わが国の情報史(36)  昭和のインテリジェンス(その12)

  ─日中戦争から太平洋戦争までの情報活動(2)─

今回は、第一次世界大戦後に、総力戦あるいは非武力戦の概念が打ち出されるなか、共産主義に対する防衛、すなわち「防諜」という言葉が登場し、わが国において官民の防諜体制の確立が強く叫ばれたことに焦点をあてることにする。

▼防諜という言葉の淵源と来歴

 1938年8月に「後方勤務要員養成所」として産声をあげた陸軍中野学校では、創立後しばらくたった頃から、従来いわゆる情報活動や情報勤務といわれていた各種業務を総括して、「秘密戦」と呼称するようになった。

 その秘密戦は諜報、宣伝、謀略、防諜と定義された(※ただし、秘密戦の呼称は各地域により、また各軍により、必ずしも統一的に使用されていなかった)

 しかしながら、1925年から28年にかけて作成されたと推定される、情報専門の教範『諜報宣伝勤務指針』では、諜報、謀略、宣伝という用語についての定義付けがなされているが、ここには「防諜」という言葉は登場しない。

 そもそも、「孫子」の例を持ち出すまでもなく、歴史的には情報を収集する活動が開始されたと同時に、それと表裏一体である情報を守る活動は開始された。情報を守る、すなわち情報保全あるいは情報秘匿が戦勝の鍵となったのである。

 『諜報宣伝勤務指針』においても、「対諜報防衛」という用語で、その活動について規定している。

 ここには、諜報勤務者を防衛することや対諜報防衛の要領を知悉することの重要性、対諜報防衛組織の全国的統一運用、相手国(対手国)の諜報組織とその諜報勤務上の企図を諜知することの重要性、相手国の諜報勤務の取り締まりための暗号解読、写真術の応用、特殊「インキ」や封印等の対策、無線電信の窃諜の必要性などが記述されている。

 このほか、要注意人物の発見や行動の把握、国境出入り者の検査の厳正なる実施、公然諜報員の獲得などのことが記述されている。

 しかしながら、上述の繰り返しなるが、『諜報宣伝勤務指針』には「防諜」という言葉はない。では「防諜」という用語はいつ登場したのであろうか?

 これは、1936年7月24日勅令第211号陸軍省官制の改正により、兵務局が新設されたことに端を発する。兵務局は、2.26事件(1936年2月)の影響や、のちの日独防共共協の締結(1936年11月)に象徴される共産主義イデオロギーの浸透に対する警戒などを背景に設けられた。

 そして兵務局兵務課は、歩兵以下の各兵科(航空科を除く)の本務事項を統括、軍紀風紀懲罰の総元締めとして軍事警察、防諜などを担当した。同「陸軍省官制改正」第15條には兵務課の任務が示され、6項で「軍事警察、軍機の保護及防諜に関する事項」が規定された。おそらく、これが防諜の最初の正式の用例だとみられる。

▼防諜とはどのような情報活動か?

 1938年9月9日に陸軍省から関係部隊に通知された資料である「防諜ノ参考」、及び陸軍省兵務局が各省の防諜業務担当者に配布した資料である「防諜第一號」から、当時の防諜に関する認識を整理すれば以下のとおりである。

◇陸軍は、防諜を「外国の我に向ってする諜報、謀略(宣伝を含む)に対し、我が国防力の安全を確保する」ことであると定義し、積極的防諜と消極的防諜に区分した。

◇積極的防諜とは、「外国の諜報、もしくは謀略の企図、組織または、その行為もしくは措置を探知、防止、破摧」することであり、主として憲兵や警察などが行なった。その具体的な活動内容は、不法無線の監視や電話の盗聴、物件の奪取、談話の盗聴、郵便物の秘密開緘(かいかん)などであった。

◇消極的防諜とは、「個人もしくは団体が自己に関する秘密の漏洩を防止する行為もしくは措置」のことであり、軍隊、官衙(かんが、※役所のこと)、学校、軍工場等が自ら行なうものであった。

主要施策としては、(1)防諜観念の養成、(2)秘の事項または物件を暴露しようとする各種行為もしく措置に対する行政的指導または法律による禁止もしくは制限、(3)ラジオ、刊行物、輸出物件および通信の検閲、(4)建物、建築物等に関する秘匿措置、(5)秘密保持のための法令および規程の立案及びその施行などがあった。

(『防衛研究所紀要』第14巻「研究ノート 陸海軍の防諜 ──その組織と教育─」を参考、※インターネット上で公開)

▼防諜体制の強化

 以上のように、2.26の影響や共産主義の浸透防止を目的に兵務局が新設され、日中戦争勃発(1937年7月)以降に防諜の概念が整理されるようになり、陸軍省から関係部署に防諜体制の構築が徹底された。

 つまり、従前の「対諜報防衛」は、相手側の諜報を防衛し、軍機の漏洩を回避するといった狭義の軍事的意味で用いられた。しかし、総力戦のなかで広範囲に諜報、宣伝、謀略が展開されるようになったため、国民を広く啓蒙し、官民一体となった相手国および中立国の秘密戦に対処する必要性が生じた。そのことが「防諜」という言葉に結集したといえるのではないだろうか。

 1937年8月に軍機保護法が全面改訂され、10月に新しい軍機保護法が施行された。1938年には、国防科学研究会著『スパイを防止せよ!! : 防諜の心得』(亜細亜出版社、インターネット公開)といった著書が出版され、国民に対して防諜意識の啓蒙が図られた。

 同著では、1防諜とはどんなことか、2防諜は国民全体の手で、3軍機の保護と防諜とは、4国民は防諜上どうしたらよいか、5スパイの魔手は如何に働くか、6外国の人は皆スパイか、7国民よ防諜上の覚悟は良いか、の見出しで、防諜の概念や国民がスパイから秘密を守るための留意事項が述べられている。

 同著は、「近頃新聞紙やパンフレット等に防諜という言葉が縷縷見受けられるようになってきたが・・・、又一般流行語の様に一時的に人気のある言葉で過ぎ去るべきものであるか、・・・」と記述しており、防諜が一般用語として急速に普及したようである。

 その後、防諜に関する著作、記事、パンフレットが定期的に頒布された。主なものには、『週報』240号「特集 秘密戦と防諜」(1941年5月14日)、『機械化』21号「君等は銃後の防諜戦士」(1942年8月)、引間功『戦時防諜と秘密戦の全貌』 (1943(康徳9)年、大同印書館出版)が挙げられる。

 その後、防諜は終戦までずっと、その重要性が認識され、国民への啓蒙活動が行なわれた。

▼防諜という用語が登場・普及した背景

 防諜という言葉が登場・普及した背景には、第一次世界大戦において非武力戦あるいは総力戦の概念が登場したこと、共産主義国家ソ連が誕生して国際コミンテルンが各国に共産主義イデオロギーを輸出したこと、満洲事変(1931年9月)以後のわが国の大陸進出に対する欧米、ソ連、蒋介石政権の対日牽制が本格化したことなど挙げられる。

 第一次世界大戦において、わが国はドイツが敗北した大きな要因が総力戦対応の失敗だと認識したようであり、これは当時の軍事雑誌では以下のように記述されている。

 「・・・これは前大戦の例を見てもわかります。前大戦の時、ドイツは武力戦では連合軍をよく撃破したのでしたが、非武力戦で銃後を攪乱され、折角の前線の勝利も銃後から崩壊してあの無惨な敗北を喫したのであります。

 戦争とスパイは付き物ですが、前欧州大戦の時にも、両軍のスパイはお互いに盛んに活躍したのです。スパイの活躍がどんなに戦争に響くかということは、今更申し上げるまでもなく皆さんのよくご存知の通りです。

 例えば軍の作戦が漏れた為に敵に乗ぜられるとか兵団の移動が探知された結果、意外な逆襲にあって大損害を蒙るとか、その影響は頗(すこぶ)る大きく、一スパイの活躍よく大兵団を葬ると云うが如き例はいくらもあるのであります。

 前大戦に於いて両軍の軍事スパイは幾多の目覚ましい手柄をたてています。然し結果的に考えてみますと、ドイツ軍のスパイは軍事的にのみ片寄り過ぎて、その他に方面には及ばなかったようです。同時に防諜という点でも、軍関係の秘密は守られましたが、他の方面の秘密は敵側に漏れていたようです。

 近代の戦争が武力戦のみでなく、非武力戦も戦争であると前に述べましたが、戦争に勝つことは、武力戦に勝つと同時に非武力戦にも勝たねばならないのであります。

 前大戦に於ける連合国側の様子を見ると、武力だけではドイツを降参させることは難しいと考え、非武力戦線にも力を入れようと計画したのです。その結果ドイツの経済、社会思想、政治等をよく調べ、銃後攪乱をやったり、謀略、宣伝に力を入れ、とうとう武力戦では勝利を得ているドイツを降参させてしまったのであります。謀略宣伝がどんなに威力のあるものか、非武力戦の勝利が如何に功を奏するかがこの例ではっきり解ります。・・・・・・・」

(「機械化」21号(昭和17年8月)「君等は銃後の防諜戦士」)

 また、当時の国際共産主義の輸出、拡大の情況を整理すると次のとおりである。

 ロシア革命(1917年)後の1919年にレーニンによってつくられたコミンテルンは共産主義の思想を各国に輸出した。日本もその例外ではなく、1922年に日本共産党がコミンテルン日本支部として設立した。これを取り締まるために1925年に治安維持法が制定された。

 1931年6月、コミンテルンの国際組織であるプロファインテル極東支部のイレール・ヌーランが上海で逮捕された。この事件によって、上海を中心にアジア各地にコミンテルンのネットワークが張り巡らされていたことが暴かれ、わが国も事の重大性を認識した。

 1930年代のファシズムの台頭に対しては、欧州各国で1934年から人民戦線の動きが強まった。これを受けてコミンテルンは、1935年のコミンテルン第7回大会で「反ファッショ統一戦線(人民戦線)」路線を採択した。

 中国では、これを受けて共産党が1935年、「8.18宣言」をだし、抗日民族統一戦線を国民党に呼びかけた。この延長線に締結されたのが日独防共協定であり、また日中戦争ということになる。

 日本国内においては、満洲事変以後にわが国が国連脱退したことなどにより、日本への外国人渡来者数や軍事関連施設の視察者が増加した。この中には、正体不明の多くのスパイが混入していた。

 このため、わが国は特別高等警察(特高)と憲兵隊を強化したほか、陸軍省は軍内の機密保護観念の希薄さを改めて問題視した。そして各省庁が連携して国家の防諜態勢を確立すること目指したのである。

 すなわち、官民が一体となった防諜体制の確立が目指されたのである。

▼二大スパイ事件が防諜の重要性を高める

 また、わが国におけるスパイ事件が防諜の重要性を高めた。その代表事例がコックス事件とゾルゲ事件である。

 1940年7月27日に、日本各地において在留英国人11人が憲兵隊に軍機保護法違反容疑で一斉に検挙された。これがコックス事件である。同月29日にそのうちの1人でロイター通信東京支局長のM.J.コックスが東京憲兵隊の取り調べ中に憲兵司令部の建物から飛び降り自殺する。

 当時、この事件は「東京憲兵隊が英国の諜報網を弾圧した」として新聞で大きく取り上げられ、国民の防諜思想を喚起し、陸軍が推進していた反英・防諜思想の普及に助力する結果となった。

一方のゾルゲ事件は、ソ連スパイのリヒャルト・ゾルゲが組織するスパイ網の構成員が 1941年9月から1942年4月にかけて逮捕された事件である。

 この事件についてはあまりにも有名なので、ここで詳細は述べないが、ゾルゲが近衛内閣のブレーンとして日中戦争を推進した元朝日新聞記者の尾崎秀実などを協力者として運用し、わが国が南進するなどの重要な情報を入手し、ソ連に報告していた。

(次回に続く)

わが国の情報史(35) 昭和のインテリジェンス(その12)      -日中戦争から太平洋戦争までの情報活動①-     

▼はじめに

さて、前回は、軍閥間の対立などによって2.26事件が起こったことを述べました。今回から日中戦争と第二次世界大戦に移ることにする。すでに第二次世界大戦については、〝情報の渦〟というくらい多くのことが語られている。だから、ひとつひとつの戦闘の局面を取り上げて述べるのではなく、当時の防諜体制、陸軍中野学校、秘密戦など、歴史の教科書や、通常の戦史書では触れられていないことを中心にざっと述べることにしよう。

▼2.26事件により統制派が台頭  

2.26事件が発生し、岡田啓介内閣は総辞職した。陸軍の皇道派に属する重鎮は軒並み予備役に編入された。これら皇軍派の左遷人事を行ったのが、軍務局軍事課の武藤章中佐(後述)と参謀本部作戦課長の石原莞爾大佐であった。    

彼らは、相沢中佐に刺殺された永田鉄山が率いてきた「一夕会」のメンバーであり、統制派である。つまり、2.26事件により、統制派が皇道派を完全に一掃した。

ポスト岡田内閣について、最後の元老であった西園寺公望は当初、近衛文麿に組閣を命じたが、近衛は病気を名目に辞退した。そのため、斎藤内閣から岡田内閣まで外務大臣であった広田弘毅(ひろたこうき)にお鉢が回った。広田も就任を拒み続けたが、やっとのことで承諾した。

かくして、1936年3月9日、初の福岡県出身の総理広田による内閣が成立した。陸軍大臣には寺内寿一(てらうちひさいち、シベリア出兵時の寺内正毅総理の長男)が就任したが、これも武藤と石原の背後での根回しが功を奏した。

寺内は入閣を打診された際、1913年に山本権兵衛内閣で廃止された「軍部大臣現役武官制」を復活させるよう迫り、外相に予定されていた吉田茂を外させるなど、入閣と引き換えに組閣に対して容喙した。

「軍部大臣現役武官制」とは、陸軍大臣、海軍大臣は現役軍人でなければならないというものである。つまり、軍部のお墨付きがなければ組閣ができないことを意味し、政治に対する軍部の影響力が増大することになった。 このことが、やがて統制派のトップに君臨した東條英機による陸軍大臣、さらに内閣総理大臣への就任、そして太平洋戦争へと連接する道に向かわせることになった一要因とみられている。

