わが国の情報史(5)

インテリジェンス武将、織田信長

▼天下統一の意志を示す織田信長

応仁の乱から約100年後の16世紀中頃には、全国各地で戦国大名が台頭した。そのオールスターズが、相模小田原の北条氏康(1515~71)、越後の上杉謙信(1530~78)、甲斐の武田信玄(1521~73)、駿河の今川義元(1519~60)、美濃の斎藤道山(1494~1556)、越前の朝倉義景(1533~73)、安芸の毛利元就(1497~1571)、豊後の大友宗麟(1530~87)、薩摩の島津貴久(1514~71)である。

 このなかで、まず天下統一の偉業達成にもっとも近かったのが今川義元である。しかし、義元は尾張の桶狭間の戦いで、伏兵ともいえる織田信長に敗れてしまう。

義元を破った信長は1567年、美濃の斎藤氏を滅ぼし、岐阜城に移ると、「天下布武(てんかふぶ)」の印判を使用して天下を武力によっておさめる意思を明らかにした。

翌1568年、畿内を追われていた足利義昭を立てて入京し、義昭を将軍職につけて、天下統一の第一歩を踏み出したのである。

信長が戦国大名の中で勝ち残っていけたのは、彼の卓越した戦略・戦術眼による。そして、それを支えるインテリジェンスの重要性を最も認識していたからである。信長は諜報活動を重視し、謀略を駆使して、自らの勢力を拡大したのであった。

▼信長、桶狭間で今川義元を破る

信長の名を世に知らしめたのは、なんといっても今川義元との桶狭間の戦いにおける大勝利である。この戦いでは、信長がいかに諜報・謀略を重視したのかがよくわかる。

1560年5月18日夜、織田信長は清州城において、「今川義元、19日大高泊り」という情報を入手した。信長は、義元が大高締城に入る前に、奇襲すると決心して、「直ちに出陣!」と号令した。

出発を前に幸若舞を舞い、夜半2時の丑三つ時に、側近数騎を従えて出陣した。大部隊を編成していては好機逸してしまう。とりあえず出陣すれば、部隊が急いで追随するだろう。時間調整は出陣後にすればよい、との読みがあった。 

織田信長の狙いはただ一つ、敵将の今川義元の首を取ることであった。だから、諜報網を展張し、義元の動向をつぶさに把握したのである。

 西進を期する義元の軍勢3万は19日朝、沓掛(くつがけ、愛知県豊明市)を出発した。信長は義元軍が桶狭間を抜けて鳴海(なるみ)に展開するとみて、熱田(あつた)を立ちて鳴海に向かった。

しかし、なかなか義元の現在地が掴めなかった。そこに、19日12時、梁田政綱(やなだまさつな)から急報が来た。「義元、ただいま、田楽狭間に輿(こし)をとどめ、昼食中」

信長は一挙に義元本陣への斬りこみを決した。部下3000のうちの精鋭隊1000人を選出した。義元の本陣は土地の有力者が持ち込んできた、ごちそうを食べ、祝い酒に酔いしれていた。実は、これらの有力者も梁田が雇った工作員であった。

 奇襲を受けた義元以下多数の有力武将は次々と討たれ、指揮官を失った義元の軍勢は一挙に壊滅へと向かったのである。

 信長は、功名第一は梁田、第二は義元に一番槍をつけた服部小平太、第三は義元の首をとった毛利新助(義勝)とした。奇襲のお膳立てをした梁田の諜報・謀略を最も重視したのである。

 信長は、梁田政綱の働きを高く評価したのは『孫子兵法』の影響である。『孫子兵法』の第13編「用間」には、「賞は間より厚きは莫(な)く、事は間よりも密なるはなし」の記述がある。

つまり、「インテリジェンスに携わる者は表に出せないし、階級を与えるわけにはいかないので、禄を与えよ」と言っているのである。

このように信長は、孫子の兵法に教えを忠実に守ったのである。

▼長篠の戦いで、織田信長が武田勝頼を撃破

信長が不動の地位を築いのが1574年の長篠(三河設楽郡長篠)の戦いである。長篠の戦いは織田・徳川連合軍と武田軍の決死の戦いであった。この戦いに至る経緯を少しだけさかのぼろう。

