わが国の情報史(24)

大正期のインテリジェンス(その2)

▼一時しのぎの「石井・ランシング協定」

第一次世界大戦は明治末期からの不況と財政危機とを一挙に吹き飛ばした。日本は英・仏・露などの連合軍に軍需品を、欧州列強が撤退したアジア市場には綿織物を、アメリカには生糸を輸出して大幅な輸出超過となった。

また、大戦により世界的な船舶不足になり、日本はイギリス・アメリカに次ぐ世界第三位の海運国となった。こうした日本の大躍進に警戒したのが、ほかならぬアメリカであった。

第一次世界大戦が開始した頃から、中国大陸における日米両国の利権問題やアメリカ国内での日本人移民排斥運動の動きなど、日米間には緊張した空気が流れていた。

1917年(大正6年)11月2日、日本の特命全権大使・石井菊次郎とアメリカ合衆国国務長官・ランシングとの間で「石井・ランシング協定」が締結された。 この協定は、中国の領土保全・門戸開放と、地理的な近接性ゆえに日本は中国(満州・東部内蒙古)に特殊利益をもつとする公文書であった。さらに付属の秘密協定では、両国は第一次世界大戦に乗じて中国で新たな特権を求めることはしないことに合意した。

つまり、日米双方は第一次世界大戦の最中であったので、無用な衝突を回避するために双方の妥協点を見出すという、一時しのぎの“苦肉の策”に出たのであった。

▼シベリア出兵によってアメリカの対日警戒が増大  

第一次世界大戦の最中の1917年、レーニンの指導するボリシェヴィキにより世界最初の社会主義革命が起き、1918年にロシア帝国は崩壊した。 1918年3月、ボリシェヴィキ政権は単独でドイツ帝国と講和条約(ブレスト=リトフスク条約)を結んで戦争から離脱した。

連合国側としてドイツと戦っていたソ連が裏切ったのである。 そのためドイツは東部戦線の兵力を西部戦線に振り向けることができた。これに慌てた連合国は、ドイツに再び東部戦線に目を向けさせるとともに、社会主義国家の誕生を恐れて、シベリアのチェコスロバキア軍救援を名目として内戦下のロシアに干渉戦争を仕掛けた。

しかし、英・仏はすでに西部戦線で手一杯で、大部隊をシベリアへ派遣する余力はなかった。そのため必然的に地理的に近く、本大戦に陸軍主力を派遣していない日本とアメリカに対してシベリア出兵の主力になるように打診した。

1918年7月になってアメリカがチェコスロバキア軍救援のために日米共同で限定出兵することを提起すると、寺内正毅内閣は1918年8月、シベリア・北満州への派兵を決定した(シベリア出兵)。

しかし、アメリカと日本の派兵目的は異なっていた。日本は共産主義の浸透が満州、朝鮮、そして日本に浸透することを警戒していた。そのため、オムスクに反革命政権を樹立することを目的に出兵兵力をどんどんと増大させた。

一方のアメリカの出兵目的は日本の北満州とシベリアの進出に抵抗することであった。アメリカは共産主義を脅威だとは認識していなかった。だから、ロシアの共産主義者と戦う日本軍に協力せず、かえってボルシェビキに好意を示す有様だった。

▼パリ講和条約における日米の軋轢

第一次世界大戦は1918年11月に休戦が成立した。両国とも連合国の一員として、戦勝国として1919年のパリ講和会議に参加した。 パリ講和会議のヴェルサイユ条約では、日本は山東省の旧ドイツ権益の継承が認められ、赤道以北の旧ドイツ領南洋諸島の委任統治権を得た。

しかし、その少し前に朝鮮で起きた「三・一独立運動」の影響もあって、日本のドイツ利権の継承に対して、北京の学生数千人が1919年5月4日、ヴェルサイユ条約反対や親日派要人の罷免などを要求してデモ行進をし、デモ隊は暴徒化した(五・四運動)。 この五・四運動が中国共産党の設立を促し、やがて泥沼の日中戦争へとわが国は向かうことになる。

山東還付問題については会議中からアメリカが反対した。我が国は戦勝国として臨んだ講和会議であったが山東還付問題でアメリカから批判されたことで、講和会議に参加した外交官や新聞各紙の記者は衝撃を受けた。

▼ペリー来航の目的

このように大正期において日米対立が顕著になるが、その対立の歴史はさらに遡る。 1853年のベリー来航の第一の目的は、アメリカは日本を捕鯨船団の寄港地にすることであった。当時、太平洋を漁場にした捕鯨の最盛期でもあった。日本近海には、アメリカの捕鯨船がひしめきあい、灯火の燃料にするため盛んにクジラをとっていた。