▼3国防共協定の締結

当時、世界的にはドイツのナチズムとイタリアのファシズムが台頭していた。我が国においては「利権拡大のためドイツと軍事同盟を結ぶべし」との強硬論と、「戦争に向かいつつある欧州とは関わり合いを持たないほうが良い」とする慎重論に分かれた。広田は慎重論であった。

他方でソ連を中心とする国際共産主義運動も活発化していたことに対して多大な懸念があった。そのため、広田内閣は1936年11月にドイツとの日独防共共協の締結に踏み込んだ。ただし、欧州の情勢に巻き込まれる軍事条約の締結には反対し続けた。

翌1937年11月、イタリアがこれに参加し、日独防共協定は日独伊三国防共協定となった。かくして、わが国はドイツ、イタリアと反ソ連の立場で結束し、枢軸陣営を結成し、連合国との対立を鮮明にしていくのであった。

▼政権交代を繰り返し、混迷する日本政治

軍部と政党の対立のなかで、広田首相は指導力を発揮できず、組閣から1年もたたずに1937年1月23日に総辞職する。広田内閣の後には、宇垣一成を推す声が強かったが、宇垣が行った軍縮に恨みを持つ軍部の反対で、これは実現しなかった。

結局、2月2日に予備役大将の林銑十郎(はやしせんじゅうろう)による内閣が成立した。 林内閣も、政党からそっぽを向かれて、同年6月4日に総辞職した。林内閣は短命で特に何もしなかったことから、林の名をもじって「何にもせんじゅうろう内閣」と皮肉られた。
こうした短命内閣の背後には、「軍部大臣現役武官制」を通じた軍部からの圧力の存在があったとみられている。

林内閣の後には第一次近衛文麿内閣が誕生した。 新鋭47歳の近衛公は、身長180cm以上で容姿端麗、国民人気は高く軍部および政財界からも大歓迎を受けた。また、近衛はパリ講和会議の前年「英米本意の和平思想を排す」という論文を発表し、1932年(昭和8)1月、年頭談話では、満州国の正当性を否定するリットンへの反対意見を発表するなど、軍部の革新思想と一脈通じるものがあった。

しかし、近衛は思いつきとみられるよう浅薄な発言を繰り返し、国政を混乱させ、軍部からはすぐに見限られる。また、近衛は尾崎秀実(おざきほつみ)やリヒャルト・ゾルゲとの個人的関係が取り沙汰される、彼自身が共産主義者と見られたり、要を得ない人物であった。

▼盧溝橋事件から支那事変が勃発

第一次近衛文麿内閣成立直後の1937年7月7日、北京郊外の盧溝橋付近で日中両国の衝突事件が起きた。いったんは現地で停戦協定が成立して、近衛内閣は不拡大方針を表明したが、軍部の圧力等により、兵力を増派して戦線を拡大することになる。  

参謀本部・作戦(第1)部長の石原莞爾少将は「陸軍総動員兵力30ケ師団中、日本が中国作戦に使用し得る兵力は対ソ戦備上15ケ師団(全兵力の1/2)でなければならないが、その兵力では到底広大な中国大陸を制し得られない」 と主張し、事変の不拡大を支持した。

石原は、現地の第一線のわが軍を北支一帯より撤収すべきだと考え、近衛総理が自ら南京に赴き、蒋介石と直接会談して時局の収拾にあたるべしと強調した。

しかし、軍中央部においては作戦部、第2部(情報)ならびに軍務局(陸軍省)内において事件拡大積極論を叫ぶ者があった。結局、石原はこうした軍部の圧力に屈する形で、7月10日、3個師団の動員派遣に同意するに至った。これが強硬論に拍車をかけた。

▼強硬論の中心人物、武藤章

石原は1931年の満州事変で、中央政府の不拡大方針を遵守せずに拡大を図った。だから、石原は部下の軍務課長の武藤章大佐以下の中堅幹部の積極論を押さえられなかった。

強硬論の中心人物である武藤章はのちに中将職でただ一人、A級戦犯で処刑された。武藤は1935年以降に関東軍によって推進された、華北(チャハル、綏遠、河北、山西、山東)を国民政府の統治から切り離して支配しようとする「華北分離工作」の起草者である。

石原が中央の統制に服するよう、武藤の説得に来た際に、「石原閣下が満州事変当時にされた行動を見習っている」と得意の毒舌で反論して同席の若手参謀らも哄笑、石原は絶句したという。

武藤は2.26事件の善後処置において、石原と共に最も厳重な厳粛法案を立案して、これを実行に移した。この時以来、武藤は統制派の重鎮として影響力を持った。

盧溝橋事件が起きると、蒋介石政府を侮る武藤(この時参謀本部の編制課長)として「中国一激論」を唱え、田中新一・東條英機ら統制派の勢力を後ろ盾に石原ら不拡大派を追放(喧嘩両成敗で武藤も参謀本部を去るが、のちに軍務局長として復活)、近衛文麿内閣による日中戦争拡大と日独伊三国同盟に主導的役割を果した。

盧溝橋事件の現地部隊は事態不拡大の意向であったが、日本政府が軍の一部の圧力に影響され、事態が拡大し、日中全面構想から太平洋戦争に至った。 この点に関して言えば、満州事変が出先の関東軍の主導によって、中央政府の不拡大方針を遮って拡大路線を向かったことと線対称であった。

わが国の積極攻勢に対して、国民政府の側も断固たる抗戦の姿勢をとったので、戦闘は当初の日本側の予想をはるかに超えて全面闘争に発展した。すなわち、泥沼の日中戦争へと発展した。

1937年9月には国民政府と共産党が再び提携し(第二次国共合作)、抗日民族統一戦線を樹立した。日本はつぎつぎと大軍を投入し、年末には国民政府の首都南京を占領した。国民政府は南京から漢口、さらに奥地の重慶に退いて抗戦を続けたので、日中戦争は泥沼の長期戦となった。

▼第二次世界大戦が勃発

欧州では、ナチス・ドイツが積極的にヴェルサイユ体制の打破に乗り出し、以下のとおり着々と支配権を拡大した。

・1938年3月、オーストリアおよびチェコスロバキアを併合

・1939年4月、ポーランドとの不可侵条約(1934)を破棄

・1939年9月1日、ポーランドに侵攻

これに対し、イギリス、フランスが1939年9月3日、ドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦が始まった。 ドイツ軍の侵攻に触発され、ソ連もポーランドに侵攻した。両国は独ソ不可侵条約(1939年8月)にもとづき、ポーランドを分割した。 ソ連は1939年11月にフィンランドに侵攻、1940年にはフィンランドから領土を割譲、ついでバルト三国を併合した。

▼世界を驚愕させた独ソ不可侵条約

ソ連に対し、ドイツはのちの1941年6月22日に攻撃を仕掛けることになるが、大戦直後のドイツの攻勢は、良好な対ソ関係に支えられた。ドイツはソ連に接近することで東部戦線を安定させ、西部戦線に戦力を集中したのである。

両国の良好関係を示す最たるものが、1939年8月の独ソ不可侵条約である。イデオロギーを対立させ、個人的に〝犬猿の仲〟といわれたヒトラーとスターリンが手を結んだのであるから、世界中に衝撃が走った。  

ヒトラーは1933年の政権奪取以降、イギリスとの対立を回避する外交政策を展開していた。しかし、駐英大使時代に反英感情を強めていたリッベントロップ外相は、はやくも独・伊・日・ソによってイギリスに対抗する構想を固め始めていた。1938年1月、彼はヒトラーによる反英構想の覚書を提出した。こうした反英構想が、次第にドイツを対ソ懐柔政策へと向かわせたのであった。  

1939年4月、ヒトラーはポーランドとの不可侵協定とイギリスとの海軍協定を破棄し、イギリスに対決する意志を明確にした。他方、イギリスはソ連に対して「平和戦線」への参加を求めた。ソ連は参加の条件として、英・仏・ソの三カ国による軍事同盟の締結を求めた。しかし、英仏側はそれに応じなかった。  

ソ連側の提案に、チェンバレン英首相が否定的な態度を示したことで、スターリンは、ソ連だけがドイツとの戦争に巻き込まれ、英仏がそれを傍観するという最悪の図式を懸念した。  

そこで、ソ連はドイツとの接触を開始した。ドイツのリッベントロップ外相がソ連のモロトフ外相がその交渉にあたった。モロトフがドイツとの接近に消極的であると見るや、ドイツは大胆な手を打った。

1939年8月14日、「ポーランドを含めた東欧をソ連と分割する用意がある」ことをヒトラーが表明した。同時に、リッベントロップ自らがモスクワに飛んで交渉することを申し入れたのである。  

ソ連側は、こうしたドイツ側の対応を〝誠意〟と感じ取った。8月15日、モロトフは独ソ間の不可侵条約について提案を行なった。 ヒトラーにとってこの提案は望むところであった。なぜならば、ソ連を戦争圏外に置いて安心してポーランドを攻撃できるのみならず、英仏の行動を相当委縮できるからである。かくして、8月23日、世界が驚愕する独ソ不可侵条約の成立と相成ったのである。  

▼早くも情報戦に敗北する日本  

上述のとおり、広田内閣は、ソ連の共産主義拡大を警戒し、日独防共協定、次いでを締結し、日・独・伊三国防共協定を締結した。 一方、1937年7月以降の日中戦争の勃発によって、極東のソ連が最大の軍事的脅威となった。

そして1938年7月、満洲国に駐屯して対ソ国境を警戒する日本陸軍はソ・満国境不明地帯においてソ連軍と衝突(張鼓峰事件)した。さらに、日ソの緊張度は高まり、1939年5月には、満洲国西部とモンゴル人民共和国の国境地帯で、ノモンハン事件が生起した。なおこの戦いではソ連の大戦車軍団の前に日本陸軍は大打撃を受けたのである(ただし、少ない戦力で対戦車戦闘ではソ連よりも優位な戦いをしたとの説もある)。  

こうしたなか、ドイツはソ連に加え、英仏を仮想敵国とする軍事同盟を締結することを日本に提案してきた。わが国は「同盟を結ぶべきか否か」について、何回となく会議を開くものの結論が出せなかった。そうこうしているうち、1939年8月、突如、独ソ不可侵条約が締結されたのである。   この条約の締結は、わが国がノモンハン事件を戦っている最中の出来事であり、ソ連を仮想敵国として進めてきたわが国とドイツとの同盟関係が根底から揺さぶられるものだった。 これを契機に、平沼内閣は「欧州の天地は複雑怪奇なり」との有名な言葉を残し、国際情勢の急変に対応し得ないとして総辞職した。  

日本は、独ソの接近がまったく読めなかった。これに対して、ソ連情報機関(クリピッキー機関)の諜報活動により、日・独防共協定をめぐるベルリンと東京の極秘電報をスターリンに筒抜けになっていた。(三宅正樹『スターリンの対日情報工作』) つまり、当時の日本の情報関心は、直接対峙する中国、あるいは北方の極東ソ連だけに限られてはならなかった。すなわち世界の情勢推移を多面的に見る目が必要であった。

日本は、中国戦線における優勢に浮かれ、狭窄症にかられて、国際情勢をみる目も持たなければ、暗号解読をめぐるソ連との情報戦にも完敗したということになる。すでに、太平洋戦争における情報戦の敗北は始まっていたのである。

わが国の情報史(33)  昭和のインテリジェンス(その9)   ─満洲事変から日中戦争までの情報活動(2)─

▼はじめに

さて、前回は満洲事変以後の陸軍の情報体制について述べまし

たが、今回は海軍の情報体制について述べることとします。

▼海軍の想定敵国の第一位は米国  

日露戦争以後、わが国陸軍はロシアを、一方の海軍は米国を想 定敵国とした。そして、両者の対抗意識が軍備の拡充競争を引き起こすことになる。これを憂慮した元帥山県有朋は、1906年 にわが国の「国防方針」の必要性を上奏し、同年末に初の帝国国 防方針が確立した。  

この国防方針の確定に際して、山県は想定敵国の第1位ロシア、 第2位清国、第3位にロシアと清国の2国を挙げた。しかし、海軍との討議の末に、第1位ロシア、第2位米国、第3位フランス が想定敵国となった。このような経緯からしても、陸軍と海軍に は国際情勢の脅威認識における相違があったのである。  

日本海軍が米国を強く意識した背景には、1980年代末から 1990年代の諸島にかけての、ハワイ併合、フィリンピン占領 といった太平洋への進出に加えて、米国の「オレンジプラン」の存在があった。

日露開戦直後から、米国は陸海軍の統合会議を開 催して、世界戦略の研究に着手した。つまり、ドイツを仮想敵国 にしたのが「ブラックプラン」、イギリスに対しては「レッドプ ラン」、日本に対してはオレンジプランといったように色分けした戦争予定準備計画を策定したのである。  

オレンジプランでは、日本はフィリピンとグアムに侵略するこ とが想定された。つまり、米国が占領した太平洋の拠点を防衛す る上で、日本は想定敵国に位置付けられたていたのである。  

そして日露戦争における日本勝利によって、オレンジプランはより具体化されていくことになる。日露戦争が終った翌年の19 06年には、セオドア・ルーズベルト大統領は、軍部に対し米海 軍をすみやかに東洋に派遣する計画を命じた。その具体化事例の 一つが、1907年から1908年にかけての「白船事件」であ る(わが国の情報史24)。

こうした米国の動向に対し、海軍は「国防方針」にもとづき米国を想定敵国とし、1907年4月「用兵綱領」を策定し、来攻 する米艦隊を我が近海に向けてこれを撃滅する方針を確立した。  

その後、国防方針は1915年(第1次改定)、1923年 (第2次改定)の二度の改定を経て1936年に第3次改定を行 なうことになる。 第1次改定は、1915年にわが国が袁世凱政権に対して行な った「対華二十一カ条要求」に対して中国の対日感情が悪化したことを背景とする。この改定では、仮想敵国は第1位ロシア、第 2位米国、第3位清国となった。  

