楠木正成、湊川の合戦で死す
後醍醐天皇による建武の中興は、それまでの武士の社会で作られていた慣習を無視していたため、多くの武士の不満と抵抗を引き起こした。このような中、武士の再建を目指していた足利尊氏(あしかがたかうじ)が朝廷に反旗を翻した。
朝廷は新田義貞、楠木正成、北畠顕家(きたばたけあきいえ)らを派遣し、いったんは尊氏軍を撃退した。尊氏は九州に逃れた。だが、この際、朝廷軍から多くの将兵が尊氏に追随したのである。
正成は、尊氏の能力の高さもさることながら彼の人望を高く評価し、尊氏が再び朝廷の脅威になることを見抜き、後醍醐天皇に尊氏との和睦を奏上する。しかし、尊氏に対する勝利に浮かれた天皇や公家は、正成の忠言を一顧だにせず、正成は朝廷から不興を買ってしまった。
一方の尊氏は、九州で軍勢を建て直し、朝廷に不満を持つ勢力や民衆を引き連れ、再び京都に攻め込もうとする。その数や優に10万人を超えていた。
朝廷は新田義貞を派遣し、尊氏軍を阻止しようとした。しかし、力の差は歴然であり、すぐに天皇のもとに義貞軍退却の報が知らされると、正成に「尊氏軍を迎え討て」との命が下された。
正成は、尊氏とまともに戦っては勝目がないと考え、帝は比叡山に潜伏していただき、義貞軍とともに京都で尊氏軍を挟撃し、兵糧攻めにする案を進言した。だが、この進言も後醍醐天皇によって退けられ、正成は義貞の麾下で京都を出て戦うよう出陣を命じられたのであった。
1336年5月16日、正成は京都から兵庫に下向した。道中、正成は息子の正行(まさつら)に「今生にて汝の顔を見るのも今日が最後かと思う。自分が討死にをしても、お前は生きて帰り、いつの日か朝敵を倒せ」と述べ、桜井の宿から河内へ帰るよう正行に命じた。
これが有名な楠木父子が訣別する『太平記』に描かれる「桜井の別れ」(史実であるかどうかは不明)である。正行はこの時、数え11歳であった。
5月24日、正成は兵庫に到着し、義貞の軍勢と合流した。正成は義貞に撤退を促すものの、義貞はこれに応じない。ついに翌25日、正成・義貞連合軍は尊氏軍と湊川(みなとがわ)で対峙することになった(湊川の戦い)。しかし、戦いが始まるとすぐに、正成と義貞の軍勢は分断され、前後を遮断された。
正成はやむなく700余騎を引き連れ、足利直義の軍勢に正面突撃を敢行した。正成とその弟の正季(まさすえ)はよく奮戦し、7回合流してはまた分かれて戦い、ついには直義の近くまで攻め立てた。
直義は辛くも逃げ延びた。尊氏は直義が退却するのを見て、軍6千余騎を湊川に増援させた。
6時間の合戦のすえ、正成と正季は敵軍に16度の突撃を敢行し、最後には正成軍は73騎になっていた。疲弊した正成軍は湊川近傍の民家に駆け込み、正成は正季ともに「7度生まれ変わっても、国に忠義を尽くし、国の恩に報いろう」(七生報告)と述べ、皆の者に別れを告げた。
正成は正季と刺し違えて自害し果て、その他の一族16人、家人50余人もまた自害した。
▼正成は『孫子兵法』の達人
正成は、軍勢が圧倒的に不利であった赤坂城の戦いや千早城の戦いでは、ゲリラ戦法を駆使し、山伏(修験者)や忍者などの協力を得て、商人や農民などの民衆との広大な情報網を築き、水や食糧を調達し、民衆を蜂起させることで、幕府軍を苦しめた。
いったん戦況が有利になった際の宇都宮軍との天王寺の戦いにおいては、「一気呵成に攻撃に出ましょう」との周囲の者の進言を却下し、「良将は戦わずして勝つ」と言い放ち、民衆のかがり火で宇都宮軍を包囲し、戦いによって一滴の血も流すことなく敵を撤退へと追い込んだ。
こうした戦い方は、とりもなおさず正成が「孫子」の兵法を知悉していたことを物語るものであろう。
では「孫子」は如何に正成に伝授されたのであろうか?家村和幸著『闘戦経』および『図解孫子兵法』(いずれも並木書房)などを基にみてみよう。
『孫子兵法』が我が国に伝来した説についてはすでに述べたが(我が国の情報史(1)を参照)、その後の『孫子兵法』は大江家によって管理されることになる。
大江家は古代の氏族である土師氏(はじし)を源流とする。平安時代には、大江千里(おおえのちさと)、大江匡衡(まさひら)、和泉式部(いずみしきぶ)などの優れた歌人を輩出した。すなわち、栄えある文人の家系としても有名である。
一方、大江家の初期の祖である大江維時(おおえのこれとき、888年~963年)は、930年頃に唐から兵書『六韜(りくとう)』『三略』『軍勝図(諸葛孔明の八陣図)』を持ち帰った。
しかし、維時はこれらの兵書を「人の耳目を惑わすもの」として秘して伝えなかった。大江家はこれらのほかに『孫子』『呉子』『尉繚子(うつりょうし)』などを、門外不出の兵法書として大切に管理していた。
