はじめに
前回は、中国共産党が掲げる統一戦線とは何か、それがどのように日本に持ち込まれたか、統一戦線の国際版である国際統一戦線がどのような理論で進められたか、などについて言及しました。 今回は、その最終回です。
▼日本共産党を通じた指導工作
1950年6月の朝鮮戦争勃発によりGHQから赤旗が発刊停止処分を受けます。この苦境から脱するために徳田球一と野坂参三は中国に密航し、在外組織「北京機関」を創設します。 同機関は『自由日本放送』を開始し、1955年12月末まで、北京から同放送を通じて日本共産党に対して平和運動などに関する革命戦術指導を行ないました。
朝鮮戦争が一段落した1951年、中国は中央対外連絡部を設立し、世界の共産党との間に対外交流関係を樹立し、さらなる革命運動支援を展開します。 対外連絡部の初代部長は、かつての八露軍総政治部主任として対日工作に携わっていた王稼祥です。
彼は1949年の建国後は初代のソ連大使として赴任し、同地でコミンフォルムから影響を受けました。彼によってソ連共産党の統一戦線と中国の伝統的な統一戦線との理論的結合がなされ、それが対外工作や対日工作に活用されていきます。
副部長には廖承志、李初梨などの日本留学組が就きました。この陣容からみても、当時の中国共産党がいかに国際統一戦線の一環としての対日工作を重要視していたかがうかがえます。
中国共産党は日本共産党に対して、工作のための資金援助も行いました。米政府による「機密指定」が解除された『CIA報告書』によれば、1950~60年代、日本共産党は旧ソ連や中国から多い年で年間40万ドルの資金提供を受けたとされます。
これは、当時の日本共産党の年間資金額の4分の1に達しました。日本共産党への資金提供は日本当局の監視を逃れるために様々な偽装工作が施され、香港経由で受け渡されたといいます。
▼中国共産党による帰還兵の運用
さらに中国共産党による革命工作の驚くべき実態に目をむけてみましょう。
中国共産党は中国国内に教育機関を設置し、そこで立場の弱い日本軍の帰還兵を洗脳的に教育し、帰還兵を日本国内における革命遂行の中核とする戦術を採用しました。
そして日本国内に対日工作組織を設置し、米軍などに関する情報収集と日本共産党への指導・監視を行う一方、日本共産党に対する資金と武器提供を行ったというのです。
また、帰還兵を使って米軍施設に侵入させて米軍情報を入手させたほか日本国内における武装蜂起準備などを指示したといいます。
1953年から57年4月までの間、北京郊外にマルクス・レーニン主義学院が設立され、ここでは中国に抑留されていた日本人や密出国した日本共産党党員に対する革命教育が行われた模様です。
1956年から57年にかけて日本各地で交番襲撃、火炎瓶闘争、山村ゲリラ闘争などの非合法闘争が展開されますが、その首謀者はマルクス・レーニン主義学院の教育修了者であったとされます。
▼人事交流を通じた革命支援基盤の形成
では「統一戦線」の表のソフト部分を構成する人事交流についてみてみましよう。
1954年10月の国慶節に際し、日中友好協会の学術代表団と婦人代表団が民間旅券で中国に訪問しました。これにより正式な人事交流が開始されました。その後、超党派の国会議員からなる総勢100名近い日本代表団が訪中しました。
中国側からは1954年10月に中国紅十字会代表の李徳全(馮玉祥夫人)以下10名が、戦争犯罪人名簿などを携行して来日しました。この来日の表向きの目的は、日中戦争後なお中国にとらわれていたB、C級戦犯1000人を日本に速やかに帰国させることでした。
李氏は日中友好の使者として来日します。女性代表、赤十字といった、おおいに友好ムードを装いました。しかし、この訪日には対日工作専門家である廖承志と呉学文が随行しました。彼らは日本共産党との連絡調整に当たりました。つまり、日本共産党がこの来日のお膳立てに関わっていました。
そして、背後では中国において多くの帰還兵が革命教育を受けていたのです。すなわち、帰還兵を通じての暴力革命の準備が行われていたのです。つまり、表では日中友好交流というソフト戦術を繰り広げ、その水面下では暴力的な革命工作が着々と仕掛けられていたのです。
これが「統一戦線」工作の実態なのです。
▼親中派、左翼勢力の取り込み
