【わが国の情報史(31)】昭和のインテリジェンス(その7) ─張作霖爆殺事件から何を学ぶか(3)─ 

▼はじめに

 前回までは、張作霖爆殺事件が関東軍の計画的な謀略にもとづく河本大作の犯行であるとの定説は、戦後において首謀者とされる河本の「手記」が発表されたこと、田中隆吉元少将が極東軍事裁判(東京裁判)において、河本が首謀者であるとして、当時の犯行の情況を縷々証言したことが根拠になっていること、などを述べた。

 そして上述の「手記」については河本本人が直接書いたものではないことから、情報の正確性には疑義がある。田中の人物評価や、本人が置かれた当時の環境情勢などから、田中の情報源と しての信頼性はあまり高くない、などと述べた。 今回は最初に情報の正確性について述べることとする。

▼情報の正確性  

 情報の評価は情報源の信頼性と情報の正確性を別個に評価する。 そして情報の正確性は、「誰が言ったか」ということはいったん度外視し、情報それ自体の妥当性、一貫性、具体性、関連性という 尺度で評価することになる。  

 ここでは田中元少将が東京裁判で述べた証言内容の引用につい ては割愛するが、彼の証言には、当時の国際情勢や日本政府およ び陸軍を取り巻く環境情勢から「なるほど!」と言える妥当性がある。

 「最初の証言とあとの証言が食い違っている」といったこともな く、彼の証言内容は終始一貫性がある。  

 爆発方法や関与した人物など縷縷詳細に及び具体性もある。

 「手記」を始めとする他の情報との重要な部分が一致しており、 関連性もある。  

 つまり、彼の証言について、情報の正確性からは「ほとんど真 実である」といった高レベルの評価を下すことになるであろう。 しかし、ここで注意しなければならないのは、「巧妙な嘘は、 真実よりも一貫性があるし具体性がある」という点である。

 そして、これは情報源の信頼性に関わることであるが、田中証言の“胡散臭い”と感じるところは、あまりにも多くの主要な史実を、田中自らが第一人称で直接見た、聞いたというように語っている点なのである。  そこに〝出来ストリー〟という疑惑がかかるのである。

▼コミンテルン関与説

 田中元少将の情報源としての信頼性には疑義があったにせよ、 張作霖爆殺事件にかかる情報の正確性の評価は高い。さらに、か なりの具体的な資史料が揃えられていることから、戦後から一貫 して張作霖爆殺事件に関しては河本犯行説という定説が覆ること はなかった。  

 しかし、これから述べるコミンテルン説が2000年代になり、 急浮上したことで上述の関連性に疑義が出た。そうなると情報の正確性の評価をやり直す必要が出てくる。これがインテリジェン ス理論である。  

 ここで、コミンテルン説について言及しておこう。この仮説は、 2005年、邦訳本『マオ─誰も知らなかった毛沢東』(ユン・ チアン、ジョン・ハリディ著)が発刊されたことで俄かに注目さ れた。

 同書における記述を引用しよう。 「張作霖爆殺事件一般的に日本軍が実行したとされているが、 ソ連情報機関の史料から最近明らかとなったところによると、実際にはスターリンの命令にもとづいてナウム・エイティゴンが計 画し、日本軍の仕業にみせかけたものだという」  

 これが契機となって張作霖爆殺事件の“謎解き”に火がついた。 まず同著の引用注釈から『GRU帝国』という著書が注目された。 そして、『正論』および『諸君』といった論壇誌が、同著の著者 であるドミトリー・プロホロフに対するインタビュー記事を引用する形で、〝コミンテルン説〟の特集を組んだのである。

▼コミンテルン関与説の根拠  

 加藤康男氏は2011年に『謎解き「張作霖爆殺事件」』を執筆した。同氏の著書をもとに〝コミンテルン説〟に関する記述 (要旨)を拾ってみよう。

・当時、ソ連政府は張作霖との間で鉄道条約を結んでいたが、両者の間で激しい抗争が進んでいた。反共主義を前面に押し出す張作霖側は、ロシアが建設した中東鉄道(旧東清鉄道)を威嚇射撃 したり、鉄道関係者を逮捕したりしたため、遂にOGPU(筆者 注:ソ連KGBの前身機関)は張作霖の暗殺計画を実行計画に移 す決定を下した。

