わが国の情報史(8) 

鎖国体制の確立と三大風説書

▼ イギリスから来た諜報員

1598年、オランダ商船団は新たな貿易相手国を求めて大西洋を渡り、マゼラン海峡を通ってチリに向かった。しかし、折からの暴風、食糧欠乏と病気で、チリを出港する頃には衰弱の極に達していた。

1600年2月、そのようなオランダ商船団が帰国の途にいている頃、1隻の船が船団から離れて日本に向かった。その乗組員は日本については一片の知識もなかったが、日本において毛織物の需要があることは知っていた。その船とはリフーデ号である。

リフーデ号は逆風にあおられ、重大な損傷を受けたまま日本沿岸を漂流した。そして、日本漁船によってその漂流船とオランダ船員が保護されることになった。その中に水先案内人のイギリス人であるウィリアム・アダムズがいた。彼はのちに日本人女性と結婚して三浦按針(みうらあんじん)と名乗ることになる。

  リフーデ号が保護されて数日後、幕府はイエスズ会の宣教師を連れて漂流者の下を訪れた。宣教師はすぐにアダムズに注目して、彼に対する事情聴取を行った。アダムズは宣教師に対し、日本側に毛織物を渡すかわりに、船の修理が終わったら本国に帰れるように食糧や水を提供してほしいと伝えた。

ところが、それ以前から少数ながら日本にいたスペイン・ポルトガル人はイギリスやオランダが交易に割り込んでくるのを警戒した。また、カソリックの普及を試みるスペイン、ポルトガルからすれば、プロテスタントのイギリス、オランダは排除すべき存在であった。だから宣教師は、「交易はポルトガルの代表を通して行わなければならない」と応じた。しかし、アダムズは日本人以外の誰とも交渉しないと明言した。

  これに激怒した宣教師は、アダムズの話の要点をスペイン、ポルトガルの両代表者に伝えた。二人は結託し、幕府がアダムズやオランダ人の船員を即刻追放するか、あるいは処刑するよう企んだ。

しかし、家康は別の世界からきたアダムズを客人としてもてなし、新しい知識を吸収することが、幕府の繁栄につながると判断した。だから、スペイン・ポルトガルの両代表者の助言を一蹴した。洞察力鋭い家康は、両代表者に潜む邪悪のたくらみをたちまち見抜いたのである。ただし、天下統一を巡って鎬を削る西軍との戦いを間近に控えていた家康は、すぐには決断を下さず、オランダ船員らの処刑はしばらく待つように命じた

家康は関ヶ原の合戦(1603年)に勝利し、意気揚々自城に凱旋した。オランダ船の乗員が家康の前に引き出されたとき、またしてもスペイン人とポルトガル人は、彼らを処刑するか、さもなければ国外追放すべしと要求した。しかし、家康はこれに断固として応じなかった。ぎゃくに家康はアダムズの頭脳明晰さに感銘を受け、彼を江戸に招いて外交・貿易の顧問としたのであった。

家康は、アダムズが帰国することは許さなかったが、アダムズを厚遇し、最高の助言者にして情報提供者としてもてなした。彼は家康に航海術や数学などさまざまな知識を伝授した。また、スペインやポルトガルが何かを企んでいると察知した場合、アダムズに複数の日本人配下につけて、スペイン・ポルトガル人らの意図や動向を探らせた。家康はアダムズを諜報員として運用し、スペイン・ポルトガルの動向を探った。一方で、アダムズを使ってイギリス・オランダという新たな世界の扉を開放したのであった。

▼ 鎖国状態の完遂

こうしたアダムズの活躍があって、オランダは1609年に、イギリスは1613年に幕府から許可を得て平戸に商館を開いた。一方、家康は朝鮮や琉球王国を介して明との国交回復を交渉したが、明からは拒否された。

家康は当初、スペインやポルトガルとの貿易にも積極的であった。しかし、貿易を通じて西国の大名が富強になることや、キリスト教の布教によってスペイン・ポルトガルの侵略を招く恐れを感じるようになった。またキリスト教の信徒が信仰のために団結することを懸念し、家康は1612年にキリスト教の禁令を発出した。

家康が死亡する1616年には、中国船を除く外国船の寄港地を平戸と長崎に制限した。23年に将軍職に就いた三代将軍・徳川家光は閉鎖主義を強めた。24年にはスペイン船の来航を禁じた。

さらに35年には日本人の海外渡航を禁止した。島原の乱(1637年)の後にはポルトガル船の来航を禁止(1639年)し、欧州の国で残ったのはオランダとなった(イギリスは1923年にオランダとの競争に敗れ商館を閉鎖して引き上げたが、これは幕府による措置ではなかった)。1941年には、そのオランダの商館を出島に移し、長崎奉行が厳しく監視する“軟禁状態”においた。こうして幕府は“鎖国状態”を完遂した。

