わが国の情報史(28)  昭和のインテリジェンス(その4)   満洲事変以前の情報組織とその運用─

▼わが国における共産主義の浸透

第1次世界大戦(1914~18年)後の主要な内外情勢の注 目点としては、まずわが国における共産主義の浸透が挙げられる。

第1次世界大戦が国民を戦争へと動員する総力戦として戦われ ため、欧州では労働者の権利の拡張や国民の政治参加を求める声 が高まった。日本でもロシア革命(1917年)・米騒動(19 18年)をきっかけとして社会運動が勃興した。大戦中の産業の 急速な発展により労働者の数が増加し、労働争議の件数も急激に 増加し、労働組合の全国組織も樹立された。  

こうした社会運動の勃興に油を注ぐことになったのがソ連にお ける共産党政権の誕生である。その対外組織であるコミンテルン の支部として1921年には中国共産党が設立し、22年には日本共産党が設立した。  

わが国は1911年1月の幸徳秋水事件を契機に、社会運動の取り締まりを目的に同年8月に特別高等課(特高)を設置した。 ただし、この時点では国内の社会主義の取り締まりということであり、特高も注目される存在ではなかった。

ところが、1922 年に日本共産党が成立したことにより、主要府県の警察部にも続々 と特別高等課を設置して、その取締の強化に乗り出した。

かくして1925年、わが国は治安維持法を制定する。この法 律は国体(皇室)や私有財産制を否定する運動を取り締まること が目的として制定された。また、山東出兵中の1928(昭和3) 年2月、日本で最初の普通選挙が実施され、無産政党から8人の当選者が出た。

これに田中義一内閣は警戒心を強め、治安維持法 の「国体」を否定する運動に対する弾圧を強め、3月15日に地 下の共産党員およびその協力者に対する大弾圧を行なった。

▼中国における共産主義の浸透と蒋介石の台頭  

第2の注目点は、中国における共産主義の浸透と蒋介石の台頭である。1912年1月1日、三民主義をとなえる孫文を臨時大統領とする中華民国が南京に成立。ここに清朝が倒れた。

しかし、 中華民国の実権はすぐに北洋軍閥の袁世凱の手に移り、袁世凱が死亡(1916年)すると、各地で軍閥が跋扈する混沌とした状 態になった。

そこで孫文は中国を統一するために、コミンテルンの力を借り ることにする。1923年1月、孫文はソ連の代表アドリフ・ヨ ッフェとの共同声明を発表した。これは連ソ容共・工農扶助を受 け入れることであった。  

1924年1月、コミンテルン工作員ミハイル・ボロディンの肝いりで国民党と共産党の国共合作(第1次)が成立。すなわちコミンテルンの浸透工作が中国大陸において本格始動する。  

孫文は1925年3月に北京で客死した以降、国民党は広東に国民政府を組織して国民革命軍を建軍した。このなかで台頭した蒋介石が1926年7月1日に北伐を開始する。  

蒋介石は当初から孫文の連ソ容共・工農扶助に反対していたた め、共産主義勢力の弾圧に乗り出した。1927年4月12日の 「上海クーデター」で共産党を排除し、同年4月18日、南京にて国民党による国民政府を樹立した。  

1928年に入り、蒋介石は北伐を再開し、6月には北京に入 城して正式に中国統一を宣言した。しかし、反蒋介石派も活動を続け、1931年5月に広州に王精衛(汪兆銘)らによって臨時国民政府が作られた。  

他方、中国共産党は1927年8月から9月にかけての武装蜂起で敗走するが、江西省の井岡山に拠点を設定して、上海などで 地下ゲリラ活動を展開した。これに対して蒋介石は1930年1 2月から囲剿戦(いそうせん)を開始するが、共産党の掃討は困 難を極めた。  

蒋介石による北伐の最中、日本は1927年以降、北伐からの居留民保護の名目で3次にわたって派兵、国民革命軍と衝突した。 1928年には済南事件が起こった。  

このような蒋介石軍の北伐は、わが国にとって南満洲権益への明確な脅威と映った。その過程や延長線において、張作霖爆殺事件(1928年6月4日)、および満洲事変(1931年9月1 8日)が生起し、それが、のちの日中戦争につながっていくので ある。

▼米国による対日牽制が顕在化  

内外情勢でもう一つ見逃してはならないのが米国の動向である。 世界最初の社会主義革命が起き、ロシア帝国が崩壊し、共産主義 国家ソ連が誕生(1922年)する過程において、わが国と米国 は共同でシベリア出兵を行なった。

しかし、日米の派兵目的は異なっていた。わが国は共産主義の浸透が満洲、朝鮮、そして日本に浸透することを警戒し、オムス クに反革命政権を樹立することを目的に出兵兵力をどんどんと増 大させた。  

一方の米国の出兵目的は日本の北満洲とシベリアの進出に抵抗 することであった。米国は共産主義を脅威だとは認識しておらず、 ロシアの共産主義者と戦う日本軍に協力しなかった(わが国の情 報史(24))。    

わが国がシベリア出兵を継続したことが、日露戦争以後から対 日警戒を強めていた米国の警戒心をさらに増幅させた。米国は1 920年から21年にかけてのワシントン海軍軍縮会議において 日本側艦艇の保有を制限し、1924年に排日移民法制定するな ど、さまざまな対日圧力を仕掛けた。  

他方、南京国民政府の全国統一の動きに対しては、米国は国際 社会の先陣をきって、中国に対する関税自主権回復の承認(19 28年7月)に踏み切り、蒋介石の南京政府を承認(1928年 7月)した。  

米国は早くから水面下で蒋介石と日本との対立を画策していっ た。こうした行動の背後には、わが国を牽制して中国大陸におけ る利権を獲得するとの思惑があった。  

こうした米国の反日行動に対して、わが国は1923年に帝国 国防方針を改定して、米国を仮想敵国として、フィリピン攻略準 備を少しずつ開始することになるのである。

▼参謀本部第2部の改編  

1928(昭和3)年8月15日、参謀本部の改編が行なわれ た。これは第1部第4課(演習課)が、第4部第8課へ編成替え になったことによるものである。  

これにより情報を司る第2部は、第5課(支那情報を除く外国 情報)と第6課(支那情報)がそれぞれ繰り上がり、4課と第5 課となったが(正確には明治41年12月18日の編制の課番号 に戻った)、その基本業務を変わっていない。  

第4課の編制は第1班米国、第2班ロシア、第3班欧州、第4 班諜報であった。一方の第5課の担任業務に「暗号の解読及び国軍使用暗号の立案」が加わったため、第5班暗号、第6班支那、 第7班地誌となった。なお暗号業務の開始は1930年7月5日 から開始された。  

第1次世界大戦では本格的な暗号戦がドイツと英国間で行なわ れ、ドイツは暗号戦に敗れたことを教訓に1918年にエニグマ 暗号を発明した。こうしたなか、従来は第3部にあった暗号班を第2部に移し、諜報と暗号の研究との連携を強化したというわけである。この点は、第1次世界大戦の教訓を踏まえた対応として 評価できる。  

しかし、建軍以来第一の仮想敵国であるロシアに対する警戒心 は希薄であった。つまり、共産主義の浸透を警戒して1922年 までシベリア出兵を継続はしたものの、新生ソ連に対する警戒心 には緩みがみられた。  

当時、共産主義への敵視が強かったため、シベリアからの撤兵 後も国交正常化の動きには国内の右翼や外務省が反対した。外務 大臣の幣原喜重郎は、共産主義の宣伝の禁止を明文化して、国交 回復を実現(1925年1月)した。

こうした国際関係を踏まえたのか、1928年の参謀本部の改 定では、ソ連は依然として参謀本部第2部の第4課の1つの班にすぎなかった。  

上述の帝国国防方針の第二次改定において、陸海軍は対米戦の 場合にはフィリピン島攻略を本格的に取り組むことになったが、 こうした方針が陸軍参謀本部の編制に影響を及ぼすことはなく、 米国に対する情報も第4課の1つの班が担っていた。

▼満洲事変以前の対外情報体制  

第1次世界大戦(1914~18年)以後、外務省は全世界に大公使館、総領事館を設置して、世界的情報網を構成していた。  

他方、陸軍では参謀本部第2部が国防用兵に必要な各国の軍事、 国勢、外交などに関する情報を収集・評価すること、所要の兵要地理を調査し、兵用地図の収集整備にあたることなど目的に、 大・公使館付武官の派遣や、ほそぼそと秘密諜報員を海外に派遣 していた。  

陸軍は第1次世界大戦以降、大・公使館付武官の駐在先を拡大 した。それまでの主たる駐在先は、英国、ド イツ、フランス、 オーストリア、イタリア、米国、ロシア、清(1912年から支 那)、朝鮮(1897年から韓国)であったが、ソ連および米国 を取り巻くかたちで中小国にも駐在先を拡大していった。  

しかしながら外務省の情報は非軍事に限られていた。外務省、 陸軍、海軍による国際情勢判断、政戦略情報のすり合わせは不十 分であった。  

第1次世界大戦において、英国のMI5、MI6などの国家情 報組織が情報戦をリードした。しかし、英国と同盟関係(日英同 盟は1902年1月に調印され、1923年8月に失効)にあっ たわが国は、かかる貴重な教訓を学ぶことはなかった。  

北方要域においては、1918年のシベリア出兵以降、ハルビ ン、奉天、満洲里、綏芬河(すいふんが)、竜井村、吉林に特務 機関を設置して、対ソ連の情報活動の体制を維持した。  

これらの特務機関の活動は関東軍司令部(当時は情報課はなかった)が管轄した。なお関東軍は1919年4月に創設され、台湾軍、朝鮮軍、支那駐屯軍などと同列の独立軍であったが、独立守備隊6個大隊を継続し、また日本内地から2年交代で派遣され る駐箚(ちゅうさつ)1個師団という小規模な陣容であった。  

中国大陸においては、日清戦争後の1901年に、天津に清国 駐屯軍(1912年から支那駐屯軍)を設置し、約2100名の兵力を維持していた。また、北京では、青木宣純大佐の青木公館 (1904年7月~1913年8月)を引き継いだ坂西利八郎・大佐 (1917年8月、少将)が坂西公館(1911年10月~19 27年4月)を開設して、中国大陸の情報活動を行なった。  

1912年、陸軍大学校を卒業した土肥原賢二が参謀本部付大 尉として坂西公館補佐官として赴任した。以後、土肥原はここでの情報活動により、わが国の対中政策の主要な推進者となり、やがて「満蒙のローレンス」と畏怖されるようになる。 これらの情報拠点が満洲事変以後の情報活動や謀略工作の基礎 となった。

▼ドイツ顧問団の兆候を見逃し  

蒋介石は軍隊と国防産業の近代化を必要していた。他方、第1 次世界大戦に敗北したドイツは、ヴェルサイユ条約により軍を 10万人に制限され、軍需産業は大幅に縮小されたため、ドイツ の工業生産は大きく減少した。

そこでドイツは工業力を立て直す ため先進的な軍事技術を輸出し、その見返りに資源の安定供給を 確保することを狙った。こうした両者の思惑が一致し、1920 年代から、両国の軍事的・経済的協力が開始された。いわゆる 「中独合作」である。  

蒋介石は1927年末、蒋介石はドイツの軍事顧問団を招き、 マークスバウア大佐が軍事顧問団長として赴任した。同大佐が1 929年4月に死亡するとヘルマン・クリーベル中佐がその交替 で赴任し、1930年8月にゲオマク・ウェトルス中将と続き、 顧問団も約70人規模に及んだ。  

満洲事変以後に起きた1932年1月の第1次上海事変におい て、蒋介石は日本軍に善戦し、ドイツ軍への信頼を高めた。そこで、蒋介石はドイツ再軍備で有名なゼークト大将を招聘した。その後、日露戦争後に在日武官として東京に駐在したファルケンハ ウゼン中将が軍事顧問団長となり、日本軍は蒋介石軍に苦しめら れることになるのである。  

太平洋戦争の情報参謀で、戦後に陸上自衛隊の幕僚長に就任した杉田一次氏は著書『情報なき作戦指導─大本営情報参謀の回想』 にて、以下のように回顧している。

「盧溝橋事件勃発するやファルケンハウゼンは保定にある中国の北区戦区司令部に派遣され、つづいて上海戦線へと派遣されて中国軍の作戦を援助して、南京陥落後は蒋介石の特命で武将になっ て蒋介石を補佐した。高級顧問団員(複数)は秘密裡に山東省や 山西省で活躍し、ある意味では支那事変は日独(軍人)間の闘争であった」  (引用終わり)

情報活動は早期に兆候を探知し、それを高所、多角的な視点から見て、向かうべき趨勢を見極め、戦略や戦術に反映しなければ ならない。中独合作の最初の兆候は満洲事変以前に遡る。

「後智慧」といえばそれまであるが、もしわが国が早期にこの兆候に気 づき、ドイツの本質を見抜いていたならば、米国との太平洋戦線 への分水嶺となった「日独防共協定締結(1936年11月)」 にわが国に向かわせたであろうか。

ここに、戦略的インテリジェンスの要諦をみるような思いがす る。  

 わが国の情報史(27)  昭和のインテリジェンス(その3)   ─『諜報宣伝勤務指針』

▼『諜報宣伝勤務指針』とは  
前回は1938(昭和13)年から1940年にかけて編纂 された『作戦要務令』 をインテリジェンスの視点から紐解いたが、今回は『諜報宣伝勤務指針』について述べる。

『作戦要務令』において「情報を審査して、比較総合し、 判決する」という内容の記述がある。 これがインフォメーション(情報)からインテリジェ ンスへの転換、すなわち情報循環(インテリジェンンス・サイ クル)という、今日の最も重要な「情報理論」である。  

しかし、実はこの『情報理論』の萌芽には、先行する「軍事極秘」の軍事教典の存在があった。それが1928年に作成された 『諜報宣伝勤務指針』である。  

同指針は、これまでさまざまな形で印刷されて一部に出回って きた。現在では、山本武利氏(元早稲田大学教授)が主宰するN PO法人「インテリジェンス研究所」によってデジタル化され、 インターネット上に無料公開されている。  同指針に書かれている内容と、同研究所の「第1回諜報研究会」 の資料(「諜報宣伝勤務指針」の解説、ネット上で公開)から、要点を整理するこことする。  なお同報告会の概要についても、ネット上の「礫川全次のコラ ムと名言」が関連記事を公開している。

