▼はじめに
前回まで、張作霖事件を題材に、主として情報の評価について述べたが、今回から、主として満洲事変がわが国の情報体制に及ぼした影響について述べることとする。
▼満洲事変から日中戦争まで
満洲事変から日中戦争までの経緯を山川出版の『詳説日本史B』より抜粋する。なお、( )内は筆者による注記である。
関東軍は参謀の石原莞爾(いしわらかんじ)を中心として、1931年9月18日、奉天(瀋陽)郊外の柳条湖で南満洲鉄道の線路を爆破し(柳条湖事件)、これを中国軍のしわざとして軍事行動を開始して満洲事変が始まった。(中略)
1932年9月、斎藤内閣(斎藤実、まこと)は日満議定書を取り交わして満洲国を承認した。日本政府は既成事実の積み重ねで国際連盟に対抗しようとしたが、連盟側は1933年2月の臨時総会で、リットン調査団の報告にもとづき、満洲国は日本の傀儡国家であると認定し、日本が満洲国の承認を撤回することを求める勧告案を採択した。松岡洋介ら日本全権団は、勧告案を可決した総会の場から退場し、3月に日本政府は正式に国際連盟からの脱退を通告した。(中略)
1935年以降、中国では関東軍によって華北(チャハル・綏遠・河北・山西・山東)を国民政府の統治から切り離して支配しようとする華北分離工作が公然と進められた。(中略)
関東軍は華北に傀儡政権(冀東防共自治委員会)を樹立して分離工作を強め、翌1936年には日本政府も華北分離を国策として決定した。これに対し、中国国民のあいだでは抗日救国運動が高まり、同年12月の西安事件をきっかけに、国民政府は共産党攻撃を中止し、内戦を終結させ、日本への本格的な抗戦を決意した。
第一次近衛文麿内閣設立直後の1937年7月7日、北京郊外の盧溝橋付近で日中両国軍の衝突事件が発生した。いったん現地で停戦協定が成立したが、近衛内閣は軍部の圧力に屈して当初の不拡大方針を変更し、兵力を増派して戦線を拡大した。これに対し、国民政府の側も断固たる抗戦の姿勢をとったので、戦闘は当初の日本側の予想をはるかに超えて全面戦争に発展した。(引用終わり)
▼対ソ作戦計画をめぐる対立
わが国は伝統的にソ連に対する脅威を第一においた。しかし、日露戦争後にロシアが崩壊したことで、幣原喜重郎外相時代に一時的に対ロシアの脅威が薄れた。
しかし、1928年10月に開始された第一次5か年計画と、1929年4月から始まったソ支紛争、とくに同年11月のソ連による満洲里の占領にかみがみ、日本はソ連情報の重要性を再認識した。
満洲事変の勃発によって、一挙にソ連情報の重要性が高まった。この事変で、日ソ両国は満洲をめぐって直接対峙することになったが、ソ連から日本に対して、1932年10月に不可侵条約の締結申し入れがあった。
しかし、日本政府は時期尚早としてソ連の提案を受け入れなかった。この理由には共産勢力の国内浸透を恐れたからであったが、なにより陸軍の反対が強かったことが大きな原因であった。満洲を占領した陸軍の鼻息の荒さが窺える。
不可侵条約締結に失敗したソ連は、極東ソ連軍の軍備を急速に増大した。関東軍の満洲全般における兵力配置に対し攻防いずれにも対応できるよう、1933年頃から狙撃師団や騎兵部隊を増強し、国境地帯におけるトーチカ陣地を構築した。1934年頃から戦車・飛行機の増加などの措置をとった。また、極東海軍の再建も図った。
当時のソ連軍対関東軍の戦力比は3~4:1であったとされる。しかし、参謀本部第1部の作戦課長であった小畑敏四郎大佐は、極東ソ連軍の戦力を低く評価し、日本軍の伝統的精神要素、統帥能力の優越、訓練等の成果等を強調した。その後任の鈴木従道大佐も同意見であった。彼らは、米英や国民政府との提携により、ソ連に対する攻撃を主張した。
