わが国の情報史(22) 日露戦争におけるインテリジェンスの総括

わが国の情報活動に問題はなかったのか

日露戦争においてわが国は、日英同盟を背景とするグローバルな情報収集と的確な情勢判断によって、日露に対する世界の思惑を見誤ることなく、戦争前からの和平工作とあいまってロシアに辛勝した。

しかし、すべてのインテリジェンスに問題がなかったわけではない。  大江志乃夫氏は自著『日本の参謀本部』において、日露戦争における情報活動の問題点を以下のとおり指弾している。

◇「ドイツの大井中佐と英国の宇都宮中佐が軍源として活躍したが、総司令部がその情報を活用した形跡はあまりない。瀋陽会戦後の沙河の会戦の初期、黒溝台の会戦の際、宇都宮中佐及び大井中佐から、ロシア軍による兵力集中や大攻勢に関わる真相情報が総司令部に伝えられたにもかかわらず、総司令部はそれらの情報を無視した。

◇参謀本部第二部は韓国、清国に情報網を張り巡らしていたが、第二部の情報将校はロシア軍に関する知識と戦術的な判断能力にかけていたため、作戦情報の役に立たなかった。シベリア鉄道の輸送能力に関する情報は、判断資料たりえなかった。

◇ 作戦部は情報部の活動に信頼をおくことができず、作戦に必要な軍事情報 活動を作戦部自身がおこなうことになった。すなわち、情報活動は、情報部が行う謀略活動と作戦部が行う軍事情報活動に二分化し、作戦部は主観にもとづく情報無視の作戦を行い、作戦面における苦戦を招いた。作戦部系と情報部系の情報組織が対立して派閥争いまで演じ、情報作戦に反映されることを困難にした。

外務省の暗号がロシアに筒抜け

このほか、当時のわが国の暗号解読の能力は、西欧列強やロシアに比べて格段に劣り、ロシアの軍暗号や外交暗号は解読できなかった。逆に日本の外暗号は完全に解読されていたとの指摘がある。

開戦日の1904年2月6日、ペテルスブルクで栗野慎一朗公使がロシア外務省を訪れ、ラムズドルフ外相に国交断絶の公文書を手渡したとき(明石が同行)は、同外相は口を滑らして「ニコライ皇帝は日本が国交断絶をすることをすでに承知している」旨のことを述べたとされる。  

明石は日記のなかで、「ロシアは既に日本の暗号解読に成功し、この国交断絶の通告以前から、日本の企図の大部分はロシアに筒濡れであったものと判断する」と明記している(島貫『戦略・日露戦争』)。

パリの本野一郎公使によれば、日露戦争の前年、ロシアと本国との暗号通信がロシアの手に渡ったとされる。その事件現場はオランダの日本公使館であった。 在オランダの日本公使は独身であったので、ロシアの情報機関はロシア人美女をオランダ人と偽って女中として住み込ませた。

この女中が公使の熟睡中に、公使の机から合鍵を使って暗号書を盗み出し、それを諜報員に手渡し、諜報員が夜明けまでに写真を撮って、女性が暗号書を金庫に戻しておくという方法であった。 この方法により、五日間で暗号書の全ページを複写されてしまったのであるが、公使は盗まれたことを全く気づかなかったという。

この秘密は、暗号書を盗み出させたロシアの諜報主任が開戦直後、こともあろうに、パリの本野公使のところへ、それを五千フランで売りに来たことから発覚した。外務省は慌てて暗号書を更新し、それ以降、在外公館では特殊な金庫に保管させるようにした。

しかし、この新暗号も今度はフランス警察庁によって解読された。同警察庁の警視で片手間に暗号解読作業に従事していたアベルナが、たった二か月の作業で千六百ページにわたる日本外交暗号書のほとんどを再現した。親ロ中立国であったフランスはそのコピーを日露戦争後半にロシア側に手渡したという。

