わが国の情報史(21) 日露戦争の勝利の要因その3 -諜報・謀略工作-

大橋武夫氏による日露戦争の6つの勝因

兵法家の大橋武夫氏は、日露戦争の勝利の要因を(1)英国との同盟(1902年) (2)開戦から始められた金子堅太郎の終戦工作 (3)高橋是清の資金獲得とロシアに対する資金枯渇  (4)明石元二郎(大佐)の謀略工作 (5)特務機関の活動(青木宣純) (6)奉天会戦、日本海海戦の勝利 と総括している。以下、(4)と(5)を中心に考察したい。

明石大佐による諜報網の構築

明石元二郎は1864年に福岡藩で生まれ、陸軍大学を卒業後、ドイツ留学など を経て、フランス、ロシアで公館付陸軍武官などを歴任した。日露戦争後は台湾総督を歴任し、最終的には陸軍大将になった。

明石は1901年にフランス公館付武官として赴任、1902年にロシアのサンクトペテルブルクに転任し、その後、ロシアの膨脹主義に反発するスウェーデンに駐在武官として移動した。同地にて旧軍の特務機関の草分け的存在である「明石機関」を設置し、ロシア国内の反体制派「ボルシェビキ」への活動を支援した。

1904年1月12日の御前会議で戦争準備の開始が決定されると、児玉源太郎参謀次長は、駐ペテルスブルク公使館付陸軍武官の明石元次郎(当時、中佐)に対し、ロシアの主要都市に非ロシア系外国人の情報提供者を獲得するよう命じた。

明石大佐は日露戦争では参謀本部からの工作資金100万円を活用し、地下組織のボスであるシリヤクスと連携し、豊富な資金を反ロシア勢力にばら撒き、反帝勢力を扇動し、日露戦争の勝利に貢献したとされる。 当時の国家予算が2億5000万であったことから、渡された工作資金は単純計算では現在の2000億円を越える額となり、明石の活動に国家的支持が与えられていたことがうかがえる。  

明石の活動について、児玉の後の参謀次長である長岡外史は、「明石の活躍は陸軍10個師団に相当する」と評し、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世も、「明石元二郎一人で、満州の日本軍20万人に匹敵する戦果を上げている。」と言って称えたと紹介する文献もある。

また一説には、明石がレーニンと会談し、レーニンが率いる社会主義運動に日本政府が資金援助することを申し出たことや、明石の工作が内務大臣プレーヴェの暗殺、血の日曜日事件、戦艦ポチョムキンの叛乱等に関与し、後のロシア革命の成功へと繋がっていったとされる。

さらに、レーニンが「日本の明石大佐には本当に感謝している。感謝状を出したいほどである。」と述べたとの説もある。 ただし、こうした明石の活動は、明石自身が著した『落花流水』や、司馬遼太郎が執筆した小説『坂の上の雲』によるいささか誇張的な評価がもたらしたようである。

稲葉千晴氏は、『明石工作』(丸善ライブラリー、平成7年5月)において、明石がレーニンに会談した事実や、レーニンが上記のような発言を行った事実は確認されていない、と結論付けた。 また、稲葉氏によれば、現地でも日本のような説は流布していないことが示された上、ロシア帝国の公安警察であるオフラナが明石の行動確認をしており、大半の工作は失敗に終わっていたとされる。

一方で稲葉氏は、工作(謀略)活動の成果については否定するものの、日露戦争における欧州での日本の情報活動が組織的になされていたことに注目している。その中で明石の収集した情報が量と質で優れていたことについて評価している。 稲葉氏によれば、明石による諜報網の構築は、現地の警察当局のきびしい監視によって阻まれるが、日露開戦までに明石は少なくとも三名のスパイを獲得することに成功した。

明石の諜報網が日露戦争の終戦まで維持されたこと、明石がロシア革命諸党の扇動工作(謀略工作)に着手することが容認されたことは、すくなくとも明石の設置した諜報が無用ではなかったことの証であるといえよう。 また明石の謀略工作は陸軍中野学校の授業でも題材として取り上げられるなど、当時の日本軍の秘密工作に大きな影響を及ぼしたことは間違いない。

青木大佐による諜報網の構築

日本が満州において、ロシア軍に勝利するためには、戦場でロシア軍に上回る戦力集中しなければならない。そのためには、極東ロシア軍の総戦力を正確に判定することが必要となる。

満州軍総司令部は、敵陣奥深くに蝶者や斥候を派遣するとともに、欧州駐在の陸軍武官に命じて、唯一の兵站線であるシベリア鉄道の兵員、物資の輸送量を把握することに決した。 参謀次長・児玉源太郎は、日露戦争が早晩開戦を迎えることは必至と判断し、主戦場となる北支方面の守備を強化する必要性を認識した。