しかし、アメリカのもっと大きな狙いは中国(清)利権の獲得であった。つまり、当時4億人の市場を持つ中国への市場拡大を狙っていた。そのための寄港地が日本というわけである。

米国のアジア大陸の進出の目論みは南北戦争(1861~65年)によって、いったん中断されたが、この戦争が終わり、米国は本格的にアジア・太平洋の支配を狙いにスペインとの戦争を開始した。 1898年にハワイ、次いでフィリピンを獲得し、1902年までにフィリピン独立戦争に勝利してここを植民地として、加えてウェーク、サモア、ミッドウェー等を押さえ、南太平洋上に日本を取り巻く形で、太平洋の支配に乗り出した。

そして、いよいよ中国への進出である。しかし、すでに1898年、イギリス・フランス・ドイツ・ロシアが相次いで租借地を設けるなど中国分割が進んでいた。 そこで、アメリカの国務長官ジョン=ヘイは、1899年と1900年の二度にわたり、「清国において通商権・関税・鉄道料金・入港税などを平等とし、各国に同等に開放されるべきである」として、中国に関する門戸開放(もんこかいほう)・機会均等の原則を求めた(門戸開放宣言)。さらに1900年、ヘイは清国の領土保全の原則を宣言した。

▼アメリカのオレンジ計画

1904年、満州利権をめぐって日露戦争が生起した。この時、イギリスとアメリカはロシアの満州占領を反対して、日本支持を支持したが、日本がロシアに勝利したことで、アメリカは日本に対する脅威を増大させていった。

アメリカは1904年、陸海軍の統合会議を開催して、世界戦略の研究に着手した。ドイツを仮想敵国にしたのがブラックプラン、イギリスに対してはレッドプラン、日本に対してはオレンジプランといったように色分けした戦争予定準備計画を策定したのである。

オレンジ計画では、日本はフィリピンとグアムに侵略することが想定された。つまり、アメリカが占領した太平洋の拠点を防衛する上で、日本は想定敵国に位置付けられた。日露戦争の日本勝利によってオレンジ計画はより具体化されていった。

▼白船事件

オレンジ計画の具体化のひとつともいうべき事象が白船事件である。アメリカは1907年に大西洋艦隊を西海岸のサンフランシスコへ回航すると議会で発表した。この時にはまだ世界一周航海であることは伏せられていた。

同年12月16日、大西洋艦隊は出港し、翌1908年の3月11日にメキシコのマグダレナに到着すると、3月13日にルーズベルトは航海の目的が世界一周だと発表した。 つまり、アメリカは大西洋艦隊を大挙して太平洋に回航させ、日本近海に近づけるということ行動に出たのである。

日本の連合艦隊の2倍の規模もある大艦隊の接近は日本に恐怖をもたらした。船は白いペンキが塗られていたのでかつての黒船と区別して「白船」と言われた。

米国は、海軍力を誇示することでロシアのバルチック艦隊を破った日本海軍を牽制したのである。 アメリカのハースト系新聞その他は、日本軍がこれを迎え撃った場合は大戦争が始まるということで、世界に一斉に煽情的な報道を流した。 これに対して、日本政府とマスコミは「白船歓迎作戦」に出た。この作戦が奏功し、何事もなくアメリカ艦隊はサンフランシスコへ去っていった。

▼日本人移民排斥運動

日米関係の悪化のもう一つの背景には、アメリカ国内における日本人の移民問題があった。 1848年1月、カルフォルニア州で金鉱山が発見されると、鉱脈開発や鉄道工事で多数の中国人労働者が受け入れられた。

しかし、中国人労働者の入植によって自分たちの地位が奪われるとして、カルフォルニアの白人労働者が1860年代から脅威を覚えるようになった。そこで、1882年に中国人の移民が禁止された(排華移民法)。

他方、日本からのハワイへの移民は明治時代初頭から開始されていた。上述の排華移民法の成立と1898年のアメリカによるハワイを併合が、日本人による米大陸本土への移民を促した。

こうして日本人移民は1900年代初頭に急増した。急増に伴って中国人が排斥されたのと同様の理由で、日本人移民は現地社会から排斥されるようになり、1905年5月に日本人・韓国人排斥連盟が結成された。

1906年4月、サンフランシスコ大地震が発生した。この際、大地震で多くの校舎が損傷を受け、学校が過密化していることを口実に、サンフランシスコ当局は公立学校に通学する日本人学童(総数わずか100人程度)に、東洋人学校への転校を命じた(日本人学童隔離問題)。

