戦国大名屈指の忍者の使い手、武田信玄
▼南北朝時代の動乱から守護大名が芽生え
1336年5月の「湊川の戦い」に勝利した足川尊氏は同年11月、建武式目17条を定め、新たな武家政権の成立を宣言した。ここに、後醍醐天皇による「建武の中興」はわずか3年余りで崩壊することとなった。
尊氏は、傀儡の光明(こうみょう)天皇をたて北朝を開いた。これに対し、後醍醐天皇は吉野に逃れ、南朝を開いた。ここに南北に2つの朝廷が存在するという動乱の幕開けを迎えるのであった。この動乱の時代は、3代将軍の足利義満(あしかがよしみつ、1358~1408)が1392年に南北朝を合一するまで、約60年間続くことになる。
1338年、南朝側は、重鎮の北畠顕家(きたばたけあきいえ、1318~38)、新田義貞が相次いで死亡し、劣勢に立たされた。しかし、顕家の父親である北畠親房(ちかふさ、1293~1354)らが中心となって、東北・関東・九州などに拠点を築いて、北朝側に対し抗戦を続けた。
なお親房は、南朝の正統性を述べた『神皇正統記』(じんのうしょうとうき)を著し、皇室・皇統が神聖不可侵のものであることを説いた。『神皇正統記』については、おそらく後に触れることになるような気がするので、ここで記憶にとどめてほしい。
一方の北朝側は、1338年11月、尊氏が征夷大将軍に任命された。ここに室町幕府が成立した。ところが、北朝側も、尊氏の弟の直義を支持する勢力と尊氏の執事である高師直(こうのもろなお、?~1351)を中心とする勢力が対立し、1350年には激しい武力対決に発展した(観応の擾乱)。
観応の擾乱の以後も、尊氏派(幕府)、直義派、南朝勢力の三者の対立が続き、それが全国化し、地方武士の力が増大した。これら地方武士を各国ごとに統括する守護が、やがて守護大名となって台頭することになるのである。
▼『孫子兵法』はすでに門外不出ではなくなった
室町時代は、一般的には、1338年に尊氏が征夷大将軍に任命された以降から、15代将軍の足利義昭(あしかがよしあき、1537~97)が織田信長によって京都から追放される1573年までの237年間をいう。
ただし、建武の中興(1333年)を含む最初の約60年間を「南北朝時代」、1467年の応仁の乱から1573年までを「戦国時代」として細分化することもある。
室町幕府の呼び名の由来は、3代将軍の足利義満が1378年に京都北小路室町に花の御所を造営して以降、歴代の将軍がここで執政を行ったためである。義満の治世は、まさに室町時代の絶頂期であった。
1368年、朱元璋が元の支配を滅ぼし、漢民族の王朝である明を建国した。義満は、この明と日明貿易(勘合貿易)を開始した。日本国内の支配権を確立するための豊富な資金力を獲得することが狙いであった。これは、義満が明に使者を派遣して国交を開いた1401年から1549年まで計19回に及んだ。
日明貿易の以前は、『孫子兵法』は朝廷の命を受けた大江氏などによって先祖代々大切に保管されていた。その時々において、源氏や楠木正成などに伝授されたが、基本的には門外不出であった。
しかし、日明貿易の開始により、『孫子兵法』やその注釈本などが明から大量に日本に入ってきた。かくして『孫子兵法』は民間にも伝播し、従前のような門外不出の代物ではなくなったのである。
他方、1432年には、守護大名の上杉憲実が、下野国(しもつけのくに)に足利学校を復興させ、全国から学生を集めて、無料で兵学を教えた。兵学を学んだものが守護大名に雇われて、「軍師」となった。こうして世の中は情報戦、謀略戦などが飛び交う戦国時代へと向かうことになるのであった。
▼戦国大名と「孫子」の兵法
1467年、戦国時代の幕開けとなる応仁の乱が始まった。全国の守護大名は細川勝元(東軍)と山名宗全(西軍)の両軍に分かれて戦い、主戦場となった京都は戦火によって荒廃した。この騒乱により、幕府の体制は崩壊し始めた。やがて全国には「下剋上」(下の者が上の者をしのいでいく現象)の風潮が蔓延し、各地では国一揆がおこった。
応仁の乱から約100年後の16世紀中頃には、全国各地で地方権力を独自に握る動きが起こり、有力な守護大名が続々登場した。これらの大名はのちに戦国大名と呼ばれるようになった。
すなわち、相模小田原の北条氏康(1515~71)、越後の上杉謙信(1530~78)、甲斐の武田信玄(1521~73)、駿河の今川義元(1519~60)、美濃の斎藤道山(1494~1556)、越前の朝倉義景(1533~73)、安芸の毛利元就(1497~1571)、豊後の大友宗麟(1530~87)、薩摩の島津貴久(1514~71)の登場と相成ったのである。
