わが国の情報史(30) 昭和のインテリジェンス(その6)      -張作霖爆殺事件から何を学ぶか(2)-     

▼はじめに

 前回は、張作霖爆殺事件が関東軍の計画的な謀略であるとの定説は、首謀者とされる河本大作の「手記」が戦後になって発表されたことが大きな根拠になっている、しかしながら、これは第三者によって書かれた第二次情報にすぎないことを述べた。 今回は、もう一つの関東軍犯行説の根拠となっている極東軍事裁判(東京裁判)における田中隆吉少将の証言について着目する。

▼ 田中隆吉少将の証言

 1946年5月3日から極東軍事裁判(東京裁判)が開かれた。ここで検察側の証人として証言台に立った元陸軍省兵務局長の田中隆吉(元少将)は、「関東軍高級参謀河本大作大佐の計画によって実行された」と証言した。また彼は、1931年9月の満州事変についても、「関東軍参謀の板垣征四郎、次参謀の石原莞爾が行った」旨の証言を行った。

  これにより、日本軍が行った計画的な謀略により、日中戦争、そして太平洋戦争へと向かわせ、国民の尊い命を奪った。その戦争責任は死刑をもって償うべしとの、国民世論が形成された。

 田中の口から直接された証言は第一次情報である。しかし、第一次情報といえども、常に正しいとは限らない(前回のブログを思い起こしてほしい)。 なぜならば、情報源(この場合は田中)が意図的に嘘をつくことがあるからだ。

 したがって、インテリジェンスにおいては、情報源の信頼性と情報の正確性という手順を踏まえて、しっかりと情報を評価しなければならない。とはいうものの、評価するための十分な情報があるわけでもないので、可能な限りという条件がつく。 すくなくとも、情報は無批判に受け入れるということだけは避けなければならない。

▼田中隆吉とはどんな人物か

 ヒューミント(人的情報)においては、「報告したのはどの組織の誰か」「報告者は意図的に自分の意見や分析を加味していないか」「過去の報告あるいは類似の報告から、報告者の履歴、動機および背景にはどのようなことが考えられるか」などを吟味していかなければならない。 これが情報源の信頼性を評価するということである。  

 そこで田中隆吉(1893年~1972年)とはどのような人物であったのかを簡単にみていこう。 彼は1927年7月に参謀本部付・支那研究生として、北京の張家口に駐在し、特務機関に所属した。当時、34歳であり、階級は大尉である。

 1929年8月には 陸軍砲兵少佐に昇級して帰国。参謀本部支那課兵要地誌班に異動になった。 田中が本格的に北支および満州で謀略に従事するのは1930年10月に上海公使館附武官として上海に赴任した以降のことである。

 ここでは著名な川島芳子(満州国皇帝・溥儀の従妹)と出会い、男女の仲になり、川島を諜報員(スパイ)の道に引き入れた。 1932年の第一次上海事変においては、「満州独立に対する列国の注意をそらせ」との板垣征四郎大佐の指示で、当時、上海公使館付陸軍武官補であった田中は、愛人の川島芳子の助けを得て、中国人を買収し僧侶を襲わせた(彼自身の発言から)。

 その後、田中は北支および満州で関東軍参謀部第2課の課員や特務機関長などを歴任し、帰国後の1939年1月には陸軍省兵務局兵務課長、そして1940年12月に兵務局長(憲兵の取り纏め)に就任して、太平洋戦争の開戦を迎えた。1941年6月には陸軍中野学校長も兼務した。 

 開戦時の陸軍大臣は東条英機である。当時、田中は東条から寵愛されていたという。陸軍大臣に仕える最要職の軍務局長には、1期上の武藤章(A級戦犯で処刑)が就いていた。ところが、1942年、田中は〝東条・武藤ライン〟から外され、予備役に編入された。なお、これには田中が武藤のポストを奪う画策が露呈して、左遷されたとの見方もある。     

 戦後に一介の民間人となった田中は、まもなく『東京新聞』に「敗北の序章」という連載手記を発表した。これは1946年1月に『敗因を衝く-軍閥専横の実相』として出版された。

 東京裁判の主席検事のジョセフ・キーナンらが、これらの著作から田中に着目して、1946年2月に田中を呼び出し、その後に尋問を開始した。

 東京裁判では田中は東條を指差して批判し、東條を激怒させた。 武藤においては「軍中枢で権力を握り、対米開戦を強行した」と発言した。 

 ただし、武藤は、太平洋戦争の早期終結を目指し、東條とは一線を画した。つまり、田中証言がなければ、武藤の死刑はなかった可能性が高い。 田中は、東條、武藤以外にも多くの軍人に対して不利となる証言を次々とした。その状況があまりにもすさまじく、田中に対して「裏切り者」「日本のユダ」という罵声を浴びせる者が多数いた。

▼張作霖爆殺事件と田中

 さて、1928年6月の張作霖爆殺事件の当時、田中はこの事件について、どれほど知り得る立場にいたか。彼は、北京に駐在して1年足らずであり、しかも階級は大尉にすぎない。いわば特務工作員の見習い的な存在であったとみられる。  

 他方、河本大作は関東軍の高級参謀であり、田中よりも10歳年長の45歳であった。 張作霖爆殺事件が、河本の計画的な謀略であったとするならば、その秘密はわずかな関係者にしか知らされていなかったであろう。 しかも、両者の階級差や所属の違いから考えても、河本と田中との直接的な交流は考えられない。

 つまり、田中は河本の犯行説を裏付ける第一証言者の立場にはなく、東京裁判における田中証言は伝言レベルのものと判断される。すなわち、情報源の評価としては「信頼性は低い」ということになる。

▼東京裁判における田中の情報源としての信頼性

 彼の著書『敗因を衝く』では「軍閥」の代表である東条英機と武藤章を執拗に非難している。他方、自分自身が日中戦争の早期解決や日米戦争の阻止に奔走したことを強調して、自分自身が行った上海での謀略については述べていない(のちに述べることになるが)。

 本書の記述内容から彼の性格を推測すると、執着心が強く、狡猾な一面が感じられる。 だから、「田中は自分が東條・武藤ラインから外されたことの逆恨みから、彼らに戦争責任を負いかぶせ、自分自身はキーナン検事との「司法取引」によって、処刑を回避して生き延びた」などの批判にも一理ある。

 また、検事たちが作り上げた筋書きに沿った証言を田中が行ったのは、天皇陛下の戦争責任を回避するためだったとの見解もある(作家の佐藤優氏は同見解を主張)。

 他方、東京裁判の終了後、田中は戦時中から住んでいた山中湖畔に隠棲した。ここでは、武藤の幽霊が現れたと口走るなど、精神錯乱に陥ったそうである。そして、1949年に短刀で自殺未遂を図った。その際に遺した遺書では、戦争責任の一端を感じていた記述もある。

 豪放磊落と評された田中が精神錯乱に陥ったのは、嘘の証言によって、太平洋戦争の早期終結を目指した武藤を死刑に追い込んだ、自責の念に堪えかねてのことであった可能性もある。

 いずれにせよ、田中を情報源という視点から見た場合、田中は嘘をつく、真実を秘匿する状況におかれていたことは間違いない。つまり、張作霖爆殺事件における田中の情報源としての評価は「必ずしも信頼できない」というレベルであろう。 しかしながら「彼が語った内容が真実かどうか」は、別途に「情報の正確性」という評価が必要となる。

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