▼『諜報宣伝勤務指針』の概要

(1)構成  第1編「諜報勤務」と第2編「宣伝及び謀略勤務」からなる、 全194条(56頁)にわたり「諜報」「宣伝」「謀略」の行動 指針などが記述されている。

(2)復刊文について  この指針は「軍事極秘」書で、一時期は参謀本部第2部第8課 (謀略課)が保管していた。終戦時、GHQによる焼却が命じら れたが、焼却せずに保管していた平館勝治氏が限定印刷したもの が、現在、さまざまな形で印刷されて出回っている。 なお平館氏は1939年12月、陸軍中野学校に入学した第2 期乙長期の学生で、卒業後ビルマ工作を行ない、第8課4班を経 て、終戦時には陸軍省軍事調査部に所属していた。

(3)本指針の作成動機  1925年12月に、参謀本部から陸軍省に対して、諜報及び 宣伝に関する研究などを徹底せよとの指示がなされている。 第1次大戦において英・米・仏・ドイツが広範囲に諜報、宣伝 を活用したことや、同戦争以降に欧州においてインテリジェンス やプロパガンダなどの言葉が軍人の中で膾炙(かいしゃ)される ようになり、諜報研究や宣伝研究が学界にも浸透するようになっていたことを背景に、日本の参謀本部での本資料作成の機運が高 まったとみられる。

(4)本指針の作成者  平館勝治氏によれば、河辺正三大将が参謀本部第4班時代(少佐)、 かつて駐独武官補佐官当時にドイツ軍から入手した種本をもとにし て編纂したものである。他方、中野学校1期生で昭和18年当時に 第八課に勤務していた井崎喜代太氏によれば、本指針の作者は建川 美次参謀本部第2部長という。いずれにせよ、参謀本部第2部の部 内作とみられている。  山本氏の研究によれば、河辺少佐がドイツ軍から種本を入手し た説を有力としている(後述)。

▼『諜報宣伝勤務指針』に対する平館氏の証言  

平館氏は『資料集インド国民軍関係者聞き書き』(研文出版、 2008年)に収録されたインタビュー(1992年11月30日) において以下の証言をしている。

「諜報宣伝勤務指針に対し、戦時中、このような本があったこと は大部分の中野学校関係者は知らなかったのではないかと思いま す。なぜなら門外不出の軍事極秘書類でしたから。第8課でも私 が保管中新任の参謀に貸出した記憶がありません。(ただし、す でに陸大で勉強されていたかもしれません)  確かに8課で指針を読まれたと思われる人は矢部中佐とその後 任の浅田三郎中佐です。矢部中佐は中野学校で我々に謀略につい て講義されましたが、この指針の内容とよく似ていました。  

特に、今でも記憶に残っていることは講義中『査覈』と黒板に 書かれ、誰かこれが読めるかと尋ねられましたが、誰も読める者 がおりませんでした。私は第8課に勤務するようになってからこ の指針を読み、指針の中にこの文字を発見し、矢部中佐のネタは これだったのかと気付きました」

 さらに平館氏の証言は次のように展開していく。

「私が自衛隊に入ってから、情報教育を自衛隊の調査学校でやり ましたが、同僚の情報教官(旧内務省特高関係者)にこの指針を 見せましたが反応はありませんでした。

私が1952年7月に警察予備隊に入って、米軍将校から彼等 の情報マニュアルで情報教育を受けました。その時、彼等の情報 処理の要領が私が中野学校で習った情報の査覈と非常によく似て いました。ただ、彼等のやり方は5段階法を導入し論理的に情報 を分析し評価判定し利用する方法をとっていました。  

それを聞いて、不思議な思いをしながらも情報の原則などとい うものは万国共通のものなんだな、とひとり合点していましたが、 第4報で報告した河辺正三大将のお話を知り、はじめてなぞがと けると共に愕然としました。

ドイツは河辺少佐に種本をくれると同時に、米国にも同じ物を くれていたと想像されたからです。しかも、米国はこの種本に改 良工夫を加え、広く一般兵にまで情報教育をしていたのに反し、 日本はその種本に何等改良を加えることもなく、秘密だ、秘密だ といって後生大事にしまいこみ、なるべく見せないようにしてい ました。

この種本を基にして、われわれは中野学校で情報教育を受けたのですが、敵はすでに我々の教育と同等以上の教育をしていたも のと察せられ、戦は開戦前から勝敗がついていたようなものであ ったと感じました。これは私が米国の情報を学ぼうとして警察予 備隊に入った大きな収穫でした」 (引用終わり)

▼「諜報宣伝勤務指針』の記述内容

「査覈」は「サカク」と読む。「査覈」とは「調べる」という意味であるが、今日では使われない用語であるし、平館氏の証言から 当時においても一般的な用語ではない。  

同指針の第1編「諜報勤務」の総則の第二には、以下の条文が ある(なお、筆者がカタカナ表記をひらがな表記に改め、読みか なをふった)。  

第二「敵国、敵軍そのほか探知せんとする事物に関する情報の 蒐集(しゅうしゅう)、査覈(さかく)、判断並びに、これが伝 達普及に任ずる一切の業務を情報勤務と総称し、戦争間兵力もし くは戦闘器材の使用により、直接敵情探知の目的を達せんとする ものは、これを捜索勤務と称し、平戦両時を通じ、兵力もしくは 戦闘器材の使用によることなく、爾(じ)多の公明なる手段もし くは隠密なる方法によりて実施する情報勤務はこれを諜報勤務と 称す」    

ここでは、情報勤務と諜報勤務の意義が定義されている。前回 までの筆者記事において、『統帥参考』(1932年)および 『作戦要務令・第2部』(1938年)において情報が諜報と捜索からなることに整理されたことについて述べた。 だが、1925年から28年にかけて作成された『諜報宣伝指 針』において情報、諜報、捜索の関係はすでに整理されていたのである。  

また前回記事では『作戦要務令』の72条を引き合いに、「情 報を審査して、比較総合し、判決する」という、情報循環という 情報理論の萌芽がここにあることを述べた。 しかし、『諜報宣伝指針』の第三章「諜報勤務の実施」の第三 節には「情報の査覈、判断」との目次が掲げられ、計8つの条文 (133~140)がある。つまり、収集した情報を処理して、 その真否や価値を評価することなどは、すでに『諜報宣伝指針』 において整理されていたのである。

▼山本武利氏の重要な指摘  

山本氏は『諜報宣伝指針』の作成経緯について、本資料の源流 はイギリスにあって、ドイツ軍が第1次大戦の敗北から英・米と くにイギリスの類書を参照にしながら、この種本を作成したとい う説が有力である、との見解をとっている。  

そして山本氏は次のように述べている。

「同じころ、これを手に入れたアメリカ軍では、一般兵士にも理 解しやすい内容のものに作り替えていた。たとえばOSSでは 『外国新聞のインテリジェンス的分析法』(山本武利編訳・解説 『Intelligence』10号、2008年)をつくり、諜報、宣伝活動での 新聞のインテリジェンス価値や方法について具体例を並べてやさ しく講義している。  

ところが、日本軍では秘密化を図るべく無理に難解なことばを 濫用して、肝心の陸軍中野学校のインテリジェンス戦士の卵にも このテキストに手を触れさせなかった。『日本はその種本に何等 改良を加えることもなく、秘密だ、秘密だといって後生大事にし まいこみ、なるべく見せないようにしていました』という平館証 言の先の言葉は日本軍幹部の情報政策を根底から痛撃して余りあ るものである。  

そのような指導者の態度は、当時のマルクス主義者が難解なこ とばを羅列して大衆の理解を妨げた高踏的、衒学的な姿勢と通じ る」 (引用終わり)

▼戦後の展開  

戦後、米軍の教範『MILITARY INTELLIGENCE』をもとに、陸上自衛隊の幹部学校研究員であった松本重夫氏(陸士53期)が陸上 自衛隊の「情報教範」を作成した。  

これにより、インフォメーションは「情報資料」、インテリジ ェンスは「情報」と呼称するようになった。そして、情報循環の過程の中で、情報資料を処理して得た有用な知識が「情報」とな って、これが使用者に伝達・配布されることなどが規定された。  

松本氏が「情報教範」を作成した経緯などは、氏の著書『自衛 隊「影の部隊」情報戦』に詳述されている。 この中で、松本氏は以下のよう述べている。

「私が初めて米軍の『情報教範(マニュア ル)』と小部隊の情報(連隊レベル以下のマニュアル)を見て、 いかに論理的、学問的に出来上がっているものかを知り、驚き入 った覚えがある。それに比べて、旧軍でいうところの“情報”と いうものは、単に先輩から徒弟職的に引き継がれていたもの程度 にすぎなかった。私にとって『情報学』または『情報理論』と呼 ばれるものとの出会いはこれが最初だった」(引用終わり) 

つまり、旧軍における過剰な秘匿性が、重要な理論の一般化や 普遍化を妨げていたのである。それにより、イギリスを源流とし てドイツを経由して輸入された『諜報宣伝指針』は、管理者が一 部情報関係者に公開したにすぎず、群衆知による改良と工夫が加 えられずに、かくたる情報理論として発展させることができなか った。  

他方の米軍は、それを基に情報教範を作成して、一兵士に徹底 させた。そこに勝敗の分かれ目があった。このような平館氏の証 言や山本氏の指摘するところは実に重い。

▼秋山真之の教訓が生かされない日本  

時代はさらに遡るが、日露戦争の日本海海戦における大勝利の 立役者・秋山真之少佐が米国に留学し、米国海軍においては末端 クラスまでに作戦理解の徹底が図られていることに驚愕した。  

しかし、秋山は帰国後の1902年に海軍大学校の教官につい て教鞭したところ、基本的な戦術を艦長クラスが理解していない ことにさらに驚いたという。なぜなら、秘密保持の観点から、戦 術は一部の指揮官、幕僚にしか知らされなかったからだ。  

のちに秋山は「有益なる技術上の智識が敵に遺漏するを恐るる よりは、むしろその智識が味方全般に普及・応用されざることを 憂うる次第に御座候(ござそうろう)」との悲痛の手紙を上官に したためた。  

第2次大戦前の日本では、多くの情報を秘密にすれば、保全は 向上すると考えられていた。その結果、1937年以前の改正前 の軍事機密保護法では「何が秘密か」についても秘密にされ、秘 密指定を知っているのは軍部の限られた高官のみであった。  

この一見、厳しい秘密保護体制によって、効果的に秘密が守ら れたかといえばそうではない。むしろ逆に重要な秘密がしばしば 漏洩した。それは、秘密対象が不明確であったため、一般国民、 公務員はもちろん大部分の軍人までもが秘密情報であることを知 らずに無意識に漏らしてしまったからだ。  

また、警察当局も「何が秘密か」を明確に知らないから捜査が しにくかった。その結果、重箱の隅をつつくようなつまらぬ事犯 のみを取り締まり、重要な秘密漏洩は見逃す始末であった。さら に「秘密漏洩犯を裁く裁判官も、秘密基準が明確でないから判決 の下しようがないという奇妙な事態にしばしば直面した」という ことである。  

1937年の軍事機密機保護法の改正で、秘密指定は公表され るようになったが、秘密保護をめぐる状況は大して変わらなかっ た。秘密保護の必要性が強調され、厳しい取り締まりが行なわれ たが、重要な秘密の情報の漏洩は止まらなかった。あまりにも多 くのものを秘密指定にしたからである。

▼岐路に立つ情報保全  

今日、米国は軍事の教範類の多くをインターネットなどで公開 している。中国においても解放軍の関連機関が多くの軍事書籍を 出版している。つまり、作戦理論などは公開が原則である。 それが、国民の軍事への関心と知的水準を生み、愛国心の醸成 に一役買っていることは想像に難くない。  

筆者は以前、元中国大使・宮本雄二氏の講演を拝聴したが、こ の時に「中国の一般人はすこぶる軍事知識に詳しいし、軍事議論 が大好きである」との話を思い起こす。  

しかるに、我が自衛隊では教範はすべて非公開である。この点 に限れば『防衛白書』において「中国軍の不透明」を指摘する主 張には何らの説得力はない。  教範の非公開が守られているかといえばそうでもなく、何年か前には教範の漏洩事件が起きた。この一原因は、「実質的な秘密事項が含ま れていないので、これくらいはいいか」との関係者の甘えた自己 判断が引き起こしたと、筆者は見る。  

誤解のないように申し上げるが、内容がたいしたことであろう が、なかろうが非公開であれば漏洩など絶対にあってはならない のである。だから、漏洩事件を軽々しく扱ってよいということで はない。  

ただし、社会のICT化が進むなか、個人情報の保護とクラウ ド情報の利便性のせめぎ合いが予想される。こうした世の中の趨 勢から、防衛分野においても秘匿すべきもの、公開すべきものを いま一度精査し、情報保全と情報公開の在り方を再検と情報保全討すべきで あろう。  

筆者の個人的意見であるが、一部の教範類については(上述の 漏洩した教範も含め)、特段の保全を要しないし、国民への啓蒙 の観点から公開しても差し支えないと考える。  

いずれにせよ、なんでも秘密、秘密という情報保全の体質は改 めるべき岐路に立たされているのではなかろうか?

