わが国の情報史(40) 秘密戦と陸軍中野学校(その2) 陸軍中野学校の概要と創設の経緯

▼陸軍中野学校の概要  

 陸軍中野学校(以下、中野学校)は1938年7月、後方勤務 要員養成所として創設され、1945年8月の終戦時、疎開先の 群馬県富岡町および静岡県磐田郡二俣町において幕を閉じた。諜 報、防諜、謀略、宣伝からなる秘密戦に関する教育や訓練を目的 とする大日本帝国陸軍の学校であった。  

 なお中野学校という校名は、この学校の所在地が1939年4 月から45年4月まで現在の東京都中野区であったことに由来す る。  

 陸軍中野学校は創設されてから終戦による閉鎖廃校まで、わず か8年という極めて短期間の存在であったが、この間の卒業生は 2000名以上に及んだ。卒業生は世界のいたるところで情報勤 務という特殊の分野での職務に精励した。    

 当時、すべての陸軍管轄の学校は教育総監(陸軍大臣、参謀総 長と並ぶ三長官の一人)が所掌していた。しかし、中野学校は陸 軍大学校などともに教育総監部に最後まで所属しなかった数少ない異例の学校の一つであった。    

 一般軍隊においては、「百事、戦闘を以て基準とすべし」と定 められているが、中野学校においては「百事、秘密戦を以て基準 とすべし」の鉄則にもとづき、秘密戦を基準として学校全体が動 いていた。  

 秘密戦士を養成する学校が世に存在するのを秘匿するため、創 設当初の正式(勅令)の学校名は「後方勤務要員養成所」であっ たが正式名称は伏せられた。このため、同養成所の施設となった愛国婦人会別館の入り口看板は「陸軍省分室」であり、学校の存 在を秘匿するため、軍部外の教官による教育は市内随意の場所が 選定されて行なわれた。  

 中野に移転した以降も、学校の存在は秘匿され、看板は「陸軍 省分室陸軍通信研究所」とされた。教官、職員、学生の身分を欺 編、秘匿するため、校長以下の学校関係者は長髪とし、軍服を着 用せず、背広を着用した。

▼牛込に防諜機関が誕生  

 次に中野学校創設にいたる沿革について述べたい。1931年 9月の満洲事変以降、わが国は対ソ国防圏の前線を満ソ国境に推進させた。対外的には対ソ戦略の軍事力整備が要求されるとともに、対内的には国家総力戦、つまり国家総動員の整備や防諜体制の強化が行なわれた。  

 総力戦思想が普及するにともない、建軍以来の作戦第一主義で あった陸軍においても情報に対する関心が高まった。  

 まずは防諜への関心である。当時、秘密戦の一分野である防諜については、1899年に公布・施行された軍機保護法があったが現状に適さないものになっていた。このため「軍機保護法を改正すべし」との意見が軍内に起こった。  

 こうしたなか1936年3月、陸軍内の防諜を強化するために 防諜委員会が設置された。また、この頃から暗号解読が重視されるようになり、参謀本部第2部1班が暗号班となった。  同年8月、陸軍省兵務局(所属課は兵務課・防備課・馬政課) が新設され、岩畔豪雄中佐(いわくろひでお、1897年~19 70年、のちに少将)は、同年2月に生起した二・二六事件の後始末で兵務課課員として転職し、軍機保護法の改正案に着手した。 なお同改正法は1937年3月に議会を通過した。  

 兵務局設置当時、防諜業務は兵務課の業務とされたが、193 7年1月には兵務局防備課に広義の防諜業務を所管させることと して、防備課を防衛課に改編し、防諜業務を担当させた。  

 当時の兵務局長は、終戦時の陸軍大臣の阿南惟幾(あなみこれ ちか)少将、兵務課長は太平洋戦争開戦時の参謀本部第1部長の 田中新一(たなかしんいち)大佐であった。  

 田中大佐は、ハルピン特務機関から参謀本部第5課(ロシア課) に転属した秋草俊中佐(あきくさしゅん、1894年~不明、の ちに少将)、福本亀治(ふくもとかめじ)憲兵少佐、曽田峯一(そ だみねいち)憲兵大尉に命じ、科学的防諜機関を設立するための研究を命じた。  かくして1937年春、兵務連絡機関(兵務局分室)という防諜専門機関が牛込若松町の陸軍軍医学校の敷地奥に設置されたの である。

 初代班長は秋草であった。共産党問題研究者として省部 その他で高く評価されていた福本がこれを補佐し、十数名の組織 として立ち上げられた。  同機関の任務は国際電信電話の秘密点検、外国公館その他の信書点検や電話の盗聴、私設秘密無線局の探知などの防諜業務が主 であったが、あわせて情報収集にあたった。  

 この防諜組織の存在は省内でも一部の関係者以外には極秘とさ れ、1940年8月に陸軍大臣直轄の極秘機関である軍事資料部 となり、終戦に至るまで77名の中野学校出身者が勤務した。こ の数は、中野出身の割合から言えば、かなりの数であった。

▼後方勤務要員養成所が設立  

 防諜機関の設立とともに敵国に対して積極的な情報活動を行な うことを趣旨とする諜報・謀略機関の新設気運が高まった。しか し、当時の日本陸軍の謀略に関する考え方は「謀略は人によって 行なう」というものであり、科学性、合理性に欠けていた。つま り、「これを是正せよ」との要請が起きた。  

 そこで防諜機関設立の立役者となった岩畔、秋草、福本らを中 心に諜報・謀略要員を養成する機関の設立に向けての新たな取り 組みが開始された。  

 1937年秋、岩畔中佐は参謀本部に対し「諜報、謀略の科学化」という意見書を提出した。この意見書提出により、諜報・謀 略などの専門機関を設立するための準備が本格的に始動すること になる。  

 なお岩畔中佐は兵務局兵務課が新設された時(1936年8月) に、参謀本部第2部欧米課第4班所属替えになるが、同4班は1 937年11月に大本営の設置とともに新設された第8課(通称、 謀略課)になるので、これを見越した転属であったとみられる。  

 1937年12月、陸軍省軍務局の軍事課長・田中新一(19 37年3月に兵務課長から軍事課長に転出)が、秋草、福本、岩 畔を招き、「近代戦においては相手国からの秘密戦に対処する消 極的防衛態勢だけでは勝つことができないので、進んで相手国に 対する諜報、宣伝、防諜などの勤務者を養成する機関を早急に建 設する必要がある」として新組織の設立を検討するよう命じた。 かくして陸軍省が中心となって、かかる組織を建設するこことな ったのである。  

 秋草、福本、岩畔の3名は設立委員となり、訓育主任として満 州鉄道守備部隊から伊藤佐又(いとうさまた)少佐が馳せ参じた。 1938年1月に「後方勤務要員養成所」が設立され、同年7 月に1期生19名の入校を迎えることとなったのである。

▼中野学校の沿革は4つの段階に区分される  

 中野学校は、所属、所在地、教育目的などによって、「創設期」 「前期」「中期」「後期」の4つに区分される。

(1)「創設期(1938年1月~1940年8月)」  同期は「後方勤務要員養成所期」とも呼ばれる。1938年7月、 九段下牛ヶ淵の「愛国婦人会」本部内の集会場を使用し、甲種幹 部候補生・予備士官出身の第1期生19名(卒業生は18名)に 対する教育が開始された。第1期生は海外における長期勤務を想 定とした選抜であった。  

 秋草中佐が所長、福本中佐が同養成所の幹事に就任し、狭隘な 集会所が教室兼宿舎となり、学生が一同に起居する寺子屋式、私 塾的な体制であった。学生は陸軍兵器行政本部付兼陸軍省兵務局 付として入校させ、秘密戦の教育を開始した。そして翌年4月に は、旧電信隊跡地の中野区囲町に移転した。  

 1939年7月に第1期生が卒業し、同年11月に第1期生と 同じ出身母体の第2期の乙I長40名と、現役少尉を含む第1期 の乙I短70名、これに加えて陸軍教導学校で教育総監賞などを 受賞した優秀な下士官候補生から選抜された丙1・52名が入所 した。  

 ここでの長期の学生とは第1期生と同様に海外での長期勤務を 想定した要員であり、入校と共に別名が与えられた。教育施設内 では、国内外の既存情報機関勤務を想定した短期学生や丙1とは 相互往来は禁じられ、壁をもって仕切られていた。

(2)前期(1940年8月~1941年10月)  

 1940年8月「陸軍中野学校令」が制定され、後方勤務要員 養成所は、陸軍大臣直轄の学校として名称も陸軍中野学校に変更 された。施設や教育内容が急速に整備され、当初の私塾的な体裁 から抜け出ていった時期である。  

 初代校長に北島卓美少将が就任。1941年春に北島少将が東 部軍参謀長として転任したあと、1941年6月、陸軍省兵務局 長の田中隆吉少将が二代目校長となり(形式上)、同年10月、 ロシア駐在武官や参謀本部ロシア課長の経歴を有する川俣雄人少 将が校長として赴任した。 1940年9月には1甲、同12月には乙II長・短、丙2の学生が入校し、翌41年2月には、2甲、41年9月には3丙、3 戊の学生が入校した。

 なお、甲とは陸軍士官学校卒業者であり、秘密戦への転向を命 じられた初回の学生である。そして、3丙学生および3戊学生は 従来の乙学生および丙学生のことである。これは、後述のように 1941年10月の学生種別の変更にもとづき呼称が変わったた めである。  

 校門には「陸軍通信研究所」の小さい看板がかけられ、陸軍組 織上では「東部第三十三部隊」とされた。学生の通信の発送はすべて陸軍省兵務局防衛課の名称が使用された。  1940年12月から大東亜戦争が開始されたこの時期におい ては、創設期の教育課目に占領地行政、宣伝業務が加味され、戦 争対応への意識が高まった。

(3)中期(1941年10月~1945年4月)  1941年10月、陸軍兵器行政本部付から参謀本部直轄とな った。これにより、学生の種別も改正され、甲種学生(陸士出身 者)が乙種学生、乙種学生が丙種学生(予備士出身)、丙種学生 (教導隊出身)に新編成された。  この期に入校したのは4から7までの丙種学生と4から6まで の戊種学生、それに1から4までの乙学生、このほか遊撃(1・2)、 情報(司令部情報要員)、静岡県磐田郡二俣町に開設された二俣 分校の1期および2期である。(注:二俣は1期、2期と名称す るが、乙・丙・戊種については「期」と呼ばない)  

 1942年6月のミッドウェー海戦の敗北により、わが国は守勢に転じ、さら1943年2月のガダルカナル島撤退により、陸 軍参謀本部は遊撃戦(ゲリラ戦)の展開に踏み切ることにした。 そして1943年8月、中野学校に対して「遊撃戦戦闘教令(案)」 の起案と遊撃戦幹部要員の教育を命じ、この教令(案)は194 4年1月に配布された。  

 1944年8月、静岡県磐田郡に遊撃戦幹部を養成する二俣分 校が創設された。第1期生226名が陸軍予備士官学校を卒業等 して尉官学生(見習士官)として入校、約3か月の教育が行なわ れた。なお、この中にはフィリピンのルバング島で発見された小野田寛郎氏がいる。  

 これと前後して、1944年8月、陸軍参謀本部は中野学校に 対し、国土決戦に備えるため、教範『国内遊撃戦の参考』の起案 を命じ、1945年1月に『国内遊撃戦の参考』および別冊『偵察法、潜行法、連絡法、偽騙法、破壊法の参考』を配布した。教育内容は、残地蝶者教育、通信科目、遊撃戦などを重視するなど、 創設期および前期に比してかなり変更された。

(4)後期(1945年4月~1945年8月)  1945年2月、国内の各軍司令官に対し本土防衛任務が付与 された。同年4月、本土上空に対する空爆の激化に伴い、中野学 校(本校)は群馬県富岡町に疎開し、同地において遊撃戦幹部の 養成が行なわれた。  

 この期に入校したのは、8から10までの丙学生、7から8ま での戊学生、5乙学生、二俣分校の3期から4期の学生である。  

 遊撃戦教育とその研究に最重点がおかれ、それも外地作戦軍内 における遊撃戦にとどまらず、最悪の場合の本土決戦に備えてこ れを国内において敢行するための各種の訓練が開始された。また、 いわゆる「泉部隊」と称した国内遊撃部隊構想も一部着手された。  

 1945年8月、敗戦によって富岡町の中野学校本校と二俣分校は幕を閉じた。 (次回に続く)

わが国の情報史(39) 秘密戦と陸軍中野学校(その1) -秘密戦の本質とは何か- 今回から

▼はじめに

「わが国の情報史」の最終テーマとして陸軍中野学校について数回に分けて解説する。さて、陸軍中野学校では秘密戦士を育成した。秘密戦とは諜 報、防諜、謀略、宣伝のことであり、これらについてはその概要 を述べてきた。 したがって陸軍中野学校において行なわれた秘密戦の教育、秘密戦士の育成とはどういうものかは、およそイメージできると思うが、ここではもう一度整理したいと考えている。

また戦後、中野学校について、「謀略機関であった」「北朝鮮の情 報組織の母体になった」などの誤った風説が流されている。これについても追々是正していきたいと思う。

▼秘密戦の概要    

まず、復習になるかもしれないが、秘密戦という用語について解説する。なにやら、物騒な語感ではあるが、字義からすれば 「秘密の戦い」「非公然な戦い」「水面下の戦争」などというこ とになろう。  

1930年代末に創立された陸軍中野学校(以下、中野学校)で は、従来いわゆる情報活動や情報勤務といわれていた各種業務を総括して、創立後しばらくたった頃から、秘密戦と呼ぶようにな った。 ただし、その呼称は各地域により、また各軍により、必ずしも統 一的につかわれていたわけではない。(中野学校校友会編『陸軍中野学校』(以下、校史『陸軍中野学校』))

つまり秘密戦は中野学校による造語である。そこで当時の中野学校関係者が執筆した書籍などから、まずは秘密戦の全体像を把握 することとしたい。 中野学校教官であった伊藤貞利は、自著で次のように述べている。    

「秘密戦とは武力戦と併用されるか、あるいは単独で行使される 戦争手段であって、諜報・謀略・防諜などを包含している。諜報、 謀略、防諜が秘密戦と呼ばれるのは一体どういうわけだろうか。 それは一般的に言って秘密の「目的」を持ち、その目的を達成するための「行動」に秘密性が要請されるからだ」(伊藤貞利『中 野学校の秘密戦』) また、伊藤は次のようにも述べている。    

「謀略の場合には『目的』はあくまで秘密とするが、「行為」は 大びらに行わなければならないことが少なくない。例えばある秘 密目的を達成するためには物件を爆破・焼却したり、暴動を起こ したり、デモ行進をしたり、暴露宣伝を行ったりするなど、大び らな行動をするような場合が比較的多い」(前掲『中野学校の秘 密戦』)     伊藤著書から要点を整理すれば、秘密戦とは以下のようなもので ある。

◇目的が秘密であり、行動にも秘密性が要求される。

◇謀略のような一部の秘密戦における行動(行為)は公開されるが、 その場合でも目的は秘匿される。

◇武力を主体として行動が常に公開される武力戦とは対極をなす。 いわば非武力戦である。

◇武力戦と併用されるか、あるいは単独で行使される。   この中でもっとも重要な点は目的の秘匿性である。すなわち、目的が秘匿される戦い、これが秘密戦の本質である。

▼秘密戦の目的は何か?    

