わが国の情報史(44)  秘密戦と陸軍中野学校(その6)   陸軍中野学校における教育の温度差     

▼講義内容がテンデバラバラ?  

 中野学校での教育について、乙Ⅰ長期(2期生)原田統吉氏は、 『風と雲 最後の諜報将校』において、「最初に奇妙に感じた ことは、それそれぞれの講義の内容がテンデバラバラであること だ」と述べ、次のような事例を挙げている。  

 少し、長文になるが引用したい。

  「当時参謀本部の英米課の課長の杉田参謀が(筆者注:杉田一次、  すぎたいちじ、陸士37期・陸大44期。最終階級は帝国陸軍では陸軍大佐、陸自では陸上幕僚長を歴任。当時杉田氏は少佐 に昇任したばかりであるので単なる部員)、その『英米事情』 の最初の講義の時間に、英米に対する意見をワラ半紙に書かせて、生徒全員から徴収したことがあった。 これは試験などというものではなく、教官が生徒の理解や知識 の程度を掴むための参考にするデータであって、これによって 教官は講話の内容を決めたものらしい。 甲谷さん(筆者注:甲谷悦男、こうたにえつお、陸軍大佐、陸 士35期、参謀本部ソ連課参謀、ソ連大使館付武官輔、大本営戦争指導課長、ドイツ大使館付武官輔佐官、戦後は公安調査庁参事官やKDK研究所長)などは、『ソ連要人の名前を知っているだけ書け』というような問題を出し、その場でめくって見て『うん、去年の連中よりはよく知っているな……』と軽く言  い放って、講義をはじめたものである。 しかし杉田さんの場合は違っていた。見終ると、T学生を指名して、『君の英米に対する認識および判断の理由は?』と聞く。  Tがその前日、支那事情の教官から受けた講義の線に沿って説明すると、非常に不機嫌になり、他の二、三の学生にもそれと同様の質問をし、同じような答えが返って来ると益々不機嫌になり、多少の論争の後、『本日はこれで終わる』と帰ってしま った。 まだ稚(おさな)かったわれわれは軍の画一主義から抜け出しておらず、しかも参謀本部ともあろうものは、一つの認識と一つの意志とに統一されているべきものだと思っていたのだ。 要するに『諸悪の根源は英米にして、英米やがて討つべし』という先日の教官の意見は、われわれに無批判に受け入れられていたのである。 ところが、杉田参謀はその後一度も講義に来ないのである。多少の誤解もあったのだが、『あのような、単純な反英米的教育が行われているところへ講義に行っても無駄だ…』というのが理由であったらしい。杉田さんというのは後年、自衛隊の陸幕長をつとめた杉田一次氏である。  このように、実に多様の、食い違い、相反する認識と意見が、そこの教壇ではそれぞれ強い情熱とともに語られ、われわれは新しい学び方を急速に身につけなければならなかった。 この学校の最も中心的なテーマである『情報』ということば一つにしても、各人各様の解釈があつたのである」

▼杉田参謀の心中は?  

 原田氏の発言は当時の陸軍参謀部内の情勢認識や戦略判断の相 違を裏付けるものとして興味深い。 杉田氏は戦後になって『情報なき戦争指導─大本営情報参謀の 回想』を著すが、同書では、大本営(陸軍参謀本部)で仕えた1 1人の第2部長の各時代における情報活動が描かれるとともに、 当時の国家の情勢認識や戦略判断が詳細に述べられている。

 杉田氏は米国駐在経験が豊富な知米派であって、米国の国力な どを認識していたから対米戦争絶対回避の立場をとっていた。彼 は、親独派の陸軍高官や松岡外相などが日独伊三国同盟にひた走 り、それがわが国を対米英決戦へと駆り立てたとの批判的な見方 も示している。  

 海軍の山本五十六連合艦隊司令長官については、「表面的には対米戦争回避を主張するも、その実態は真珠湾の先制攻撃がやりたく て仕方なかった」というようなトーンで、その人物像を描いてい る。  

 かいつまんで言えば、杉田氏は、米国との戦争の蓋然性が高く なっても、参謀本部第2部長には米国を知らない親独派がずっと就任し、こうした歪められた恣意的な人事が、正しい情報認識を阻害し、米国との戦争に突き進んだ原因である旨を主張しているのであ る。  

 このような杉田氏であったから、前出の中野学校での講義にお ける学生の応答に対し、激しい嫌悪感あるいは諦念感を抱いたの であろう。決して、「一つの意見や情報を無批判に受け入れるな」 との、学生に対する印象教育が狙いではない。  

 原田氏は「この道においては、すべてが参考に過ぎない。自分で考え、自分で編みだし、自分で結論せよということである」と述べており、結果的に杉田氏の教育放棄から得るものがあったと 語っている。  

 他方、原田氏はロシア課の甲谷氏の温情的なエピソードと対比 して杉田氏の事例を紹介している。ここには参謀本部による中野 学校に対する期待値あるいは温度差がバラバラであることへの悲哀感の吐露もうかがえる。  

 杉田氏の著書『情報なき戦争指導』を読む限りにおいて、筆者は戦略情報に対する杉田氏の見識の高さを覚えるが、杉田氏から、諜報や謀略など、いわゆる秘密戦への関心はほとんど感じられない。同著においては秘密戦のことや陸軍中野学校に関することはほとんど触れられておらず、おそらく杉田氏は、諜報、 謀略などいうものは“邪道”としてみていたのではないだろうか。  

 筆者は平時における戦略情報こそが最も重要であり、その情勢判断こそが国家の生存・繁栄をもたらすと考えている。しかし他方で、秘密戦ともいうべき情報活動は絶対に軽視してはならないと考えている。  

 第二次世界大戦における勝利の要訣は秘密戦にあった。当時の英国首相・チャーチルは、対独戦争を優位に展開するため、米国 を第二次世界大戦の舞台に引っ張りこんでわが国と戦わせた。秘 密戦によって日独の連携を離間させた。  

 杉田氏は戦後に陸上幕僚長に就任する。戦後、陸上自衛隊において秘密戦は忌避され、諜報、防諜、謀略などの言葉も使われな くなった。この両方の相関関係については定かではないが、杉田氏が中野学校や秘密戦についてどのような認識を持っていたか、それを陸上自衛隊の運営において何らかの教訓として活用したのか、この点を聞いてみたかったなと思う次第である。  

 むろん、筆者と杉田氏の年齢差からして物理的に不可能な話ではある。

▼中野学校の創設は陸軍の総意ではなかった  

 中野学校の入校学生は全国から選りすぐりの精鋭であった。しかし、陸軍内では総力戦の趨勢と先行き不透明な時代の“寵児” として中野学校の卒業生に大いに期待する者もいれば、そうでな い者もいた。  

 陸軍上層部と中野学校関係者とでは、卒業生あるいは学校に対 する期待値に大きな温度差があったとみられる。 また参謀本部内においても作戦部門と情報部門では温度差があ り、その情報部門を所掌する参謀本部第2部の中でも中野学校への期待値は異なっていたのである。  

 そもそも参謀本部は中野学校の創設や秘密戦士の育成には全体 として乗り気ではなかったようだ。ただ参謀本部第5課(ロシア課)だけが、共産主義イデオロギーの輸出や諜報、謀略を展開するソ連の国家情報機関の恐ろしさを認識していたので、秘密戦士 の育成に積極的であったという。  

 しかし、参謀本部の第6課(欧米課)、第7課(支那課)は 「それができれば駐在武官の必要性がなくなって困る」と考えたのか、強硬に設立反対を唱えた者もいたようである (畠山『秘録 陸軍中野学校』ほか)。  

 陸軍省内では、入校した1期生と当時の兵務局長の今村均少将 との会食が行なわれたり、1期生に対する東條英機陸軍次官の校内巡視があったりなど、中野学校を重視する傾向はうかがえた。  

 しかしながら、総じて言うならば、参謀本部第5課、そして兵務局や軍務局の一部を除いては秘密戦士の育成には無関心であっ たと言わざるを得ない。だから設立費用も乏しく、当初は愛国婦 人会の建物の一部を借りて、寺子屋式で出発したのであろう。  

 教育を担当する学校関係者と陸軍上層部の思いには大きな差が あったことは筆者の経験からも「なるほどな」と思われる節があ る。詳細は割愛するが、筆者は陸上自衛隊では初めての試験選抜の情報課程(総合情報課程)の第1期学生長として入校した。

 我々に対する、学校関係者の高い心意気と、陸上幕僚監部あるい は現場の情報部隊との冷静ともいえる対応には、やはり温度差を感じた。 教育内容ひとつをとっても、学校関係者は学生に対してできる だけ多くのことを、現地研修などを通じて、現地・現物で学ばせ ようと一所懸命に尽力する。しかし、受け入れ側の上級組織や情 報組織の現場では、「保全意識も確立していない学生に対して、 秘匿度の高いものを“おいそれ”とはみせられない」ということ になる。

▼中野学校の基礎教育が功を奏した  

 中野学校の1期生たちの活躍は総じて評価が高かったようであ る。各部署から中野卒業生を多く取ってほしいとの現場の声が止 まないという。これが、後方勤務要員養成所が認知され、陸軍省直轄の中野学校、そして参謀本部直轄の中野学校として発展を遂 げた、一つの要因でもあったろう。  

 ただ、中野学校の1期生たちの卒業後の活躍が、すなわち中野学校の教育がすぐれていたというわけではない。そもそも、1年程度の教育期間をもってして素人を一人前の秘密戦士として大化(おおば)けさせることはほぼ不可能である。  

 単純には比較することはできないが、冷戦期のソ連KGBには 海外に派遣する秘密スパイを養成するための「ガイツナ」と呼ば れる特別訓練施設があったとされる。ここでは、外国人になるき るために10年以上の訓練が行なわれたとされる。  

 それに、中野卒業生に期待する役割についても一様ではなかっ た。太平洋戦争以前の1期生や2期生長期学生に期待されたのは、 『替らざる武官』であった。 しかし、中野卒業生の任務は時代変化に翻弄され、特務機関の 要員、さらには残置諜者、国内ゲリラ戦の従事者などへと変化した。つまり、教育目的の変化に対して、教育内容が追随できたのかも疑わしい。  

 それでも、各所において中野卒業生が目覚ましい働きができた とすれば、それは優秀な学生を選抜したことにつきる。そして、 学校関係者が彼らをエリート学生として尊重し、自由闊達な気風 のなかで、彼らの自主性を重んじたからである。決して画一的な 教育が功を奏したわけではないといえよう。  

 強(し)いて言えば、教育面については、秘密戦士などとして 成長するための素地を授ける基礎教育を重視したことが功を奏したのであろう。さらに言えば、情報戦士の在り方を追求した中野 学校における精神教育が、中野卒業生の中に期を超えた同志愛を 醸成し、すすんで難局な任務にあたらせたと言えよう。

わが国の情報史(43) 秘密戦と陸軍中野学校(その5) 陸軍中野学校における教育の欠落事項

▼はじめに

 前回は陸軍中野学校の1期生の教育内容を紹介し、それを私の経験則から分析して、教育内容の特質を明らかにした。 今回は、その続きであるが、中野学校の教育で欠けていたことに焦点をあてることにする。

▼旧軍には「情報理論」は存在しなかったのか?  

 戦後になって自衛隊入隊し、陸上自衛隊の『情報教範』の作成 に従事した松本重夫氏は、米軍の「情報教範(マニュアル)」な どを引き合いに、次のように回想している。

「私が初めて米軍の『情報教範(マニュアル)』と『小部隊の情 報(連隊レベル以下のマニュアル)を見て、いかに論理的、学問 的に出来上がっている者かを知り、驚き入った覚えがある。それ に比べて、旧軍でいうところの“情報”というものは、単に先輩 から徒弟職的に引き継がれていたもの程度にすぎなかった。私に とって『情報学』または『情報理論』と呼ばれるものとの出会い はこれが最初であった」(松本重夫『自衛隊「影の部隊」情報戦 秘録』)  

 松本氏は、自著の中で「情報とは、『組織』と『活動』によっ て得られた『知識』である」「情報資料(インフォメーション) と情報(インテリジェンス)を峻別することが重要である」「情 報資料を情報に転換する処理は、記録、評価、判定からなり、い かに貴重な情報資料であっても、その処理を誤れば何らその価値 を発揮しない」などの情報理論を縷々述べている。  

 では、松本氏が言うように、旧軍には「情報理論」はまったく 存在しなかったのだろうか?  

 1928年頃に作成されたと推定される「諜報宣伝勤務指針」 においては諜報、宣伝、謀略の意義や方法論についてはかなり詳細に述べられているが、松本氏が指摘するようにインテリジェンスとインフォメーションの明確な区分はない。  

 しかし、第1編「諜報勤務」の中には、「敵国、敵軍そのほか 探知せんとする事物に関する情報の蒐集(しゅうしゅう)、査覈 (さかく)、判断並びに、これが伝達普及に任ずる一切の業務を 情報勤務と総称し、……」の条文がある。    

 また1938年に制定された「作戦要務令」では以下の条文が ある。 「収集せる情報は的確なる審査によりてその真否、価値等を決定 するを要す。これがため、まず各情報の出所、偵知の時機及び方 法等を考察し正確の度を判定し、次いでこれと関係諸情報とを比 較総合し判決を求めるものとす。また、たとえ判決を得た情報い えども更に審査を継続する着意あるを要す。(以下略)」(72 条)

  「情報の審査にあたりて先入主となり、或は的確なる憑拠なき想 像に陥ることなきを要す。また、一見瑣末の情報といえど全般よ り観察するか、もしくは他の情報と比較研究するときは重要なる 資料を得ることあり。なお局部的判断にとらわれ、あるいは 敵の 欺騙、宣伝等により、おうおう大なる誤謬を招来することあるに 注意するを要す。」(74条)  

 ここでの査覈と審査とほぼ同じ意味であると解釈され、これら は生情報(インフォメーション)の情報源の信頼性、生情報その もの正確性などを調べて評価すると意味になるだろう。つまり、 旧軍の教範でも、生情報を直接に使用してはならないことが戒め られている。  

 以上から、今日の情報理論の中核ともいうべき、「インフォメ ーションを処理してインテリジェンスに転換する」ということの 必要性とその要領については、明確性や具体性に欠けるとはいう ものの、旧軍教範ですでに提示していたといえるだろう。

 ▼実戦では生情報が垂れ流し  

 しかし、実戦では生情報の垂れ流し状態であったようだ。これ にはいくつかの理由はあったとみられるが、小谷賢『日本軍のイ ンテリジェンス』は次のように述べている。 「さらに問題は、生の情報や、加工された情報の流れが理路整然 としておらず、いきなり生情報が報告されることもあった。これは情報部が生情報や、加工された情報の流れをコントロールできていなかったことに起因する。(中略)  

 終戦近くになると、参謀本部は南方情報を北のハルピンから報 告される『哈特諜(ハルピン情報)』に頼るようになるが、これ も生情報がそのまま報告されており、きわめて危険な状態であっ た。なぜならば既述したように、ハルピン情報はソ連の偽情報の可能性が高かったためである。(以下略)」  

 ようするに、小谷氏の研究によれば、偽情報である生情報を他の人的情報(ヒューミント)や文書情報(ドキュメント)と照合してインテリジェンスを生成するという情報原則は、現場では遵守されなかったようだ。  

 さらに小谷氏は次のように述べている。 「恐らく当時、『情報』を『インテリジェンス』の意味で捉えていたのは、陸海軍の情報部だけであった。情報部にとっての 『情報』とは分析、加工された後の情報のことである。

 しかし作戦部などから見た場合、『情報』とは『インフォメーション』であり、生情報のことであった。彼らに言わせれば、情報部はデータの類を集めて持ってくれば良いのである。そして作 戦部が作戦立案のためにそれらのデータを取捨選択すれば良かっ た。 すなわち作戦部と情報部の対立の根源は、『情報」という概念をどのように解釈するかであり、双方が対立した場合、力関係か ら作戦部の意見が通るのは当然であった。」(前掲『日本軍のイ ンテリジェンス』)  

 つまり、情報部では情報の処理の必要性などは理解されていたが、 作戦部における情報理論の無知と、そこから生じる情報部の軽視 が蔓延(はびこ)っていた、ということだろうかか?