(次回に続く)

わが国の情報史(26)  昭和のインテリジェンス(その2)   ─『作戦要務令』の制定と重要「情報理論」の萌芽─       

▼『作戦要務令』の制定  

 前回は、昭和期になって作成された『統帥綱領』および『統帥 参考』を引き合いに、情報収集の手段が軍隊の行なう捜索勤務と 諜報に分けられ、戦術的情報は捜索により、戦略的情報は航空部 隊および諜報によって収集する、などについて述べた。

 今回はもう一つの軍事教典である『作戦要務令』を取り上げる。 これは、陸軍の、戦場での勤務や作戦・戦闘の要領などについて 規定した行動基準であり、少尉以上の軍幹部に対する公開教範で あった。  

 綱領、第1部、第2部、第3部、第4部に区分され、1938 (昭和13)年から1940年にかけて編纂された。  1938年9月、日中事変(1937年7月)から得た教訓を 取り入れ、『陣中要務令』(大正3年)と『戦闘綱要』の重複部 分を削除・統合して、対ソ連を仮想敵として『作戦要務令』の綱 領、第1部と第2部が制定された。1939年には第3部、19 40年には第4部がそれぞれ制定された。

▼『作戦要務令』の沿革  

 ここで簡単に『作戦要務令』の歴史を回顧しておこう。  

 徳川幕府以来、陸軍はフランスの陸軍将校を顧問として着々と した兵制の建設を行なってきたが、参謀次長・川上操六らの尽力 により、1882(明治15)年にこれを一挙にドイツ式に切り 替えた(前坂俊之『明治三十七年のインテリジェンス外交』)。  

 こうした動きにともない、陸軍教範もフランス式からドイツ式 に切り替わった。1887年、ドイツの「野外要務令」を翻訳し た『野外要務令草案』が作成され、1889年に『野外要務令』 が制定された。  

 なお、同要務令はのちに参謀次長として日露戦争の準備を取り 仕切る田村怡与造が中心になって作成し、この要務令のお蔭で日本はロシアに勝利できたとされる。

『野外要務令』は第1部「陣中要務」と第2部「秋季演習」か らなる。陣中要務とは「軍陣での勤務」、すなわち戦場勤務のこ とである。  

 第1部では、司令部と軍隊間の命令・通報・報告の伝達、捜索 勤務、警戒勤務、行軍、宿営、行李、輜重(兵站)、休養、衛生 などの実施要領などが記述された。第2部では、演習の要領、演 習の構成、対抗演習や仮設敵演習、演習の審判、危害予防などに ついて記述された。  

 同要務令は日露戦争(1904年)の戦訓を踏まえての190 7(明治40)年の改訂を経て、大正期に入り、第1部「陣中要 務」と第2部「秋季演習」がそれぞれ分離独立した。1914 (大正3)年6月に第1部が『陣中要務令』となり、これが『作 戦要務令』の基礎となったのである。 『作戦要務令』のもう一つの基礎である『戦闘綱要』について みてみよう。『戦闘綱要』は個人の徒歩教練、射撃、歩兵として の部隊の戦闘法などを記述する教範である。  

 これは1871年に「フランス式歩兵操典」として定められた ものが、まず1891年に「ドイツ式歩兵操典(1888年版)」 に翻訳したものに改訂された。この『歩兵操典』は1909年 (明治42年)に日露戦争の教訓を踏まえて再度改訂された。  1926(大正15)年に『歩兵操典』の基本事項をもとに 『戦闘綱要草案』が示され、1929(昭和4)年に『戦闘綱要』 が制定された。これが、もう一つの『陣中要務令』と合体して 『作戦要務令』になったという次第である。

▼1909年の『歩兵操典』の改正に注目  

 1909年の『歩兵操典』の改訂においては日露戦争の勝利に 自信を深めた陸軍が精神主義を強調し、攻撃精神と白兵銃剣突撃 を核とする歩兵戦術を確立した(NHK取材班『敵を知らず己を 知らず』)として、この教範改定がしばしば情報軽視によって太平洋戦争に敗北した原因として引き合いに出されるのである。  

 これに関して、筆者は明治期のインテリジェンスの総括でも述 べたが、情報は戦略情報と作戦情報に分けて論じなければなら ない、と改めて指摘しておきたい。  

 かのクラウゼヴィツは「戦争中に得られる情報の大部分は相互 に矛盾しており、誤報はそれ以上に多く、その他のものとても何 らかの意味で不確実だ。いってしまえばたいていの情報は間違っ ている」(『戦争論』)と述べていることをもう一度思い起こし てほしい(わが国の情報史(21))。  

「精神主義が情報軽視を生み、それが日中戦争、太平洋戦争へ 進み、ガダルカナルでは情報を無視して玉砕した。ここでの教範改定から軍事の独断専行が強まり、先の太平洋戦争は敗北した」  

 このように、何らかの原因を特定することで歴史に決着をつけ るといった恣意的かつ浅薄な分析が横行している点は非常に残念 である。  

 ここで精神主義は、戦場における陸軍基準としての教範改定に論をあてている。戦場における編成や装備および戦術・ 戦法の近代化を精神主義が妨げたという検証結果ならば十分な価値はある。  

 しかし、精神主義と情報軽視という短絡的な連接では何 らの教訓も生まれない。 繰り返すように情報は戦略情報と作戦情報に区分される。『統帥参考』などで示すとおり、戦略情報は国家の戦争指導や作戦指導の全局面に活用されるものである。

 だから、国家がなぜ先の無 謀な戦争に向かったのかは、軍人のみならず国家全体で作成すべ きであった戦略情報がどうだったのかの分析が第一義的に必要で あろう。  

 精神主義、白兵銃剣突撃といった一局面をとらえ、それと情報軽視を結びつけて、「軍人が精神主義によって無謀な戦争に駆り 立て、敗北した」と結論付け、すべての原因を軍事独走に押し付ける のは“お門違い”ではないだろうか?  

 戦略情報を作成すべき内閣、外務省はどうだったのか? そしてマスコミや国民はどうだったのか? これらの点もよくよく分析しなければならない。

▼情報関係の記述  

 情報関係の記述は『野外要務令』から『陣中要務令』の系譜に求められる。  明治期の『野外要務令』では、捜索という用語は随所にみられ るが、情報、諜報はそれぞれ1か所である。  

 大正期の『陣中要務令』では「情報」の使用は『野外要務令』 と比べると多少増えてはいるが、「情報」の定義および内容など を直接的に説明した箇所は見当たらない。他方で同要務令では、 「捜索」と「諜報」の定義とその内容が具体的に記述された点は 注目に値する。

 同要務令は計13編の構成になっているが、その第3編が「捜 索」、第4編が「諜報」となっており、「捜索」と「諜報」がそ れぞれ編立てされた。このような経緯を踏まえて、先述の『統帥 綱領』および『統帥参考』では、情報が捜索と諜報から構成され る、ということが体系的に整理されたのである。  

 では、『作戦要務令』では情報関連の記述はどうなっているだろうか? 『作戦要務令・第1部』(1938年版)では第3編 「情報」を編立てにし、第1章「捜索」と第2章「諜報」をそれ ぞれ章立てしている。

 記述内容は『陣中要務令』および『統帥参考』の、ほぼ“焼き 直し”という状態であり、特段に注目する条文があるわけでない。 ただし、72条に「収集せる情報は的確なる審査によりてその真否、価値等を決定するを要す。これがため、まず各情報の出所、 偵知の時機及び方法等を考察し正確の度を判定し、次いでこれと 関係諸情報とを比較総合し判決を求めるものとす。また、たとえ 判決を得た情報いえども更に審査を継続する着意あるを要す」の条文がある。

 ここでの「情報を審査して、比較総合し、判決する」というこ とは、今日のインフォメーションからインテリジェンスへの転換 のことを述べている。すなわち、情報循環(インテリジェンンス・ サイクル)という今日のもっとも重要な「情報理論」の萌芽を 『作戦要務令』に求めることができるのである。

 この点は大いに 注目すべきである。 しかし、実はこの『情報理論』の萌芽にはもう少し時代を遡る 必要がある。すなわち、ある「軍事極秘」の軍事教典に着目する 必要がある。それは1928年に作成された、幻の軍事教典とも いうべき『諜報宣伝勤務指針』である。

わが国の情報史(25)  昭和のインテリジェンス(その1)   ─軍事教範の制定─

▼大正期から昭和へと移行

 大正天皇は1926年(大正15年/昭和元年)12月25日
に崩御された。この時、新たな元号は「光文」と報じられたが、
誤報として「昭和」に訂正された(わが国の情報史(23))。

大正期におけるわが国の対外情勢の大きな変化の一つは、ロシ アで社会主義革命が起きて共産主義国家ソ連が誕生したことである。そのソ連はコミンテルンを結成して世界に対する共産主義革命の輸出に乗り出した。

それに対する地政学上の防波堤となったのが満洲であり、国内における共産主義の浸透を食い止める活動が諜報・防諜であった。こうした活動の中心となったのが陸軍であった。

 大正期におけるもう一つの重大な対外情勢の変化は、アメリカによる日本に対する封じ込めが顕著になったことである。アメリカは、米国内における日本人移民の排斥、海軍艦艇をはじめとする軍縮、わが国による中国進出に対する容喙(ようかい)など、さまざまな対日圧力を仕掛けてきた。

 このアメリカを仮想敵国の第1位として、将来の対米決戦を視野において準備を開始したのが海軍であった。つまり、日本陸軍と日本海軍は、異なる情勢認識の下で、軍事力の整備や軍事戦略および作戦計画を立案していったのである。

▼陸軍教範の制定

 昭和期に入り、新たな陸軍教範が制定された。つまり、いかなる戦いをするのかという用兵思想、すなわちドクトリンが固まったのである。その傑作は『統帥綱領』『統帥参考』および『作戦要務令』である。

 『統帥綱領』は1928年(昭和3年)に制定された。同綱領は日本陸軍の将軍および参謀のために国軍統帥の大綱を説いたものである。

 また『統帥綱領』を陸軍大学で講義するために使用する参考(解説)書として『統帥参考』があり、こちらの方は1932年に作成された。

 一方の『作戦要務令』は軍隊の勤務や作戦・戦闘の要領などについて規定したものである。これは少尉以上の軍幹部に対する公開教範である。

 『作戦要務令』は1938年(昭和13年)9月に制定された。これは大正期に編纂された『陣中要務令』(大正3年)と『戦闘綱要』(昭和4年)の重複部分を削除・統合するとともに、1937年の日中戦争の戦訓を採り入れ、対ソ連を仮想敵として制定された。

 なお、海軍にも『海戦要務令』があり、こちらの方は1901年に制定され、その後の日露戦争のときの連合艦隊参謀・秋山真之が改正し、大艦巨砲による艦隊決戦の思想を確定した。その後、大正期に2回、昭和期に2回改正されたが、全体が海軍機密に指定されていたので、一般には知られていない。

▼『統帥綱領』および『統帥参考』の概要

 統帥綱領や統帥参考は、将帥、すなわち将軍と参謀の心構えを規定し、国軍統帥の大綱、つまりわが国の戦略や作戦遂行の在り方を定めたものである。

 『統帥綱領』は、第1「統帥の要義」、第2「将帥」、第3「作戦軍の編組」、第4「作戦指導の要領」、第5「集中」、第6「会戦」、第7「特異の作戦」、第8「陸海空軍協同作戦」、第9「連合作戦」の全9篇176条からなる。

 『統帥綱領』は「軍事機密」書であったので、陸軍大学校卒の一部のエリートのみしか閲覧ができなかった。むろん『作戦要務令』のような公開本ではなかった。

 この綱領は、一部のエリート将校の集まりであった参謀本部が、天皇の有する統帥権を逸脱して「超法的」に日中戦争などを遂行した根拠になったという批判が強い。一方、部下統率の在り方などについては参考すべき点が多々あり、戦後のビジネス本などとしても活用されている。

 もう一つの『統帥参考』は、第1篇「一般統帥」と第2篇「特殊作戦の統帥」に分かれ、さらに第1篇は第1章「将帥」、第2章「幕僚」、第3章「統帥組織」、第4章「統帥の要綱」、第5章「情報収集」、第6章「集中」、第7章「会戦」の195条からなる(なお、第2編については割愛)。

 こちらの方は「軍事機密」に次ぐ「軍事極秘」という扱いになっている。さすがに参考書という位置づけなので『統帥綱領』に比して記述内容の具体性が随所にうかがえる。

▼インテリジェンスの視点からの注目点

 『統帥綱領』の第4「作戦指導の要領」の以下の条文が注目される。

・25、捜索は主として航空部隊及び騎兵の任ずるところとす。両者の捜索に関する能力には互いに長短あるをもって、高級指揮官はその特性及び状況に応じて、任務の配当を適切ならしめ、かつ相互の連携を緊密にならしむること肝要なり。(以下、略)

・26、諜報は捜索の結果を確認、補足するほか、縷々(るる)捜索の端緒を捉え、捜索の手段を持ってならし得ざる各種の重要なる情報をも収集し得るものにして、捜索部隊の不足に伴い、ますますその価値を向上す。(以下、略)

 つまり、この2つの条文から、捜索と諜報がともに情報を収集する手段であることがわかるのである。

 ただし、1914年の『陣中要務令』(計13編)の中の第3編「捜索」、第4編「諜報」において、すでに「捜索」と「諜報」の定義や、その内容は具体的に規定されている。

 『統帥綱領』の25条と26条は、『陣中要務令』の「捜索」と「諜報」の記述内容の要旨を抽出し、それを方面軍の統帥に適用したものであり、内容に何ら目新しさはない。

 他方の『統帥参考』では第5章「情報収集」があり、ここには次のような趣旨の内容が記述されている。要点を抜粋し、要約する。

◇「情報収集において敵に優越することが勝利の発端」「情報収集は敵情判断の基礎にして」と情報収集の重要性について記述している。しかしその一方で「情報の収集は必ずしも常に所望の効果を期待できないので、高級指揮官はいたずらにその成果を待つことなく、状況によっては、任務に基づき主導的行動に出ることに躊躇してはならない」として、敵情を詳しく知りたいがために戦機を逃してならない旨の戒(いまし)めを記述している。

◇情報を戦略的情報と戦術的情報に区分している。方面軍は主として戦略的情報、軍団は戦略的情報と戦術的情報の両者、軍内師団は主として戦術的情報を収集するとしている。

◇情報収集の手段には諜報勤務と軍隊の行なう捜索に分けている。戦術的情報は主として捜索により、これは騎兵、航空部隊、装甲部隊、第一線部隊などを使用するほか、砲兵情報班、無線諜報班、諜報機関などを適宜使用するとして、一方の戦略的情報は主として航空部隊および諜報による、と規定している。

◇諜報についてはとくに紙面を割いて規定している。「最高統帥の情報収集は作戦の効果によるほか、専(もっぱ)ら諜報による」としているほか、作戦軍においても諜報の価値は大きい旨を規定している。

◇諜報勤務の要領について、脈絡一貫した組織の下に行なう、作戦軍のための諜報機関といえどもその骨幹は開戦前より編成配置して開戦後速やかに捕捉拡張するように準備するなどを規定している。

◇諜報勤務は宣伝謀略および保安の諸勤務と密接なる関係があるとして、これらの機関に資料を提供するとともに、その成果を利用することの必要性を規定している。

明治時期以降において形成されてきた情報収集、捜索、諜報の個々の内容や相互の関係性などが、『統帥参考』の作成により、ようやく体系的に整理したといえる。

わが国の情報史(24)

大正期のインテリジェンス(その2)

