宣伝、謀略の意義や方法論についてはかなり詳細に述べられているが、松本氏が指摘するようにインテリジェンスとインフォメーションの明確な区分はない。  

 しかし、第1編「諜報勤務」の中には、「敵国、敵軍そのほか 探知せんとする事物に関する情報の蒐集(しゅうしゅう)、査覈 (さかく)、判断並びに、これが伝達普及に任ずる一切の業務を 情報勤務と総称し、……」の条文がある。    

 また1938年に制定された「作戦要務令」では以下の条文が ある。 「収集せる情報は的確なる審査によりてその真否、価値等を決定 するを要す。これがため、まず各情報の出所、偵知の時機及び方 法等を考察し正確の度を判定し、次いでこれと関係諸情報とを比 較総合し判決を求めるものとす。また、たとえ判決を得た情報い えども更に審査を継続する着意あるを要す。(以下略)」(72 条)

  「情報の審査にあたりて先入主となり、或は的確なる憑拠なき想 像に陥ることなきを要す。また、一見瑣末の情報といえど全般よ り観察するか、もしくは他の情報と比較研究するときは重要なる 資料を得ることあり。なお局部的判断にとらわれ、あるいは 敵の 欺騙、宣伝等により、おうおう大なる誤謬を招来することあるに 注意するを要す。」(74条)  

 ここでの査覈と審査とほぼ同じ意味であると解釈され、これら は生情報(インフォメーション)の情報源の信頼性、生情報その もの正確性などを調べて評価すると意味になるだろう。つまり、 旧軍の教範でも、生情報を直接に使用してはならないことが戒め られている。  

 以上から、今日の情報理論の中核ともいうべき、「インフォメ ーションを処理してインテリジェンスに転換する」ということの 必要性とその要領については、明確性や具体性に欠けるとはいう ものの、旧軍教範ですでに提示していたといえるだろう。

 ▼実戦では生情報が垂れ流し  

 しかし、実戦では生情報の垂れ流し状態であったようだ。これ にはいくつかの理由はあったとみられるが、小谷賢『日本軍のイ ンテリジェンス』は次のように述べている。 「さらに問題は、生の情報や、加工された情報の流れが理路整然 としておらず、いきなり生情報が報告されることもあった。これは情報部が生情報や、加工された情報の流れをコントロールできていなかったことに起因する。(中略)  

 終戦近くになると、参謀本部は南方情報を北のハルピンから報 告される『哈特諜(ハルピン情報)』に頼るようになるが、これ も生情報がそのまま報告されており、きわめて危険な状態であっ た。なぜならば既述したように、ハルピン情報はソ連の偽情報の可能性が高かったためである。(以下略)」  

 ようするに、小谷氏の研究によれば、偽情報である生情報を他の人的情報(ヒューミント)や文書情報(ドキュメント)と照合してインテリジェンスを生成するという情報原則は、現場では遵守されなかったようだ。  

 さらに小谷氏は次のように述べている。 「恐らく当時、『情報』を『インテリジェンス』の意味で捉えていたのは、陸海軍の情報部だけであった。情報部にとっての 『情報』とは分析、加工された後の情報のことである。

 しかし作戦部などから見た場合、『情報』とは『インフォメーション』であり、生情報のことであった。彼らに言わせれば、情報部はデータの類を集めて持ってくれば良いのである。そして作 戦部が作戦立案のためにそれらのデータを取捨選択すれば良かっ た。 すなわち作戦部と情報部の対立の根源は、『情報」という概念をどのように解釈するかであり、双方が対立した場合、力関係か ら作戦部の意見が通るのは当然であった。」(前掲『日本軍のイ ンテリジェンス』)  

 つまり、情報部では情報の処理の必要性などは理解されていたが、 作戦部における情報理論の無知と、そこから生じる情報部の軽視 が蔓延(はびこ)っていた、ということだろうかか?

▼中野学校における「情報理論」教育  

 中野学校では「情報理論」についてどのような教育が行なわれ ていたのだろうか?  乙Ⅰ長期(2期生)の平館勝治氏の言によれば、2期生の教育では参謀本部第8課から中野学校に派遣された教官が「諜報宣伝 勤務指針」を携行して教育を行なっていたようである(1期生の教育において「諜報宣伝勤務指針」という極秘の情報教範が活用 されたかどうかは不明)  

 平館氏は、戦後になって以下のように発言をしている。

「私が1952年7月に警察予備隊(のちの自衛隊)に入って、 米軍将校から彼等の情報マニュアル(入隊1か月位の新兵に情報教育をする一般教科書)で情報教育を受けました。その時、彼等の情報処理の要領が、私が中野学校で習った情報の査覈(さかく) と非常によく似ていました。 ただ、彼等のやり方は五段階法を導入し論理的に情報を分析し、 評価判定し、利用する方法をとっていました。

 それを聞いて、不思議な思いをしながらも情報の原則などというものは万国共通のも のなんだな、とひとり合点していましたが、第四報で報告した河辺正三大将のお話を知り、はじめて謎がとけると共に愕然としま した。  

 ドイツは河辺少佐に種本(筆者注:「諜報宣伝勤務指針」を作 成した元資料)をくれると同時に、米国にも同じ物をくれていた と想像されたからです。しかも、米国はこの種本に改良工夫を加 え、広く一般兵にまで情報教育をしていたのに反し、日本はその 種本に何等改良を加えることもなく、秘密だ、秘密だといって後生大事にしまいこみ、なるべく見せないようにしていました。 この種本を基にして、われわれは中野学校で情報教育を受けたのですが、敵はすでに我々の教育と同等以上の教育をしていたもの と察せられ、戦は開戦前から勝敗がついていたようなものであっ たと感じました(「諜報宣伝勤務指針」の解説、2012年12 月22日)。  

 上述のように同指針では、生情報を直接に使用してはならないことの戒めや、生情報の正確度の判定などについて述べられていた。 しかしながら、 同指針は秘匿度が「機密書」に次いで高い「極秘書」 であったので、学生が自由に閲覧する、ましてや書き写して自習用に活用するなどはできなかった。

 したがって、教官がその中に 書かれている内容の一部を掻い摘んで学生に教えるというのが “関の山”である。「諜報宣伝勤務指針」の内容が学生に十分に 定着したとは到底言えない。 要するに平館氏がいうように、秘密、秘密といった秘密主義がせっかくの 教範を“宝の持ち腐れ”にしてしまった可能性がある。

▼保全に対する形式主義が教育成果を妨げた?  

 時代はさらに遡るが、日露戦争における日本海海戦の大勝利の 立役者・秋山真之が米国に留学した。米国海軍においては末端ク ラスまでに作戦理解の徹底が図られていることに感嘆した。  

 しかし、秋山は帰国して1902年に海軍大学校の教官に就任 し、教鞭したところ、基本的な戦術を艦長クラスが理解していないことに驚いたという。なぜならば、秘密保持の観点から、戦術 は一部の指揮官、幕僚にしか知らされなかったからである。    

 そこで秋山は「有益なる技術上の智識が敵に遺漏するを恐るる よりは、むしろその智識が味方全般に普及・応用されざることを 憂うる次第に御座候(ござそうろう)」との悲痛の手紙を上官に したためた。

 どうやら、平館氏によれば、なんでもかんでも秘密、秘密にす る風潮は昭和の軍隊においては改められなかったようだ。 米国は種本とみられるドイツ本に改良工夫を加え、広く一般兵 にまで普及できる情報理論を確立していった。一方のわが国では、 秘密戦士を要請する中野学校においてでさえ、形式的な秘密主義 が妨げとなり、教えるべき事項の出し惜しみがあった。  

 自由な雰囲気で、自主的学習が重んじられた中野学校ではあっ たが、当時の陸軍上層部の形式主義によって「諜報宣伝勤務指針」 が改良と工夫をされて、中野学校における情報教育に反映されな かったとすれば非常に残念なことであったといえるだろう。

▼教範の秘密保全について  

 米軍はインターネットで情報マニュアルなどを公開しているが、 わが国においても教範類は公開すべきだ、というのが筆者の論で ある。ちなみに日本が不透明、不透明といっている中国軍におい ては、軍関係機関が多数の軍事書籍を出版し、それが国民全体の 軍事知識を押し上げ、愛国心向上に一役買っているという。  

 正直言って、自衛隊の相当数の教範は内容的に公開されても何 ら問題はないと思うし、そもそも教範は原則事項を記述するもの であって、不要なことや混乱を招くようなことを記述すべきでは ない。その取捨選択が行なわれていないとすれば、そのことの方 が問題である。  公開して差し支えないものまで秘密にしようとするから、無用 な詮索や勝手解釈が起こるのであるし、世間がことさら注目する ことにもなる。教範漏洩事件が起きたり、インターネットオーク ションで教範が売られたりすることにもなるのである。  

 繰り返すが、教範は原則事項の記述であって、そのままでは実戦においてはまったく役に立たないといっても過言ではない。今日の 「孫子」にさまざまな領域での解釈が付けられているように、教範にさまざまな解釈が加えられ、さらに可視化、形式知化が進み、 国家全体として安全保障などの知識やノウハウの向上が望ましい と考える。  

 教育の現場においては、教官が学生に対し、自らの経験や自学 研鑽をもって教範に独自解釈を加え、具体例をもって学生の理解を促進しなければならない。そうでなければ学生は、教範に書かれていることの本質を理解できないであろう。教官独自の副読本 なども必要になるし、そこに教範の一般価値を超えた教官の力量 がものをいうことになるのである。  

