わが国の情報史(45)  秘密戦と陸軍中野学校(その7)    -秘密戦士に求められる精神要素とは-

▼秘密戦士として要請される精神要素

陸軍中野学校が参謀本部直轄学校となり、教育、研究体制が整備された時点で秘密戦士の精神綱領が次のごとく示された。  

「秘密戦士の精神とは、尽忠報国の至誠に発する軍人精神にして、居常(きょじょう)積極敢闘、細心剛胆、克(よ)く責任を重んじ、苦難に堪え、環境に眤(なず)まず、名利を忘れ、只管(ひたすら)天業恢弘(かいこう)の礎石たるに安んじ、以て悠久の大義に生くるに在り」。(校史『陸軍中野学校』)  

伊藤貞利氏の『中野学校の秘密戦』によれば、この精神綱領を次のようにかみ砕いている。  

「精神綱領による秘密戦士の精神とは君国に恩返しをするために私心をなくして命を捧げるという「まこごろ」から出る軍人精神である。常日頃(つねひご)、ことを行うにあたっては積極的に勇敢に、こまかく心をくばると同時に大胆に、責任をや重んじ、苦難にたえ、自主性を堅持し、物心の欲望を捨て去り、ひたすら世界人類がそれぞれ自由に幸せに生きることができる世界をつくるという天業を押し広める土台石にとなることに満足し、たとえ自分の肉体は滅びても、精神は普遍的な大きな道義の実現を通して悠久に生きるということである。」

▼至誠に発する軍人精神とは 至誠の誠とは何か?

軍人精神とは何か?について、もう少し考えてみよう。 まず軍人精神であるが、その本質は命を賭して使命に生きることにある。 「文民銭を愛し、武臣命を惜しめば国亡ぶ」という諺があるように、軍人には時として命を犠牲にすることが求められる。 これは現在でも同様であり、自衛官の服務の宣誓にも、「・・・・・・事に臨んでは危険を顧みず、身をもって責務の完遂に務め、もって国民の負託にこたえることを誓います。」の一文がある。  

中野学校では私服で教育を受け、軍人とは思われない風姿や動作が要求された。だから、「天皇陛下」と聞いても直立不動の姿勢を取ってはならなかった。 しかし、軍人であることが否定されたわけでは決してない。むしろ軍人精神の本質はしっかりと教育されたのである。

中野学校の国体学の教官であった吉原政巳氏(1940年4月から中野学校に赴任、2期生以降を教育)は、自著『中野学校教育-教官の回想』のなかで、で次のように述べる。

「軍隊教育と中野教育とは、自(おの)ずから違う。卒業生の中には、中野の精神は、全く軍人のそれと違うのだ、といい切る人もある。事実、はじめに触れたように、両者その任務を異にしているのを、疑うことはできない。しかし深く根源を思えば、両者その核心は同じなのである。」

そして、吉原がその核心としているものが軍事勅諭における誠の精神である。 では誠とはいったい何であろうか? 1882年に明治天皇から下賜された軍人勅諭では、忠節、礼儀、武勇、信義、質素の5か条の徳目が述べられている。 そして、その後で「右の五ヶ條は、軍人たらんもの暫(しばらく)も忽(ゆるがさ)にすべからず。さて之を行わんには一の誠心(まごころ)こそ大切なれ。抑此(そもそも)五ヶ條は我軍人の精神にして、一の誠心はまた五ヶ條の精神なり。・・・・・・(振り仮名、句濁点、現代読みに筆者改め)」とある。

ここには五箇条の徳目の最後の締めくくりのとして「一つの誠心」が提示されている。つまり、誠は「精神のなかの精神、徳目ではなく徳目を徳目たらしめるもの」、すなわち誠は一段上位の徳目であると解釈できる。 ようするに。明治の軍人の人格完成の目標は、明き・清き・直(なお)き・誠の心であり、明治天皇は軍人に勅諭を下し給い、忠節・礼儀・武勇・信義・質素の五徳を示し、この五徳は一誠に帰する、とのたまわれたのである。

