わが国の情報史(23)

大正期のインテリジェンス(その1)

▼光と影の大正期  

1912年(明治45年/大正)7月30日、明治天皇崩御の報が日本列島を駆けめぐった。ここに「明治」の御代は終わり大正が始まる。実際は、明治天皇は前日の29日の午後10時4 3分に崩御されたが、公式には2時間遅らせて30日の0時43 分とされた。  

その大正天皇は1926年(大正15年/昭和元年)12月2 5日に崩御された。この時、元号は「光文」と報じられたが、誤報として「昭和」に訂正された。おおらかな時代ではあった。  

大正はわずか14年半と短かかったこともあり、明治と昭和の 激動期に挟まれ、ともすれば注目度が薄い。しかし、インテリジェ ンスの歴史において、シーメンス事件、シベリア出兵、ワシント ン海軍軍縮会議など、決して無視してはならない事件・事案があ る。

大正は明治末の重苦しい時代から解き放たれて、「大正デモク ラシー」「大正ロマン」に象徴されるように社会全体は解放的で軽快なイメー ジがある。たしかに、そこにはサラリーマンを中心とした中間層の文化的な生活欲求によって生み出された明るい生活があった。  

しかし、社会のさまざまな局面で矛盾や問題が露呈していった。 中間層の生活の豊かさと、その影で深刻化する矛盾や問題の進行 という、“光と影”に彩られた大正期を駆け足で眺めてみよう。

▼世界史的には激動の時代  

世界史的にはまさに激動期といえるだろう。20世紀初頭の欧州は、英・仏・露などからなる三国協商と、独・墺・伊からなる三国同盟との両陣営の対立を軸として、複数の地域的対立を抱える複雑な国際関係を形成していった。  

そこに、1914年6月28日、オーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者であるフランツ・フェルディナント大公夫妻がサ ラエボで銃撃された。これが第一次世界大戦の幕開けとなった。  

各国は英・仏・露からなる連合国と、独・墺・伊およびオスマ ン帝国からなる同盟国との両陣営に分かれ総力戦を展開した。中立を宣言していたアメリカまでもが1917年にドイツに宣戦布告する。

この戦争は1918年まで続き、おびただしい惨劇を出 して、やがて連合国の勝利で終わることになる。

わが国は日英同盟に基づき、連合国側に参戦し、中国大陸と太平洋地域のドイツ支配地(膠州湾の青島、マーシャル、マリアナ、 パラオ、カロリンのドイツ領北太平洋諸島)を攻撃したほか、ま た一部艦隊を地中海に派遣した。  

ドイツ権益を奪ったかたちの日本は、「対華21カ条の要求」 を出し、袁世凱政府にほぼその要求を呑ませた。これにより、日 本は山東半島などに中国大陸侵出の足場を築いた。また太平洋方 面でもドイツ領を委託統治領として獲得した。

しかし、このような大陸進出の本格的な動きを、アメリカ・イ ギリスが警戒して、日本の大陸政策をめぐる英米との対立の出発 点となったのである。

▼第一次世界大戦で戦訓を学ばなかった日本  

この大戦では、戦車戦や砲兵戦の重視、歩兵における機関銃の役割、炊事車の導入、隊員の休養、家族とのつながり、精神的ケ アなど、多くの学ぶべき戦訓があった。  

海上作戦においては、潜水艦戦と対潜作戦が重視された。この作戦とともに、敵の潜水艦の位置を突き止める熾烈な情報戦、とくに暗号解読戦が繰り広げられた。

空中作戦では新兵器として航空機が登場した。開戦時にはよう やく飛ぶのが精いっぱいであった戦闘機は、わずか4年の大戦中 に大きく進歩した。これにより、偵察飛行、水上機による基地攻 撃、爆撃機による都市爆撃が可能となった。このため、イギリス、 フランス、ドイツでは陸軍航空隊が組織として誕生した。

航空機のもたらす偵察情報はしばしば戦闘に大きな役割を果た し、砲兵観測は既存の直接射撃主体の砲兵の戦術を一新するなど、 航空機は陸戦の勝敗を決する上で非常に重要な兵科となった。

このように、第一次世界大戦は戦訓の宝庫であったが、わが国はあくまでも補助的な限定参加であったこともあり、真摯にその教訓を得ようとはしなかった。また、明治維新の功労者は一人、また一人と第一線を退き、こ の世を去ろうとしていた。つまり、そこには羅針盤のない“昭和丸”の暴風における船出が待っていたことになる。

▼第一次世界大戦で繰り広げられたスパイ戦  

第一次世界大戦を経験し、世界各国は軍事のみならず政治、経済、 思想などを総合的に駆使する総力戦の重要性を認識するに至った。  

戦争が総力戦になるにともない、スパイ戦も熾烈化していった。 この大戦では、ドイツと英・仏との間でも熾烈なスパイ戦争が繰 り広げられた。ドイツは英・仏に対してスパイを潜入させる工作を活発化させた。有名なところで、女性スパイのマタハリが世界 的に注目された。  