▼一時しのぎの「石井・ランシング協定」

第一次世界大戦は明治末期からの不況と財政危機とを一挙に吹き飛ばした。日本は英・仏・露などの連合軍に軍需品を、欧州列強が撤退したアジア市場には綿織物を、アメリカには生糸を輸出して大幅な輸出超過となった。

また、大戦により世界的な船舶不足になり、日本はイギリス・アメリカに次ぐ世界第三位の海運国となった。こうした日本の大躍進に警戒したのが、ほかならぬアメリカであった。

第一次世界大戦が開始した頃から、中国大陸における日米両国の利権問題やアメリカ国内での日本人移民排斥運動の動きなど、日米間には緊張した空気が流れていた。

1917年(大正6年)11月2日、日本の特命全権大使・石井菊次郎とアメリカ合衆国国務長官・ランシングとの間で「石井・ランシング協定」が締結された。 この協定は、中国の領土保全・門戸開放と、地理的な近接性ゆえに日本は中国(満州・東部内蒙古)に特殊利益をもつとする公文書であった。さらに付属の秘密協定では、両国は第一次世界大戦に乗じて中国で新たな特権を求めることはしないことに合意した。

つまり、日米双方は第一次世界大戦の最中であったので、無用な衝突を回避するために双方の妥協点を見出すという、一時しのぎの“苦肉の策”に出たのであった。

▼シベリア出兵によってアメリカの対日警戒が増大  

第一次世界大戦の最中の1917年、レーニンの指導するボリシェヴィキにより世界最初の社会主義革命が起き、1918年にロシア帝国は崩壊した。 1918年3月、ボリシェヴィキ政権は単独でドイツ帝国と講和条約(ブレスト=リトフスク条約)を結んで戦争から離脱した。

連合国側としてドイツと戦っていたソ連が裏切ったのである。 そのためドイツは東部戦線の兵力を西部戦線に振り向けることができた。これに慌てた連合国は、ドイツに再び東部戦線に目を向けさせるとともに、社会主義国家の誕生を恐れて、シベリアのチェコスロバキア軍救援を名目として内戦下のロシアに干渉戦争を仕掛けた。

しかし、英・仏はすでに西部戦線で手一杯で、大部隊をシベリアへ派遣する余力はなかった。そのため必然的に地理的に近く、本大戦に陸軍主力を派遣していない日本とアメリカに対してシベリア出兵の主力になるように打診した。

1918年7月になってアメリカがチェコスロバキア軍救援のために日米共同で限定出兵することを提起すると、寺内正毅内閣は1918年8月、シベリア・北満州への派兵を決定した(シベリア出兵)。

しかし、アメリカと日本の派兵目的は異なっていた。日本は共産主義の浸透が満州、朝鮮、そして日本に浸透することを警戒していた。そのため、オムスクに反革命政権を樹立することを目的に出兵兵力をどんどんと増大させた。

一方のアメリカの出兵目的は日本の北満州とシベリアの進出に抵抗することであった。アメリカは共産主義を脅威だとは認識していなかった。だから、ロシアの共産主義者と戦う日本軍に協力せず、かえってボルシェビキに好意を示す有様だった。

▼パリ講和条約における日米の軋轢

第一次世界大戦は1918年11月に休戦が成立した。両国とも連合国の一員として、戦勝国として1919年のパリ講和会議に参加した。 パリ講和会議のヴェルサイユ条約では、日本は山東省の旧ドイツ権益の継承が認められ、赤道以北の旧ドイツ領南洋諸島の委任統治権を得た。

しかし、その少し前に朝鮮で起きた「三・一独立運動」の影響もあって、日本のドイツ利権の継承に対して、北京の学生数千人が1919年5月4日、ヴェルサイユ条約反対や親日派要人の罷免などを要求してデモ行進をし、デモ隊は暴徒化した(五・四運動)。 この五・四運動が中国共産党の設立を促し、やがて泥沼の日中戦争へとわが国は向かうことになる。

山東還付問題については会議中からアメリカが反対した。我が国は戦勝国として臨んだ講和会議であったが山東還付問題でアメリカから批判されたことで、講和会議に参加した外交官や新聞各紙の記者は衝撃を受けた。

▼ペリー来航の目的

このように大正期において日米対立が顕著になるが、その対立の歴史はさらに遡る。 1853年のベリー来航の第一の目的は、アメリカは日本を捕鯨船団の寄港地にすることであった。当時、太平洋を漁場にした捕鯨の最盛期でもあった。日本近海には、アメリカの捕鯨船がひしめきあい、灯火の燃料にするため盛んにクジラをとっていた。

しかし、アメリカのもっと大きな狙いは中国(清)利権の獲得であった。つまり、当時4億人の市場を持つ中国への市場拡大を狙っていた。そのための寄港地が日本というわけである。

米国のアジア大陸の進出の目論みは南北戦争(1861~65年)によって、いったん中断されたが、この戦争が終わり、米国は本格的にアジア・太平洋の支配を狙いにスペインとの戦争を開始した。 1898年にハワイ、次いでフィリピンを獲得し、1902年までにフィリピン独立戦争に勝利してここを植民地として、加えてウェーク、サモア、ミッドウェー等を押さえ、南太平洋上に日本を取り巻く形で、太平洋の支配に乗り出した。

そして、いよいよ中国への進出である。しかし、すでに1898年、イギリス・フランス・ドイツ・ロシアが相次いで租借地を設けるなど中国分割が進んでいた。 そこで、アメリカの国務長官ジョン=ヘイは、1899年と1900年の二度にわたり、「清国において通商権・関税・鉄道料金・入港税などを平等とし、各国に同等に開放されるべきである」として、中国に関する門戸開放(もんこかいほう)・機会均等の原則を求めた(門戸開放宣言)。さらに1900年、ヘイは清国の領土保全の原則を宣言した。

▼アメリカのオレンジ計画

1904年、満州利権をめぐって日露戦争が生起した。この時、イギリスとアメリカはロシアの満州占領を反対して、日本支持を支持したが、日本がロシアに勝利したことで、アメリカは日本に対する脅威を増大させていった。

アメリカは1904年、陸海軍の統合会議を開催して、世界戦略の研究に着手した。ドイツを仮想敵国にしたのがブラックプラン、イギリスに対してはレッドプラン、日本に対してはオレンジプランといったように色分けした戦争予定準備計画を策定したのである。

オレンジ計画では、日本はフィリピンとグアムに侵略することが想定された。つまり、アメリカが占領した太平洋の拠点を防衛する上で、日本は想定敵国に位置付けられた。日露戦争の日本勝利によってオレンジ計画はより具体化されていった。

▼白船事件

オレンジ計画の具体化のひとつともいうべき事象が白船事件である。アメリカは1907年に大西洋艦隊を西海岸のサンフランシスコへ回航すると議会で発表した。この時にはまだ世界一周航海であることは伏せられていた。

同年12月16日、大西洋艦隊は出港し、翌1908年の3月11日にメキシコのマグダレナに到着すると、3月13日にルーズベルトは航海の目的が世界一周だと発表した。 つまり、アメリカは大西洋艦隊を大挙して太平洋に回航させ、日本近海に近づけるということ行動に出たのである。

日本の連合艦隊の2倍の規模もある大艦隊の接近は日本に恐怖をもたらした。船は白いペンキが塗られていたのでかつての黒船と区別して「白船」と言われた。

米国は、海軍力を誇示することでロシアのバルチック艦隊を破った日本海軍を牽制したのである。 アメリカのハースト系新聞その他は、日本軍がこれを迎え撃った場合は大戦争が始まるということで、世界に一斉に煽情的な報道を流した。 これに対して、日本政府とマスコミは「白船歓迎作戦」に出た。この作戦が奏功し、何事もなくアメリカ艦隊はサンフランシスコへ去っていった。

▼日本人移民排斥運動

日米関係の悪化のもう一つの背景には、アメリカ国内における日本人の移民問題があった。 1848年1月、カルフォルニア州で金鉱山が発見されると、鉱脈開発や鉄道工事で多数の中国人労働者が受け入れられた。

しかし、中国人労働者の入植によって自分たちの地位が奪われるとして、カルフォルニアの白人労働者が1860年代から脅威を覚えるようになった。そこで、1882年に中国人の移民が禁止された(排華移民法)。

他方、日本からのハワイへの移民は明治時代初頭から開始されていた。上述の排華移民法の成立と1898年のアメリカによるハワイを併合が、日本人による米大陸本土への移民を促した。

こうして日本人移民は1900年代初頭に急増した。急増に伴って中国人が排斥されたのと同様の理由で、日本人移民は現地社会から排斥されるようになり、1905年5月に日本人・韓国人排斥連盟が結成された。

1906年4月、サンフランシスコ大地震が発生した。この際、大地震で多くの校舎が損傷を受け、学校が過密化していることを口実に、サンフランシスコ当局は公立学校に通学する日本人学童(総数わずか100人程度)に、東洋人学校への転校を命じた(日本人学童隔離問題)。

この事件を契機に、アメリカでは「黄禍」は「日禍」として捉えられるようになった。この隔離命令はセオドア・ルーズベルト大統領の異例とも言える干渉により翌1907年撤回されたが、その交換条件としてハワイ経由での米本土移民は禁止されるに至った。 その後も、アメリカ合衆国の対日感情は強硬になり、1924年7月(大正13年)、排日移民法が制定されたのであった。

▼ワシントン会議における対日圧力

1921年11月12日から 翌22年2月6日かけて、第一次世界大戦後のアジア太平洋地域の新秩序を形成するための国際会議がアメリカのワシントンで行われた。 この会議には、太平洋と東アジアに権益がある日本・イギリス・アメリカ・フランス・イタリア・中華民国(中国)・オランダ・ベルギー・ポルトガルの計9カ国が参加したがソ連は会議に招かれなかった。

同会議では、重要な三つの条約が締結された。第一は「四か国条約」(1921.12月)である。これは米・英・日・仏が参加した太平洋の平和に関する条約であり、これによって日英同盟は破棄された。

第二は「9か国条約」(1922.2)である。これは中国問題に関する条約であり、中国の主権尊重、門戸開放、機会均等などが約束され、「石井・ランシング協定」は破棄された。 つまり、この条約締結により、日本の中国に置ける特殊地位は否認され、た。山東省における旧ドイツ権益を中国へ還付することになった。

第三は「海軍軍縮条約」(1922.2)であった。この条約により、主力艦保有はアメリカ・イギリスが各5、日本3、フランス・イタリア各1.67として、今後10年間は老朽化しても代艦を建造しないことが約束された。 日本国内では、この軍縮条約をめぐって、海軍軍令部が対英米7割論を強く主張したが、海軍大臣で全権の加藤友三郎が部内の不満を押さえて調印した。

▼帝国国防方針の改定

こうした情勢下、わが国は1918年(大正7年)と1923年(大正12年)に帝国国防方針を改定した。 1918年の第一次改定では、海軍の対米作戦計画は、「敵海軍を日本本土近海沿岸に引き付けて集中攻撃を行う」こと本旨とする守勢作戦であった。

これがため、米艦隊の現出を硫黄島西方海域やフィリピン島東方海面に予想し、我が根拠地を奄美大島、沖縄に求めることにしていた。 しかし、1923年の第二次改定では、「開戦劈頭、まず敵の東海における海上兵力を掃討し陸軍と協同してその根拠地を攻略し、西太平洋を制御して帝国の通商貿易を確保するとともに敵艦隊の作戦を困難にならしめ、然る後、敵本国艦隊の進出を待ちこれを邀撃し撃滅する」と改められた。

つまり、陸海軍は対米戦の場合、フィリピン島攻略を本格的に取り組むことになった。また、毎年実施された海軍大演習はこれに準拠して訓練の向上に努力させられたが、陸軍部隊の南洋委任統治領に使用することなど全然考慮されていなかった。

▼ワシントン条約からの撤退

1930年(昭和5年)に締結されたロンドン海軍軍縮条約は日本で政治問題化し、海軍内では艦隊派(条約撤退)と条約派の対立が生起した。当初は条約派が主導してようやく締結にこぎ着けたが、32年からは艦隊派が優勢になった。 1931年の満州事件とともに、海軍軍縮条約を締結するかいなかの重大な案件が持ち上がった。

元老、重臣は国力からして国際協調路線であった。陸軍も満州国建設や対ソ作戦準備の点から条約維持を主張した。 林 銑十郎(はやし せんじゅうろう、1876年~ 1943年)陸軍大臣は、大角岑生(おおすみ みねお、1876年~1941年)海軍大臣に対して条約継続を強く希望した。

岡田 啓介(おかだ けいすけ、1868年~ 1952年)総理も、軍縮会議の存続を望み五相会議で論議されたが、大角大臣は、「それでは部内が収まらない」として、ワシントン会議よりの脱退を主張した。かくして、海軍出身の岡田総理は1934年12月、ワシントン海軍軍縮条約脱退通告を米政府にいたした。

とかく陸軍が引き起こした満州事変及び日中戦争が太平洋戦争を招いたとの文脈で捉えられるが、太平洋戦争の遠因はペリー来航から始まっていた。そして、大正期の軍縮条約を是としない海軍艦艇派は対米戦に向けて準備を進めたのである。 そこには、陸海軍を統制する国家の情報機関の不在と、国際問題を大局的に分析するインテリジェンスが欠如していた。

わが国の情報史(23)

大正期のインテリジェンス(その1)

▼光と影の大正期  

1912年(明治45年/大正)7月30日、明治天皇崩御の報が日本列島を駆けめぐった。ここに「明治」の御代は終わり大正が始まる。実際は、明治天皇は前日の29日の午後10時4 3分に崩御されたが、公式には2時間遅らせて30日の0時43 分とされた。  

その大正天皇は1926年(大正15年/昭和元年)12月2 5日に崩御された。この時、元号は「光文」と報じられたが、誤報として「昭和」に訂正された。おおらかな時代ではあった。  

大正はわずか14年半と短かかったこともあり、明治と昭和の 激動期に挟まれ、ともすれば注目度が薄い。しかし、インテリジェ ンスの歴史において、シーメンス事件、シベリア出兵、ワシント ン海軍軍縮会議など、決して無視してはならない事件・事案があ る。

大正は明治末の重苦しい時代から解き放たれて、「大正デモク ラシー」「大正ロマン」に象徴されるように社会全体は解放的で軽快なイメー ジがある。たしかに、そこにはサラリーマンを中心とした中間層の文化的な生活欲求によって生み出された明るい生活があった。  