吉原は以下のように述べる。

「誠は、軍人勅諭をしめくくられた言葉であり、軍籍に身をおいた者には、忘れぬ言葉であった。それは日本人伝統の、基本的心情が尊ぶものであり、真の日本人が目指すとき、手ごたえが確かに体認せられるべきものであった。」(前掲『中野学校教育-教官の回想』)  ようするに、真の軍人、そして真の日本人たるための修養を行うことが、真の秘密戦士になりえるのだ、ということを吉原は強調したのである。

▼中野学校教育における誠の重要性

中野学校では、軍事精神の養成に立脚しつつも、秘密戦士としてのなおいっそうの誠が要請された。 吉原は以下のように述べる。 「防諜・諜報・宣伝・謀略などという、尋常でない工作だけに、これにたずさわる精神の純度が、問われるのである。不純な動機による権謀ほど、憎くして憎むべきものは無い。中野学校において、「秘密戦士は誠なり」と強調されたのは、まことに当然のことであった。」(引用終わり)

誠の語は「マ(真)」と「コト(事・言)」からなっている。すなわち、「虚偽や偽りのないこと」である。 元来、中国の儒教という考え方のなかで「誠」は用いられるようになった。儒教では、「仁、義、礼、智、信」の5つの徳目が強調され、これらの教えを行動として表したものが「誠」である。 この考え方を日本で取り入れたのが「武士道」である。

「武士に二言はない」 という言葉が象徴されるように、正直であって主君に忠誠を誓うことが美徳と して強調された。 このような武士道は徳川幕府が封建体制を維持するためにおおいに利用された。武士道に憧れた幕末の新撰組が「誠」の字を紋章として背負って反幕府勢力の取り締まりを行ったのである。

▼武士道は秘密戦にとって都合が悪かったのか?

畠山清行著・保坂正康編『秘録 陸軍中野学校』 には次の件がある。

「・・・・・・忍者だが、これを諸大名がかかえて諜報を集めるということになれば、幕府の弱点や痛いところさぐられる心配がある。 そこで、伊賀者・甲賀者の忍者をすべて幕府の直属として『お庭番』という組織をつくりあげる一方、御用学者に命じて『武士道』なるものを盛んにとなえさせた。つまり、『内緒で人の欠点や弱点を探ることは、武士にあるまじき卑怯な行為である』とうたいあげたのである。 太平洋戦争の敗因をさぐる場合、日本の歴史家は、明治以前にさかのぼることを忘れているが、遠因はじつにこの徳川幕府の政策にあるのだ。 幕府時代の武士道精神をそのままうけついだから日本の軍隊は、諜報機関を卑怯なものとして、もっともそれが必要な陸軍大学にさえ、太平洋戦争がはじまるまで、諜報を教える課目はなかったのである。……」(畠山清行著・保坂正康編『秘録 陸軍中野学校』 )

つまり、武士道によれば諜報、謀略はまことに都合が悪いということになり、秘密戦を遂行し、秘密戦士を養成する上で、納得できる論理が必要であった。

▼武士道の真髄は秘密戦を否定せず

しかし、実は武士道とはそのような表層的な正直さのみを言うのではない。 江戸時代、儒学者、兵法家、道徳家の三つの顔を持つ山鹿素行(1622~1685年)は「士道」を表した。 士道は、太平天国の徳川時代において武士がいかに生きるべきかを、すなわち武士の道徳的な在り様を説いたものである。 のちの軍人勅諭の5箇条の徳目(忠節、礼儀、武勇、信義、質素)や、誠はいずれも素行(1622~1685)が提唱した士道が掲げる武士の規範 に基づいているとされる。

では、その素行が説く誠とは何か? 素行は「已むことを得ざる、これを誠と謂う」と言っている(『聖教要録』)。つまり、素行によれば誠は抑えようにも抑えられない自然の情である。 さらに素行は次のようにいう。 「一般に世間では、律儀に信をたてることを「誠」だとばかり心得ているらしい。もちろん、うそをついて相手をだましたり、計略を用いたりするのは君子たる者の大いに嫌うところであり、それは勢いものごとを力づくでやろうとする傾向につながるのだから、王者の道とはいえない。 だが、誠が深い場合には、偽ったとしても誠になることがあるのである。」(田原嗣郎『山鹿素行』)

