わが国の情報史(33)  昭和のインテリジェンス(その9)   ─満洲事変から日中戦争までの情報活動(2)─

▼はじめに

さて、前回は満洲事変以後の陸軍の情報体制について述べまし

たが、今回は海軍の情報体制について述べることとします。

▼海軍の想定敵国の第一位は米国  

日露戦争以後、わが国陸軍はロシアを、一方の海軍は米国を想 定敵国とした。そして、両者の対抗意識が軍備の拡充競争を引き起こすことになる。これを憂慮した元帥山県有朋は、1906年 にわが国の「国防方針」の必要性を上奏し、同年末に初の帝国国 防方針が確立した。  

この国防方針の確定に際して、山県は想定敵国の第1位ロシア、 第2位清国、第3位にロシアと清国の2国を挙げた。しかし、海軍との討議の末に、第1位ロシア、第2位米国、第3位フランス が想定敵国となった。このような経緯からしても、陸軍と海軍に は国際情勢の脅威認識における相違があったのである。  

日本海軍が米国を強く意識した背景には、1980年代末から 1990年代の諸島にかけての、ハワイ併合、フィリンピン占領 といった太平洋への進出に加えて、米国の「オレンジプラン」の存在があった。

日露開戦直後から、米国は陸海軍の統合会議を開 催して、世界戦略の研究に着手した。つまり、ドイツを仮想敵国 にしたのが「ブラックプラン」、イギリスに対しては「レッドプ ラン」、日本に対してはオレンジプランといったように色分けした戦争予定準備計画を策定したのである。  

オレンジプランでは、日本はフィリピンとグアムに侵略するこ とが想定された。つまり、米国が占領した太平洋の拠点を防衛す る上で、日本は想定敵国に位置付けられたていたのである。  

そして日露戦争における日本勝利によって、オレンジプランはより具体化されていくことになる。日露戦争が終った翌年の19 06年には、セオドア・ルーズベルト大統領は、軍部に対し米海 軍をすみやかに東洋に派遣する計画を命じた。その具体化事例の 一つが、1907年から1908年にかけての「白船事件」であ る(わが国の情報史24)。

こうした米国の動向に対し、海軍は「国防方針」にもとづき米国を想定敵国とし、1907年4月「用兵綱領」を策定し、来攻 する米艦隊を我が近海に向けてこれを撃滅する方針を確立した。  

その後、国防方針は1915年(第1次改定)、1923年 (第2次改定)の二度の改定を経て1936年に第3次改定を行 なうことになる。 第1次改定は、1915年にわが国が袁世凱政権に対して行な った「対華二十一カ条要求」に対して中国の対日感情が悪化したことを背景とする。この改定では、仮想敵国は第1位ロシア、第 2位米国、第3位清国となった。  

第2次改定は、帝政ロシアの崩壊(1917年)、ワシントン 海軍軍縮条約の締結(1922年)を背景とする。この改定では、 「帝国は特に米国、露国および支那の三国に対して警戒する必要がある。なかんずく近い将来における帝国国防は、わが国と衝突 の可能性が最大であり、かつ強大な国力と兵備を有する米国を目 標として、主としてこれに備える」とされた。つまり、ロシアの 崩壊により、わが国として米国が仮想敵国の第一位となったので ある。  

第3次改定は、ロンドン軍縮会議(1930年)、満洲事変 (1931年)、国連脱退(1933年)を背景として行なわれ たが、米国、ソ連(露国)、支那、英国を仮想敵国とする用兵綱 領が規定された。

▼第一次大戦後の米国の対日情勢認識  

第一次世界大戦の結果、「ブラック」のドイツは破れ、「レッ ド」の英国は疲弊した。そして、米国にとっては「オレンジ」の 日本の脅威のみが増大することになる。  

第一次世界大戦の結果、わが国は、マーシャル、マリアナおよ びカロリンといった旧ドイツ領南洋諸島を委任統治領とした。1 919年のベルサイユ会議において米国は、自らのフィリピンの防衛を損なうとして、日本の委任統治に強く反対したが、画策むなしく、日本による委任統治が認められた。  

これにより、日本は赤道以北の西太平洋を支配した。一方の米 国はハワイとアリューシャンの北東太平洋を支配し、日本の支配 した領域の西方にグアムとフィリピンを孤立した前哨拠点として 保持することになった。  

こうした情勢下、米国はますます対日脅威認識を強め、オレン ジプランの具体化を進めることになる。 1931年の満洲事変に対して米国は強く日本を批判した。1 932年1月、スチムソン国務長官は「不戦条約(ケロッグ・ブ リリアン条約)の条項と義務に反する手段によってもたらされた 事態や条約や協定を承認するつもりはない」とする方針を日中両 国に通知した。それはのちに「スティムソン・ドクトリン」と呼ばれることになる。  

ただし、米国は当面は世界恐慌への対処を重視したことから対 日経済制裁などの実力行使は行われなかった。またイギリスも事 態が満洲に限られている間は黙認するという態度をとった。これ が、わが国の満洲国の建設と地歩拡大につながった。  

そしてスティムソン・ドクトリンは、以後の米国の対日政策の 基調となり、やがてルーズベルト大統領の同ドクトリンへの支持 を表明、次いで石油と屑鉄の対日禁輸(ABCD包囲網)となり、 太平洋戦争へと向かうことになる。

▼海軍軍令部の改編  

海軍における情報を担当する機構の創設は1884年(明治1 7年)2月に遡る。当時、海軍省軍務局が廃止され、海軍省軍事 部を置いた際に、それまでに軍務局が管掌していた事務のほか、 艦隊編成(第1課)と出師準備(第2課)、海防(第3課)、諜報(第5課)を司ることになった。つまり、第5課が情報を担当 した。  