しかし、社会のさまざまな局面で矛盾や問題が露呈していった。 中間層の生活の豊かさと、その影で深刻化する矛盾や問題の進行 という、“光と影”に彩られた大正期を駆け足で眺めてみよう。

▼世界史的には激動の時代  

世界史的にはまさに激動期といえるだろう。20世紀初頭の欧州は、英・仏・露などからなる三国協商と、独・墺・伊からなる三国同盟との両陣営の対立を軸として、複数の地域的対立を抱える複雑な国際関係を形成していった。  

そこに、1914年6月28日、オーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者であるフランツ・フェルディナント大公夫妻がサ ラエボで銃撃された。これが第一次世界大戦の幕開けとなった。  

各国は英・仏・露からなる連合国と、独・墺・伊およびオスマ ン帝国からなる同盟国との両陣営に分かれ総力戦を展開した。中立を宣言していたアメリカまでもが1917年にドイツに宣戦布告する。

この戦争は1918年まで続き、おびただしい惨劇を出 して、やがて連合国の勝利で終わることになる。

わが国は日英同盟に基づき、連合国側に参戦し、中国大陸と太平洋地域のドイツ支配地(膠州湾の青島、マーシャル、マリアナ、 パラオ、カロリンのドイツ領北太平洋諸島)を攻撃したほか、ま た一部艦隊を地中海に派遣した。  

ドイツ権益を奪ったかたちの日本は、「対華21カ条の要求」 を出し、袁世凱政府にほぼその要求を呑ませた。これにより、日 本は山東半島などに中国大陸侵出の足場を築いた。また太平洋方 面でもドイツ領を委託統治領として獲得した。

しかし、このような大陸進出の本格的な動きを、アメリカ・イ ギリスが警戒して、日本の大陸政策をめぐる英米との対立の出発 点となったのである。

▼第一次世界大戦で戦訓を学ばなかった日本  

この大戦では、戦車戦や砲兵戦の重視、歩兵における機関銃の役割、炊事車の導入、隊員の休養、家族とのつながり、精神的ケ アなど、多くの学ぶべき戦訓があった。  

海上作戦においては、潜水艦戦と対潜作戦が重視された。この作戦とともに、敵の潜水艦の位置を突き止める熾烈な情報戦、とくに暗号解読戦が繰り広げられた。

空中作戦では新兵器として航空機が登場した。開戦時にはよう やく飛ぶのが精いっぱいであった戦闘機は、わずか4年の大戦中 に大きく進歩した。これにより、偵察飛行、水上機による基地攻 撃、爆撃機による都市爆撃が可能となった。このため、イギリス、 フランス、ドイツでは陸軍航空隊が組織として誕生した。

航空機のもたらす偵察情報はしばしば戦闘に大きな役割を果た し、砲兵観測は既存の直接射撃主体の砲兵の戦術を一新するなど、 航空機は陸戦の勝敗を決する上で非常に重要な兵科となった。

このように、第一次世界大戦は戦訓の宝庫であったが、わが国はあくまでも補助的な限定参加であったこともあり、真摯にその教訓を得ようとはしなかった。また、明治維新の功労者は一人、また一人と第一線を退き、こ の世を去ろうとしていた。つまり、そこには羅針盤のない“昭和丸”の暴風における船出が待っていたことになる。

▼第一次世界大戦で繰り広げられたスパイ戦  

第一次世界大戦を経験し、世界各国は軍事のみならず政治、経済、 思想などを総合的に駆使する総力戦の重要性を認識するに至った。  

戦争が総力戦になるにともない、スパイ戦も熾烈化していった。 この大戦では、ドイツと英・仏との間でも熾烈なスパイ戦争が繰 り広げられた。ドイツは英・仏に対してスパイを潜入させる工作を活発化させた。有名なところで、女性スパイのマタハリが世界 的に注目された。  

ドイツは中立国スペインなどを拠点に英・仏に対するスパイ活動を展開した。 他方、英国は優れたシギント(信号情報)機能を駆使するとと もにロシアの協力を得てドイツの暗号解読に成功し、大戦のほぼ全期間にわたってドイツの艦隊に関する情報を把握していた。  

中東方面では、イギリスから派遣された「アラビアのローレンス」こと、トーマス・エドワード・ローレンスは、オスマントル コに対するアラブ人の反乱工作を展開して、有名になった。  

しかし、わが国は専門の国家中央レベルの情報機関を設置するでもなし、日露戦争後からずっと諜報・謀略を組織的に管理するという方向も示さなかった。

昭和初期まで諜報、謀略を担当する部署はまったくの小所帯で あった。参謀本部第5課第4班でやっと謀略を扱うようになった のは1926年(大正14年)末のことである。

▼シベリア出兵と日ソ基本条約  

大正期にはわが国とソ連との緊張と修復の関係が続いた。第一次世界大戦の末期、1917年に十一月革命(旧:10月革命)が勃発した。革命政府がドイツとの停戦に乗り出すことにな ると、アメリカ・イギリスなど連合国はロシア革命に干渉して革 命政府を倒し、対ドイツ戦争を継続する勢力を支援しようとした。

日本も同調し、1918年には日本軍もシベリア出兵を行ない、 シベリアで革命政府のパルチザンと戦い、途中、ニコライエフス ク事件で日本軍守備隊が全滅するなど、成果を上げられないまま、 22年までシベリアに留まった。  

1917年のロシア革命によって、日ソ両国は国交を断絶した。 しかし、ソビエト連邦の安定化とともに、冷却した日ソ関係が日本経済に大きな不利益を発生させていた。  

基本条約の内容は、外交・領事関係の確立、内政の相互不干渉、 日露講和条約の有効性再確認、漁業資源に関する条約の維持確認および改訂、ソ連側天然資源の日本への利権供与を定めたものであった。日本は、軍を北樺太から撤退させる一方、北樺太の漁業 権と石油・石炭開発権を獲得した。  

当時、日本は共産主義への敵視が強かったため、シベリアから の撤兵後も国交正常化の動きには国内の右翼や外務省は反対した。 外務大臣の幣原喜重郎は、共産主義の宣伝の禁止を明文化して、 国交回復を実現した。

また1924年から、イギリスやイタリアがソ連と国交を回復 した。こうしたことから、1925年1月20日、日本はソ連と 日ソ基本条約を締結して、国交を正常化させた。  

他方、1921年のワシントン海軍軍縮会議の結果調印された 四カ国条約成立に伴って、日英同盟が1923年8月17日に失 効した。このことも、第二次世界大戦での敗戦の原因となった。

▼特務機関の設立  

わが国は米英の要請でシベリアに出兵した(1918~22年)。19 19年に関東都督府が関東庁に改組されると同時に、関東都督府 の陸軍部が、台湾軍、朝鮮軍、駐屯軍と同じく、関東軍として独 立した。  

じ来、満洲地方が日本の大陸進出の拠点として本格的に活用さ れるようになった。また、満洲は経済資源の宝庫であり、満洲事 変にはじまる日中戦争の発火源ともなった。  

陸軍史上初めて特務機関なる名称が登場したのはシベリア出兵 時に設立されたハルビン特務機関である。 初期の特務機関はシベリア派遣軍の指揮下で活動し、特務機関員の辞令はシベリア派遣軍司令部付として発令された。

当初はウ ラジオストク、ハバロフスクなどに設置され、改廃・移動を繰り 返しながらシベリア出兵を支援した。  

黒沢準(くろさわひとし)少将が率いるハルビン特務機関はイ ルクーツク、ウラジオストク、ノボアレクセーエフカ、満洲里、 チチハルなどに駐在していた情報将校グループを統轄し、シベリ ア撤退後も現地に残って終戦まで情報収集にあたった。  

ハルビン特務機関の設置以降、わが国は中国大陸において諜報・ 謀略などの特殊任務(秘密戦)を担当する機関を次々と設置し、 これを特務機関と呼称した。なお、特務機関の名称の発案者は、 当時のオムスク機関長であった高柳保太郎(たかやなぎやすたろ う)陸軍少将で、ロシア語の「ウォエンナヤ・ミシシャ」の意訳 とされる。 こうした特務機関を中心にした諜報・謀略活動は、昭和期の土 肥原賢二(どいはらけんじ)大佐などの特務活動へとつながるこ とになる。

わが国の情報史(22) 日露戦争におけるインテリジェンスの総括

わが国の情報活動に問題はなかったのか

日露戦争においてわが国は、日英同盟を背景とするグローバルな情報収集と的確な情勢判断によって、日露に対する世界の思惑を見誤ることなく、戦争前からの和平工作とあいまってロシアに辛勝した。

しかし、すべてのインテリジェンスに問題がなかったわけではない。  大江志乃夫氏は自著『日本の参謀本部』において、日露戦争における情報活動の問題点を以下のとおり指弾している。

◇「ドイツの大井中佐と英国の宇都宮中佐が軍源として活躍したが、総司令部がその情報を活用した形跡はあまりない。瀋陽会戦後の沙河の会戦の初期、黒溝台の会戦の際、宇都宮中佐及び大井中佐から、ロシア軍による兵力集中や大攻勢に関わる真相情報が総司令部に伝えられたにもかかわらず、総司令部はそれらの情報を無視した。

◇参謀本部第二部は韓国、清国に情報網を張り巡らしていたが、第二部の情報将校はロシア軍に関する知識と戦術的な判断能力にかけていたため、作戦情報の役に立たなかった。シベリア鉄道の輸送能力に関する情報は、判断資料たりえなかった。

◇ 作戦部は情報部の活動に信頼をおくことができず、作戦に必要な軍事情報 活動を作戦部自身がおこなうことになった。すなわち、情報活動は、情報部が行う謀略活動と作戦部が行う軍事情報活動に二分化し、作戦部は主観にもとづく情報無視の作戦を行い、作戦面における苦戦を招いた。作戦部系と情報部系の情報組織が対立して派閥争いまで演じ、情報作戦に反映されることを困難にした。

外務省の暗号がロシアに筒抜け

このほか、当時のわが国の暗号解読の能力は、西欧列強やロシアに比べて格段に劣り、ロシアの軍暗号や外交暗号は解読できなかった。逆に日本の外暗号は完全に解読されていたとの指摘がある。

開戦日の1904年2月6日、ペテルスブルクで栗野慎一朗公使がロシア外務省を訪れ、ラムズドルフ外相に国交断絶の公文書を手渡したとき(明石が同行)は、同外相は口を滑らして「ニコライ皇帝は日本が国交断絶をすることをすでに承知している」旨のことを述べたとされる。  

明石は日記のなかで、「ロシアは既に日本の暗号解読に成功し、この国交断絶の通告以前から、日本の企図の大部分はロシアに筒濡れであったものと判断する」と明記している(島貫『戦略・日露戦争』)。

パリの本野一郎公使によれば、日露戦争の前年、ロシアと本国との暗号通信がロシアの手に渡ったとされる。その事件現場はオランダの日本公使館であった。 在オランダの日本公使は独身であったので、ロシアの情報機関はロシア人美女をオランダ人と偽って女中として住み込ませた。

この女中が公使の熟睡中に、公使の机から合鍵を使って暗号書を盗み出し、それを諜報員に手渡し、諜報員が夜明けまでに写真を撮って、女性が暗号書を金庫に戻しておくという方法であった。 この方法により、五日間で暗号書の全ページを複写されてしまったのであるが、公使は盗まれたことを全く気づかなかったという。

この秘密は、暗号書を盗み出させたロシアの諜報主任が開戦直後、こともあろうに、パリの本野公使のところへ、それを五千フランで売りに来たことから発覚した。外務省は慌てて暗号書を更新し、それ以降、在外公館では特殊な金庫に保管させるようにした。

しかし、この新暗号も今度はフランス警察庁によって解読された。同警察庁の警視で片手間に暗号解読作業に従事していたアベルナが、たった二か月の作業で千六百ページにわたる日本外交暗号書のほとんどを再現した。親ロ中立国であったフランスはそのコピーを日露戦争後半にロシア側に手渡したという。

戦略情報は知る深さが重要

安全保障及び軍事の情報は、使用者と使用目的によって、戦略情報(戦略的インテリジェンス)と作戦情報(作戦的インテリジェンス)に区分できる。

前者は、国家戦略等の決定者が国家戦略等(政略、国家政策を含む)を決定するために使用し、後者は作戦指揮官が作戦・戦闘のために使用する。 両者にはインテリジェンスとしての共通性はあるが、その特性はやや異なる。

戦略情報では、「相手国がいかなる能力をもっているか」「いかなること意図を有しているか」「将来的にいかなる行動を取るのか」「中立国がどのような思惑を有しているか」、などを明らかにする必要がある。 だから時間をかけて、慎重に生情報(インフォメーション)を分析してインテリジェンスを生成する必要がある。戦略情報には「知る深さ」が必要といわれる所以である。

作戦情報は知る速さが重要

他方、作戦戦場では作戦指揮官は刻一刻と変化する状況を瞬時に判断して、意思決定をおこなわなくてはならない。したがって、作戦指揮官は完全なインテリジェンスを待っている余裕などない。だから、正確なインテリジェンスよりも、生情報の迅速かつ正確な伝達の方がより重要となる。すなわち作戦情報には「知る速さ」が求められる。

現代戦は双方の歩兵が徒歩前進して戦闘を交えるといった様相にならない。航空機、ミサイルなどが大量出現した。偵察衛星、航空機、無人機、地上監視レーダーなど、さまざまな敵状監視システムが開発された。また無線、衛星電話などの情報伝達機器も発達した。

これらにより、戦況速度は格段に速くなり、意思決定にはさらなる迅速性が求められるようになった。そこには敵の意図的な欺瞞や、我の錯誤が生じる。迅速性の要請から、戦場指揮官は様々な真偽錯綜の生情報から、戦闘の“勝ち目”を判断することが増えていく。つまり、独断専行が求められるのである。

かのクラウゼヴィツは、「戦争中に得られる情報の大部分は相互に矛盾しており、誤報はそれ以上に多く、その他のものとても何らかの意味で不確実だ。いってしまえばたいていの情報は間違っている」(『戦争論』)と述べている。 これは基本的には日露戦争当時も現代も変化はないということである。

