わが国の情報史(1)

情報という言葉の定義

情報という言葉がわが国で初めて定義されたのは1876年(明治9年)に酒井忠恕陸軍少佐が翻訳した『佛國歩兵陣中要務實地演習軌典』(内外兵事新聞局)においてである。同書では情報は「情状の知らせ、ないしは様子」という意味で使用された。つまり、情報は敵の「情状の報知」を縮めたものであった。

 その後1882年に『野外演習軌典』(陸軍省)において「情報」が初めて陸軍の軍事用語(兵語)として採用された。1901年にはドイツから帰国した森鴎外が、ナポレオンの軍事将校として勤務したカール・フォン・クラウゼヴィッツの『戦争論』を翻訳(大戦学理)した際、情報とは「敵と敵国に関する我が知識の全体をいう」と訳した。

 このように、わが国における情報という言葉の登場は明治になってからであるが、情報活動というものは戦いの歴史とともに発足している。情報活動の歴史を説くものとして紀元前13世紀の『旧約聖書』がある。ここでは、古代イスラエルの民族指導者であったモーゼが、200万人のユダヤ人を引き連れてエジプトを出発し、目的地であるカナン(現シナイ半島)に入城するに際し、12人の斥候に、敵情と地形の偵察を命じた、との物語が語られている。かように、戦いと情報あるいは情報活動との関係は密接不離なのである。

わが国における情報活動の起源と八咫烏および金鵄

 わが国においても古事記や日本書紀の神話や伝説の中で情報活動の歴史が語られている。日本神話における神武天皇(じんむてんのう)の東征に際して、八咫烏(やたがらす)が、高皇産零尊(たかむすび)によって天皇のもとに遣わされ、熊野から大和の橿原まで天皇を案内したとされている。

ただし、『日本書紀』では、同じ神武東征の場面で、金鵄(金色のトビ)が長髄彦が(ナガスネヒコ)との戦いで神武天皇を助けたともされるため、八咫烏と金鵄がしばしば同一視ないし混同されている。八咫烏は三本脚の鳥である。戦前の1939年(昭和14年)には日中戦争の従軍徽章の意匠として採用された。なお、この時には八咫烏は三本足ではなく二本足であった。

今日では日本サッカー協会のシンボルマークとして採用されているほか、陸上自衛隊中央情報隊以下の情報部隊の部隊記章として採用されている。ゴールにボールをよく導く、戦いを情報によって勝利に導くとの願いがこめられているのであろう。

一方の金鵄は戦前には金鵄勲章などに用いられた。これは戦後に陸上自衛隊調査学校の学校徽章として採用された。この校章の意義として、「この鳥は大嘗祭において天皇を導く燭であり、また戦いの先導であって武勲の象徴である。これは情報の使命である先見洞察を意味し、特に情報の伝統的象徴と言うべきである」(ウィキペディア)と説明されている。この調査学校こそは、筆者が青年将校の時代、インテリジェンスの基礎を築いた学び舎である。すなわち、筆者自身も金鵄や八咫烏の神話には慣れ親しんできた。

このほか八咫烏、金鵄、さらには金烏(きんう)の存在などには諸説あって確かではないが、いずれにせよ、日本の神話や伝説が古代の歴史に溶け込み、それが途絶えることなく後世に語り継がれ、現在に至っているのである。このことは、戦いにおける情報活動の重要性が認識され、戦いの歴史とともに情報活動が発展してきたことを物語るものであるといえよう。

▼後世に影響を与えた『孫子』の兵法

長い世界の歴史の中で、情報活動の研究において嚆矢とされるのは『孫子』である。『孫子』は、今から2500年前、中国の激動の春秋戦国時代において、名将・孫武によって書かれたとされる。

孫武は斉(いまの山東省)の生まれで、呉(いまの江蘇省)の将軍であった。司馬遷の『史記』では「呉が楚を破り、斎や晋を脅かし、天下に名をとどろかせたのは、孫武の働きによるところが大きい」と記されている。

『孫子』は「最強の兵法書」と呼ばれるに相応しく、今日、洋の東西を問わず、時代を超えて世界中の軍事理論に影響を与えている。また、組織統率論や企業経営における参考書としても活用されている。

他方で『孫子』は至高のインテリジェンス教科書でもある。『孫子』の軍事情報理論は唐代の『通典』(つてん)のなかの「兵典・間諜」篇においても引用されている。同じく唐代の著名な兵法家である李靖(りじん)が記した『李衛公問対』は『孫子』が説く情報活動を体系化したものである。清代の朱逢甲による『間書』は中国初の情報専門の兵法書であるが、これも『孫子』の軍事情報理論を基に編纂されたものである。

米国CIAの元長官アレン・ダレスや西ドイツのインテリジェンス・マスターであったラインハルト・ゲーレンの回顧録においても『孫子』が引用されている。このように『孫子』は中国のみならず世界のインテリジェンスに大きな影響を及ぼしたのである。こうした背景から、わが国の情報史を見ていくうえで、『孫子』の日本への伝来などを研究することは、日本書紀や古事記に対する研究と同じように重要なことだと考える。

▼『孫子』の伝来

第二の説は「朝鮮伝来説」である。663年の白村江の戦い以降、百済から複数の兵法家が来日し(ただし、当時は倭の国と呼称され、日本になったのは白村江以降から8世紀までの間とされる)、兵法を教授したとされるが、それが『孫子』の兵法であったとみる説である。

白村江の戦いから、57年後の720年に編纂された『日本書紀』においては、『孫子』の「始計篇」や「虚実編」に出てくる「出其不意」や「赴其所不意」の引用とみられる箇所がある。

第三の説は、遣唐使の吉備真備(きびのまきび)が唐から持ち帰ったとする説である。吉備真備は、717年に遣唐使として唐に到着し、35年までの18年間にわたり唐に滞在し、ここで『孫子』や『呉子』などを学んだとされる。帰国後、これらの文献を朝廷に献上し、その後、『孫子』の兵法研究が開始されたとみられている。

さらに吉備真備は754年に、二度目の渡唐から帰朝した後で大宰府に派遣されるが、ここで760年、大宰府に派遣された6人の下級武士に諸葛孔明の「八陣の法」や『孫子』の「九地」を教えたとされる。吉備真備は764年、藤原仲麻呂(恵美押勝)の叛乱をわずか数日で鎮圧した。、ここには『孫子』の軍事情報理論が活用されたとみられる。

その後、『孫子』は長い間の秘蔵家伝の時代を迎えることになるが、この間には、日本独自の兵法書『闘戦経』の編纂や、陸軍中野学校の精神的支柱たる楠木正成の卓越した情報活動を見ることができる。さらには、わが国の情報活動の発達の歴史においては忍者や陰陽師の存在も無視できない。

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