統一戦線工作は日本共産党以外の親中派の取り込みにも余念がありません。統一戦線工作はあらゆる勢力をターゲットする。これも統一戦線工作の特徴です。
日米関係を重視する岸信介内閣が1957年に誕生しました。これにより日中関係は急速に悪化します。 岸内閣が日米安保条約改定に動き出すやいなや、中国はこれを「敵視政策」「日本軍国主義の復活」として攻撃しました。また、条約改定反対闘争を画策することを目的として、反政府側要人の招聘工作に乗り出したのです。
1959年には日本共産党代表、社会党代表、日本原水協代表及び総評の代表者がこぞって訪中しました。浅沼稲次郎・社会党書記長による訪中においては、中国人民外交学会代表団との間で「米国帝国主義は中日両国人民の共同敵であり、米帝国主義の支配から抜け出し、共同して戦う」ことをうたう共同声明が発表されました。
一方の中国側は1960年8月の第15回総評大会及び第6回原水禁世界大会に10名の訪問団を来日させました。1961年以降は労働者、青年、作家、法律家、婦人などの各種の人民団体を来日させ、その引き換えに日本の親中派、左翼勢力を中国に続々と招聘しました。
中国がこうした対日工作を強化した背景には、中ソ対立という国際秩序の変化がありました。中国共産党は日本国内でソ連勢力が浸透しないように、原水禁世界大会などに中国代表団を日本に送りました。
同時に、ソ連路線に近い社会党、総評及び労組の代表者を中国に招聘して、親中・反ソの宣伝工作と洗脳教育を行なおうとしたのです。
▼日中貿易を通じた指導、援助
中国による対日工作は人事交流のほかに経済も活用されました。あらゆる手段を総合的に駆使するのが統一戦線のさらなる特徴の一つです。その動向を見てみましょう。
岸内閣から池田隼人内閣に移行して、日中関係は雪解けへと向かいました。その結果、1962年からLT貿易(日中の責任者である廖承志、高碕達之助の頭文字)が開始されます。
しかしながら、経済交流とは名ばかりでした。LT貿易の基本的構造は日本の「友好商社」と、中国対外貿易部傘下の「輸出入公司」との間で行われる、特定間の交流にすぎなかったのです。
友好商社とは、中国側から「政治的に合格」と認められた一部の中小企業のことです。当然、日本共産党及び社会党などの親中政党と強い結びつきがありました。
たとえば、当時の友好商社の御三家といわれていた睦、羽賀通商及び三進交易の3社の社長及び幹部社員はいずれも日本共産党の党員でした。
日中貿易は中国共産党による革命政党の拡大を支援する構図となっていました。つまり中国共産党が友好商社に対して取引条件などの特別優遇措置を与えます。この引き換えに、取引額、利益の中から一定額を友好商社が日本共産党や日中友好協会に献金する仕組みが作られたことが、判明しています。
また友好商社による日中貿易は政治思想教育の場でもありました。友好商社と「輸出入公司」の商談は、友好商社代表が毎年春秋2回、広州で行われる広州交易会に出張し、中国側の代表と協議するというスタイルでした。
広州交易会においては毛沢東語録の朗読や、「米帝国主義打倒」「ソ連修正主義打倒」などのプラカード掲げたデモ行進などが義務付けられたのです。
LT貿易に伴い、1964年、中国展が東京と大阪で開催されました。同開催場では毛沢東を賛美する写真、刺繍、展示物が飾られ、中・小学校の社会科見学や、一般市民や零細企業の労働者などの参観が行われました。さながら政治学集会の様相を呈したのです。
▼各種出版物等を通じた大衆宣伝
統一戦線工作において手段としての宣伝工作は極めて重要です(中国の統一戦線工作(2)参照)。 中国共産党は日本の一般大衆に対する宣伝工作にも余念がありませんでした。
このための宣伝武器として大いに活用されたのが『人民中国』、『中国画報』及び『北京週報』のいわゆる対日宣伝三誌でした。 これら宣伝紙は、1950年代から60年代末にかけて、日本の一般大衆に向け、中国の歴史文化などを紹介しました。
この傍らでは、反米・反帝国主義闘争の体験談、社会主義の成果、各国人民との親善交流、毛沢東主義に対する賛歌、中国共産党の内外政策に関する論文などを織り交ぜた記事を発信しました。