次に「秘密戦はいかなる目的は想定しているか、すなわち目的 は何か?」について考察したい。 校史『陸軍中野学校』によれば以下の件(くだり)がある。

「原始的な情報活動にはじまる諜報、宣伝、謀略、防諜などの各 種手法は、“姿なき戦い”として、洋間東西と如何なる国家の態 様たるとを問わず歴史と共に発達し進化し続けてきた。

これらの“姿なき戦い”は、平和な時代においては友好国間の修 好をより一層確実なものとするために、また敵性国家間との力のバランスを確保して、平和に役立つ働きをした。 ひとたび戦争を決意した場合においては、同盟国間の盟約をより 確実なものとすると共に、敵国を孤立せしめ不利な条件のもとに 誘い込むためにも役立てられた。

戦争段階における秘密戦の役割はさらに峻烈になるが、武力戦の ように戦争の主役になることはない。 武力戦よりもさらに根深く戦争のあらゆる場面の部隊裏で暗躍を 続け、ある時は敵の致命的部分に攻撃を集中し、ある時は和戦を 決する講和交渉の陰に強大な力をもって活動することになる。 だから、「秘密戦とは歴史に記録されない裏面の戦争」である。」 (校史『陸軍中野学校』)

 ここには、秘密戦が戦時も平時も行なわれるものであり、歴史の表沙汰にならない水面下で行なわれる戦争であり、戦争抑止や早期講和などにも貢献すると述べられている。 以上の記述から思い起こされるのは「孫子」の兵法である。

『孫子』第3編には、 「百戦百勝は、善の善なる者にあらず。戦わずして人の兵を屈す るは善の善なる者なり」「故に上兵は謀を伐つ。その次は交わりを伐つ。その次は兵を伐つ。その下は城を攻む」との記述がある。 『孫子』によれば、武力戦で勝利を得るのではなく、謀略や外交 謀略によって「戦わずして勝つ」のが最善である。

上述のように、ひとたび戦争が決意されれば、秘密戦は武力戦と 同時並行的に行なわれるが、その場合においも「戦わずして勝つ」 は継続して追求されることになる。つまり、武力戦のように敵国 戦力を物理的に破壊するのではなく、心理工作をもって敵国内に 不協和音や厭戦気運などを生起させて、早期に講和交渉などに持 っていくことが、秘密戦の目的となるのである。

ようするに秘密戦は、平時・戦時を問わず「戦わずして勝つ」を戦 略および作戦、戦術の全局面において追求する戦いであり、その 目的は「戦わずして勝つ」ことである。 この点については、中野学校出身者であり、今日も健在にて情勢研究の会を主催する牟田照雄氏(陸士55期)は「秘密戦とは、戦わずして勝つ」 である と喝破している。

▼秘密戦と遊撃戦との違い

中野学校の創設目的は秘密戦の戦士を養成することであった。しかしながら、大東亜戦争末期においては彼我戦力の優劣差が決定的となり、日本軍が守勢に立たされた。これは、1942年6月 のミドゥエー会戦あたりが分水嶺となり、43年2月のガダルカ ナル島の戦闘で決定的となった。

すると、参謀本部は1943年8月、中野学校に対し、遊撃戦教令(案)の起案及び「遊撃隊幹部要員の教育」を命じた。つまり、 中野学校の教育が「秘密戦士」から「遊撃戦士」の養成へと転換 されたのであった。

これに関して、前出の牟田氏は「秘密戦は戦わずして勝つである。 だから、日本が米国と戦争を開始して以降(1940年12月)の 中野学校の教育は、本来目指す教育ではなかった」旨と述べてい る。(平成28年度慶應義塾大学メディア・コミュニケーション研 究所都倉研究会『陸軍中野学校の虚像と実像』)

そこで、秘密戦をより明確に理解するために、遊撃戦についても言及しておこう。 校史『陸軍中野学校』は「遊撃戦」について次のように記述する。 「遊撃とは、あらかじめ攻撃すべき敵を定めないで、正規軍隊の戦列外にあって、臨機に敵を討ち、あるいは敵の軍事施設を破壊 し、もって友軍の作戦を有利に導くことである。  

したがって遊撃戦とは、遊撃に任ずる部隊の行う戦いであって、 いわゆる『ゲリラ戦』のことである。  

遊撃戦は、一見武力戦の分野に属するかのように見えるが、その内容は、一時的には武力戦を展開するが、長期的にはその準備お よび実施の方法手段を通じて主として秘密戦活動を展開する。し たがって遊撃戦の本質は、秘密戦的性格が主であって、武力戦的 性格が従である。  

遊撃部隊は、わが武力作戦の一翼を担い、少数兵力を以て、神出 鬼没、秘密戦活動と武力戦活動とを最大限に展開して、以てわが 武力戦を有利に導くのである。したがって遊撃部隊、わが綜合的 大敵戦力の増強に寄与するものである」(以上、引用終わり)  

以上から、遊撃戦は目的や行動において秘密戦的な要素が大きい、 また武力戦を有利にするなどの秘密戦との類似性がある。しかし、 以下の点が大きく異なることを理解しなければならない。

◇ 遊撃戦は平時には行なわれない。戦時において武力戦と併用 される。

◇ 秘密戦のように単独で目的を達成することはない。 わが国における現代の国土防衛戦に当てはめれば、秘密戦は平 時から単独で行なうことができるが、遊撃戦は防衛出動下令以降 に防衛作戦と連接して、その一環として行なわれることになる。

つまり、秘密戦は遊撃戦とは異なり、平時から単独で「戦わずして勝つ」との目的を達成する情報活動であるといえる。

▼秘密戦の形態

 すでに述べたとおり、中野学校では秘密戦を「諜報」「宣伝」 「謀略」「防諜」と定義した。すなわち、秘密戦はこれら4つの 形態を包含した情報活動である。 これら4つの用語については、明治以来の軍事用語としてすでに、 その淵源などを説明したが、もう一度、簡単にここで整理してお こう。

(1)諜報  相手側の企図や動性を探ること。公然諜報と非公然諜報にわけ られる。

(2)宣伝  相手側及び作戦地住民あるいは中立国などに対し、我に有利な形 成、雰囲気を醸成するために、ある事実を宣明伝布すること。

(3)謀略  相手側を不利な状態に導くような各種工作を施すこと。

(4)防諜  相手側がわが方に対して行なう諜報または謀略を事前に察知し、 これを防止すること。    

以上の4つの秘密戦の発祥や相互関係について校史『陸軍中野学校』における記述を、現代風に解釈すれば以下のとおりとなる。

情報活動とは内外の環境条件を広範囲に把握し、状況判断や意志 決定を行なうことを目的とする。この目的追求は、彼我ともに指向しているので、自ずと「敵の情報を知り、我の情報 を隠す」という情報争奪の闘いが開始される。

相手側が情報を隠 そうとするので、我は不完全な情報から総合的に判断することが必要となる。同時に非合法的な手段を用いて真相情報を入手する 必要性も生じてくる。これが諜報活動の本質である。

情報活動が平時の外交や武力的抗争の中においても重要な地位を占めるようになったことから、情報活動の多元性、複雑性が着目されるようになった。このため、情報操作による「宣伝活動」が 行なわれるようになった。またそれらの積み重ねによって、いわ ゆる「謀略活動」も可能であることが実証されるようになった。 さらに、相手国からのこれら各種の策謀を防衛するためには防諜も必要になってきた。

 ようするに、彼我の情報争奪の情報戦の中で、敵が厳重に守って いる情報を非合法手段によって獲得する必要性から諜報活動が発 達し、平時・戦時の活動において情報がより重要な役割を帯びるようになるにつれて宣伝や謀略が発達した。そして、それら活動 を守るために防諜が同時に発達したということである。

わが国の情報史(38)昭和のインテリジェンス(その14)   日中戦争から太平洋戦争までの情報活動(4)─       

▼はじめに

さて、前回まで、諜報、防諜、宣伝のお話をした。これに謀略を加えて、秘密戦である。よって今回は「謀略」のお話をすることにしよう。 なお、太平洋戦争開始後においては、実にたくさんの戦史書籍 が出回っており、情報の失敗という切り口でも、さまざまな見解 が存在する。浅学菲才な筆者がとうてい太刀打ちはできるものではない。よって、本シリーズも太平洋戦争開始以前までに留め、あと2 回ちょうど40回をもって終了したいと考えているが、テーマ次第ではもう少し長くなるかもしれない。

▼秘密工作とは何か?

まず謀略を理解するうえで、秘密工作とは何か?について、筆者の著書『情報戦と女性スパイ』(並木書房、2018年4月) より関連記事を抜粋する。

情報活動には以下がある。 ・積極的情報活動は情報を収集(獲得)する活動 ・情報を分析してインテリジェンスを生成する活動 ・情報やインテリジェンスに基づいて公然に行なわれる政策や外 交 ・水面下で行なわれる「カバートアクション」(Covert action、 一般に秘密工作と翻訳される)に区分できる。

さらに収集する活動は、外国の新聞、書籍、通信傍受などから 公然と情報を収集する「コレクション」(Collection)と、専門 の組織によって諸外国の活動を非公然に観察して情報を獲得する エスピオナージ(Espionage)に区分できる。  

カバートアクションには「宣伝(プロパガンダ)」「政治活動」 「経済活動」「クーデター」「準軍事作戦」がある。(ローウェ ン・ソール『インテリジェンス、機密から政策へ』)  

一方の消極的情報活動は、 ・受動的で公然的に情報を守る「セキュリティ・インテリジェン ス」(Security Intelligence)、 ・非公然で能動的に情報およびインテリジェンスを守る活動まで含む「カウンターインテリジェンス」(Counter Intelligence) に区分できる。  

秘密戦士を育成するための旧軍組織である陸軍中野学校では、 秘密戦を「諜報」「防諜」「宣伝」「謀略」の四種類に区分していた。諜報がエスピオナージ、防諜がカウンターインテリジェン ス、宣伝と謀略がカバートアクション(秘密工作)にほぼ該当することになる。  

しかし諜報、防諜、秘密工作には厳密な垣根はない。たとえば、 防諜のためには相手側の動向を探る諜報が必要となる。秘密工作 を行なうにも諜報によって相手側の弱点を探り、我が利する点を 明らかにしておくことが前提となる。 フランス駐留軍総司令部の将校として、第二次世界大戦に参加 した戦史研究家のドイツ人、ゲルト・ブッフハイトは「(情報活 動の)それぞれの専門分野は密接な関係にあるので、管轄範囲を明確に区分しようとすることはほとんど不可能に近い」と述懐している。(ゲルト・ブッフハイト『諜報』)  

秘密工作を情報活動の範疇に含めるべきではないという議論は ある。しかし、これは情報組織による活動がエスカレートする過 程で生まれてきたものだ。秘密工作は非公然、水面下で行なわれ るのが原則だから公式の政府機関や軍事機関は使えない。したが って、CIAやKGBの例をあげるまでもなく、各国においては 情報組織がしばしば秘密工作を担ってきた。伝説の元CIA長官 のアレン・ダレスは、「陰謀的秘密工作をやるには情報組織が最 も理想的である」(アレン・ダレス『諜報の技術』) 以上、抜粋終わり) と述べている。

▼わが国の謀略の淵源  

わが国では秘密工作を「謀略」という言葉で総称することが多い。では、その謀略について国語辞典をひも解くと、「人を欺く ようなはかりごと」と定義し、「謀略をめぐらす」「敵の謀略に 乗る」などの適用例と、「たくらみ、はかりごと・策謀・密某・ 陰謀・秘密工作・欺瞞工作・宣伝工作・プロパガンダ」などの同義語・類語が挙げられている。

また、謀略に相当する英単語は Conspiracy、Plot、Deceptionなどとなる。 謀略は本来、旧軍の軍事用語である。総力戦研究所所長などを歴任した飯村譲中将によれば、「謀略は西洋のインドリーグ(陰謀)の訳語であり、参謀本部のロシア班長小松原道太郎少佐(のちの中将)の手によるものであって、陸大卒業後にロシア班に入 り、初めて謀略という言を耳にした」ということである。  

そして、飯村中将は「日露戦争のとき、明石中佐による政治謀略に関する毛筆筆記の報告書がロシア班員の聖典となり、小松原中佐が、これらから謀略の訳語を作った」と推測している。  

しかし、「謀略」の用例については、1884(明治17)年 の内外兵事新聞局出版の『應地戰術 第一巻』「前哨ノ部」に 「若シ敵兵攻撃偵察ヲ企ツルノ擧動ヲ察セハ大哨兵司令ハ其哨兵 ノ報知ヲ得ルヤ直チニ之ヲ其前哨豫備隊司令官ニ通報シ援軍ノ到 着ヲ待ツノ間力メテ敵ノ謀略ヲ挫折スルコトヲ計ルヘシ」という 訳文がある。  

また「偕行社記事」明治25年3月第5巻の「參謀野外勤務 論」(佛國將校集議録)に「情報及命令ノ傳達 古語ニ曰ク敵ヲ 知ル者ハ勝ツト此言ヤ今日モ尚ホ真理タルヲ失ハサルナリ何レノ 世ト雖モ夙ニ敵ノ謀略ヲ察知シ我衆兵ヲ以テ好機ニ敵ノ薄弱點ヲ 攻撃スル將師ハ常ニ赫々タル勝利ヲ得タリ」という訳文がある。 (なお、上記「謀略」の用例と、偕行記事の訳文については、 『情報ということば』の著書小野厚夫氏から提供を受けた)  

したがって、日清戦争以前から「敵の謀略」という用法はあっ た。ただし、当時の陸軍の知識人として名高い、飯村中将をもってしても「謀略」にあまり馴染がないことに鑑みれば、日露戦争以後になって、謀略という言葉が軍内における兵語として逐次に 普及するようになったとみられる。

▼軍事教典における謀略  

昭和に入り、1925年から28年にかけて作成された『諜報 宣伝勤務指針』において次のように定義された。 「間接或いは直接に敵の戦争指導及び作戦行動の遂行を妨害する目的をもって公然の戦闘若しくは戦闘団体以外の者を使用して行 なう破壊行為若しくは政治、思想、経済等の陰謀並びにこれらの指導、教唆に関する行為を謀略と称し、之がための準備、計画及 び実施に関する勤務を謀略勤務という」  

このほか、『統帥綱領』(1928年)では以下のように記述され ている。 第1「統帥の要義」の6 「巧妙適切なる宣伝謀略は作戦指導に貢献すること少なからず。 宣伝謀略は主として最高統帥の任ずるところなるも、作戦軍もま た一貫せる方針に基づき、敵軍もしくは作戦地域住民を対象とし てこれを行ない、もって敵軍戦力の壊敗等に努むること緊要なり。 殊に現代戦においては、軍隊と国民とは物心両面において密接な る関係を有し、互いに交感すること大なるに着意するを要す。敵 の行う宣伝謀略に対しては、軍隊の志気を振作し、団結を強固に して、乗ずべき間隙をなからしむるとともに、適時対応の手段を 講ずるを要す。」

『統帥参考』(1932年)では以下のように記述されている。 第4章「統帥の要綱」34 「作戦の指導と相まち、敵軍もしくは作戦地の住民に対し、一貫 せる方針にもとずき、巧妙適切なる宣伝謀略を行ない、敵軍戦力 の崩壊を企図すること必要なり」  

以上のことから、謀略は暴力性、破壊性、陰謀性の要素が大き く、宣伝謀略という複合単語の存在から、宣伝と謀略は一体的に行な ってこそ効果があるという認識が持たれたのである。

▼謀略課の新設  

1937年7月の支那事変の勃発により、わが国は戦時体制へと移行した。しかし、近代戦には必要不可欠とされた宣伝、謀略、 暗号解読、その他の特殊機密情報を扱う機関は、課にすらなっておらず、わずか数人の参謀将校が細々と第2部第4班として、よ うやく存在を保持していた。  

そこで、1937年秋に第4班を独立の課に昇格する案が検討 された。同年11月に陸軍参謀本部及び海軍軍令部をもってその まま最高統帥機関たる大本営が設置され、その下に陸軍部及び海 軍部が設置された。  

参謀本部第2部は大本営陸軍部第2部となり、外国における諜 報機関(特務機関)を臨時増設し、外国における秘密戦を展開することになった。 大本営の設立と同時に第2部に宣伝謀略を担当する課として、 大本営陸軍参謀部第8課(宣伝謀略課)が新設された。支那事変 の早期解決を図るため、参謀本部はこのような課の設置の必要性 に迫られたのである。  

それまでは、各国に駐在する大(公)使館の武官からの報告を唯一のインテリジェンスとしていたが、8課でも独自に国際情勢の判断、宣伝、謀略の3部門を扱うことになったのである。  