▼中野学校における「情報理論」教育  

 中野学校では「情報理論」についてどのような教育が行なわれ ていたのだろうか?  乙Ⅰ長期(2期生)の平館勝治氏の言によれば、2期生の教育では参謀本部第8課から中野学校に派遣された教官が「諜報宣伝 勤務指針」を携行して教育を行なっていたようである(1期生の教育において「諜報宣伝勤務指針」という極秘の情報教範が活用 されたかどうかは不明)  

 平館氏は、戦後になって以下のように発言をしている。

「私が1952年7月に警察予備隊(のちの自衛隊)に入って、 米軍将校から彼等の情報マニュアル(入隊1か月位の新兵に情報教育をする一般教科書)で情報教育を受けました。その時、彼等の情報処理の要領が、私が中野学校で習った情報の査覈(さかく) と非常によく似ていました。 ただ、彼等のやり方は五段階法を導入し論理的に情報を分析し、 評価判定し、利用する方法をとっていました。

 それを聞いて、不思議な思いをしながらも情報の原則などというものは万国共通のも のなんだな、とひとり合点していましたが、第四報で報告した河辺正三大将のお話を知り、はじめて謎がとけると共に愕然としま した。  

 ドイツは河辺少佐に種本(筆者注:「諜報宣伝勤務指針」を作 成した元資料)をくれると同時に、米国にも同じ物をくれていた と想像されたからです。しかも、米国はこの種本に改良工夫を加 え、広く一般兵にまで情報教育をしていたのに反し、日本はその 種本に何等改良を加えることもなく、秘密だ、秘密だといって後生大事にしまいこみ、なるべく見せないようにしていました。 この種本を基にして、われわれは中野学校で情報教育を受けたのですが、敵はすでに我々の教育と同等以上の教育をしていたもの と察せられ、戦は開戦前から勝敗がついていたようなものであっ たと感じました(「諜報宣伝勤務指針」の解説、2012年12 月22日)。  

 上述のように同指針では、生情報を直接に使用してはならないことの戒めや、生情報の正確度の判定などについて述べられていた。 しかしながら、 同指針は秘匿度が「機密書」に次いで高い「極秘書」 であったので、学生が自由に閲覧する、ましてや書き写して自習用に活用するなどはできなかった。

 したがって、教官がその中に 書かれている内容の一部を掻い摘んで学生に教えるというのが “関の山”である。「諜報宣伝勤務指針」の内容が学生に十分に 定着したとは到底言えない。 要するに平館氏がいうように、秘密、秘密といった秘密主義がせっかくの 教範を“宝の持ち腐れ”にしてしまった可能性がある。

▼保全に対する形式主義が教育成果を妨げた?  

 時代はさらに遡るが、日露戦争における日本海海戦の大勝利の 立役者・秋山真之が米国に留学した。米国海軍においては末端ク ラスまでに作戦理解の徹底が図られていることに感嘆した。  

 しかし、秋山は帰国して1902年に海軍大学校の教官に就任 し、教鞭したところ、基本的な戦術を艦長クラスが理解していないことに驚いたという。なぜならば、秘密保持の観点から、戦術 は一部の指揮官、幕僚にしか知らされなかったからである。    

 そこで秋山は「有益なる技術上の智識が敵に遺漏するを恐るる よりは、むしろその智識が味方全般に普及・応用されざることを 憂うる次第に御座候(ござそうろう)」との悲痛の手紙を上官に したためた。

 どうやら、平館氏によれば、なんでもかんでも秘密、秘密にす る風潮は昭和の軍隊においては改められなかったようだ。 米国は種本とみられるドイツ本に改良工夫を加え、広く一般兵 にまで普及できる情報理論を確立していった。一方のわが国では、 秘密戦士を要請する中野学校においてでさえ、形式的な秘密主義 が妨げとなり、教えるべき事項の出し惜しみがあった。  

 自由な雰囲気で、自主的学習が重んじられた中野学校ではあっ たが、当時の陸軍上層部の形式主義によって「諜報宣伝勤務指針」 が改良と工夫をされて、中野学校における情報教育に反映されな かったとすれば非常に残念なことであったといえるだろう。

▼教範の秘密保全について  

 米軍はインターネットで情報マニュアルなどを公開しているが、 わが国においても教範類は公開すべきだ、というのが筆者の論で ある。ちなみに日本が不透明、不透明といっている中国軍におい ては、軍関係機関が多数の軍事書籍を出版し、それが国民全体の 軍事知識を押し上げ、愛国心向上に一役買っているという。  

 正直言って、自衛隊の相当数の教範は内容的に公開されても何 ら問題はないと思うし、そもそも教範は原則事項を記述するもの であって、不要なことや混乱を招くようなことを記述すべきでは ない。その取捨選択が行なわれていないとすれば、そのことの方 が問題である。  公開して差し支えないものまで秘密にしようとするから、無用 な詮索や勝手解釈が起こるのであるし、世間がことさら注目する ことにもなる。教範漏洩事件が起きたり、インターネットオーク ションで教範が売られたりすることにもなるのである。  

 繰り返すが、教範は原則事項の記述であって、そのままでは実戦においてはまったく役に立たないといっても過言ではない。今日の 「孫子」にさまざまな領域での解釈が付けられているように、教範にさまざまな解釈が加えられ、さらに可視化、形式知化が進み、 国家全体として安全保障などの知識やノウハウの向上が望ましい と考える。  

 教育の現場においては、教官が学生に対し、自らの経験や自学 研鑽をもって教範に独自解釈を加え、具体例をもって学生の理解を促進しなければならない。そうでなければ学生は、教範に書かれていることの本質を理解できないであろう。教官独自の副読本 なども必要になるし、そこに教範の一般価値を超えた教官の力量 がものをいうことになるのである。  

 他方、学生は教範に日常的に親しんで、想像力と創造力をもっ て繰り返し読むことが重要である。教範の厳重管理などとよく言 われるが、教範は鍵がかかるような引き出しに入れておくような ものではないと、筆者は考える。時にはベッドに寝転んで読む、 そして自ら課題を設定し、思索しつつ読む。そうした自由な環境 と、積極的な精神活動を欠いてしまえば、教範は結局のところ “宝の持ち腐れ”になるのではないか。

わが国の情報史(42) 秘密戦と陸軍中野学校(その4) 陸軍中野学校の教育の特色

▼はじめに

 さて、前回は陸軍中野学校の教育内容を理解するため、第1期 生の教育課目を紹介した。今回はその続きで、教育課目から 見る教育の特色などについて考えてみたいと思う。

▼印象教育の重視  

 第1期生の教育課目表をざっと眺めて感じることは「1年間程度の期間のなかで、よくもこれだけ多くの教育課目を組んでいる な!」ということである。 筆者は陸上自衛官時代に約1年間の情報課程を履修し、また同課程の課程主任にも就いたことがある。こうした経験から察するに、学生は次から次へと与えられる教育課目についていくのが精 一杯で、おそらく履修した内容を定着させる余裕はなかったと思 う。いわゆる“消化不良”を起こしていたのではなかろうか?    

 たとえば実科では秘密通信、写真術、変装術、開緘術、開錠術 といった秘密戦遂行のための課目が組まれているが、実科に与え られた総配当時間は118時間であった(『陸軍中野学 校のすべて』の17頁掲載の1期生の教育実施予定表)。  

 便宜上、総配当時間を単純に5等分すれば(5課目に割る)、 各課目の授業時数は20時間強となる。これでは封書を開ける開緘術、錠を開ける開錠術などを修得することは不可能であったろ う。

 ようするに「へえ~、こういう技術もあるんだ!」という体験 をさせることが趣旨であったと思われる。つまり、「このような技術が必要な実際場面に出くわすかどうかはわかないが、仮に出 くわしたならば、ここでの教育を思い出し、自らの工夫と技術研鑽で乗り越えよ!」という趣旨であったのだろう。  

 あるいは、相手側がこうした技術を持っていることを意識させ、 自らの諜報、謀略などの活動に対する防諜観念を高めさせる狙いがあったとみられる。  

 つまり実用性というよりも印象教育を重視したのだと思われる。

▼科学化を意識した教育  

 印象教育の重視とはいうものの「諜報、謀略の科学化」を目指 した中野学校ならではの教育方針を垣間見ることはできる。

 特殊爆薬、偽造紙幣、秘密カメラ、盗聴用器などの教育につい ては、当時、謀略器材の研究にあたっていた秘密戦研究所(登戸研究所)の協力を得て実施された。  同研究所は第1次世界大戦において、航空機兵器や化学兵器 (毒ガス)という近代兵器が登場したことなどから、各国は科学・ 技術を重要視した軍事的政策をとるようになった。わが国も、こ れに後れてはならないとして触発され、1927年4月に研究所を創設した。  

 つまり「諜報、謀略の科学化」の大きな目的の一つが、近代兵器の開発と、それに対応する秘密戦士の育成というわけである。  

 また、一般教養基礎学においては統計学、心理学、気象学といった課目が教えられた。統計学に8時間、心理学に5時間が配当 された(前掲『陸軍中野学校のすべて』)。  

 もちろん十分な授業時数ではないが、それでも、終戦後に出光石油に勤務した1期生の牧沢義夫氏は、中野学校の教育で実務に役立ったのは統計学と資源調査のリサーチ法であったと語ってい る(斉藤充功『証言 陸軍中野学校 卒業生たちの追憶』)。こ うした課目も基礎教育としての価値は十分にあったとみられる。  

 筆者は退職後、情報分析官としての必要な知識、技能および資質を養成する上で何が重要であったかと時々回想することがあるが、統計学、心理学、さらには(中野学校の教育課目にはなかったが)哲学の素養が重要であるとの考えに至った。  

 たとえば、ビジネスにおけるデータ分析などの本や論文などを 読んでいると「ベイズの定理(条件付き確率)」といった言葉がよく出てくる。これは統計学を学んだ者にとっては常識であるよ うだが、かつての私の現職時代を振り返っても、この定理が話題 になったような記憶はほとんどない。

 「ベイズの定理」とは「ある事象が起こったという条件のもとで の事象が起きる確率」のことである。たとえば最初に、(1)X国が Y国を攻撃する(10%)、(2)X国はY国を攻撃しない(90%) の2つの仮説とその確率を立てたとする。そののちに、Y国指導者が「ミサイル実験は中止する」と発言したとすれば、最初の仮説を適度に見直す必要がある。  

 ここでは詳細説明は割愛するが、人間はあとで生じた情報、 すなわち「ミサイル実験は中止する」を過度に重視して、最初の事前確率(10%、90%)を無視して、最初の仮説の確率を大幅に引き上げたり、引き下げたりする。 そうした心理的バイアスを排除して、冷静な分析を可能にするのが「ベイズの定理」である。  

 現状分析や未来予測において、データやインフォメーションか らインテリジェンスを生成するためには定量的な分析が欠かせない。しかし、しばしば定性的な分析にとどまることの一つの原因 としては、統計学の素養がないことがあげられよう。  

 中野学校において、どのような統計学の授業が行なわれたかは 定かではないが、たとえ授業時数が不十分であったとしても、か かる課目の重要性をしっかりと認識していた点については、情報教育に対する視野の広さを感じる。

▼ユニークな教育で危機回避能力の向上  

 1期生の術課においては、自動車学校、通信学校、工兵学校、 飛行学校などへ行って、無線の操作、自動車や飛行機の操縦練習などを行なったようである。もちろん、わずかな教育時間で飛行機が自由自在に操縦できるなどありえないことであるが、これら は何らかの想定外の事態が発生した場合の危機回避法の修得が 狙いであったのであろう。  

 さらにユニークな教育として今も語り伝えられているのが、甲賀流忍術14世名人の藤田西湖氏による忍術教育である。この教育は今日もさまざまな形で、おもしろおかしく取り上げられ、し かも脚色されている。このことが中野卒業生が“スーパー忍者” であったかのような誤情報の伝播原因ともなっている。  

 忍術教育には8時間(3回)の授業時数が配当され、藤田によ る講義と実演のみであり、学生の実習はなかったようである。藤田は節(ふし)を抜いたタケをもって水中にもぐりひそむ法、腕や足の関節をはずしてワナを抜ける法、音をたてずに歩いたり階 段を上がったりする法、壁や天井をはい回る術などを、みずから 実践してみせてくれたという(畠山清行『秘録陸軍中野学校』)。  

 忍術といえば、いかさま“インチキ手品”のようにも受け捉られかねないが、捏造的な実演が展示されたわけでもない。藤田は 「犬の鳴き声をするとメス犬が吠える」と言って、犬の鳴き声を 実演したが、なかなか思うような状況にはならなかったようである。  

 藤田によれば次のように忍術と情報活動との関係を説明している。 「忍術は常にいつの時代においても行なわれており、忍術という ものの行なわれない時は一日としてない、ことに現代のごとく生存競争の活舞台が層一層の激甚を加える時、人事百般、あらゆることに、あらゆる機会においてこの忍術は行なわれ、忍術の行な われない社会はない。 ただ忍術という名前において行なわれないだけである。

 忍術と いうものはかつての軍事偵察、今日でいう間諜の術=スパイ術である。このスパイ、間諜というものは、いつの時代においても盛 んに活躍していたもので、今日支那事変や大東亜戦争が起こると、 世界各国の種々なる間諜、スパイが一層活躍しているのである」 (藤田西湖『忍術からスパイ戦争』。現代仮名遣いに改め)  

 忍者は飛鳥時代にすでに発祥したといわれ、中野学校の精神教育の理想像とされた楠木正成も忍者のルーツを引く。忍者は時代 を問わず、ずっと“日陰者”として存在し、主君に誠を誓い、主君の窮地を しばしば救った。そうした忍者に関する講義を通じて、学生に危機を回避するうえでの伝統的な知恵を授けると同時に、国家に対する忠誠心を涵養する狙いがあったのであろう。

  「諜者は死なず」という短句が象徴するとおり、「秘密戦士は任 務完遂するまで、たとえ捕虜になろうとも、片眼、片腕、片脚を失っても情報伝達のために帰ってこい、死んではならない」と教育された。この点についても諜報員と忍者とは共通するものがある。自動車学校などにおける操縦訓練や忍術教育は、このような秘密戦士の特性に鑑みた危機回避法や生存自活法が狙いであったといえるだろう。  

 さらにユニークな教育としては、前科十何犯かという有名な掏摸(すり)を招いての実演や、偽編術(ぎへんじゅつ、変装術の ことをこう呼んだ)の講師としてめったにお目にかかれないような絶世の美人になりきった新派の元女形も登場したようである。  

 これらも、実際の掏摸や元女形から情報の窃取や変装の技術を学ぶというよりも、情報や諜報活動上の保全の重要性、あるいは先入観で物事を見たりすることの危険性、平素の観察力のいいか げんさ、などを感覚・知覚的に理解させる印象教育が狙いであっ たであろう。  