そこで、児玉が参謀本部作戦部長の福島安正に相談したところ、袁世凱を説得できる人物として青木宣純(あおきのりずみ、1859~1924)が推薦された。 青木は1897年から90年にかけて、清国公使館付武官として天津に赴き、ここで袁世凱の要請で軍事顧問に就任し、袁との信頼関係を構築していたのである。

1904年7月、青木は満州軍総司令部附として北京に派遣された。青木は、北京で特別任務班を組織し、袁の配列下にある呉佩孚(ごはいふ)を動かして満洲とシベリアの国境一帯に諜報網を組織してロシア軍の動向を監視した。 こうして得られた情報は、青木の後任として袁世凱の軍事顧問の任にあたった坂西利八郎(ばんざいりはちろう)大佐を通じて、天津駐屯地司令官の仙波太郎少将に手渡され、そこから東京の参謀本部に転送されていった。

石光真清らの活躍

このほか日露戦争においては、「花大人」こと花田仲之助(はなだちゅうのすけ、1860~1945)中佐が、本願寺の僧侶となって1897年にウララジオストクに潜伏、日露戦争時には満洲に潜入し、スパイ活動に従事した。

石光真清(いしみつまきよ,1868~1942)大尉は陸軍士官学校を卒業したものの軍人を退職し、一般人の菊池正三に変装して1899年にシベリアに渡り、スパイ活動に従事した。石光は花田帰国後のシベリアの諜報活動において活躍したのである。

このほか民間人としては、日清戦争時に従軍記者として活動した横川省三(※(よこかわしょうぞう、1865~1904)が日露戦争の開戦にあたって、清国公使の内田康哉(うちだこうさい、のちの外務大臣)に誘われ、特別任務班第六班班長となり、沖禎介(おきていすけ)とともにスパイ活動に従事した。横川はロシア軍の輸送鉄道の爆破を試み、ラマ僧に変装して満洲に潜伏するが、ハルビンで捕らわれ、1904年に銃殺刑となった。

旧軍随一の女性スパイ「河原操子」

こうした日本軍の特務活動において、河原操子(かわはらみさこ、1875~1945)が多大な活躍をした。

大本営は青木宣純大佐を長とする諜報謀略機関の特別任務班(計71人)を北京に配置し、次の任務を与えた。 一、日支(日本、中国)協力して敵状をさぐる。 二、敵軍背後の交通線を破壊する。 三、馬賊集団を使って敵の側背(そくはい)を脅威する。

この特別任務班はロシア軍の側背地域を広く、そして縦横に活躍しているが、その足跡をたどってみると、各班の多くが内蒙古の喀喇沁(カラチン)王府(北京東北二五〇キロ、承徳と赤峯の中間)を経由しているのが目をひく。(大橋武夫『統帥綱領』) なぜならカラチンの宮廷には河原操子がいたからである。

彼女は1875(明治八)年、信州(長野県)松本市で旧松本藩士・河原忠の長女として生まれた。父親は明治維新後、私塾を開き漢学を教えていた。父の忠と福島安正は幼なじみという関係にある。  

長野県師範学校女子部を卒業したあと、東京女子高等師範学校(現在のお茶の水女子大学)に入学したが、病のため翌年中退し帰郷した。1899年に長野県立高等女学校教諭になるが、清国女子教育に従事したいと思うようになった。

1900年夏、実践女子学園の創設者で教育界の重鎮である下田歌子が信濃毎日新聞を訪れた時、操子は下田に「日支親善」のために清国女子教育への希望を申し述べた。

1900年9月、下田歌子の推薦により、操子は横浜の在日清国人教育機関「大同学校」の教師となった。ここで二年間の教師生活を終えて、操子は上海の務本(ウーベン)女学堂に赴任した。ここでは彼女は「生徒と起居を共にしてこそ教育がなせる」との信念のもと、女学堂の衛生環境の改善に取り組みつつ、女生徒の指導に力を尽くしたのである。

1902年の内国勧業博覧会を視察したカラチン王より、カラチンで女子教育にあたるべき日本女性の招聘が要請された。操子の上海での勤務ぶりに注目していた内田公使が、1903年に内蒙古カラチンに初めて開設された女学校「毓正(いくせい)女学堂」の教師として、彼女を派遣した。

操子は1903年12月、驢馬の旅を九日間続けて、カラチンに赴任した。カラチン王府は、操子の手になる毓正女学堂を支援し、王妹と後宮(こうぐう)の侍女、官吏の子女を学ばせた。女学堂の校長は王妃善坤であり、彼女は粛親王善耆(川島芳子の父)の妹だった。 王妃の授助もあり、女学堂はやがて60人の生徒を数えるまでになる。

学科は、読書、日本語、算術、歴史、習字、図画、編物、唱歌(日本、蒙歌)、体操で、読書は日本語、蒙古語、漢語からなっていた。操子は地理、歴史、習字の一部を除き、その他の全教科を受け持った。 