 他方、学生は教範に日常的に親しんで、想像力と創造力をもっ て繰り返し読むことが重要である。教範の厳重管理などとよく言 われるが、教範は鍵がかかるような引き出しに入れておくような ものではないと、筆者は考える。時にはベッドに寝転んで読む、 そして自ら課題を設定し、思索しつつ読む。そうした自由な環境 と、積極的な精神活動を欠いてしまえば、教範は結局のところ “宝の持ち腐れ”になるのではないか。

わが国の情報史(42) 秘密戦と陸軍中野学校(その4) 陸軍中野学校の教育の特色

▼はじめに

 さて、前回は陸軍中野学校の教育内容を理解するため、第1期 生の教育課目を紹介した。今回はその続きで、教育課目から 見る教育の特色などについて考えてみたいと思う。

▼印象教育の重視  

 第1期生の教育課目表をざっと眺めて感じることは「1年間程度の期間のなかで、よくもこれだけ多くの教育課目を組んでいる な!」ということである。 筆者は陸上自衛官時代に約1年間の情報課程を履修し、また同課程の課程主任にも就いたことがある。こうした経験から察するに、学生は次から次へと与えられる教育課目についていくのが精 一杯で、おそらく履修した内容を定着させる余裕はなかったと思 う。いわゆる“消化不良”を起こしていたのではなかろうか?    

 たとえば実科では秘密通信、写真術、変装術、開緘術、開錠術 といった秘密戦遂行のための課目が組まれているが、実科に与え られた総配当時間は118時間であった(『陸軍中野学 校のすべて』の17頁掲載の1期生の教育実施予定表)。  

 便宜上、総配当時間を単純に5等分すれば(5課目に割る)、 各課目の授業時数は20時間強となる。これでは封書を開ける開緘術、錠を開ける開錠術などを修得することは不可能であったろ う。

 ようするに「へえ~、こういう技術もあるんだ!」という体験 をさせることが趣旨であったと思われる。つまり、「このような技術が必要な実際場面に出くわすかどうかはわかないが、仮に出 くわしたならば、ここでの教育を思い出し、自らの工夫と技術研鑽で乗り越えよ!」という趣旨であったのだろう。  

 あるいは、相手側がこうした技術を持っていることを意識させ、 自らの諜報、謀略などの活動に対する防諜観念を高めさせる狙いがあったとみられる。  

 つまり実用性というよりも印象教育を重視したのだと思われる。

▼科学化を意識した教育  

 印象教育の重視とはいうものの「諜報、謀略の科学化」を目指 した中野学校ならではの教育方針を垣間見ることはできる。

 特殊爆薬、偽造紙幣、秘密カメラ、盗聴用器などの教育につい ては、当時、謀略器材の研究にあたっていた秘密戦研究所(登戸研究所)の協力を得て実施された。  同研究所は第1次世界大戦において、航空機兵器や化学兵器 (毒ガス)という近代兵器が登場したことなどから、各国は科学・ 技術を重要視した軍事的政策をとるようになった。わが国も、こ れに後れてはならないとして触発され、1927年4月に研究所を創設した。  

 つまり「諜報、謀略の科学化」の大きな目的の一つが、近代兵器の開発と、それに対応する秘密戦士の育成というわけである。  

 また、一般教養基礎学においては統計学、心理学、気象学といった課目が教えられた。統計学に8時間、心理学に5時間が配当 された(前掲『陸軍中野学校のすべて』)。  

 もちろん十分な授業時数ではないが、それでも、終戦後に出光石油に勤務した1期生の牧沢義夫氏は、中野学校の教育で実務に役立ったのは統計学と資源調査のリサーチ法であったと語ってい る(斉藤充功『証言 陸軍中野学校 卒業生たちの追憶』)。こ うした課目も基礎教育としての価値は十分にあったとみられる。  

 筆者は退職後、情報分析官としての必要な知識、技能および資質を養成する上で何が重要であったかと時々回想することがあるが、統計学、心理学、さらには(中野学校の教育課目にはなかったが)哲学の素養が重要であるとの考えに至った。  

 たとえば、ビジネスにおけるデータ分析などの本や論文などを 読んでいると「ベイズの定理(条件付き確率)」といった言葉がよく出てくる。これは統計学を学んだ者にとっては常識であるよ うだが、かつての私の現職時代を振り返っても、この定理が話題 になったような記憶はほとんどない。

 「ベイズの定理」とは「ある事象が起こったという条件のもとで の事象が起きる確率」のことである。たとえば最初に、(1)X国が Y国を攻撃する(10%)、(2)X国はY国を攻撃しない(90%) の2つの仮説とその確率を立てたとする。そののちに、Y国指導者が「ミサイル実験は中止する」と発言したとすれば、最初の仮説を適度に見直す必要がある。  

 ここでは詳細説明は割愛するが、人間はあとで生じた情報、 すなわち「ミサイル実験は中止する」を過度に重視して、最初の事前確率(10%、90%)を無視して、最初の仮説の確率を大幅に引き上げたり、引き下げたりする。 そうした心理的バイアスを排除して、冷静な分析を可能にするのが「ベイズの定理」である。  

 現状分析や未来予測において、データやインフォメーションか らインテリジェンスを生成するためには定量的な分析が欠かせない。しかし、しばしば定性的な分析にとどまることの一つの原因 としては、統計学の素養がないことがあげられよう。  

 中野学校において、どのような統計学の授業が行なわれたかは 定かではないが、たとえ授業時数が不十分であったとしても、か かる課目の重要性をしっかりと認識していた点については、情報教育に対する視野の広さを感じる。

▼ユニークな教育で危機回避能力の向上  

 1期生の術課においては、自動車学校、通信学校、工兵学校、 飛行学校などへ行って、無線の操作、自動車や飛行機の操縦練習などを行なったようである。もちろん、わずかな教育時間で飛行機が自由自在に操縦できるなどありえないことであるが、これら は何らかの想定外の事態が発生した場合の危機回避法の修得が 狙いであったのであろう。  

 さらにユニークな教育として今も語り伝えられているのが、甲賀流忍術14世名人の藤田西湖氏による忍術教育である。この教育は今日もさまざまな形で、おもしろおかしく取り上げられ、し かも脚色されている。このことが中野卒業生が“スーパー忍者” であったかのような誤情報の伝播原因ともなっている。  

 忍術教育には8時間(3回)の授業時数が配当され、藤田によ る講義と実演のみであり、学生の実習はなかったようである。藤田は節(ふし)を抜いたタケをもって水中にもぐりひそむ法、腕や足の関節をはずしてワナを抜ける法、音をたてずに歩いたり階 段を上がったりする法、壁や天井をはい回る術などを、みずから 実践してみせてくれたという(畠山清行『秘録陸軍中野学校』)。  

 忍術といえば、いかさま“インチキ手品”のようにも受け捉られかねないが、捏造的な実演が展示されたわけでもない。藤田は 「犬の鳴き声をするとメス犬が吠える」と言って、犬の鳴き声を 実演したが、なかなか思うような状況にはならなかったようである。  

 藤田によれば次のように忍術と情報活動との関係を説明している。 「忍術は常にいつの時代においても行なわれており、忍術という ものの行なわれない時は一日としてない、ことに現代のごとく生存競争の活舞台が層一層の激甚を加える時、人事百般、あらゆることに、あらゆる機会においてこの忍術は行なわれ、忍術の行な われない社会はない。 ただ忍術という名前において行なわれないだけである。

 忍術と いうものはかつての軍事偵察、今日でいう間諜の術=スパイ術である。このスパイ、間諜というものは、いつの時代においても盛 んに活躍していたもので、今日支那事変や大東亜戦争が起こると、 世界各国の種々なる間諜、スパイが一層活躍しているのである」 (藤田西湖『忍術からスパイ戦争』。現代仮名遣いに改め)  

 忍者は飛鳥時代にすでに発祥したといわれ、中野学校の精神教育の理想像とされた楠木正成も忍者のルーツを引く。忍者は時代 を問わず、ずっと“日陰者”として存在し、主君に誠を誓い、主君の窮地を しばしば救った。そうした忍者に関する講義を通じて、学生に危機を回避するうえでの伝統的な知恵を授けると同時に、国家に対する忠誠心を涵養する狙いがあったのであろう。

  「諜者は死なず」という短句が象徴するとおり、「秘密戦士は任 務完遂するまで、たとえ捕虜になろうとも、片眼、片腕、片脚を失っても情報伝達のために帰ってこい、死んではならない」と教育された。この点についても諜報員と忍者とは共通するものがある。自動車学校などにおける操縦訓練や忍術教育は、このような秘密戦士の特性に鑑みた危機回避法や生存自活法が狙いであったといえるだろう。  

 さらにユニークな教育としては、前科十何犯かという有名な掏摸(すり)を招いての実演や、偽編術(ぎへんじゅつ、変装術の ことをこう呼んだ)の講師としてめったにお目にかかれないような絶世の美人になりきった新派の元女形も登場したようである。  

 これらも、実際の掏摸や元女形から情報の窃取や変装の技術を学ぶというよりも、情報や諜報活動上の保全の重要性、あるいは先入観で物事を見たりすることの危険性、平素の観察力のいいか げんさ、などを感覚・知覚的に理解させる印象教育が狙いであっ たであろう。  

 中野学校の前身である後方勤務要員養成所の所長、秋草俊は 「万物これ悉(ことごと)く我が師なり」を教育哲理としていたようである。

 「秘密戦士にとって役立つと思えば、教育は形式に とらわれるべきではない。学生が自由な発想で秘密戦士にとって 何が必要であるかの答え見つけ出すことが重要なのだ。教官はそ の手伝いをしているに過ぎないのだ」というような、当時の秋草 の語り口さえ想像できる。

▼自主と創意工夫を重視  

 教育内容の主軸となる諜報、謀略、防諜、宣伝については、中 野学校職員による諸外国の実例についての講義が主体であったよ うであるが、これに加えて参謀本部の謀略課(第8課)などから 部外講師が私服に着替えて来校して、授業を行なっていたようで ある。  

 1期生の日下部一郎氏の著書『陸軍中野学校 実録』には以下 の件がある。 「講義もまた型破りであった。教科書がない。教材がない。も ちろん、一貫した教育方針や指導基準があるわけではなかった。 講義は、各教官の思いどおりに、自由な形で行われた。  

 わが国の戦国時代や、中国の戦史や、日清、日露その他の戦史 の中から、秘密戦に関する記録を収集したり、海外武官による各国の視察報告をまとめたりして、教材をしだいに作っていく状態 であった。」  

 つまり、当初の教育は手探り状態であり、それゆえに型にはま らない、自由発想と創意工夫が重んじられたとみられる。また教官は学生と一体となって秘密戦という未開拓の分野を共同研究し たようである。教官は学生と共に考え、教え合うことで成長する のである。  

 1期生は借家居住といういわゆる寺子屋式のなかで共同生活をした。また教育管理はおおらかであり、余暇には外出時間の制限 もなかったという。こうした自由闊達の雰囲気のなかで、学生は 自主自律の精神を陶冶したのであろう。  

 話は脇道にそれるが、筆者が所属した陸上自衛隊調査学校や 同小平学校では学生に対して「24:00帰校ルール」と いうものがあった。夜中の12時までに学校の警衛所を通過して帰校しなければならないというものである(現在、存続しているか どうかわからない)。  

 すでに就寝している学生もいるし、どやどやと音を立てて学生舎に帰ってきても困る、外出している学生自身も明日の授業に差 し障りがあるという、学校上層部の当然と言えば当然の判断であったように思う。 ただ、時代やおかれた環境が違うといえばそれまでであるが、自律心 という点ではまことに情けないといわざるを得ない。

▼明石大佐を模範とする理想像の追求  

 前出の日下部は、「学生たちにもっとも深い感銘を与えたのは、 日露戦争における明石元二郎大佐の活躍であった」として、以下 のように述べる。 「中野学校の錬成要綱の一つに、『外なる天業恢弘(てんぎょう かいこう、筆者注:天皇の事業を世に推しひろめるという意味) の範を明石大佐にとる』という言葉があった。

 中野学校の目的は、 単なる秘密戦士の養成ではなく、神の意志に基づいて、世界人類 の平和を確立するという大きいものであり、そしてその模範とすべきは明石大佐である、という意味だ。実際に、明石大佐の報告書と『革命のしおり』という標題のつけられた大佐の諜報活動記録は教材に用いられ、それによって、学生たちは大いに鍛えぬか れたのである。以下略)」  

 つまり、教科書や教材が不十分であって教育方針も固まらないなかで、教育の理想像とされたのが日露戦争時の明石大佐であっ た。明石大佐の活躍については、本シリーズ「わが国の情報史」 ではたびたび触れているが、ここでもう一度簡単におさらいを しておこう。  

 明石大佐は、1904年の日露戦争の開戦前から駐露公使館付武官をつとめ、開戦とともにスウェーデンのストックホルムに根拠を移し、欧州各地に縦横に動き回り、対ロシア政治工作に従事 した。  

 上述の報告書とは、明石大佐が帰国して1906年に参謀本部 に出された『明石復命書』のことであり、明石自身がこれに『落花流水』と題をつけたとされている。また『革命のしおり』とは、 この報告書を参謀本部の倉庫から探し出し、秋草、福本、伊藤の三教官が徹夜で謄写版刷りの教材にまとめあげたものとされる。  

 今日『落花流水』は一般書籍にも収録されている。この記述内容から、公刊資料を活用しての任国の政治情勢、民情、敵対勢力や友好勢力に関わる分析手法、現地における協力者との接触要領、 革命・扇動の準備工作や留意点などの教育が中野学校で行なわれたとみられる。  

 1940年10月の乙Ⅰ長(2期生)の卒業式には東条英機陸軍大臣が出席し、席上、首席学生は明石大佐の政治謀略について講演した。つまり明石謀略は学生の必須の自主命題とされ、教育課目の内外において自学研鑽が重ねられたとみられる。  

 また教官は、明石大佐の活躍を称賛する一方で、その活躍がこ のほか世の中に語られていない状況を次のように示唆したようである。

「明石大佐のような日露戦争の最大功労者であっても、その帰 国を迎えた者は、人目をはばかってカーキ色の軍服をさけ、私服 に二重まわし姿の児玉源太郎将軍ただ一人であった。この報告書 に至ってはホコリをかぶり、眠り続けている。それでも明石大佐 は駐露武官である。ましてや秘密戦士の功績は語ることもできな ければ、敵国に捕えられれば銃殺や絞首刑は免れない。それでも 貴様らは耐えられるか。耐えられなければ遠慮なく辞職を申して出てもらいたい」(筆者が畠山『秘録陸軍中野学校』から要点を抽 出して作文)  

 このように明石謀略は秘密戦の知識・技能の教育にとどまらず、 秘密戦士の道を説く精神教育としても恰好の題材となったのであ る。  

 現在となっては、明石がレーニンと直接に会ったという事実はないとされ、明石謀略によって帝政ロシア内で大衆を動員して革命扇動を起こさせた、などについても疑義が呈されている。  

 しかし当時は、ドイツ皇帝ウィルヘルム2世が「明石1人で、 大山大将の満州軍25万人に匹敵する成果を挙げ、第一次世界大戦では、明石の手法をまねて、ついに帝政ロシアを崩壊させた」 などのことが事実として語り継がれており、学生たちにとって明石大佐は紛れもなくヒーローであったのである。 (次回に続く)

わが国の情報史(41) 秘密戦と陸軍中野学校(その3) 陸軍中野学校の学生選抜と教育方針

▼はじめに

 さて、今回は「秘密戦と陸軍中野学校」編の第3回である。中野学校の学生選抜と教育方針について解説することとする。

▼入校学生は5種類に分類

 1938年7月の後方勤務要員養成所の入所(入校)者(1期
生)の主体は民間大学など高学歴の甲種幹部候補生出身将校から
採用することとし、各師団や軍制学校からの推薦を受けた者を選
抜した。これは、秘密戦士には世の中の幅広い知識が必要である
との配慮による。

 なお、所長の秋草自身も陸軍派遣学生として一般大学(現在の
東京外国語大学)を修了している。

 また、2期学生からは下士官養成も開始し、陸軍教導学校での
教育総監賞受賞者や現役の優秀な下士官学生(乙種幹部候補生出
身)を採用した。さらに中野学校が正規の軍制学校になってから
は陸軍士官学校出身将校をも採用し、戦時情報および遊撃戦の指
導者として養成された。

 1940年8月制定の「陸軍中野学校令」では、入校学生は甲
種学生、乙種学生、丙種学生、丁種学生、戊種学生に分類された。
これは前回述べたとおり、1941年10月には、学校の所管が
陸軍省から参謀本部に移管されて参謀本部直轄校となり、甲種学
生が乙種学生に、乙種学生が丙種学生、丙種学生が戊種学生とな
った。

 では上述の区分にしたがって各種学生を順番に紹介することと
しよう。

(1)甲種学生 
 後方勤務要員養成所および「陸軍中野学校令」(1940年8
月)の乙(陸軍士官学校出身)および丙種(甲種幹部候補生出身
将校)の学生課程を経て、一定期間に秘密戦に従事した大尉、中
尉が対象となった。修業期間は1年間。
 しかし、これは制度として存在したのみであり、中野学校が短
期間で終了したために活用されず。
 なお、この学校で1甲、2甲と称せられた学生は「陸軍中野学
校令」制定前に陸軍士官学校出身者で中野学校に入学を命じられ
た学生の呼称である。
(※注「1甲、2甲」は「陸軍中野学校令」制定後、参謀本部直
轄前の入校)

(2)乙種学生
 陸軍士官学校を卒業した大尉および中尉を主体として、そのほ
か現役の各種将校を推薦により乙種学生として入校させた。修業
年限は2か年、当時の情勢で1年ないし8か月に短縮。1942
年に入校の1乙より、45年入校の5乙まで存続した。卒業生総
数は132人。

(3)丙種学生
 甲種幹部候補生出身の教育機関である予備士官学校の学生から
試験を行なった後に採用した学生であり、修業年限は2か年、当
時の情勢で1年ないし8か月に短縮。中野学校の幹部学生の大半
を占めて基幹学生ともいうべき存在。
 後方勤務養成所創設時に入校した1期生、その次に入校した乙
I長および乙I短(いわゆる2期生)、それ以降の乙II長およびと
乙II短は丙種学生である。
 遊撃戦幹部要員としての二俣分校学生、遊撃および情報の臨時
学生は、ともに丙種学生の範疇に属する。
 卒業生総数は本校学生が900人、二俣学生が553人。