 中野学校の前身である後方勤務要員養成所の所長、秋草俊は 「万物これ悉(ことごと)く我が師なり」を教育哲理としていたようである。

 「秘密戦士にとって役立つと思えば、教育は形式に とらわれるべきではない。学生が自由な発想で秘密戦士にとって 何が必要であるかの答え見つけ出すことが重要なのだ。教官はそ の手伝いをしているに過ぎないのだ」というような、当時の秋草 の語り口さえ想像できる。

▼自主と創意工夫を重視  

 教育内容の主軸となる諜報、謀略、防諜、宣伝については、中 野学校職員による諸外国の実例についての講義が主体であったよ うであるが、これに加えて参謀本部の謀略課(第8課)などから 部外講師が私服に着替えて来校して、授業を行なっていたようで ある。  

 1期生の日下部一郎氏の著書『陸軍中野学校 実録』には以下 の件がある。 「講義もまた型破りであった。教科書がない。教材がない。も ちろん、一貫した教育方針や指導基準があるわけではなかった。 講義は、各教官の思いどおりに、自由な形で行われた。  

 わが国の戦国時代や、中国の戦史や、日清、日露その他の戦史 の中から、秘密戦に関する記録を収集したり、海外武官による各国の視察報告をまとめたりして、教材をしだいに作っていく状態 であった。」  

 つまり、当初の教育は手探り状態であり、それゆえに型にはま らない、自由発想と創意工夫が重んじられたとみられる。また教官は学生と一体となって秘密戦という未開拓の分野を共同研究し たようである。教官は学生と共に考え、教え合うことで成長する のである。  

 1期生は借家居住といういわゆる寺子屋式のなかで共同生活をした。また教育管理はおおらかであり、余暇には外出時間の制限 もなかったという。こうした自由闊達の雰囲気のなかで、学生は 自主自律の精神を陶冶したのであろう。  

 話は脇道にそれるが、筆者が所属した陸上自衛隊調査学校や 同小平学校では学生に対して「24:00帰校ルール」と いうものがあった。夜中の12時までに学校の警衛所を通過して帰校しなければならないというものである(現在、存続しているか どうかわからない)。  

 すでに就寝している学生もいるし、どやどやと音を立てて学生舎に帰ってきても困る、外出している学生自身も明日の授業に差 し障りがあるという、学校上層部の当然と言えば当然の判断であったように思う。 ただ、時代やおかれた環境が違うといえばそれまでであるが、自律心 という点ではまことに情けないといわざるを得ない。

▼明石大佐を模範とする理想像の追求  

 前出の日下部は、「学生たちにもっとも深い感銘を与えたのは、 日露戦争における明石元二郎大佐の活躍であった」として、以下 のように述べる。 「中野学校の錬成要綱の一つに、『外なる天業恢弘(てんぎょう かいこう、筆者注:天皇の事業を世に推しひろめるという意味) の範を明石大佐にとる』という言葉があった。

 中野学校の目的は、 単なる秘密戦士の養成ではなく、神の意志に基づいて、世界人類 の平和を確立するという大きいものであり、そしてその模範とすべきは明石大佐である、という意味だ。実際に、明石大佐の報告書と『革命のしおり』という標題のつけられた大佐の諜報活動記録は教材に用いられ、それによって、学生たちは大いに鍛えぬか れたのである。以下略)」  

 つまり、教科書や教材が不十分であって教育方針も固まらないなかで、教育の理想像とされたのが日露戦争時の明石大佐であっ た。明石大佐の活躍については、本シリーズ「わが国の情報史」 ではたびたび触れているが、ここでもう一度簡単におさらいを しておこう。  

 明石大佐は、1904年の日露戦争の開戦前から駐露公使館付武官をつとめ、開戦とともにスウェーデンのストックホルムに根拠を移し、欧州各地に縦横に動き回り、対ロシア政治工作に従事 した。  

 上述の報告書とは、明石大佐が帰国して1906年に参謀本部 に出された『明石復命書』のことであり、明石自身がこれに『落花流水』と題をつけたとされている。また『革命のしおり』とは、 この報告書を参謀本部の倉庫から探し出し、秋草、福本、伊藤の三教官が徹夜で謄写版刷りの教材にまとめあげたものとされる。  

 今日『落花流水』は一般書籍にも収録されている。この記述内容から、公刊資料を活用しての任国の政治情勢、民情、敵対勢力や友好勢力に関わる分析手法、現地における協力者との接触要領、 革命・扇動の準備工作や留意点などの教育が中野学校で行なわれたとみられる。  

 1940年10月の乙Ⅰ長(2期生)の卒業式には東条英機陸軍大臣が出席し、席上、首席学生は明石大佐の政治謀略について講演した。つまり明石謀略は学生の必須の自主命題とされ、教育課目の内外において自学研鑽が重ねられたとみられる。  

 また教官は、明石大佐の活躍を称賛する一方で、その活躍がこ のほか世の中に語られていない状況を次のように示唆したようである。

「明石大佐のような日露戦争の最大功労者であっても、その帰 国を迎えた者は、人目をはばかってカーキ色の軍服をさけ、私服 に二重まわし姿の児玉源太郎将軍ただ一人であった。この報告書 に至ってはホコリをかぶり、眠り続けている。それでも明石大佐 は駐露武官である。ましてや秘密戦士の功績は語ることもできな ければ、敵国に捕えられれば銃殺や絞首刑は免れない。それでも 貴様らは耐えられるか。耐えられなければ遠慮なく辞職を申して出てもらいたい」(筆者が畠山『秘録陸軍中野学校』から要点を抽 出して作文)  

 このように明石謀略は秘密戦の知識・技能の教育にとどまらず、 秘密戦士の道を説く精神教育としても恰好の題材となったのであ る。  

 現在となっては、明石がレーニンと直接に会ったという事実はないとされ、明石謀略によって帝政ロシア内で大衆を動員して革命扇動を起こさせた、などについても疑義が呈されている。  

 しかし当時は、ドイツ皇帝ウィルヘルム2世が「明石1人で、 大山大将の満州軍25万人に匹敵する成果を挙げ、第一次世界大戦では、明石の手法をまねて、ついに帝政ロシアを崩壊させた」 などのことが事実として語り継がれており、学生たちにとって明石大佐は紛れもなくヒーローであったのである。 (次回に続く)

わが国の情報史(41) 秘密戦と陸軍中野学校(その3) 陸軍中野学校の学生選抜と教育方針

▼はじめに

 さて、今回は「秘密戦と陸軍中野学校」編の第3回である。中野学校の学生選抜と教育方針について解説することとする。

▼入校学生は5種類に分類

 1938年7月の後方勤務要員養成所の入所(入校)者(1期
生)の主体は民間大学など高学歴の甲種幹部候補生出身将校から
採用することとし、各師団や軍制学校からの推薦を受けた者を選
抜した。これは、秘密戦士には世の中の幅広い知識が必要である
との配慮による。

 なお、所長の秋草自身も陸軍派遣学生として一般大学(現在の
東京外国語大学)を修了している。

 また、2期学生からは下士官養成も開始し、陸軍教導学校での
教育総監賞受賞者や現役の優秀な下士官学生(乙種幹部候補生出
身)を採用した。さらに中野学校が正規の軍制学校になってから
は陸軍士官学校出身将校をも採用し、戦時情報および遊撃戦の指
導者として養成された。

 1940年8月制定の「陸軍中野学校令」では、入校学生は甲
種学生、乙種学生、丙種学生、丁種学生、戊種学生に分類された。
これは前回述べたとおり、1941年10月には、学校の所管が
陸軍省から参謀本部に移管されて参謀本部直轄校となり、甲種学
生が乙種学生に、乙種学生が丙種学生、丙種学生が戊種学生とな
った。

 では上述の区分にしたがって各種学生を順番に紹介することと
しよう。

(1)甲種学生 
 後方勤務要員養成所および「陸軍中野学校令」(1940年8
月)の乙(陸軍士官学校出身)および丙種(甲種幹部候補生出身
将校)の学生課程を経て、一定期間に秘密戦に従事した大尉、中
尉が対象となった。修業期間は1年間。
 しかし、これは制度として存在したのみであり、中野学校が短
期間で終了したために活用されず。
 なお、この学校で1甲、2甲と称せられた学生は「陸軍中野学
校令」制定前に陸軍士官学校出身者で中野学校に入学を命じられ
た学生の呼称である。
(※注「1甲、2甲」は「陸軍中野学校令」制定後、参謀本部直
轄前の入校)

(2)乙種学生
 陸軍士官学校を卒業した大尉および中尉を主体として、そのほ
か現役の各種将校を推薦により乙種学生として入校させた。修業
年限は2か年、当時の情勢で1年ないし8か月に短縮。1942
年に入校の1乙より、45年入校の5乙まで存続した。卒業生総
数は132人。

(3)丙種学生
 甲種幹部候補生出身の教育機関である予備士官学校の学生から
試験を行なった後に採用した学生であり、修業年限は2か年、当
時の情勢で1年ないし8か月に短縮。中野学校の幹部学生の大半
を占めて基幹学生ともいうべき存在。
 後方勤務養成所創設時に入校した1期生、その次に入校した乙
I長および乙I短(いわゆる2期生)、それ以降の乙II長およびと
乙II短は丙種学生である。
 遊撃戦幹部要員としての二俣分校学生、遊撃および情報の臨時
学生は、ともに丙種学生の範疇に属する。
 卒業生総数は本校学生が900人、二俣学生が553人。

(4)丁種学生
 中野学校を卒業した下士官を将校にするための課程学生である。
制度として存在したのみで、実際には活用されず。

(5)戊種学生
 乙種幹部候補生出身や陸軍教導学校において教育総監賞などを
受賞して卒業した下士官学生であって第2期生から採用され、陸
軍中野学校の下士官学生の基幹となった。卒業生総数は567人。

 以上のとおり、中野学校の主体をなす学生は民間大学等高学歴
の甲種幹部候補生出身将校の丙種学生と、陸軍教導学校などを卒
業した下士官学生である戊種学生とが大半であった。

 そのほか必要に応じて遊撃戦の幹部将校を養成するために臨時
に入校を命ぜられた遊撃学生、司令部で情報分析等に勤務するた
めの将校を養成するために臨時に入校を命ぜられた情報学生がい
た。(以上、『陸軍中野学校』より要点を抜粋)

▼卒業生の選抜

 中野学校の基幹をなす丙種学生の選抜要領は以下のとおりである。

1)陸軍省より、師団、予備士官学校、各種陸軍学校に対し漠然
と秘密戦勤務に適任と思われる学生の推薦を依頼する。
2)師団、予備士官学校等において、中隊長等がそれとなく適任
と思われる成績優秀な学生を選び、本人の意思を尊重して、相当
数の学生を選出して報告する。中野学校職員が説明に出向くこと
もあった。
3)中野学校において右報告書に基づいて書類選考し、受験させ
る者を決定し、予備士官学校に通知する。
4)受験者に対し、陸軍省、参謀本部、中野学校職員からなる選
考要員が、それぞれの予備士官学校等(1期生は九段の偕行社)
に出張し、各地における選考の結果を総合して採用者を概定し、
1人あたり1時間の口頭試験を行ない、身体検査する。
5)各地における選考の結果を総合して採用者を概定し、これに
対し憲兵をして家庭調査をさせる。その結果に基づいて採用を決
定する。
6)採用予定者を中野学校以外の東京のとある場所に招集して、
再度本人の意思を確かめ、さらに身体検査をして採用を決定した。

 選抜に際しては、受験生に対して中野学校での勤務内容を秘匿
することと、本人の意思に反して入校強要しないことの2点が留
意された。

▼学生に対する教育および訓練の特色

 中野学校では秘密戦士として必要な各種の専門教育が行なわれ
た。

 秘密戦の特性上、「上意下達」の一般軍隊とは異なり、単独で
の判断が必要となる場面が多々予測される。そのため幅広い知識
の付与と、新たな事態に応じた応用力の涵養を狙ってカリキュラ
ムが組まれた。

 また「謀略は誠なり」「功は語らず、語られず」「諜者は死せ
ず」など、精神教育、人格教育などが徹底された。さらにはアジ
ア民族を欧米各国の植民地から解放する「民族解放」教育もなさ
れた。

 経年的にみるならば、1938年7月の開所からの約3年間は、
海外における秘密戦士(いわゆる長期学生)を育成することを狙
いに教育が行なわれた。しかしながら、1941年末の太平洋戦
争の勃発(開戦)により、卒業後の任地は作戦各軍に赴任するも
のが多くなり、教育内容も次第に戦時即応の強化に重点が指向さ
れるようになった。

 そして開戦後の2年間までの学生は、いまだ戦場になっていな
い関東軍方面要員についての多少の例外があったが、南方地域を
はじめとする支那方面およびその他の地域において、占領地域の
安定確保、民族解放のための政治的施策などをはじめとして、将
来の決戦にそなえる遊撃戦要員としての特技が強く要求されるに
いたった。

 1944年以降は、遊撃戦の教育および研究に最重点がおかれ、
それも外地作戦軍地域内における遊撃戦にとどまらず、本土決戦
に備えて、国内において遊撃戦を敢行するための各種の訓練が開
始された。

▼中野学校が目指した教育方針

 上述のように、中野学校の教育内容は国際情勢の趨勢とわが国
の戦況によって変化した。ただし、中野学校が当初目指した教育
の主眼は、“転属のない海外駐在武官”の養成であった。

 秋草中佐は後方勤務要員養成所の開所にあたって、1期生に対
して「本所は替らざる駐在武官を養成する場であり、諸子はその
替らざる武官として外地に土着し、骨を埋めることだ」と訓示し
た。

 当時、秘密戦の中核ともいうべき軍事情報の収集は、各国とも
に主として海外駐在武官がこれに当たっていた。そのため、武官
には広範な良識と特殊な秘密戦技能を持つことが要求された。

 当時、欧米の場合は情報謀略要員が長年の間、一定の地に留ま
って情報活動を行なうのが通例であった。しかも階級も年功や功
績によって少尉から将官まで順調に昇任したという。

 これに対して、日本の陸士、陸大出身の在外武官は階級を上げ
るためにポストを替えなければならないので、3年もすれば栄転
というかたちで転属するほかなかった。こうした官僚制度により、
在外での秘密戦の効果が妨げられたようである。

 この改善こそが、甲種幹部候補生出身将校による、長期にわた
る在外での情報勤務であったわけである。ある意味、昇任・出世
を捨てて、国家の捨て石としての存在を幹部候補生に求めたとい
える。幼年期から軍人として育てられた陸士出身者ではそれは補
えず、危機対処能力、形に捉われない柔軟な発想力こそが幹部候
補生の強みであった。

▼1期生の教育

 中野学校の当初の教育方針が「替らざる武官」、すなわち海外
勤務に長期間にわたって従事する長期学生の育成にあったこと、
そして1941年から太平洋戦争が開始され、「戦わずして勝つ」
の追求が困難になったことに着目する必要がある。

 つまり、中野学校の教育の原点は、1期生と第2期の長期学生
(乙I長)および乙II長(開戦間近に繰り上げ卒業)に対する教育
への思いであったことを軽視してはならない。