第2次改定は、帝政ロシアの崩壊(1917年)、ワシントン 海軍軍縮条約の締結(1922年)を背景とする。この改定では、 「帝国は特に米国、露国および支那の三国に対して警戒する必要がある。なかんずく近い将来における帝国国防は、わが国と衝突 の可能性が最大であり、かつ強大な国力と兵備を有する米国を目 標として、主としてこれに備える」とされた。つまり、ロシアの 崩壊により、わが国として米国が仮想敵国の第一位となったので ある。  

第3次改定は、ロンドン軍縮会議(1930年)、満洲事変 (1931年)、国連脱退(1933年)を背景として行なわれ たが、米国、ソ連(露国)、支那、英国を仮想敵国とする用兵綱 領が規定された。

▼第一次大戦後の米国の対日情勢認識  

第一次世界大戦の結果、「ブラック」のドイツは破れ、「レッ ド」の英国は疲弊した。そして、米国にとっては「オレンジ」の 日本の脅威のみが増大することになる。  

第一次世界大戦の結果、わが国は、マーシャル、マリアナおよ びカロリンといった旧ドイツ領南洋諸島を委任統治領とした。1 919年のベルサイユ会議において米国は、自らのフィリピンの防衛を損なうとして、日本の委任統治に強く反対したが、画策むなしく、日本による委任統治が認められた。  

これにより、日本は赤道以北の西太平洋を支配した。一方の米 国はハワイとアリューシャンの北東太平洋を支配し、日本の支配 した領域の西方にグアムとフィリピンを孤立した前哨拠点として 保持することになった。  

こうした情勢下、米国はますます対日脅威認識を強め、オレン ジプランの具体化を進めることになる。 1931年の満洲事変に対して米国は強く日本を批判した。1 932年1月、スチムソン国務長官は「不戦条約(ケロッグ・ブ リリアン条約)の条項と義務に反する手段によってもたらされた 事態や条約や協定を承認するつもりはない」とする方針を日中両 国に通知した。それはのちに「スティムソン・ドクトリン」と呼ばれることになる。  

ただし、米国は当面は世界恐慌への対処を重視したことから対 日経済制裁などの実力行使は行われなかった。またイギリスも事 態が満洲に限られている間は黙認するという態度をとった。これ が、わが国の満洲国の建設と地歩拡大につながった。  

そしてスティムソン・ドクトリンは、以後の米国の対日政策の 基調となり、やがてルーズベルト大統領の同ドクトリンへの支持 を表明、次いで石油と屑鉄の対日禁輸(ABCD包囲網)となり、 太平洋戦争へと向かうことになる。

▼海軍軍令部の改編  

海軍における情報を担当する機構の創設は1884年(明治1 7年)2月に遡る。当時、海軍省軍務局が廃止され、海軍省軍事 部を置いた際に、それまでに軍務局が管掌していた事務のほか、 艦隊編成(第1課)と出師準備(第2課)、海防(第3課)、諜報(第5課)を司ることになった。つまり、第5課が情報を担当 した。  

1886年には軍事部が廃止され、参謀本部海軍部が新設された。この改編にともない、海軍部第3局が諜報(情報)を担当す ることとなり、その内部構成は第1課が欧米諜報、第2課が隣邦諜報および水路地理政誌となった。このように海軍は早くから米 国に対する情報を重視した。  

その後、情報を司る海軍の機構は数回の改編を経て、満洲事変開始前には海軍軍令部第3班が情報を担当していた。第3班は第 3班長(少将)以下、第5課と第6課で編成され、第5課が欧米 列国を、第6課がソ連および支那ならびに戦史研究を担当した。  

満洲事変と上海事変を経た1932年10月、海軍軍令部の機構改編にともない、第3班は、班長直属を創設するとともに4課編成(第5、第6、第7、第8)となった。  

これにより、第3班長直属が情報計画および情報の総合などを担当し、地域別の軍事並び国情概況調査については、第5課が南北アメリカ、第6課が支那および満洲国、第7課が欧州列国を担 任することになった。なお、第8課は戦史の研究並びに編纂を担 当した。  

つまり、満洲事変以後に日米間の緊張化が高まったことで、アメリカ合衆国を含む米州を単独の課が担当することとなったのである。一方、ソ連は第7課の担当になった。  

満洲事変以後の対ソ連脅威の高まりに対しては、陸軍の情報体制の強化が図られた。1936年6月に参謀本部第2部第4課第 2班が昇格して第2部第5課となり、いわゆるソ連課が新設され た。つまり、陸軍においては、単独の課がソ連を担当することになった。

一方の米州は参謀本部第6課の、いわゆる欧米課が欧州 列国を見る一部として米国を見ていた。また、第2部長はもとよ り、欧米課長も“ソ連派”で占められ、陸軍における対米軽視の風潮があった。  このように満洲事変以後、陸軍はソ連重視、海軍は米国重視の傾向がさらに顕著になったのである。  

なお、1933年10月に海軍軍令部条令の廃止によって、従 来の班が部に改められ、第8課が廃止されたので、軍令部第3班 は軍令部第3部となり、その下に第5課、第6課、第7課がぶら 下がる体制になった。

▼米西岸における駐在員の配置  

満洲事変以後、太平洋における米艦隊の動向が、日本海軍の重 大関心事項となった。このため1932年7月、米東岸で語学の 修得や米国事情の研究に専念していた、中沢佑少佐と鳥居卓哉少佐を米太平洋艦隊の根拠地である米西岸に駐在させ、米艦隊の動 向監視、訓練状況、艦隊乗組員の対日感情の把握などを行なわせ ることとした。  

ところが、鳥居少佐は不慮の自動車事故で死亡したため、中沢少佐のみがサンフランシスコ郊外のサンマテに拠点を構えて艦隊動向の情報収集にあたった。しかし、わずか一人の駐在員が広大 な米西岸を管掌するのには無理があったため、1933年12月 から宮崎俊男少佐がロサンゼルスに着任して、中沢少佐と協力し て米艦隊の情報にあたることになった。  

その後、中沢少佐の帰国(サンマテ駐在の廃止)、シアトルへ の駐在員の新規派遣、シアトル駐在員の廃止、ロサンゼルス駐在 員の交代などを経つつ、ほそぼそと、艦隊の情報収集は継続され た。しかしながら、駐在員1名での情報収集には限界があり、め ざましい成果は確認されていない。

▼通信諜報の本格運用  

わが国の通信諜報の開始は日露戦争時期に遡る。そして海軍の通信諜報組織は、1929年初めに海軍軍令部第2班に第4課別室を新設し、きわめて少人数の暗号解読班が編成されたことが、 その濫觴(らんしょう)である。  

当時の傍受は、初め海軍技術研究所の平塚で、ついで東京通信隊橘村受信所を利用した。第4課別室の職員は、中佐×1、少佐 ×1、大尉×2、タイピスト×3であり、作業の主目標は米国と 英国の軍事通信であった。  

1932年の上海事変(第一次上海事変)において、通信諜報 の有効性が認識されことから、その組織強化が図られた。上海事 変が勃発するや、海軍は上海特別陸戦隊に対中国作業班(C作業 班)をおき、中国軍の暗号解読にあたらせた。これが上海機関 (X機関)の発端である。  

作業班は、南京政府が、わが空母を攻撃する意図のもとに、その飛行機群を杭州飛行場に集中待機させたことを探知し、我が航 空部隊をもって同飛行場を先制攻撃した。  

1933年1月、ハワイ近海で実施する大演習の通信諜報かを 実施するため、「襟裳」(タンカー)をハワイ近郊に派遣し、数 名の軍令部部員を乗艦させ、米海軍大演習に関する情報収集を実 施した。その結果、米海軍演習の構成部隊の編制や演習の経過などが判明した。  

1933年10月、海軍軍令部条令の改正によって、従来の第 2班第4課別室は第4部第10課となった。上海機関を特務機関 として同地の海軍武官の下に付属させることに改められ、A作業 班(対米)を増強した。  

1936年になると、傍受専門の受信所を新設することになり、 埼玉県大和田に大規模な受信所が開設された。当初に配置された 電信員は、予備役下士官を嘱託として採用した者がわずか9名であった。  以上、満洲事変以後の海軍の情報体制をざっと見てきたが、米 国との衝突を想定し、少しずつ対米情報体制を強化したものの、 全般的には不十分であった。

わが国の情報史(32)  昭和のインテリジェンス(その8)   ─満洲事変から日中戦争までの情報活動(1)─

▼はじめに

 前回まで、張作霖事件を題材に、主として情報の評価について述べたが、今回から、主として満洲事変がわが国の情報体制に及ぼした影響について述べることとする。

▼満洲事変から日中戦争まで

満洲事変から日中戦争までの経緯を山川出版の『詳説日本史B』より抜粋する。なお、( )内は筆者による注記である。

 関東軍は参謀の石原莞爾(いしわらかんじ)を中心として、1931年9月18日、奉天(瀋陽)郊外の柳条湖で南満洲鉄道の線路を爆破し(柳条湖事件)、これを中国軍のしわざとして軍事行動を開始して満洲事変が始まった。(中略)

 1932年9月、斎藤内閣(斎藤実、まこと)は日満議定書を取り交わして満洲国を承認した。日本政府は既成事実の積み重ねで国際連盟に対抗しようとしたが、連盟側は1933年2月の臨時総会で、リットン調査団の報告にもとづき、満洲国は日本の傀儡国家であると認定し、日本が満洲国の承認を撤回することを求める勧告案を採択した。松岡洋介ら日本全権団は、勧告案を可決した総会の場から退場し、3月に日本政府は正式に国際連盟からの脱退を通告した。(中略)

 1935年以降、中国では関東軍によって華北(チャハル・綏遠・河北・山西・山東)を国民政府の統治から切り離して支配しようとする華北分離工作が公然と進められた。(中略)

 関東軍は華北に傀儡政権(冀東防共自治委員会)を樹立して分離工作を強め、翌1936年には日本政府も華北分離を国策として決定した。これに対し、中国国民のあいだでは抗日救国運動が高まり、同年12月の西安事件をきっかけに、国民政府は共産党攻撃を中止し、内戦を終結させ、日本への本格的な抗戦を決意した。

 第一次近衛文麿内閣設立直後の1937年7月7日、北京郊外の盧溝橋付近で日中両国軍の衝突事件が発生した。いったん現地で停戦協定が成立したが、近衛内閣は軍部の圧力に屈して当初の不拡大方針を変更し、兵力を増派して戦線を拡大した。これに対し、国民政府の側も断固たる抗戦の姿勢をとったので、戦闘は当初の日本側の予想をはるかに超えて全面戦争に発展した。(引用終わり)

▼対ソ作戦計画をめぐる対立

 わが国は伝統的にソ連に対する脅威を第一においた。しかし、日露戦争後にロシアが崩壊したことで、幣原喜重郎外相時代に一時的に対ロシアの脅威が薄れた。

 しかし、1928年10月に開始された第一次5か年計画と、1929年4月から始まったソ支紛争、とくに同年11月のソ連による満洲里の占領にかみがみ、日本はソ連情報の重要性を再認識した。

 満洲事変の勃発によって、一挙にソ連情報の重要性が高まった。この事変で、日ソ両国は満洲をめぐって直接対峙することになったが、ソ連から日本に対して、1932年10月に不可侵条約の締結申し入れがあった。

 しかし、日本政府は時期尚早としてソ連の提案を受け入れなかった。この理由には共産勢力の国内浸透を恐れたからであったが、なにより陸軍の反対が強かったことが大きな原因であった。満洲を占領した陸軍の鼻息の荒さが窺える。

 不可侵条約締結に失敗したソ連は、極東ソ連軍の軍備を急速に増大した。関東軍の満洲全般における兵力配置に対し攻防いずれにも対応できるよう、1933年頃から狙撃師団や騎兵部隊を増強し、国境地帯におけるトーチカ陣地を構築した。1934年頃から戦車・飛行機の増加などの措置をとった。また、極東海軍の再建も図った。

 当時のソ連軍対関東軍の戦力比は3~4:1であったとされる。しかし、参謀本部第1部の作戦課長であった小畑敏四郎大佐は、極東ソ連軍の戦力を低く評価し、日本軍の伝統的精神要素、統帥能力の優越、訓練等の成果等を強調した。その後任の鈴木従道大佐も同意見であった。彼らは、米英や国民政府との提携により、ソ連に対する攻撃を主張した。

 これに対し、参謀本部第2部長の永田鉄山は、ソ連に対する軍事的劣勢を認識して、当面の間、ソ連との関係緩和を模索し、この間に軍近代化を図るべし、と主張した。彼らは、ソ連を西方に牽制するためのドイツ等の提携を模索し、英米や国民党軍との提携には乗り気ではなかった。

 国家戦略をめぐって第1部と第2部が対立したが、作戦至上主義のもとで第1部の案が採用され、1933年(昭和8年)に作戦計画が大きく修正され、「まず満洲東方方面で攻勢作戦をとってソ連極東軍主力を撃破し次いで軍を西方に反転して侵攻を予想するソ連軍を撃滅せんとする」ものであった。

 この作戦計画は、日本軍の戦力がソ連軍よりも優位においてこそ成り立つものであって、当初から成立しないものであった。また、第1部と第2部の対立が永田、小畑両少将を中心とする対立抗争へと発展し、後々、世間で言われる皇道派、統制派の派閥抗争へと繋がり、永田少将の暗殺事件、1936年に2.26事件を引き起こした。

▼陸軍の情報体制

満洲事変以後、陸軍の情報体制はソ連情報に対する強化が図られた。主要な変化は以下のとおりである。

1)参謀本部の組織改正

1934年初頭の参謀本部第2課の編制は以下のとおりであった。 

 第4課(欧米)

   第1班(南北アメリカおよび米国の植民地)

   第2班(ソ連、東欧、トルコ、イラン、アフガン、ルーマニア、ブルガリア、フィンランド、バルト3国、満洲)

   第3班(欧州各国および英仏伊の植民地、タイ、英の自治領)

  第5課

    第5班(暗号解読及び作)

    第6班(支那ただし満洲のぞく)

    第7班(兵用地誌、経済、資源の調査、陸地測量関係業務)

    第4班(総合)

 1936年6月に行なわれた改正では、第4課第2班が昇格し、第5課となった。いわゆるロシア課が新設された。この改正に伴い、従来の欧米情報担当の第4課が第6課に、支那情報担当の第5課が第7課になった。