しかし、匡衡の孫である大江家第35代の大江匡房(まさふさ 1041~1111年)は、河内源氏の源義家(八幡太郎)に請われて兵法を教えることになる。その匡房の孫が大江広元であり、彼は1184年に源頼朝に仕え、鎌倉幕府設立の立役者となった。なお、その後の大江氏は毛利氏をはじめとする武家の祖となる。
後冷泉(ごれいぜい)天皇の御代、陸奥の安倍氏が朝廷に反旗を翻した。この際に討伐を命じられたのが、当時の鎮守府将軍であった源頼義(みなもとのよりよし)である。頼義は10年近くにわたり戦うが、いっこうに安倍氏を攻め落とすことができなかった。これが「前9年の役」(1056~1064年)である。
そこで、頼義は息子の義家に命じて兵法を学ばせることにした。義家は父の命にしたがって京都の大江匡房のもとを訪れた。当初、匡房から兵法書は門外不出であるとして、その伝授を断られたが、やっとのことで伝授を許された。それが『孫子兵法』であったのである。
『孫子兵法』を伝授された義家は陸奥の戦地に復帰し、難攻不落の安倍氏を討伐し、「前9年の役」に決着をつけた。さらの「後3年の役」(1083~1086)においても『孫子兵法』によって勝利し得たのである。
その後、『孫子兵法』は大江家によって厳重に管理され続け、大江家第42代の時親(ときちか)が、河内の観心寺で楠木氏に兵法を伝授したとされる。楠木正成は幼少の頃から、時親から孫子の兵法を学んでいたとされる
▼正成の忠誠心の源流は『闘戦経』
他方、湊川における正々堂々の戦いと、「七生報告」にみられる後醍醐天皇に対する忠誠心はどこから生まれたのであろうか。これは「兵は軌道である」と説く『孫子兵法』の解釈では説明できない。
実は、大江正房が源義家に兵法を伝授した際に『孫子兵法』と同時に伝えたもうひとつの兵法書があった。それがわが国古来の兵法書・『闘戦経』であった。
匡房は「兵は詭道なり」とする『孫子』は優れた書物ではあるが、必ずしも日本の文化や伝統に合致せず、正直、誠実、協調と和、自己犠牲などの日本古来の精神文化を損なう危険性があると認識していた。
そこで匡房は自ら『闘戦経』を著し(その先祖の大江維時の著とする説もある)、『孫子兵法』を学ぶ者は、同時に『闘戦経』を学ばなければならないと説いた。
その後も『闘戦経』は『孫子兵法』とともに大江氏が管理し、その時々において源氏や北条氏へと伝授されていった。この間、匡房の教えは家訓として伝えられた。そして、大江時親が楠木正成に兵法を伝授した時、同時に『闘戦経』も伝授したのである。
かくして兵法の天才である正成は『孫子兵法』ともに『闘戦経』の教えを実践の場で遺憾なく発揮したのであった。
『闘戦経』は53の教えからなる。その教えの第一の特徴は、『闘戦経』は『孫子兵法』を否定しているものではなく、『孫子兵法』を補完するものとしている点である。
第二の特徴は、戦い(武)を第一義とし、武は秩序を確立するものとして、そこに積極的価値を置いている点である。そして「武」の知恵と「和」の精神を結合さることの重要性を説いている。
第三の特徴は、戦いに勝つために、戦場における「兵は軌道なり」はあってもよいが、戦略上はすべて謀略に頼るのではなく、時には正々堂々とよく戦うことも重要である、という点である。
ここから、湊川に戦いにおいて、負け戦と分かっていながら、尊氏軍に対する16度の突撃が繰り返されたのである。また、のちの「謀略は誠なり」の言葉が発祥し、楠木正成の思想が、太平洋戦争期における秘密戦・戦士の精神的支柱になっていくのであった。
▼正成が後世に与えた影響
楠木正成の忠戦は、正成の死後からわずか35年後に著された『太平記』によって描かれている。
『太平記』は正史ではなく、記事の資料にも難があるといわれる。しかし、「虚実を超えた真ともいうべきものを、強く人に訴えてやまない書でり、当時の公卿から武士、庶民にいたるまで、広く読まれて、日本人の心の中に、深く影響を残してゆくのである」(吉原政巳『中野学校教育 一教官の回想』)。
約100年後の1467年には『太平記評判』が著され、楠木正成は兵法の神として国民の間に尊敬を高めていく。
当時、足利幕府としては、正成を朝敵として扱っていたが、正成の死後223年(1559年)にして、その後裔の楠木正虎が朝敵の赦免を嘆願し、朝廷がこれを認め、正虎を河内守に復し、正五位下に除した。
そして、江戸時代になり、楠木正成を敬仰(けいぎょう)する動きが全国的に起こり、楠木精神は「武士道」精神の中に浸透していった。
その後、幕末の吉田松陰を通じて、幕末志士へと受け継がれ、倒幕の精神的原動力になったのである。
そして、明治以降は「大楠公(だいなんこう)」と称され、1880年(明治13年)、の明治天皇御幸の際、正成は正一位を追贈されたのである。