 1期生の教育カリキュラムはしっかりと定まったものではない。
いや、試行錯誤を前提としたものである。ただし、それゆえに関
係者の思いが凝縮しているのである。

 そこで1期生の教育課目についてみてみよう。

(1)一般教養基礎学
 国体学、思想学、統計学、心理学、戦争論、日本戦争論、兵器
 学、交通学、築城学、気象学、航空学、海事学、薬物学
(2)外国事情
 ソ連(軍事政略)、ソ連(兵要地誌)、ドイツ、イタリア、英
 国、米国、フランス、中国(兵用地誌)、中国(軍事政略?)、
 南方地域(軍事)
(3)語学
 英語、ロシア語、支那語
(4)専門学科
 諜報勤務、謀略勤務1、謀略勤務2、防諜勤務、宣伝勤務1、
 宣伝勤務2、経済謀略、秘密通信法、防諜技術、破壊法、暗号
 解読
(※謀略勤務1と2があったのではなく異なる教官により教育で
あったので、筆者が番号はふって区分した)
(5)実科
 秘密通信、写真術、変装術、開緘術、開錠術
(6)術科
 剣道、合気道
(7)特別講座、講義
 情報勤務、満州事情、ポーランド事情、沿バルト三国事情、ト
 ルコ事情、支那事情、支那事情、フランス事情、忍法、犯罪捜
 査、法医学、回教事情
(8)派遣教育
 陸軍通信学校、陸軍自動車学校、陸軍工兵学校、陸軍航空学校
(9)実地教育(往復は自由行動、終わって全員学習レポートを
 提出)
 横須賀軍港、鎮守府、東京湾要塞、館山海軍航空隊、下志津陸
 軍飛行校、三菱航空機製作所、小山鉄道機関庫、鬼怒川水力発
 電所、陸軍技術研究所、陸軍士官学校、陸軍軍医学校、陸軍兵
 器廠、大阪の織物工場、その他の工場、NHK、朝日新聞、東
 宝映画撮影所、各博物館等
(以上、校史『陸軍中野学校』より抜粋)

 ざっと教育課目を眺めるだけで、どのような教育が行なわれた
のか察することができるが、次回はもう少し、教育内容をかみ砕
いて、その特色など説明することとしよう。

わが国の情報史(40) 秘密戦と陸軍中野学校(その2) 陸軍中野学校の概要と創設の経緯

▼陸軍中野学校の概要  

 陸軍中野学校(以下、中野学校)は1938年7月、後方勤務 要員養成所として創設され、1945年8月の終戦時、疎開先の 群馬県富岡町および静岡県磐田郡二俣町において幕を閉じた。諜 報、防諜、謀略、宣伝からなる秘密戦に関する教育や訓練を目的 とする大日本帝国陸軍の学校であった。  

 なお中野学校という校名は、この学校の所在地が1939年4 月から45年4月まで現在の東京都中野区であったことに由来す る。  

 陸軍中野学校は創設されてから終戦による閉鎖廃校まで、わず か8年という極めて短期間の存在であったが、この間の卒業生は 2000名以上に及んだ。卒業生は世界のいたるところで情報勤 務という特殊の分野での職務に精励した。    

 当時、すべての陸軍管轄の学校は教育総監(陸軍大臣、参謀総 長と並ぶ三長官の一人)が所掌していた。しかし、中野学校は陸 軍大学校などともに教育総監部に最後まで所属しなかった数少ない異例の学校の一つであった。    

 一般軍隊においては、「百事、戦闘を以て基準とすべし」と定 められているが、中野学校においては「百事、秘密戦を以て基準 とすべし」の鉄則にもとづき、秘密戦を基準として学校全体が動 いていた。  

 秘密戦士を養成する学校が世に存在するのを秘匿するため、創 設当初の正式(勅令)の学校名は「後方勤務要員養成所」であっ たが正式名称は伏せられた。このため、同養成所の施設となった愛国婦人会別館の入り口看板は「陸軍省分室」であり、学校の存 在を秘匿するため、軍部外の教官による教育は市内随意の場所が 選定されて行なわれた。  

 中野に移転した以降も、学校の存在は秘匿され、看板は「陸軍 省分室陸軍通信研究所」とされた。教官、職員、学生の身分を欺 編、秘匿するため、校長以下の学校関係者は長髪とし、軍服を着 用せず、背広を着用した。

▼牛込に防諜機関が誕生  

 次に中野学校創設にいたる沿革について述べたい。1931年 9月の満洲事変以降、わが国は対ソ国防圏の前線を満ソ国境に推進させた。対外的には対ソ戦略の軍事力整備が要求されるとともに、対内的には国家総力戦、つまり国家総動員の整備や防諜体制の強化が行なわれた。  

 総力戦思想が普及するにともない、建軍以来の作戦第一主義で あった陸軍においても情報に対する関心が高まった。  

 まずは防諜への関心である。当時、秘密戦の一分野である防諜については、1899年に公布・施行された軍機保護法があったが現状に適さないものになっていた。このため「軍機保護法を改正すべし」との意見が軍内に起こった。  

 こうしたなか1936年3月、陸軍内の防諜を強化するために 防諜委員会が設置された。また、この頃から暗号解読が重視されるようになり、参謀本部第2部1班が暗号班となった。  同年8月、陸軍省兵務局(所属課は兵務課・防備課・馬政課) が新設され、岩畔豪雄中佐(いわくろひでお、1897年~19 70年、のちに少将)は、同年2月に生起した二・二六事件の後始末で兵務課課員として転職し、軍機保護法の改正案に着手した。 なお同改正法は1937年3月に議会を通過した。  

 兵務局設置当時、防諜業務は兵務課の業務とされたが、193 7年1月には兵務局防備課に広義の防諜業務を所管させることと して、防備課を防衛課に改編し、防諜業務を担当させた。  

 当時の兵務局長は、終戦時の陸軍大臣の阿南惟幾(あなみこれ ちか)少将、兵務課長は太平洋戦争開戦時の参謀本部第1部長の 田中新一(たなかしんいち)大佐であった。  

 田中大佐は、ハルピン特務機関から参謀本部第5課(ロシア課) に転属した秋草俊中佐(あきくさしゅん、1894年~不明、の ちに少将)、福本亀治(ふくもとかめじ)憲兵少佐、曽田峯一(そ だみねいち)憲兵大尉に命じ、科学的防諜機関を設立するための研究を命じた。  かくして1937年春、兵務連絡機関(兵務局分室)という防諜専門機関が牛込若松町の陸軍軍医学校の敷地奥に設置されたの である。

 初代班長は秋草であった。共産党問題研究者として省部 その他で高く評価されていた福本がこれを補佐し、十数名の組織 として立ち上げられた。  同機関の任務は国際電信電話の秘密点検、外国公館その他の信書点検や電話の盗聴、私設秘密無線局の探知などの防諜業務が主 であったが、あわせて情報収集にあたった。  

 この防諜組織の存在は省内でも一部の関係者以外には極秘とさ れ、1940年8月に陸軍大臣直轄の極秘機関である軍事資料部 となり、終戦に至るまで77名の中野学校出身者が勤務した。こ の数は、中野出身の割合から言えば、かなりの数であった。

▼後方勤務要員養成所が設立  

 防諜機関の設立とともに敵国に対して積極的な情報活動を行な うことを趣旨とする諜報・謀略機関の新設気運が高まった。しか し、当時の日本陸軍の謀略に関する考え方は「謀略は人によって 行なう」というものであり、科学性、合理性に欠けていた。つま り、「これを是正せよ」との要請が起きた。  

 そこで防諜機関設立の立役者となった岩畔、秋草、福本らを中 心に諜報・謀略要員を養成する機関の設立に向けての新たな取り 組みが開始された。  

 1937年秋、岩畔中佐は参謀本部に対し「諜報、謀略の科学化」という意見書を提出した。この意見書提出により、諜報・謀 略などの専門機関を設立するための準備が本格的に始動すること になる。  

 なお岩畔中佐は兵務局兵務課が新設された時(1936年8月) に、参謀本部第2部欧米課第4班所属替えになるが、同4班は1 937年11月に大本営の設置とともに新設された第8課(通称、 謀略課)になるので、これを見越した転属であったとみられる。  

 1937年12月、陸軍省軍務局の軍事課長・田中新一(19 37年3月に兵務課長から軍事課長に転出)が、秋草、福本、岩 畔を招き、「近代戦においては相手国からの秘密戦に対処する消 極的防衛態勢だけでは勝つことができないので、進んで相手国に 対する諜報、宣伝、防諜などの勤務者を養成する機関を早急に建 設する必要がある」として新組織の設立を検討するよう命じた。 かくして陸軍省が中心となって、かかる組織を建設するこことな ったのである。  

 秋草、福本、岩畔の3名は設立委員となり、訓育主任として満 州鉄道守備部隊から伊藤佐又(いとうさまた)少佐が馳せ参じた。 1938年1月に「後方勤務要員養成所」が設立され、同年7 月に1期生19名の入校を迎えることとなったのである。

▼中野学校の沿革は4つの段階に区分される  

 中野学校は、所属、所在地、教育目的などによって、「創設期」 「前期」「中期」「後期」の4つに区分される。

(1)「創設期(1938年1月~1940年8月)」  同期は「後方勤務要員養成所期」とも呼ばれる。1938年7月、 九段下牛ヶ淵の「愛国婦人会」本部内の集会場を使用し、甲種幹 部候補生・予備士官出身の第1期生19名(卒業生は18名)に 対する教育が開始された。第1期生は海外における長期勤務を想 定とした選抜であった。  

 秋草中佐が所長、福本中佐が同養成所の幹事に就任し、狭隘な 集会所が教室兼宿舎となり、学生が一同に起居する寺子屋式、私 塾的な体制であった。学生は陸軍兵器行政本部付兼陸軍省兵務局 付として入校させ、秘密戦の教育を開始した。そして翌年4月に は、旧電信隊跡地の中野区囲町に移転した。  

 1939年7月に第1期生が卒業し、同年11月に第1期生と 同じ出身母体の第2期の乙I長40名と、現役少尉を含む第1期 の乙I短70名、これに加えて陸軍教導学校で教育総監賞などを 受賞した優秀な下士官候補生から選抜された丙1・52名が入所 した。  

 ここでの長期の学生とは第1期生と同様に海外での長期勤務を 想定した要員であり、入校と共に別名が与えられた。教育施設内 では、国内外の既存情報機関勤務を想定した短期学生や丙1とは 相互往来は禁じられ、壁をもって仕切られていた。

(2)前期(1940年8月~1941年10月)  

 1940年8月「陸軍中野学校令」が制定され、後方勤務要員 養成所は、陸軍大臣直轄の学校として名称も陸軍中野学校に変更 された。施設や教育内容が急速に整備され、当初の私塾的な体裁 から抜け出ていった時期である。  

 初代校長に北島卓美少将が就任。1941年春に北島少将が東 部軍参謀長として転任したあと、1941年6月、陸軍省兵務局 長の田中隆吉少将が二代目校長となり(形式上)、同年10月、 ロシア駐在武官や参謀本部ロシア課長の経歴を有する川俣雄人少 将が校長として赴任した。 1940年9月には1甲、同12月には乙II長・短、丙2の学生が入校し、翌41年2月には、2甲、41年9月には3丙、3 戊の学生が入校した。

 なお、甲とは陸軍士官学校卒業者であり、秘密戦への転向を命 じられた初回の学生である。そして、3丙学生および3戊学生は 従来の乙学生および丙学生のことである。これは、後述のように 1941年10月の学生種別の変更にもとづき呼称が変わったた めである。  

 校門には「陸軍通信研究所」の小さい看板がかけられ、陸軍組 織上では「東部第三十三部隊」とされた。学生の通信の発送はすべて陸軍省兵務局防衛課の名称が使用された。  1940年12月から大東亜戦争が開始されたこの時期におい ては、創設期の教育課目に占領地行政、宣伝業務が加味され、戦 争対応への意識が高まった。

(3)中期(1941年10月~1945年4月)  1941年10月、陸軍兵器行政本部付から参謀本部直轄とな った。これにより、学生の種別も改正され、甲種学生(陸士出身 者)が乙種学生、乙種学生が丙種学生(予備士出身)、丙種学生 (教導隊出身)に新編成された。  この期に入校したのは4から7までの丙種学生と4から6まで の戊種学生、それに1から4までの乙学生、このほか遊撃(1・2)、 情報(司令部情報要員)、静岡県磐田郡二俣町に開設された二俣 分校の1期および2期である。(注:二俣は1期、2期と名称す るが、乙・丙・戊種については「期」と呼ばない)  

 1942年6月のミッドウェー海戦の敗北により、わが国は守勢に転じ、さら1943年2月のガダルカナル島撤退により、陸 軍参謀本部は遊撃戦(ゲリラ戦)の展開に踏み切ることにした。 そして1943年8月、中野学校に対して「遊撃戦戦闘教令(案)」 の起案と遊撃戦幹部要員の教育を命じ、この教令(案)は194 4年1月に配布された。  

 1944年8月、静岡県磐田郡に遊撃戦幹部を養成する二俣分 校が創設された。第1期生226名が陸軍予備士官学校を卒業等 して尉官学生(見習士官)として入校、約3か月の教育が行なわ れた。なお、この中にはフィリピンのルバング島で発見された小野田寛郎氏がいる。  

 これと前後して、1944年8月、陸軍参謀本部は中野学校に 対し、国土決戦に備えるため、教範『国内遊撃戦の参考』の起案 を命じ、1945年1月に『国内遊撃戦の参考』および別冊『偵察法、潜行法、連絡法、偽騙法、破壊法の参考』を配布した。教育内容は、残地蝶者教育、通信科目、遊撃戦などを重視するなど、 創設期および前期に比してかなり変更された。

(4)後期(1945年4月~1945年8月)  1945年2月、国内の各軍司令官に対し本土防衛任務が付与 された。同年4月、本土上空に対する空爆の激化に伴い、中野学 校(本校)は群馬県富岡町に疎開し、同地において遊撃戦幹部の 養成が行なわれた。  

 この期に入校したのは、8から10までの丙学生、7から8ま での戊学生、5乙学生、二俣分校の3期から4期の学生である。  

 遊撃戦教育とその研究に最重点がおかれ、それも外地作戦軍内 における遊撃戦にとどまらず、最悪の場合の本土決戦に備えてこ れを国内において敢行するための各種の訓練が開始された。また、 いわゆる「泉部隊」と称した国内遊撃部隊構想も一部着手された。  

 1945年8月、敗戦によって富岡町の中野学校本校と二俣分校は幕を閉じた。 (次回に続く)

わが国の情報史(39) 秘密戦と陸軍中野学校(その1) -秘密戦の本質とは何か- 今回から

▼はじめに

「わが国の情報史」の最終テーマとして陸軍中野学校について数回に分けて解説する。さて、陸軍中野学校では秘密戦士を育成した。秘密戦とは諜 報、防諜、謀略、宣伝のことであり、これらについてはその概要 を述べてきた。 したがって陸軍中野学校において行なわれた秘密戦の教育、秘密戦士の育成とはどういうものかは、およそイメージできると思うが、ここではもう一度整理したいと考えている。

また戦後、中野学校について、「謀略機関であった」「北朝鮮の情 報組織の母体になった」などの誤った風説が流されている。これについても追々是正していきたいと思う。

▼秘密戦の概要    

まず、復習になるかもしれないが、秘密戦という用語について解説する。なにやら、物騒な語感ではあるが、字義からすれば 「秘密の戦い」「非公然な戦い」「水面下の戦争」などというこ とになろう。  

1930年代末に創立された陸軍中野学校(以下、中野学校)で は、従来いわゆる情報活動や情報勤務といわれていた各種業務を総括して、創立後しばらくたった頃から、秘密戦と呼ぶようにな った。 ただし、その呼称は各地域により、また各軍により、必ずしも統 一的につかわれていたわけではない。(中野学校校友会編『陸軍中野学校』(以下、校史『陸軍中野学校』))

つまり秘密戦は中野学校による造語である。そこで当時の中野学校関係者が執筆した書籍などから、まずは秘密戦の全体像を把握 することとしたい。 中野学校教官であった伊藤貞利は、自著で次のように述べている。    

「秘密戦とは武力戦と併用されるか、あるいは単独で行使される 戦争手段であって、諜報・謀略・防諜などを包含している。諜報、 謀略、防諜が秘密戦と呼ばれるのは一体どういうわけだろうか。 それは一般的に言って秘密の「目的」を持ち、その目的を達成するための「行動」に秘密性が要請されるからだ」(伊藤貞利『中 野学校の秘密戦』) また、伊藤は次のようにも述べている。    

「謀略の場合には『目的』はあくまで秘密とするが、「行為」は 大びらに行わなければならないことが少なくない。例えばある秘 密目的を達成するためには物件を爆破・焼却したり、暴動を起こ したり、デモ行進をしたり、暴露宣伝を行ったりするなど、大び らな行動をするような場合が比較的多い」(前掲『中野学校の秘 密戦』)     伊藤著書から要点を整理すれば、秘密戦とは以下のようなもので ある。

◇目的が秘密であり、行動にも秘密性が要求される。

◇謀略のような一部の秘密戦における行動(行為)は公開されるが、 その場合でも目的は秘匿される。

◇武力を主体として行動が常に公開される武力戦とは対極をなす。 いわば非武力戦である。

◇武力戦と併用されるか、あるいは単独で行使される。   この中でもっとも重要な点は目的の秘匿性である。すなわち、目的が秘匿される戦い、これが秘密戦の本質である。

▼秘密戦の目的は何か?    