 つまり、第2部の編制は、5課(ソ連)、6課(欧米)、7課(中国)と、第1班と暗号班から構成された。第1班は部長直属で、情勢に関する総合判断を行なったものと見られる。

2)関東軍総司令部の整備

 満洲事変以前の関東軍第2課(情報課)には、たいした情報収集能力はなく、関東軍の情報活動は南満洲鉄道株式会社(満鉄)の調査部に依存した。満鉄調査部は1907年に設立され、主たる任務は、満洲や北支の政治、経済、地誌等の基礎的調査・研究である。したがって、ソ連情報については不十分であった。

 満洲事変以後も、関東軍は満鉄調査部に依存していたが、ソ連軍との対峙を想定して関東軍第2課の強化を逐次にはかった。満洲事変以前の第2課の情報関心は主として北支に向けられ、支那関係者をもって要員にしていた。しかし、参謀本部第5課の新設の動きと連動して関東軍第2課もソ連専門家をもってあたられた。

3)特務機関の増設

 日本軍は1918年のシベリア出兵以後からシベリア各地に特務機関を配置していた。しかし、1922年10月末の撤兵までには逐次閉鎖され、ハルビン、黒河、満洲里のみが残され、静かに対ソ情報を収集していた。その後、黒河は1925年3月に閉鎖された。

 他方、1928年の張作霖事件が象徴するように、北支那や満洲が混沌化していた。よって特務機関の主要関心事項は支那情報であった。

 しかしながら、満洲事変以後、ソ連情報の価値が高まり、1932年に黒河が再開され、ハイラルが新設された。1933年には琿春、密山に、1934年に富錦に特務機関が新設された。これらは、琿春を除き関東軍に直属し、業務はハルビン特務機関長が統制した。

4)在外武官の新設と配置

 満洲事変以後、ソ連は国境警備と防諜態勢を強化した。そのため、日本軍は従来の密偵諜報に行き詰まりを感じ、ソ連情報の主要手段として文書諜報、科学諜報を重視した。

 また、なるべく多くの将校を合法的にソ連邦に入れる努力をした。ソ連をめぐる隣接国における公館開設と公使館附武官の配置、ソ連国内に対する駐在員の派遣、在ソ日本領事館における情報将校の配置などを行なった。

5)文書諜報の強化

 参謀本部第2部第4課第2班(ロシア班)(のちの第5課)とハルビン特務機関(のちの関東軍情報部本部)が、それぞれ文書諜報を本格的に開始した。

 1935年3月、小野打寛大尉がハルビン機関の中に、文書諜報班を設置することで本格的な公開情報分析が始まった。

 この文書諜報班は、ソ連国内の出版物をできるだけ集め、参謀本部と分担して公開情報の分析を行った。

 主に「プラウダ」「イズベスチャ」などの中央機関紙、「チホオケアンスカヤ・ズヴェズダ」「ザイバイカルスキー・ラボーティ」などの地方紙、「クラスナヤ・ズヴェズダ」「ヴォエンナヤ・ムイスリ」などの軍事専門誌を集めて丹念に分析した。

 また同組織は無線電話の傍受も行なっており、これらは音秘・音情と呼ばれていた。(小谷賢『日本軍のインテリジェンス』)

6)暗号情報の強化

 1930年5月、第2部5課(支那情報)に「暗号ノ解読及び国軍使用暗号ノ立案」の任務が付加された。これにより、第5課は4班(総合)、5班(暗号)、第6班(支那ただし満洲除く、満洲はソ連とともに第4課第2班の所掌)、第7班(併用地誌等)となった。

 1934年に関東軍参謀部第2課に関東軍特殊情報機関を設置し、新京(長春)においてソ連軍の軍事暗号を解読する任務を開始した。

 1935年に将校2人をポーランド参謀本部に将校を派遣して、1年間の暗号解読の教育を受けさせた。

上述の1936年6月の改編で、第5課4班は、暗号班となり、第2部長の直轄となった。

 1937年3月31日、暗号班が1班と改められ、所掌業務の「暗号ノ解読及び国軍暗号ノ立案」のうち「及び国軍暗号ノ立案」が削除された。及び(なお、原文は竝)が削除されたことは、この頃から暗号解読の重要性が認識されたことを意味する。

7)防諜態勢の強化

 1936年8月に陸軍省に兵務局が新設された。兵務局は防諜に関する業務を担当した。なお、これが陸軍中野学校の発足の一つの経緯となる。

1936年7月14日の「陸軍省官制改正」第15條には兵務課の任務が示され、同課は歩兵以下の各兵下の本務事項の統括、軍規・風紀・懲罰、軍隊の内務、防諜などを担当した。

同官制改正の六では、「軍事警察、軍機の保護及防諜に関する事項」が規定され、これが防諜の最初の用例だとみられる。

 1937年3月に参謀本部内に、防諜態勢の強化を図るための防諜委員が設置された。

8)ドイツとの情報提携強化

 1936年11月25日、日独防共協定の調印に伴い、諜報・謀略に関して日独情報提携を約束した。従前参謀本部第2部は在ポーランド駐在武官のソ連情報を重視していたが、本協定以後、ドイツ駐在武官のソ連情報を重視するようになった。

 当時のドイツ駐在武官は、ドイツ通の大島浩大佐であった。大島は、1921年(大正10年)以降には、断続的にベルリンに駐在し、1933年以降はドイツの政権を得ていたナチス党上層部との接触を深めた。

以上、満洲事変以後から、日中戦争にかけての陸軍の情報体制を概略みてきたが、次回は海軍の情報体制について少しだけ言及したい。

【わが国の情報史(31)】昭和のインテリジェンス(その7) ─張作霖爆殺事件から何を学ぶか(3)─ 

▼はじめに

 前回までは、張作霖爆殺事件が関東軍の計画的な謀略にもとづく河本大作の犯行であるとの定説は、戦後において首謀者とされる河本の「手記」が発表されたこと、田中隆吉元少将が極東軍事裁判(東京裁判)において、河本が首謀者であるとして、当時の犯行の情況を縷々証言したことが根拠になっていること、などを述べた。

 そして上述の「手記」については河本本人が直接書いたものではないことから、情報の正確性には疑義がある。田中の人物評価や、本人が置かれた当時の環境情勢などから、田中の情報源と しての信頼性はあまり高くない、などと述べた。 今回は最初に情報の正確性について述べることとする。

▼情報の正確性  

 情報の評価は情報源の信頼性と情報の正確性を別個に評価する。 そして情報の正確性は、「誰が言ったか」ということはいったん度外視し、情報それ自体の妥当性、一貫性、具体性、関連性という 尺度で評価することになる。  

 ここでは田中元少将が東京裁判で述べた証言内容の引用につい ては割愛するが、彼の証言には、当時の国際情勢や日本政府およ び陸軍を取り巻く環境情勢から「なるほど!」と言える妥当性がある。

 「最初の証言とあとの証言が食い違っている」といったこともな く、彼の証言内容は終始一貫性がある。  

 爆発方法や関与した人物など縷縷詳細に及び具体性もある。

 「手記」を始めとする他の情報との重要な部分が一致しており、 関連性もある。  

 つまり、彼の証言について、情報の正確性からは「ほとんど真 実である」といった高レベルの評価を下すことになるであろう。 しかし、ここで注意しなければならないのは、「巧妙な嘘は、 真実よりも一貫性があるし具体性がある」という点である。

 そして、これは情報源の信頼性に関わることであるが、田中証言の“胡散臭い”と感じるところは、あまりにも多くの主要な史実を、田中自らが第一人称で直接見た、聞いたというように語っている点なのである。  そこに〝出来ストリー〟という疑惑がかかるのである。

▼コミンテルン関与説

 田中元少将の情報源としての信頼性には疑義があったにせよ、 張作霖爆殺事件にかかる情報の正確性の評価は高い。さらに、か なりの具体的な資史料が揃えられていることから、戦後から一貫 して張作霖爆殺事件に関しては河本犯行説という定説が覆ること はなかった。  

 しかし、これから述べるコミンテルン説が2000年代になり、 急浮上したことで上述の関連性に疑義が出た。そうなると情報の正確性の評価をやり直す必要が出てくる。これがインテリジェン ス理論である。  

 ここで、コミンテルン説について言及しておこう。この仮説は、 2005年、邦訳本『マオ─誰も知らなかった毛沢東』(ユン・ チアン、ジョン・ハリディ著)が発刊されたことで俄かに注目さ れた。

 同書における記述を引用しよう。 「張作霖爆殺事件一般的に日本軍が実行したとされているが、 ソ連情報機関の史料から最近明らかとなったところによると、実際にはスターリンの命令にもとづいてナウム・エイティゴンが計 画し、日本軍の仕業にみせかけたものだという」  

 これが契機となって張作霖爆殺事件の“謎解き”に火がついた。 まず同著の引用注釈から『GRU帝国』という著書が注目された。 そして、『正論』および『諸君』といった論壇誌が、同著の著者 であるドミトリー・プロホロフに対するインタビュー記事を引用する形で、〝コミンテルン説〟の特集を組んだのである。

▼コミンテルン関与説の根拠  

 加藤康男氏は2011年に『謎解き「張作霖爆殺事件」』を執筆した。同氏の著書をもとに〝コミンテルン説〟に関する記述 (要旨)を拾ってみよう。

・当時、ソ連政府は張作霖との間で鉄道条約を結んでいたが、両者の間で激しい抗争が進んでいた。反共主義を前面に押し出す張作霖側は、ロシアが建設した中東鉄道(旧東清鉄道)を威嚇射撃 したり、鉄道関係者を逮捕したりしたため、遂にOGPU(筆者 注:ソ連KGBの前身機関)は張作霖の暗殺計画を実行計画に移 す決定を下した。

・1回目は、1926年9月、奉天にある張作霖の宮殿に地雷を設置し、爆殺する計画であり、極東における破壊工作の実力者といわれたフリストフォル・サルヌインが実行計画を立案した。し かし、爆発物の運搬を担当したサルヌインの部下工作員が爆発物 を発見されて、失敗した。

・1927年4月6日、張作霖の指示によって行なわれた北京の ソ連大使館捜索と関係者の大量逮捕が動機となり、1928年初頭に2回目の暗殺計画が行なわれた。今度は、1926年から在上海ソ連副領事をカバーとする重要な諜報員ナウム・エイティゴ ン(トロツキー暗殺の首謀者、詳細は拙著『情報戦と女性スパイ』 を参照)から、サルヌインとその補佐役のイワン・ヴィナロフと いう工作員に暗殺計画が下され、爆殺に成功した。

▼英国は当時、複数の犯行説を考察していた  

 さらに加藤氏は、1928年7月3日付けの北京駐在英国公使 ランプソンによる本国外相宛ての次の公電に着目している。そこ には以下の記述がある。 「(殺意を抱く者は)ソヴィエトのエージェント、蒋介石の国民 党軍、張作霖の配信的な部下など多岐にわたる。日本軍を含めた 少なくとも4つの可能性がある。どの説にも支持者がいて、自分 たちの説の正しさを論証しようとしている」  

 こうした根拠をもとに加藤氏は、少なくとも以下の4つの説が ある旨主張する。 (1)関東軍の計画にもとづく河本の犯行 (2)ソ連コミンテルンの犯行 (3)張作霖の息子である張学良が、コミンテルンの指示を受けて、 もしくは親子の覇権争いの側面から実行 (4)河本大作や関東軍の上層部がコミンテルンにそっくり取り込 まれたうえで実行  

 これらのうち、どの仮説であった蓋然性が高いのかなど、その “謎解き”は加藤氏の秀逸なる著書に譲るとしよう。  

 ここで言うべきことは、結局のところ事件の謎は現在に至るも解明されていない。すなわち、関東軍の謀略にもとづく河本犯行説であったと断定するに足る明確な歴史的根拠はないのである (やったかもしれない)。

▼仮説を一つに絞ることの問題点  

 インテリジェンス上の問題は、加藤氏も指摘するように「一途 に河本犯行説と信じ切って問題を収束させようとした」という点 にある。 仮説を一つしか立てなければ、その仮説が外れてしまえば、もはや対応できなくなる。想定外だと、慌てふためくことになる。  

 また、仮説を一度立ててしまうと、とりあえずの仮説がアンカ ー(錨)のようになって、新たな情報が提供されても修正できな くなる。これを「アンカーリングのバイアス」という。

 さらに、一度仮説を立てると、それを証明する情報ばかり集め てしまう。これを「確証バイアス」という。  

 つまり、さしたる調査や検証なしに、張作霖事件が河本の犯行であるという唯一の仮説を立ててしまったことで、それを裏付け る具体的な資史料ばかり集めてしまい、河本犯行説を定説へと導 いた可能性がある。すなわち、バイアスによって河本犯行説が導 かれたかもしれないのである。

▼イラク戦争を教訓にした米情報機関  

 米国は、サダム・フセイン大統領が大量破壊兵器を保有してい るとの仮説に基づいて、それを肯定する情報ばかり集めて、強引 にイラク戦争へと向かった。

 その反省から、米国では「代替分析」という手法に着目し、当 然と思われている前提を疑問視して分析するという手法を取り入 れた。 この手法は、「イラクは大量破壊兵器を保有していない。フセ インは事実を話している」という前提で分析を行なうものである。  

 ここから学ぶことは、張作霖爆殺事件においても「河本は真実 を言っている。河本は犯行を行なっていない」という前提で調査 しなければならなかったということだ。そうすれば、英国のよう に複数の仮説にたどり着いたかもしれなかったのである。

▼発達していた英国の情報理論と情報体制   

 当時の日本においては、仮説は複数立てて、不確実性を低減するなどという情報理論も確立されていなかった。また、国家としての情報体制も未熟であった。  

 当時、英国は外務大臣指揮下のMI6を世界的に展開し、グロ ーバルな視点から新生ソ連の動向を把握し、共産主義の波及を危険視していた。だから英国は、張作霖爆発事件に対するソ連の関 与という仮説にすぐに辿りついた。  