・1回目は、1926年9月、奉天にある張作霖の宮殿に地雷を設置し、爆殺する計画であり、極東における破壊工作の実力者といわれたフリストフォル・サルヌインが実行計画を立案した。し かし、爆発物の運搬を担当したサルヌインの部下工作員が爆発物 を発見されて、失敗した。

・1927年4月6日、張作霖の指示によって行なわれた北京の ソ連大使館捜索と関係者の大量逮捕が動機となり、1928年初頭に2回目の暗殺計画が行なわれた。今度は、1926年から在上海ソ連副領事をカバーとする重要な諜報員ナウム・エイティゴ ン(トロツキー暗殺の首謀者、詳細は拙著『情報戦と女性スパイ』 を参照)から、サルヌインとその補佐役のイワン・ヴィナロフと いう工作員に暗殺計画が下され、爆殺に成功した。

▼英国は当時、複数の犯行説を考察していた  

 さらに加藤氏は、1928年7月3日付けの北京駐在英国公使 ランプソンによる本国外相宛ての次の公電に着目している。そこ には以下の記述がある。 「(殺意を抱く者は)ソヴィエトのエージェント、蒋介石の国民 党軍、張作霖の配信的な部下など多岐にわたる。日本軍を含めた 少なくとも4つの可能性がある。どの説にも支持者がいて、自分 たちの説の正しさを論証しようとしている」  

 こうした根拠をもとに加藤氏は、少なくとも以下の4つの説が ある旨主張する。 (1)関東軍の計画にもとづく河本の犯行 (2)ソ連コミンテルンの犯行 (3)張作霖の息子である張学良が、コミンテルンの指示を受けて、 もしくは親子の覇権争いの側面から実行 (4)河本大作や関東軍の上層部がコミンテルンにそっくり取り込 まれたうえで実行  

 これらのうち、どの仮説であった蓋然性が高いのかなど、その “謎解き”は加藤氏の秀逸なる著書に譲るとしよう。  

 ここで言うべきことは、結局のところ事件の謎は現在に至るも解明されていない。すなわち、関東軍の謀略にもとづく河本犯行説であったと断定するに足る明確な歴史的根拠はないのである (やったかもしれない)。

▼仮説を一つに絞ることの問題点  

 インテリジェンス上の問題は、加藤氏も指摘するように「一途 に河本犯行説と信じ切って問題を収束させようとした」という点 にある。 仮説を一つしか立てなければ、その仮説が外れてしまえば、もはや対応できなくなる。想定外だと、慌てふためくことになる。  

 また、仮説を一度立ててしまうと、とりあえずの仮説がアンカ ー(錨)のようになって、新たな情報が提供されても修正できな くなる。これを「アンカーリングのバイアス」という。

 さらに、一度仮説を立てると、それを証明する情報ばかり集め てしまう。これを「確証バイアス」という。  

 つまり、さしたる調査や検証なしに、張作霖事件が河本の犯行であるという唯一の仮説を立ててしまったことで、それを裏付け る具体的な資史料ばかり集めてしまい、河本犯行説を定説へと導 いた可能性がある。すなわち、バイアスによって河本犯行説が導 かれたかもしれないのである。

▼イラク戦争を教訓にした米情報機関  

 米国は、サダム・フセイン大統領が大量破壊兵器を保有してい るとの仮説に基づいて、それを肯定する情報ばかり集めて、強引 にイラク戦争へと向かった。

 その反省から、米国では「代替分析」という手法に着目し、当 然と思われている前提を疑問視して分析するという手法を取り入 れた。 この手法は、「イラクは大量破壊兵器を保有していない。フセ インは事実を話している」という前提で分析を行なうものである。  

 ここから学ぶことは、張作霖爆殺事件においても「河本は真実 を言っている。河本は犯行を行なっていない」という前提で調査 しなければならなかったということだ。そうすれば、英国のよう に複数の仮説にたどり着いたかもしれなかったのである。

▼発達していた英国の情報理論と情報体制   

 当時の日本においては、仮説は複数立てて、不確実性を低減するなどという情報理論も確立されていなかった。また、国家としての情報体制も未熟であった。  

 当時、英国は外務大臣指揮下のMI6を世界的に展開し、グロ ーバルな視点から新生ソ連の動向を把握し、共産主義の波及を危険視していた。だから英国は、張作霖爆発事件に対するソ連の関 与という仮説にすぐに辿りついた。  