1907年まで毓正女学堂で教鞭をとり、あとの女子教育を鳥居きみ子(夫は考古学者の鳥居龍蔵)に託し、日露戦後の1906年2月に帰国。帰国の際には女学堂の生徒三人を連れ、実践女子学園に留学させている。

帰国後、横浜正金銀行ニューヨーク副支店長の一宮鈴太郎と結婚し渡米。1945年に熱海市で死去した。

操子のカラチン赴任には、内蒙古の戦略的要衝の地に親日勢力を扶植(ふしょく)する、日本人が常駐せずに生じていた工作網の間隙を埋めるという日本側の思惑があった。その赴任には北京からカラチンまでの沿道地図を作成するために参謀本部の軍人が同道していたように、国家の密命をおびた派遣であった。

日清戦争後の三国干渉によって日本を譲歩させたロシアは、満洲に軍事力を展開し、さらには朝鮮半島に触手を伸ばし始めていた。それに対し、日本はロシアのライバルであるイギリスとの同盟締結に成功してロシアに備えた。 

日露戦争が迫り来る過程で、内蒙古にもロシアの手が伸びていたが、日本を訪れたことのあるカラチン王だけは日本に好意的であった。カラチンには日本の軍事顧問も派遣されていたが、戦争が勃発すれば武官の滞在は認められない。そこで、粛親王の顧問を務める川島浪速(かわしまなにわ、1866〜1945)や陸軍の福島安正ら松本の同郷人の思惑が内田公使を動かし、カラチンに民間人の操子を派遣することになった次第である。

操子は教育活動とは別に、カラチン王府内の親露勢力の動向を探る「沈」としての使命を果している。諜報・秘密工作の使命を受けた横川省三などは途中カラチンに立ち寄り、その際は操子が彼らの世話をした。それぞれ潜入中の特別任務班員とのやりとりは、王府内に親露派が多くいたので苦心があった。

中国名での秘密の情報交換ほか、操子はカラチン王夫妻にも守られ任務を果たすことができた。 操子は、この頃続々と入り込むロシア工作員たちの猛烈な働きかけを排して、カラチンの親日政策を守りとおし、常にロシア軍の動静を北京に報告するとともに(彼女には文才があった)、この地を経由する特別任務班員に対し、物心両面にわたる非常な援助を与えた。(大橋武夫『統帥綱領』)

愛国心の泉「からゆきさん」  

そのほか日清・日露戦争時期においては、東アジア・東南アジアに渡って娼婦として働いた日本人女性「からゆきさん」が、日本軍の貴重な情報源となった。  

日露戦争では、マダガスカルに入ったバルチック艦隊の所在を電報で送ったのも遠い異国に送られた「からゆきさん」であったという。マラッカ海峡を四十数隻のバルチック艦隊が通過しているのを見て、「からゆきさん」たちは現地領事館に駆け込み、金銭、着物、かんざしなどを提供し、「お国のために使って下さい」と言ったという逸話もある。

前出の石光真清は1899年にシベリアに渡り、90年2月、寄宿先のコザック連帯騎兵大尉ポポフにともなわれて愛暉に入り、そこで諜報活動の得難い担い手となる水野花(お花)と出会う。彼女は馬賊の頭目の妾であった。

ハルビンに潜入する際には、お君という女性の計らいで馬賊の頭目増世策に会い、その手引きで中国人の洗濯夫人に化けてハルビンに到着した。 彼女たちは「シベリアのからゆきさん」で、1883(明治16)年ごろにウラジオストクに現れたという。九州天草地方の出身者が多く、その数は増えていった。

お花とお君も馬賊の頭目の妾などとなっていたが、二人とも中国語、変装術、人事掌握術など、どれをとっても天下一品であった。やがて彼女たちは石光真清のスパイ活動に協力して大活躍する。そこには馬賊に対するむごい仕打ちを行なったロシア軍への反感と、故郷日本に対する愛国心が満ち溢れていた。 彼女たちの交流は石光真清の自伝『曠野の花―石光真清の手記2』に詳述されている。

このように日清・日露戦争においては、名もない女性たちの活躍があった。彼女たちは出自に恵まれず、高等教育を受ける機会もなく、貧乏がゆえに親元を離れて遠い異国に渡ったが、日本を愛していた。故国のためなら犠牲もいとわず、その愛国心の泉はいつも満ち溢れていたのである。

投稿者:

atsumori

元防衛省情報分析官。1960年広島県生まれ。退職後、ほそぼそとインテリジェンス・リテラシーの普及活動を開始。著書、『情報戦と女性スパイ』『中国戦略“悪”の教科書』、『中国が仕掛けるインテリジェンス戦争』、『戦略的インテリジェンス入門』など。その他、講演、雑誌投稿など。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA