わが国の情報史(6)

天下統一を達成した豊臣秀吉

▼情報家として出世街道を歩み始めた豊臣秀吉

豊臣(羽柴)秀吉は、尾張の地侍の家に生まれた。織田信長に仕えて次第に才能を発揮し、出世魚のように木下(藤吉郎)→羽柴→豊臣と苗字を改め、どんどんと出世し、やがて信長の有力家臣になった。

秀吉は、まず今川家に仕えるが出奔(しゅっぽん)し、信長に仕える。信長は1560年の桶狭間の戦いで今川義元を破り、天下に名を知らしめるが、この時、織田軍のなかに秀吉がいたことは確かである。

秀吉は当時24歳、信長に仕えてまだ2年程度であり、おそらく足軽組頭をしていたとみられている。

ただ、対今川の情報収集の担い手の一人であった可能性は高い。戦国時代の史料である『武功世話』も、秀吉が駿河と三河といった今川領の事情に詳しかったことを伝えている。

つまり、秀吉が情報家として、信長の目に留まった可能性がある。これがのちのおおいなる出世の切っ掛けになったのだから、秀吉は戦における情報の価値を十分に認識したとみられる。

▼天下統一を達成した豊臣秀吉

秀吉が天下統一の歩みを開始するのは、織田信長の亡き後である。まず1582年、山城の「山崎の合戦」で、信長の敵となった明智光秀を討った。翌83年に信長の重臣であった柴田勝家(しばたかついえ)を賤ヶ岳(しずがだけ)の戦いで破り、大阪城を築いた。84年に尾張・長久手の戦いで織田信勝(のぶかつ、信長の次男)・徳川家康連合軍と戦った。この戦いは引き分けた。

1585年、朝廷から関白に任じられ、長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)をくだして四国を平定し、86年に太政大臣に任じられ、豊臣の姓を与えられた。

そして、全国の戦国大名に停戦を命じ、その領国の確定を自らの裁量に従うよう強要した。これに違反したとして、87年に九州の島津義久を討った。90年に小田原の北条氏政を滅ぼし、同年に東北地方の伊達政宗を服属させ、ここに全国統一を成し遂げたのである。

▼秀吉の軍事的勝利を支えたもの

 秀吉は戦いにおける情報の価値を認識し、相手の弱点を捉え、謀略や外交交渉による「戦わずして勝つ」を追求した。

つまり、秀吉の軍事的勝利は、戦場での戦略に劣らず、敵に関する情報収集と、事前の周到な計画に負うところが大であった。彼は「孫子」の教訓に従ったが、これを独創的で巧妙極まる形に応用したのである。

 彼は、全国各地の情勢を把握するために、大勢の間諜からなる集団を組織して、全国津々浦々に間諜を派遣した。間諜はリレー方式により、秀吉のもとに最新の情報を届けた。現代でいう通信・連絡組織を確立した。

秀吉を支えた二人の有名な軍師がいる。その一人は美濃の国の竹中半兵衛(重治)である。半兵衛は当初は織田信長に敵対する斎藤家に仕えていたが、のちに信長側に寝返った。

秀吉がまだ信長の家来であった時、近江(おうみ)の浅井長政の攻めを担当した(1573年9月)。この際、半兵衛は秀吉に仕え、近江・美濃の国境に近いところの領主だった堀次郎の寝返りを成功させた。この内応が引き金となり、連鎖反応のように浅井家の家来が次々と寝返り、ついに浅井氏は戦う前から負けていたというわけである。以後、半兵衛を軍師として得た秀吉は、ますます謀略(調略)を重視するようになった。

▼秀吉、九州を平定す

 秀吉の九州征伐は、年表では1587年のことである。しかし、戦いそのものは1584年から始まっていた。

 この九州の平定においては、秀吉の諜報・謀略の才が如何なく発揮された。秀吉は間諜に命じて、より多くの情報を集めさせるだけでなく、住民の士気を挫く宣伝活動をさせるために、わざわざ進攻を1年以上も遅らせた。

また、彼が要求して入手した情報は、その土地の詳細な描写と地図、作物の収穫状況、食糧事情にとどまらず、大名とその軍隊との関係に関する報告も含まれていた。つまり、大名の家来を如何にして寝返らせるかといった視点からの内実情報を求めたのである。