1573年、武田信玄は、「三方ケ原の合戦」で徳川家康を完膚なきまでに叩いた(「我が国の情報史(4)」参照)。

この余勢を買って、信玄は遠江(とおとうみ、静岡県西部)、三河(みかわ、愛知県東部)の諸地域を支配下においていった。

しかし、1573年4月、信玄が突如、陣中で死亡する。このため武田軍はいったん撤退することを決した。劣勢である家康軍とその連合軍である信長軍は“九死に一生”を拾ったのである。

武田軍の圧力が削がれた好機を利用して信長は1573年7月、反信長の包囲網の形成を企む足利義明を京都から追放した。ここに室町幕府は滅亡した。

同年8月、信長は越前の朝倉義景に攻め込み、義景に自害を強要した。9月に近江(おうみ)の浅井長政、11月に河内の三好義継をそれぞれ自害させ、逐次に勢力を拡大した。

一方の武田軍においては、信玄の後を継いだのが四男の武田勝頼であった。勝頼は信玄の意思を継ぎ、1574年2月、信長の領地になっていた美濃(岐阜県)に攻め込み、明智城(長山城)を攻略した。

1574年4月、勝頼は15000の兵を率いて、長篠城に攻め込んだ。長篠城を守る家康軍の兵はわずか500であったが、200丁の鉄砲隊がよく持ちこたえた。その間、信長は家康を救援するため、3万の兵を動員した。

これにより織田信長・家康連合軍は38000人となり、武田軍15000人の倍以上の勢力になった。

信長は鉄砲隊3000丁を結集し、一挙に武田軍の打倒を企図した。しかし、当時の火縄銃は次弾を撃つまでに時間がかかるので、一挙に突撃されてしまっては敵の進撃を阻止できない。そこで長篠城の南4kmにある設楽原(したらはら)において、河川と丘陵の自然障害を利用して数線の強固な土塁を編成した。この土塁に鉄砲の射線を向けて武田軍を狙い討つ構えを整えた。

あとは、勝頼軍を設楽原の待ち受け陣地に誘致導入することであった。勝頼に長篠城の包囲に3000を当てていたので、設楽原に充当する12000千になる。これでは38000人の織田・徳川軍には立ち向かえない。

勝頼の部下は挙って撤退を進言した、勝頼は聞き入れず、1575年5月21日早朝、設楽原の防御陣地に攻めかかる。しかし、周到に陣地配備した織田・徳川連合軍に完膚なきまでに叩きのめされたのは言うまでもなかった。

▼信長の実施した「反間計」

 長篠の戦いの勝因は、首尾よく勝頼を設楽原に誘致導入したことである。実は、ここには信長の諜報・謀略が生かされているのである。

 勝頼は、信長の様子を探るため、家来の甘利新五郎を内応させた。孫子でいうところの死間である。

 信長は新五郎が間者であることを見抜き、これを反間(二重スパイ)として利用することにした。すなわち、甘利のみているところで重臣である佐久間信盛をしかりつけ、その面上に鞭をくれた。信盛は無念の目で信長を睨み返し、人々は信長のやり方を「重臣を遇する道ではない」と非難した。

信長方の陣地の要地を死守していた信盛は、その夜、勝頼に内応を示し、「手招きしますから、私の陣地に無二無三に突進されたい」と誘った。

勝頼は、甘利から信盛が粗末に扱われている状況を知らされていたから、ためらいもなく信盛の誘いを信じ、重臣の反対を押し切って攻撃に出たのである。

つまり、信長は甘利を利用し、見事なまでに「反間計」(兵法第33計)をやってのけたのである。

▼ 信長、暗殺される

  信長は京都を押さえ、近畿・東海・北陸地方を支配下に入れ、統一事業を完成しつつあったが、独裁的な政治手法はさまざまな不安を生んだ。1582年、毛利氏征伐の途中、滞在した京都の本能寺で配下の明智光秀に背かれた敗死した(本能寺の変)。

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