当時の主要三誌の販売においては、日中友好協会が積極的な役割を果たし、その誌代は日中友好協会自体の収入源となっていたといいます。
このほかの対日宣伝工作として観光事業が挙げられます。1964年半ばから、中国共産党は日本からの観光団の受け入れを開始しました。そのため、中国旅行を取り扱う日本側の旅行会社が設立されました。これは、いうまでもなく日本共産党系列です。
かくして1965年から日本人観光団の訪中が行われたのです。 中国側は、旅行者に対して中国各地の都市や革命遺跡などを見学させ、社会主義中国の発展振りや、雄大な自然と長大な歴史を誇示しました。
旅行日程には毛沢東思想の勉強、日本による対米従属への非難、民間レベルの国交回復運動などの政治カリキュラムが組まれていました。
友好貿易と同様に日本側の旅行会社に対しては、旅行費用の一部がキックバックされ、日本共産党の資金に運用されたようです。
▼日本共産党以外の政党に対する接近
1966年、中国共産党と日本共産党との関係は宮本顕治・書記長の訪中(1966.2~66・4)により決裂しました。 中国共産党にとって革命同士であった日本共産党を失ったことは大きな痛手となりました。
しかし、中国共産党は傷心を振り払うかのごとく、日本共産党を分裂させ親中勢力を取り込む工作に打ってでました。 これは、まさしく「敵を分裂させ、その中から味方を取り込む」という統一戦線の応用であったわけです。
中国共産党は、まず日本共産党及びその外郭団体の内部分裂を画策しました。そして、そこから除名、除外された親中派人物や団体の取り込みを図ったのです。 その成果が表れ、日本共産党系の「日中友好協会」を分裂させ、新たに非日本共産党系の「日中友好協会(正統)本部」を結成することに成功します。
日中貿易の窓口であった日本共産党系の「日中貿易促進会」を解散させ、もう一方の窓口「日本国際貿易促進協会」は日本共産党系を排除し、親中派の元日本共産党党員らで構成される組織として再結成しました。
中国共産党は日本共産党分裂工作に加え、社会党左派勢力に対して接近しました。同派の国会議員団を招待し、社会党が毛沢東路線の下で一体化するよう教導・感化しました。こうした訪中議員団は『毛沢東語録』を日本に持ち帰り、日本版『毛沢東語録』として日本国内で販売するなどの活動を行いました。
中国共産党は保守派政治家への接近も図りました。親米派の保守本流に対しては「反動派」として徹底した闘争方針をとりましたが、反主流派に対しては親睦を名目とした接近や招待工作を強化しました。
1961年1月の社会党黒田寿男の訪中に際して、毛沢東は次のように述べます。
「日本政府の内部は足並みがそろっていない。いわゆる主流派と反主流派があって彼らは完全に一致していない。たとえば、松村、石橋、高碕などの派閥はわれわれの言葉でいえば間接の同盟軍である。あなた方にとって、中国の人民は直接の同盟軍であり、人民党内部の矛盾は間接の同盟軍である。彼らの割れ目が拡大し対立し衝突することは人民に有利だ」
そのほか中国は創価学会への接近を開始しました。当時、創価学会は既に1000万近い膨大な会員数を抱えていました。その利用価値を認識し、周恩来総理は廖承志に対して創価学会を最大限に利用すること指示したといいます。
▼中国の統一戦線工作に対する戦いが開始
以上、3回にわたって「統一戦線」とは何か、中国共産党が「国際統一戦線」理論をもとにいかなる対日工作を展開したのか、などをざっと述べてきました。 ここで注意すべきは、中国共産党による「国際統一戦線」の発想は現在も健在だということです。
中国共産党はかつて「親ソ反米」から「反ソ親米」に転換しました。今日は再びロシアとの戦略的パートナーシップを確立して対米牽制に出ています。 その一方で、歴史認識問題などにおいては、中国は米国とも統一戦線を模索して日本を牽制する動きも見せています。 さらには広範囲の結集を狙いに欧州にも働きかけを行っています。
たとえば習近平主席は2014年3月のドイツ訪問時、ベルリンのホローコスト記念館への視察を打診しました(これはドイツ側から断られた)。 おそらく、習主席は同記念館を訪問し「ナチスの歴史を深く反省したドイツ」を賞賛し、それと対比し「軍国主義と侵略の歴史を反省しない日本」との違いを浮き彫りにする狙いがあったのでしょう。