「情報無視の独断専行」という一言で片づける傾向はいいのか

太平洋戦争における失敗の原因を「情報無視の独断専行」という一言で片づける傾向にある。政略・戦略の立案では、これは絶対に回避すべきである。回避することもできる。しかし、作戦・戦闘では必要な情報が入手できない、あるいは真偽錯綜する情報のなか独断専行的に作戦指導することもあるということである。 結果論で言えば、「おろかな無謀な戦い」ということになるが、致し方のない面もある。

戦略情報こそが重要

日露戦争においては「戦略情報が勝利した」といっても過言ではない。つまり、官・軍・民が一体となってグローバルな情報活動により、良質のインテリジェンスを生成して、それを「6分4分」の戦闘勝利で即時停戦という国家戦略に生かしたのである。

他方、戦術情報の面では、通信網などの組織化が不十分なために必要な情報を得られなかったなどという状況が、さまざまな局面で生起したことが伝えられている。また、大江氏の指摘するような問題点もあったのであろう。 つまり、日露戦争では作戦情報では問題もあったが、戦略情報では勝利した。太平洋戦争の敗因は、戦略情報と作戦情報の両方の失敗である。ここが違っていた。

戦略情報が成功すれば、作戦情報の失敗は挽回できる。しかし、戦略情報が失敗すれば、作戦情報が成功しても意味はない。作戦情報の成功が、誤った戦略の遂行を助長し、やがては墓穴を掘ることにもなりかねない。

日清・日露戦争においては、日英同盟にもとづくグローバルな情報収集体制と、獲得した情報をインテリジェンスに昇華させる国家・軍事指導者の国際感覚と戦略眼があった。無謀な泥沼戦争に突入させないために、戦争の潮時を心得ていた。このことは現代日本にとっての重要な教訓である。

昨今、中国の台頭、北朝鮮の暴走、ロシアの不透明な行動などが安全保障上の脅威になっている。こうしたなか、わが国が進路を誤ることなく、万一の侵略事態に適切に対応するためには、安全保障・軍事常識に裏打ちされた戦略情報が不可欠である。 是非とも、国家を挙げての戦略情報を強化していただきたいし、今日、陸上自衛隊(かつての調査学校は廃止となり、戦略情報課程はなくなった。現在の新設の情報学校は作戦情報にほぼ特化している)にもこのことを申し述べたい。  

情報と作戦の分化の問題

明治期の参謀本部の沿革をみるに、情報と作戦の分離独立という問題にはいろいろと紆余曲折があったようである。 日露戦争では、満州軍司令部の作戦課と情報課を分離独立したが、松川敏胤作戦課長は部下の田中義一少佐(後の首相)の進言を受け入れ、満州・朝鮮の作戦地域における情報活動は作戦課で担当することを主張した。 作戦課の情報活動は、敵情に関する詳細な情報を収集しその活躍は明治天皇に上奏され、感状まで授けられた(柏原『インテリジェンス入門』)。

しかし、ここでは情報将校に松川系と福島(安正)系の両派が生じ、暗闘、反目するという結果を生んだという。 松川派は「福島派の情報など、しょせん馬賊情報に過ぎない。戦術眼のない馬賊のもたらした情報など、およそ不正確でタイミングも遅すぎ、とても作戦の役に立たないと」主張した。福島派も「諜報には長い経験が必要なのだ。速成の情報将校が役に立つか」と反発した。 その結果、日本軍の情報には、拮抗する二種類が存在することになり、状況判断の上で混乱が生じる一因ともなった、という。

よく、「情報部が作戦部から独立しないことの弊害は、とかく作戦担当者が、自ら策案した作戦に都合がいいような情報ばかりを選択して、主観的で独りよがりなものになりがちな傾向を生むことである」とされる。よって「組織構造から、情報部と作戦部は分離されるのが望ましい」とされている。

この主張は戦略レベルではまったく異論がない。戦略情報の作成には歴史観に裏打ちされた情報分析力や国情情勢に対する専門的知識などが不可欠である。いくら偵察衛星やシギント(通信情報)機能が発達したからといっても、敵対国の意図までは洞察できない。それらの解明には、情報部署に所属する専門の情報分析官の力が必要である。まさに「諜報には長い経験が必要だ」との福島派の言葉が身にしみる。

また、「インテリジェンスの政治化」(※)という問題もある。仮に、作戦部がインテリジェンスを独自に生成するとなれば、作戦部は作戦指揮官の作戦構想に合致したインテリジェンスを提供する傾向が強まり、インテリジェンスの客観性は失われる。

しかし、作戦戦場における作戦・戦術レベルでは、第一線部隊を指揮する作戦部がもっとも最新の状況を認知しているのが通常である。無人機やレーダーなどの戦場監視機器が発達し、それを管理・運用する者の専門的知識も必要ではあるが、戦略レベルの情報分析官のような長年の経験と広範な知識の蓄積は必要とされない。基本的には、あったこと、見たことを、諸元にもとづいて処理すればよいのである。

しかも、上述のように、現代戦は戦況速度が格段に速まり、戦場監視がデジタル化している。 つまり、戦場では過去にもまして、作戦部と情報部の垣根がなくなっている。作戦指揮官がインフォメーションに基づき、独断専行的に意思決定を行い、作戦部にその実行を命じるという状況が増えると考えられる。

日露戦争後の軍事の流れのなかで、情報部門と作戦部門の未分化が作戦部門の唯我独尊、自閉的集団化を引き起こし、ノモンハン事件以降はまったくの情報軽視が生起して、それが太平洋戦争の敗北に向かったという。

しかし筆者は情報と作戦の分化という問題は、戦略レベルと作戦・戦術レペルに分けて、よくよく考える必要があると考える。 実務においては、通り一遍の情報と作戦の分化論は危険である。

作戦戦場における情報部門の独立、すなわち現在の陸上自衛隊の情報科の新編独立(2010年3月26日、陸上自衛隊に情報科職種が新設)についても、この日露戦争の戦史をひも解き、問題点を創造的に見出し、改善していくことが必要であると考える。

(※)インテリジェンスの政治化 政策決定者がその政策や好みに合致した情報を出すよう圧力、誘導をし、情報機関の側にも権力におもねって、それに取り入ろうとする動き。情報分析官個人が自分の利益のために政策決定者が好むインテリジェンスを意識、無意識に生成することなどをいう。

謀略の問題

前出の大江氏は、「情報操作・情勢作為によって自己の政治的地位を高めてきた山県(有朋)のもとで育った情報将校たちは、正確な軍事情報の入手よりも、情勢を作為するための謀略に重きを置く傾向を強めた」と厳しく指弾している。

この問題についても、筆者の私見を述べたい。 明石工作については、最近の戦史研究によって明石の自著『落花流水』には相当の事実相違があることが判明している。 稲葉千晴氏が北欧の研究者として共同して行った最近の歴史検証では、「明石の大半の工作は失敗に終わった」とされている。 稲葉氏は「明石がおこなった反ツァーリ抵抗諸党への援助は、ロシア1905年革命に、そしてツァーリ政府の弱体化に、ほとんど影響を及ぼしていない。勿論、日露戦争での日本の勝利とはまったく結びつかなかったのである。」(稲葉千晴『明石工作』)と述べている。

稲葉氏の緻密な研究成果に異を唱えるものではないが、謀略の成果があったのか、なかったのかを検証するという作業には非常に困難性がともなうと考える。それを断定的に述べることは学問では是とされても、それを実務に取り入れることには注意が必要だと考える。

作家の佐藤優氏は、稲葉氏の研究資料となったパヴロフ・ペトロフ共著[左近毅訳]『日露戦争の秘密-ロシア側資料で明るみに出た諜報戦の内幕』(成文社、1994年)について、「そもそもロシア側の原資料は、明石工作はたいして意味がなかったというように情報操作している」と指摘している。

もちろん、これも佐藤氏の思い込みだと排斥することも可能であるが、諜報・謀略の世界では情報操作は当たり前である。日本軍のマニュアルにも謀略宣伝のやり方が書かれていたし、英国の首相チャーチルが国家的な謀略に手を染めていたこともほぼ明らかとなっている。

筆者は、次のことにも付言したい。謀略は心理戦の様相が大勢を占めるということである。つまり、緻密な歴史研究をもってしても、いかなる経緯や事象が民衆心理に対して、どの程度の影響をもたらしたのかなどは解明が困難であるということである。

暴動やパニックは一つの嘘から引き起こされる場合もある。この嘘が偶然だったのか、それとも情報機関が周到に仕組んだ偽情報だったのかは知る由もない。現在のテロが起こるたびに、ISは犯行声明を発出するがその関係性もよくわからない。ただし、ITCによって心理面の影響を受けている可能性は否定できない。 だから、謀略やテロといった代物は、因果関係が立証できなくても、因果を一応の前提として、その対処を研究する必要があるのである。

日露戦争後、日本は謀略を組織的に管理するという方向に向かわなかった。昭和初期まで諜報、謀略を担当する部署はまったくの小所帯であった。 参謀本部第5課第4班でやっと謀略を扱うようになったのは1926年(大正14年)末のことである。 参謀本部に謀略課(第8課)が設置されたのは支那事変後の1937年10月である。

謀略によって泥沼の日中戦争に向かい太平洋戦争に敗北したとする、のであればそれは謀略自体を悪と決めつけることによってのみ問題を解決するのは一面的である。むしろ適切に謀略を管理する組織体制がなかったことに問題の所在をおくべきだと考える。 

今日、「専守防衛」を基本とするわが国には、日露戦争当時に明石工作や青木工作のような謀略は不向きである。しかしながら、南京事件などをみるにつけ、中国が謀略、宣伝戦を仕掛けていると思われる節がいくつもみえる。 謀略を阻止するという観点からも、軍事部門を司る組織において、謀略の研究がなされる必要はあると考える。

わが国の情報史(21) 日露戦争の勝利の要因その3 -諜報・謀略工作-

大橋武夫氏による日露戦争の6つの勝因

兵法家の大橋武夫氏は、日露戦争の勝利の要因を(1)英国との同盟(1902年) (2)開戦から始められた金子堅太郎の終戦工作 (3)高橋是清の資金獲得とロシアに対する資金枯渇  (4)明石元二郎(大佐)の謀略工作 (5)特務機関の活動(青木宣純) (6)奉天会戦、日本海海戦の勝利 と総括している。以下、(4)と(5)を中心に考察したい。

明石大佐による諜報網の構築

明石元二郎は1864年に福岡藩で生まれ、陸軍大学を卒業後、ドイツ留学など を経て、フランス、ロシアで公館付陸軍武官などを歴任した。日露戦争後は台湾総督を歴任し、最終的には陸軍大将になった。

明石は1901年にフランス公館付武官として赴任、1902年にロシアのサンクトペテルブルクに転任し、その後、ロシアの膨脹主義に反発するスウェーデンに駐在武官として移動した。同地にて旧軍の特務機関の草分け的存在である「明石機関」を設置し、ロシア国内の反体制派「ボルシェビキ」への活動を支援した。

1904年1月12日の御前会議で戦争準備の開始が決定されると、児玉源太郎参謀次長は、駐ペテルスブルク公使館付陸軍武官の明石元次郎(当時、中佐)に対し、ロシアの主要都市に非ロシア系外国人の情報提供者を獲得するよう命じた。

明石大佐は日露戦争では参謀本部からの工作資金100万円を活用し、地下組織のボスであるシリヤクスと連携し、豊富な資金を反ロシア勢力にばら撒き、反帝勢力を扇動し、日露戦争の勝利に貢献したとされる。 当時の国家予算が2億5000万であったことから、渡された工作資金は単純計算では現在の2000億円を越える額となり、明石の活動に国家的支持が与えられていたことがうかがえる。  

明石の活動について、児玉の後の参謀次長である長岡外史は、「明石の活躍は陸軍10個師団に相当する」と評し、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世も、「明石元二郎一人で、満州の日本軍20万人に匹敵する戦果を上げている。」と言って称えたと紹介する文献もある。

また一説には、明石がレーニンと会談し、レーニンが率いる社会主義運動に日本政府が資金援助することを申し出たことや、明石の工作が内務大臣プレーヴェの暗殺、血の日曜日事件、戦艦ポチョムキンの叛乱等に関与し、後のロシア革命の成功へと繋がっていったとされる。

さらに、レーニンが「日本の明石大佐には本当に感謝している。感謝状を出したいほどである。」と述べたとの説もある。 ただし、こうした明石の活動は、明石自身が著した『落花流水』や、司馬遼太郎が執筆した小説『坂の上の雲』によるいささか誇張的な評価がもたらしたようである。

稲葉千晴氏は、『明石工作』(丸善ライブラリー、平成7年5月)において、明石がレーニンに会談した事実や、レーニンが上記のような発言を行った事実は確認されていない、と結論付けた。 また、稲葉氏によれば、現地でも日本のような説は流布していないことが示された上、ロシア帝国の公安警察であるオフラナが明石の行動確認をしており、大半の工作は失敗に終わっていたとされる。

一方で稲葉氏は、工作(謀略)活動の成果については否定するものの、日露戦争における欧州での日本の情報活動が組織的になされていたことに注目している。その中で明石の収集した情報が量と質で優れていたことについて評価している。 稲葉氏によれば、明石による諜報網の構築は、現地の警察当局のきびしい監視によって阻まれるが、日露開戦までに明石は少なくとも三名のスパイを獲得することに成功した。

明石の諜報網が日露戦争の終戦まで維持されたこと、明石がロシア革命諸党の扇動工作(謀略工作)に着手することが容認されたことは、すくなくとも明石の設置した諜報が無用ではなかったことの証であるといえよう。 また明石の謀略工作は陸軍中野学校の授業でも題材として取り上げられるなど、当時の日本軍の秘密工作に大きな影響を及ぼしたことは間違いない。

青木大佐による諜報網の構築

日本が満州において、ロシア軍に勝利するためには、戦場でロシア軍に上回る戦力集中しなければならない。そのためには、極東ロシア軍の総戦力を正確に判定することが必要となる。

満州軍総司令部は、敵陣奥深くに蝶者や斥候を派遣するとともに、欧州駐在の陸軍武官に命じて、唯一の兵站線であるシベリア鉄道の兵員、物資の輸送量を把握することに決した。 参謀次長・児玉源太郎は、日露戦争が早晩開戦を迎えることは必至と判断し、主戦場となる北支方面の守備を強化する必要性を認識した。

そこで、児玉が参謀本部作戦部長の福島安正に相談したところ、袁世凱を説得できる人物として青木宣純(あおきのりずみ、1859~1924)が推薦された。 青木は1897年から90年にかけて、清国公使館付武官として天津に赴き、ここで袁世凱の要請で軍事顧問に就任し、袁との信頼関係を構築していたのである。