初代の第8課長には中国通の砲兵大佐・影佐禎昭(陸士26期) (かげささだあき、最終階級は陸軍中将)が補せられた。なお、 谷垣禎一・元自民党総裁の母方祖父が影佐大佐である。

▼謀略の特質  

ところで、謀略とはどのような特質を有するのか? 謀略とは秘密戦の構成要素であり、それは武力戦と併用されるか、あるいは単独で行使される。  

諜報、謀略、宣伝、防諜が秘密戦と呼ばれるのは、それは秘密の「目的」を持ち、その目的を達成するための「行動」に秘密性 が要請されるからである。 ただし、謀略の場合には「目的」はあくまで秘密とするが、 「行為」は大胆に行なわなければならないことが少なくない。たとえばある秘密目的を達成するためには、物件を爆破・焼却した り、暴動やデモ行進をしたり、暴露宣伝を行なったりする必要がある。  

秘密戦の究極的な目的は、「戦わずして勝つ」ことにある。つまり、武力戦を回避するために、平時においては敵性国家間との力のバランスを確保して、戦争を抑止するとともに、開戦を決意 した場合においては、同盟国間の盟約をより確実なものとすると共に、敵国を孤立さて不利な条件のもとに誘い込む、早期の停戦 合意の契機を作為するなど、知的策謀を働かせることにある。  

秘密戦の「攻」の部分は、諜報、宣伝、謀略からなるが、諜報及び宣伝はあくまで秘密戦の前提行為としての性格を有するのであって、それ自体が独立して存在する戦闘的破砕行為ではない。  

したがって、秘密裡の戦闘においては、まず諜報をもって敵情を明らかにする、ついで宣伝により、我の有利となるよう謀略の正当性と事前に確保し、謀略の効果を助長する基盤を構築する。そのうえで謀略をも って敵を破砕することが原則なのである。 つまり、諜報、宣伝は謀略のための補助手段であって、謀略こそが秘密戦 における主体なのである。    

謀略は遥かに実力が上回る相手には通用しない。この点は歴史的に明らかである。 智慧を働かせて、敵兵力を謀略により次々と破った楠木正成であったが、大兵力を結集した足利尊氏には結局は適わなかった。

日本軍は謀略的な戦いによって真珠湾攻撃で幸先の良いスター トを切ったが、結局は米国の経済力、米軍の物量戦の前には適わなかった。 つまり、謀略は対等もしくは対等より少し上の相手には通用するが、謀略には限界があることを認識しなければならない。 なんでもかんでも謀略に依存するのは愚の骨頂である。

▼わが国の戦後における謀略に対する認識  

戦後になって、わが国では謀略がタブー視されている。日中戦 争が“卑怯なだまし討ち”、すなわち謀略によって開戦され、結局は太平洋戦争 における不幸な敗戦という結末を迎えたという認識がその根底にある。

謀略からイメージされるのが1931年の満洲事変である。 戦後の歴史認識において満洲事変は、「中央の日本政府や軍首脳 の承諾もなく、関東軍中枢の軍人によって計画され、実行された謀略であった」と語られる。  

通説によれば、「当時、関東軍は満洲にある中国軍拠点を攻撃 し、満洲全土を占領して満洲権益をより確実にしようと企んでい た。しかし、政府の承認を得るのは容易でなかったので、満洲鉄 道での爆破事件を作為し、この犯人を中国人であるかのようにでっちあげた。これによって被害者の立場を喧伝し、戦争大義を獲 得した」とされる。  

満洲事変がのちに太平洋戦争へと発展し、敗戦という憂き目に あうことになる。つまり、“卑怯なだまし討ち”である謀略が敗因の最大原因であった、という文脈で語られてきたのである。

だからこそ、謀略は二度と起こしてはならないと強くタブー視 されることには説得力がある。そして謀略を研究することはおろか、謀略を語ることだけでも“危険思想”としてみられかねない。

▼ 謀略の言葉の淵源  

しかし、中国において謀略は卑怯なもの、との認識はない。む しろ、謀略を効率的な戦法、「戦わずして勝つ」ことを実現する、 血を流さないきれいな戦い、「智慧の戦い」として称賛される傾向すらある。 されゆえに「謀略」を冠する書籍が巷に多く流通している。

「謀略」という言葉は中国では古代から用いられていた。もとも と「謀略」という言葉がいきなり登場したのではなく、「謀」と 「略」が異なる時代に登場し、いつのまにか一体化して用いられるようになったようである。なお、中国の『説文大字典』によれ ば、謀の登場は略の登場よりも一千年早く登場したようである。  

同字典では、「謀」は「計なり、議なり、図なり、謨なり」と され、古代ではこれらの言葉は非常に似通った意味で使用された ようだ。『尚書』では謨が登場するが、この字の形と読音が謀と 似通っており、謨が謀に発展したとみられている。   

なお「謀」が中国において最初に使用されたのは『老子』の 「不争而善勝、不言而善応、不召而自来、?然而善謀」である。こ こでも「戦わずして勝つ」という謀略の重要性が説かれている。

そして『孫子』謀攻篇においては、「上兵は謀を伐ち、その次 は交わりを伐つ」と記述され、「謀略」は敵を欺き、「戦わずし て勝つ」ことの意味で用いられた。なお、『孫子』における「計」 「智」「略」「廟朝」、『呉子』における「図」などは謀の別称 といえる。  

中国では古来、才能有徳の士を「君子」と尊称し、その君子が 事前に周密な計画を立てることを「謀」といった。これを政治・ 軍事面で用いた言葉が「謀略」である、との見解がある。  

つまり、謀略は策謀、智謀の代名詞であり、そこには決して卑 怯的な要素はないのである。つまり、中国はどうどうと謀略を実 施し、それは国民から称賛される。そして現在の国際政治におい て、中国は積極的に謀略工作を仕掛けることを得意としているのである。  

▼わが国においても謀略研究は必要

わが国が、謀略の失敗によって敗戦に至ったことは十分に反省 して、二度と無謀な謀略を繰り返してはならない。 しかし、近隣の大国である中国における謀略の解釈等を鑑みれ ば、わが国が謀略をタブー視して、これから目を背ける訳にはい かないだろう。 少なくとも、周辺国等による謀略に対処するための、謀略研究 は必要ではないだろうろうか。

わが国の情報史(37)  昭和のインテリジェンス(その13)   ─日中戦争から太平洋戦争までの情報活動(3)─

▼はじめに

これまで、秘密戦の要素である諜報、防諜、宣伝、謀略のうち、諜報と防諜については説明した。今回は宣伝に焦点をあてて解説する。まさに「プロパガンダ恐るべし」である。

▼宣伝という用語の軍事的使用

 宣伝という軍事用語はいつから使用されるようになったのだろうか? 

 1889年に制定され、日露戦争の戦訓を踏まえて1907年(明治40年)に改訂された『野外要務令』では、「情報」および「諜報」という用語はわずかに確認できるが、「宣伝」という用語は登場しない。

 しかし、『野外要務令』の後継として大正期に制定された『陣中要務令』では、以下の記述がある。

第3篇「捜索」第73

「捜索の目的は敵情を明らかにするにあり。これがため、直接敵の位置、兵力、行動及び施設を探知するとともに、諜報の結果を利用してこれを補綴確定し、また諜報の結果によりて、捜索の端緒を得るにつとめざるべからず。捜索の実施にありては、敵の欺騙的動作並びに宣伝等に惑わされるに注意を要する。」

第4編「諜報」第125

「諜報勤務は作戦地の情況及び作戦経過の時期等に適応するごとく、適当にこれを企画し、また敵の宣伝に関する真相を解明すること緊要なり。しかして住民の感情は諜報勤務の実施に影響及ぼすこと大なるをもって上下を問わない。とくに住民に対する使節、態度等ほして諜報勤務実施に便ならしむるごとく留意すること緊要なり。」

 ここでの宣伝は、我の諜報、捜索活動の阻害する要因であって、敵によって行なわれる宣伝(プロパガンダ)を意味しているとみられる。これは、後述のとおり、第一次世界大戦における総力戦の中で行なわれたプロパガンダの様相をわが国も取り入れるようとの思惑が契機になったのであろう。

 「宣伝」がわが国の軍事用語としてより定着するようになったのは、昭和期に入って、『諜報宣伝勤務指針』および『統帥綱領』が制定された1920年代だとみられる。

 1925年から28年にかけての作成と推定される『諜報宣伝勤務指針』の第二編「宣伝及び謀略勤務」では、謀略の定義と共に宣伝について、用語の定義、実施機関、実施要領、宣伝および謀略に対する防衛などが記述されている。ここでは宣伝と謀略が一体的に定義されている。

 同指針から宣伝関連の記述を抜粋する。

 「平時・戦時をとわず、内外各方面に対して、我に有利な形成、雰囲気を醸成する目的をもって、とくに対手を感動させる方法、手段により適切な時期を選んで、ある事実を所要の範囲に宣明伝布するを宣伝と称し、これに関する諸準備、計画及び実施に関する勤務を宣伝勤務という。」

 一方の『統帥綱領』では以下のように記述されている。

第1「統帥の要義」の6

「巧妙適切なる宣伝謀略は作戦指導に貢献すること少なからず。宣伝謀略は主として最高統帥の任ずるところなるも、作戦軍もまた一貫せる方針に基づき、敵軍もしくは作戦地域住民を対象としてこれを行い、もって敵軍戦力の壊敗等に努むること緊要なり。

殊に現代戦においては、軍隊と国民とは物心両面において密接なる関係を有し、互いに交感すること大なるに着意するを要す。敵の行う宣伝謀略に対しては、軍隊の志気を振作し、団結を強固にして、乗ずべき間隙をなからしむるとともに、適時対応の手段を講ずるを要す。」

 1932年の『統帥参考』では以下のように記述されている。

第4章「統帥の要綱」34

「作戦の指導と相まち、敵軍もしくは作戦地の住民に対し、一貫せる方針にもとずき、巧妙適切なる宣伝謀略を行い、敵軍戦力の崩壊を企図すること必要なり。」

 以上のように、「捜索」あるいは「諜報」のように敵に対する情報を入手するだけでなく、敵戦力の崩壊を企図する、敵の作戦指導などを妨害する、あるいは我に有利な形成を醸成する機能を強化する必要性が認識され、そのことが「宣伝」を「謀略」ともに軍事用語として一般化したのである。

▼第一次世界大戦における宣伝戦

 心理戦の発祥は古来に遡るが、心理戦の重要性が認識され、組織的かつ計画的に行なわれるようになったのは第一次世界大戦からである。

 1948年に『Psychological Warfare』(邦訳名『心理戦争』)を出版したラインバーガーは、次のように述べる。

 「第一次世界大戦によって心理戦争は付随的な兵器から主要な兵器へと変容し、後には戦争を贏(か)ち得た武器とさえ呼ばれるようになった」

 心理戦の最大の武器となるのが宣伝戦である。よって心理戦はしばしば宣伝戦と呼び変えられることが多い。

第一次世界大戦における宣伝戦の主役は間違いなくイギリスであった。第一次世界大戦が開戦すると、イギリスは1914年8月、ドイツとアメリカ間の海底電線を切断した。当時、無線は使われ始めていたがまだ不十分であり、しかもイギリスが盗聴していた。つまり、イギリスは通信を独占し、アメリカにはイギリスが与える情報しか入らなくなった。

イギリスは独占した通信をもって、ドイツの誹謗中傷報道を流し、ブラック・プロパガンダにより、米国を欧州の大戦に参加させるよう画策した。イギリスの自由党議員チャールズ・マスターマンは1914年9月、戦争宣伝局(War Propaganda Bureau)、通称「ウェリントン・ハウス」を設置する。これは、外務省付属の秘密組織であった。

ここから、イギリス国内向けの戦意高揚施策や、敵国への謀略報道戦が展開された。イギリス外務省は学者、著名芸術家、文筆家を協力者として、ドイツの“絶対悪”をブラック・プロパガンダして、アメリカ人の人道感情を揺さぶり、アメリカを参戦へといざなったのである。

その後、戦争宣伝局は情報局を経て1918年には情報省へと発展し、新聞大手「デイリー・エクスプレス」紙の社主ビーヴァ─ブルック卿が情報大臣に任じられる。この時、ウェリントン・ハウスは解消されたが、主要なメンバーは残った。

また「タイムズ」紙と「デイリー・メール」紙の社主ノースクリフ卿が、彼の屋敷におかれた宣伝機関である「クルー・ハウス」からドイツに対するブラック・プロパガンダを展開した。

 クルー・ハウスは、ドイツの厭戦気運を盛り上げ、ドイツ兵の投稿を促すビラやリーフレットを大量に作成した。これらは気球などによってドイツ、敵陣営、中立国に投下された。

 とくに、ドイツが中立国に侵略して残虐行為を働いたとの虚偽のブラック・プロパガンダが展開された。また、ロイター通信が中立国に対し虚偽記事を配信し、国際世論の反ドイツ感情を煽った。

 アメリカは参戦後、新聞編集者ジョージ・クリールを委員長とする「広報委員会」、通称クリール委員会を発足させた。同委員会はイギリスと同様に新聞、パンフレットなどにより、反ドイツ感情を煽った。また、アメリカでは反ドイツ映画が作成された。かのチャップリンも反独映画の作成に協力した。

▼第一次世界大戦後のドイツ

第一次世界大戦後、宣伝戦争においては英国がドイツに圧倒的に有利であったことが明らかとなった。英国の宣伝を最も評価したのがヒトラーである。彼は『わが闘争』において、ドイツが英国の宣伝戦から学ぶべきである、とした。

ドイツでは1933年1月にナチスが政権を握ると、ただちに国民啓蒙・宣伝省を創設した(1933年3月)。ナチスで宣伝全国指導者を務めていたヨーゼフ・ゲッペルスが初代大臣に任命された。ゲッペルスは3月25日に次のような演説を行なっている。

 「宣伝省にはドイツで精神的な動員を行なう仕事がある。つまり、精神面での国防省と同じ仕事である。(中略)今、まさに民族は精神面で動員と、武装化を必要としている」

まさに宣伝戦が武力戦と同等の地位を占めるに至り、宣伝戦が国際社会を席巻する火蓋となったのである。

▼わが国が対外文化交流を推進

第一次世界大戦終了後の5月4日、わが国は北京において五四運動に直面することになる。これは、パリ講和会議(1919年1月)で、「日本がドイツから奪った山東省の権益を返還せよ」という中国の巧みな宣伝によって、山東省の権益返還が国際承認されたことに端を発している。

こうしたことから、わが国は国際宣伝の重要性に対する認識を高め、1920年4月、内外情報の収集・整理や宣伝活動を行なう「情報部」を設置(1921年8月)した。このほか、「国際通信社」や「東方通信社」といった対外通信社の強化を図った。また中国における対日感情を好転すべく、文化事業に力を入れた。

1930年代、ドイツが「ゲーテ・インスティトゥート」(1932年)、イギリスが「ブリティシュ・カウンセル」(1934年)を創設するなど、主要国が対外文化組織を設立するなか、わが国も1934年に財団法人・国際文化振興会を設立した。

同振興会は、メディア研究やプロパガンダ研究により、諸外国の文化交流を通じた親睦を深めて、対日国際理解を推進することが目的であった。文化人などの講師を海外に派遣・招聘し、日本文化の理解の普及につとめた。ニューヨークにはその出先機関として日本文化会館が置かれた。また1935年には日本放送協会による海外向けラジオ放送が開始された。

しかし、日中戦争以後の国際情勢が緊迫化すると、穏やかな「国際交流」という様相は脇に追いやられ、国内外に対するプロパガンダが重視されるようになる。

▼情報局の設立

第一次世界大戦当時、プロパガンダという言葉にまったくなじみのなかった日本は宣伝戦に大きく後れをとった。日本の新聞や雑誌にプロパガンダという言葉が現れるのは、1917(大正6)年以降である。(小野厚夫『情報ということば』)