 ただし、その一つの仮説に固執することなく、他の仮説を立て て、これらを検証しようとした。

 また中国大陸においてはMI6とは別個に極東担当の特務機関 MI2c(陸軍情報部極東課)を活動させていた。つまり、情報 を複数筋から入手しようとしていた。

 つまり、仮説を複数立てて検証する、複数の情報ルートを活用 して情報の正確性を高めるといった、今日では当たり前の情報理論を確立していたのである。

▼遅れていたわが国の情報理論と情報体制  

 一方のわが国の当時の中国大陸における情報活動といえば、南満洲鉄道株式会社(1906年設立、満鉄)の調査部(満鉄調査部)と1918年のシベリア出兵後の特務機関の存在が挙げられ る。  

 しかしながら、英国のような国家情報機関があったわけではな いし、満鉄調査部と特務機関がそれぞれの所掌範囲の情報活動を ほそぼそと行なっていたにすぎない。

 また国家全体として見るならば、外務大臣・幣原喜重郎の対外ソフ ト路線の影響により、新生ソ連の共産主義に対する脅威は薄れて いた。つまり、国家の情報要求が未確立であった。

 だから、水面下における共産主義勢力の急速な浸透が探知できなかったのであ ろう。 孫文が1923年頃から連ソ容共・工農扶助を受け入れたり、 1924年1月にコミンテルン工作員ミハイル・ボロディンの肝 いりで国民党と共産党の国共合作(第一次)が成立させたりする ことに無頓着であった。 そして、1927年末から、蒋介石がドイツの軍事顧問団を招 き、軍事的・経済的協力(中独合作)を進めていたことも分からなかったのである。

▼張作霖爆殺事件の教訓とは何か  

 張作霖爆殺事件の検証において、コミンテルン説は一顧だにさ れなかった。このことが、その後の中国大陸において、ゾルゲと尾崎秀実(おざきほつみ)の邂逅を見逃し、やがては来日するゾルゲにせっせっと国家重要情報を漏えいすることになった根本の原因があるのかもしれない。  

 実は、もっと大きな問題は戦後の歴史認識問題である。今日の わが国の主流の歴史認識は以下のとおりである。

「関東軍が張作霖爆殺の謀略を企てたが 失敗した。その失敗を教訓にして満洲事変の契機となる1931年9月8日の柳条湖事件の開戦謀略を成功させた。これが『軍の命脈』である命令・服従関係を基本とする軍機の破壊を意味し、 日本陸軍の没落の第一歩となった」  

 戦後、このような歴史認識が主流となってきたので、最近のコ ミンテルン説が出てきても、これを否定して受けつけようともしない。これが社会全体の趨勢である。  

 たしかに、定説を覆すのは容易ではない。これをインテリジェ ンス用語で「レイヤーイング」(多層化バイパス)という。前任者が利用した前提や 判断を、後任者が疑うことなく鵜呑みにして分析を行なうバイア スである。  

 分析の前提に間違いがあっても最初に戻って修正することは、 その後の分析をすべて否定することになるため、なかなか修正さ れないのである。

 米国の上級情報委員会と大量破壊兵器委員会は、 イラクの大量破壊兵器保有に関する情報分析で、この多層化バイ アスがあったと結論付けた。

 歴史学は実証を重んずる学問である。歴史家は真実を追求すればよいし、そうしてほしい。しかし、我々のような一般人は真実 を追求するほどの知識もなければ、技能もない。また、歴史の真実が分かったところで、現実問題の対処が変わるわけではない。

 では、 どうすればよいのか? インテリジェンスにおいては、仮説に妥当性があるのではあれば、“白黒をつける”のではなく、複数の仮説を同時に受け入れ ることが鉄則である。 なぜならば、そうした柔軟性こそが、対策としての戦略・戦術 における不確実性を低減することになるからだ。

 歴史を学び、そこには必ずしも定説があるわけではないことに気づく。複数 の仮説があるし、さまざまな見方があるならば、これを受容する。そして、複数の仮説を組み合わせて、いく つかの未来の発展方向を予測するうえでのヒントを得る。それが インテリジェンスに携わる者にとっての歴史を学ぶ意義なのだと、 筆者は考える。

 この点は、多くの方に賛同いただけるのでは ないかと思う。

わが国の情報史(30) 昭和のインテリジェンス(その6)      -張作霖爆殺事件から何を学ぶか(2)-     

▼はじめに

 前回は、張作霖爆殺事件が関東軍の計画的な謀略であるとの定説は、首謀者とされる河本大作の「手記」が戦後になって発表されたことが大きな根拠になっている、しかしながら、これは第三者によって書かれた第二次情報にすぎないことを述べた。 今回は、もう一つの関東軍犯行説の根拠となっている極東軍事裁判(東京裁判)における田中隆吉少将の証言について着目する。

▼ 田中隆吉少将の証言

 1946年5月3日から極東軍事裁判(東京裁判)が開かれた。ここで検察側の証人として証言台に立った元陸軍省兵務局長の田中隆吉(元少将)は、「関東軍高級参謀河本大作大佐の計画によって実行された」と証言した。また彼は、1931年9月の満州事変についても、「関東軍参謀の板垣征四郎、次参謀の石原莞爾が行った」旨の証言を行った。

  これにより、日本軍が行った計画的な謀略により、日中戦争、そして太平洋戦争へと向かわせ、国民の尊い命を奪った。その戦争責任は死刑をもって償うべしとの、国民世論が形成された。

 田中の口から直接された証言は第一次情報である。しかし、第一次情報といえども、常に正しいとは限らない(前回のブログを思い起こしてほしい)。 なぜならば、情報源(この場合は田中)が意図的に嘘をつくことがあるからだ。

 したがって、インテリジェンスにおいては、情報源の信頼性と情報の正確性という手順を踏まえて、しっかりと情報を評価しなければならない。とはいうものの、評価するための十分な情報があるわけでもないので、可能な限りという条件がつく。 すくなくとも、情報は無批判に受け入れるということだけは避けなければならない。

▼田中隆吉とはどんな人物か

 ヒューミント(人的情報)においては、「報告したのはどの組織の誰か」「報告者は意図的に自分の意見や分析を加味していないか」「過去の報告あるいは類似の報告から、報告者の履歴、動機および背景にはどのようなことが考えられるか」などを吟味していかなければならない。 これが情報源の信頼性を評価するということである。  

 そこで田中隆吉(1893年~1972年)とはどのような人物であったのかを簡単にみていこう。 彼は1927年7月に参謀本部付・支那研究生として、北京の張家口に駐在し、特務機関に所属した。当時、34歳であり、階級は大尉である。

 1929年8月には 陸軍砲兵少佐に昇級して帰国。参謀本部支那課兵要地誌班に異動になった。 田中が本格的に北支および満州で謀略に従事するのは1930年10月に上海公使館附武官として上海に赴任した以降のことである。

 ここでは著名な川島芳子(満州国皇帝・溥儀の従妹)と出会い、男女の仲になり、川島を諜報員(スパイ)の道に引き入れた。 1932年の第一次上海事変においては、「満州独立に対する列国の注意をそらせ」との板垣征四郎大佐の指示で、当時、上海公使館付陸軍武官補であった田中は、愛人の川島芳子の助けを得て、中国人を買収し僧侶を襲わせた(彼自身の発言から)。

 その後、田中は北支および満州で関東軍参謀部第2課の課員や特務機関長などを歴任し、帰国後の1939年1月には陸軍省兵務局兵務課長、そして1940年12月に兵務局長(憲兵の取り纏め)に就任して、太平洋戦争の開戦を迎えた。1941年6月には陸軍中野学校長も兼務した。 

 開戦時の陸軍大臣は東条英機である。当時、田中は東条から寵愛されていたという。陸軍大臣に仕える最要職の軍務局長には、1期上の武藤章(A級戦犯で処刑)が就いていた。ところが、1942年、田中は〝東条・武藤ライン〟から外され、予備役に編入された。なお、これには田中が武藤のポストを奪う画策が露呈して、左遷されたとの見方もある。     

 戦後に一介の民間人となった田中は、まもなく『東京新聞』に「敗北の序章」という連載手記を発表した。これは1946年1月に『敗因を衝く-軍閥専横の実相』として出版された。

 東京裁判の主席検事のジョセフ・キーナンらが、これらの著作から田中に着目して、1946年2月に田中を呼び出し、その後に尋問を開始した。

 東京裁判では田中は東條を指差して批判し、東條を激怒させた。 武藤においては「軍中枢で権力を握り、対米開戦を強行した」と発言した。 

 ただし、武藤は、太平洋戦争の早期終結を目指し、東條とは一線を画した。つまり、田中証言がなければ、武藤の死刑はなかった可能性が高い。 田中は、東條、武藤以外にも多くの軍人に対して不利となる証言を次々とした。その状況があまりにもすさまじく、田中に対して「裏切り者」「日本のユダ」という罵声を浴びせる者が多数いた。

▼張作霖爆殺事件と田中

 さて、1928年6月の張作霖爆殺事件の当時、田中はこの事件について、どれほど知り得る立場にいたか。彼は、北京に駐在して1年足らずであり、しかも階級は大尉にすぎない。いわば特務工作員の見習い的な存在であったとみられる。  

 他方、河本大作は関東軍の高級参謀であり、田中よりも10歳年長の45歳であった。 張作霖爆殺事件が、河本の計画的な謀略であったとするならば、その秘密はわずかな関係者にしか知らされていなかったであろう。 しかも、両者の階級差や所属の違いから考えても、河本と田中との直接的な交流は考えられない。

 つまり、田中は河本の犯行説を裏付ける第一証言者の立場にはなく、東京裁判における田中証言は伝言レベルのものと判断される。すなわち、情報源の評価としては「信頼性は低い」ということになる。

▼東京裁判における田中の情報源としての信頼性

 彼の著書『敗因を衝く』では「軍閥」の代表である東条英機と武藤章を執拗に非難している。他方、自分自身が日中戦争の早期解決や日米戦争の阻止に奔走したことを強調して、自分自身が行った上海での謀略については述べていない(のちに述べることになるが)。

 本書の記述内容から彼の性格を推測すると、執着心が強く、狡猾な一面が感じられる。 だから、「田中は自分が東條・武藤ラインから外されたことの逆恨みから、彼らに戦争責任を負いかぶせ、自分自身はキーナン検事との「司法取引」によって、処刑を回避して生き延びた」などの批判にも一理ある。

 また、検事たちが作り上げた筋書きに沿った証言を田中が行ったのは、天皇陛下の戦争責任を回避するためだったとの見解もある(作家の佐藤優氏は同見解を主張)。

 他方、東京裁判の終了後、田中は戦時中から住んでいた山中湖畔に隠棲した。ここでは、武藤の幽霊が現れたと口走るなど、精神錯乱に陥ったそうである。そして、1949年に短刀で自殺未遂を図った。その際に遺した遺書では、戦争責任の一端を感じていた記述もある。

 豪放磊落と評された田中が精神錯乱に陥ったのは、嘘の証言によって、太平洋戦争の早期終結を目指した武藤を死刑に追い込んだ、自責の念に堪えかねてのことであった可能性もある。

 いずれにせよ、田中を情報源という視点から見た場合、田中は嘘をつく、真実を秘匿する状況におかれていたことは間違いない。つまり、張作霖爆殺事件における田中の情報源としての評価は「必ずしも信頼できない」というレベルであろう。 しかしながら「彼が語った内容が真実かどうか」は、別途に「情報の正確性」という評価が必要となる。

わが国の情報史(29)昭和のインテリジェンス(その5) ─張作霖爆殺事件から何を学ぶか(1)─

▼張作霖爆殺事件

 1928年6月4日、中華民国・奉天(瀋陽)近郊で、奉天軍閥の指導者である張作霖が暗殺された。当時、この事件の真相は国民 に知らされず、日本政府内では「満洲某重大事件」と呼ばれていた。

 国民革命軍との決戦を断念した張は6月4日早朝、北京を退去して特別編成の列車で満洲に引き上げた。途中、奉天近郊の京奉線が満鉄線と交差する陸橋付近にさしかかった際、線路に仕掛けられていた火薬が爆発(?)、列車ごと吹き飛ばされ張は重傷を負い、まもなく死亡した。

 その事件の扱いは、山川出版の高校教科書『詳説 日本史B』によれば、以下のとおりである。

 「田中首相は当初、真相の公表と厳重処分を決意し、その旨を天皇に上奏した。しかし、閣僚や陸軍から反対されたため、首謀者の河本大作(こうもとだいさく)大佐を停職にしただけで一件落着とした。この方針転換をめぐって田中首相は天皇の不興をかい、1929年総辞職した」

▼河本大作について

 河本とはどんな人物か、簡単に経歴を言及する。大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1903(明治36)年に陸軍士官学校を卒業して翌年日露戦争に出征している。1914(大正3)年に陸軍大学校を卒業した。

 陸士の卒業順位97番、陸大の卒業順位が24番であるが、大佐昇任が17番であるので、実務において実力を発揮するタイプであったとみられる。

 そして、彼が関東軍の高級参謀であった時に、張作霖爆殺事件の首謀者とされた。しかし、軍法会議にかけられることはなく、停職処分を受けて、予備役編入された。

 その後、河本は関東軍時代の人脈を用いて、1932(昭和7)年に南満洲鉄道の理事となり、満洲炭坑の理事長、南満洲鉄道の経済調査会委員長などを歴任する。太平洋戦争中の1942(昭和17)年、日支経済連携を目的として設立された北支那開発株式会社傘下の山西産業株式会社社長にした。

 戦後、山西産業が中華民国政府に接収されたが、中華民国政府の指示により河本は同社の最高顧問に就任し、引き続き会社の運営にあたった。

 戦後、河本は閻錫山(えんしゃくざん)の中国国民党山西軍に協力して中国共産党軍と戦ったが、1949(昭和24)年に中国共産党軍によって河本は捕虜となり、戦犯として太原収容所に収監された。そして1955年に同収容所にて病死する。

▼関東軍と張作霖との関係

 当初日本の新聞では、張作霖爆殺事件は、蒋介石率いる中国国民党軍のスパイ(便衣隊)の犯行の可能性も指摘されていた。

 しかし、事件当初から関東軍の関与も噂された。奉天総領事から外相宛の報告では、現地の日本人記者の中に関東軍の仕業であると考えるものも多かったと記されているようだ。

 関東軍関与説の背景には、現地の関東軍と張作霖の対立があった。1927年に4月に設立した田中義一内閣は、北伐を進める蒋介石軍に対しては強硬策を採用した。しかし、張作霖への間接的援助による満洲利権の確保を指向していた。