1904年7月、青木は満州軍総司令部附として北京に派遣された。青木は、北京で特別任務班を組織し、袁の配列下にある呉佩孚(ごはいふ)を動かして満洲とシベリアの国境一帯に諜報網を組織してロシア軍の動向を監視した。 こうして得られた情報は、青木の後任として袁世凱の軍事顧問の任にあたった坂西利八郎(ばんざいりはちろう)大佐を通じて、天津駐屯地司令官の仙波太郎少将に手渡され、そこから東京の参謀本部に転送されていった。

石光真清らの活躍

このほか日露戦争においては、「花大人」こと花田仲之助(はなだちゅうのすけ、1860~1945)中佐が、本願寺の僧侶となって1897年にウララジオストクに潜伏、日露戦争時には満洲に潜入し、スパイ活動に従事した。

石光真清(いしみつまきよ,1868~1942)大尉は陸軍士官学校を卒業したものの軍人を退職し、一般人の菊池正三に変装して1899年にシベリアに渡り、スパイ活動に従事した。石光は花田帰国後のシベリアの諜報活動において活躍したのである。

このほか民間人としては、日清戦争時に従軍記者として活動した横川省三(※(よこかわしょうぞう、1865~1904)が日露戦争の開戦にあたって、清国公使の内田康哉(うちだこうさい、のちの外務大臣)に誘われ、特別任務班第六班班長となり、沖禎介(おきていすけ)とともにスパイ活動に従事した。横川はロシア軍の輸送鉄道の爆破を試み、ラマ僧に変装して満洲に潜伏するが、ハルビンで捕らわれ、1904年に銃殺刑となった。

旧軍随一の女性スパイ「河原操子」

こうした日本軍の特務活動において、河原操子(かわはらみさこ、1875~1945)が多大な活躍をした。

大本営は青木宣純大佐を長とする諜報謀略機関の特別任務班(計71人)を北京に配置し、次の任務を与えた。 一、日支(日本、中国)協力して敵状をさぐる。 二、敵軍背後の交通線を破壊する。 三、馬賊集団を使って敵の側背(そくはい)を脅威する。

この特別任務班はロシア軍の側背地域を広く、そして縦横に活躍しているが、その足跡をたどってみると、各班の多くが内蒙古の喀喇沁(カラチン)王府(北京東北二五〇キロ、承徳と赤峯の中間)を経由しているのが目をひく。(大橋武夫『統帥綱領』) なぜならカラチンの宮廷には河原操子がいたからである。

彼女は1875(明治八)年、信州(長野県)松本市で旧松本藩士・河原忠の長女として生まれた。父親は明治維新後、私塾を開き漢学を教えていた。父の忠と福島安正は幼なじみという関係にある。  

長野県師範学校女子部を卒業したあと、東京女子高等師範学校(現在のお茶の水女子大学)に入学したが、病のため翌年中退し帰郷した。1899年に長野県立高等女学校教諭になるが、清国女子教育に従事したいと思うようになった。

1900年夏、実践女子学園の創設者で教育界の重鎮である下田歌子が信濃毎日新聞を訪れた時、操子は下田に「日支親善」のために清国女子教育への希望を申し述べた。

1900年9月、下田歌子の推薦により、操子は横浜の在日清国人教育機関「大同学校」の教師となった。ここで二年間の教師生活を終えて、操子は上海の務本(ウーベン)女学堂に赴任した。ここでは彼女は「生徒と起居を共にしてこそ教育がなせる」との信念のもと、女学堂の衛生環境の改善に取り組みつつ、女生徒の指導に力を尽くしたのである。

1902年の内国勧業博覧会を視察したカラチン王より、カラチンで女子教育にあたるべき日本女性の招聘が要請された。操子の上海での勤務ぶりに注目していた内田公使が、1903年に内蒙古カラチンに初めて開設された女学校「毓正(いくせい)女学堂」の教師として、彼女を派遣した。

操子は1903年12月、驢馬の旅を九日間続けて、カラチンに赴任した。カラチン王府は、操子の手になる毓正女学堂を支援し、王妹と後宮(こうぐう)の侍女、官吏の子女を学ばせた。女学堂の校長は王妃善坤であり、彼女は粛親王善耆(川島芳子の父)の妹だった。 王妃の授助もあり、女学堂はやがて60人の生徒を数えるまでになる。

学科は、読書、日本語、算術、歴史、習字、図画、編物、唱歌(日本、蒙歌)、体操で、読書は日本語、蒙古語、漢語からなっていた。操子は地理、歴史、習字の一部を除き、その他の全教科を受け持った。 

1907年まで毓正女学堂で教鞭をとり、あとの女子教育を鳥居きみ子(夫は考古学者の鳥居龍蔵)に託し、日露戦後の1906年2月に帰国。帰国の際には女学堂の生徒三人を連れ、実践女子学園に留学させている。

帰国後、横浜正金銀行ニューヨーク副支店長の一宮鈴太郎と結婚し渡米。1945年に熱海市で死去した。

操子のカラチン赴任には、内蒙古の戦略的要衝の地に親日勢力を扶植(ふしょく)する、日本人が常駐せずに生じていた工作網の間隙を埋めるという日本側の思惑があった。その赴任には北京からカラチンまでの沿道地図を作成するために参謀本部の軍人が同道していたように、国家の密命をおびた派遣であった。

日清戦争後の三国干渉によって日本を譲歩させたロシアは、満洲に軍事力を展開し、さらには朝鮮半島に触手を伸ばし始めていた。それに対し、日本はロシアのライバルであるイギリスとの同盟締結に成功してロシアに備えた。 

日露戦争が迫り来る過程で、内蒙古にもロシアの手が伸びていたが、日本を訪れたことのあるカラチン王だけは日本に好意的であった。カラチンには日本の軍事顧問も派遣されていたが、戦争が勃発すれば武官の滞在は認められない。そこで、粛親王の顧問を務める川島浪速(かわしまなにわ、1866〜1945)や陸軍の福島安正ら松本の同郷人の思惑が内田公使を動かし、カラチンに民間人の操子を派遣することになった次第である。

操子は教育活動とは別に、カラチン王府内の親露勢力の動向を探る「沈」としての使命を果している。諜報・秘密工作の使命を受けた横川省三などは途中カラチンに立ち寄り、その際は操子が彼らの世話をした。それぞれ潜入中の特別任務班員とのやりとりは、王府内に親露派が多くいたので苦心があった。

中国名での秘密の情報交換ほか、操子はカラチン王夫妻にも守られ任務を果たすことができた。 操子は、この頃続々と入り込むロシア工作員たちの猛烈な働きかけを排して、カラチンの親日政策を守りとおし、常にロシア軍の動静を北京に報告するとともに(彼女には文才があった)、この地を経由する特別任務班員に対し、物心両面にわたる非常な援助を与えた。(大橋武夫『統帥綱領』)

愛国心の泉「からゆきさん」  

そのほか日清・日露戦争時期においては、東アジア・東南アジアに渡って娼婦として働いた日本人女性「からゆきさん」が、日本軍の貴重な情報源となった。  

日露戦争では、マダガスカルに入ったバルチック艦隊の所在を電報で送ったのも遠い異国に送られた「からゆきさん」であったという。マラッカ海峡を四十数隻のバルチック艦隊が通過しているのを見て、「からゆきさん」たちは現地領事館に駆け込み、金銭、着物、かんざしなどを提供し、「お国のために使って下さい」と言ったという逸話もある。

前出の石光真清は1899年にシベリアに渡り、90年2月、寄宿先のコザック連帯騎兵大尉ポポフにともなわれて愛暉に入り、そこで諜報活動の得難い担い手となる水野花(お花)と出会う。彼女は馬賊の頭目の妾であった。

ハルビンに潜入する際には、お君という女性の計らいで馬賊の頭目増世策に会い、その手引きで中国人の洗濯夫人に化けてハルビンに到着した。 彼女たちは「シベリアのからゆきさん」で、1883(明治16)年ごろにウラジオストクに現れたという。九州天草地方の出身者が多く、その数は増えていった。

お花とお君も馬賊の頭目の妾などとなっていたが、二人とも中国語、変装術、人事掌握術など、どれをとっても天下一品であった。やがて彼女たちは石光真清のスパイ活動に協力して大活躍する。そこには馬賊に対するむごい仕打ちを行なったロシア軍への反感と、故郷日本に対する愛国心が満ち溢れていた。 彼女たちの交流は石光真清の自伝『曠野の花―石光真清の手記2』に詳述されている。

このように日清・日露戦争においては、名もない女性たちの活躍があった。彼女たちは出自に恵まれず、高等教育を受ける機会もなく、貧乏がゆえに親元を離れて遠い異国に渡ったが、日本を愛していた。故国のためなら犠牲もいとわず、その愛国心の泉はいつも満ち溢れていたのである。

わが国の情報史(20-後段) 日露戦争の勝利の要因その2 -戦略的インテリジェンスとシビリアンコントロール-

高橋是清

高橋是清の資金獲得

軍事と経済との連携においては高橋是清の活躍が特筆される。いうまでもなく、戦争遂行には膨大な物資の輸入が不可欠である。この資金を調達したのが、当時の日本銀行副総裁の高橋である。

高橋は、日本の勝算を低く見積もる当時の国際世論の下で外貨調達に非常に苦心した。日清戦争において相当の戦費が海外に流失したので、その穴埋めのためにも膨大な外貨調達が必要であった。 しかし、開戦とともに日本の外債は暴落しており、外債発行もまったく引き受け手が現れない状況であった。 つまり、国際世論は日本の勝利の見込みうすしと判断した。

日露戦争が勃発した直後の1904年2月24日、高橋是清はまず米国に向かった。高橋はニューヨークに直行して、数人の銀行家に外債募集の可能性を諮ったが、米国自体が産業発展のために外国資本を誘致しなければならない状態で、とうてい起債は無理とのことであった。

そこで、高橋は米国を飛び立ち英国に向かった。しかし、ロンドン市場での日本公債に対する人気は非常に悪かった。一方、ロシア政府の方は同盟国フランスの銀行家の後援を受けて、その公債の価格はむしろ上昇気味だった。 英国の銀行家は、日本がロシアに勝利する可能性は極めて低いと分析して日本公債の引き受けに躊躇していたのである。

また、英国はわが国の同盟国ではあったが、建前としては局外中立の立場をとっており、公債引受での軍費提供を行えば中立違反となるのではないかと懸念していた。 それを知った高橋は、日本にも勝ち目があることを英国側に理解させるよう、宣伝戦略に打って出た。つまり、このたびの戦争は自衛のためやむを得ず始めたものであり、日本は万世一系の皇室の下で一致団結し、最後の一人まで闘い抜く所存であることを主張した。

中立問題については米国の南北戦争中に中立国が公債を引き受けた事例があることを説いた。  高橋の説得が徐々に浸透して、1ヶ月もするとロンドンの銀行家たちが相談の上、公債引受けの条件をまとめてきた。ただし、関税担保において英国人を日本に派遣して税関管理する案を出してきた。 これに対して高橋は、「日本国は過去に外債・内国債で一度も利払いを遅延したことがない」ときっぱりと拒絶した。交渉の結果、英国は妥協して、高橋の公債募集は成功し、戦費調達が出来た。

クラウゼヴイィツの『戦争論』の影響とシビリアンコントロール

わが国の勝利の要因は政治、経済、軍事が一体となってロシアに立ち向かったことにある。そこには、政治が軍事を統制するシビリアンコントロールが機能したといえよう。

そのシビリアンコントロールの思想的底流にはドイツから流入したクラウゼヴイィツの『戦争論』の影響があったとみられる。 『戦争論』では、「戦争とは他の手段をもっておこなう政治の継続である」「戦争は政治の表現である。政治が軍事よりも優先し、政治を軍事に従属させるのは不合理である。政治は知性であり、戦争はその手段である。戦争の大綱は常に政府によって、軍事機構によるのではなく決定されるべきである」と述べられている。 つまり、政治が軍事に優先すること、すなわちシビリアンコントロールが強調されている。

前述の川上や田村はドイツにおいてクラウゼヴイィツの思想を学んだ。これが日露戦争前の帝国陸軍の戦略・戦術思想を形成していったとみられる。このことから、大筋において、当時の一流の軍人がシビリアンコントロールの重要性を理解したのではないだろうか。

総理の桂太郎も軍人であり、元老の山県有朋も軍人であった。いわば当時の軍政は軍人と文人が混在していたが、そこには政治優位の思想が確立されたとみられる。時には軍事優先による日露開戦論が先走ったが、大筋において抑制がきいていたというへきであろう。

つまり、明治期の一流の軍人は、大局的な物の見方と、国家レベルの情勢判断力、政治優位の底流思想を持っていたと判断できる。児玉らのインテリジェンス能力に長けた軍人が、国家レベルの視点から物事を判断して、シビリアンコントロール(政治優先)を維持していった。 この点が、軍事という狭い了見から情勢判断を行い、政治を軽視し、軍事の独断専行に走った昭和期の軍人との最大の相違ではないだろうか?