素行が意味するところは実に深い。つまり目的が正しければ、その手段がたとえ卑劣にみえようとも誠を逸脱しない。すなわち誠は目的絶対性のなかにあるのである。 吉原は山鹿素行の『中朝事実』などの書き物を精神教育の教材として用いた。 日本の武士道の表層的な解釈では、諜報、謀略などの秘密戦に対する正統性はなかなか得られない。 そこで、素行の士道による真実の武士道を教示し、素行が主張する「誠」を強調することで秘密戦に対する正統性を付与したのである。

▼中野学校の目指した誠の意味

終戦時に中野学校の解散直前に富岡(本校)において卒業した8丙によれば、吉原が教えた中野学校における誠は、一般軍隊教育における誠とは、次の点が異なった。 「(軍人教育で行われた)「誠」の発露は天皇陛下に対してであり、拡大した場合でも日本国民が最大範囲であったと思われるのに対して、8丙が教えられた「誠」はその範囲が異民族まで拡大しており、一見「誠」とは正反対に考えられる謀略でも「誠」から発足したものでない限り真の成功はないと教えられた」。(校史『陸軍中野学校』) 中野教育では秘密戦士になるとともに民族解放の戦士となれ、と教えられた。 被圧迫民族であるアジア民族を植民地より解放し、その独立と繁栄を与えることが任務として求められたのである。 このため、誠の範囲は異民族まで拡大する必要があった。   

前出の精神綱領の「只管天業恢弘の礎石たるに安んじ、以て悠久の大義に生くるに在り」とある。 戦陣訓にも「死生を貫くものは崇高なる献身奉公の精神なり。生死を超越し一意任務の完遂に邁進すべし。身心一切の力を尽くし、従容として悠久の大義に生くることを悦びとすべし。」とある。

ただし、戦陣訓における悠久の大義とは、その対象を天皇に限定している。しかし、中野学校における悠久の大義とは数百年に及ぶ白人侵略から全アジアを解放して、アジア民族との共存共栄の道を模索することも包含している。  

アジア民族の解放を目的とする秘密戦は敵地、中立地帯の異民族の中に深く入って行わなければならない。当然、かかる秘密戦を行う者には高度かつ広範な知識技能が必要とされるが、それにまして、「真の日本人」にあらねばならない、というわけだ。

吉原は次のように述べる。 「……たとえば自分の人格が確立していないと、他の人格との真の交わりが不可能であるように、まず真の日本人になることが、風俗も信仰も異なる他民族と交わり、広く世界の人々に接するに、不可欠な要素だからである。」(『中野学校教育-教官の回想』)

ここに吉原の教える国体学の真の意味があり、歴史を通して真の日本人になることを要請したのである。 校史『陸軍中野学校』には、戦中及び戦後の状況を鑑みて、以下の件がある。 「実際に、中野学校卒業生は現地人に対する愛情と責任から、みずからの現地軍に身を投じる者すらあった。 中野学校出身者がインド、ビルマ、タイ、アンナン、マレー、インドネシア等の住民と戦後も交流が続いているのも、戦時中に異民族に示した行為や愛情が心の底から「誠」から出たもので、決して一片の謀略や、一時的な工作手段から出たものでなかったことを実証して余りがあるのではないだろうか」(引用終わり)

しょせんは侵略戦争を正当化するための屁理屈だ!といえばそれまでではある。ただし、国家であれ、個人であれ、相手と共存できないとなれば、戦いは回避できないのある。                           

結局のところ熾烈な国益や利益をめぐる死闘が繰り広げられることになる。 米国は英国と独立戦争を戦い、インデアンを駆逐し、ハワイを併合した。そして、太平洋戦争ではわが国の一般市民に対して無差別な絨毯爆撃を行った。  