上述のように中国の抗日宣伝に翻弄されたことや、第一次世界大戦における総力戦思想の跋扈に触発され、強力な情報宣伝の国家機関を設立しようとする動きが軍部などに生じ、陸・海軍や外務省では宣伝活動を展開する機関が設置されるようになる。

外務省は1921年8月に情報部を設置した(事務開始は1920年3月から)。他方、陸軍省は1920年1月に陸軍新聞班(1937年に大本営陸軍報道部、38年に陸軍省情報部、40年に陸軍報道部へと改編)、海軍省は1923年5月に軍事普及委員会(1932年に軍事普及部と改称)を設置した。

満洲事変以後、日本を非難する国際世論の高まりに対して、外務省は内田康哉外務大臣の下で対外情報戦略を練り直すことになった。1932年9月、陸・海・外務による情報宣伝に関する非公式の連絡機関「情報委員会」が設置された。これ以後、「情報宣伝」という複合語が盛んに用いられるようになる。

満洲事変による国際対日批判を払拭するため、日本は自らの立場を世界に訴え、国際理解を増進させる方針を選んだ。そこで武器となるのが世論を形成する新聞、その新聞にニュースを提供する通信社であった。

しかし、当時は電通(1907年設立)と聯合(1926年誕生)が激しく競争していた。1931年の満洲事変の発生では、陸軍をバックにつけた電通の一報は、事変発生後わずか4時間で入電し大スクープとなった。

両通信社による激烈な取材競争により、両社ともに経費が膨れ上がり、報道内容にも食い違いが生じた。このため政府部内や新聞界で両社を統合しようという機運が高まり、1936年(昭和11年)1月、同盟通信社が発足した。

1936年7月1日、非公式の連絡機関「情報委員会」を基に各省の広報宣伝部局の連絡調整や、同盟通信社などを監督する目的で「内閣情報委員会」が設立された。

1937年9月25日、連絡調整のみならず各省所管外の情報収集や広報宣伝を行なうために、内閣情報委員会は「内閣情報部」に改められ、情報収集や宣伝活動が職務に加えられた。

1939年、「国民精神動員に関する一般事項」が加わり、国民に対する宣伝を活発化させ、それを担うマスコミ・芸能・芸術への統制を進めた。

1940年12月6日、戦争に向けた世論形成、プロパガンダと思想取締の強化を目的に、内閣情報部と外務省情報部、陸軍省情報部、海軍省軍事普及部、内務省警保局検閲課、逓信省電務局電務課、以上の各省・各部課に分属されていた情報事務を統一化することを目指して、内閣直属機関である「情報局(内閣情報局)」が設置された。

情報局には総裁、次官の下に一官房、五部17課が置かれた。第一部は企画調査、第二部は新聞、出版、報道の取り締まり、第三部は対外宣伝、第四部は出版物の取り締まり、第五部は映画、芸術などの文化宣伝をそれぞれ担当した。職員は情報官以上55名、属官89名の合計144名からなった。

しかし、陸軍と海軍は、大本営陸軍部・海軍部に報道部を設置したほか、陸軍報道部、海軍省軍事普及部の権限を委譲しようとはせず、情報局は内務省警保局検閲課の職員が大半を占めて、検閲の業務を粛々遂行し、宣伝活動において目立った成果はなかったのである。

(次回に続く)

わが国の情報史(36)  昭和のインテリジェンス(その12)

  ─日中戦争から太平洋戦争までの情報活動(2)─

今回は、第一次世界大戦後に、総力戦あるいは非武力戦の概念が打ち出されるなか、共産主義に対する防衛、すなわち「防諜」という言葉が登場し、わが国において官民の防諜体制の確立が強く叫ばれたことに焦点をあてることにする。

▼防諜という言葉の淵源と来歴

 1938年8月に「後方勤務要員養成所」として産声をあげた陸軍中野学校では、創立後しばらくたった頃から、従来いわゆる情報活動や情報勤務といわれていた各種業務を総括して、「秘密戦」と呼称するようになった。

 その秘密戦は諜報、宣伝、謀略、防諜と定義された(※ただし、秘密戦の呼称は各地域により、また各軍により、必ずしも統一的に使用されていなかった)

 しかしながら、1925年から28年にかけて作成されたと推定される、情報専門の教範『諜報宣伝勤務指針』では、諜報、謀略、宣伝という用語についての定義付けがなされているが、ここには「防諜」という言葉は登場しない。

 そもそも、「孫子」の例を持ち出すまでもなく、歴史的には情報を収集する活動が開始されたと同時に、それと表裏一体である情報を守る活動は開始された。情報を守る、すなわち情報保全あるいは情報秘匿が戦勝の鍵となったのである。

 『諜報宣伝勤務指針』においても、「対諜報防衛」という用語で、その活動について規定している。

 ここには、諜報勤務者を防衛することや対諜報防衛の要領を知悉することの重要性、対諜報防衛組織の全国的統一運用、相手国(対手国)の諜報組織とその諜報勤務上の企図を諜知することの重要性、相手国の諜報勤務の取り締まりための暗号解読、写真術の応用、特殊「インキ」や封印等の対策、無線電信の窃諜の必要性などが記述されている。

 このほか、要注意人物の発見や行動の把握、国境出入り者の検査の厳正なる実施、公然諜報員の獲得などのことが記述されている。

 しかしながら、上述の繰り返しなるが、『諜報宣伝勤務指針』には「防諜」という言葉はない。では「防諜」という用語はいつ登場したのであろうか?

 これは、1936年7月24日勅令第211号陸軍省官制の改正により、兵務局が新設されたことに端を発する。兵務局は、2.26事件(1936年2月)の影響や、のちの日独防共共協の締結(1936年11月)に象徴される共産主義イデオロギーの浸透に対する警戒などを背景に設けられた。

 そして兵務局兵務課は、歩兵以下の各兵科(航空科を除く)の本務事項を統括、軍紀風紀懲罰の総元締めとして軍事警察、防諜などを担当した。同「陸軍省官制改正」第15條には兵務課の任務が示され、6項で「軍事警察、軍機の保護及防諜に関する事項」が規定された。おそらく、これが防諜の最初の正式の用例だとみられる。

▼防諜とはどのような情報活動か?

 1938年9月9日に陸軍省から関係部隊に通知された資料である「防諜ノ参考」、及び陸軍省兵務局が各省の防諜業務担当者に配布した資料である「防諜第一號」から、当時の防諜に関する認識を整理すれば以下のとおりである。

◇陸軍は、防諜を「外国の我に向ってする諜報、謀略(宣伝を含む)に対し、我が国防力の安全を確保する」ことであると定義し、積極的防諜と消極的防諜に区分した。

◇積極的防諜とは、「外国の諜報、もしくは謀略の企図、組織または、その行為もしくは措置を探知、防止、破摧」することであり、主として憲兵や警察などが行なった。その具体的な活動内容は、不法無線の監視や電話の盗聴、物件の奪取、談話の盗聴、郵便物の秘密開緘(かいかん)などであった。

◇消極的防諜とは、「個人もしくは団体が自己に関する秘密の漏洩を防止する行為もしくは措置」のことであり、軍隊、官衙(かんが、※役所のこと)、学校、軍工場等が自ら行なうものであった。

主要施策としては、(1)防諜観念の養成、(2)秘の事項または物件を暴露しようとする各種行為もしく措置に対する行政的指導または法律による禁止もしくは制限、(3)ラジオ、刊行物、輸出物件および通信の検閲、(4)建物、建築物等に関する秘匿措置、(5)秘密保持のための法令および規程の立案及びその施行などがあった。

(『防衛研究所紀要』第14巻「研究ノート 陸海軍の防諜 ──その組織と教育─」を参考、※インターネット上で公開)

▼防諜体制の強化

 以上のように、2.26の影響や共産主義の浸透防止を目的に兵務局が新設され、日中戦争勃発(1937年7月)以降に防諜の概念が整理されるようになり、陸軍省から関係部署に防諜体制の構築が徹底された。

 つまり、従前の「対諜報防衛」は、相手側の諜報を防衛し、軍機の漏洩を回避するといった狭義の軍事的意味で用いられた。しかし、総力戦のなかで広範囲に諜報、宣伝、謀略が展開されるようになったため、国民を広く啓蒙し、官民一体となった相手国および中立国の秘密戦に対処する必要性が生じた。そのことが「防諜」という言葉に結集したといえるのではないだろうか。

 1937年8月に軍機保護法が全面改訂され、10月に新しい軍機保護法が施行された。1938年には、国防科学研究会著『スパイを防止せよ!! : 防諜の心得』(亜細亜出版社、インターネット公開)といった著書が出版され、国民に対して防諜意識の啓蒙が図られた。

 同著では、1防諜とはどんなことか、2防諜は国民全体の手で、3軍機の保護と防諜とは、4国民は防諜上どうしたらよいか、5スパイの魔手は如何に働くか、6外国の人は皆スパイか、7国民よ防諜上の覚悟は良いか、の見出しで、防諜の概念や国民がスパイから秘密を守るための留意事項が述べられている。

 同著は、「近頃新聞紙やパンフレット等に防諜という言葉が縷縷見受けられるようになってきたが・・・、又一般流行語の様に一時的に人気のある言葉で過ぎ去るべきものであるか、・・・」と記述しており、防諜が一般用語として急速に普及したようである。

 その後、防諜に関する著作、記事、パンフレットが定期的に頒布された。主なものには、『週報』240号「特集 秘密戦と防諜」(1941年5月14日)、『機械化』21号「君等は銃後の防諜戦士」(1942年8月)、引間功『戦時防諜と秘密戦の全貌』 (1943(康徳9)年、大同印書館出版)が挙げられる。

 その後、防諜は終戦までずっと、その重要性が認識され、国民への啓蒙活動が行なわれた。

▼防諜という用語が登場・普及した背景

 防諜という言葉が登場・普及した背景には、第一次世界大戦において非武力戦あるいは総力戦の概念が登場したこと、共産主義国家ソ連が誕生して国際コミンテルンが各国に共産主義イデオロギーを輸出したこと、満洲事変(1931年9月)以後のわが国の大陸進出に対する欧米、ソ連、蒋介石政権の対日牽制が本格化したことなど挙げられる。

 第一次世界大戦において、わが国はドイツが敗北した大きな要因が総力戦対応の失敗だと認識したようであり、これは当時の軍事雑誌では以下のように記述されている。

 「・・・これは前大戦の例を見てもわかります。前大戦の時、ドイツは武力戦では連合軍をよく撃破したのでしたが、非武力戦で銃後を攪乱され、折角の前線の勝利も銃後から崩壊してあの無惨な敗北を喫したのであります。

 戦争とスパイは付き物ですが、前欧州大戦の時にも、両軍のスパイはお互いに盛んに活躍したのです。スパイの活躍がどんなに戦争に響くかということは、今更申し上げるまでもなく皆さんのよくご存知の通りです。

 例えば軍の作戦が漏れた為に敵に乗ぜられるとか兵団の移動が探知された結果、意外な逆襲にあって大損害を蒙るとか、その影響は頗(すこぶ)る大きく、一スパイの活躍よく大兵団を葬ると云うが如き例はいくらもあるのであります。

 前大戦に於いて両軍の軍事スパイは幾多の目覚ましい手柄をたてています。然し結果的に考えてみますと、ドイツ軍のスパイは軍事的にのみ片寄り過ぎて、その他に方面には及ばなかったようです。同時に防諜という点でも、軍関係の秘密は守られましたが、他の方面の秘密は敵側に漏れていたようです。

 近代の戦争が武力戦のみでなく、非武力戦も戦争であると前に述べましたが、戦争に勝つことは、武力戦に勝つと同時に非武力戦にも勝たねばならないのであります。

 前大戦に於ける連合国側の様子を見ると、武力だけではドイツを降参させることは難しいと考え、非武力戦線にも力を入れようと計画したのです。その結果ドイツの経済、社会思想、政治等をよく調べ、銃後攪乱をやったり、謀略、宣伝に力を入れ、とうとう武力戦では勝利を得ているドイツを降参させてしまったのであります。謀略宣伝がどんなに威力のあるものか、非武力戦の勝利が如何に功を奏するかがこの例ではっきり解ります。・・・・・・・」

(「機械化」21号(昭和17年8月)「君等は銃後の防諜戦士」)

 また、当時の国際共産主義の輸出、拡大の情況を整理すると次のとおりである。

 ロシア革命(1917年)後の1919年にレーニンによってつくられたコミンテルンは共産主義の思想を各国に輸出した。日本もその例外ではなく、1922年に日本共産党がコミンテルン日本支部として設立した。これを取り締まるために1925年に治安維持法が制定された。

 1931年6月、コミンテルンの国際組織であるプロファインテル極東支部のイレール・ヌーランが上海で逮捕された。この事件によって、上海を中心にアジア各地にコミンテルンのネットワークが張り巡らされていたことが暴かれ、わが国も事の重大性を認識した。

 1930年代のファシズムの台頭に対しては、欧州各国で1934年から人民戦線の動きが強まった。これを受けてコミンテルンは、1935年のコミンテルン第7回大会で「反ファッショ統一戦線(人民戦線)」路線を採択した。

 中国では、これを受けて共産党が1935年、「8.18宣言」をだし、抗日民族統一戦線を国民党に呼びかけた。この延長線に締結されたのが日独防共協定であり、また日中戦争ということになる。

 日本国内においては、満洲事変以後にわが国が国連脱退したことなどにより、日本への外国人渡来者数や軍事関連施設の視察者が増加した。この中には、正体不明の多くのスパイが混入していた。

 このため、わが国は特別高等警察(特高)と憲兵隊を強化したほか、陸軍省は軍内の機密保護観念の希薄さを改めて問題視した。そして各省庁が連携して国家の防諜態勢を確立すること目指したのである。

 すなわち、官民が一体となった防諜体制の確立が目指されたのである。

▼二大スパイ事件が防諜の重要性を高める

 また、わが国におけるスパイ事件が防諜の重要性を高めた。その代表事例がコックス事件とゾルゲ事件である。

 1940年7月27日に、日本各地において在留英国人11人が憲兵隊に軍機保護法違反容疑で一斉に検挙された。これがコックス事件である。同月29日にそのうちの1人でロイター通信東京支局長のM.J.コックスが東京憲兵隊の取り調べ中に憲兵司令部の建物から飛び降り自殺する。

 当時、この事件は「東京憲兵隊が英国の諜報網を弾圧した」として新聞で大きく取り上げられ、国民の防諜思想を喚起し、陸軍が推進していた反英・防諜思想の普及に助力する結果となった。

一方のゾルゲ事件は、ソ連スパイのリヒャルト・ゾルゲが組織するスパイ網の構成員が 1941年9月から1942年4月にかけて逮捕された事件である。

 この事件についてはあまりにも有名なので、ここで詳細は述べないが、ゾルゲが近衛内閣のブレーンとして日中戦争を推進した元朝日新聞記者の尾崎秀実などを協力者として運用し、わが国が南進するなどの重要な情報を入手し、ソ連に報告していた。

(次回に続く)

わが国の情報史(35) 昭和のインテリジェンス(その11)      -日中戦争から太平洋戦争までの情報活動①-     

▼はじめに

さて、前回は、軍閥間の対立などによって2.26事件が起こったことを述べました。今回から日中戦争と第二次世界大戦に移ることにする。すでに第二次世界大戦については、〝情報の渦〟というくらい多くのことが語られている。だから、ひとつひとつの戦闘の局面を取り上げて述べるのではなく、当時の防諜体制、陸軍中野学校、秘密戦など、歴史の教科書や、通常の戦史書では触れられていないことを中心にざっと述べることにしよう。

▼2.26事件により統制派が台頭  

2.26事件が発生し、岡田啓介内閣は総辞職した。陸軍の皇道派に属する重鎮は軒並み予備役に編入された。これら皇軍派の左遷人事を行ったのが、軍務局軍事課の武藤章中佐(後述)と参謀本部作戦課長の石原莞爾大佐であった。    