 ただし、その一つの仮説に固執することなく、他の仮説を立て て、これらを検証しようとした。

 また中国大陸においてはMI6とは別個に極東担当の特務機関 MI2c(陸軍情報部極東課)を活動させていた。つまり、情報 を複数筋から入手しようとしていた。

 つまり、仮説を複数立てて検証する、複数の情報ルートを活用 して情報の正確性を高めるといった、今日では当たり前の情報理論を確立していたのである。

▼遅れていたわが国の情報理論と情報体制  

 一方のわが国の当時の中国大陸における情報活動といえば、南満洲鉄道株式会社(1906年設立、満鉄)の調査部(満鉄調査部)と1918年のシベリア出兵後の特務機関の存在が挙げられ る。  

 しかしながら、英国のような国家情報機関があったわけではな いし、満鉄調査部と特務機関がそれぞれの所掌範囲の情報活動を ほそぼそと行なっていたにすぎない。

 また国家全体として見るならば、外務大臣・幣原喜重郎の対外ソフ ト路線の影響により、新生ソ連の共産主義に対する脅威は薄れて いた。つまり、国家の情報要求が未確立であった。

 だから、水面下における共産主義勢力の急速な浸透が探知できなかったのであ ろう。 孫文が1923年頃から連ソ容共・工農扶助を受け入れたり、 1924年1月にコミンテルン工作員ミハイル・ボロディンの肝 いりで国民党と共産党の国共合作(第一次)が成立させたりする ことに無頓着であった。 そして、1927年末から、蒋介石がドイツの軍事顧問団を招 き、軍事的・経済的協力(中独合作)を進めていたことも分からなかったのである。

▼張作霖爆殺事件の教訓とは何か  

 張作霖爆殺事件の検証において、コミンテルン説は一顧だにさ れなかった。このことが、その後の中国大陸において、ゾルゲと尾崎秀実(おざきほつみ)の邂逅を見逃し、やがては来日するゾルゲにせっせっと国家重要情報を漏えいすることになった根本の原因があるのかもしれない。  

 実は、もっと大きな問題は戦後の歴史認識問題である。今日の わが国の主流の歴史認識は以下のとおりである。

「関東軍が張作霖爆殺の謀略を企てたが 失敗した。その失敗を教訓にして満洲事変の契機となる1931年9月8日の柳条湖事件の開戦謀略を成功させた。これが『軍の命脈』である命令・服従関係を基本とする軍機の破壊を意味し、 日本陸軍の没落の第一歩となった」  

 戦後、このような歴史認識が主流となってきたので、最近のコ ミンテルン説が出てきても、これを否定して受けつけようともしない。これが社会全体の趨勢である。  

 たしかに、定説を覆すのは容易ではない。これをインテリジェ ンス用語で「レイヤーイング」(多層化バイパス)という。前任者が利用した前提や 判断を、後任者が疑うことなく鵜呑みにして分析を行なうバイア スである。  

 分析の前提に間違いがあっても最初に戻って修正することは、 その後の分析をすべて否定することになるため、なかなか修正さ れないのである。

 米国の上級情報委員会と大量破壊兵器委員会は、 イラクの大量破壊兵器保有に関する情報分析で、この多層化バイ アスがあったと結論付けた。

 歴史学は実証を重んずる学問である。歴史家は真実を追求すればよいし、そうしてほしい。しかし、我々のような一般人は真実 を追求するほどの知識もなければ、技能もない。また、歴史の真実が分かったところで、現実問題の対処が変わるわけではない。

 では、 どうすればよいのか? インテリジェンスにおいては、仮説に妥当性があるのではあれば、“白黒をつける”のではなく、複数の仮説を同時に受け入れ ることが鉄則である。 なぜならば、そうした柔軟性こそが、対策としての戦略・戦術 における不確実性を低減することになるからだ。

 歴史を学び、そこには必ずしも定説があるわけではないことに気づく。複数 の仮説があるし、さまざまな見方があるならば、これを受容する。そして、複数の仮説を組み合わせて、いく つかの未来の発展方向を予測するうえでのヒントを得る。それが インテリジェンスに携わる者にとっての歴史を学ぶ意義なのだと、 筆者は考える。

 この点は、多くの方に賛同いただけるのでは ないかと思う。

投稿者:

atsumori

元防衛省情報分析官。1960年広島県生まれ。退職後、ほそぼそとインテリジェンス・リテラシーの普及活動を開始。著書、『情報戦と女性スパイ』『中国戦略“悪”の教科書』、『中国が仕掛けるインテリジェンス戦争』、『戦略的インテリジェンス入門』など。その他、講演、雑誌投稿など。

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