1886年には軍事部が廃止され、参謀本部海軍部が新設された。この改編にともない、海軍部第3局が諜報(情報)を担当す ることとなり、その内部構成は第1課が欧米諜報、第2課が隣邦諜報および水路地理政誌となった。このように海軍は早くから米 国に対する情報を重視した。  

その後、情報を司る海軍の機構は数回の改編を経て、満洲事変開始前には海軍軍令部第3班が情報を担当していた。第3班は第 3班長(少将)以下、第5課と第6課で編成され、第5課が欧米 列国を、第6課がソ連および支那ならびに戦史研究を担当した。  

満洲事変と上海事変を経た1932年10月、海軍軍令部の機構改編にともない、第3班は、班長直属を創設するとともに4課編成(第5、第6、第7、第8)となった。  

これにより、第3班長直属が情報計画および情報の総合などを担当し、地域別の軍事並び国情概況調査については、第5課が南北アメリカ、第6課が支那および満洲国、第7課が欧州列国を担 任することになった。なお、第8課は戦史の研究並びに編纂を担 当した。  

つまり、満洲事変以後に日米間の緊張化が高まったことで、アメリカ合衆国を含む米州を単独の課が担当することとなったのである。一方、ソ連は第7課の担当になった。  

満洲事変以後の対ソ連脅威の高まりに対しては、陸軍の情報体制の強化が図られた。1936年6月に参謀本部第2部第4課第 2班が昇格して第2部第5課となり、いわゆるソ連課が新設され た。つまり、陸軍においては、単独の課がソ連を担当することになった。

一方の米州は参謀本部第6課の、いわゆる欧米課が欧州 列国を見る一部として米国を見ていた。また、第2部長はもとよ り、欧米課長も“ソ連派”で占められ、陸軍における対米軽視の風潮があった。  このように満洲事変以後、陸軍はソ連重視、海軍は米国重視の傾向がさらに顕著になったのである。  

なお、1933年10月に海軍軍令部条令の廃止によって、従 来の班が部に改められ、第8課が廃止されたので、軍令部第3班 は軍令部第3部となり、その下に第5課、第6課、第7課がぶら 下がる体制になった。

▼米西岸における駐在員の配置  

満洲事変以後、太平洋における米艦隊の動向が、日本海軍の重 大関心事項となった。このため1932年7月、米東岸で語学の 修得や米国事情の研究に専念していた、中沢佑少佐と鳥居卓哉少佐を米太平洋艦隊の根拠地である米西岸に駐在させ、米艦隊の動 向監視、訓練状況、艦隊乗組員の対日感情の把握などを行なわせ ることとした。  

ところが、鳥居少佐は不慮の自動車事故で死亡したため、中沢少佐のみがサンフランシスコ郊外のサンマテに拠点を構えて艦隊動向の情報収集にあたった。しかし、わずか一人の駐在員が広大 な米西岸を管掌するのには無理があったため、1933年12月 から宮崎俊男少佐がロサンゼルスに着任して、中沢少佐と協力し て米艦隊の情報にあたることになった。  

その後、中沢少佐の帰国(サンマテ駐在の廃止)、シアトルへ の駐在員の新規派遣、シアトル駐在員の廃止、ロサンゼルス駐在 員の交代などを経つつ、ほそぼそと、艦隊の情報収集は継続され た。しかしながら、駐在員1名での情報収集には限界があり、め ざましい成果は確認されていない。

▼通信諜報の本格運用  

わが国の通信諜報の開始は日露戦争時期に遡る。そして海軍の通信諜報組織は、1929年初めに海軍軍令部第2班に第4課別室を新設し、きわめて少人数の暗号解読班が編成されたことが、 その濫觴(らんしょう)である。  

当時の傍受は、初め海軍技術研究所の平塚で、ついで東京通信隊橘村受信所を利用した。第4課別室の職員は、中佐×1、少佐 ×1、大尉×2、タイピスト×3であり、作業の主目標は米国と 英国の軍事通信であった。  

1932年の上海事変(第一次上海事変)において、通信諜報 の有効性が認識されことから、その組織強化が図られた。上海事 変が勃発するや、海軍は上海特別陸戦隊に対中国作業班(C作業 班)をおき、中国軍の暗号解読にあたらせた。これが上海機関 (X機関)の発端である。  

作業班は、南京政府が、わが空母を攻撃する意図のもとに、その飛行機群を杭州飛行場に集中待機させたことを探知し、我が航 空部隊をもって同飛行場を先制攻撃した。  

1933年1月、ハワイ近海で実施する大演習の通信諜報かを 実施するため、「襟裳」(タンカー)をハワイ近郊に派遣し、数 名の軍令部部員を乗艦させ、米海軍大演習に関する情報収集を実 施した。その結果、米海軍演習の構成部隊の編制や演習の経過などが判明した。  

1933年10月、海軍軍令部条令の改正によって、従来の第 2班第4課別室は第4部第10課となった。上海機関を特務機関 として同地の海軍武官の下に付属させることに改められ、A作業 班(対米)を増強した。  

1936年になると、傍受専門の受信所を新設することになり、 埼玉県大和田に大規模な受信所が開設された。当初に配置された 電信員は、予備役下士官を嘱託として採用した者がわずか9名であった。  以上、満洲事変以後の海軍の情報体制をざっと見てきたが、米 国との衝突を想定し、少しずつ対米情報体制を強化したものの、 全般的には不十分であった。

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