中国は現在、孔子学院の世界的な展開や「一帯一路」を掲げて経済力を梃子など、ソフト戦略を前面に出して広範囲に友人関係を構築しようとしています。 しかしその影では非合法な諜報活動によって米国などの最新技術の取得によってテクロノジーでの優位に立つことを狙っています。そして巧みな政治工作によって米国の一強支配を打破しようとしています。すなわち、統一戦線工作によって優位に立とうとしています。
こうした動きが、ついに今日の貿易戦争とよばれる米中対立となって噴出し始めたのです。
今日の米中対立は「米国ファースト」を掲げるトランプ大統領が、貿易不均衡を是正して米国の労働者を擁護するという、表面上は貿易戦争の様相がみられます。
しかし、これは単なる経済戦争にとどまるものではありません。中国によるAI、ビッグデータ、自動走行車、集積回路、3Dの技術盗用によって、中国が米国の技術的地位を脅かしている。さらには米国やその他におけるあらゆる階層にチャイナロビーを浸透させて、米国の政治的地位を脅かしている。これを放置しておくと、米国主導の国際秩序は崩壊しかねない。 「今対処しなければ、とんでもないことになる。中国の『ユナイテッド・フロント』に飲み込まれてしまう」
このような危機感が米国指導者の共通認識となっているとみられます。つまり、“中国覇権主義”という世界的な浸透への防波堤をいま築かねばならないということなのです。
そうはいっても米国も中国も全面的対決には至らないでしょう。表面的には、その都度、丁々発止のやり取りが行われ、外交合意はなされていくでしょう。それが相互依存関係、グローバル化の特質というものです。
だからこそ、水面下での優位性を追求するインテリジェンス戦争が展開されます。これが「統一戦線」工作をめぐる米中の対立の兆しというわけです。
米国は世界的な規模での孔子学院の追放、世界第2位の携帯電話会社ファーウェーの締め出しを開始しました。これらは、米国が中国の統一戦線工作に対して多面的な戦いが開始した、一つの兆候といえそうです。
▼わが国が注意すべきこと
米中関係がきな臭くなると中国は早速日本に秋波を送ってきます。これが、現在の日中関係の改善の兆しとなっています。 こうした中国のやり方は、まさに古森氏が指摘する統一戦線の理論実践にほかなりません。
わが国は、今後も中国の多面的・多角的な対日工作に留意することが重要です。とくにソフトイメージ戦略のもとにすすめられる思想・文化の対日浸透、あらゆる階層と領域に対する、大容量の人力とサイバーを活用した諜報活動、これによるテクノロジー盗用にはとくに注意が必要です。
また、日本共産党に対しても注意を怠らないことが必要でしょう。 日本共産党が政党として、行き過ぎた独裁政治を牽制するために政治活動を行っている限りでは問題はありません。しかし、その行動の先にある真の狙いに対して常に注視する必要があります。
日本共産党は1966年に中国共産党と分裂しました。それ以降、独自路線の推進を強調しています。1998年の関係修復以後も一定の距離を置いています。 中国共産党が自らの領土であると主張する尖閣諸島についても日本領土との姿勢を堅持しています。党綱領においても暴力革命の言及はみられません。
しかしながら革命の戦略・戦術である統一戦線を堅持しています。日本共産党の委員長の演説のなかでは、しっかりと統一戦線を堅持することが謳われています。 こうした根本的な理論を享有するかぎり、日本共産党は中国共産党との過去の歴史や今後の連携を完全に断ち切ることはできないでしょう。
中国は尖閣、沖縄などの略取、あるいは在沖縄米軍の撤退を図ることを狙いに対日戦略・戦術を立てている節が随所にみられます。その好機が訪れた場合、戦略・戦術を発動する前提となるのが保守政党を潰すことです。そのためにも、中国にとっては日本共産党と連携強化を画策することは理にかなっています。
一方、日本共産党が党勢を拡大していくためには、あらゆる領域に及ぶ中国のマネーや政治力を利用することは得策です。政権奪取の好機が到来したとみるならば強力な後ろ盾として中国共産党に接近する可能性は排除されないとみるべきでしょう。
それが、日本共産党が現在も堅持している「統一戦線」理論の真実の意味なのかもしれません? (以上、終わり)