これら戦国大名の中では、毛利元就が「孫子」の使い手として有名である。毛利家兵法の特徴は「策」が多いことが特徴であり、謀略も多用された。それもそのはず、毛利家は、『孫子兵法』の大家にして『闘戦経』の著者である大江匡房の子孫になるからだ。
元就は1554年の厳島の合戦(いつくしまのがっせん)では、山口を本拠とする陶晴賢(すえはるかた)を破った。晴賢は、主君の大内義隆を殺害し、大友家の養子、義長を擁立して実権を握ったのであるから、元就にとっては正義の戦いということになる。
ただし、元就の戦い方は“だまし討ち”などの謀略を駆使したものであった。まず敵方の勇将3名を、高禄を餌にして内応させた。このうちの江良房栄(えらふさひで)については内応後の態度に腹心ありと見て、流言を放ち、敵のスパイに「房栄が内応した」とわざと漏らして晴賢に報告させた。さらに、内通書を偽作して、陶軍の本拠、山口の町で落とした。
この反間を利用した欺瞞工作にマンマと引っかかった晴賢は、疑心暗鬼になって房栄を殺害した。彼の死が前線将兵に不安を与え、上下不信の機運を生み、戦力に多大な悪影響を及ぼしたのである。
元就と同様に「孫子」を知悉していたとされるもう一人の戦国大名が武田信玄である。信玄は「風林火山」の軍旗で有名であるが、この四文字は、『孫子兵法』の第7「軍争編」からの引用であることがよく知られている。
信玄の戦いと言えば、上杉謙信との「川中島の戦い」(1553年~64年)が殊に有名である。しかし、信玄のもっとも代表的な戦いをあげるとすれば、「三方ケ原の合戦」(1573年)であろう。
信玄は、この合戦で徳川家康を完膚なきまでに叩いた。この際の信玄の侵攻速度が恐ろしく速く、この“怒涛の攻め”に対応できない家康軍は浜松城に、命からがら逃げ帰った。まさに、信玄の戦いは「侵略すること火のごとし」であった。
▼忍者のその後の発展史
『孫子兵法』といえば、最も有名なのが、第13「用間編」における5種類のスパイ(郷間、内間、反間、生間、死間)の運用である。すなわち、孫武は「戦わずして勝つ」を信条に情報戦をもっとも重視したのである。
血で血を洗う戦国時代においては、この情報戦が熾烈を窮めた。その中心的な役割を担ったのが、五間に相当する忍者であった。
紀州の軍学者・名取三十郎正澄(藤一水子正武)が1681年に書いた忍術書『正忍記』(しょうにんき)は、郷間を「因口の間」、内間を「内良の間」、反間を「反徳の間」、死間を「死長の間」、生間を「天生の間」として説明し、これら五間が忍者だと述べている。
忍者の起源と発展の概要については、『我が国の情報史(2)』にて、すでに概略を述べたが、もう一度要点をおさらいしておこう。
忍者は飛鳥時代、聖徳太子の頃に発生し、当時は志能便(しのび)と呼ばれていた。平安時代になって、忍術の技術が修験者(山伏)の活動の中で発展した。鎌倉時代になって、荘園領主に抵抗した「悪党」が甲賀衆や伊賀衆などの忍者集団を形成していた。楠木正成は伊賀衆を使って、情報戦を展開し、後醍醐天皇による建武の中興に貢献した。
ここで、さらに戦国時代になってからの発展史を追記しよう。『正忍記』によれば、「北条氏康が風麻(かざま)という盗人に知行を与えて各地を探らせ、甲州の信玄はスッパ(徒者・透波)という盗人を使った」ともある。
この風麻から、やがて相模の国の忍者集団の頭目である風魔小太郎(かざまこたろう、ふうまこたろう)が登場する。彼は風麻から風魔を名乗ったのである。この頃、関東では忍者のことをラッパ(乱波)と言い、風魔小太郎は、小田原を根城にする北条氏康の配下で活躍する「北条ラッパ」であった。
一方、甲州以西では忍者はスッパと呼ばれた。武田信玄が「甲州スッパ」を使って各国の情報を精力的に集めたことは有名である。「孫子」に通じている信玄は、自らの情報を守る防諜と、敵方の情報を入手する諜報のために、忍者を養成し、忍者を使って情報活動を行ったのである。
戦国時代になって、各地の戦国大名は忍者を本格運用して、情報戦を仕掛け、これが戦いの趨勢を決するようになった。まだ、天下統一に向けた兆しはないが、やがて時代は一人の卓越した軍事の天才を迎えることになる。その男こそは名将・織田信長(1534~82)である。