この九州の平定において、1514年10月にこの地に派遣したのが、半兵衛に勝るとも劣らない、もう一人の軍師の黒田官兵衛である。

 官兵衛は、北九州の諸大名に対して、「味方になれば本領を安堵しよう」、しかし、「敵対すれば、来年、秀吉殿が大軍を率いて攻め込んでくるので、滅亡させられるだろう」と脅した。

「本領安堵」という言葉に誘われて、諸大名は早々と秀吉に投降した。しかし、これは秀吉の詭弁であった。投降した一部の大名は無情にも転封(てんぽう、所領を別の場所に移すこと)を命ぜられた。

たとえば、豊前の国(ぶぜん、福岡県東部から大分県北部)の勇猛な武将である宇都宮鎮房(城井鎮房、きいしげふさ)は、官兵衛の求めに応じて秀吉の九州平定に協力したが、豊前の治めを任されたのは官兵衛であった。秀吉は鎮房に対し、伊予の国(愛媛)に転封を命じた。鎮房はこれを不服として官兵衛に立ち向かったが、鎮房は結局、謀殺されてしまった。

このように、秀吉は諜報・謀略を駆使して全国統一を進めたのであった。

▼秀吉、キリスト教禁止令を出す

 1590年、秀吉は宿願の日本統一を果たした。その後、徳川家康と同盟を結んだあと、海外に目を向け、日本からベトナム、マニラ、シャム向けの船積みを許可しはじめた。

 その頃、1549年に日本に初渡来したキリスト教宣教師たちは次々と日本人を改宗していった。秀吉は信長と同様に最初は、宣教師たちの布教を奨励した。しかし、長崎がイエズス会領となっていることに危機感を覚え、1587年7月、筑前箱崎において伴天連(バテレン)追放令を発令する。そして「スペイン国王がキリスト教宣教師をスパイに利用して、布教により他国を制圧していく」という話を聞き及び、ついに96年にキリスト教禁止令を発令し、ヨーロッパ人宣教師6名と日本人信者20名を処刑した。

スパイを利用して布教により他国を制圧する、これはまさに秀吉が天下統一のためにとった調略そのものであった。それゆえに、誰よりも布教による間接的侵略の恐ろしさを、秀吉は熟知していたのだろう。

 とはいえ、その後も秀吉は長崎での南蛮貿易を許可し、キリシタン大名である黒田孝高(くろだよしたか、黒田如水)と小西行長(こにしゆきなが)を大いに利用した。おそらくは、秀吉は一定のパイプだけは確保し、相手側の情報を入手する必要性を認識していたのだろう。

 話はそれるが、我が国は北朝鮮に対する制裁によって、北朝鮮との人的交流を自ら遮断した。このため、北朝鮮に対する高質のヒューミント情報を得られなくなったという。つくづくインテリジェンスは奥が深い。

▼秀吉、朝鮮出兵で敗北

 秀吉は1592年から98年にかけて2度にわたって朝鮮出兵を行った(文禄・慶長の役)。秀吉は朝鮮半島を経由して明に攻め込もうとした。この計2回の出兵で、秀吉は有力な配下の武将が率いる15万以上を派兵した。

92年の文禄の役は、当初は“破竹の勢い”であり、1か月で京城(ソウル)を攻め落し、2か月で北朝鮮のほぼ全域を支配した。しかし、明軍の援軍により、侵攻は停滞した。

秀吉はいったんは「和議」を結び派遣軍を撤退させたが、再び97年に朝鮮半島に軍を派遣した。しかし、秀吉は98年に病死し、派遣軍は朝鮮半島から撤退した。

この長期に及んだ遠征は惨憺たる失敗に終わった。この無謀ともいえる朝鮮出兵をなぜ秀吉がおこなったのか、諸説あって、真実は依然として謎である。

 一つの説ではあるが、秀吉は当時のスペインをはじめとするアジアへの侵略を阻止するため、日本の支配権を拡大し、軍事力を誇示することで対抗しようとした、との見方もある。

 ただし、伝えられる秀吉の数々の奇行から察するには、私利私欲にかられた無意味な戦いであったように思われる。

ともあれ、これにより、豊臣方は膨大な資金と兵力を損耗し、勢力を温存した徳川にとってかわられることになる。

インテリジェンスに長けた武将、豊臣秀吉であっても権力を握ると周りが見えなくなる。孫子でいう敵を知ること以上に己を知ることができなくなるのである。客観性を失えば、もはや有用なインテリジェンスを生まれないということであろう。

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