戦略情報は知る深さが重要

安全保障及び軍事の情報は、使用者と使用目的によって、戦略情報(戦略的インテリジェンス)と作戦情報(作戦的インテリジェンス)に区分できる。

前者は、国家戦略等の決定者が国家戦略等(政略、国家政策を含む)を決定するために使用し、後者は作戦指揮官が作戦・戦闘のために使用する。 両者にはインテリジェンスとしての共通性はあるが、その特性はやや異なる。

戦略情報では、「相手国がいかなる能力をもっているか」「いかなること意図を有しているか」「将来的にいかなる行動を取るのか」「中立国がどのような思惑を有しているか」、などを明らかにする必要がある。 だから時間をかけて、慎重に生情報(インフォメーション)を分析してインテリジェンスを生成する必要がある。戦略情報には「知る深さ」が必要といわれる所以である。

作戦情報は知る速さが重要

他方、作戦戦場では作戦指揮官は刻一刻と変化する状況を瞬時に判断して、意思決定をおこなわなくてはならない。したがって、作戦指揮官は完全なインテリジェンスを待っている余裕などない。だから、正確なインテリジェンスよりも、生情報の迅速かつ正確な伝達の方がより重要となる。すなわち作戦情報には「知る速さ」が求められる。

現代戦は双方の歩兵が徒歩前進して戦闘を交えるといった様相にならない。航空機、ミサイルなどが大量出現した。偵察衛星、航空機、無人機、地上監視レーダーなど、さまざまな敵状監視システムが開発された。また無線、衛星電話などの情報伝達機器も発達した。

これらにより、戦況速度は格段に速くなり、意思決定にはさらなる迅速性が求められるようになった。そこには敵の意図的な欺瞞や、我の錯誤が生じる。迅速性の要請から、戦場指揮官は様々な真偽錯綜の生情報から、戦闘の“勝ち目”を判断することが増えていく。つまり、独断専行が求められるのである。

かのクラウゼヴィツは、「戦争中に得られる情報の大部分は相互に矛盾しており、誤報はそれ以上に多く、その他のものとても何らかの意味で不確実だ。いってしまえばたいていの情報は間違っている」(『戦争論』)と述べている。 これは基本的には日露戦争当時も現代も変化はないということである。

「情報無視の独断専行」という一言で片づける傾向はいいのか

太平洋戦争における失敗の原因を「情報無視の独断専行」という一言で片づける傾向にある。政略・戦略の立案では、これは絶対に回避すべきである。回避することもできる。しかし、作戦・戦闘では必要な情報が入手できない、あるいは真偽錯綜する情報のなか独断専行的に作戦指導することもあるということである。 結果論で言えば、「おろかな無謀な戦い」ということになるが、致し方のない面もある。

戦略情報こそが重要

日露戦争においては「戦略情報が勝利した」といっても過言ではない。つまり、官・軍・民が一体となってグローバルな情報活動により、良質のインテリジェンスを生成して、それを「6分4分」の戦闘勝利で即時停戦という国家戦略に生かしたのである。

他方、戦術情報の面では、通信網などの組織化が不十分なために必要な情報を得られなかったなどという状況が、さまざまな局面で生起したことが伝えられている。また、大江氏の指摘するような問題点もあったのであろう。 つまり、日露戦争では作戦情報では問題もあったが、戦略情報では勝利した。太平洋戦争の敗因は、戦略情報と作戦情報の両方の失敗である。ここが違っていた。

戦略情報が成功すれば、作戦情報の失敗は挽回できる。しかし、戦略情報が失敗すれば、作戦情報が成功しても意味はない。作戦情報の成功が、誤った戦略の遂行を助長し、やがては墓穴を掘ることにもなりかねない。

日清・日露戦争においては、日英同盟にもとづくグローバルな情報収集体制と、獲得した情報をインテリジェンスに昇華させる国家・軍事指導者の国際感覚と戦略眼があった。無謀な泥沼戦争に突入させないために、戦争の潮時を心得ていた。このことは現代日本にとっての重要な教訓である。