次に「秘密戦はいかなる目的は想定しているか、すなわち目的 は何か?」について考察したい。 校史『陸軍中野学校』によれば以下の件(くだり)がある。

「原始的な情報活動にはじまる諜報、宣伝、謀略、防諜などの各 種手法は、“姿なき戦い”として、洋間東西と如何なる国家の態 様たるとを問わず歴史と共に発達し進化し続けてきた。

これらの“姿なき戦い”は、平和な時代においては友好国間の修 好をより一層確実なものとするために、また敵性国家間との力のバランスを確保して、平和に役立つ働きをした。 ひとたび戦争を決意した場合においては、同盟国間の盟約をより 確実なものとすると共に、敵国を孤立せしめ不利な条件のもとに 誘い込むためにも役立てられた。

戦争段階における秘密戦の役割はさらに峻烈になるが、武力戦の ように戦争の主役になることはない。 武力戦よりもさらに根深く戦争のあらゆる場面の部隊裏で暗躍を 続け、ある時は敵の致命的部分に攻撃を集中し、ある時は和戦を 決する講和交渉の陰に強大な力をもって活動することになる。 だから、「秘密戦とは歴史に記録されない裏面の戦争」である。」 (校史『陸軍中野学校』)

 ここには、秘密戦が戦時も平時も行なわれるものであり、歴史の表沙汰にならない水面下で行なわれる戦争であり、戦争抑止や早期講和などにも貢献すると述べられている。 以上の記述から思い起こされるのは「孫子」の兵法である。

『孫子』第3編には、 「百戦百勝は、善の善なる者にあらず。戦わずして人の兵を屈す るは善の善なる者なり」「故に上兵は謀を伐つ。その次は交わりを伐つ。その次は兵を伐つ。その下は城を攻む」との記述がある。 『孫子』によれば、武力戦で勝利を得るのではなく、謀略や外交 謀略によって「戦わずして勝つ」のが最善である。

上述のように、ひとたび戦争が決意されれば、秘密戦は武力戦と 同時並行的に行なわれるが、その場合においも「戦わずして勝つ」 は継続して追求されることになる。つまり、武力戦のように敵国 戦力を物理的に破壊するのではなく、心理工作をもって敵国内に 不協和音や厭戦気運などを生起させて、早期に講和交渉などに持 っていくことが、秘密戦の目的となるのである。

ようするに秘密戦は、平時・戦時を問わず「戦わずして勝つ」を戦 略および作戦、戦術の全局面において追求する戦いであり、その 目的は「戦わずして勝つ」ことである。 この点については、中野学校出身者であり、今日も健在にて情勢研究の会を主催する牟田照雄氏(陸士55期)は「秘密戦とは、戦わずして勝つ」 である と喝破している。

▼秘密戦と遊撃戦との違い

中野学校の創設目的は秘密戦の戦士を養成することであった。しかしながら、大東亜戦争末期においては彼我戦力の優劣差が決定的となり、日本軍が守勢に立たされた。これは、1942年6月 のミドゥエー会戦あたりが分水嶺となり、43年2月のガダルカ ナル島の戦闘で決定的となった。

すると、参謀本部は1943年8月、中野学校に対し、遊撃戦教令(案)の起案及び「遊撃隊幹部要員の教育」を命じた。つまり、 中野学校の教育が「秘密戦士」から「遊撃戦士」の養成へと転換 されたのであった。

これに関して、前出の牟田氏は「秘密戦は戦わずして勝つである。 だから、日本が米国と戦争を開始して以降(1940年12月)の 中野学校の教育は、本来目指す教育ではなかった」旨と述べてい る。(平成28年度慶應義塾大学メディア・コミュニケーション研 究所都倉研究会『陸軍中野学校の虚像と実像』)

そこで、秘密戦をより明確に理解するために、遊撃戦についても言及しておこう。 校史『陸軍中野学校』は「遊撃戦」について次のように記述する。 「遊撃とは、あらかじめ攻撃すべき敵を定めないで、正規軍隊の戦列外にあって、臨機に敵を討ち、あるいは敵の軍事施設を破壊 し、もって友軍の作戦を有利に導くことである。  

したがって遊撃戦とは、遊撃に任ずる部隊の行う戦いであって、 いわゆる『ゲリラ戦』のことである。  

遊撃戦は、一見武力戦の分野に属するかのように見えるが、その内容は、一時的には武力戦を展開するが、長期的にはその準備お よび実施の方法手段を通じて主として秘密戦活動を展開する。し たがって遊撃戦の本質は、秘密戦的性格が主であって、武力戦的 性格が従である。  

遊撃部隊は、わが武力作戦の一翼を担い、少数兵力を以て、神出 鬼没、秘密戦活動と武力戦活動とを最大限に展開して、以てわが 武力戦を有利に導くのである。したがって遊撃部隊、わが綜合的 大敵戦力の増強に寄与するものである」(以上、引用終わり)  

以上から、遊撃戦は目的や行動において秘密戦的な要素が大きい、 また武力戦を有利にするなどの秘密戦との類似性がある。しかし、 以下の点が大きく異なることを理解しなければならない。

◇ 遊撃戦は平時には行なわれない。戦時において武力戦と併用 される。

◇ 秘密戦のように単独で目的を達成することはない。 わが国における現代の国土防衛戦に当てはめれば、秘密戦は平 時から単独で行なうことができるが、遊撃戦は防衛出動下令以降 に防衛作戦と連接して、その一環として行なわれることになる。

つまり、秘密戦は遊撃戦とは異なり、平時から単独で「戦わずして勝つ」との目的を達成する情報活動であるといえる。

▼秘密戦の形態

 すでに述べたとおり、中野学校では秘密戦を「諜報」「宣伝」 「謀略」「防諜」と定義した。すなわち、秘密戦はこれら4つの 形態を包含した情報活動である。 これら4つの用語については、明治以来の軍事用語としてすでに、 その淵源などを説明したが、もう一度、簡単にここで整理してお こう。

(1)諜報  相手側の企図や動性を探ること。公然諜報と非公然諜報にわけ られる。

(2)宣伝  相手側及び作戦地住民あるいは中立国などに対し、我に有利な形 成、雰囲気を醸成するために、ある事実を宣明伝布すること。

(3)謀略  相手側を不利な状態に導くような各種工作を施すこと。

(4)防諜  相手側がわが方に対して行なう諜報または謀略を事前に察知し、 これを防止すること。    

以上の4つの秘密戦の発祥や相互関係について校史『陸軍中野学校』における記述を、現代風に解釈すれば以下のとおりとなる。

情報活動とは内外の環境条件を広範囲に把握し、状況判断や意志 決定を行なうことを目的とする。この目的追求は、彼我ともに指向しているので、自ずと「敵の情報を知り、我の情報 を隠す」という情報争奪の闘いが開始される。

相手側が情報を隠 そうとするので、我は不完全な情報から総合的に判断することが必要となる。同時に非合法的な手段を用いて真相情報を入手する 必要性も生じてくる。これが諜報活動の本質である。

情報活動が平時の外交や武力的抗争の中においても重要な地位を占めるようになったことから、情報活動の多元性、複雑性が着目されるようになった。このため、情報操作による「宣伝活動」が 行なわれるようになった。またそれらの積み重ねによって、いわ ゆる「謀略活動」も可能であることが実証されるようになった。 さらに、相手国からのこれら各種の策謀を防衛するためには防諜も必要になってきた。

 ようするに、彼我の情報争奪の情報戦の中で、敵が厳重に守って いる情報を非合法手段によって獲得する必要性から諜報活動が発 達し、平時・戦時の活動において情報がより重要な役割を帯びるようになるにつれて宣伝や謀略が発達した。そして、それら活動 を守るために防諜が同時に発達したということである。

わが国の情報史(38)昭和のインテリジェンス(その14)   日中戦争から太平洋戦争までの情報活動(4)─       

▼はじめに

さて、前回まで、諜報、防諜、宣伝のお話をした。これに謀略を加えて、秘密戦である。よって今回は「謀略」のお話をすることにしよう。 なお、太平洋戦争開始後においては、実にたくさんの戦史書籍 が出回っており、情報の失敗という切り口でも、さまざまな見解 が存在する。浅学菲才な筆者がとうてい太刀打ちはできるものではない。よって、本シリーズも太平洋戦争開始以前までに留め、あと2 回ちょうど40回をもって終了したいと考えているが、テーマ次第ではもう少し長くなるかもしれない。

▼秘密工作とは何か?

まず謀略を理解するうえで、秘密工作とは何か?について、筆者の著書『情報戦と女性スパイ』(並木書房、2018年4月) より関連記事を抜粋する。

情報活動には以下がある。 ・積極的情報活動は情報を収集(獲得)する活動 ・情報を分析してインテリジェンスを生成する活動 ・情報やインテリジェンスに基づいて公然に行なわれる政策や外 交 ・水面下で行なわれる「カバートアクション」(Covert action、 一般に秘密工作と翻訳される)に区分できる。

さらに収集する活動は、外国の新聞、書籍、通信傍受などから 公然と情報を収集する「コレクション」(Collection)と、専門 の組織によって諸外国の活動を非公然に観察して情報を獲得する エスピオナージ(Espionage)に区分できる。  

カバートアクションには「宣伝(プロパガンダ)」「政治活動」 「経済活動」「クーデター」「準軍事作戦」がある。(ローウェ ン・ソール『インテリジェンス、機密から政策へ』)  

一方の消極的情報活動は、 ・受動的で公然的に情報を守る「セキュリティ・インテリジェン ス」(Security Intelligence)、 ・非公然で能動的に情報およびインテリジェンスを守る活動まで含む「カウンターインテリジェンス」(Counter Intelligence) に区分できる。  

秘密戦士を育成するための旧軍組織である陸軍中野学校では、 秘密戦を「諜報」「防諜」「宣伝」「謀略」の四種類に区分していた。諜報がエスピオナージ、防諜がカウンターインテリジェン ス、宣伝と謀略がカバートアクション(秘密工作)にほぼ該当することになる。  

しかし諜報、防諜、秘密工作には厳密な垣根はない。たとえば、 防諜のためには相手側の動向を探る諜報が必要となる。秘密工作 を行なうにも諜報によって相手側の弱点を探り、我が利する点を 明らかにしておくことが前提となる。 フランス駐留軍総司令部の将校として、第二次世界大戦に参加 した戦史研究家のドイツ人、ゲルト・ブッフハイトは「(情報活 動の)それぞれの専門分野は密接な関係にあるので、管轄範囲を明確に区分しようとすることはほとんど不可能に近い」と述懐している。(ゲルト・ブッフハイト『諜報』)  

秘密工作を情報活動の範疇に含めるべきではないという議論は ある。しかし、これは情報組織による活動がエスカレートする過 程で生まれてきたものだ。秘密工作は非公然、水面下で行なわれ るのが原則だから公式の政府機関や軍事機関は使えない。したが って、CIAやKGBの例をあげるまでもなく、各国においては 情報組織がしばしば秘密工作を担ってきた。伝説の元CIA長官 のアレン・ダレスは、「陰謀的秘密工作をやるには情報組織が最 も理想的である」(アレン・ダレス『諜報の技術』) 以上、抜粋終わり) と述べている。

▼わが国の謀略の淵源  

わが国では秘密工作を「謀略」という言葉で総称することが多い。では、その謀略について国語辞典をひも解くと、「人を欺く ようなはかりごと」と定義し、「謀略をめぐらす」「敵の謀略に 乗る」などの適用例と、「たくらみ、はかりごと・策謀・密某・ 陰謀・秘密工作・欺瞞工作・宣伝工作・プロパガンダ」などの同義語・類語が挙げられている。

また、謀略に相当する英単語は Conspiracy、Plot、Deceptionなどとなる。 謀略は本来、旧軍の軍事用語である。総力戦研究所所長などを歴任した飯村譲中将によれば、「謀略は西洋のインドリーグ(陰謀)の訳語であり、参謀本部のロシア班長小松原道太郎少佐(のちの中将)の手によるものであって、陸大卒業後にロシア班に入 り、初めて謀略という言を耳にした」ということである。  

そして、飯村中将は「日露戦争のとき、明石中佐による政治謀略に関する毛筆筆記の報告書がロシア班員の聖典となり、小松原中佐が、これらから謀略の訳語を作った」と推測している。  

しかし、「謀略」の用例については、1884(明治17)年 の内外兵事新聞局出版の『應地戰術 第一巻』「前哨ノ部」に 「若シ敵兵攻撃偵察ヲ企ツルノ擧動ヲ察セハ大哨兵司令ハ其哨兵 ノ報知ヲ得ルヤ直チニ之ヲ其前哨豫備隊司令官ニ通報シ援軍ノ到 着ヲ待ツノ間力メテ敵ノ謀略ヲ挫折スルコトヲ計ルヘシ」という 訳文がある。  

また「偕行社記事」明治25年3月第5巻の「參謀野外勤務 論」(佛國將校集議録)に「情報及命令ノ傳達 古語ニ曰ク敵ヲ 知ル者ハ勝ツト此言ヤ今日モ尚ホ真理タルヲ失ハサルナリ何レノ 世ト雖モ夙ニ敵ノ謀略ヲ察知シ我衆兵ヲ以テ好機ニ敵ノ薄弱點ヲ 攻撃スル將師ハ常ニ赫々タル勝利ヲ得タリ」という訳文がある。 (なお、上記「謀略」の用例と、偕行記事の訳文については、 『情報ということば』の著書小野厚夫氏から提供を受けた)  

したがって、日清戦争以前から「敵の謀略」という用法はあっ た。ただし、当時の陸軍の知識人として名高い、飯村中将をもってしても「謀略」にあまり馴染がないことに鑑みれば、日露戦争以後になって、謀略という言葉が軍内における兵語として逐次に 普及するようになったとみられる。

▼軍事教典における謀略  

昭和に入り、1925年から28年にかけて作成された『諜報 宣伝勤務指針』において次のように定義された。 「間接或いは直接に敵の戦争指導及び作戦行動の遂行を妨害する目的をもって公然の戦闘若しくは戦闘団体以外の者を使用して行 なう破壊行為若しくは政治、思想、経済等の陰謀並びにこれらの指導、教唆に関する行為を謀略と称し、之がための準備、計画及 び実施に関する勤務を謀略勤務という」  