彼らは、相沢中佐に刺殺された永田鉄山が率いてきた「一夕会」のメンバーであり、統制派である。つまり、2.26事件により、統制派が皇道派を完全に一掃した。

ポスト岡田内閣について、最後の元老であった西園寺公望は当初、近衛文麿に組閣を命じたが、近衛は病気を名目に辞退した。そのため、斎藤内閣から岡田内閣まで外務大臣であった広田弘毅(ひろたこうき)にお鉢が回った。広田も就任を拒み続けたが、やっとのことで承諾した。

かくして、1936年3月9日、初の福岡県出身の総理広田による内閣が成立した。陸軍大臣には寺内寿一(てらうちひさいち、シベリア出兵時の寺内正毅総理の長男)が就任したが、これも武藤と石原の背後での根回しが功を奏した。

寺内は入閣を打診された際、1913年に山本権兵衛内閣で廃止された「軍部大臣現役武官制」を復活させるよう迫り、外相に予定されていた吉田茂を外させるなど、入閣と引き換えに組閣に対して容喙した。

「軍部大臣現役武官制」とは、陸軍大臣、海軍大臣は現役軍人でなければならないというものである。つまり、軍部のお墨付きがなければ組閣ができないことを意味し、政治に対する軍部の影響力が増大することになった。 このことが、やがて統制派のトップに君臨した東條英機による陸軍大臣、さらに内閣総理大臣への就任、そして太平洋戦争へと連接する道に向かわせることになった一要因とみられている。

▼3国防共協定の締結

当時、世界的にはドイツのナチズムとイタリアのファシズムが台頭していた。我が国においては「利権拡大のためドイツと軍事同盟を結ぶべし」との強硬論と、「戦争に向かいつつある欧州とは関わり合いを持たないほうが良い」とする慎重論に分かれた。広田は慎重論であった。

他方でソ連を中心とする国際共産主義運動も活発化していたことに対して多大な懸念があった。そのため、広田内閣は1936年11月にドイツとの日独防共共協の締結に踏み込んだ。ただし、欧州の情勢に巻き込まれる軍事条約の締結には反対し続けた。

翌1937年11月、イタリアがこれに参加し、日独防共協定は日独伊三国防共協定となった。かくして、わが国はドイツ、イタリアと反ソ連の立場で結束し、枢軸陣営を結成し、連合国との対立を鮮明にしていくのであった。

▼政権交代を繰り返し、混迷する日本政治

軍部と政党の対立のなかで、広田首相は指導力を発揮できず、組閣から1年もたたずに1937年1月23日に総辞職する。広田内閣の後には、宇垣一成を推す声が強かったが、宇垣が行った軍縮に恨みを持つ軍部の反対で、これは実現しなかった。

結局、2月2日に予備役大将の林銑十郎(はやしせんじゅうろう)による内閣が成立した。 林内閣も、政党からそっぽを向かれて、同年6月4日に総辞職した。林内閣は短命で特に何もしなかったことから、林の名をもじって「何にもせんじゅうろう内閣」と皮肉られた。
こうした短命内閣の背後には、「軍部大臣現役武官制」を通じた軍部からの圧力の存在があったとみられている。

林内閣の後には第一次近衛文麿内閣が誕生した。 新鋭47歳の近衛公は、身長180cm以上で容姿端麗、国民人気は高く軍部および政財界からも大歓迎を受けた。また、近衛はパリ講和会議の前年「英米本意の和平思想を排す」という論文を発表し、1932年(昭和8)1月、年頭談話では、満州国の正当性を否定するリットンへの反対意見を発表するなど、軍部の革新思想と一脈通じるものがあった。

しかし、近衛は思いつきとみられるよう浅薄な発言を繰り返し、国政を混乱させ、軍部からはすぐに見限られる。また、近衛は尾崎秀実(おざきほつみ)やリヒャルト・ゾルゲとの個人的関係が取り沙汰される、彼自身が共産主義者と見られたり、要を得ない人物であった。

▼盧溝橋事件から支那事変が勃発

第一次近衛文麿内閣成立直後の1937年7月7日、北京郊外の盧溝橋付近で日中両国の衝突事件が起きた。いったんは現地で停戦協定が成立して、近衛内閣は不拡大方針を表明したが、軍部の圧力等により、兵力を増派して戦線を拡大することになる。  

参謀本部・作戦(第1)部長の石原莞爾少将は「陸軍総動員兵力30ケ師団中、日本が中国作戦に使用し得る兵力は対ソ戦備上15ケ師団(全兵力の1/2)でなければならないが、その兵力では到底広大な中国大陸を制し得られない」 と主張し、事変の不拡大を支持した。

石原は、現地の第一線のわが軍を北支一帯より撤収すべきだと考え、近衛総理が自ら南京に赴き、蒋介石と直接会談して時局の収拾にあたるべしと強調した。

しかし、軍中央部においては作戦部、第2部(情報)ならびに軍務局(陸軍省)内において事件拡大積極論を叫ぶ者があった。結局、石原はこうした軍部の圧力に屈する形で、7月10日、3個師団の動員派遣に同意するに至った。これが強硬論に拍車をかけた。

▼強硬論の中心人物、武藤章

石原は1931年の満州事変で、中央政府の不拡大方針を遵守せずに拡大を図った。だから、石原は部下の軍務課長の武藤章大佐以下の中堅幹部の積極論を押さえられなかった。

強硬論の中心人物である武藤章はのちに中将職でただ一人、A級戦犯で処刑された。武藤は1935年以降に関東軍によって推進された、華北(チャハル、綏遠、河北、山西、山東)を国民政府の統治から切り離して支配しようとする「華北分離工作」の起草者である。

石原が中央の統制に服するよう、武藤の説得に来た際に、「石原閣下が満州事変当時にされた行動を見習っている」と得意の毒舌で反論して同席の若手参謀らも哄笑、石原は絶句したという。

武藤は2.26事件の善後処置において、石原と共に最も厳重な厳粛法案を立案して、これを実行に移した。この時以来、武藤は統制派の重鎮として影響力を持った。

盧溝橋事件が起きると、蒋介石政府を侮る武藤(この時参謀本部の編制課長)として「中国一激論」を唱え、田中新一・東條英機ら統制派の勢力を後ろ盾に石原ら不拡大派を追放(喧嘩両成敗で武藤も参謀本部を去るが、のちに軍務局長として復活)、近衛文麿内閣による日中戦争拡大と日独伊三国同盟に主導的役割を果した。

盧溝橋事件の現地部隊は事態不拡大の意向であったが、日本政府が軍の一部の圧力に影響され、事態が拡大し、日中全面構想から太平洋戦争に至った。 この点に関して言えば、満州事変が出先の関東軍の主導によって、中央政府の不拡大方針を遮って拡大路線を向かったことと線対称であった。

わが国の積極攻勢に対して、国民政府の側も断固たる抗戦の姿勢をとったので、戦闘は当初の日本側の予想をはるかに超えて全面闘争に発展した。すなわち、泥沼の日中戦争へと発展した。

1937年9月には国民政府と共産党が再び提携し(第二次国共合作)、抗日民族統一戦線を樹立した。日本はつぎつぎと大軍を投入し、年末には国民政府の首都南京を占領した。国民政府は南京から漢口、さらに奥地の重慶に退いて抗戦を続けたので、日中戦争は泥沼の長期戦となった。

▼第二次世界大戦が勃発

欧州では、ナチス・ドイツが積極的にヴェルサイユ体制の打破に乗り出し、以下のとおり着々と支配権を拡大した。

・1938年3月、オーストリアおよびチェコスロバキアを併合

・1939年4月、ポーランドとの不可侵条約(1934)を破棄

・1939年9月1日、ポーランドに侵攻

これに対し、イギリス、フランスが1939年9月3日、ドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦が始まった。 ドイツ軍の侵攻に触発され、ソ連もポーランドに侵攻した。両国は独ソ不可侵条約(1939年8月)にもとづき、ポーランドを分割した。 ソ連は1939年11月にフィンランドに侵攻、1940年にはフィンランドから領土を割譲、ついでバルト三国を併合した。

▼世界を驚愕させた独ソ不可侵条約

ソ連に対し、ドイツはのちの1941年6月22日に攻撃を仕掛けることになるが、大戦直後のドイツの攻勢は、良好な対ソ関係に支えられた。ドイツはソ連に接近することで東部戦線を安定させ、西部戦線に戦力を集中したのである。

両国の良好関係を示す最たるものが、1939年8月の独ソ不可侵条約である。イデオロギーを対立させ、個人的に〝犬猿の仲〟といわれたヒトラーとスターリンが手を結んだのであるから、世界中に衝撃が走った。  

ヒトラーは1933年の政権奪取以降、イギリスとの対立を回避する外交政策を展開していた。しかし、駐英大使時代に反英感情を強めていたリッベントロップ外相は、はやくも独・伊・日・ソによってイギリスに対抗する構想を固め始めていた。1938年1月、彼はヒトラーによる反英構想の覚書を提出した。こうした反英構想が、次第にドイツを対ソ懐柔政策へと向かわせたのであった。  

1939年4月、ヒトラーはポーランドとの不可侵協定とイギリスとの海軍協定を破棄し、イギリスに対決する意志を明確にした。他方、イギリスはソ連に対して「平和戦線」への参加を求めた。ソ連は参加の条件として、英・仏・ソの三カ国による軍事同盟の締結を求めた。しかし、英仏側はそれに応じなかった。  

ソ連側の提案に、チェンバレン英首相が否定的な態度を示したことで、スターリンは、ソ連だけがドイツとの戦争に巻き込まれ、英仏がそれを傍観するという最悪の図式を懸念した。  

そこで、ソ連はドイツとの接触を開始した。ドイツのリッベントロップ外相がソ連のモロトフ外相がその交渉にあたった。モロトフがドイツとの接近に消極的であると見るや、ドイツは大胆な手を打った。

1939年8月14日、「ポーランドを含めた東欧をソ連と分割する用意がある」ことをヒトラーが表明した。同時に、リッベントロップ自らがモスクワに飛んで交渉することを申し入れたのである。  

ソ連側は、こうしたドイツ側の対応を〝誠意〟と感じ取った。8月15日、モロトフは独ソ間の不可侵条約について提案を行なった。 ヒトラーにとってこの提案は望むところであった。なぜならば、ソ連を戦争圏外に置いて安心してポーランドを攻撃できるのみならず、英仏の行動を相当委縮できるからである。かくして、8月23日、世界が驚愕する独ソ不可侵条約の成立と相成ったのである。  

▼早くも情報戦に敗北する日本  

上述のとおり、広田内閣は、ソ連の共産主義拡大を警戒し、日独防共協定、次いでを締結し、日・独・伊三国防共協定を締結した。 一方、1937年7月以降の日中戦争の勃発によって、極東のソ連が最大の軍事的脅威となった。

そして1938年7月、満洲国に駐屯して対ソ国境を警戒する日本陸軍はソ・満国境不明地帯においてソ連軍と衝突(張鼓峰事件)した。さらに、日ソの緊張度は高まり、1939年5月には、満洲国西部とモンゴル人民共和国の国境地帯で、ノモンハン事件が生起した。なおこの戦いではソ連の大戦車軍団の前に日本陸軍は大打撃を受けたのである(ただし、少ない戦力で対戦車戦闘ではソ連よりも優位な戦いをしたとの説もある)。  

こうしたなか、ドイツはソ連に加え、英仏を仮想敵国とする軍事同盟を締結することを日本に提案してきた。わが国は「同盟を結ぶべきか否か」について、何回となく会議を開くものの結論が出せなかった。そうこうしているうち、1939年8月、突如、独ソ不可侵条約が締結されたのである。   この条約の締結は、わが国がノモンハン事件を戦っている最中の出来事であり、ソ連を仮想敵国として進めてきたわが国とドイツとの同盟関係が根底から揺さぶられるものだった。 これを契機に、平沼内閣は「欧州の天地は複雑怪奇なり」との有名な言葉を残し、国際情勢の急変に対応し得ないとして総辞職した。  

日本は、独ソの接近がまったく読めなかった。これに対して、ソ連情報機関(クリピッキー機関)の諜報活動により、日・独防共協定をめぐるベルリンと東京の極秘電報をスターリンに筒抜けになっていた。(三宅正樹『スターリンの対日情報工作』) つまり、当時の日本の情報関心は、直接対峙する中国、あるいは北方の極東ソ連だけに限られてはならなかった。すなわち世界の情勢推移を多面的に見る目が必要であった。

日本は、中国戦線における優勢に浮かれ、狭窄症にかられて、国際情勢をみる目も持たなければ、暗号解読をめぐるソ連との情報戦にも完敗したということになる。すでに、太平洋戦争における情報戦の敗北は始まっていたのである。

わが国の情報史(34)  昭和のインテリジェンス(その10)   ─満洲事変から日中戦争までの情報活動(3)─   

はじめに

前回までに満洲事件後の陸軍および海軍のそれぞれの情 報体制について述べた。今日は日中戦争に向かうなかで生起 した、2.26事件など国内の主要事件の背景となった軍閥間の 対立や秘密組織の存在について述べることとする。

▼対ソ作戦計画をめぐる対立  

すでに『わが国の情報史(32)』において、1936年の 2.26事件が生起した原因のひとつに陸軍内の軍閥の存在があ ったことを指摘しておいた。ここで、もう一度、その記述内容を 少し短縮して振り返ることとしよう。  

1931年の満洲事変の勃発以後、日ソ両国は満洲をめぐって直接対峙することになる。1932年10月に、ソ連から日本に対して不可侵条約の締結申し入れがあったが、日本政府は時期尚早としてソ連の提案を受け入れなかった。この大きな理由というのが陸軍の強力な反対である。

不可侵条約締結に失敗したソ連は、極東ソ連軍の軍備を急速に拡張することになる。当時のソ連軍対関東軍の戦力比は3~4:1 であった。しかし、参謀本部第3部の作戦課長であった小畑敏四 郎大佐(のちに3部長)、その後任の鈴木従道大佐は極東ソ連軍の戦力を低く評価し、米・英や国民党との提携によりソ連に対す る攻撃を主張した。  

これに対し、参謀本部第2部長に赴任した永田鉄山少将は、ソ 連に対する軍事的劣勢を認識して、当面の間、ソ連との関係緩和を模索し、この間に軍近代化を図るべしとした。つまり、ソ連を西方に牽制するためにドイツなどとの提携を模索することを一義と し、英米や国民政府との提携には反対であった。  

国家戦略をめぐって第1部(作戦部)と第2部(情報部)が対立したが、作戦至上主義のもとで第1部の案が採用された。1933年(昭和8年)の作戦計画は「まず満洲東方方面で攻勢作戦 をとってソ連極東軍主力を撃破し次いで軍を西方に反転して侵攻 を予想するソ連軍を撃滅せんとする」ものに変更された。  

また、第2部と第1部との対立が永田、小畑両少将を中心とする対立抗争へと発展した。これが後々、世間でいわれる皇道派、 統制派の派閥抗争へとつながり、1935年8月の白昼における 永田少将刺殺事件、1936年の2.26事件を引き起こした のである。

▼陸軍の派閥の歴史  

ここで皇道派と統制派との派閥抗争に至る過程について、少々 時計の針を巻き戻して、陸軍の派閥の歴史を語ることとしよう。  

明治の初頭以来、陸軍にはいわゆる軍閥と称するものの存在が あった。それは明治維新に功労のあった薩長両派を中心とする二個の勢力である。一つは長州の大村益次郎を代表とする長州派で あり、もう一つは薩摩の西郷隆盛を代表とする薩摩派である。  

まず大村が死亡し(1869)、次いで西郷が倒れ(1877)た。 長州派は元帥・山県有朋がこれを率いた。一方の薩摩派は元帥・ 大山巌がその中心となった。両派は対立を続けたが、よく勢力の均衡を保って、日清、日露の両戦役にも勝利を得た。  

大正4年(1915年)、大山が死亡し、ここに長州陸軍の黄金時代を現出した。しかし、大正11年春(1922年)、長州派の大御所・山県が逝去する。そこに薩摩派の勢力挽回を策した 元帥・上原勇作と長州派を代表する田中義一(政友会に接近し、1918年の原内閣で陸軍大臣、1927年に総理大臣)との間に抗争が起こった。  