わが国の情報史(20-前段) 日露戦争の勝利の要因その2 -戦略的インテリジェンスとシビリアンコントロール

前回から日露戦争における勝利の要因についてインテリジェンスの視点から考察しています。 前回においては、兵法家の大橋武夫氏の説を取り上げ、以下の6つの勝利の要の同盟に焦点を当てた。

(1)英国との同盟(1902年) (2)開戦から始められた金子堅太郎の終戦工作 (3)高橋是清の資金獲得とロシアに対する資金枯渇  (4)明石元二郎(大佐)の謀略工作 (5)特務機関の活動(青木宣純) (6)奉天会戦、日本海海戦の勝利

今回は、(2)の金子堅太郎の活躍を中心に、若干(3)の高橋是清の活躍についても触れつつ、日露戦争の勝利の要因を考察する。

日露戦争に向けた政治指導体制

日清戦争後、桂太郎(1848年~1913年)は第三次伊藤内閣(1898年1月~同年6月)で陸軍大臣として初入閣し、その後も出世街道を驀進した。 そして明治34年(1901年)6月、第一次桂太郎内閣が誕生することになる。

この内閣は、海軍大臣・山本権兵衛(1852年~1933年)と陸軍大臣・児玉源太郎(1852年~1906年)の留任を除いては、その他は初めて大臣になるという官僚が大半であった。 しかも、その多くが内務省出身の山県(有朋)閥の官僚であったため、世人は「小山県内閣」「第二流内閣」と揶揄した。 しかし、この桂内閣が日露戦争を戦い、わが国の歴史上の大勝利をもたらしたのである。

桂は1901年9月に小村寿太郎を外相に起用して日英同盟の締結を目指した。二人にとって、その先にあるものはロシア問題の解決にほかならなかった。 当時、ロシア問題をめぐっては日本政府内では山県、桂、小村らの対露主戦派と、伊藤、井上馨らの戦争回避派との論争が続いていた。 桂はこれらの元老たちの意向を汲み、微妙に調整しつつ、わが国の生存・発展戦略を模索しなければならなかった。  

1902年に成立した日英同盟を背景に山県・桂らの主戦派は、伊藤らの戦争回避派に対する分裂工作を仕掛けるなど、政界における影響力の増大に努めた。 1903年(明治36年)4月21日に京都にあった山県の別荘で両派による対ロ方針に関する会議が行われた。

この会議において桂は、満洲に対してはロシアの優越権を認める、そのかわりに、朝鮮においては日本の優越権を認めさせる、これらが貫徹できなければ戦争も辞さない、との対ロ交渉方針を掲げ伊藤と山県の同意を得た。

しかしながら、桂の予測どおりともいうべきか、ロシアの南下政策は一向にとどまることない。ついに1904年(明治37年)、桂内閣はロシアとの開戦を決意し、同年2月4日に日露戦争の火ぶたが切って落とされることになる。

日露戦争に向けた軍事指導体制

他方、日露戦争までの軍事指導体制に焦点をあててみることにしよう。1998年に川上操六(1848年~1899年)が参謀総長に就任し、作戦を司る第一部長に田村怡与造(1854年~1903年)、情報を司る第二部長に福島安正(1852年~1919年)を登用した。これにより作戦と情報の両輪体制が整い、ロシアとの対立を視野においた軍事指導体制が確立された。

しかし1899年5月に頼みの綱であった川上操六が急死する。まさに日本は“飛車堕ち”の危機的状況に瀕した。その応急的措置として、長老の大山巌(1842年~1916年)が参謀総長に就任し、同次長には寺内正毅(てらうち まさたけ、1852年~1919年)が就任した。

ただし、参謀本部の実権は徐々に川上の申し子である田村へと移っていく。田村は1900年4月に陸軍少将に進級し、第1部長兼ねて参謀本部総務部長となり、その存在感を陸軍内にとどろかせていた。

一方、第一次桂内閣において陸軍大臣に留任した児玉は、1902年3月に陸軍大臣の職を解かれ、まもなくして内務大臣に転任した。 その陸軍大臣の後任には参謀本部次長の寺内が就任した。これにより、1902年4月、田村が寺内の後任として参謀本部次長に就任した。つまり、ロシアに対する軍事作戦の責任が田村に任されたのである。

田村自身は、大山総参謀長と同じく日露開戦には慎重であったが、ロシアとの戦争を想定して戦略・戦術を練った。これが、まもなく生起する日露戦争において功を奏したことはいうまでもない。 しかし、その田村も川上と同様に過労のため、日露戦争開戦の前年の1903年10月に死去してしまうのであった。享年50歳であった。なお、田村は同日に陸軍中将に進級した。

川上、田村という陸軍の英傑を相次いで失ったわが軍の憔悴振りは、いかばかりであったろうか? この“火中の栗”を拾うとばかりに立ち上がったのが児玉である。児玉は内務大臣から二階級降格(親任官から勅任官の下の奏任官)の形で(ただし、親任官の台湾総督を兼任したままであったので実質的な降格ではなかった)して参謀本部次長に就任した。

田村と違って児玉は日露開戦の積極派である。当時、田村と海軍の山本権兵衛はそりが合わなかったが、児玉が参謀本部次長に就任したことで、陸・海において協同の気風が生まれ、日露開戦へと一歩近づくことになる。 日露戦争の開戦の直後の1904年2月11日、陸軍参謀本部のほぼそのままの陣営を維持して、戦時大本営が設置された。大本営参謀総長には参謀総長の大山(元帥)、同次長には児玉(大将)が就任した。

一方、現地の作戦指揮を一元的に行うことを狙いに1904年6月に満州軍総司令部が設置された。その総司令官には参謀総長であった大山があてられ、満州軍総参謀長には児玉が就任した。 そして、高級参謀として作戦を司る第1課の課長に松川敏胤(参謀本部第1部長、歩兵大佐)、同主任に田中義一(歩兵少佐、のちの総理大臣)、情報を司る第2課の課長に福島安正(同第2部長、少将)、後方を担当する第3課の課長に井口省吾(同総務部長、少将)が就任した。

また、大山及び児玉の満州軍への派遣により、大本営総参謀長には山県有朋(1838年~1922年)、同次長には新たに長岡外史(1858年~1933年)が就任した。

わが国は「6分4分」の勝負を戦略とする

事前に「勝利は間違いなし」と判断した日清戦争とは異なり、日露戦争では明治天皇は戦争決断に際して落涙されたと伝えられている。当時のロシアは、日本の約10倍の国家予算と軍事力を誇り、国際の見方はロシアの圧倒的な有利であった。

相澤邦衛『「クラウゼヴィッツの戦争論」と日露戦争の勝利』では、次のように述べている。 「日露戦争当時のわが国の指導者は、ロシアと日本との国力差を認識し、完全勝利はできないし、長期戦になれば、日本に勝ち目がないと判断していた。 そこで、ロシア軍の情勢を分析するなかで、開戦時期を「シベリア鉄道が完全に完成せず、欧州ロシアから送られてくる同国の満州派遣軍の主力が到着する以前とする」とした。

そして日本側の条件は、「武器弾薬の自前生産が可能な大阪砲兵工廠などの軍需工場の完成、八幡製鉄所等工業力の充実、袁世凱の協力を得ての豊富な資源を埋蔵する満州からの石炭の調達、など戦闘準備を終えてから日本軍は一挙に大軍を韓半島・満州へ兵力を送るべく、戦場予定地への動員体制をとっていく。

そして満州において日本軍が優勢な内に、宣戦布告と同時に緒戦において一気に満州在住のロシア軍を撃破しておく」という練りに練った作戦構想を立てた。」 つまりわが国は、敵の準備未完の好機を捕捉し、ロシア側を上回る大軍を要事要点に集中して緒戦において勝利する。

これにより、国際世論において日本の地位を高めて、戦争遂行に必要な外債募集を容易にすることを狙ったのである。 児玉源太郎・満州軍総参謀長の腹積もりは短期決戦、すなわち「6分4分」の勝負に持ち込むというものであった。そこで児玉は、開戦と同時に盟友の杉山茂丸や中島久万吉(桂太郎首相秘書官)に終戦工作を依頼した。 奉天会戦の勝利後は、児玉は元老や閣僚たちに対して終戦を説いて回った。

戦略的インテリジェンスの勝利

開戦とともにわが陸軍は連戦連勝して北進し、1905年3月には奉天会戦で大勝利を得た。しかしながら、大局的にみれば、ロシア軍は外国領内を約300キロ後退させたにすぎず、軍そのものも致命的な打撃は受けていない。

1905年5月27日の日本海海戦の完勝により、わが海軍は見事に大挙来攻するバルチック艦隊の進撃を粉砕して、ロシアの戦意を挫折させた。しかし、進んでその首都を占領するまでの力はわが国にはなかった。

つまり、わが国はロシア領土内に一寸も侵攻しておらず、米国による和解仲介によってやっとのことで辛勝したのである。 そのため、戦争の緒戦に勝利して有利な体制で終戦に持ち込む、それが、わが国の国家戦略であった。ここには「戦わずして勝つ」「計量的思考」「速戦即決」を信条とする「孫子兵法」が縦横無尽に応用されたとみるべきであろう。

それにもまして、こうした戦略を可能にならしめたのが的確な情勢判断であった。当時の指導者はロシアを取り巻く国際情勢を知悉し、「世界列強は日露両国のいずれが勝ちすぎても、負けすぎても困る」という事情を的確に判断していた(大橋武夫『統帥綱領』)。

的確な情勢判断を支える唯一無比なものが戦略的インテリジェンスである。わが国は、そのインテリジェンス能力を過分なく発揮し、英国との同盟をよく維持し、米国を和解仲介へと引き摺り込んだのであった。

金子賢太郎の終戦工作

金子堅太郎
1853~1942

政治と軍事の連携という点では、金子堅太郎(かねこ けんたろう、1853年~1942年)の活躍が特筆される。 金子は明治の官僚・政治家である。彼は1871年、岩倉使節団に同行した藩主・黒田長知の随行員となり、のちの三井財閥の総帥となる團琢磨(だんたくま,1858~1932)とともに米国に留学した。彼が18歳の時のことである。

1878年9月、金子は25歳で帰国する。その後まもなくして、内閣総理大臣・伊藤博文の秘書官として、伊東巳代治(いとうみよじ,1857~1934年)、井上毅(いのうえこわし,1844~1895)らとともに大日本帝国憲法の起草に尽力した。

彼は伊藤博文から厚く信頼され、第2次伊藤内閣の農商務次官、第3次伊藤内閣の農商務大臣、第4次伊藤内閣の司法大臣を歴任した。 また教育者でもあり、日本法律学校(現・日本大学)の初代校長を歴任した。

金子は米国に留学して、はじめはボストンの小学校に入学するが、飛び級で中学に進学し、最終的にハーバー大学で法学士の学位を受領した。 ハーバードにおける修学では、のちの外務大臣となる小村壽太郎(1855~1911)と同宿し勉学に励んだ。

またハーバード大学における修学が縁で、日露戦争時の米大統領となるセオドア・ルーズベルト(1858~1919)の知己を得ることができた。 ルーズベルトも同大学の卒業生であり、のちに彼が弁護士となり日本を訪れた時に二人は知り合い、金子が議会制度調査のために再び渡米するなどして、両者は厚く親交を結ぶようになった。

上述のようにわが国の戦略は、「緒戦勝利、早期終戦」であったため、第3国に終戦工作をおこなわせることが課題であった。その命運を枢密院議長の伊藤博文によって託されたのが、ルーズベルト大統領にもっとも親しい日本人であった金子であった。

金子は、伊藤の説得を受けて日露戦争勃発の直後に単独で渡米した。彼は日露戦争終結後のポーツマス講和会議(1905年8月)が終了する1905年10月までずっと米国に滞在して、ルーズベルト大統領に常に接触し、戦争遂行を有利に進めるべく親日世論工作を展開した。 ポーツマス会議においては、償金問題と樺太割譲問題で日露双方の意見が対立して交渉が暗礁に乗り上げたとき、外相でもあった小村壽太郎全権より依頼を受け、ルーズベルト大統領と会見してその援助を求めて講和の成立に貢献した。

金子の米国における大活躍

この時の金子の活躍振りは、前坂俊之著『明治三七年のインテリジェンス外交』(祥伝社新書))に詳述されている。 そのなかからいくつかのエピソードを拾ってみたい。

・日露戦争の開戦を決定した御前会議を終えた伊藤博文は、官邸に帰ると、すぐ電語で腹心の金子堅太郎(前農商務大臣、貴族院議員)を呼んだ。  伊藤は「ついに開戦が決まった。戦争は何年続くかわからない。私も鉄砲かついでロシア兵と戦う覚悟だ。君は直ちにアメリカにとび、親友のルーズベルト大統領に和平調停に乗り出すよう説得してもらいたい」と告げた。

・密命を帯びた金子は(1904年)3月26日、ホワイトハウスに大領を訪ねた。数十人の客が待っていたが、大統領は自ら廊下を走って出てきて「君はなぜもっと早く来なかったか。僕は待っていたのに」と肩を抱きあって大喜びし、執務室へ招き入れた。 開口一番、「今回の戦争で米国民は日本に対して満腔の同情を寄せている。軍事力を比較研究した結果、必ず日本が勝つ」と断言したのには金子の方が驚いた。

・金子はルーズベルト大統領、ハーバード人脈をフルに活用して、全米各地を回って世論工作、外債募集にと獅子奮迅の活躍が見せた。ルーズベルト大統領も「日本の最良の友!」として努力することを金子に約束した。

・全米での日露戦争への関心は高く、金子は政治家、財界人、弁護士、大学人らのパーティーなどに引っ張りだこで、講演依頼が殺到する。英語スピーチの達人の金子は大聴衆を前に日本軍の強さ、武士道精神を説明して感銘をあたえ、日本びいきを増やしていった。

・〝勝った、勝った〝の日露戦争も38年3月10日、奉天での勝利までが限界。弾薬も尽き果てて、兵隊も金もなく、戦争継続はもはや困難な状況となった。一方、ロシアは強大な兵力、武器を温存、これ以上戦えば日本はひとたまりもない。 参謀総長・山県有朋は絶体絶命のピンチを桂首相へ報告し、ル大統領の和平調停の望みを託した。大統領はここぞと腰を上げて仲介、ポーツマス会議となった。仲介役の大統領は「日本の弁護士のようだ」といわれるほど交渉の秘密文書も金子に自由に見せるなど逐一情報をいれて、交渉決裂寸前に「条件に金銭を要求せず、名誉を重んずる」講和条件で、何とか平和にこぎつけた。

金子の思想的背景に武士道精神あり

実際、日露戦争末期、日本の国家財政は軍事費の圧迫により破綻寸前であった。日露戦争には19億円の戦費を費やしたが、これは当時の国家予算の約3倍にも上った。 日本兵の死傷者数も甚大であった。とくに陸軍では士官クラスがほとんど戦死するという壮絶な状況まで追い込まれていた。とても組織的な戦闘継続は不可能に近い状態となっていた。  

金子は終戦工作を成功裏に収めることができたのは、彼が米国留学の経験から米国民の国民性をよく理解していたことや、彼の英語能力と弁術の優秀さがあげられる。 それにもまして、武士道精神を体現した金子の言動が多くの米国人の信頼を得たのである。

ルーズベルト大統領は「日本人の精神がわかる本を教えてほしい」と依頼し、金子は新渡戸稲造の『武士道』の英訳本を贈った。 大統領はこれを読んで感激し、30冊を購入して知人に配布し、5人の子供にも熟読するように指示するなど、一層、日本びいきになった、という。(前述、前坂『明治三七年のインテリジェンス外交』)