(4)丁種学生
 中野学校を卒業した下士官を将校にするための課程学生である。
制度として存在したのみで、実際には活用されず。

(5)戊種学生
 乙種幹部候補生出身や陸軍教導学校において教育総監賞などを
受賞して卒業した下士官学生であって第2期生から採用され、陸
軍中野学校の下士官学生の基幹となった。卒業生総数は567人。

 以上のとおり、中野学校の主体をなす学生は民間大学等高学歴
の甲種幹部候補生出身将校の丙種学生と、陸軍教導学校などを卒
業した下士官学生である戊種学生とが大半であった。

 そのほか必要に応じて遊撃戦の幹部将校を養成するために臨時
に入校を命ぜられた遊撃学生、司令部で情報分析等に勤務するた
めの将校を養成するために臨時に入校を命ぜられた情報学生がい
た。(以上、『陸軍中野学校』より要点を抜粋)

▼卒業生の選抜

 中野学校の基幹をなす丙種学生の選抜要領は以下のとおりである。

1)陸軍省より、師団、予備士官学校、各種陸軍学校に対し漠然
と秘密戦勤務に適任と思われる学生の推薦を依頼する。
2)師団、予備士官学校等において、中隊長等がそれとなく適任
と思われる成績優秀な学生を選び、本人の意思を尊重して、相当
数の学生を選出して報告する。中野学校職員が説明に出向くこと
もあった。
3)中野学校において右報告書に基づいて書類選考し、受験させ
る者を決定し、予備士官学校に通知する。
4)受験者に対し、陸軍省、参謀本部、中野学校職員からなる選
考要員が、それぞれの予備士官学校等(1期生は九段の偕行社)
に出張し、各地における選考の結果を総合して採用者を概定し、
1人あたり1時間の口頭試験を行ない、身体検査する。
5)各地における選考の結果を総合して採用者を概定し、これに
対し憲兵をして家庭調査をさせる。その結果に基づいて採用を決
定する。
6)採用予定者を中野学校以外の東京のとある場所に招集して、
再度本人の意思を確かめ、さらに身体検査をして採用を決定した。

 選抜に際しては、受験生に対して中野学校での勤務内容を秘匿
することと、本人の意思に反して入校強要しないことの2点が留
意された。

▼学生に対する教育および訓練の特色

 中野学校では秘密戦士として必要な各種の専門教育が行なわれ
た。

 秘密戦の特性上、「上意下達」の一般軍隊とは異なり、単独で
の判断が必要となる場面が多々予測される。そのため幅広い知識
の付与と、新たな事態に応じた応用力の涵養を狙ってカリキュラ
ムが組まれた。

 また「謀略は誠なり」「功は語らず、語られず」「諜者は死せ
ず」など、精神教育、人格教育などが徹底された。さらにはアジ
ア民族を欧米各国の植民地から解放する「民族解放」教育もなさ
れた。

 経年的にみるならば、1938年7月の開所からの約3年間は、
海外における秘密戦士(いわゆる長期学生)を育成することを狙
いに教育が行なわれた。しかしながら、1941年末の太平洋戦
争の勃発(開戦)により、卒業後の任地は作戦各軍に赴任するも
のが多くなり、教育内容も次第に戦時即応の強化に重点が指向さ
れるようになった。

 そして開戦後の2年間までの学生は、いまだ戦場になっていな
い関東軍方面要員についての多少の例外があったが、南方地域を
はじめとする支那方面およびその他の地域において、占領地域の
安定確保、民族解放のための政治的施策などをはじめとして、将
来の決戦にそなえる遊撃戦要員としての特技が強く要求されるに
いたった。

 1944年以降は、遊撃戦の教育および研究に最重点がおかれ、
それも外地作戦軍地域内における遊撃戦にとどまらず、本土決戦
に備えて、国内において遊撃戦を敢行するための各種の訓練が開
始された。

▼中野学校が目指した教育方針

 上述のように、中野学校の教育内容は国際情勢の趨勢とわが国
の戦況によって変化した。ただし、中野学校が当初目指した教育
の主眼は、“転属のない海外駐在武官”の養成であった。

 秋草中佐は後方勤務要員養成所の開所にあたって、1期生に対
して「本所は替らざる駐在武官を養成する場であり、諸子はその
替らざる武官として外地に土着し、骨を埋めることだ」と訓示し
た。

 当時、秘密戦の中核ともいうべき軍事情報の収集は、各国とも
に主として海外駐在武官がこれに当たっていた。そのため、武官
には広範な良識と特殊な秘密戦技能を持つことが要求された。

 当時、欧米の場合は情報謀略要員が長年の間、一定の地に留ま
って情報活動を行なうのが通例であった。しかも階級も年功や功
績によって少尉から将官まで順調に昇任したという。

 これに対して、日本の陸士、陸大出身の在外武官は階級を上げ
るためにポストを替えなければならないので、3年もすれば栄転
というかたちで転属するほかなかった。こうした官僚制度により、
在外での秘密戦の効果が妨げられたようである。

 この改善こそが、甲種幹部候補生出身将校による、長期にわた
る在外での情報勤務であったわけである。ある意味、昇任・出世
を捨てて、国家の捨て石としての存在を幹部候補生に求めたとい
える。幼年期から軍人として育てられた陸士出身者ではそれは補
えず、危機対処能力、形に捉われない柔軟な発想力こそが幹部候
補生の強みであった。

▼1期生の教育

 中野学校の当初の教育方針が「替らざる武官」、すなわち海外
勤務に長期間にわたって従事する長期学生の育成にあったこと、
そして1941年から太平洋戦争が開始され、「戦わずして勝つ」
の追求が困難になったことに着目する必要がある。

 つまり、中野学校の教育の原点は、1期生と第2期の長期学生
(乙I長)および乙II長(開戦間近に繰り上げ卒業)に対する教育
への思いであったことを軽視してはならない。

 1期生の教育カリキュラムはしっかりと定まったものではない。
いや、試行錯誤を前提としたものである。ただし、それゆえに関
係者の思いが凝縮しているのである。

 そこで1期生の教育課目についてみてみよう。

(1)一般教養基礎学
 国体学、思想学、統計学、心理学、戦争論、日本戦争論、兵器
 学、交通学、築城学、気象学、航空学、海事学、薬物学
(2)外国事情
 ソ連(軍事政略)、ソ連(兵要地誌)、ドイツ、イタリア、英
 国、米国、フランス、中国(兵用地誌)、中国(軍事政略?)、
 南方地域(軍事)
(3)語学
 英語、ロシア語、支那語
(4)専門学科
 諜報勤務、謀略勤務1、謀略勤務2、防諜勤務、宣伝勤務1、
 宣伝勤務2、経済謀略、秘密通信法、防諜技術、破壊法、暗号
 解読
(※謀略勤務1と2があったのではなく異なる教官により教育で
あったので、筆者が番号はふって区分した)
(5)実科
 秘密通信、写真術、変装術、開緘術、開錠術
(6)術科
 剣道、合気道
(7)特別講座、講義
 情報勤務、満州事情、ポーランド事情、沿バルト三国事情、ト
 ルコ事情、支那事情、支那事情、フランス事情、忍法、犯罪捜
 査、法医学、回教事情
(8)派遣教育
 陸軍通信学校、陸軍自動車学校、陸軍工兵学校、陸軍航空学校
(9)実地教育(往復は自由行動、終わって全員学習レポートを
 提出)
 横須賀軍港、鎮守府、東京湾要塞、館山海軍航空隊、下志津陸
 軍飛行校、三菱航空機製作所、小山鉄道機関庫、鬼怒川水力発
 電所、陸軍技術研究所、陸軍士官学校、陸軍軍医学校、陸軍兵
 器廠、大阪の織物工場、その他の工場、NHK、朝日新聞、東
 宝映画撮影所、各博物館等
(以上、校史『陸軍中野学校』より抜粋)

 ざっと教育課目を眺めるだけで、どのような教育が行なわれた
のか察することができるが、次回はもう少し、教育内容をかみ砕
いて、その特色など説明することとしよう。

わが国の情報史(40) 秘密戦と陸軍中野学校(その2) 陸軍中野学校の概要と創設の経緯

▼陸軍中野学校の概要  

 陸軍中野学校(以下、中野学校)は1938年7月、後方勤務 要員養成所として創設され、1945年8月の終戦時、疎開先の 群馬県富岡町および静岡県磐田郡二俣町において幕を閉じた。諜 報、防諜、謀略、宣伝からなる秘密戦に関する教育や訓練を目的 とする大日本帝国陸軍の学校であった。  

 なお中野学校という校名は、この学校の所在地が1939年4 月から45年4月まで現在の東京都中野区であったことに由来す る。  

 陸軍中野学校は創設されてから終戦による閉鎖廃校まで、わず か8年という極めて短期間の存在であったが、この間の卒業生は 2000名以上に及んだ。卒業生は世界のいたるところで情報勤 務という特殊の分野での職務に精励した。    

 当時、すべての陸軍管轄の学校は教育総監(陸軍大臣、参謀総 長と並ぶ三長官の一人)が所掌していた。しかし、中野学校は陸 軍大学校などともに教育総監部に最後まで所属しなかった数少ない異例の学校の一つであった。    