 これに対して、関東軍司令官の村岡中太郎中将は、張作霖に対しての不審感を募らせており、満洲を独立させようと画策していた。これに対し、田中首相が関東軍の行動にブレーキをかけていたのである。また河本は、この事件前から、周囲に対して張作霖殺害を匂わせるような発言もしていたようである。

▼河本犯行説に至った経緯

 上述の情況から、田中首相はすぐに「関東軍の仕業ではないか」との疑惑をもった。そして西園寺公望を訪ねたところ、西園寺は「(犯人は)どうも日本の軍人らしい」と応じた。昭和天皇の側近である西園寺は、ある筋から、そのような情報を入手していたのである。

 西園寺は田中に、「断然断罪して軍の綱紀を粛正しなければならない。一時は評判が悪くても、それが国際的信用を維持する所以である」と励ました。

 田中は、事件の3か月後になって、白川義則陸相に指示して憲兵司令官を現地に派遣した。9月22日に外務省、陸軍省、関東庁の担当者らで構成する調査特別委員会を設置し、10月中に報告書を作成するよう命じた。

 10月23日、調査特別委から、事件は関東軍高級参謀の河本が計画し、実行したとの報告があった。同月8日に帰国した憲兵司令官も、河本の犯行とする調査結果を提出した。

 しかしながら、この過程において河本はずっと犯行を否認した。つまり、河本の犯行を裏付ける直接証拠は見つからず、関係者の発言などの状況証拠によって河本犯行説が判断されたのである。

▼昭和天皇による叱責

 10月10日には即位の礼が執り行なわれた。それから2か月後の12月24日、田中は昭和天皇(陛下)の御前で、張作霖事件において帝国軍人の関与が明らかとなった場合には、法に照らして厳然たる処分を行なう旨を述べた。

 陛下は、関東軍の謀略を嘆きつつ、田中の厳罰方針に深くうなずいた、とされる。

 ところが、河本犯行説の調査結果を受けて、田中首相が閣議を開くと厳罰主義に同調する者はいなかった。小川(平吉)鉄道相、白川(義則)陸相、鈴木(荘六)参謀総長が穏便に処理するよう田中に要求した。

奥保鞏(おくやすかた)、閑院宮(載仁親王:ことひとしんのう)、上原(勇作)による、天皇の最高軍事顧問である元帥会議においても、上原がリードして事件の真相の公表、責任者の軍法会議送致に強く反対した。

 このため、河本は軍法会議にかけられることなく、予備役編入という軽い処分で終わった。

 こうした経緯について、昭和天皇は田中首相を激しく叱責した。『昭和天皇独白録』は以下のとおりである。

 「たとえ、自称にせよ一地方の主権者を爆死せしめたのであるから、河本を処罰し、支那に対しては遺憾の意を表する積である、と云ふ事であつた。そして田中は牧野(信顕)内大臣、西園寺(公望)元老、鈴木(貫太郎)侍従長に対してはこの事件に付ては、軍法会議を開いて責任者を徹底的に処罰する考えだと云つたそうである。

……田中は再び私の処にやつて来て、この問題はうやむやの中に葬りたいと云う事であつた。……私は田中に対し、それでは前と話が違うではないか、辞表を出してどうかと強い語気で云つた」(引用終わり)

▼河本犯行説の裏付けとなった資料

 今日、張作霖事件はわが国が日中戦争に突入する契機となった事件として認識されている。

 また、定説は、先述の山川出版の高校教科書が記述するとおりである。つまり、「河本の犯行であり、張作霖の殺害と、それに引き続く武力発動によって満洲を占領し、懸案であつた満蒙問題を一挙に解決しようとする計画的な謀略である」と認識されている。

 これに対して、「計画的な謀略ではなく、河本の恣意的な判断による無計画な犯行」との対立説はあるが、いずれにせよ、最近になるまで河本犯行説には揺るぎはなかった。

 しかしながら、前述のように河本犯行説を裏付ける直接的な証拠はないのであり、河本自身の自白もなかった。河本が極東軍事裁判に呼ばれて、彼の口からこの事件について発言する機会は設定されなかったのである。

 河本犯行説の大きな根拠となっているものは、戦後に発表された『河本大佐の手記』「私が張作霖を殺した」(文芸春秋・1954年12月号)である。

しかしながら、「手記」とは名ばかりで、これは河本の自筆ではないとされる。これは、河本の義弟で作家の平野零児が口述をもとに筆記したものであるようだ。

平野は1918年に東京日日新聞(毎日新聞)入社、その後、中央公論社(現在の中央公論新社)と文藝春秋社の特派員として中国に渡った。このころから作家として活動し始めた。

平野は現地に詳しい文筆家である。そして平野は、終戦直前に河本を頼り中華民国山東省太原に身を寄せた。そこで、河本とともに閻錫山の中国国民党の山西軍に協力して反共活動に従事して、中国共産党に逮捕され政治犯収容所に投獄された。彼は、河本の死亡1年後の1956年に帰国した。

 平野は、河本の発言を知り得る立場にはいたが、他方で収容所において中国共産党からの洗脳を受けていた可能性も指摘されている。

 また、1955年に河本は病死しているので、1954年12月のこの手記に対して、河本がその後に「手記」に対してコメントする機会はほとんどなかったとみられる。

▼第二次情報源の危うさ

 最初の情報源のことを第一次情報源という。第一次情報源から情報を受けた情報源を数次情報源という。また第一次情報源からの情報を第一次情報、数次情報源からの情報を数次情報と呼称する。一般的には数次情報をまとめて第二次情報として区分している。

 第一次情報とは主として本人が実際に直接、目にした耳にした情報である。これに対し、第二次情報は第三者を介して得た、あるいは第三者の思考や判断が加味された情報である。

 ここでの第一次情報とは、河本本人による極東裁判などにおける発言、あるいは河本自身が直接書いたものであった。しかし、残念ながら、それは存在していない。

 平野が書いたとされる『河本大佐の手記』は第二次情報である。インテリジェンスの視点からは、かかる第二次情報は、どのように外堀を固めようとも、情報としての正確性に欠陥があるという前提に立たなければならない。物語を作る、解釈する歴史学とはこの点が異なる。

 現在では、張作霖事件についてソ連のGRU犯行説などが出ている(なお、筆者は、この説を無批判に受け入れるものではない。これについては次回に触れる)。しかし、『河本大佐の手記』という第二次情報を根拠にして、GRU犯行説を大上段に否定するのは、著しく説得力を欠くといわざるを得ない。

 最後に、できる限り第一次情報源に接するのがインテリジェンスの原則であるが、常に第一次情報が正しくて、第二次情報が誤っているというわけではない。戦後の手記などは自分の都合のよいように脚色される、この点は注意して紐解く必要がある。

わが国の情報史(28)  昭和のインテリジェンス(その4)   満洲事変以前の情報組織とその運用─

▼わが国における共産主義の浸透

第1次世界大戦(1914~18年)後の主要な内外情勢の注 目点としては、まずわが国における共産主義の浸透が挙げられる。

第1次世界大戦が国民を戦争へと動員する総力戦として戦われ ため、欧州では労働者の権利の拡張や国民の政治参加を求める声 が高まった。日本でもロシア革命(1917年)・米騒動(19 18年)をきっかけとして社会運動が勃興した。大戦中の産業の 急速な発展により労働者の数が増加し、労働争議の件数も急激に 増加し、労働組合の全国組織も樹立された。  

こうした社会運動の勃興に油を注ぐことになったのがソ連にお ける共産党政権の誕生である。その対外組織であるコミンテルン の支部として1921年には中国共産党が設立し、22年には日本共産党が設立した。  

わが国は1911年1月の幸徳秋水事件を契機に、社会運動の取り締まりを目的に同年8月に特別高等課(特高)を設置した。 ただし、この時点では国内の社会主義の取り締まりということであり、特高も注目される存在ではなかった。

ところが、1922 年に日本共産党が成立したことにより、主要府県の警察部にも続々 と特別高等課を設置して、その取締の強化に乗り出した。

かくして1925年、わが国は治安維持法を制定する。この法 律は国体(皇室)や私有財産制を否定する運動を取り締まること が目的として制定された。また、山東出兵中の1928(昭和3) 年2月、日本で最初の普通選挙が実施され、無産政党から8人の当選者が出た。

これに田中義一内閣は警戒心を強め、治安維持法 の「国体」を否定する運動に対する弾圧を強め、3月15日に地 下の共産党員およびその協力者に対する大弾圧を行なった。

▼中国における共産主義の浸透と蒋介石の台頭  

第2の注目点は、中国における共産主義の浸透と蒋介石の台頭である。1912年1月1日、三民主義をとなえる孫文を臨時大統領とする中華民国が南京に成立。ここに清朝が倒れた。

しかし、 中華民国の実権はすぐに北洋軍閥の袁世凱の手に移り、袁世凱が死亡(1916年)すると、各地で軍閥が跋扈する混沌とした状 態になった。

そこで孫文は中国を統一するために、コミンテルンの力を借り ることにする。1923年1月、孫文はソ連の代表アドリフ・ヨ ッフェとの共同声明を発表した。これは連ソ容共・工農扶助を受 け入れることであった。  

1924年1月、コミンテルン工作員ミハイル・ボロディンの肝いりで国民党と共産党の国共合作(第1次)が成立。すなわちコミンテルンの浸透工作が中国大陸において本格始動する。  

孫文は1925年3月に北京で客死した以降、国民党は広東に国民政府を組織して国民革命軍を建軍した。このなかで台頭した蒋介石が1926年7月1日に北伐を開始する。  

蒋介石は当初から孫文の連ソ容共・工農扶助に反対していたた め、共産主義勢力の弾圧に乗り出した。1927年4月12日の 「上海クーデター」で共産党を排除し、同年4月18日、南京にて国民党による国民政府を樹立した。  

1928年に入り、蒋介石は北伐を再開し、6月には北京に入 城して正式に中国統一を宣言した。しかし、反蒋介石派も活動を続け、1931年5月に広州に王精衛(汪兆銘)らによって臨時国民政府が作られた。  

他方、中国共産党は1927年8月から9月にかけての武装蜂起で敗走するが、江西省の井岡山に拠点を設定して、上海などで 地下ゲリラ活動を展開した。これに対して蒋介石は1930年1 2月から囲剿戦(いそうせん)を開始するが、共産党の掃討は困 難を極めた。  

蒋介石による北伐の最中、日本は1927年以降、北伐からの居留民保護の名目で3次にわたって派兵、国民革命軍と衝突した。 1928年には済南事件が起こった。  

このような蒋介石軍の北伐は、わが国にとって南満洲権益への明確な脅威と映った。その過程や延長線において、張作霖爆殺事件(1928年6月4日)、および満洲事変(1931年9月1 8日)が生起し、それが、のちの日中戦争につながっていくので ある。

▼米国による対日牽制が顕在化  

内外情勢でもう一つ見逃してはならないのが米国の動向である。 世界最初の社会主義革命が起き、ロシア帝国が崩壊し、共産主義 国家ソ連が誕生(1922年)する過程において、わが国と米国 は共同でシベリア出兵を行なった。

しかし、日米の派兵目的は異なっていた。わが国は共産主義の浸透が満洲、朝鮮、そして日本に浸透することを警戒し、オムス クに反革命政権を樹立することを目的に出兵兵力をどんどんと増 大させた。  

一方の米国の出兵目的は日本の北満洲とシベリアの進出に抵抗 することであった。米国は共産主義を脅威だとは認識しておらず、 ロシアの共産主義者と戦う日本軍に協力しなかった(わが国の情 報史(24))。    

わが国がシベリア出兵を継続したことが、日露戦争以後から対 日警戒を強めていた米国の警戒心をさらに増幅させた。米国は1 920年から21年にかけてのワシントン海軍軍縮会議において 日本側艦艇の保有を制限し、1924年に排日移民法制定するな ど、さまざまな対日圧力を仕掛けた。  

他方、南京国民政府の全国統一の動きに対しては、米国は国際 社会の先陣をきって、中国に対する関税自主権回復の承認(19 28年7月)に踏み切り、蒋介石の南京政府を承認(1928年 7月)した。  

米国は早くから水面下で蒋介石と日本との対立を画策していっ た。こうした行動の背後には、わが国を牽制して中国大陸におけ る利権を獲得するとの思惑があった。  

こうした米国の反日行動に対して、わが国は1923年に帝国 国防方針を改定して、米国を仮想敵国として、フィリピン攻略準 備を少しずつ開始することになるのである。

▼参謀本部第2部の改編  

1928(昭和3)年8月15日、参謀本部の改編が行なわれ た。これは第1部第4課(演習課)が、第4部第8課へ編成替え になったことによるものである。  

これにより情報を司る第2部は、第5課(支那情報を除く外国 情報)と第6課(支那情報)がそれぞれ繰り上がり、4課と第5 課となったが(正確には明治41年12月18日の編制の課番号 に戻った)、その基本業務を変わっていない。  

第4課の編制は第1班米国、第2班ロシア、第3班欧州、第4 班諜報であった。一方の第5課の担任業務に「暗号の解読及び国軍使用暗号の立案」が加わったため、第5班暗号、第6班支那、 第7班地誌となった。なお暗号業務の開始は1930年7月5日 から開始された。  

第1次世界大戦では本格的な暗号戦がドイツと英国間で行なわ れ、ドイツは暗号戦に敗れたことを教訓に1918年にエニグマ 暗号を発明した。こうしたなか、従来は第3部にあった暗号班を第2部に移し、諜報と暗号の研究との連携を強化したというわけである。この点は、第1次世界大戦の教訓を踏まえた対応として 評価できる。  

しかし、建軍以来第一の仮想敵国であるロシアに対する警戒心 は希薄であった。つまり、共産主義の浸透を警戒して1922年 までシベリア出兵を継続はしたものの、新生ソ連に対する警戒心 には緩みがみられた。  

当時、共産主義への敵視が強かったため、シベリアからの撤兵 後も国交正常化の動きには国内の右翼や外務省が反対した。外務 大臣の幣原喜重郎は、共産主義の宣伝の禁止を明文化して、国交 回復を実現(1925年1月)した。