以後、日本は200年余りのあいだ、オランダ商館(出島)、中国の民間商船、朝鮮国・琉球王国・アイヌ民族以外との交渉を閉ざすことになったのである。鎖国により貿易は長崎(出島)に絞られ、それも中国とオランダに限定された。そのため、中国とオランダは、徳川幕府が世界について知見を得るための重要な情報源となった。

▼ 唐船風説書

当時、長崎奉行が中国人やオランダ人から得た情報をまとめたのが「風説書」(ふうせつがき)である。風説書は、長崎から江戸に送られ、厳重に保管・管理され、大老、老中、若年寄らの一部の高級武士しか閲覧が許されなかった。特別に重要な風説書は将軍のみにしか閲覧が許されなかった。すなわち、幕府にとって貴重な秘密の海外情報であった。

中国人から得た情報を纏めたものを「唐人風説書」あるいは「唐船風説書」という。学者である浦兼一著『華夷変態解題』(1955年3月)によれば、唐人(船)風説書は1644年(正保元年)から1724年(享保9年)にかけて現存したようである。

江戸時代においては中国人を「唐人」、中国船を「唐船」、中国との貿易を「唐船貿易」や「唐人貿易」と称していた。中国人との通訳にあたったのが「唐通詞」という役人であった。唐通詞は唐船が入港してから寄港するまでの過程においてさまざま業務に携わった。唐人から海外情報を収集し「風説書」を書くのも唐通詞の仕事であった。なお唐通詞は中国語を話せなくてはならなかったため、原則的に唐人あるいは唐人の子孫が就いた。

唐風説書には一定の形式があってわけではなく、口述のメモ書きが大部分であった。これがのちの1732年に、林春勝、信篤父子によって『華夷変態』(かいへんたい)として編纂された。なお、この著の由来は、漢民族の王朝である明が、満州族(女真族)の清に打倒(1662年)されたことを、中華が夷狄(いてき)に打倒されて変貌を余儀なくされているととらえたものである。

 幕府は唐人風説書から中国の政治、経済、社会情勢のほか、医学、薬学、植物、動物などの科学知識も入手した。

▼ オランダ風説書

一方、オランダ船の来航のたびにオランダ商館長が提出するものを「オランダ風説書」という。この風説書は、商館長(カピタン)が口述したものを、通詞(通訳)が日本語に翻訳して作成した。これが海外の情報を知るための貴重な情報源となった。1644年(正保元年)から1856年(安政3年)までの213年間には、計250件の「オランダ風説書」が現存した。

同風説書の内容で最も重要なものはスペインとポルトガルに関する情報であった。なぜならば、幕府はスペイン・ポルトガルがキリスト教の布教によって日本を侵略することを強く警戒していたからである。その後は逐次に情報関心が欧州、インド、中国などに拡大して、これらの内容もオランダ風説書に含まれていった。

  オランダ風説書は唐人風説書よりも重要度が高く、オランダ船が入港するとすぐに飛脚を飛ばし、その情報は江戸に伝えられた。幕府はオランダ風説書によって、西欧の情報を知った。

また、オランダ商館長が自ら将軍の下に参上する機会を設定し、幕府はこれにより西欧の情報を得た。1633年からオランダ人の江戸参府(さんぷ)が定期的に行われ、それ以降、あわせて167回の参府のうち150回くらいまでは、毎年1回の参府であった。

▼ 別段風説書

長崎で作られるオランダ風説書のほかに、パタヴィア(インドネシアの首都ジャカルタのオランダ植民地時代の名称)の植民地政庁で作られた風説書を「別段風説書」という。この風説書は、植民地政庁がアヘン戦争の影響を幕府に知らせて方が良いと判断したことから、1840年から提供された。

別段風説書はオランダ語で作成され日本語に翻訳された。1845年までの別段風説書は主としてイギリスと清国とのアヘン戦争の関連情報が書かれていた。しかし、46年からは、アヘン戦争関係に限らず、世界的な情報が提供されるようになった。

以上のように、日本は1639年のポルトガル船入港禁止以来、ペリーの黒船が来航(1853年)し開国を迫るまで、ずっと鎖国を続けたが、アダムズ、カビタン、風説書などによって海外情報を入手する努力は続けていた。

▼ 鎖国時代においても世界の重大事件のことは知っていた

むろん、主な情報源は中国、オランダといった限定的なものではあったが、1789年のフランス革命のこともオランダ風説書により知っていた。そして1952年には、アメリカのペリーが翌年に来航(1953年)することも知っていた。

海外への大いなる関心はあったが、キリスト教の普及によって日本が侵略されること、そして海外貿易によって各地の大名が権力基盤を増大させて、幕府の安定を損なうことを警戒し、鎖国主義を取らざるを得なかった。

結果、260年の安定政権が継続し、国内では絢爛たる日本文化が栄えたことを見るならば、江戸幕府は決してインテリジェンス音痴ではなかったということがわかろう。

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