 一般軍隊においては、「百事、戦闘を以て基準とすべし」と定 められているが、中野学校においては「百事、秘密戦を以て基準 とすべし」の鉄則にもとづき、秘密戦を基準として学校全体が動 いていた。  

 秘密戦士を養成する学校が世に存在するのを秘匿するため、創 設当初の正式(勅令)の学校名は「後方勤務要員養成所」であっ たが正式名称は伏せられた。このため、同養成所の施設となった愛国婦人会別館の入り口看板は「陸軍省分室」であり、学校の存 在を秘匿するため、軍部外の教官による教育は市内随意の場所が 選定されて行なわれた。  

 中野に移転した以降も、学校の存在は秘匿され、看板は「陸軍 省分室陸軍通信研究所」とされた。教官、職員、学生の身分を欺 編、秘匿するため、校長以下の学校関係者は長髪とし、軍服を着 用せず、背広を着用した。

▼牛込に防諜機関が誕生  

 次に中野学校創設にいたる沿革について述べたい。1931年 9月の満洲事変以降、わが国は対ソ国防圏の前線を満ソ国境に推進させた。対外的には対ソ戦略の軍事力整備が要求されるとともに、対内的には国家総力戦、つまり国家総動員の整備や防諜体制の強化が行なわれた。  

 総力戦思想が普及するにともない、建軍以来の作戦第一主義で あった陸軍においても情報に対する関心が高まった。  

 まずは防諜への関心である。当時、秘密戦の一分野である防諜については、1899年に公布・施行された軍機保護法があったが現状に適さないものになっていた。このため「軍機保護法を改正すべし」との意見が軍内に起こった。  

 こうしたなか1936年3月、陸軍内の防諜を強化するために 防諜委員会が設置された。また、この頃から暗号解読が重視されるようになり、参謀本部第2部1班が暗号班となった。  同年8月、陸軍省兵務局(所属課は兵務課・防備課・馬政課) が新設され、岩畔豪雄中佐(いわくろひでお、1897年~19 70年、のちに少将)は、同年2月に生起した二・二六事件の後始末で兵務課課員として転職し、軍機保護法の改正案に着手した。 なお同改正法は1937年3月に議会を通過した。  

 兵務局設置当時、防諜業務は兵務課の業務とされたが、193 7年1月には兵務局防備課に広義の防諜業務を所管させることと して、防備課を防衛課に改編し、防諜業務を担当させた。  

 当時の兵務局長は、終戦時の陸軍大臣の阿南惟幾(あなみこれ ちか)少将、兵務課長は太平洋戦争開戦時の参謀本部第1部長の 田中新一(たなかしんいち)大佐であった。  

 田中大佐は、ハルピン特務機関から参謀本部第5課(ロシア課) に転属した秋草俊中佐(あきくさしゅん、1894年~不明、の ちに少将)、福本亀治(ふくもとかめじ)憲兵少佐、曽田峯一(そ だみねいち)憲兵大尉に命じ、科学的防諜機関を設立するための研究を命じた。  かくして1937年春、兵務連絡機関(兵務局分室)という防諜専門機関が牛込若松町の陸軍軍医学校の敷地奥に設置されたの である。

 初代班長は秋草であった。共産党問題研究者として省部 その他で高く評価されていた福本がこれを補佐し、十数名の組織 として立ち上げられた。  同機関の任務は国際電信電話の秘密点検、外国公館その他の信書点検や電話の盗聴、私設秘密無線局の探知などの防諜業務が主 であったが、あわせて情報収集にあたった。  

 この防諜組織の存在は省内でも一部の関係者以外には極秘とさ れ、1940年8月に陸軍大臣直轄の極秘機関である軍事資料部 となり、終戦に至るまで77名の中野学校出身者が勤務した。こ の数は、中野出身の割合から言えば、かなりの数であった。

▼後方勤務要員養成所が設立  

 防諜機関の設立とともに敵国に対して積極的な情報活動を行な うことを趣旨とする諜報・謀略機関の新設気運が高まった。しか し、当時の日本陸軍の謀略に関する考え方は「謀略は人によって 行なう」というものであり、科学性、合理性に欠けていた。つま り、「これを是正せよ」との要請が起きた。  

 そこで防諜機関設立の立役者となった岩畔、秋草、福本らを中 心に諜報・謀略要員を養成する機関の設立に向けての新たな取り 組みが開始された。  

 1937年秋、岩畔中佐は参謀本部に対し「諜報、謀略の科学化」という意見書を提出した。この意見書提出により、諜報・謀 略などの専門機関を設立するための準備が本格的に始動すること になる。  

 なお岩畔中佐は兵務局兵務課が新設された時(1936年8月) に、参謀本部第2部欧米課第4班所属替えになるが、同4班は1 937年11月に大本営の設置とともに新設された第8課(通称、 謀略課)になるので、これを見越した転属であったとみられる。  

 1937年12月、陸軍省軍務局の軍事課長・田中新一(19 37年3月に兵務課長から軍事課長に転出)が、秋草、福本、岩 畔を招き、「近代戦においては相手国からの秘密戦に対処する消 極的防衛態勢だけでは勝つことができないので、進んで相手国に 対する諜報、宣伝、防諜などの勤務者を養成する機関を早急に建 設する必要がある」として新組織の設立を検討するよう命じた。 かくして陸軍省が中心となって、かかる組織を建設するこことな ったのである。  

 秋草、福本、岩畔の3名は設立委員となり、訓育主任として満 州鉄道守備部隊から伊藤佐又(いとうさまた)少佐が馳せ参じた。 1938年1月に「後方勤務要員養成所」が設立され、同年7 月に1期生19名の入校を迎えることとなったのである。

▼中野学校の沿革は4つの段階に区分される  

 中野学校は、所属、所在地、教育目的などによって、「創設期」 「前期」「中期」「後期」の4つに区分される。

(1)「創設期(1938年1月~1940年8月)」  同期は「後方勤務要員養成所期」とも呼ばれる。1938年7月、 九段下牛ヶ淵の「愛国婦人会」本部内の集会場を使用し、甲種幹 部候補生・予備士官出身の第1期生19名(卒業生は18名)に 対する教育が開始された。第1期生は海外における長期勤務を想 定とした選抜であった。  

 秋草中佐が所長、福本中佐が同養成所の幹事に就任し、狭隘な 集会所が教室兼宿舎となり、学生が一同に起居する寺子屋式、私 塾的な体制であった。学生は陸軍兵器行政本部付兼陸軍省兵務局 付として入校させ、秘密戦の教育を開始した。そして翌年4月に は、旧電信隊跡地の中野区囲町に移転した。  

 1939年7月に第1期生が卒業し、同年11月に第1期生と 同じ出身母体の第2期の乙I長40名と、現役少尉を含む第1期 の乙I短70名、これに加えて陸軍教導学校で教育総監賞などを 受賞した優秀な下士官候補生から選抜された丙1・52名が入所 した。  

 ここでの長期の学生とは第1期生と同様に海外での長期勤務を 想定した要員であり、入校と共に別名が与えられた。教育施設内 では、国内外の既存情報機関勤務を想定した短期学生や丙1とは 相互往来は禁じられ、壁をもって仕切られていた。

(2)前期(1940年8月~1941年10月)  

 1940年8月「陸軍中野学校令」が制定され、後方勤務要員 養成所は、陸軍大臣直轄の学校として名称も陸軍中野学校に変更 された。施設や教育内容が急速に整備され、当初の私塾的な体裁 から抜け出ていった時期である。  

 初代校長に北島卓美少将が就任。1941年春に北島少将が東 部軍参謀長として転任したあと、1941年6月、陸軍省兵務局 長の田中隆吉少将が二代目校長となり(形式上)、同年10月、 ロシア駐在武官や参謀本部ロシア課長の経歴を有する川俣雄人少 将が校長として赴任した。 1940年9月には1甲、同12月には乙II長・短、丙2の学生が入校し、翌41年2月には、2甲、41年9月には3丙、3 戊の学生が入校した。

 なお、甲とは陸軍士官学校卒業者であり、秘密戦への転向を命 じられた初回の学生である。そして、3丙学生および3戊学生は 従来の乙学生および丙学生のことである。これは、後述のように 1941年10月の学生種別の変更にもとづき呼称が変わったた めである。  

 校門には「陸軍通信研究所」の小さい看板がかけられ、陸軍組 織上では「東部第三十三部隊」とされた。学生の通信の発送はすべて陸軍省兵務局防衛課の名称が使用された。  1940年12月から大東亜戦争が開始されたこの時期におい ては、創設期の教育課目に占領地行政、宣伝業務が加味され、戦 争対応への意識が高まった。

(3)中期(1941年10月~1945年4月)  1941年10月、陸軍兵器行政本部付から参謀本部直轄とな った。これにより、学生の種別も改正され、甲種学生(陸士出身 者)が乙種学生、乙種学生が丙種学生(予備士出身)、丙種学生 (教導隊出身)に新編成された。  この期に入校したのは4から7までの丙種学生と4から6まで の戊種学生、それに1から4までの乙学生、このほか遊撃(1・2)、 情報(司令部情報要員)、静岡県磐田郡二俣町に開設された二俣 分校の1期および2期である。(注:二俣は1期、2期と名称す るが、乙・丙・戊種については「期」と呼ばない)  