そこには戦いゆえの残虐な殺生があった。 他方、中野学校においては「誠」の精神が教育され、アジア民族に対する愛情が厳然の事実として溢れていた。筆者はわが国の先の戦争行為を正当化するつもりは毛頭ないが、このことを日本人として誇りに思わざるを得ない。 「満蒙のローレンス」「希代の謀略家」と呼ばれ、A級戦犯として処刑された土肥原賢二将軍(1884~1948)は「謀略は誠なり」が信条であった。 

彼は実に温厚で、中国人に寄り添うやさしい人柄であったという。 軍人のなかには、現地の中国人を虐待する、あるいは婦女子に狼藉を働く輩が世の常としていた。土肥原はそのような輩を厳罰に処した。彼は謀略が誠から生み出されるものを知っていた。 土肥原を始め、当時の日本人には伝統的な誠の心が流れていた。そして謀略などの秘密戦を教育する陸軍中野学校にも、そのような日本人の伝統的な思想が受け継がれていたのである。

▼秘密戦士として名利を求めない精神

中野教育の原点は交替しない海外の駐在武官を育成することであった。後方勤務要員養成所の秋草所長の第1期生に対する訓示は、「本初は替らざる駐在武官を養成する場であり、諸子はその替らざる武官として外地に土着し、骨を埋めることだ」というものである。  

時代の奔流に流されて、太平洋戦争末期になると中野学校は秘密戦士から遊撃戦士の育成へと大きく舵を切ることになるが、この1期生の精神は先輩から後輩へと受け継がれて中野教育の伝統になった。 軍人は命を賭して国家・民族の自主・自立を守るという崇高な使命があるゆえに、軍人にふさわしい名誉が与えられることになる。正規の武官であれば、名誉の戦士として丁重に葬られる。 しかし、替らざる武官である秘密戦士はそうはいかない。任務の特性上、その功績を表沙汰にできないし、時として犯罪者の汚名を着せられ、ひそかに抹殺される可能性もある。 さらに「外地に土着し、骨を埋める」ことが求められた。つまり、残置諜者として黙々と水面下で生き続け、親の死に目にも会えず、やがて自身も誰にも知れずひっそりと死んでいく運命にあった。 そこには、精神綱領の「環境に眤(なず)まず、名利を忘れ」の精神が必要となるのである。 前出の8丙が受けた精神教育の大綱は、「謀略は誠なり」「諜者は死なず」「石炭殻の如くに」の三つの短句で表徴できるとある。(校史『陸軍中野学校』)

まさに「石炭殻の如く」人知られずに「悠久の大義」に生きることが求められたのである。

▼戦陣訓よりも厳しい精神要素が要求

秘密戦士には、一般軍人よりも生に対する執着が求められた。それは死生観から来るものではなく、使命感から生じる現実の要請であった。 江戸時代において、山鹿素行の士道を「上方風のつけあがりたる武士道」と批判する、「武士道と云(いう)は死ぬ事と見つけたり」という「葉隠れ武士道」が生まれた。 これは、1716年頃、佐賀鍋島藩士の山本常長が口頭で言い伝えたものを、同藩士の田代陣基が書き残したものとされる。 「葉隠れ武士道」は、陸軍省の東条英機によって1941年に制定された『戦陣訓』の「生きて虜囚の辱めを受けず。死して罪過の汚名を残すこと勿(なか)れ」へと受け継がれることになる。

しかし、中野学校では任務を完了するまで死んではならないと教えられた。1期生に忍術教育を教えた藤田西湖は中野学校生に以下のように語ったようである。

「武士道では、死ということを、はなはだりっぱなものにうたいあげている。しかし、忍者の道では、死は卑劣な行為とされる。死んでしまえば、苦しみも悩みもいっさいなくなって、これほど安楽なことはないが、忍者はどんな苦しみも乗り越えて生き抜く。足を切られ、手を切られ、舌を抜かれ、目をえぐり取られても、まだ心臓が動いているうちは、ころげても戦陣から逃げ帰って、味方に情報を報告する。生きて生き抜いて任務を果たす。それが忍者の道だ」 つまり、秘密戦士には「戦陣訓」では片づけられない、一般軍人よりもさらに厳しい精神要素が要求されたのである。

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