これに対し、参謀本部第2部長の永田鉄山は、ソ連に対する軍事的劣勢を認識して、当面の間、ソ連との関係緩和を模索し、この間に軍近代化を図るべし、と主張した。彼らは、ソ連を西方に牽制するためのドイツ等の提携を模索し、英米や国民党軍との提携には乗り気ではなかった。
国家戦略をめぐって第1部と第2部が対立したが、作戦至上主義のもとで第1部の案が採用され、1933年(昭和8年)に作戦計画が大きく修正され、「まず満洲東方方面で攻勢作戦をとってソ連極東軍主力を撃破し次いで軍を西方に反転して侵攻を予想するソ連軍を撃滅せんとする」ものであった。
この作戦計画は、日本軍の戦力がソ連軍よりも優位においてこそ成り立つものであって、当初から成立しないものであった。また、第1部と第2部の対立が永田、小畑両少将を中心とする対立抗争へと発展し、後々、世間で言われる皇道派、統制派の派閥抗争へと繋がり、永田少将の暗殺事件、1936年に2.26事件を引き起こした。
▼陸軍の情報体制
満洲事変以後、陸軍の情報体制はソ連情報に対する強化が図られた。主要な変化は以下のとおりである。
1)参謀本部の組織改正
1934年初頭の参謀本部第2課の編制は以下のとおりであった。
第4課(欧米)
第1班(南北アメリカおよび米国の植民地)
第2班(ソ連、東欧、トルコ、イラン、アフガン、ルーマニア、ブルガリア、フィンランド、バルト3国、満洲)
第3班(欧州各国および英仏伊の植民地、タイ、英の自治領)
第5課
第5班(暗号解読及び作)
第6班(支那ただし満洲のぞく)
第7班(兵用地誌、経済、資源の調査、陸地測量関係業務)
第4班(総合)
1936年6月に行なわれた改正では、第4課第2班が昇格し、第5課となった。いわゆるロシア課が新設された。この改正に伴い、従来の欧米情報担当の第4課が第6課に、支那情報担当の第5課が第7課になった。
つまり、第2部の編制は、5課(ソ連)、6課(欧米)、7課(中国)と、第1班と暗号班から構成された。第1班は部長直属で、情勢に関する総合判断を行なったものと見られる。
2)関東軍総司令部の整備
満洲事変以前の関東軍第2課(情報課)には、たいした情報収集能力はなく、関東軍の情報活動は南満洲鉄道株式会社(満鉄)の調査部に依存した。満鉄調査部は1907年に設立され、主たる任務は、満洲や北支の政治、経済、地誌等の基礎的調査・研究である。したがって、ソ連情報については不十分であった。
満洲事変以後も、関東軍は満鉄調査部に依存していたが、ソ連軍との対峙を想定して関東軍第2課の強化を逐次にはかった。満洲事変以前の第2課の情報関心は主として北支に向けられ、支那関係者をもって要員にしていた。しかし、参謀本部第5課の新設の動きと連動して関東軍第2課もソ連専門家をもってあたられた。
3)特務機関の増設
日本軍は1918年のシベリア出兵以後からシベリア各地に特務機関を配置していた。しかし、1922年10月末の撤兵までには逐次閉鎖され、ハルビン、黒河、満洲里のみが残され、静かに対ソ情報を収集していた。その後、黒河は1925年3月に閉鎖された。
他方、1928年の張作霖事件が象徴するように、北支那や満洲が混沌化していた。よって特務機関の主要関心事項は支那情報であった。
しかしながら、満洲事変以後、ソ連情報の価値が高まり、1932年に黒河が再開され、ハイラルが新設された。1933年には琿春、密山に、1934年に富錦に特務機関が新設された。これらは、琿春を除き関東軍に直属し、業務はハルビン特務機関長が統制した。