 1942年6月のミッドウェー海戦の敗北により、わが国は守勢に転じ、さら1943年2月のガダルカナル島撤退により、陸 軍参謀本部は遊撃戦(ゲリラ戦)の展開に踏み切ることにした。 そして1943年8月、中野学校に対して「遊撃戦戦闘教令(案)」 の起案と遊撃戦幹部要員の教育を命じ、この教令(案)は194 4年1月に配布された。  

 1944年8月、静岡県磐田郡に遊撃戦幹部を養成する二俣分 校が創設された。第1期生226名が陸軍予備士官学校を卒業等 して尉官学生(見習士官)として入校、約3か月の教育が行なわ れた。なお、この中にはフィリピンのルバング島で発見された小野田寛郎氏がいる。  

 これと前後して、1944年8月、陸軍参謀本部は中野学校に 対し、国土決戦に備えるため、教範『国内遊撃戦の参考』の起案 を命じ、1945年1月に『国内遊撃戦の参考』および別冊『偵察法、潜行法、連絡法、偽騙法、破壊法の参考』を配布した。教育内容は、残地蝶者教育、通信科目、遊撃戦などを重視するなど、 創設期および前期に比してかなり変更された。

(4)後期(1945年4月~1945年8月)  1945年2月、国内の各軍司令官に対し本土防衛任務が付与 された。同年4月、本土上空に対する空爆の激化に伴い、中野学 校(本校)は群馬県富岡町に疎開し、同地において遊撃戦幹部の 養成が行なわれた。  

 この期に入校したのは、8から10までの丙学生、7から8ま での戊学生、5乙学生、二俣分校の3期から4期の学生である。  

 遊撃戦教育とその研究に最重点がおかれ、それも外地作戦軍内 における遊撃戦にとどまらず、最悪の場合の本土決戦に備えてこ れを国内において敢行するための各種の訓練が開始された。また、 いわゆる「泉部隊」と称した国内遊撃部隊構想も一部着手された。  

 1945年8月、敗戦によって富岡町の中野学校本校と二俣分校は幕を閉じた。 (次回に続く)

わが国の情報史(39) 秘密戦と陸軍中野学校(その1) -秘密戦の本質とは何か- 今回から

▼はじめに

「わが国の情報史」の最終テーマとして陸軍中野学校について数回に分けて解説する。さて、陸軍中野学校では秘密戦士を育成した。秘密戦とは諜 報、防諜、謀略、宣伝のことであり、これらについてはその概要 を述べてきた。 したがって陸軍中野学校において行なわれた秘密戦の教育、秘密戦士の育成とはどういうものかは、およそイメージできると思うが、ここではもう一度整理したいと考えている。

また戦後、中野学校について、「謀略機関であった」「北朝鮮の情 報組織の母体になった」などの誤った風説が流されている。これについても追々是正していきたいと思う。

▼秘密戦の概要    

まず、復習になるかもしれないが、秘密戦という用語について解説する。なにやら、物騒な語感ではあるが、字義からすれば 「秘密の戦い」「非公然な戦い」「水面下の戦争」などというこ とになろう。  

1930年代末に創立された陸軍中野学校(以下、中野学校)で は、従来いわゆる情報活動や情報勤務といわれていた各種業務を総括して、創立後しばらくたった頃から、秘密戦と呼ぶようにな った。 ただし、その呼称は各地域により、また各軍により、必ずしも統 一的につかわれていたわけではない。(中野学校校友会編『陸軍中野学校』(以下、校史『陸軍中野学校』))

つまり秘密戦は中野学校による造語である。そこで当時の中野学校関係者が執筆した書籍などから、まずは秘密戦の全体像を把握 することとしたい。 中野学校教官であった伊藤貞利は、自著で次のように述べている。    

「秘密戦とは武力戦と併用されるか、あるいは単独で行使される 戦争手段であって、諜報・謀略・防諜などを包含している。諜報、 謀略、防諜が秘密戦と呼ばれるのは一体どういうわけだろうか。 それは一般的に言って秘密の「目的」を持ち、その目的を達成するための「行動」に秘密性が要請されるからだ」(伊藤貞利『中 野学校の秘密戦』) また、伊藤は次のようにも述べている。    

「謀略の場合には『目的』はあくまで秘密とするが、「行為」は 大びらに行わなければならないことが少なくない。例えばある秘 密目的を達成するためには物件を爆破・焼却したり、暴動を起こ したり、デモ行進をしたり、暴露宣伝を行ったりするなど、大び らな行動をするような場合が比較的多い」(前掲『中野学校の秘 密戦』)     伊藤著書から要点を整理すれば、秘密戦とは以下のようなもので ある。

◇目的が秘密であり、行動にも秘密性が要求される。

◇謀略のような一部の秘密戦における行動(行為)は公開されるが、 その場合でも目的は秘匿される。

◇武力を主体として行動が常に公開される武力戦とは対極をなす。 いわば非武力戦である。

◇武力戦と併用されるか、あるいは単独で行使される。   この中でもっとも重要な点は目的の秘匿性である。すなわち、目的が秘匿される戦い、これが秘密戦の本質である。

▼秘密戦の目的は何か?    

次に「秘密戦はいかなる目的は想定しているか、すなわち目的 は何か?」について考察したい。 校史『陸軍中野学校』によれば以下の件(くだり)がある。

「原始的な情報活動にはじまる諜報、宣伝、謀略、防諜などの各 種手法は、“姿なき戦い”として、洋間東西と如何なる国家の態 様たるとを問わず歴史と共に発達し進化し続けてきた。

これらの“姿なき戦い”は、平和な時代においては友好国間の修 好をより一層確実なものとするために、また敵性国家間との力のバランスを確保して、平和に役立つ働きをした。 ひとたび戦争を決意した場合においては、同盟国間の盟約をより 確実なものとすると共に、敵国を孤立せしめ不利な条件のもとに 誘い込むためにも役立てられた。

戦争段階における秘密戦の役割はさらに峻烈になるが、武力戦の ように戦争の主役になることはない。 武力戦よりもさらに根深く戦争のあらゆる場面の部隊裏で暗躍を 続け、ある時は敵の致命的部分に攻撃を集中し、ある時は和戦を 決する講和交渉の陰に強大な力をもって活動することになる。 だから、「秘密戦とは歴史に記録されない裏面の戦争」である。」 (校史『陸軍中野学校』)

 ここには、秘密戦が戦時も平時も行なわれるものであり、歴史の表沙汰にならない水面下で行なわれる戦争であり、戦争抑止や早期講和などにも貢献すると述べられている。 以上の記述から思い起こされるのは「孫子」の兵法である。

『孫子』第3編には、 「百戦百勝は、善の善なる者にあらず。戦わずして人の兵を屈す るは善の善なる者なり」「故に上兵は謀を伐つ。その次は交わりを伐つ。その次は兵を伐つ。その下は城を攻む」との記述がある。 『孫子』によれば、武力戦で勝利を得るのではなく、謀略や外交 謀略によって「戦わずして勝つ」のが最善である。

上述のように、ひとたび戦争が決意されれば、秘密戦は武力戦と 同時並行的に行なわれるが、その場合においも「戦わずして勝つ」 は継続して追求されることになる。つまり、武力戦のように敵国 戦力を物理的に破壊するのではなく、心理工作をもって敵国内に 不協和音や厭戦気運などを生起させて、早期に講和交渉などに持 っていくことが、秘密戦の目的となるのである。

ようするに秘密戦は、平時・戦時を問わず「戦わずして勝つ」を戦 略および作戦、戦術の全局面において追求する戦いであり、その 目的は「戦わずして勝つ」ことである。 この点については、中野学校出身者であり、今日も健在にて情勢研究の会を主催する牟田照雄氏(陸士55期)は「秘密戦とは、戦わずして勝つ」 である と喝破している。

▼秘密戦と遊撃戦との違い

中野学校の創設目的は秘密戦の戦士を養成することであった。しかしながら、大東亜戦争末期においては彼我戦力の優劣差が決定的となり、日本軍が守勢に立たされた。これは、1942年6月 のミドゥエー会戦あたりが分水嶺となり、43年2月のガダルカ ナル島の戦闘で決定的となった。

すると、参謀本部は1943年8月、中野学校に対し、遊撃戦教令(案)の起案及び「遊撃隊幹部要員の教育」を命じた。つまり、 中野学校の教育が「秘密戦士」から「遊撃戦士」の養成へと転換 されたのであった。

これに関して、前出の牟田氏は「秘密戦は戦わずして勝つである。 だから、日本が米国と戦争を開始して以降(1940年12月)の 中野学校の教育は、本来目指す教育ではなかった」旨と述べてい る。(平成28年度慶應義塾大学メディア・コミュニケーション研 究所都倉研究会『陸軍中野学校の虚像と実像』)

そこで、秘密戦をより明確に理解するために、遊撃戦についても言及しておこう。 校史『陸軍中野学校』は「遊撃戦」について次のように記述する。 「遊撃とは、あらかじめ攻撃すべき敵を定めないで、正規軍隊の戦列外にあって、臨機に敵を討ち、あるいは敵の軍事施設を破壊 し、もって友軍の作戦を有利に導くことである。  

したがって遊撃戦とは、遊撃に任ずる部隊の行う戦いであって、 いわゆる『ゲリラ戦』のことである。  

遊撃戦は、一見武力戦の分野に属するかのように見えるが、その内容は、一時的には武力戦を展開するが、長期的にはその準備お よび実施の方法手段を通じて主として秘密戦活動を展開する。し たがって遊撃戦の本質は、秘密戦的性格が主であって、武力戦的 性格が従である。  