こうした国際関係を踏まえたのか、1928年の参謀本部の改 定では、ソ連は依然として参謀本部第2部の第4課の1つの班にすぎなかった。  

上述の帝国国防方針の第二次改定において、陸海軍は対米戦の 場合にはフィリピン島攻略を本格的に取り組むことになったが、 こうした方針が陸軍参謀本部の編制に影響を及ぼすことはなく、 米国に対する情報も第4課の1つの班が担っていた。

▼満洲事変以前の対外情報体制  

第1次世界大戦(1914~18年)以後、外務省は全世界に大公使館、総領事館を設置して、世界的情報網を構成していた。  

他方、陸軍では参謀本部第2部が国防用兵に必要な各国の軍事、 国勢、外交などに関する情報を収集・評価すること、所要の兵要地理を調査し、兵用地図の収集整備にあたることなど目的に、 大・公使館付武官の派遣や、ほそぼそと秘密諜報員を海外に派遣 していた。  

陸軍は第1次世界大戦以降、大・公使館付武官の駐在先を拡大 した。それまでの主たる駐在先は、英国、ド イツ、フランス、 オーストリア、イタリア、米国、ロシア、清(1912年から支 那)、朝鮮(1897年から韓国)であったが、ソ連および米国 を取り巻くかたちで中小国にも駐在先を拡大していった。  

しかしながら外務省の情報は非軍事に限られていた。外務省、 陸軍、海軍による国際情勢判断、政戦略情報のすり合わせは不十 分であった。  

第1次世界大戦において、英国のMI5、MI6などの国家情 報組織が情報戦をリードした。しかし、英国と同盟関係(日英同 盟は1902年1月に調印され、1923年8月に失効)にあっ たわが国は、かかる貴重な教訓を学ぶことはなかった。  

北方要域においては、1918年のシベリア出兵以降、ハルビ ン、奉天、満洲里、綏芬河(すいふんが)、竜井村、吉林に特務 機関を設置して、対ソ連の情報活動の体制を維持した。  

これらの特務機関の活動は関東軍司令部(当時は情報課はなかった)が管轄した。なお関東軍は1919年4月に創設され、台湾軍、朝鮮軍、支那駐屯軍などと同列の独立軍であったが、独立守備隊6個大隊を継続し、また日本内地から2年交代で派遣され る駐箚(ちゅうさつ)1個師団という小規模な陣容であった。  

中国大陸においては、日清戦争後の1901年に、天津に清国 駐屯軍(1912年から支那駐屯軍)を設置し、約2100名の兵力を維持していた。また、北京では、青木宣純大佐の青木公館 (1904年7月~1913年8月)を引き継いだ坂西利八郎・大佐 (1917年8月、少将)が坂西公館(1911年10月~19 27年4月)を開設して、中国大陸の情報活動を行なった。  

1912年、陸軍大学校を卒業した土肥原賢二が参謀本部付大 尉として坂西公館補佐官として赴任した。以後、土肥原はここでの情報活動により、わが国の対中政策の主要な推進者となり、やがて「満蒙のローレンス」と畏怖されるようになる。 これらの情報拠点が満洲事変以後の情報活動や謀略工作の基礎 となった。

▼ドイツ顧問団の兆候を見逃し  

蒋介石は軍隊と国防産業の近代化を必要していた。他方、第1 次世界大戦に敗北したドイツは、ヴェルサイユ条約により軍を 10万人に制限され、軍需産業は大幅に縮小されたため、ドイツ の工業生産は大きく減少した。

そこでドイツは工業力を立て直す ため先進的な軍事技術を輸出し、その見返りに資源の安定供給を 確保することを狙った。こうした両者の思惑が一致し、1920 年代から、両国の軍事的・経済的協力が開始された。いわゆる 「中独合作」である。  

蒋介石は1927年末、蒋介石はドイツの軍事顧問団を招き、 マークスバウア大佐が軍事顧問団長として赴任した。同大佐が1 929年4月に死亡するとヘルマン・クリーベル中佐がその交替 で赴任し、1930年8月にゲオマク・ウェトルス中将と続き、 顧問団も約70人規模に及んだ。  

満洲事変以後に起きた1932年1月の第1次上海事変におい て、蒋介石は日本軍に善戦し、ドイツ軍への信頼を高めた。そこで、蒋介石はドイツ再軍備で有名なゼークト大将を招聘した。その後、日露戦争後に在日武官として東京に駐在したファルケンハ ウゼン中将が軍事顧問団長となり、日本軍は蒋介石軍に苦しめら れることになるのである。  

太平洋戦争の情報参謀で、戦後に陸上自衛隊の幕僚長に就任した杉田一次氏は著書『情報なき作戦指導─大本営情報参謀の回想』 にて、以下のように回顧している。

「盧溝橋事件勃発するやファルケンハウゼンは保定にある中国の北区戦区司令部に派遣され、つづいて上海戦線へと派遣されて中国軍の作戦を援助して、南京陥落後は蒋介石の特命で武将になっ て蒋介石を補佐した。高級顧問団員(複数)は秘密裡に山東省や 山西省で活躍し、ある意味では支那事変は日独(軍人)間の闘争であった」  (引用終わり)

情報活動は早期に兆候を探知し、それを高所、多角的な視点から見て、向かうべき趨勢を見極め、戦略や戦術に反映しなければ ならない。中独合作の最初の兆候は満洲事変以前に遡る。

「後智慧」といえばそれまであるが、もしわが国が早期にこの兆候に気 づき、ドイツの本質を見抜いていたならば、米国との太平洋戦線 への分水嶺となった「日独防共協定締結(1936年11月)」 にわが国に向かわせたであろうか。

ここに、戦略的インテリジェンスの要諦をみるような思いがす る。  

 わが国の情報史(27)  昭和のインテリジェンス(その3)   ─『諜報宣伝勤務指針』

▼『諜報宣伝勤務指針』とは  
前回は1938(昭和13)年から1940年にかけて編纂 された『作戦要務令』 をインテリジェンスの視点から紐解いたが、今回は『諜報宣伝勤務指針』について述べる。

『作戦要務令』において「情報を審査して、比較総合し、 判決する」という内容の記述がある。 これがインフォメーション(情報)からインテリジェ ンスへの転換、すなわち情報循環(インテリジェンンス・サイ クル)という、今日の最も重要な「情報理論」である。  

しかし、実はこの『情報理論』の萌芽には、先行する「軍事極秘」の軍事教典の存在があった。それが1928年に作成された 『諜報宣伝勤務指針』である。  

同指針は、これまでさまざまな形で印刷されて一部に出回って きた。現在では、山本武利氏(元早稲田大学教授)が主宰するN PO法人「インテリジェンス研究所」によってデジタル化され、 インターネット上に無料公開されている。  同指針に書かれている内容と、同研究所の「第1回諜報研究会」 の資料(「諜報宣伝勤務指針」の解説、ネット上で公開)から、要点を整理するこことする。  なお同報告会の概要についても、ネット上の「礫川全次のコラ ムと名言」が関連記事を公開している。

▼『諜報宣伝勤務指針』の概要

(1)構成  第1編「諜報勤務」と第2編「宣伝及び謀略勤務」からなる、 全194条(56頁)にわたり「諜報」「宣伝」「謀略」の行動 指針などが記述されている。

(2)復刊文について  この指針は「軍事極秘」書で、一時期は参謀本部第2部第8課 (謀略課)が保管していた。終戦時、GHQによる焼却が命じら れたが、焼却せずに保管していた平館勝治氏が限定印刷したもの が、現在、さまざまな形で印刷されて出回っている。 なお平館氏は1939年12月、陸軍中野学校に入学した第2 期乙長期の学生で、卒業後ビルマ工作を行ない、第8課4班を経 て、終戦時には陸軍省軍事調査部に所属していた。

(3)本指針の作成動機  1925年12月に、参謀本部から陸軍省に対して、諜報及び 宣伝に関する研究などを徹底せよとの指示がなされている。 第1次大戦において英・米・仏・ドイツが広範囲に諜報、宣伝 を活用したことや、同戦争以降に欧州においてインテリジェンス やプロパガンダなどの言葉が軍人の中で膾炙(かいしゃ)される ようになり、諜報研究や宣伝研究が学界にも浸透するようになっていたことを背景に、日本の参謀本部での本資料作成の機運が高 まったとみられる。

(4)本指針の作成者  平館勝治氏によれば、河辺正三大将が参謀本部第4班時代(少佐)、 かつて駐独武官補佐官当時にドイツ軍から入手した種本をもとにし て編纂したものである。他方、中野学校1期生で昭和18年当時に 第八課に勤務していた井崎喜代太氏によれば、本指針の作者は建川 美次参謀本部第2部長という。いずれにせよ、参謀本部第2部の部 内作とみられている。  山本氏の研究によれば、河辺少佐がドイツ軍から種本を入手し た説を有力としている(後述)。

▼『諜報宣伝勤務指針』に対する平館氏の証言  

平館氏は『資料集インド国民軍関係者聞き書き』(研文出版、 2008年)に収録されたインタビュー(1992年11月30日) において以下の証言をしている。

「諜報宣伝勤務指針に対し、戦時中、このような本があったこと は大部分の中野学校関係者は知らなかったのではないかと思いま す。なぜなら門外不出の軍事極秘書類でしたから。第8課でも私 が保管中新任の参謀に貸出した記憶がありません。(ただし、す でに陸大で勉強されていたかもしれません)  確かに8課で指針を読まれたと思われる人は矢部中佐とその後 任の浅田三郎中佐です。矢部中佐は中野学校で我々に謀略につい て講義されましたが、この指針の内容とよく似ていました。  

特に、今でも記憶に残っていることは講義中『査覈』と黒板に 書かれ、誰かこれが読めるかと尋ねられましたが、誰も読める者 がおりませんでした。私は第8課に勤務するようになってからこ の指針を読み、指針の中にこの文字を発見し、矢部中佐のネタは これだったのかと気付きました」

 さらに平館氏の証言は次のように展開していく。

「私が自衛隊に入ってから、情報教育を自衛隊の調査学校でやり ましたが、同僚の情報教官(旧内務省特高関係者)にこの指針を 見せましたが反応はありませんでした。

私が1952年7月に警察予備隊に入って、米軍将校から彼等 の情報マニュアルで情報教育を受けました。その時、彼等の情報 処理の要領が私が中野学校で習った情報の査覈と非常によく似て いました。ただ、彼等のやり方は5段階法を導入し論理的に情報 を分析し評価判定し利用する方法をとっていました。  

それを聞いて、不思議な思いをしながらも情報の原則などとい うものは万国共通のものなんだな、とひとり合点していましたが、 第4報で報告した河辺正三大将のお話を知り、はじめてなぞがと けると共に愕然としました。

ドイツは河辺少佐に種本をくれると同時に、米国にも同じ物を くれていたと想像されたからです。しかも、米国はこの種本に改 良工夫を加え、広く一般兵にまで情報教育をしていたのに反し、 日本はその種本に何等改良を加えることもなく、秘密だ、秘密だ といって後生大事にしまいこみ、なるべく見せないようにしてい ました。

この種本を基にして、われわれは中野学校で情報教育を受けたのですが、敵はすでに我々の教育と同等以上の教育をしていたも のと察せられ、戦は開戦前から勝敗がついていたようなものであ ったと感じました。これは私が米国の情報を学ぼうとして警察予 備隊に入った大きな収穫でした」 (引用終わり)

▼「諜報宣伝勤務指針』の記述内容

「査覈」は「サカク」と読む。「査覈」とは「調べる」という意味であるが、今日では使われない用語であるし、平館氏の証言から 当時においても一般的な用語ではない。  

同指針の第1編「諜報勤務」の総則の第二には、以下の条文が ある(なお、筆者がカタカナ表記をひらがな表記に改め、読みか なをふった)。  

第二「敵国、敵軍そのほか探知せんとする事物に関する情報の 蒐集(しゅうしゅう)、査覈(さかく)、判断並びに、これが伝 達普及に任ずる一切の業務を情報勤務と総称し、戦争間兵力もし くは戦闘器材の使用により、直接敵情探知の目的を達せんとする ものは、これを捜索勤務と称し、平戦両時を通じ、兵力もしくは 戦闘器材の使用によることなく、爾(じ)多の公明なる手段もし くは隠密なる方法によりて実施する情報勤務はこれを諜報勤務と 称す」    

ここでは、情報勤務と諜報勤務の意義が定義されている。前回 までの筆者記事において、『統帥参考』(1932年)および 『作戦要務令・第2部』(1938年)において情報が諜報と捜索からなることに整理されたことについて述べた。 だが、1925年から28年にかけて作成された『諜報宣伝指 針』において情報、諜報、捜索の関係はすでに整理されていたのである。  

また前回記事では『作戦要務令』の72条を引き合いに、「情 報を審査して、比較総合し、判決する」という、情報循環という 情報理論の萌芽がここにあることを述べた。 しかし、『諜報宣伝指針』の第三章「諜報勤務の実施」の第三 節には「情報の査覈、判断」との目次が掲げられ、計8つの条文 (133~140)がある。つまり、収集した情報を処理して、 その真否や価値を評価することなどは、すでに『諜報宣伝指針』 において整理されていたのである。

▼山本武利氏の重要な指摘  

山本氏は『諜報宣伝指針』の作成経緯について、本資料の源流 はイギリスにあって、ドイツ軍が第1次大戦の敗北から英・米と くにイギリスの類書を参照にしながら、この種本を作成したとい う説が有力である、との見解をとっている。  

そして山本氏は次のように述べている。

「同じころ、これを手に入れたアメリカ軍では、一般兵士にも理 解しやすい内容のものに作り替えていた。たとえばOSSでは 『外国新聞のインテリジェンス的分析法』(山本武利編訳・解説 『Intelligence』10号、2008年)をつくり、諜報、宣伝活動での 新聞のインテリジェンス価値や方法について具体例を並べてやさ しく講義している。  