このほか、『統帥綱領』(1928年)では以下のように記述され ている。 第1「統帥の要義」の6 「巧妙適切なる宣伝謀略は作戦指導に貢献すること少なからず。 宣伝謀略は主として最高統帥の任ずるところなるも、作戦軍もま た一貫せる方針に基づき、敵軍もしくは作戦地域住民を対象とし てこれを行ない、もって敵軍戦力の壊敗等に努むること緊要なり。 殊に現代戦においては、軍隊と国民とは物心両面において密接な る関係を有し、互いに交感すること大なるに着意するを要す。敵 の行う宣伝謀略に対しては、軍隊の志気を振作し、団結を強固に して、乗ずべき間隙をなからしむるとともに、適時対応の手段を 講ずるを要す。」

『統帥参考』(1932年)では以下のように記述されている。 第4章「統帥の要綱」34 「作戦の指導と相まち、敵軍もしくは作戦地の住民に対し、一貫 せる方針にもとずき、巧妙適切なる宣伝謀略を行ない、敵軍戦力 の崩壊を企図すること必要なり」  

以上のことから、謀略は暴力性、破壊性、陰謀性の要素が大き く、宣伝謀略という複合単語の存在から、宣伝と謀略は一体的に行な ってこそ効果があるという認識が持たれたのである。

▼謀略課の新設  

1937年7月の支那事変の勃発により、わが国は戦時体制へと移行した。しかし、近代戦には必要不可欠とされた宣伝、謀略、 暗号解読、その他の特殊機密情報を扱う機関は、課にすらなっておらず、わずか数人の参謀将校が細々と第2部第4班として、よ うやく存在を保持していた。  

そこで、1937年秋に第4班を独立の課に昇格する案が検討 された。同年11月に陸軍参謀本部及び海軍軍令部をもってその まま最高統帥機関たる大本営が設置され、その下に陸軍部及び海 軍部が設置された。  

参謀本部第2部は大本営陸軍部第2部となり、外国における諜 報機関(特務機関)を臨時増設し、外国における秘密戦を展開することになった。 大本営の設立と同時に第2部に宣伝謀略を担当する課として、 大本営陸軍参謀部第8課(宣伝謀略課)が新設された。支那事変 の早期解決を図るため、参謀本部はこのような課の設置の必要性 に迫られたのである。  

それまでは、各国に駐在する大(公)使館の武官からの報告を唯一のインテリジェンスとしていたが、8課でも独自に国際情勢の判断、宣伝、謀略の3部門を扱うことになったのである。  

初代の第8課長には中国通の砲兵大佐・影佐禎昭(陸士26期) (かげささだあき、最終階級は陸軍中将)が補せられた。なお、 谷垣禎一・元自民党総裁の母方祖父が影佐大佐である。

▼謀略の特質  

ところで、謀略とはどのような特質を有するのか? 謀略とは秘密戦の構成要素であり、それは武力戦と併用されるか、あるいは単独で行使される。  

諜報、謀略、宣伝、防諜が秘密戦と呼ばれるのは、それは秘密の「目的」を持ち、その目的を達成するための「行動」に秘密性 が要請されるからである。 ただし、謀略の場合には「目的」はあくまで秘密とするが、 「行為」は大胆に行なわなければならないことが少なくない。たとえばある秘密目的を達成するためには、物件を爆破・焼却した り、暴動やデモ行進をしたり、暴露宣伝を行なったりする必要がある。  

秘密戦の究極的な目的は、「戦わずして勝つ」ことにある。つまり、武力戦を回避するために、平時においては敵性国家間との力のバランスを確保して、戦争を抑止するとともに、開戦を決意 した場合においては、同盟国間の盟約をより確実なものとすると共に、敵国を孤立さて不利な条件のもとに誘い込む、早期の停戦 合意の契機を作為するなど、知的策謀を働かせることにある。  

秘密戦の「攻」の部分は、諜報、宣伝、謀略からなるが、諜報及び宣伝はあくまで秘密戦の前提行為としての性格を有するのであって、それ自体が独立して存在する戦闘的破砕行為ではない。  

したがって、秘密裡の戦闘においては、まず諜報をもって敵情を明らかにする、ついで宣伝により、我の有利となるよう謀略の正当性と事前に確保し、謀略の効果を助長する基盤を構築する。そのうえで謀略をも って敵を破砕することが原則なのである。 つまり、諜報、宣伝は謀略のための補助手段であって、謀略こそが秘密戦 における主体なのである。    

謀略は遥かに実力が上回る相手には通用しない。この点は歴史的に明らかである。 智慧を働かせて、敵兵力を謀略により次々と破った楠木正成であったが、大兵力を結集した足利尊氏には結局は適わなかった。

日本軍は謀略的な戦いによって真珠湾攻撃で幸先の良いスター トを切ったが、結局は米国の経済力、米軍の物量戦の前には適わなかった。 つまり、謀略は対等もしくは対等より少し上の相手には通用するが、謀略には限界があることを認識しなければならない。 なんでもかんでも謀略に依存するのは愚の骨頂である。

▼わが国の戦後における謀略に対する認識  

戦後になって、わが国では謀略がタブー視されている。日中戦 争が“卑怯なだまし討ち”、すなわち謀略によって開戦され、結局は太平洋戦争 における不幸な敗戦という結末を迎えたという認識がその根底にある。

謀略からイメージされるのが1931年の満洲事変である。 戦後の歴史認識において満洲事変は、「中央の日本政府や軍首脳 の承諾もなく、関東軍中枢の軍人によって計画され、実行された謀略であった」と語られる。  

通説によれば、「当時、関東軍は満洲にある中国軍拠点を攻撃 し、満洲全土を占領して満洲権益をより確実にしようと企んでい た。しかし、政府の承認を得るのは容易でなかったので、満洲鉄 道での爆破事件を作為し、この犯人を中国人であるかのようにでっちあげた。これによって被害者の立場を喧伝し、戦争大義を獲 得した」とされる。  

満洲事変がのちに太平洋戦争へと発展し、敗戦という憂き目に あうことになる。つまり、“卑怯なだまし討ち”である謀略が敗因の最大原因であった、という文脈で語られてきたのである。

だからこそ、謀略は二度と起こしてはならないと強くタブー視 されることには説得力がある。そして謀略を研究することはおろか、謀略を語ることだけでも“危険思想”としてみられかねない。

▼ 謀略の言葉の淵源  

しかし、中国において謀略は卑怯なもの、との認識はない。む しろ、謀略を効率的な戦法、「戦わずして勝つ」ことを実現する、 血を流さないきれいな戦い、「智慧の戦い」として称賛される傾向すらある。 されゆえに「謀略」を冠する書籍が巷に多く流通している。

「謀略」という言葉は中国では古代から用いられていた。もとも と「謀略」という言葉がいきなり登場したのではなく、「謀」と 「略」が異なる時代に登場し、いつのまにか一体化して用いられるようになったようである。なお、中国の『説文大字典』によれ ば、謀の登場は略の登場よりも一千年早く登場したようである。  

同字典では、「謀」は「計なり、議なり、図なり、謨なり」と され、古代ではこれらの言葉は非常に似通った意味で使用された ようだ。『尚書』では謨が登場するが、この字の形と読音が謀と 似通っており、謨が謀に発展したとみられている。   

なお「謀」が中国において最初に使用されたのは『老子』の 「不争而善勝、不言而善応、不召而自来、?然而善謀」である。こ こでも「戦わずして勝つ」という謀略の重要性が説かれている。

そして『孫子』謀攻篇においては、「上兵は謀を伐ち、その次 は交わりを伐つ」と記述され、「謀略」は敵を欺き、「戦わずし て勝つ」ことの意味で用いられた。なお、『孫子』における「計」 「智」「略」「廟朝」、『呉子』における「図」などは謀の別称 といえる。  

中国では古来、才能有徳の士を「君子」と尊称し、その君子が 事前に周密な計画を立てることを「謀」といった。これを政治・ 軍事面で用いた言葉が「謀略」である、との見解がある。  

つまり、謀略は策謀、智謀の代名詞であり、そこには決して卑 怯的な要素はないのである。つまり、中国はどうどうと謀略を実 施し、それは国民から称賛される。そして現在の国際政治におい て、中国は積極的に謀略工作を仕掛けることを得意としているのである。  

▼わが国においても謀略研究は必要

わが国が、謀略の失敗によって敗戦に至ったことは十分に反省 して、二度と無謀な謀略を繰り返してはならない。 しかし、近隣の大国である中国における謀略の解釈等を鑑みれ ば、わが国が謀略をタブー視して、これから目を背ける訳にはい かないだろう。 少なくとも、周辺国等による謀略に対処するための、謀略研究 は必要ではないだろうろうか。

わが国の情報史(37)  昭和のインテリジェンス(その13)   ─日中戦争から太平洋戦争までの情報活動(3)─

▼はじめに

これまで、秘密戦の要素である諜報、防諜、宣伝、謀略のうち、諜報と防諜については説明した。今回は宣伝に焦点をあてて解説する。まさに「プロパガンダ恐るべし」である。

▼宣伝という用語の軍事的使用

 宣伝という軍事用語はいつから使用されるようになったのだろうか? 

 1889年に制定され、日露戦争の戦訓を踏まえて1907年(明治40年)に改訂された『野外要務令』では、「情報」および「諜報」という用語はわずかに確認できるが、「宣伝」という用語は登場しない。

 しかし、『野外要務令』の後継として大正期に制定された『陣中要務令』では、以下の記述がある。

第3篇「捜索」第73

「捜索の目的は敵情を明らかにするにあり。これがため、直接敵の位置、兵力、行動及び施設を探知するとともに、諜報の結果を利用してこれを補綴確定し、また諜報の結果によりて、捜索の端緒を得るにつとめざるべからず。捜索の実施にありては、敵の欺騙的動作並びに宣伝等に惑わされるに注意を要する。」

第4編「諜報」第125

「諜報勤務は作戦地の情況及び作戦経過の時期等に適応するごとく、適当にこれを企画し、また敵の宣伝に関する真相を解明すること緊要なり。しかして住民の感情は諜報勤務の実施に影響及ぼすこと大なるをもって上下を問わない。とくに住民に対する使節、態度等ほして諜報勤務実施に便ならしむるごとく留意すること緊要なり。」

 ここでの宣伝は、我の諜報、捜索活動の阻害する要因であって、敵によって行なわれる宣伝(プロパガンダ)を意味しているとみられる。これは、後述のとおり、第一次世界大戦における総力戦の中で行なわれたプロパガンダの様相をわが国も取り入れるようとの思惑が契機になったのであろう。

 「宣伝」がわが国の軍事用語としてより定着するようになったのは、昭和期に入って、『諜報宣伝勤務指針』および『統帥綱領』が制定された1920年代だとみられる。

 1925年から28年にかけての作成と推定される『諜報宣伝勤務指針』の第二編「宣伝及び謀略勤務」では、謀略の定義と共に宣伝について、用語の定義、実施機関、実施要領、宣伝および謀略に対する防衛などが記述されている。ここでは宣伝と謀略が一体的に定義されている。

 同指針から宣伝関連の記述を抜粋する。

 「平時・戦時をとわず、内外各方面に対して、我に有利な形成、雰囲気を醸成する目的をもって、とくに対手を感動させる方法、手段により適切な時期を選んで、ある事実を所要の範囲に宣明伝布するを宣伝と称し、これに関する諸準備、計画及び実施に関する勤務を宣伝勤務という。」

 一方の『統帥綱領』では以下のように記述されている。

第1「統帥の要義」の6

「巧妙適切なる宣伝謀略は作戦指導に貢献すること少なからず。宣伝謀略は主として最高統帥の任ずるところなるも、作戦軍もまた一貫せる方針に基づき、敵軍もしくは作戦地域住民を対象としてこれを行い、もって敵軍戦力の壊敗等に努むること緊要なり。

殊に現代戦においては、軍隊と国民とは物心両面において密接なる関係を有し、互いに交感すること大なるに着意するを要す。敵の行う宣伝謀略に対しては、軍隊の志気を振作し、団結を強固にして、乗ずべき間隙をなからしむるとともに、適時対応の手段を講ずるを要す。」

 1932年の『統帥参考』では以下のように記述されている。

第4章「統帥の要綱」34

「作戦の指導と相まち、敵軍もしくは作戦地の住民に対し、一貫せる方針にもとずき、巧妙適切なる宣伝謀略を行い、敵軍戦力の崩壊を企図すること必要なり。」

 以上のように、「捜索」あるいは「諜報」のように敵に対する情報を入手するだけでなく、敵戦力の崩壊を企図する、敵の作戦指導などを妨害する、あるいは我に有利な形成を醸成する機能を強化する必要性が認識され、そのことが「宣伝」を「謀略」ともに軍事用語として一般化したのである。

▼第一次世界大戦における宣伝戦

 心理戦の発祥は古来に遡るが、心理戦の重要性が認識され、組織的かつ計画的に行なわれるようになったのは第一次世界大戦からである。

 1948年に『Psychological Warfare』(邦訳名『心理戦争』)を出版したラインバーガーは、次のように述べる。

 「第一次世界大戦によって心理戦争は付随的な兵器から主要な兵器へと変容し、後には戦争を贏(か)ち得た武器とさえ呼ばれるようになった」

 心理戦の最大の武器となるのが宣伝戦である。よって心理戦はしばしば宣伝戦と呼び変えられることが多い。

第一次世界大戦における宣伝戦の主役は間違いなくイギリスであった。第一次世界大戦が開戦すると、イギリスは1914年8月、ドイツとアメリカ間の海底電線を切断した。当時、無線は使われ始めていたがまだ不十分であり、しかもイギリスが盗聴していた。つまり、イギリスは通信を独占し、アメリカにはイギリスが与える情報しか入らなくなった。

イギリスは独占した通信をもって、ドイツの誹謗中傷報道を流し、ブラック・プロパガンダにより、米国を欧州の大戦に参加させるよう画策した。イギリスの自由党議員チャールズ・マスターマンは1914年9月、戦争宣伝局(War Propaganda Bureau)、通称「ウェリントン・ハウス」を設置する。これは、外務省付属の秘密組織であった。

ここから、イギリス国内向けの戦意高揚施策や、敵国への謀略報道戦が展開された。イギリス外務省は学者、著名芸術家、文筆家を協力者として、ドイツの“絶対悪”をブラック・プロパガンダして、アメリカ人の人道感情を揺さぶり、アメリカを参戦へといざなったのである。

その後、戦争宣伝局は情報局を経て1918年には情報省へと発展し、新聞大手「デイリー・エクスプレス」紙の社主ビーヴァ─ブルック卿が情報大臣に任じられる。この時、ウェリントン・ハウスは解消されたが、主要なメンバーは残った。

また「タイムズ」紙と「デイリー・メール」紙の社主ノースクリフ卿が、彼の屋敷におかれた宣伝機関である「クルー・ハウス」からドイツに対するブラック・プロパガンダを展開した。

 クルー・ハウスは、ドイツの厭戦気運を盛り上げ、ドイツ兵の投稿を促すビラやリーフレットを大量に作成した。これらは気球などによってドイツ、敵陣営、中立国に投下された。

 とくに、ドイツが中立国に侵略して残虐行為を働いたとの虚偽のブラック・プロパガンダが展開された。また、ロイター通信が中立国に対し虚偽記事を配信し、国際世論の反ドイツ感情を煽った。

 アメリカは参戦後、新聞編集者ジョージ・クリールを委員長とする「広報委員会」、通称クリール委員会を発足させた。同委員会はイギリスと同様に新聞、パンフレットなどにより、反ドイツ感情を煽った。また、アメリカでは反ドイツ映画が作成された。かのチャップリンも反独映画の作成に協力した。