4)在外武官の新設と配置
満洲事変以後、ソ連は国境警備と防諜態勢を強化した。そのため、日本軍は従来の密偵諜報に行き詰まりを感じ、ソ連情報の主要手段として文書諜報、科学諜報を重視した。
また、なるべく多くの将校を合法的にソ連邦に入れる努力をした。ソ連をめぐる隣接国における公館開設と公使館附武官の配置、ソ連国内に対する駐在員の派遣、在ソ日本領事館における情報将校の配置などを行なった。
5)文書諜報の強化
参謀本部第2部第4課第2班(ロシア班)(のちの第5課)とハルビン特務機関(のちの関東軍情報部本部)が、それぞれ文書諜報を本格的に開始した。
1935年3月、小野打寛大尉がハルビン機関の中に、文書諜報班を設置することで本格的な公開情報分析が始まった。
この文書諜報班は、ソ連国内の出版物をできるだけ集め、参謀本部と分担して公開情報の分析を行った。
主に「プラウダ」「イズベスチャ」などの中央機関紙、「チホオケアンスカヤ・ズヴェズダ」「ザイバイカルスキー・ラボーティ」などの地方紙、「クラスナヤ・ズヴェズダ」「ヴォエンナヤ・ムイスリ」などの軍事専門誌を集めて丹念に分析した。
また同組織は無線電話の傍受も行なっており、これらは音秘・音情と呼ばれていた。(小谷賢『日本軍のインテリジェンス』)
6)暗号情報の強化
1930年5月、第2部5課(支那情報)に「暗号ノ解読及び国軍使用暗号ノ立案」の任務が付加された。これにより、第5課は4班(総合)、5班(暗号)、第6班(支那ただし満洲除く、満洲はソ連とともに第4課第2班の所掌)、第7班(併用地誌等)となった。
1934年に関東軍参謀部第2課に関東軍特殊情報機関を設置し、新京(長春)においてソ連軍の軍事暗号を解読する任務を開始した。
1935年に将校2人をポーランド参謀本部に将校を派遣して、1年間の暗号解読の教育を受けさせた。
上述の1936年6月の改編で、第5課4班は、暗号班となり、第2部長の直轄となった。
1937年3月31日、暗号班が1班と改められ、所掌業務の「暗号ノ解読及び国軍暗号ノ立案」のうち「及び国軍暗号ノ立案」が削除された。及び(なお、原文は竝)が削除されたことは、この頃から暗号解読の重要性が認識されたことを意味する。
7)防諜態勢の強化
1936年8月に陸軍省に兵務局が新設された。兵務局は防諜に関する業務を担当した。なお、これが陸軍中野学校の発足の一つの経緯となる。
1936年7月14日の「陸軍省官制改正」第15條には兵務課の任務が示され、同課は歩兵以下の各兵下の本務事項の統括、軍規・風紀・懲罰、軍隊の内務、防諜などを担当した。
同官制改正の六では、「軍事警察、軍機の保護及防諜に関する事項」が規定され、これが防諜の最初の用例だとみられる。
1937年3月に参謀本部内に、防諜態勢の強化を図るための防諜委員が設置された。
8)ドイツとの情報提携強化
1936年11月25日、日独防共協定の調印に伴い、諜報・謀略に関して日独情報提携を約束した。従前参謀本部第2部は在ポーランド駐在武官のソ連情報を重視していたが、本協定以後、ドイツ駐在武官のソ連情報を重視するようになった。
当時のドイツ駐在武官は、ドイツ通の大島浩大佐であった。大島は、1921年(大正10年)以降には、断続的にベルリンに駐在し、1933年以降はドイツの政権を得ていたナチス党上層部との接触を深めた。
以上、満洲事変以後から、日中戦争にかけての陸軍の情報体制を概略みてきたが、次回は海軍の情報体制について少しだけ言及したい。