遊撃部隊は、わが武力作戦の一翼を担い、少数兵力を以て、神出 鬼没、秘密戦活動と武力戦活動とを最大限に展開して、以てわが 武力戦を有利に導くのである。したがって遊撃部隊、わが綜合的 大敵戦力の増強に寄与するものである」(以上、引用終わり)  

以上から、遊撃戦は目的や行動において秘密戦的な要素が大きい、 また武力戦を有利にするなどの秘密戦との類似性がある。しかし、 以下の点が大きく異なることを理解しなければならない。

◇ 遊撃戦は平時には行なわれない。戦時において武力戦と併用 される。

◇ 秘密戦のように単独で目的を達成することはない。 わが国における現代の国土防衛戦に当てはめれば、秘密戦は平 時から単独で行なうことができるが、遊撃戦は防衛出動下令以降 に防衛作戦と連接して、その一環として行なわれることになる。

つまり、秘密戦は遊撃戦とは異なり、平時から単独で「戦わずして勝つ」との目的を達成する情報活動であるといえる。

▼秘密戦の形態

 すでに述べたとおり、中野学校では秘密戦を「諜報」「宣伝」 「謀略」「防諜」と定義した。すなわち、秘密戦はこれら4つの 形態を包含した情報活動である。 これら4つの用語については、明治以来の軍事用語としてすでに、 その淵源などを説明したが、もう一度、簡単にここで整理してお こう。

(1)諜報  相手側の企図や動性を探ること。公然諜報と非公然諜報にわけ られる。

(2)宣伝  相手側及び作戦地住民あるいは中立国などに対し、我に有利な形 成、雰囲気を醸成するために、ある事実を宣明伝布すること。

(3)謀略  相手側を不利な状態に導くような各種工作を施すこと。

(4)防諜  相手側がわが方に対して行なう諜報または謀略を事前に察知し、 これを防止すること。    

以上の4つの秘密戦の発祥や相互関係について校史『陸軍中野学校』における記述を、現代風に解釈すれば以下のとおりとなる。

情報活動とは内外の環境条件を広範囲に把握し、状況判断や意志 決定を行なうことを目的とする。この目的追求は、彼我ともに指向しているので、自ずと「敵の情報を知り、我の情報 を隠す」という情報争奪の闘いが開始される。

相手側が情報を隠 そうとするので、我は不完全な情報から総合的に判断することが必要となる。同時に非合法的な手段を用いて真相情報を入手する 必要性も生じてくる。これが諜報活動の本質である。

情報活動が平時の外交や武力的抗争の中においても重要な地位を占めるようになったことから、情報活動の多元性、複雑性が着目されるようになった。このため、情報操作による「宣伝活動」が 行なわれるようになった。またそれらの積み重ねによって、いわ ゆる「謀略活動」も可能であることが実証されるようになった。 さらに、相手国からのこれら各種の策謀を防衛するためには防諜も必要になってきた。

 ようするに、彼我の情報争奪の情報戦の中で、敵が厳重に守って いる情報を非合法手段によって獲得する必要性から諜報活動が発 達し、平時・戦時の活動において情報がより重要な役割を帯びるようになるにつれて宣伝や謀略が発達した。そして、それら活動 を守るために防諜が同時に発達したということである。

わが国の情報史(38)昭和のインテリジェンス(その14)   日中戦争から太平洋戦争までの情報活動(4)─       

▼はじめに

さて、前回まで、諜報、防諜、宣伝のお話をした。これに謀略を加えて、秘密戦である。よって今回は「謀略」のお話をすることにしよう。 なお、太平洋戦争開始後においては、実にたくさんの戦史書籍 が出回っており、情報の失敗という切り口でも、さまざまな見解 が存在する。浅学菲才な筆者がとうてい太刀打ちはできるものではない。よって、本シリーズも太平洋戦争開始以前までに留め、あと2 回ちょうど40回をもって終了したいと考えているが、テーマ次第ではもう少し長くなるかもしれない。

▼秘密工作とは何か?

まず謀略を理解するうえで、秘密工作とは何か?について、筆者の著書『情報戦と女性スパイ』(並木書房、2018年4月) より関連記事を抜粋する。

情報活動には以下がある。 ・積極的情報活動は情報を収集(獲得)する活動 ・情報を分析してインテリジェンスを生成する活動 ・情報やインテリジェンスに基づいて公然に行なわれる政策や外 交 ・水面下で行なわれる「カバートアクション」(Covert action、 一般に秘密工作と翻訳される)に区分できる。

さらに収集する活動は、外国の新聞、書籍、通信傍受などから 公然と情報を収集する「コレクション」(Collection)と、専門 の組織によって諸外国の活動を非公然に観察して情報を獲得する エスピオナージ(Espionage)に区分できる。  

カバートアクションには「宣伝(プロパガンダ)」「政治活動」 「経済活動」「クーデター」「準軍事作戦」がある。(ローウェ ン・ソール『インテリジェンス、機密から政策へ』)  

一方の消極的情報活動は、 ・受動的で公然的に情報を守る「セキュリティ・インテリジェン ス」(Security Intelligence)、 ・非公然で能動的に情報およびインテリジェンスを守る活動まで含む「カウンターインテリジェンス」(Counter Intelligence) に区分できる。  

秘密戦士を育成するための旧軍組織である陸軍中野学校では、 秘密戦を「諜報」「防諜」「宣伝」「謀略」の四種類に区分していた。諜報がエスピオナージ、防諜がカウンターインテリジェン ス、宣伝と謀略がカバートアクション(秘密工作)にほぼ該当することになる。  

しかし諜報、防諜、秘密工作には厳密な垣根はない。たとえば、 防諜のためには相手側の動向を探る諜報が必要となる。秘密工作 を行なうにも諜報によって相手側の弱点を探り、我が利する点を 明らかにしておくことが前提となる。 フランス駐留軍総司令部の将校として、第二次世界大戦に参加 した戦史研究家のドイツ人、ゲルト・ブッフハイトは「(情報活 動の)それぞれの専門分野は密接な関係にあるので、管轄範囲を明確に区分しようとすることはほとんど不可能に近い」と述懐している。(ゲルト・ブッフハイト『諜報』)  

秘密工作を情報活動の範疇に含めるべきではないという議論は ある。しかし、これは情報組織による活動がエスカレートする過 程で生まれてきたものだ。秘密工作は非公然、水面下で行なわれ るのが原則だから公式の政府機関や軍事機関は使えない。したが って、CIAやKGBの例をあげるまでもなく、各国においては 情報組織がしばしば秘密工作を担ってきた。伝説の元CIA長官 のアレン・ダレスは、「陰謀的秘密工作をやるには情報組織が最 も理想的である」(アレン・ダレス『諜報の技術』) 以上、抜粋終わり) と述べている。

▼わが国の謀略の淵源  

わが国では秘密工作を「謀略」という言葉で総称することが多い。では、その謀略について国語辞典をひも解くと、「人を欺く ようなはかりごと」と定義し、「謀略をめぐらす」「敵の謀略に 乗る」などの適用例と、「たくらみ、はかりごと・策謀・密某・ 陰謀・秘密工作・欺瞞工作・宣伝工作・プロパガンダ」などの同義語・類語が挙げられている。

また、謀略に相当する英単語は Conspiracy、Plot、Deceptionなどとなる。 謀略は本来、旧軍の軍事用語である。総力戦研究所所長などを歴任した飯村譲中将によれば、「謀略は西洋のインドリーグ(陰謀)の訳語であり、参謀本部のロシア班長小松原道太郎少佐(のちの中将)の手によるものであって、陸大卒業後にロシア班に入 り、初めて謀略という言を耳にした」ということである。  

そして、飯村中将は「日露戦争のとき、明石中佐による政治謀略に関する毛筆筆記の報告書がロシア班員の聖典となり、小松原中佐が、これらから謀略の訳語を作った」と推測している。  

しかし、「謀略」の用例については、1884(明治17)年 の内外兵事新聞局出版の『應地戰術 第一巻』「前哨ノ部」に 「若シ敵兵攻撃偵察ヲ企ツルノ擧動ヲ察セハ大哨兵司令ハ其哨兵 ノ報知ヲ得ルヤ直チニ之ヲ其前哨豫備隊司令官ニ通報シ援軍ノ到 着ヲ待ツノ間力メテ敵ノ謀略ヲ挫折スルコトヲ計ルヘシ」という 訳文がある。  

また「偕行社記事」明治25年3月第5巻の「參謀野外勤務 論」(佛國將校集議録)に「情報及命令ノ傳達 古語ニ曰ク敵ヲ 知ル者ハ勝ツト此言ヤ今日モ尚ホ真理タルヲ失ハサルナリ何レノ 世ト雖モ夙ニ敵ノ謀略ヲ察知シ我衆兵ヲ以テ好機ニ敵ノ薄弱點ヲ 攻撃スル將師ハ常ニ赫々タル勝利ヲ得タリ」という訳文がある。 (なお、上記「謀略」の用例と、偕行記事の訳文については、 『情報ということば』の著書小野厚夫氏から提供を受けた)  