こうしたなか宇垣一成(うがきかずしげ)が登場する。彼は岡山出身であるが、田中の庇護のもとで陸軍中枢に躍り出る。大正 13年(1924年)に田中による工作が成功し、宇垣は清浦内閣の陸軍大臣に就任する。その後の宇垣は、加藤高明内閣、第1次 若槻礼次郎内閣で陸軍大臣に留任、濱口雄幸内閣でも陸軍大臣に再就任した。  

宇垣は、次第に田中および政友会と距離をとるようになり、憲 政会の加藤の方に接近していく。そして大正14年(1925年)、加 藤内閣時代においては、軍事予算の削減を目的とする軍縮を要求する世論の高まりを受けて、4個陸軍師団の削減を始めとする軍縮を断行した(宇垣軍縮)。  

宇垣は田中が死亡すると(1929年9月)、長州派を退けていった。しかし、上原元帥を中心とする薩摩派は宇垣の政策にこ とごとく容喙し、とくに宇垣の軍縮に対しては感情的なまでに反 抗した。  

宇垣は、こうした薩摩派の抵抗に対して、同期の鈴木荘六大将、 白川義則大将と連携して、全陸軍から優秀な人材を網羅して宇垣 派閥をつくっていたのである。  

一方の上原は、宇都宮太郎、武藤信義、荒木貞夫、真崎甚三郎 らを擁して、宇垣を牽制した。これらが、のちに皇道派と呼ばれる軍閥の基礎となった。

▼少壮将校による改革の芽生え  

こうした軍首脳部の権力争いは、少壮将校による藩閥打倒の革新的気風をもたらした。その表れが、永田鉄山(ながたてつざん)、 小畑敏四郎(おばたとしろう)、岡村寧次(おかむらやすじ)ら を中心とする「一夕会(いっせきかい)」の誕生である。    

1921年、ドイツの保養地で知られるバーデンバーデンに陸軍の秀英、永田、小畑、岡村、東条英機の4人が会した(バーデンバーデン会議)。 当時、日本は第一次世界大戦後の戦後不況と、政党間の対立に明け暮れていた。そこで彼らは、「現政府による国家の立て直しは不可能である」との結論に達し、「国家総動員体制の確立を目指 す、軍内における薩摩派、長州派の派閥を一掃する」ことが密約さ れた。  

彼らは、帰国後に他の将校との会合を開き、賛同者を獲得していった。 その結果、1927年に岡村の主導で「二葉会」が結成された。 また同年、鈴木貞一中佐が「木曜会」を結成した。そして1929年春から両組織が合併し、一夕会が結成されたのである。  

一夕会は軍内部の改革に取り組んだ。彼らは、荒木貞夫、真崎甚三郎、林銑十郎を中核とする陸軍建て直しと、当時、陸軍を牛耳っていた長州閥の解体を目指した。そして、1929年8月に岡村は陸軍省の人事局補任課長(大佐以下の人事を担任)になり、 1931年に荒木が犬養毅内閣の下での陸軍大臣になることで、 陸軍人事を牛耳ったのである。

こうしたなか、一夕会の議題は満蒙問題にも及んだ。この解決では満洲に日本の味方となる新勢力を樹立して利権を得ると同時 にソ連への防波堤にする政策が主流を占めた。  

満洲事変の立役者とされる石原莞爾も一夕会のメンバーであっ た。つまり、満洲事変そして満洲国建設は、現地における関東軍の独断専行というよりも、陸軍中央における一夕会の国家体制作 りという背景があったことになる。

▼海軍の秘密結社「王師会」  

満洲事変以後の5.15事件、2.26事件を見る上では軍内 の秘密結社の動きを押さえておかなければならない。 当時の秘密結社の濫觴は海軍の「王師会」設立からである。王師会は、1928年3月、霞ヶ浦航空隊の藤井斉(ふじいひとし) を中心に結成された。  

藤井は海兵53期であり、1922年8月に入校し、1925 年7月に卒業している。こま期は、1921年から22年にかけ てのワシントン海軍軍縮条約の影響で、兵学校の採用生徒数が削減された期であった。52期生は236名であったが、藤井ら 53期生は62名であった。  

このように藤井は、屈辱的ともいえる軍縮条約とその後の政党政治による軍縮、そして1920年代後半の経済不況の真っただ中の時代に、青年将校として生きた。そのことが藤井の思想に大 きな影響を及ぼした。  

藤井は、海兵入校後に思想家・北一輝の『日本改造案大綱』 (1923年敢行)を愛読するようになり、北が掲げる「アジアの解放」の思想に強く傾倒するようになる。また、藤井は兵学校 の休暇中は東京に行き、大川周明(おおかわしゅうめい)、安岡 正篤(やすおかまさひろ)らの知遇を得ている。  

海兵在校中のエピソードとして、時の軍令部長・鈴木貫太郎が 来校した際、藤井は軍縮条約を非難し、アジアの解放を訴える演説を行なったとされる。こうした行動が、藤井の求心力を高めたようだ。のちの5.15事件(1932.5)の首謀者となる三上卓(海兵54)、古賀清志(海兵55)は、こうした藤井の行動に共鳴した。  

藤井は西田税(にしだみつぎ)が結成した「天剣党」に唯一の 海軍軍人として加盟し陸軍青年将校との同志的団結を図った。なお、 退役陸軍軍人にして北一輝の第一の子分であった西田は、 2.26事件で北とともに死刑に処さられた。  

天剣党は、陸軍の隊付の青年将校や士官候補生が参加したが、 その発足は1927年5月とされる。天剣党には、北一輝の『日本改善法案大綱』を指導原理とし、世のいわゆる「軍隊の我が党化」を目指した秘密結社であった。この党の参加者には磯部浅一、 村中孝次など2.26事件の関係者が含まれた。  

しかし、西田が1927年7月に『天剣党規約』を作成して、 全国の連隊に所在する同志に配布したことが問題となり(天剣党事件)、天剣党は憲兵の執拗な監視下におかれ活動に支障を来し た。  

次第に藤井は西田らとの活動には距離を置いた。他方で藤井は、 大川周明が青年闘士を育成するために開いた「大学寮」に古賀ら とともに参加して、陸軍の青年将校などと交わり、陸・海・民の 三者による横断的団結を深める。  

藤井は1928年3月に、海軍兵学校以来の同志とともに王師会を結成した。これは、海軍初の革新行動組織であった。王師会 は発足当時の会員は10名前後であったが、1930年のロンド ン海軍軍縮会議のころは40数名に増加している。    

濱口内閣によるロンドン軍縮条約調印をめぐって、右翼や政友会は「海軍軍令部の承認なしに兵力量を決定することは天皇の統 帥権を犯すものだ」として、同内閣を攻撃した。これが政治問題化したのがいわゆる統帥権干犯問題である。  

藤井は政府に揺さぶりをかける切り口を海軍軍縮会議に見出し た。全権大使である海軍大臣・財部彪が帰国した際、「売国全権 財部を弔迎す」と書いた幟(のぼり)を突き付け、海軍大臣の下 へ直談判に押しかけた。こうした動きがやがて陸軍に波及し、これに民間右翼が呼応し、政党政治の撃滅を唱える風潮が高揚した。  

ロンドン海軍軍軍縮条約を頂点とする軍縮の動き、満蒙問題の切迫、大恐慌下の社会的不安、政党政治の腐敗堕落、社会主義運動の台頭などが、革新的軍人の結束を促進し、国家改造へと駆り立てたのであった。

しかし、王師会と陸軍青年将校との団結に軋みが生じる。藤井は陸軍との団結を強化し1931年に起きた十月事件(後述)へ の参加も考えていたが、陸軍の橋本欣五郎らに不信を抱き(後述)、 途中で離脱している。  

1931年12月に犬飼内閣が樹立し、青年将校から絶大な支 持を集める荒木貞夫大将が陸軍大臣として入閣すると、陸軍の若手将校は荒木を通じて自分たちの声を政治に反映しようとして、 王師会の活動とは連携しなかった。  

1932年1月に生起した第一次上海事変に、藤井が航空隊員 として出征し、国民党軍の対空火砲を受けて撃墜され、戦死した。 こうしたことにより、王師会の結束は綻びていった。  

1932年5月、王師会は犬養首相暗殺を試みた(5.15事件)。 しかし、首相暗殺こそ果たしものの、別働隊が起こした銀行や東京都の変電所に対する襲撃は軒並み失敗した。  

事件後、王師会のメンバーは次々に逮捕され、裁判にかけられ た。しかし、首謀者である三上と古賀の二人が叛乱罪により禁固 15年を受けたのが最高であり、死刑判決を下された者はおらず、 数年後に恩赦として釈放された。  

当時、世界恐慌の影響などでわが国は慢性的な不況状況にあり、 企業倒産、失業者が続出るなか、多くの国民はその原因を政党政 治の行き詰まりにあると考えた。そして国家の刷新を図ろうとする王師会に少なからぬ共感を抱いていた。実際、5.15事件関 与者の減刑を求める嘆願書も36万通近く寄せられており、その 中には血判や詰められた指なども同封されていたという。  

しかし、これは一国のトップを殺害しても、禁固15年程度で済むという前例となり、このことが、のちの2.26事件などを 誘発したとの見方もある。また、この事件の影響で暗殺を恐れた 政治家たちは軍への干渉を控えるようになる。そして軍部の発言力が一気に強まっていくことになったのである。

▼陸軍の秘密組織「桜会」の結成  

陸軍中央では、参謀本部ロシア班長として、トルコ大使館付武官より転任したばかりの橋本欣五郎中佐が帰朝早々から国家改造を目指した。 橋本は、ロシア語とフランス語が堪能であり、1923年に満 洲里特務機関長となる。ここでロシア特務機関員と接触してロシ ア革命を研究した。1927年にトルコ大使館付武官となり、こ こではケマル・パシャに私淑してトルコ革命を研究したとされる。  

ともあれ、トルコ再建に尽くしたケマル・パシャの偉業を目の当たりにして帰朝した橋本にとって、当時の国内状況は醜態窮ま るものであった。そこで橋本は国家革新を決意するが、革新断行 の前提として青年将校の団結を求めた。それが、秘密結社「桜会」 の結成につながった。  

一夕会が陸軍大学校のエリートで占められたのに対して、桜会 は出世コースから外れた士官学校の若手が占めていた。そうはいうものの、入校した将校には、終戦直後に北方領土でソ連軍と戦 う樋口季一郎、陸軍中野学校の創設者にしてインドの独立工作に従事した岩畔豪雄、のちの参謀本部作戦参謀・辻政信などの将来有望で決起盛んな青年将校も参加した。  

メンバーが百数十人を超えた1931年3月、桜会のメンバー は国会改造に向けて動き出す。橋本は、民間右翼の大川周明、清水行之助と共謀し、濱口内閣を打倒して、陸軍大臣の宇垣を総理大臣に担ぎ上げるクーデターを計画した。  

3月事件は失敗に終わったが橋本には何らのお咎めはなかった。 同年9月に満洲事変が生起したことで、桜会はこれに乗じて国内 でのクーデターを再び計画した。  

橋本らは、可能な兵力を総動員して国会を襲撃、首相と政府閣 僚の暗殺を企図した。政敵と武力排除した上で、桜会に同情的で あった荒木貞夫中将をトップとする改造内閣を樹立した。しかし、 決行前の10月17日に憲兵隊に先手を打たれて、橋本ら主要な メンバーは検挙された(10月事件)。  

この事件においても、陸軍首脳は検挙者に対して寛大な処置を とった。こうした国(軍)内における下剋上の風潮容認がさらなるクーデター計画である2.26事件へとつながった。

▼一夕会の分裂から皇道派と統制派との対立  

1931年の満洲事変以後、一夕会は陸軍の最大勢力となった。 しかし、冒頭のように対ソ政策をめぐって、結成時のメンバーである永田と小畑が対立することになる。さらには、石原も満洲の運営方法で、他の会員と対立していく。そして、1934年前後には、永田・小畑の対立は修復不可能な域に達するのであった。  

その背景の一つには陸軍大臣の荒木による身内贔屓の人事があ った。荒木は、かつての薩摩派、のちに皇道派と呼ばれることにな る面々を重用した。これにより、会員の不満が爆発し、一夕会は永田に味方するグルーブ(統制派)と小畑のグループ(皇道派) に対立した。荒木は小畑の後ろ盾となった。  

しかし、1932年の5.15事件や右翼団体「血盟団」による連続暗殺事件(血盟団事件)への関与疑惑から、皇道派への風当たりが強くなった。1934年1月に荒木は体調不良により辞任した。 その後任には、統制派の林銑十郎が選ばれた。林は永田の助言を受けて、重要ポストから皇道派をことごとく 排除した。

そして、軍務局長になっていた永田が皇道派の相沢三郎中佐に刺殺される。これが原因で林は陸軍大臣を辞任する。こ うしたきな臭い対立が刻一刻と2.26事件へと向かわせたのである。

わが国の情報史(33)  昭和のインテリジェンス(その9)   ─満洲事変から日中戦争までの情報活動(2)─

▼はじめに

さて、前回は満洲事変以後の陸軍の情報体制について述べまし

たが、今回は海軍の情報体制について述べることとします。

▼海軍の想定敵国の第一位は米国  

日露戦争以後、わが国陸軍はロシアを、一方の海軍は米国を想 定敵国とした。そして、両者の対抗意識が軍備の拡充競争を引き起こすことになる。これを憂慮した元帥山県有朋は、1906年 にわが国の「国防方針」の必要性を上奏し、同年末に初の帝国国 防方針が確立した。  

この国防方針の確定に際して、山県は想定敵国の第1位ロシア、 第2位清国、第3位にロシアと清国の2国を挙げた。しかし、海軍との討議の末に、第1位ロシア、第2位米国、第3位フランス が想定敵国となった。このような経緯からしても、陸軍と海軍に は国際情勢の脅威認識における相違があったのである。  

日本海軍が米国を強く意識した背景には、1980年代末から 1990年代の諸島にかけての、ハワイ併合、フィリンピン占領 といった太平洋への進出に加えて、米国の「オレンジプラン」の存在があった。

日露開戦直後から、米国は陸海軍の統合会議を開 催して、世界戦略の研究に着手した。つまり、ドイツを仮想敵国 にしたのが「ブラックプラン」、イギリスに対しては「レッドプ ラン」、日本に対してはオレンジプランといったように色分けした戦争予定準備計画を策定したのである。  

オレンジプランでは、日本はフィリピンとグアムに侵略するこ とが想定された。つまり、米国が占領した太平洋の拠点を防衛す る上で、日本は想定敵国に位置付けられたていたのである。  

そして日露戦争における日本勝利によって、オレンジプランはより具体化されていくことになる。日露戦争が終った翌年の19 06年には、セオドア・ルーズベルト大統領は、軍部に対し米海 軍をすみやかに東洋に派遣する計画を命じた。その具体化事例の 一つが、1907年から1908年にかけての「白船事件」であ る(わが国の情報史24)。

こうした米国の動向に対し、海軍は「国防方針」にもとづき米国を想定敵国とし、1907年4月「用兵綱領」を策定し、来攻 する米艦隊を我が近海に向けてこれを撃滅する方針を確立した。  

その後、国防方針は1915年(第1次改定)、1923年 (第2次改定)の二度の改定を経て1936年に第3次改定を行 なうことになる。 第1次改定は、1915年にわが国が袁世凱政権に対して行な った「対華二十一カ条要求」に対して中国の対日感情が悪化したことを背景とする。この改定では、仮想敵国は第1位ロシア、第 2位米国、第3位清国となった。  

第2次改定は、帝政ロシアの崩壊(1917年)、ワシントン 海軍軍縮条約の締結(1922年)を背景とする。この改定では、 「帝国は特に米国、露国および支那の三国に対して警戒する必要がある。なかんずく近い将来における帝国国防は、わが国と衝突 の可能性が最大であり、かつ強大な国力と兵備を有する米国を目 標として、主としてこれに備える」とされた。つまり、ロシアの 崩壊により、わが国として米国が仮想敵国の第一位となったので ある。  