ドイツは中立国スペインなどを拠点に英・仏に対するスパイ活動を展開した。 他方、英国は優れたシギント(信号情報)機能を駆使するとと もにロシアの協力を得てドイツの暗号解読に成功し、大戦のほぼ全期間にわたってドイツの艦隊に関する情報を把握していた。  

中東方面では、イギリスから派遣された「アラビアのローレンス」こと、トーマス・エドワード・ローレンスは、オスマントル コに対するアラブ人の反乱工作を展開して、有名になった。  

しかし、わが国は専門の国家中央レベルの情報機関を設置するでもなし、日露戦争後からずっと諜報・謀略を組織的に管理するという方向も示さなかった。

昭和初期まで諜報、謀略を担当する部署はまったくの小所帯で あった。参謀本部第5課第4班でやっと謀略を扱うようになった のは1926年(大正14年)末のことである。

▼シベリア出兵と日ソ基本条約  

大正期にはわが国とソ連との緊張と修復の関係が続いた。第一次世界大戦の末期、1917年に十一月革命(旧:10月革命)が勃発した。革命政府がドイツとの停戦に乗り出すことにな ると、アメリカ・イギリスなど連合国はロシア革命に干渉して革 命政府を倒し、対ドイツ戦争を継続する勢力を支援しようとした。

日本も同調し、1918年には日本軍もシベリア出兵を行ない、 シベリアで革命政府のパルチザンと戦い、途中、ニコライエフス ク事件で日本軍守備隊が全滅するなど、成果を上げられないまま、 22年までシベリアに留まった。  

1917年のロシア革命によって、日ソ両国は国交を断絶した。 しかし、ソビエト連邦の安定化とともに、冷却した日ソ関係が日本経済に大きな不利益を発生させていた。  

基本条約の内容は、外交・領事関係の確立、内政の相互不干渉、 日露講和条約の有効性再確認、漁業資源に関する条約の維持確認および改訂、ソ連側天然資源の日本への利権供与を定めたものであった。日本は、軍を北樺太から撤退させる一方、北樺太の漁業 権と石油・石炭開発権を獲得した。  

当時、日本は共産主義への敵視が強かったため、シベリアから の撤兵後も国交正常化の動きには国内の右翼や外務省は反対した。 外務大臣の幣原喜重郎は、共産主義の宣伝の禁止を明文化して、 国交回復を実現した。

また1924年から、イギリスやイタリアがソ連と国交を回復 した。こうしたことから、1925年1月20日、日本はソ連と 日ソ基本条約を締結して、国交を正常化させた。  

他方、1921年のワシントン海軍軍縮会議の結果調印された 四カ国条約成立に伴って、日英同盟が1923年8月17日に失 効した。このことも、第二次世界大戦での敗戦の原因となった。

▼特務機関の設立  

わが国は米英の要請でシベリアに出兵した(1918~22年)。19 19年に関東都督府が関東庁に改組されると同時に、関東都督府 の陸軍部が、台湾軍、朝鮮軍、駐屯軍と同じく、関東軍として独 立した。  

じ来、満洲地方が日本の大陸進出の拠点として本格的に活用さ れるようになった。また、満洲は経済資源の宝庫であり、満洲事 変にはじまる日中戦争の発火源ともなった。  

陸軍史上初めて特務機関なる名称が登場したのはシベリア出兵 時に設立されたハルビン特務機関である。 初期の特務機関はシベリア派遣軍の指揮下で活動し、特務機関員の辞令はシベリア派遣軍司令部付として発令された。

当初はウ ラジオストク、ハバロフスクなどに設置され、改廃・移動を繰り 返しながらシベリア出兵を支援した。  

黒沢準(くろさわひとし)少将が率いるハルビン特務機関はイ ルクーツク、ウラジオストク、ノボアレクセーエフカ、満洲里、 チチハルなどに駐在していた情報将校グループを統轄し、シベリ ア撤退後も現地に残って終戦まで情報収集にあたった。  

ハルビン特務機関の設置以降、わが国は中国大陸において諜報・ 謀略などの特殊任務(秘密戦)を担当する機関を次々と設置し、 これを特務機関と呼称した。なお、特務機関の名称の発案者は、 当時のオムスク機関長であった高柳保太郎(たかやなぎやすたろ う)陸軍少将で、ロシア語の「ウォエンナヤ・ミシシャ」の意訳 とされる。 こうした特務機関を中心にした諜報・謀略活動は、昭和期の土 肥原賢二(どいはらけんじ)大佐などの特務活動へとつながるこ とになる。

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