▼第一次世界大戦後のドイツ

第一次世界大戦後、宣伝戦争においては英国がドイツに圧倒的に有利であったことが明らかとなった。英国の宣伝を最も評価したのがヒトラーである。彼は『わが闘争』において、ドイツが英国の宣伝戦から学ぶべきである、とした。

ドイツでは1933年1月にナチスが政権を握ると、ただちに国民啓蒙・宣伝省を創設した(1933年3月)。ナチスで宣伝全国指導者を務めていたヨーゼフ・ゲッペルスが初代大臣に任命された。ゲッペルスは3月25日に次のような演説を行なっている。

 「宣伝省にはドイツで精神的な動員を行なう仕事がある。つまり、精神面での国防省と同じ仕事である。(中略)今、まさに民族は精神面で動員と、武装化を必要としている」

まさに宣伝戦が武力戦と同等の地位を占めるに至り、宣伝戦が国際社会を席巻する火蓋となったのである。

▼わが国が対外文化交流を推進

第一次世界大戦終了後の5月4日、わが国は北京において五四運動に直面することになる。これは、パリ講和会議(1919年1月)で、「日本がドイツから奪った山東省の権益を返還せよ」という中国の巧みな宣伝によって、山東省の権益返還が国際承認されたことに端を発している。

こうしたことから、わが国は国際宣伝の重要性に対する認識を高め、1920年4月、内外情報の収集・整理や宣伝活動を行なう「情報部」を設置(1921年8月)した。このほか、「国際通信社」や「東方通信社」といった対外通信社の強化を図った。また中国における対日感情を好転すべく、文化事業に力を入れた。

1930年代、ドイツが「ゲーテ・インスティトゥート」(1932年)、イギリスが「ブリティシュ・カウンセル」(1934年)を創設するなど、主要国が対外文化組織を設立するなか、わが国も1934年に財団法人・国際文化振興会を設立した。

同振興会は、メディア研究やプロパガンダ研究により、諸外国の文化交流を通じた親睦を深めて、対日国際理解を推進することが目的であった。文化人などの講師を海外に派遣・招聘し、日本文化の理解の普及につとめた。ニューヨークにはその出先機関として日本文化会館が置かれた。また1935年には日本放送協会による海外向けラジオ放送が開始された。

しかし、日中戦争以後の国際情勢が緊迫化すると、穏やかな「国際交流」という様相は脇に追いやられ、国内外に対するプロパガンダが重視されるようになる。

▼情報局の設立

第一次世界大戦当時、プロパガンダという言葉にまったくなじみのなかった日本は宣伝戦に大きく後れをとった。日本の新聞や雑誌にプロパガンダという言葉が現れるのは、1917(大正6)年以降である。(小野厚夫『情報ということば』)

上述のように中国の抗日宣伝に翻弄されたことや、第一次世界大戦における総力戦思想の跋扈に触発され、強力な情報宣伝の国家機関を設立しようとする動きが軍部などに生じ、陸・海軍や外務省では宣伝活動を展開する機関が設置されるようになる。

外務省は1921年8月に情報部を設置した(事務開始は1920年3月から)。他方、陸軍省は1920年1月に陸軍新聞班(1937年に大本営陸軍報道部、38年に陸軍省情報部、40年に陸軍報道部へと改編)、海軍省は1923年5月に軍事普及委員会(1932年に軍事普及部と改称)を設置した。

満洲事変以後、日本を非難する国際世論の高まりに対して、外務省は内田康哉外務大臣の下で対外情報戦略を練り直すことになった。1932年9月、陸・海・外務による情報宣伝に関する非公式の連絡機関「情報委員会」が設置された。これ以後、「情報宣伝」という複合語が盛んに用いられるようになる。

満洲事変による国際対日批判を払拭するため、日本は自らの立場を世界に訴え、国際理解を増進させる方針を選んだ。そこで武器となるのが世論を形成する新聞、その新聞にニュースを提供する通信社であった。

しかし、当時は電通(1907年設立)と聯合(1926年誕生)が激しく競争していた。1931年の満洲事変の発生では、陸軍をバックにつけた電通の一報は、事変発生後わずか4時間で入電し大スクープとなった。

両通信社による激烈な取材競争により、両社ともに経費が膨れ上がり、報道内容にも食い違いが生じた。このため政府部内や新聞界で両社を統合しようという機運が高まり、1936年(昭和11年)1月、同盟通信社が発足した。

1936年7月1日、非公式の連絡機関「情報委員会」を基に各省の広報宣伝部局の連絡調整や、同盟通信社などを監督する目的で「内閣情報委員会」が設立された。

1937年9月25日、連絡調整のみならず各省所管外の情報収集や広報宣伝を行なうために、内閣情報委員会は「内閣情報部」に改められ、情報収集や宣伝活動が職務に加えられた。

1939年、「国民精神動員に関する一般事項」が加わり、国民に対する宣伝を活発化させ、それを担うマスコミ・芸能・芸術への統制を進めた。

1940年12月6日、戦争に向けた世論形成、プロパガンダと思想取締の強化を目的に、内閣情報部と外務省情報部、陸軍省情報部、海軍省軍事普及部、内務省警保局検閲課、逓信省電務局電務課、以上の各省・各部課に分属されていた情報事務を統一化することを目指して、内閣直属機関である「情報局(内閣情報局)」が設置された。

情報局には総裁、次官の下に一官房、五部17課が置かれた。第一部は企画調査、第二部は新聞、出版、報道の取り締まり、第三部は対外宣伝、第四部は出版物の取り締まり、第五部は映画、芸術などの文化宣伝をそれぞれ担当した。職員は情報官以上55名、属官89名の合計144名からなった。

しかし、陸軍と海軍は、大本営陸軍部・海軍部に報道部を設置したほか、陸軍報道部、海軍省軍事普及部の権限を委譲しようとはせず、情報局は内務省警保局検閲課の職員が大半を占めて、検閲の業務を粛々遂行し、宣伝活動において目立った成果はなかったのである。

(次回に続く)

わが国の情報史(36)  昭和のインテリジェンス(その12)

  ─日中戦争から太平洋戦争までの情報活動(2)─

今回は、第一次世界大戦後に、総力戦あるいは非武力戦の概念が打ち出されるなか、共産主義に対する防衛、すなわち「防諜」という言葉が登場し、わが国において官民の防諜体制の確立が強く叫ばれたことに焦点をあてることにする。

▼防諜という言葉の淵源と来歴

 1938年8月に「後方勤務要員養成所」として産声をあげた陸軍中野学校では、創立後しばらくたった頃から、従来いわゆる情報活動や情報勤務といわれていた各種業務を総括して、「秘密戦」と呼称するようになった。

 その秘密戦は諜報、宣伝、謀略、防諜と定義された(※ただし、秘密戦の呼称は各地域により、また各軍により、必ずしも統一的に使用されていなかった)

 しかしながら、1925年から28年にかけて作成されたと推定される、情報専門の教範『諜報宣伝勤務指針』では、諜報、謀略、宣伝という用語についての定義付けがなされているが、ここには「防諜」という言葉は登場しない。

 そもそも、「孫子」の例を持ち出すまでもなく、歴史的には情報を収集する活動が開始されたと同時に、それと表裏一体である情報を守る活動は開始された。情報を守る、すなわち情報保全あるいは情報秘匿が戦勝の鍵となったのである。

 『諜報宣伝勤務指針』においても、「対諜報防衛」という用語で、その活動について規定している。

 ここには、諜報勤務者を防衛することや対諜報防衛の要領を知悉することの重要性、対諜報防衛組織の全国的統一運用、相手国(対手国)の諜報組織とその諜報勤務上の企図を諜知することの重要性、相手国の諜報勤務の取り締まりための暗号解読、写真術の応用、特殊「インキ」や封印等の対策、無線電信の窃諜の必要性などが記述されている。

 このほか、要注意人物の発見や行動の把握、国境出入り者の検査の厳正なる実施、公然諜報員の獲得などのことが記述されている。

 しかしながら、上述の繰り返しなるが、『諜報宣伝勤務指針』には「防諜」という言葉はない。では「防諜」という用語はいつ登場したのであろうか?

 これは、1936年7月24日勅令第211号陸軍省官制の改正により、兵務局が新設されたことに端を発する。兵務局は、2.26事件(1936年2月)の影響や、のちの日独防共共協の締結(1936年11月)に象徴される共産主義イデオロギーの浸透に対する警戒などを背景に設けられた。

 そして兵務局兵務課は、歩兵以下の各兵科(航空科を除く)の本務事項を統括、軍紀風紀懲罰の総元締めとして軍事警察、防諜などを担当した。同「陸軍省官制改正」第15條には兵務課の任務が示され、6項で「軍事警察、軍機の保護及防諜に関する事項」が規定された。おそらく、これが防諜の最初の正式の用例だとみられる。

▼防諜とはどのような情報活動か?

 1938年9月9日に陸軍省から関係部隊に通知された資料である「防諜ノ参考」、及び陸軍省兵務局が各省の防諜業務担当者に配布した資料である「防諜第一號」から、当時の防諜に関する認識を整理すれば以下のとおりである。

◇陸軍は、防諜を「外国の我に向ってする諜報、謀略(宣伝を含む)に対し、我が国防力の安全を確保する」ことであると定義し、積極的防諜と消極的防諜に区分した。

◇積極的防諜とは、「外国の諜報、もしくは謀略の企図、組織または、その行為もしくは措置を探知、防止、破摧」することであり、主として憲兵や警察などが行なった。その具体的な活動内容は、不法無線の監視や電話の盗聴、物件の奪取、談話の盗聴、郵便物の秘密開緘(かいかん)などであった。

◇消極的防諜とは、「個人もしくは団体が自己に関する秘密の漏洩を防止する行為もしくは措置」のことであり、軍隊、官衙(かんが、※役所のこと)、学校、軍工場等が自ら行なうものであった。

主要施策としては、(1)防諜観念の養成、(2)秘の事項または物件を暴露しようとする各種行為もしく措置に対する行政的指導または法律による禁止もしくは制限、(3)ラジオ、刊行物、輸出物件および通信の検閲、(4)建物、建築物等に関する秘匿措置、(5)秘密保持のための法令および規程の立案及びその施行などがあった。

(『防衛研究所紀要』第14巻「研究ノート 陸海軍の防諜 ──その組織と教育─」を参考、※インターネット上で公開)

▼防諜体制の強化

 以上のように、2.26の影響や共産主義の浸透防止を目的に兵務局が新設され、日中戦争勃発(1937年7月)以降に防諜の概念が整理されるようになり、陸軍省から関係部署に防諜体制の構築が徹底された。

 つまり、従前の「対諜報防衛」は、相手側の諜報を防衛し、軍機の漏洩を回避するといった狭義の軍事的意味で用いられた。しかし、総力戦のなかで広範囲に諜報、宣伝、謀略が展開されるようになったため、国民を広く啓蒙し、官民一体となった相手国および中立国の秘密戦に対処する必要性が生じた。そのことが「防諜」という言葉に結集したといえるのではないだろうか。

 1937年8月に軍機保護法が全面改訂され、10月に新しい軍機保護法が施行された。1938年には、国防科学研究会著『スパイを防止せよ!! : 防諜の心得』(亜細亜出版社、インターネット公開)といった著書が出版され、国民に対して防諜意識の啓蒙が図られた。

 同著では、1防諜とはどんなことか、2防諜は国民全体の手で、3軍機の保護と防諜とは、4国民は防諜上どうしたらよいか、5スパイの魔手は如何に働くか、6外国の人は皆スパイか、7国民よ防諜上の覚悟は良いか、の見出しで、防諜の概念や国民がスパイから秘密を守るための留意事項が述べられている。

 同著は、「近頃新聞紙やパンフレット等に防諜という言葉が縷縷見受けられるようになってきたが・・・、又一般流行語の様に一時的に人気のある言葉で過ぎ去るべきものであるか、・・・」と記述しており、防諜が一般用語として急速に普及したようである。

 その後、防諜に関する著作、記事、パンフレットが定期的に頒布された。主なものには、『週報』240号「特集 秘密戦と防諜」(1941年5月14日)、『機械化』21号「君等は銃後の防諜戦士」(1942年8月)、引間功『戦時防諜と秘密戦の全貌』 (1943(康徳9)年、大同印書館出版)が挙げられる。

 その後、防諜は終戦までずっと、その重要性が認識され、国民への啓蒙活動が行なわれた。

▼防諜という用語が登場・普及した背景

 防諜という言葉が登場・普及した背景には、第一次世界大戦において非武力戦あるいは総力戦の概念が登場したこと、共産主義国家ソ連が誕生して国際コミンテルンが各国に共産主義イデオロギーを輸出したこと、満洲事変(1931年9月)以後のわが国の大陸進出に対する欧米、ソ連、蒋介石政権の対日牽制が本格化したことなど挙げられる。

 第一次世界大戦において、わが国はドイツが敗北した大きな要因が総力戦対応の失敗だと認識したようであり、これは当時の軍事雑誌では以下のように記述されている。

 「・・・これは前大戦の例を見てもわかります。前大戦の時、ドイツは武力戦では連合軍をよく撃破したのでしたが、非武力戦で銃後を攪乱され、折角の前線の勝利も銃後から崩壊してあの無惨な敗北を喫したのであります。

 戦争とスパイは付き物ですが、前欧州大戦の時にも、両軍のスパイはお互いに盛んに活躍したのです。スパイの活躍がどんなに戦争に響くかということは、今更申し上げるまでもなく皆さんのよくご存知の通りです。

 例えば軍の作戦が漏れた為に敵に乗ぜられるとか兵団の移動が探知された結果、意外な逆襲にあって大損害を蒙るとか、その影響は頗(すこぶ)る大きく、一スパイの活躍よく大兵団を葬ると云うが如き例はいくらもあるのであります。

 前大戦に於いて両軍の軍事スパイは幾多の目覚ましい手柄をたてています。然し結果的に考えてみますと、ドイツ軍のスパイは軍事的にのみ片寄り過ぎて、その他に方面には及ばなかったようです。同時に防諜という点でも、軍関係の秘密は守られましたが、他の方面の秘密は敵側に漏れていたようです。

 近代の戦争が武力戦のみでなく、非武力戦も戦争であると前に述べましたが、戦争に勝つことは、武力戦に勝つと同時に非武力戦にも勝たねばならないのであります。

 前大戦に於ける連合国側の様子を見ると、武力だけではドイツを降参させることは難しいと考え、非武力戦線にも力を入れようと計画したのです。その結果ドイツの経済、社会思想、政治等をよく調べ、銃後攪乱をやったり、謀略、宣伝に力を入れ、とうとう武力戦では勝利を得ているドイツを降参させてしまったのであります。謀略宣伝がどんなに威力のあるものか、非武力戦の勝利が如何に功を奏するかがこの例ではっきり解ります。・・・・・・・」

(「機械化」21号(昭和17年8月)「君等は銃後の防諜戦士」)

 また、当時の国際共産主義の輸出、拡大の情況を整理すると次のとおりである。

 ロシア革命(1917年)後の1919年にレーニンによってつくられたコミンテルンは共産主義の思想を各国に輸出した。日本もその例外ではなく、1922年に日本共産党がコミンテルン日本支部として設立した。これを取り締まるために1925年に治安維持法が制定された。

 1931年6月、コミンテルンの国際組織であるプロファインテル極東支部のイレール・ヌーランが上海で逮捕された。この事件によって、上海を中心にアジア各地にコミンテルンのネットワークが張り巡らされていたことが暴かれ、わが国も事の重大性を認識した。

 1930年代のファシズムの台頭に対しては、欧州各国で1934年から人民戦線の動きが強まった。これを受けてコミンテルンは、1935年のコミンテルン第7回大会で「反ファッショ統一戦線(人民戦線)」路線を採択した。