第3次改定は、ロンドン軍縮会議(1930年)、満洲事変 (1931年)、国連脱退(1933年)を背景として行なわれ たが、米国、ソ連(露国)、支那、英国を仮想敵国とする用兵綱 領が規定された。

▼第一次大戦後の米国の対日情勢認識  

第一次世界大戦の結果、「ブラック」のドイツは破れ、「レッ ド」の英国は疲弊した。そして、米国にとっては「オレンジ」の 日本の脅威のみが増大することになる。  

第一次世界大戦の結果、わが国は、マーシャル、マリアナおよ びカロリンといった旧ドイツ領南洋諸島を委任統治領とした。1 919年のベルサイユ会議において米国は、自らのフィリピンの防衛を損なうとして、日本の委任統治に強く反対したが、画策むなしく、日本による委任統治が認められた。  

これにより、日本は赤道以北の西太平洋を支配した。一方の米 国はハワイとアリューシャンの北東太平洋を支配し、日本の支配 した領域の西方にグアムとフィリピンを孤立した前哨拠点として 保持することになった。  

こうした情勢下、米国はますます対日脅威認識を強め、オレン ジプランの具体化を進めることになる。 1931年の満洲事変に対して米国は強く日本を批判した。1 932年1月、スチムソン国務長官は「不戦条約(ケロッグ・ブ リリアン条約)の条項と義務に反する手段によってもたらされた 事態や条約や協定を承認するつもりはない」とする方針を日中両 国に通知した。それはのちに「スティムソン・ドクトリン」と呼ばれることになる。  

ただし、米国は当面は世界恐慌への対処を重視したことから対 日経済制裁などの実力行使は行われなかった。またイギリスも事 態が満洲に限られている間は黙認するという態度をとった。これ が、わが国の満洲国の建設と地歩拡大につながった。  

そしてスティムソン・ドクトリンは、以後の米国の対日政策の 基調となり、やがてルーズベルト大統領の同ドクトリンへの支持 を表明、次いで石油と屑鉄の対日禁輸(ABCD包囲網)となり、 太平洋戦争へと向かうことになる。

▼海軍軍令部の改編  

海軍における情報を担当する機構の創設は1884年(明治1 7年)2月に遡る。当時、海軍省軍務局が廃止され、海軍省軍事 部を置いた際に、それまでに軍務局が管掌していた事務のほか、 艦隊編成(第1課)と出師準備(第2課)、海防(第3課)、諜報(第5課)を司ることになった。つまり、第5課が情報を担当 した。  

1886年には軍事部が廃止され、参謀本部海軍部が新設された。この改編にともない、海軍部第3局が諜報(情報)を担当す ることとなり、その内部構成は第1課が欧米諜報、第2課が隣邦諜報および水路地理政誌となった。このように海軍は早くから米 国に対する情報を重視した。  

その後、情報を司る海軍の機構は数回の改編を経て、満洲事変開始前には海軍軍令部第3班が情報を担当していた。第3班は第 3班長(少将)以下、第5課と第6課で編成され、第5課が欧米 列国を、第6課がソ連および支那ならびに戦史研究を担当した。  

満洲事変と上海事変を経た1932年10月、海軍軍令部の機構改編にともない、第3班は、班長直属を創設するとともに4課編成(第5、第6、第7、第8)となった。  

これにより、第3班長直属が情報計画および情報の総合などを担当し、地域別の軍事並び国情概況調査については、第5課が南北アメリカ、第6課が支那および満洲国、第7課が欧州列国を担 任することになった。なお、第8課は戦史の研究並びに編纂を担 当した。  

つまり、満洲事変以後に日米間の緊張化が高まったことで、アメリカ合衆国を含む米州を単独の課が担当することとなったのである。一方、ソ連は第7課の担当になった。  

満洲事変以後の対ソ連脅威の高まりに対しては、陸軍の情報体制の強化が図られた。1936年6月に参謀本部第2部第4課第 2班が昇格して第2部第5課となり、いわゆるソ連課が新設され た。つまり、陸軍においては、単独の課がソ連を担当することになった。

一方の米州は参謀本部第6課の、いわゆる欧米課が欧州 列国を見る一部として米国を見ていた。また、第2部長はもとよ り、欧米課長も“ソ連派”で占められ、陸軍における対米軽視の風潮があった。  このように満洲事変以後、陸軍はソ連重視、海軍は米国重視の傾向がさらに顕著になったのである。  

なお、1933年10月に海軍軍令部条令の廃止によって、従 来の班が部に改められ、第8課が廃止されたので、軍令部第3班 は軍令部第3部となり、その下に第5課、第6課、第7課がぶら 下がる体制になった。

▼米西岸における駐在員の配置  

満洲事変以後、太平洋における米艦隊の動向が、日本海軍の重 大関心事項となった。このため1932年7月、米東岸で語学の 修得や米国事情の研究に専念していた、中沢佑少佐と鳥居卓哉少佐を米太平洋艦隊の根拠地である米西岸に駐在させ、米艦隊の動 向監視、訓練状況、艦隊乗組員の対日感情の把握などを行なわせ ることとした。  

ところが、鳥居少佐は不慮の自動車事故で死亡したため、中沢少佐のみがサンフランシスコ郊外のサンマテに拠点を構えて艦隊動向の情報収集にあたった。しかし、わずか一人の駐在員が広大 な米西岸を管掌するのには無理があったため、1933年12月 から宮崎俊男少佐がロサンゼルスに着任して、中沢少佐と協力し て米艦隊の情報にあたることになった。  

その後、中沢少佐の帰国(サンマテ駐在の廃止)、シアトルへ の駐在員の新規派遣、シアトル駐在員の廃止、ロサンゼルス駐在 員の交代などを経つつ、ほそぼそと、艦隊の情報収集は継続され た。しかしながら、駐在員1名での情報収集には限界があり、め ざましい成果は確認されていない。

▼通信諜報の本格運用  

わが国の通信諜報の開始は日露戦争時期に遡る。そして海軍の通信諜報組織は、1929年初めに海軍軍令部第2班に第4課別室を新設し、きわめて少人数の暗号解読班が編成されたことが、 その濫觴(らんしょう)である。  

当時の傍受は、初め海軍技術研究所の平塚で、ついで東京通信隊橘村受信所を利用した。第4課別室の職員は、中佐×1、少佐 ×1、大尉×2、タイピスト×3であり、作業の主目標は米国と 英国の軍事通信であった。  

1932年の上海事変(第一次上海事変)において、通信諜報 の有効性が認識されことから、その組織強化が図られた。上海事 変が勃発するや、海軍は上海特別陸戦隊に対中国作業班(C作業 班)をおき、中国軍の暗号解読にあたらせた。これが上海機関 (X機関)の発端である。  

作業班は、南京政府が、わが空母を攻撃する意図のもとに、その飛行機群を杭州飛行場に集中待機させたことを探知し、我が航 空部隊をもって同飛行場を先制攻撃した。  

1933年1月、ハワイ近海で実施する大演習の通信諜報かを 実施するため、「襟裳」(タンカー)をハワイ近郊に派遣し、数 名の軍令部部員を乗艦させ、米海軍大演習に関する情報収集を実 施した。その結果、米海軍演習の構成部隊の編制や演習の経過などが判明した。  

1933年10月、海軍軍令部条令の改正によって、従来の第 2班第4課別室は第4部第10課となった。上海機関を特務機関 として同地の海軍武官の下に付属させることに改められ、A作業 班(対米)を増強した。  

1936年になると、傍受専門の受信所を新設することになり、 埼玉県大和田に大規模な受信所が開設された。当初に配置された 電信員は、予備役下士官を嘱託として採用した者がわずか9名であった。  以上、満洲事変以後の海軍の情報体制をざっと見てきたが、米 国との衝突を想定し、少しずつ対米情報体制を強化したものの、 全般的には不十分であった。

わが国の情報史(32)  昭和のインテリジェンス(その8)   ─満洲事変から日中戦争までの情報活動(1)─

▼はじめに

 前回まで、張作霖事件を題材に、主として情報の評価について述べたが、今回から、主として満洲事変がわが国の情報体制に及ぼした影響について述べることとする。

▼満洲事変から日中戦争まで

満洲事変から日中戦争までの経緯を山川出版の『詳説日本史B』より抜粋する。なお、( )内は筆者による注記である。

 関東軍は参謀の石原莞爾(いしわらかんじ)を中心として、1931年9月18日、奉天(瀋陽)郊外の柳条湖で南満洲鉄道の線路を爆破し(柳条湖事件)、これを中国軍のしわざとして軍事行動を開始して満洲事変が始まった。(中略)

 1932年9月、斎藤内閣(斎藤実、まこと)は日満議定書を取り交わして満洲国を承認した。日本政府は既成事実の積み重ねで国際連盟に対抗しようとしたが、連盟側は1933年2月の臨時総会で、リットン調査団の報告にもとづき、満洲国は日本の傀儡国家であると認定し、日本が満洲国の承認を撤回することを求める勧告案を採択した。松岡洋介ら日本全権団は、勧告案を可決した総会の場から退場し、3月に日本政府は正式に国際連盟からの脱退を通告した。(中略)

 1935年以降、中国では関東軍によって華北(チャハル・綏遠・河北・山西・山東)を国民政府の統治から切り離して支配しようとする華北分離工作が公然と進められた。(中略)

 関東軍は華北に傀儡政権(冀東防共自治委員会)を樹立して分離工作を強め、翌1936年には日本政府も華北分離を国策として決定した。これに対し、中国国民のあいだでは抗日救国運動が高まり、同年12月の西安事件をきっかけに、国民政府は共産党攻撃を中止し、内戦を終結させ、日本への本格的な抗戦を決意した。

 第一次近衛文麿内閣設立直後の1937年7月7日、北京郊外の盧溝橋付近で日中両国軍の衝突事件が発生した。いったん現地で停戦協定が成立したが、近衛内閣は軍部の圧力に屈して当初の不拡大方針を変更し、兵力を増派して戦線を拡大した。これに対し、国民政府の側も断固たる抗戦の姿勢をとったので、戦闘は当初の日本側の予想をはるかに超えて全面戦争に発展した。(引用終わり)

▼対ソ作戦計画をめぐる対立

 わが国は伝統的にソ連に対する脅威を第一においた。しかし、日露戦争後にロシアが崩壊したことで、幣原喜重郎外相時代に一時的に対ロシアの脅威が薄れた。

 しかし、1928年10月に開始された第一次5か年計画と、1929年4月から始まったソ支紛争、とくに同年11月のソ連による満洲里の占領にかみがみ、日本はソ連情報の重要性を再認識した。

 満洲事変の勃発によって、一挙にソ連情報の重要性が高まった。この事変で、日ソ両国は満洲をめぐって直接対峙することになったが、ソ連から日本に対して、1932年10月に不可侵条約の締結申し入れがあった。

 しかし、日本政府は時期尚早としてソ連の提案を受け入れなかった。この理由には共産勢力の国内浸透を恐れたからであったが、なにより陸軍の反対が強かったことが大きな原因であった。満洲を占領した陸軍の鼻息の荒さが窺える。

 不可侵条約締結に失敗したソ連は、極東ソ連軍の軍備を急速に増大した。関東軍の満洲全般における兵力配置に対し攻防いずれにも対応できるよう、1933年頃から狙撃師団や騎兵部隊を増強し、国境地帯におけるトーチカ陣地を構築した。1934年頃から戦車・飛行機の増加などの措置をとった。また、極東海軍の再建も図った。

 当時のソ連軍対関東軍の戦力比は3~4:1であったとされる。しかし、参謀本部第1部の作戦課長であった小畑敏四郎大佐は、極東ソ連軍の戦力を低く評価し、日本軍の伝統的精神要素、統帥能力の優越、訓練等の成果等を強調した。その後任の鈴木従道大佐も同意見であった。彼らは、米英や国民政府との提携により、ソ連に対する攻撃を主張した。

 これに対し、参謀本部第2部長の永田鉄山は、ソ連に対する軍事的劣勢を認識して、当面の間、ソ連との関係緩和を模索し、この間に軍近代化を図るべし、と主張した。彼らは、ソ連を西方に牽制するためのドイツ等の提携を模索し、英米や国民党軍との提携には乗り気ではなかった。

 国家戦略をめぐって第1部と第2部が対立したが、作戦至上主義のもとで第1部の案が採用され、1933年(昭和8年)に作戦計画が大きく修正され、「まず満洲東方方面で攻勢作戦をとってソ連極東軍主力を撃破し次いで軍を西方に反転して侵攻を予想するソ連軍を撃滅せんとする」ものであった。

 この作戦計画は、日本軍の戦力がソ連軍よりも優位においてこそ成り立つものであって、当初から成立しないものであった。また、第1部と第2部の対立が永田、小畑両少将を中心とする対立抗争へと発展し、後々、世間で言われる皇道派、統制派の派閥抗争へと繋がり、永田少将の暗殺事件、1936年に2.26事件を引き起こした。

▼陸軍の情報体制

満洲事変以後、陸軍の情報体制はソ連情報に対する強化が図られた。主要な変化は以下のとおりである。

1)参謀本部の組織改正

1934年初頭の参謀本部第2課の編制は以下のとおりであった。 

 第4課(欧米)

   第1班(南北アメリカおよび米国の植民地)

   第2班(ソ連、東欧、トルコ、イラン、アフガン、ルーマニア、ブルガリア、フィンランド、バルト3国、満洲)

   第3班(欧州各国および英仏伊の植民地、タイ、英の自治領)

  第5課

    第5班(暗号解読及び作)

    第6班(支那ただし満洲のぞく)

    第7班(兵用地誌、経済、資源の調査、陸地測量関係業務)

    第4班(総合)

 1936年6月に行なわれた改正では、第4課第2班が昇格し、第5課となった。いわゆるロシア課が新設された。この改正に伴い、従来の欧米情報担当の第4課が第6課に、支那情報担当の第5課が第7課になった。

 つまり、第2部の編制は、5課(ソ連)、6課(欧米)、7課(中国)と、第1班と暗号班から構成された。第1班は部長直属で、情勢に関する総合判断を行なったものと見られる。

2)関東軍総司令部の整備

 満洲事変以前の関東軍第2課(情報課)には、たいした情報収集能力はなく、関東軍の情報活動は南満洲鉄道株式会社(満鉄)の調査部に依存した。満鉄調査部は1907年に設立され、主たる任務は、満洲や北支の政治、経済、地誌等の基礎的調査・研究である。したがって、ソ連情報については不十分であった。

 満洲事変以後も、関東軍は満鉄調査部に依存していたが、ソ連軍との対峙を想定して関東軍第2課の強化を逐次にはかった。満洲事変以前の第2課の情報関心は主として北支に向けられ、支那関係者をもって要員にしていた。しかし、参謀本部第5課の新設の動きと連動して関東軍第2課もソ連専門家をもってあたられた。

3)特務機関の増設

 日本軍は1918年のシベリア出兵以後からシベリア各地に特務機関を配置していた。しかし、1922年10月末の撤兵までには逐次閉鎖され、ハルビン、黒河、満洲里のみが残され、静かに対ソ情報を収集していた。その後、黒河は1925年3月に閉鎖された。

 他方、1928年の張作霖事件が象徴するように、北支那や満洲が混沌化していた。よって特務機関の主要関心事項は支那情報であった。

 しかしながら、満洲事変以後、ソ連情報の価値が高まり、1932年に黒河が再開され、ハイラルが新設された。1933年には琿春、密山に、1934年に富錦に特務機関が新設された。これらは、琿春を除き関東軍に直属し、業務はハルビン特務機関長が統制した。

4)在外武官の新設と配置

 満洲事変以後、ソ連は国境警備と防諜態勢を強化した。そのため、日本軍は従来の密偵諜報に行き詰まりを感じ、ソ連情報の主要手段として文書諜報、科学諜報を重視した。

 また、なるべく多くの将校を合法的にソ連邦に入れる努力をした。ソ連をめぐる隣接国における公館開設と公使館附武官の配置、ソ連国内に対する駐在員の派遣、在ソ日本領事館における情報将校の配置などを行なった。