昨今、中国の台頭、北朝鮮の暴走、ロシアの不透明な行動などが安全保障上の脅威になっている。こうしたなか、わが国が進路を誤ることなく、万一の侵略事態に適切に対応するためには、安全保障・軍事常識に裏打ちされた戦略情報が不可欠である。 是非とも、国家を挙げての戦略情報を強化していただきたいし、今日、陸上自衛隊(かつての調査学校は廃止となり、戦略情報課程はなくなった。現在の新設の情報学校は作戦情報にほぼ特化している)にもこのことを申し述べたい。  

情報と作戦の分化の問題

明治期の参謀本部の沿革をみるに、情報と作戦の分離独立という問題にはいろいろと紆余曲折があったようである。 日露戦争では、満州軍司令部の作戦課と情報課を分離独立したが、松川敏胤作戦課長は部下の田中義一少佐(後の首相)の進言を受け入れ、満州・朝鮮の作戦地域における情報活動は作戦課で担当することを主張した。 作戦課の情報活動は、敵情に関する詳細な情報を収集しその活躍は明治天皇に上奏され、感状まで授けられた(柏原『インテリジェンス入門』)。

しかし、ここでは情報将校に松川系と福島(安正)系の両派が生じ、暗闘、反目するという結果を生んだという。 松川派は「福島派の情報など、しょせん馬賊情報に過ぎない。戦術眼のない馬賊のもたらした情報など、およそ不正確でタイミングも遅すぎ、とても作戦の役に立たないと」主張した。福島派も「諜報には長い経験が必要なのだ。速成の情報将校が役に立つか」と反発した。 その結果、日本軍の情報には、拮抗する二種類が存在することになり、状況判断の上で混乱が生じる一因ともなった、という。

よく、「情報部が作戦部から独立しないことの弊害は、とかく作戦担当者が、自ら策案した作戦に都合がいいような情報ばかりを選択して、主観的で独りよがりなものになりがちな傾向を生むことである」とされる。よって「組織構造から、情報部と作戦部は分離されるのが望ましい」とされている。

この主張は戦略レベルではまったく異論がない。戦略情報の作成には歴史観に裏打ちされた情報分析力や国情情勢に対する専門的知識などが不可欠である。いくら偵察衛星やシギント(通信情報)機能が発達したからといっても、敵対国の意図までは洞察できない。それらの解明には、情報部署に所属する専門の情報分析官の力が必要である。まさに「諜報には長い経験が必要だ」との福島派の言葉が身にしみる。

また、「インテリジェンスの政治化」(※)という問題もある。仮に、作戦部がインテリジェンスを独自に生成するとなれば、作戦部は作戦指揮官の作戦構想に合致したインテリジェンスを提供する傾向が強まり、インテリジェンスの客観性は失われる。

しかし、作戦戦場における作戦・戦術レベルでは、第一線部隊を指揮する作戦部がもっとも最新の状況を認知しているのが通常である。無人機やレーダーなどの戦場監視機器が発達し、それを管理・運用する者の専門的知識も必要ではあるが、戦略レベルの情報分析官のような長年の経験と広範な知識の蓄積は必要とされない。基本的には、あったこと、見たことを、諸元にもとづいて処理すればよいのである。

しかも、上述のように、現代戦は戦況速度が格段に速まり、戦場監視がデジタル化している。 つまり、戦場では過去にもまして、作戦部と情報部の垣根がなくなっている。作戦指揮官がインフォメーションに基づき、独断専行的に意思決定を行い、作戦部にその実行を命じるという状況が増えると考えられる。

日露戦争後の軍事の流れのなかで、情報部門と作戦部門の未分化が作戦部門の唯我独尊、自閉的集団化を引き起こし、ノモンハン事件以降はまったくの情報軽視が生起して、それが太平洋戦争の敗北に向かったという。

しかし筆者は情報と作戦の分化という問題は、戦略レベルと作戦・戦術レペルに分けて、よくよく考える必要があると考える。 実務においては、通り一遍の情報と作戦の分化論は危険である。

作戦戦場における情報部門の独立、すなわち現在の陸上自衛隊の情報科の新編独立(2010年3月26日、陸上自衛隊に情報科職種が新設)についても、この日露戦争の戦史をひも解き、問題点を創造的に見出し、改善していくことが必要であると考える。