 中国では、これを受けて共産党が1935年、「8.18宣言」をだし、抗日民族統一戦線を国民党に呼びかけた。この延長線に締結されたのが日独防共協定であり、また日中戦争ということになる。

 日本国内においては、満洲事変以後にわが国が国連脱退したことなどにより、日本への外国人渡来者数や軍事関連施設の視察者が増加した。この中には、正体不明の多くのスパイが混入していた。

 このため、わが国は特別高等警察(特高)と憲兵隊を強化したほか、陸軍省は軍内の機密保護観念の希薄さを改めて問題視した。そして各省庁が連携して国家の防諜態勢を確立すること目指したのである。

 すなわち、官民が一体となった防諜体制の確立が目指されたのである。

▼二大スパイ事件が防諜の重要性を高める

 また、わが国におけるスパイ事件が防諜の重要性を高めた。その代表事例がコックス事件とゾルゲ事件である。

 1940年7月27日に、日本各地において在留英国人11人が憲兵隊に軍機保護法違反容疑で一斉に検挙された。これがコックス事件である。同月29日にそのうちの1人でロイター通信東京支局長のM.J.コックスが東京憲兵隊の取り調べ中に憲兵司令部の建物から飛び降り自殺する。

 当時、この事件は「東京憲兵隊が英国の諜報網を弾圧した」として新聞で大きく取り上げられ、国民の防諜思想を喚起し、陸軍が推進していた反英・防諜思想の普及に助力する結果となった。

一方のゾルゲ事件は、ソ連スパイのリヒャルト・ゾルゲが組織するスパイ網の構成員が 1941年9月から1942年4月にかけて逮捕された事件である。

 この事件についてはあまりにも有名なので、ここで詳細は述べないが、ゾルゲが近衛内閣のブレーンとして日中戦争を推進した元朝日新聞記者の尾崎秀実などを協力者として運用し、わが国が南進するなどの重要な情報を入手し、ソ連に報告していた。

(次回に続く)

わが国の情報史(35) 昭和のインテリジェンス(その11)      -日中戦争から太平洋戦争までの情報活動①-     

▼はじめに

さて、前回は、軍閥間の対立などによって2.26事件が起こったことを述べました。今回から日中戦争と第二次世界大戦に移ることにする。すでに第二次世界大戦については、〝情報の渦〟というくらい多くのことが語られている。だから、ひとつひとつの戦闘の局面を取り上げて述べるのではなく、当時の防諜体制、陸軍中野学校、秘密戦など、歴史の教科書や、通常の戦史書では触れられていないことを中心にざっと述べることにしよう。

▼2.26事件により統制派が台頭  

2.26事件が発生し、岡田啓介内閣は総辞職した。陸軍の皇道派に属する重鎮は軒並み予備役に編入された。これら皇軍派の左遷人事を行ったのが、軍務局軍事課の武藤章中佐(後述)と参謀本部作戦課長の石原莞爾大佐であった。    

彼らは、相沢中佐に刺殺された永田鉄山が率いてきた「一夕会」のメンバーであり、統制派である。つまり、2.26事件により、統制派が皇道派を完全に一掃した。

ポスト岡田内閣について、最後の元老であった西園寺公望は当初、近衛文麿に組閣を命じたが、近衛は病気を名目に辞退した。そのため、斎藤内閣から岡田内閣まで外務大臣であった広田弘毅(ひろたこうき)にお鉢が回った。広田も就任を拒み続けたが、やっとのことで承諾した。

かくして、1936年3月9日、初の福岡県出身の総理広田による内閣が成立した。陸軍大臣には寺内寿一(てらうちひさいち、シベリア出兵時の寺内正毅総理の長男)が就任したが、これも武藤と石原の背後での根回しが功を奏した。

寺内は入閣を打診された際、1913年に山本権兵衛内閣で廃止された「軍部大臣現役武官制」を復活させるよう迫り、外相に予定されていた吉田茂を外させるなど、入閣と引き換えに組閣に対して容喙した。

「軍部大臣現役武官制」とは、陸軍大臣、海軍大臣は現役軍人でなければならないというものである。つまり、軍部のお墨付きがなければ組閣ができないことを意味し、政治に対する軍部の影響力が増大することになった。 このことが、やがて統制派のトップに君臨した東條英機による陸軍大臣、さらに内閣総理大臣への就任、そして太平洋戦争へと連接する道に向かわせることになった一要因とみられている。

▼3国防共協定の締結

当時、世界的にはドイツのナチズムとイタリアのファシズムが台頭していた。我が国においては「利権拡大のためドイツと軍事同盟を結ぶべし」との強硬論と、「戦争に向かいつつある欧州とは関わり合いを持たないほうが良い」とする慎重論に分かれた。広田は慎重論であった。

他方でソ連を中心とする国際共産主義運動も活発化していたことに対して多大な懸念があった。そのため、広田内閣は1936年11月にドイツとの日独防共共協の締結に踏み込んだ。ただし、欧州の情勢に巻き込まれる軍事条約の締結には反対し続けた。

翌1937年11月、イタリアがこれに参加し、日独防共協定は日独伊三国防共協定となった。かくして、わが国はドイツ、イタリアと反ソ連の立場で結束し、枢軸陣営を結成し、連合国との対立を鮮明にしていくのであった。

▼政権交代を繰り返し、混迷する日本政治

軍部と政党の対立のなかで、広田首相は指導力を発揮できず、組閣から1年もたたずに1937年1月23日に総辞職する。広田内閣の後には、宇垣一成を推す声が強かったが、宇垣が行った軍縮に恨みを持つ軍部の反対で、これは実現しなかった。

結局、2月2日に予備役大将の林銑十郎(はやしせんじゅうろう)による内閣が成立した。 林内閣も、政党からそっぽを向かれて、同年6月4日に総辞職した。林内閣は短命で特に何もしなかったことから、林の名をもじって「何にもせんじゅうろう内閣」と皮肉られた。
こうした短命内閣の背後には、「軍部大臣現役武官制」を通じた軍部からの圧力の存在があったとみられている。

林内閣の後には第一次近衛文麿内閣が誕生した。 新鋭47歳の近衛公は、身長180cm以上で容姿端麗、国民人気は高く軍部および政財界からも大歓迎を受けた。また、近衛はパリ講和会議の前年「英米本意の和平思想を排す」という論文を発表し、1932年(昭和8)1月、年頭談話では、満州国の正当性を否定するリットンへの反対意見を発表するなど、軍部の革新思想と一脈通じるものがあった。

しかし、近衛は思いつきとみられるよう浅薄な発言を繰り返し、国政を混乱させ、軍部からはすぐに見限られる。また、近衛は尾崎秀実(おざきほつみ)やリヒャルト・ゾルゲとの個人的関係が取り沙汰される、彼自身が共産主義者と見られたり、要を得ない人物であった。

▼盧溝橋事件から支那事変が勃発

第一次近衛文麿内閣成立直後の1937年7月7日、北京郊外の盧溝橋付近で日中両国の衝突事件が起きた。いったんは現地で停戦協定が成立して、近衛内閣は不拡大方針を表明したが、軍部の圧力等により、兵力を増派して戦線を拡大することになる。  

参謀本部・作戦(第1)部長の石原莞爾少将は「陸軍総動員兵力30ケ師団中、日本が中国作戦に使用し得る兵力は対ソ戦備上15ケ師団(全兵力の1/2)でなければならないが、その兵力では到底広大な中国大陸を制し得られない」 と主張し、事変の不拡大を支持した。

石原は、現地の第一線のわが軍を北支一帯より撤収すべきだと考え、近衛総理が自ら南京に赴き、蒋介石と直接会談して時局の収拾にあたるべしと強調した。

しかし、軍中央部においては作戦部、第2部(情報)ならびに軍務局(陸軍省)内において事件拡大積極論を叫ぶ者があった。結局、石原はこうした軍部の圧力に屈する形で、7月10日、3個師団の動員派遣に同意するに至った。これが強硬論に拍車をかけた。

▼強硬論の中心人物、武藤章

石原は1931年の満州事変で、中央政府の不拡大方針を遵守せずに拡大を図った。だから、石原は部下の軍務課長の武藤章大佐以下の中堅幹部の積極論を押さえられなかった。

強硬論の中心人物である武藤章はのちに中将職でただ一人、A級戦犯で処刑された。武藤は1935年以降に関東軍によって推進された、華北(チャハル、綏遠、河北、山西、山東)を国民政府の統治から切り離して支配しようとする「華北分離工作」の起草者である。

石原が中央の統制に服するよう、武藤の説得に来た際に、「石原閣下が満州事変当時にされた行動を見習っている」と得意の毒舌で反論して同席の若手参謀らも哄笑、石原は絶句したという。

武藤は2.26事件の善後処置において、石原と共に最も厳重な厳粛法案を立案して、これを実行に移した。この時以来、武藤は統制派の重鎮として影響力を持った。

盧溝橋事件が起きると、蒋介石政府を侮る武藤(この時参謀本部の編制課長)として「中国一激論」を唱え、田中新一・東條英機ら統制派の勢力を後ろ盾に石原ら不拡大派を追放(喧嘩両成敗で武藤も参謀本部を去るが、のちに軍務局長として復活)、近衛文麿内閣による日中戦争拡大と日独伊三国同盟に主導的役割を果した。

盧溝橋事件の現地部隊は事態不拡大の意向であったが、日本政府が軍の一部の圧力に影響され、事態が拡大し、日中全面構想から太平洋戦争に至った。 この点に関して言えば、満州事変が出先の関東軍の主導によって、中央政府の不拡大方針を遮って拡大路線を向かったことと線対称であった。

わが国の積極攻勢に対して、国民政府の側も断固たる抗戦の姿勢をとったので、戦闘は当初の日本側の予想をはるかに超えて全面闘争に発展した。すなわち、泥沼の日中戦争へと発展した。

1937年9月には国民政府と共産党が再び提携し(第二次国共合作)、抗日民族統一戦線を樹立した。日本はつぎつぎと大軍を投入し、年末には国民政府の首都南京を占領した。国民政府は南京から漢口、さらに奥地の重慶に退いて抗戦を続けたので、日中戦争は泥沼の長期戦となった。

▼第二次世界大戦が勃発

欧州では、ナチス・ドイツが積極的にヴェルサイユ体制の打破に乗り出し、以下のとおり着々と支配権を拡大した。

・1938年3月、オーストリアおよびチェコスロバキアを併合

・1939年4月、ポーランドとの不可侵条約(1934)を破棄

・1939年9月1日、ポーランドに侵攻

これに対し、イギリス、フランスが1939年9月3日、ドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦が始まった。 ドイツ軍の侵攻に触発され、ソ連もポーランドに侵攻した。両国は独ソ不可侵条約(1939年8月)にもとづき、ポーランドを分割した。 ソ連は1939年11月にフィンランドに侵攻、1940年にはフィンランドから領土を割譲、ついでバルト三国を併合した。

▼世界を驚愕させた独ソ不可侵条約

ソ連に対し、ドイツはのちの1941年6月22日に攻撃を仕掛けることになるが、大戦直後のドイツの攻勢は、良好な対ソ関係に支えられた。ドイツはソ連に接近することで東部戦線を安定させ、西部戦線に戦力を集中したのである。

両国の良好関係を示す最たるものが、1939年8月の独ソ不可侵条約である。イデオロギーを対立させ、個人的に〝犬猿の仲〟といわれたヒトラーとスターリンが手を結んだのであるから、世界中に衝撃が走った。  

ヒトラーは1933年の政権奪取以降、イギリスとの対立を回避する外交政策を展開していた。しかし、駐英大使時代に反英感情を強めていたリッベントロップ外相は、はやくも独・伊・日・ソによってイギリスに対抗する構想を固め始めていた。1938年1月、彼はヒトラーによる反英構想の覚書を提出した。こうした反英構想が、次第にドイツを対ソ懐柔政策へと向かわせたのであった。  

1939年4月、ヒトラーはポーランドとの不可侵協定とイギリスとの海軍協定を破棄し、イギリスに対決する意志を明確にした。他方、イギリスはソ連に対して「平和戦線」への参加を求めた。ソ連は参加の条件として、英・仏・ソの三カ国による軍事同盟の締結を求めた。しかし、英仏側はそれに応じなかった。  

ソ連側の提案に、チェンバレン英首相が否定的な態度を示したことで、スターリンは、ソ連だけがドイツとの戦争に巻き込まれ、英仏がそれを傍観するという最悪の図式を懸念した。  

そこで、ソ連はドイツとの接触を開始した。ドイツのリッベントロップ外相がソ連のモロトフ外相がその交渉にあたった。モロトフがドイツとの接近に消極的であると見るや、ドイツは大胆な手を打った。

1939年8月14日、「ポーランドを含めた東欧をソ連と分割する用意がある」ことをヒトラーが表明した。同時に、リッベントロップ自らがモスクワに飛んで交渉することを申し入れたのである。  

ソ連側は、こうしたドイツ側の対応を〝誠意〟と感じ取った。8月15日、モロトフは独ソ間の不可侵条約について提案を行なった。 ヒトラーにとってこの提案は望むところであった。なぜならば、ソ連を戦争圏外に置いて安心してポーランドを攻撃できるのみならず、英仏の行動を相当委縮できるからである。かくして、8月23日、世界が驚愕する独ソ不可侵条約の成立と相成ったのである。  

▼早くも情報戦に敗北する日本  

上述のとおり、広田内閣は、ソ連の共産主義拡大を警戒し、日独防共協定、次いでを締結し、日・独・伊三国防共協定を締結した。 一方、1937年7月以降の日中戦争の勃発によって、極東のソ連が最大の軍事的脅威となった。

そして1938年7月、満洲国に駐屯して対ソ国境を警戒する日本陸軍はソ・満国境不明地帯においてソ連軍と衝突(張鼓峰事件)した。さらに、日ソの緊張度は高まり、1939年5月には、満洲国西部とモンゴル人民共和国の国境地帯で、ノモンハン事件が生起した。なおこの戦いではソ連の大戦車軍団の前に日本陸軍は大打撃を受けたのである(ただし、少ない戦力で対戦車戦闘ではソ連よりも優位な戦いをしたとの説もある)。  

こうしたなか、ドイツはソ連に加え、英仏を仮想敵国とする軍事同盟を締結することを日本に提案してきた。わが国は「同盟を結ぶべきか否か」について、何回となく会議を開くものの結論が出せなかった。そうこうしているうち、1939年8月、突如、独ソ不可侵条約が締結されたのである。   この条約の締結は、わが国がノモンハン事件を戦っている最中の出来事であり、ソ連を仮想敵国として進めてきたわが国とドイツとの同盟関係が根底から揺さぶられるものだった。 これを契機に、平沼内閣は「欧州の天地は複雑怪奇なり」との有名な言葉を残し、国際情勢の急変に対応し得ないとして総辞職した。  

日本は、独ソの接近がまったく読めなかった。これに対して、ソ連情報機関(クリピッキー機関)の諜報活動により、日・独防共協定をめぐるベルリンと東京の極秘電報をスターリンに筒抜けになっていた。(三宅正樹『スターリンの対日情報工作』) つまり、当時の日本の情報関心は、直接対峙する中国、あるいは北方の極東ソ連だけに限られてはならなかった。すなわち世界の情勢推移を多面的に見る目が必要であった。

日本は、中国戦線における優勢に浮かれ、狭窄症にかられて、国際情勢をみる目も持たなければ、暗号解読をめぐるソ連との情報戦にも完敗したということになる。すでに、太平洋戦争における情報戦の敗北は始まっていたのである。