5)文書諜報の強化

 参謀本部第2部第4課第2班(ロシア班)(のちの第5課)とハルビン特務機関(のちの関東軍情報部本部)が、それぞれ文書諜報を本格的に開始した。

 1935年3月、小野打寛大尉がハルビン機関の中に、文書諜報班を設置することで本格的な公開情報分析が始まった。

 この文書諜報班は、ソ連国内の出版物をできるだけ集め、参謀本部と分担して公開情報の分析を行った。

 主に「プラウダ」「イズベスチャ」などの中央機関紙、「チホオケアンスカヤ・ズヴェズダ」「ザイバイカルスキー・ラボーティ」などの地方紙、「クラスナヤ・ズヴェズダ」「ヴォエンナヤ・ムイスリ」などの軍事専門誌を集めて丹念に分析した。

 また同組織は無線電話の傍受も行なっており、これらは音秘・音情と呼ばれていた。(小谷賢『日本軍のインテリジェンス』)

6)暗号情報の強化

 1930年5月、第2部5課(支那情報)に「暗号ノ解読及び国軍使用暗号ノ立案」の任務が付加された。これにより、第5課は4班(総合)、5班(暗号)、第6班(支那ただし満洲除く、満洲はソ連とともに第4課第2班の所掌)、第7班(併用地誌等)となった。

 1934年に関東軍参謀部第2課に関東軍特殊情報機関を設置し、新京(長春)においてソ連軍の軍事暗号を解読する任務を開始した。

 1935年に将校2人をポーランド参謀本部に将校を派遣して、1年間の暗号解読の教育を受けさせた。

上述の1936年6月の改編で、第5課4班は、暗号班となり、第2部長の直轄となった。

 1937年3月31日、暗号班が1班と改められ、所掌業務の「暗号ノ解読及び国軍暗号ノ立案」のうち「及び国軍暗号ノ立案」が削除された。及び(なお、原文は竝)が削除されたことは、この頃から暗号解読の重要性が認識されたことを意味する。

7)防諜態勢の強化

 1936年8月に陸軍省に兵務局が新設された。兵務局は防諜に関する業務を担当した。なお、これが陸軍中野学校の発足の一つの経緯となる。

1936年7月14日の「陸軍省官制改正」第15條には兵務課の任務が示され、同課は歩兵以下の各兵下の本務事項の統括、軍規・風紀・懲罰、軍隊の内務、防諜などを担当した。

同官制改正の六では、「軍事警察、軍機の保護及防諜に関する事項」が規定され、これが防諜の最初の用例だとみられる。

 1937年3月に参謀本部内に、防諜態勢の強化を図るための防諜委員が設置された。

8)ドイツとの情報提携強化

 1936年11月25日、日独防共協定の調印に伴い、諜報・謀略に関して日独情報提携を約束した。従前参謀本部第2部は在ポーランド駐在武官のソ連情報を重視していたが、本協定以後、ドイツ駐在武官のソ連情報を重視するようになった。

 当時のドイツ駐在武官は、ドイツ通の大島浩大佐であった。大島は、1921年(大正10年)以降には、断続的にベルリンに駐在し、1933年以降はドイツの政権を得ていたナチス党上層部との接触を深めた。

以上、満洲事変以後から、日中戦争にかけての陸軍の情報体制を概略みてきたが、次回は海軍の情報体制について少しだけ言及したい。

【わが国の情報史(31)】昭和のインテリジェンス(その7) ─張作霖爆殺事件から何を学ぶか(3)─ 

▼はじめに

 前回までは、張作霖爆殺事件が関東軍の計画的な謀略にもとづく河本大作の犯行であるとの定説は、戦後において首謀者とされる河本の「手記」が発表されたこと、田中隆吉元少将が極東軍事裁判(東京裁判)において、河本が首謀者であるとして、当時の犯行の情況を縷々証言したことが根拠になっていること、などを述べた。

 そして上述の「手記」については河本本人が直接書いたものではないことから、情報の正確性には疑義がある。田中の人物評価や、本人が置かれた当時の環境情勢などから、田中の情報源と しての信頼性はあまり高くない、などと述べた。 今回は最初に情報の正確性について述べることとする。

▼情報の正確性  

 情報の評価は情報源の信頼性と情報の正確性を別個に評価する。 そして情報の正確性は、「誰が言ったか」ということはいったん度外視し、情報それ自体の妥当性、一貫性、具体性、関連性という 尺度で評価することになる。  

 ここでは田中元少将が東京裁判で述べた証言内容の引用につい ては割愛するが、彼の証言には、当時の国際情勢や日本政府およ び陸軍を取り巻く環境情勢から「なるほど!」と言える妥当性がある。

 「最初の証言とあとの証言が食い違っている」といったこともな く、彼の証言内容は終始一貫性がある。  

 爆発方法や関与した人物など縷縷詳細に及び具体性もある。

 「手記」を始めとする他の情報との重要な部分が一致しており、 関連性もある。  

 つまり、彼の証言について、情報の正確性からは「ほとんど真 実である」といった高レベルの評価を下すことになるであろう。 しかし、ここで注意しなければならないのは、「巧妙な嘘は、 真実よりも一貫性があるし具体性がある」という点である。

 そして、これは情報源の信頼性に関わることであるが、田中証言の“胡散臭い”と感じるところは、あまりにも多くの主要な史実を、田中自らが第一人称で直接見た、聞いたというように語っている点なのである。  そこに〝出来ストリー〟という疑惑がかかるのである。

▼コミンテルン関与説

 田中元少将の情報源としての信頼性には疑義があったにせよ、 張作霖爆殺事件にかかる情報の正確性の評価は高い。さらに、か なりの具体的な資史料が揃えられていることから、戦後から一貫 して張作霖爆殺事件に関しては河本犯行説という定説が覆ること はなかった。  

 しかし、これから述べるコミンテルン説が2000年代になり、 急浮上したことで上述の関連性に疑義が出た。そうなると情報の正確性の評価をやり直す必要が出てくる。これがインテリジェン ス理論である。  

 ここで、コミンテルン説について言及しておこう。この仮説は、 2005年、邦訳本『マオ─誰も知らなかった毛沢東』(ユン・ チアン、ジョン・ハリディ著)が発刊されたことで俄かに注目さ れた。

 同書における記述を引用しよう。 「張作霖爆殺事件一般的に日本軍が実行したとされているが、 ソ連情報機関の史料から最近明らかとなったところによると、実際にはスターリンの命令にもとづいてナウム・エイティゴンが計 画し、日本軍の仕業にみせかけたものだという」  

 これが契機となって張作霖爆殺事件の“謎解き”に火がついた。 まず同著の引用注釈から『GRU帝国』という著書が注目された。 そして、『正論』および『諸君』といった論壇誌が、同著の著者 であるドミトリー・プロホロフに対するインタビュー記事を引用する形で、〝コミンテルン説〟の特集を組んだのである。

▼コミンテルン関与説の根拠  

 加藤康男氏は2011年に『謎解き「張作霖爆殺事件」』を執筆した。同氏の著書をもとに〝コミンテルン説〟に関する記述 (要旨)を拾ってみよう。

・当時、ソ連政府は張作霖との間で鉄道条約を結んでいたが、両者の間で激しい抗争が進んでいた。反共主義を前面に押し出す張作霖側は、ロシアが建設した中東鉄道(旧東清鉄道)を威嚇射撃 したり、鉄道関係者を逮捕したりしたため、遂にOGPU(筆者 注:ソ連KGBの前身機関)は張作霖の暗殺計画を実行計画に移 す決定を下した。

・1回目は、1926年9月、奉天にある張作霖の宮殿に地雷を設置し、爆殺する計画であり、極東における破壊工作の実力者といわれたフリストフォル・サルヌインが実行計画を立案した。し かし、爆発物の運搬を担当したサルヌインの部下工作員が爆発物 を発見されて、失敗した。

・1927年4月6日、張作霖の指示によって行なわれた北京の ソ連大使館捜索と関係者の大量逮捕が動機となり、1928年初頭に2回目の暗殺計画が行なわれた。今度は、1926年から在上海ソ連副領事をカバーとする重要な諜報員ナウム・エイティゴ ン(トロツキー暗殺の首謀者、詳細は拙著『情報戦と女性スパイ』 を参照)から、サルヌインとその補佐役のイワン・ヴィナロフと いう工作員に暗殺計画が下され、爆殺に成功した。

▼英国は当時、複数の犯行説を考察していた  

 さらに加藤氏は、1928年7月3日付けの北京駐在英国公使 ランプソンによる本国外相宛ての次の公電に着目している。そこ には以下の記述がある。 「(殺意を抱く者は)ソヴィエトのエージェント、蒋介石の国民 党軍、張作霖の配信的な部下など多岐にわたる。日本軍を含めた 少なくとも4つの可能性がある。どの説にも支持者がいて、自分 たちの説の正しさを論証しようとしている」  

 こうした根拠をもとに加藤氏は、少なくとも以下の4つの説が ある旨主張する。 (1)関東軍の計画にもとづく河本の犯行 (2)ソ連コミンテルンの犯行 (3)張作霖の息子である張学良が、コミンテルンの指示を受けて、 もしくは親子の覇権争いの側面から実行 (4)河本大作や関東軍の上層部がコミンテルンにそっくり取り込 まれたうえで実行  

 これらのうち、どの仮説であった蓋然性が高いのかなど、その “謎解き”は加藤氏の秀逸なる著書に譲るとしよう。  

 ここで言うべきことは、結局のところ事件の謎は現在に至るも解明されていない。すなわち、関東軍の謀略にもとづく河本犯行説であったと断定するに足る明確な歴史的根拠はないのである (やったかもしれない)。

▼仮説を一つに絞ることの問題点  

 インテリジェンス上の問題は、加藤氏も指摘するように「一途 に河本犯行説と信じ切って問題を収束させようとした」という点 にある。 仮説を一つしか立てなければ、その仮説が外れてしまえば、もはや対応できなくなる。想定外だと、慌てふためくことになる。  

 また、仮説を一度立ててしまうと、とりあえずの仮説がアンカ ー(錨)のようになって、新たな情報が提供されても修正できな くなる。これを「アンカーリングのバイアス」という。

 さらに、一度仮説を立てると、それを証明する情報ばかり集め てしまう。これを「確証バイアス」という。  

 つまり、さしたる調査や検証なしに、張作霖事件が河本の犯行であるという唯一の仮説を立ててしまったことで、それを裏付け る具体的な資史料ばかり集めてしまい、河本犯行説を定説へと導 いた可能性がある。すなわち、バイアスによって河本犯行説が導 かれたかもしれないのである。

▼イラク戦争を教訓にした米情報機関  

 米国は、サダム・フセイン大統領が大量破壊兵器を保有してい るとの仮説に基づいて、それを肯定する情報ばかり集めて、強引 にイラク戦争へと向かった。

 その反省から、米国では「代替分析」という手法に着目し、当 然と思われている前提を疑問視して分析するという手法を取り入 れた。 この手法は、「イラクは大量破壊兵器を保有していない。フセ インは事実を話している」という前提で分析を行なうものである。  

 ここから学ぶことは、張作霖爆殺事件においても「河本は真実 を言っている。河本は犯行を行なっていない」という前提で調査 しなければならなかったということだ。そうすれば、英国のよう に複数の仮説にたどり着いたかもしれなかったのである。

▼発達していた英国の情報理論と情報体制   

 当時の日本においては、仮説は複数立てて、不確実性を低減するなどという情報理論も確立されていなかった。また、国家としての情報体制も未熟であった。  

 当時、英国は外務大臣指揮下のMI6を世界的に展開し、グロ ーバルな視点から新生ソ連の動向を把握し、共産主義の波及を危険視していた。だから英国は、張作霖爆発事件に対するソ連の関 与という仮説にすぐに辿りついた。  

 ただし、その一つの仮説に固執することなく、他の仮説を立て て、これらを検証しようとした。

 また中国大陸においてはMI6とは別個に極東担当の特務機関 MI2c(陸軍情報部極東課)を活動させていた。つまり、情報 を複数筋から入手しようとしていた。

 つまり、仮説を複数立てて検証する、複数の情報ルートを活用 して情報の正確性を高めるといった、今日では当たり前の情報理論を確立していたのである。

▼遅れていたわが国の情報理論と情報体制  

 一方のわが国の当時の中国大陸における情報活動といえば、南満洲鉄道株式会社(1906年設立、満鉄)の調査部(満鉄調査部)と1918年のシベリア出兵後の特務機関の存在が挙げられ る。  

 しかしながら、英国のような国家情報機関があったわけではな いし、満鉄調査部と特務機関がそれぞれの所掌範囲の情報活動を ほそぼそと行なっていたにすぎない。

 また国家全体として見るならば、外務大臣・幣原喜重郎の対外ソフ ト路線の影響により、新生ソ連の共産主義に対する脅威は薄れて いた。つまり、国家の情報要求が未確立であった。

 だから、水面下における共産主義勢力の急速な浸透が探知できなかったのであ ろう。 孫文が1923年頃から連ソ容共・工農扶助を受け入れたり、 1924年1月にコミンテルン工作員ミハイル・ボロディンの肝 いりで国民党と共産党の国共合作(第一次)が成立させたりする ことに無頓着であった。 そして、1927年末から、蒋介石がドイツの軍事顧問団を招 き、軍事的・経済的協力(中独合作)を進めていたことも分からなかったのである。

▼張作霖爆殺事件の教訓とは何か  

 張作霖爆殺事件の検証において、コミンテルン説は一顧だにさ れなかった。このことが、その後の中国大陸において、ゾルゲと尾崎秀実(おざきほつみ)の邂逅を見逃し、やがては来日するゾルゲにせっせっと国家重要情報を漏えいすることになった根本の原因があるのかもしれない。  

 実は、もっと大きな問題は戦後の歴史認識問題である。今日の わが国の主流の歴史認識は以下のとおりである。

「関東軍が張作霖爆殺の謀略を企てたが 失敗した。その失敗を教訓にして満洲事変の契機となる1931年9月8日の柳条湖事件の開戦謀略を成功させた。これが『軍の命脈』である命令・服従関係を基本とする軍機の破壊を意味し、 日本陸軍の没落の第一歩となった」  

 戦後、このような歴史認識が主流となってきたので、最近のコ ミンテルン説が出てきても、これを否定して受けつけようともしない。これが社会全体の趨勢である。  

 たしかに、定説を覆すのは容易ではない。これをインテリジェ ンス用語で「レイヤーイング」(多層化バイパス)という。前任者が利用した前提や 判断を、後任者が疑うことなく鵜呑みにして分析を行なうバイア スである。  

 分析の前提に間違いがあっても最初に戻って修正することは、 その後の分析をすべて否定することになるため、なかなか修正さ れないのである。

 米国の上級情報委員会と大量破壊兵器委員会は、 イラクの大量破壊兵器保有に関する情報分析で、この多層化バイ アスがあったと結論付けた。

 歴史学は実証を重んずる学問である。歴史家は真実を追求すればよいし、そうしてほしい。しかし、我々のような一般人は真実 を追求するほどの知識もなければ、技能もない。また、歴史の真実が分かったところで、現実問題の対処が変わるわけではない。

 では、 どうすればよいのか? インテリジェンスにおいては、仮説に妥当性があるのではあれば、“白黒をつける”のではなく、複数の仮説を同時に受け入れ ることが鉄則である。 なぜならば、そうした柔軟性こそが、対策としての戦略・戦術 における不確実性を低減することになるからだ。

 歴史を学び、そこには必ずしも定説があるわけではないことに気づく。複数 の仮説があるし、さまざまな見方があるならば、これを受容する。そして、複数の仮説を組み合わせて、いく つかの未来の発展方向を予測するうえでのヒントを得る。それが インテリジェンスに携わる者にとっての歴史を学ぶ意義なのだと、 筆者は考える。

 この点は、多くの方に賛同いただけるのでは ないかと思う。