(※)インテリジェンスの政治化 政策決定者がその政策や好みに合致した情報を出すよう圧力、誘導をし、情報機関の側にも権力におもねって、それに取り入ろうとする動き。情報分析官個人が自分の利益のために政策決定者が好むインテリジェンスを意識、無意識に生成することなどをいう。

謀略の問題

前出の大江氏は、「情報操作・情勢作為によって自己の政治的地位を高めてきた山県(有朋)のもとで育った情報将校たちは、正確な軍事情報の入手よりも、情勢を作為するための謀略に重きを置く傾向を強めた」と厳しく指弾している。

この問題についても、筆者の私見を述べたい。 明石工作については、最近の戦史研究によって明石の自著『落花流水』には相当の事実相違があることが判明している。 稲葉千晴氏が北欧の研究者として共同して行った最近の歴史検証では、「明石の大半の工作は失敗に終わった」とされている。 稲葉氏は「明石がおこなった反ツァーリ抵抗諸党への援助は、ロシア1905年革命に、そしてツァーリ政府の弱体化に、ほとんど影響を及ぼしていない。勿論、日露戦争での日本の勝利とはまったく結びつかなかったのである。」(稲葉千晴『明石工作』)と述べている。

稲葉氏の緻密な研究成果に異を唱えるものではないが、謀略の成果があったのか、なかったのかを検証するという作業には非常に困難性がともなうと考える。それを断定的に述べることは学問では是とされても、それを実務に取り入れることには注意が必要だと考える。

作家の佐藤優氏は、稲葉氏の研究資料となったパヴロフ・ペトロフ共著[左近毅訳]『日露戦争の秘密-ロシア側資料で明るみに出た諜報戦の内幕』(成文社、1994年)について、「そもそもロシア側の原資料は、明石工作はたいして意味がなかったというように情報操作している」と指摘している。

もちろん、これも佐藤氏の思い込みだと排斥することも可能であるが、諜報・謀略の世界では情報操作は当たり前である。日本軍のマニュアルにも謀略宣伝のやり方が書かれていたし、英国の首相チャーチルが国家的な謀略に手を染めていたこともほぼ明らかとなっている。

筆者は、次のことにも付言したい。謀略は心理戦の様相が大勢を占めるということである。つまり、緻密な歴史研究をもってしても、いかなる経緯や事象が民衆心理に対して、どの程度の影響をもたらしたのかなどは解明が困難であるということである。

暴動やパニックは一つの嘘から引き起こされる場合もある。この嘘が偶然だったのか、それとも情報機関が周到に仕組んだ偽情報だったのかは知る由もない。現在のテロが起こるたびに、ISは犯行声明を発出するがその関係性もよくわからない。ただし、ITCによって心理面の影響を受けている可能性は否定できない。 だから、謀略やテロといった代物は、因果関係が立証できなくても、因果を一応の前提として、その対処を研究する必要があるのである。

日露戦争後、日本は謀略を組織的に管理するという方向に向かわなかった。昭和初期まで諜報、謀略を担当する部署はまったくの小所帯であった。 参謀本部第5課第4班でやっと謀略を扱うようになったのは1926年(大正14年)末のことである。 参謀本部に謀略課(第8課)が設置されたのは支那事変後の1937年10月である。

謀略によって泥沼の日中戦争に向かい太平洋戦争に敗北したとする、のであればそれは謀略自体を悪と決めつけることによってのみ問題を解決するのは一面的である。むしろ適切に謀略を管理する組織体制がなかったことに問題の所在をおくべきだと考える。 

今日、「専守防衛」を基本とするわが国には、日露戦争当時に明石工作や青木工作のような謀略は不向きである。しかしながら、南京事件などをみるにつけ、中国が謀略、宣伝戦を仕掛けていると思われる節がいくつもみえる。 謀略を阻止するという観点からも、軍事部門を司る組織において、謀略の研究がなされる必要はあると考える。

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