ところが、日本軍では秘密化を図るべく無理に難解なことばを 濫用して、肝心の陸軍中野学校のインテリジェンス戦士の卵にも このテキストに手を触れさせなかった。『日本はその種本に何等 改良を加えることもなく、秘密だ、秘密だといって後生大事にし まいこみ、なるべく見せないようにしていました』という平館証 言の先の言葉は日本軍幹部の情報政策を根底から痛撃して余りあ るものである。  

そのような指導者の態度は、当時のマルクス主義者が難解なこ とばを羅列して大衆の理解を妨げた高踏的、衒学的な姿勢と通じ る」 (引用終わり)

▼戦後の展開  

戦後、米軍の教範『MILITARY INTELLIGENCE』をもとに、陸上自衛隊の幹部学校研究員であった松本重夫氏(陸士53期)が陸上 自衛隊の「情報教範」を作成した。  

これにより、インフォメーションは「情報資料」、インテリジ ェンスは「情報」と呼称するようになった。そして、情報循環の過程の中で、情報資料を処理して得た有用な知識が「情報」とな って、これが使用者に伝達・配布されることなどが規定された。  

松本氏が「情報教範」を作成した経緯などは、氏の著書『自衛 隊「影の部隊」情報戦』に詳述されている。 この中で、松本氏は以下のよう述べている。

「私が初めて米軍の『情報教範(マニュア ル)』と小部隊の情報(連隊レベル以下のマニュアル)を見て、 いかに論理的、学問的に出来上がっているものかを知り、驚き入 った覚えがある。それに比べて、旧軍でいうところの“情報”と いうものは、単に先輩から徒弟職的に引き継がれていたもの程度 にすぎなかった。私にとって『情報学』または『情報理論』と呼 ばれるものとの出会いはこれが最初だった」(引用終わり) 

つまり、旧軍における過剰な秘匿性が、重要な理論の一般化や 普遍化を妨げていたのである。それにより、イギリスを源流とし てドイツを経由して輸入された『諜報宣伝指針』は、管理者が一 部情報関係者に公開したにすぎず、群衆知による改良と工夫が加 えられずに、かくたる情報理論として発展させることができなか った。  

他方の米軍は、それを基に情報教範を作成して、一兵士に徹底 させた。そこに勝敗の分かれ目があった。このような平館氏の証 言や山本氏の指摘するところは実に重い。

▼秋山真之の教訓が生かされない日本  

時代はさらに遡るが、日露戦争の日本海海戦における大勝利の 立役者・秋山真之少佐が米国に留学し、米国海軍においては末端 クラスまでに作戦理解の徹底が図られていることに驚愕した。  

しかし、秋山は帰国後の1902年に海軍大学校の教官につい て教鞭したところ、基本的な戦術を艦長クラスが理解していない ことにさらに驚いたという。なぜなら、秘密保持の観点から、戦 術は一部の指揮官、幕僚にしか知らされなかったからだ。  

のちに秋山は「有益なる技術上の智識が敵に遺漏するを恐るる よりは、むしろその智識が味方全般に普及・応用されざることを 憂うる次第に御座候(ござそうろう)」との悲痛の手紙を上官に したためた。  

第2次大戦前の日本では、多くの情報を秘密にすれば、保全は 向上すると考えられていた。その結果、1937年以前の改正前 の軍事機密保護法では「何が秘密か」についても秘密にされ、秘 密指定を知っているのは軍部の限られた高官のみであった。  

この一見、厳しい秘密保護体制によって、効果的に秘密が守ら れたかといえばそうではない。むしろ逆に重要な秘密がしばしば 漏洩した。それは、秘密対象が不明確であったため、一般国民、 公務員はもちろん大部分の軍人までもが秘密情報であることを知 らずに無意識に漏らしてしまったからだ。  

また、警察当局も「何が秘密か」を明確に知らないから捜査が しにくかった。その結果、重箱の隅をつつくようなつまらぬ事犯 のみを取り締まり、重要な秘密漏洩は見逃す始末であった。さら に「秘密漏洩犯を裁く裁判官も、秘密基準が明確でないから判決 の下しようがないという奇妙な事態にしばしば直面した」という ことである。  

1937年の軍事機密機保護法の改正で、秘密指定は公表され るようになったが、秘密保護をめぐる状況は大して変わらなかっ た。秘密保護の必要性が強調され、厳しい取り締まりが行なわれ たが、重要な秘密の情報の漏洩は止まらなかった。あまりにも多 くのものを秘密指定にしたからである。

▼岐路に立つ情報保全  

今日、米国は軍事の教範類の多くをインターネットなどで公開 している。中国においても解放軍の関連機関が多くの軍事書籍を 出版している。つまり、作戦理論などは公開が原則である。 それが、国民の軍事への関心と知的水準を生み、愛国心の醸成 に一役買っていることは想像に難くない。  

筆者は以前、元中国大使・宮本雄二氏の講演を拝聴したが、こ の時に「中国の一般人はすこぶる軍事知識に詳しいし、軍事議論 が大好きである」との話を思い起こす。  

しかるに、我が自衛隊では教範はすべて非公開である。この点 に限れば『防衛白書』において「中国軍の不透明」を指摘する主 張には何らの説得力はない。  教範の非公開が守られているかといえばそうでもなく、何年か前には教範の漏洩事件が起きた。この一原因は、「実質的な秘密事項が含ま れていないので、これくらいはいいか」との関係者の甘えた自己 判断が引き起こしたと、筆者は見る。  

誤解のないように申し上げるが、内容がたいしたことであろう が、なかろうが非公開であれば漏洩など絶対にあってはならない のである。だから、漏洩事件を軽々しく扱ってよいということで はない。  

ただし、社会のICT化が進むなか、個人情報の保護とクラウ ド情報の利便性のせめぎ合いが予想される。こうした世の中の趨 勢から、防衛分野においても秘匿すべきもの、公開すべきものを いま一度精査し、情報保全と情報公開の在り方を再検と情報保全討すべきで あろう。  

筆者の個人的意見であるが、一部の教範類については(上述の 漏洩した教範も含め)、特段の保全を要しないし、国民への啓蒙 の観点から公開しても差し支えないと考える。  

いずれにせよ、なんでも秘密、秘密という情報保全の体質は改 めるべき岐路に立たされているのではなかろうか?

(次回に続く)

わが国の情報史(26)  昭和のインテリジェンス(その2)   ─『作戦要務令』の制定と重要「情報理論」の萌芽─       

▼『作戦要務令』の制定  

 前回は、昭和期になって作成された『統帥綱領』および『統帥 参考』を引き合いに、情報収集の手段が軍隊の行なう捜索勤務と 諜報に分けられ、戦術的情報は捜索により、戦略的情報は航空部 隊および諜報によって収集する、などについて述べた。

 今回はもう一つの軍事教典である『作戦要務令』を取り上げる。 これは、陸軍の、戦場での勤務や作戦・戦闘の要領などについて 規定した行動基準であり、少尉以上の軍幹部に対する公開教範で あった。  

 綱領、第1部、第2部、第3部、第4部に区分され、1938 (昭和13)年から1940年にかけて編纂された。  1938年9月、日中事変(1937年7月)から得た教訓を 取り入れ、『陣中要務令』(大正3年)と『戦闘綱要』の重複部 分を削除・統合して、対ソ連を仮想敵として『作戦要務令』の綱 領、第1部と第2部が制定された。1939年には第3部、19 40年には第4部がそれぞれ制定された。

▼『作戦要務令』の沿革  

 ここで簡単に『作戦要務令』の歴史を回顧しておこう。  

 徳川幕府以来、陸軍はフランスの陸軍将校を顧問として着々と した兵制の建設を行なってきたが、参謀次長・川上操六らの尽力 により、1882(明治15)年にこれを一挙にドイツ式に切り 替えた(前坂俊之『明治三十七年のインテリジェンス外交』)。  

 こうした動きにともない、陸軍教範もフランス式からドイツ式 に切り替わった。1887年、ドイツの「野外要務令」を翻訳し た『野外要務令草案』が作成され、1889年に『野外要務令』 が制定された。  

 なお、同要務令はのちに参謀次長として日露戦争の準備を取り 仕切る田村怡与造が中心になって作成し、この要務令のお蔭で日本はロシアに勝利できたとされる。

『野外要務令』は第1部「陣中要務」と第2部「秋季演習」か らなる。陣中要務とは「軍陣での勤務」、すなわち戦場勤務のこ とである。  

 第1部では、司令部と軍隊間の命令・通報・報告の伝達、捜索 勤務、警戒勤務、行軍、宿営、行李、輜重(兵站)、休養、衛生 などの実施要領などが記述された。第2部では、演習の要領、演 習の構成、対抗演習や仮設敵演習、演習の審判、危害予防などに ついて記述された。  

 同要務令は日露戦争(1904年)の戦訓を踏まえての190 7(明治40)年の改訂を経て、大正期に入り、第1部「陣中要 務」と第2部「秋季演習」がそれぞれ分離独立した。1914 (大正3)年6月に第1部が『陣中要務令』となり、これが『作 戦要務令』の基礎となったのである。 『作戦要務令』のもう一つの基礎である『戦闘綱要』について みてみよう。『戦闘綱要』は個人の徒歩教練、射撃、歩兵として の部隊の戦闘法などを記述する教範である。  

 これは1871年に「フランス式歩兵操典」として定められた ものが、まず1891年に「ドイツ式歩兵操典(1888年版)」 に翻訳したものに改訂された。この『歩兵操典』は1909年 (明治42年)に日露戦争の教訓を踏まえて再度改訂された。  1926(大正15)年に『歩兵操典』の基本事項をもとに 『戦闘綱要草案』が示され、1929(昭和4)年に『戦闘綱要』 が制定された。これが、もう一つの『陣中要務令』と合体して 『作戦要務令』になったという次第である。

▼1909年の『歩兵操典』の改正に注目  

 1909年の『歩兵操典』の改訂においては日露戦争の勝利に 自信を深めた陸軍が精神主義を強調し、攻撃精神と白兵銃剣突撃 を核とする歩兵戦術を確立した(NHK取材班『敵を知らず己を 知らず』)として、この教範改定がしばしば情報軽視によって太平洋戦争に敗北した原因として引き合いに出されるのである。  

 これに関して、筆者は明治期のインテリジェンスの総括でも述 べたが、情報は戦略情報と作戦情報に分けて論じなければなら ない、と改めて指摘しておきたい。  

 かのクラウゼヴィツは「戦争中に得られる情報の大部分は相互 に矛盾しており、誤報はそれ以上に多く、その他のものとても何 らかの意味で不確実だ。いってしまえばたいていの情報は間違っ ている」(『戦争論』)と述べていることをもう一度思い起こし てほしい(わが国の情報史(21))。  

「精神主義が情報軽視を生み、それが日中戦争、太平洋戦争へ 進み、ガダルカナルでは情報を無視して玉砕した。ここでの教範改定から軍事の独断専行が強まり、先の太平洋戦争は敗北した」  

 このように、何らかの原因を特定することで歴史に決着をつけ るといった恣意的かつ浅薄な分析が横行している点は非常に残念 である。  

 ここで精神主義は、戦場における陸軍基準としての教範改定に論をあてている。戦場における編成や装備および戦術・ 戦法の近代化を精神主義が妨げたという検証結果ならば十分な価値はある。  

 しかし、精神主義と情報軽視という短絡的な連接では何 らの教訓も生まれない。 繰り返すように情報は戦略情報と作戦情報に区分される。『統帥参考』などで示すとおり、戦略情報は国家の戦争指導や作戦指導の全局面に活用されるものである。

 だから、国家がなぜ先の無 謀な戦争に向かったのかは、軍人のみならず国家全体で作成すべ きであった戦略情報がどうだったのかの分析が第一義的に必要で あろう。  

 精神主義、白兵銃剣突撃といった一局面をとらえ、それと情報軽視を結びつけて、「軍人が精神主義によって無謀な戦争に駆り 立て、敗北した」と結論付け、すべての原因を軍事独走に押し付ける のは“お門違い”ではないだろうか?  

 戦略情報を作成すべき内閣、外務省はどうだったのか? そしてマスコミや国民はどうだったのか? これらの点もよくよく分析しなければならない。

▼情報関係の記述  

 情報関係の記述は『野外要務令』から『陣中要務令』の系譜に求められる。  明治期の『野外要務令』では、捜索という用語は随所にみられ るが、情報、諜報はそれぞれ1か所である。  

 大正期の『陣中要務令』では「情報」の使用は『野外要務令』 と比べると多少増えてはいるが、「情報」の定義および内容など を直接的に説明した箇所は見当たらない。他方で同要務令では、 「捜索」と「諜報」の定義とその内容が具体的に記述された点は 注目に値する。

 同要務令は計13編の構成になっているが、その第3編が「捜 索」、第4編が「諜報」となっており、「捜索」と「諜報」がそ れぞれ編立てされた。このような経緯を踏まえて、先述の『統帥 綱領』および『統帥参考』では、情報が捜索と諜報から構成され る、ということが体系的に整理されたのである。  

 では、『作戦要務令』では情報関連の記述はどうなっているだろうか? 『作戦要務令・第1部』(1938年版)では第3編 「情報」を編立てにし、第1章「捜索」と第2章「諜報」をそれ ぞれ章立てしている。

 記述内容は『陣中要務令』および『統帥参考』の、ほぼ“焼き 直し”という状態であり、特段に注目する条文があるわけでない。 ただし、72条に「収集せる情報は的確なる審査によりてその真否、価値等を決定するを要す。これがため、まず各情報の出所、 偵知の時機及び方法等を考察し正確の度を判定し、次いでこれと 関係諸情報とを比較総合し判決を求めるものとす。また、たとえ 判決を得た情報いえども更に審査を継続する着意あるを要す」の条文がある。

 ここでの「情報を審査して、比較総合し、判決する」というこ とは、今日のインフォメーションからインテリジェンスへの転換 のことを述べている。すなわち、情報循環(インテリジェンンス・ サイクル)という今日のもっとも重要な「情報理論」の萌芽を 『作戦要務令』に求めることができるのである。

 この点は大いに 注目すべきである。 しかし、実はこの『情報理論』の萌芽にはもう少し時代を遡る 必要がある。すなわち、ある「軍事極秘」の軍事教典に着目する 必要がある。それは1928年に作成された、幻の軍事教典とも いうべき『諜報宣伝勤務指針』である。