この事件を契機に、アメリカでは「黄禍」は「日禍」として捉えられるようになった。この隔離命令はセオドア・ルーズベルト大統領の異例とも言える干渉により翌1907年撤回されたが、その交換条件としてハワイ経由での米本土移民は禁止されるに至った。 その後も、アメリカ合衆国の対日感情は強硬になり、1924年7月(大正13年)、排日移民法が制定されたのであった。

▼ワシントン会議における対日圧力

1921年11月12日から 翌22年2月6日かけて、第一次世界大戦後のアジア太平洋地域の新秩序を形成するための国際会議がアメリカのワシントンで行われた。 この会議には、太平洋と東アジアに権益がある日本・イギリス・アメリカ・フランス・イタリア・中華民国(中国)・オランダ・ベルギー・ポルトガルの計9カ国が参加したがソ連は会議に招かれなかった。

同会議では、重要な三つの条約が締結された。第一は「四か国条約」(1921.12月)である。これは米・英・日・仏が参加した太平洋の平和に関する条約であり、これによって日英同盟は破棄された。

第二は「9か国条約」(1922.2)である。これは中国問題に関する条約であり、中国の主権尊重、門戸開放、機会均等などが約束され、「石井・ランシング協定」は破棄された。 つまり、この条約締結により、日本の中国に置ける特殊地位は否認され、た。山東省における旧ドイツ権益を中国へ還付することになった。

第三は「海軍軍縮条約」(1922.2)であった。この条約により、主力艦保有はアメリカ・イギリスが各5、日本3、フランス・イタリア各1.67として、今後10年間は老朽化しても代艦を建造しないことが約束された。 日本国内では、この軍縮条約をめぐって、海軍軍令部が対英米7割論を強く主張したが、海軍大臣で全権の加藤友三郎が部内の不満を押さえて調印した。

▼帝国国防方針の改定

こうした情勢下、わが国は1918年(大正7年)と1923年(大正12年)に帝国国防方針を改定した。 1918年の第一次改定では、海軍の対米作戦計画は、「敵海軍を日本本土近海沿岸に引き付けて集中攻撃を行う」こと本旨とする守勢作戦であった。

これがため、米艦隊の現出を硫黄島西方海域やフィリピン島東方海面に予想し、我が根拠地を奄美大島、沖縄に求めることにしていた。 しかし、1923年の第二次改定では、「開戦劈頭、まず敵の東海における海上兵力を掃討し陸軍と協同してその根拠地を攻略し、西太平洋を制御して帝国の通商貿易を確保するとともに敵艦隊の作戦を困難にならしめ、然る後、敵本国艦隊の進出を待ちこれを邀撃し撃滅する」と改められた。

つまり、陸海軍は対米戦の場合、フィリピン島攻略を本格的に取り組むことになった。また、毎年実施された海軍大演習はこれに準拠して訓練の向上に努力させられたが、陸軍部隊の南洋委任統治領に使用することなど全然考慮されていなかった。

▼ワシントン条約からの撤退

1930年(昭和5年)に締結されたロンドン海軍軍縮条約は日本で政治問題化し、海軍内では艦隊派(条約撤退)と条約派の対立が生起した。当初は条約派が主導してようやく締結にこぎ着けたが、32年からは艦隊派が優勢になった。 1931年の満州事件とともに、海軍軍縮条約を締結するかいなかの重大な案件が持ち上がった。

元老、重臣は国力からして国際協調路線であった。陸軍も満州国建設や対ソ作戦準備の点から条約維持を主張した。 林 銑十郎(はやし せんじゅうろう、1876年~ 1943年)陸軍大臣は、大角岑生(おおすみ みねお、1876年~1941年)海軍大臣に対して条約継続を強く希望した。

岡田 啓介(おかだ けいすけ、1868年~ 1952年)総理も、軍縮会議の存続を望み五相会議で論議されたが、大角大臣は、「それでは部内が収まらない」として、ワシントン会議よりの脱退を主張した。かくして、海軍出身の岡田総理は1934年12月、ワシントン海軍軍縮条約脱退通告を米政府にいたした。

とかく陸軍が引き起こした満州事変及び日中戦争が太平洋戦争を招いたとの文脈で捉えられるが、太平洋戦争の遠因はペリー来航から始まっていた。そして、大正期の軍縮条約を是としない海軍艦艇派は対米戦に向けて準備を進めたのである。 そこには、陸海軍を統制する国家の情報機関の不在と、国際問題を大局的に分析するインテリジェンスが欠如していた。

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