したがって、日清戦争以前から「敵の謀略」という用法はあっ た。ただし、当時の陸軍の知識人として名高い、飯村中将をもってしても「謀略」にあまり馴染がないことに鑑みれば、日露戦争以後になって、謀略という言葉が軍内における兵語として逐次に 普及するようになったとみられる。

▼軍事教典における謀略  

昭和に入り、1925年から28年にかけて作成された『諜報 宣伝勤務指針』において次のように定義された。 「間接或いは直接に敵の戦争指導及び作戦行動の遂行を妨害する目的をもって公然の戦闘若しくは戦闘団体以外の者を使用して行 なう破壊行為若しくは政治、思想、経済等の陰謀並びにこれらの指導、教唆に関する行為を謀略と称し、之がための準備、計画及 び実施に関する勤務を謀略勤務という」  

このほか、『統帥綱領』(1928年)では以下のように記述され ている。 第1「統帥の要義」の6 「巧妙適切なる宣伝謀略は作戦指導に貢献すること少なからず。 宣伝謀略は主として最高統帥の任ずるところなるも、作戦軍もま た一貫せる方針に基づき、敵軍もしくは作戦地域住民を対象とし てこれを行ない、もって敵軍戦力の壊敗等に努むること緊要なり。 殊に現代戦においては、軍隊と国民とは物心両面において密接な る関係を有し、互いに交感すること大なるに着意するを要す。敵 の行う宣伝謀略に対しては、軍隊の志気を振作し、団結を強固に して、乗ずべき間隙をなからしむるとともに、適時対応の手段を 講ずるを要す。」

『統帥参考』(1932年)では以下のように記述されている。 第4章「統帥の要綱」34 「作戦の指導と相まち、敵軍もしくは作戦地の住民に対し、一貫 せる方針にもとずき、巧妙適切なる宣伝謀略を行ない、敵軍戦力 の崩壊を企図すること必要なり」  

以上のことから、謀略は暴力性、破壊性、陰謀性の要素が大き く、宣伝謀略という複合単語の存在から、宣伝と謀略は一体的に行な ってこそ効果があるという認識が持たれたのである。

▼謀略課の新設  

1937年7月の支那事変の勃発により、わが国は戦時体制へと移行した。しかし、近代戦には必要不可欠とされた宣伝、謀略、 暗号解読、その他の特殊機密情報を扱う機関は、課にすらなっておらず、わずか数人の参謀将校が細々と第2部第4班として、よ うやく存在を保持していた。  

そこで、1937年秋に第4班を独立の課に昇格する案が検討 された。同年11月に陸軍参謀本部及び海軍軍令部をもってその まま最高統帥機関たる大本営が設置され、その下に陸軍部及び海 軍部が設置された。  

参謀本部第2部は大本営陸軍部第2部となり、外国における諜 報機関(特務機関)を臨時増設し、外国における秘密戦を展開することになった。 大本営の設立と同時に第2部に宣伝謀略を担当する課として、 大本営陸軍参謀部第8課(宣伝謀略課)が新設された。支那事変 の早期解決を図るため、参謀本部はこのような課の設置の必要性 に迫られたのである。  

それまでは、各国に駐在する大(公)使館の武官からの報告を唯一のインテリジェンスとしていたが、8課でも独自に国際情勢の判断、宣伝、謀略の3部門を扱うことになったのである。  

初代の第8課長には中国通の砲兵大佐・影佐禎昭(陸士26期) (かげささだあき、最終階級は陸軍中将)が補せられた。なお、 谷垣禎一・元自民党総裁の母方祖父が影佐大佐である。

▼謀略の特質  

ところで、謀略とはどのような特質を有するのか? 謀略とは秘密戦の構成要素であり、それは武力戦と併用されるか、あるいは単独で行使される。  

諜報、謀略、宣伝、防諜が秘密戦と呼ばれるのは、それは秘密の「目的」を持ち、その目的を達成するための「行動」に秘密性 が要請されるからである。 ただし、謀略の場合には「目的」はあくまで秘密とするが、 「行為」は大胆に行なわなければならないことが少なくない。たとえばある秘密目的を達成するためには、物件を爆破・焼却した り、暴動やデモ行進をしたり、暴露宣伝を行なったりする必要がある。  

秘密戦の究極的な目的は、「戦わずして勝つ」ことにある。つまり、武力戦を回避するために、平時においては敵性国家間との力のバランスを確保して、戦争を抑止するとともに、開戦を決意 した場合においては、同盟国間の盟約をより確実なものとすると共に、敵国を孤立さて不利な条件のもとに誘い込む、早期の停戦 合意の契機を作為するなど、知的策謀を働かせることにある。  

秘密戦の「攻」の部分は、諜報、宣伝、謀略からなるが、諜報及び宣伝はあくまで秘密戦の前提行為としての性格を有するのであって、それ自体が独立して存在する戦闘的破砕行為ではない。  

したがって、秘密裡の戦闘においては、まず諜報をもって敵情を明らかにする、ついで宣伝により、我の有利となるよう謀略の正当性と事前に確保し、謀略の効果を助長する基盤を構築する。そのうえで謀略をも って敵を破砕することが原則なのである。 つまり、諜報、宣伝は謀略のための補助手段であって、謀略こそが秘密戦 における主体なのである。    

謀略は遥かに実力が上回る相手には通用しない。この点は歴史的に明らかである。 智慧を働かせて、敵兵力を謀略により次々と破った楠木正成であったが、大兵力を結集した足利尊氏には結局は適わなかった。

日本軍は謀略的な戦いによって真珠湾攻撃で幸先の良いスター トを切ったが、結局は米国の経済力、米軍の物量戦の前には適わなかった。 つまり、謀略は対等もしくは対等より少し上の相手には通用するが、謀略には限界があることを認識しなければならない。 なんでもかんでも謀略に依存するのは愚の骨頂である。

▼わが国の戦後における謀略に対する認識  

戦後になって、わが国では謀略がタブー視されている。日中戦 争が“卑怯なだまし討ち”、すなわち謀略によって開戦され、結局は太平洋戦争 における不幸な敗戦という結末を迎えたという認識がその根底にある。

謀略からイメージされるのが1931年の満洲事変である。 戦後の歴史認識において満洲事変は、「中央の日本政府や軍首脳 の承諾もなく、関東軍中枢の軍人によって計画され、実行された謀略であった」と語られる。  

通説によれば、「当時、関東軍は満洲にある中国軍拠点を攻撃 し、満洲全土を占領して満洲権益をより確実にしようと企んでい た。しかし、政府の承認を得るのは容易でなかったので、満洲鉄 道での爆破事件を作為し、この犯人を中国人であるかのようにでっちあげた。これによって被害者の立場を喧伝し、戦争大義を獲 得した」とされる。  

満洲事変がのちに太平洋戦争へと発展し、敗戦という憂き目に あうことになる。つまり、“卑怯なだまし討ち”である謀略が敗因の最大原因であった、という文脈で語られてきたのである。

だからこそ、謀略は二度と起こしてはならないと強くタブー視 されることには説得力がある。そして謀略を研究することはおろか、謀略を語ることだけでも“危険思想”としてみられかねない。

▼ 謀略の言葉の淵源  

しかし、中国において謀略は卑怯なもの、との認識はない。む しろ、謀略を効率的な戦法、「戦わずして勝つ」ことを実現する、 血を流さないきれいな戦い、「智慧の戦い」として称賛される傾向すらある。 されゆえに「謀略」を冠する書籍が巷に多く流通している。

「謀略」という言葉は中国では古代から用いられていた。もとも と「謀略」という言葉がいきなり登場したのではなく、「謀」と 「略」が異なる時代に登場し、いつのまにか一体化して用いられるようになったようである。なお、中国の『説文大字典』によれ ば、謀の登場は略の登場よりも一千年早く登場したようである。  

同字典では、「謀」は「計なり、議なり、図なり、謨なり」と され、古代ではこれらの言葉は非常に似通った意味で使用された ようだ。『尚書』では謨が登場するが、この字の形と読音が謀と 似通っており、謨が謀に発展したとみられている。   

なお「謀」が中国において最初に使用されたのは『老子』の 「不争而善勝、不言而善応、不召而自来、?然而善謀」である。こ こでも「戦わずして勝つ」という謀略の重要性が説かれている。

そして『孫子』謀攻篇においては、「上兵は謀を伐ち、その次 は交わりを伐つ」と記述され、「謀略」は敵を欺き、「戦わずし て勝つ」ことの意味で用いられた。なお、『孫子』における「計」 「智」「略」「廟朝」、『呉子』における「図」などは謀の別称 といえる。  

中国では古来、才能有徳の士を「君子」と尊称し、その君子が 事前に周密な計画を立てることを「謀」といった。これを政治・ 軍事面で用いた言葉が「謀略」である、との見解がある。  

つまり、謀略は策謀、智謀の代名詞であり、そこには決して卑 怯的な要素はないのである。つまり、中国はどうどうと謀略を実 施し、それは国民から称賛される。そして現在の国際政治におい て、中国は積極的に謀略工作を仕掛けることを得意としているのである。  

▼わが国においても謀略研究は必要

わが国が、謀略の失敗によって敗戦に至ったことは十分に反省 して、二度と無謀な謀略を繰り返してはならない。 しかし、近隣の大国である中国における謀略の解釈等を鑑みれ ば、わが国が謀略をタブー視して、これから目を背ける訳にはい かないだろう。 少なくとも、周辺国等による謀略に対処するための、謀略研究 は必要ではないだろうろうか。