わが国の情報史(47) 秘密戦と陸軍中野学校(その9)

-陸軍中野学校の曲解を排斥する-

▼中野学校の過大評価は禁物  

 ともすれば、戦後の中野学校に関する映画などの影響により、同校が「秘密戦士のスーパー養成機関」のようにもてはやされる。さらに中野学校を謀略機関のように扱い、中野学校が学生を教育して謀略に差し向けたかのような誤解さえ生じている。中野学校は教育機関であって、謀略機関ではないし、特務機関でもない。  

 また戦後になって「中野学校の設立が10年早ければ」とよく回顧されたようである。しかしながら、この評価についても、もうすこし冷静に判断しなければならない。  

 8丙の加藤正夫氏は自著『陸軍中野学校 秘密戦士の実態』の中で、「歴史に『もしも……』ということはありえないが、陸軍中野学校の設立が昭和13年ではなく、それより10年早い昭和3年であったら、大東亜戦争の日本のあのような敗北はなかったのではないかとの見方もできる」と述懐している。  

 加藤氏の見解を整理してみよう。

・中野学校出身者の主流は普通の大学、高等専門学校出身者であり、柔軟な思考法で戦争に対処し、武力戦で強引に勝つこととのみは考えず、秘密戦によって難局打開を目指していた。  

・しかしながら、1期生の陸軍での最高階級は少佐であり、軍部内での影響力はなかった。  

・仮に、昭和3年であれば、将官クラスをも輩出し、軍内での影響力を有したであろうし、世界情勢を正確につかみ、正確に判断することを常に心がけていた中野学校出身者であれば、秘密戦による早期和解も可能であったであろう。  

 筆者は、これも客観的根拠のない中野学校への過大評価である。

 当時の陸軍内においては陸軍大学校出の作戦将校が幅を利かせ、同じ陸大出でも情報将校は軽視された。さらには陸軍内では東條英機率いる「統制派」あるいは「親独派」が幅を利かせ、海軍内部においても陸軍を北進から南進へと転換させ、対英米決戦に持ち込もうとする派閥もあった。 松岡洋介外務大臣も親独派で、それに追随する外務省幹部も対英戦争を指向した。  

 このように1920年代から30年代にかけてのわが国は、国家全体として戦争遂行の道を歩んでいたのである。わが国の世論の全般も戦争を支持する趨勢にあった。  ようするに、軍内では官僚主義が蔓延(はびこ)り、国家全体が戦争賛美にかられていた。中野学校がもう10年早くできようが、そしてリベラルな一般大学での卒業生が将軍ポスト就任しようが、作戦重視、親独主義という牙城を崩すことは容易ではない。  

 中野学校は「替らざる武官」を養成するために設立された。当時、情報戦に後れをとっていたわが国であったが、起死回生とばかりに中野学校の期待する者は、陸軍参謀本部のロシア課などを中心とする一部であって、陸軍参謀本部の総意ではなかった。

 たしかに当時、秘密戦の重要性に対する認識は高まったが、それも、しょせんは「“縁の下の力持ち”的な、割に合わないことはやりたくない」とする陸大出の作戦将校あるいは情報将校などのエゴにすぎなかったのではなかったのか?  

 当時の諸外国では、情報将校としてずっと同じ場所で外国勤務を続けて昇進していたという。しかしわが国の官僚制度が同一の補職や同じ勤務地では昇任条件を満たさなかった。むしろ、「替らざる武官」を新たに養成するより、官僚制度の弊害を改める努力はしなかったのか?ここにも疑問が残る。  

 ひるがえって明治の時代においては、陸大を出ずにほぼ情報一筋で海外勤務を続けた柴五郎は大将まで昇任した。桂太郎も最初は情報将校であり、川上操六参謀総長は情報将校を優遇した。この点は教訓にならなかったのか?  

 日清・日露戦争における勝利は、縁の下の力持ちに徹した情報将校の活躍があったと思われる。しかし、情報活動というか、秘密戦というものは目に見えないから、評価が難しい。あの明石大佐でさえ、情報関係者からは絶大の評価が与えられたが、凱旋帰国はなし、その復命書はホコリ塗(まみ)れ、という状態で決して評価は高くなかった。  

 結局、日清・日露の勝利の手柄は、声の大きい作戦将校に持っていかれ、情報将校やその関係者は隅におかれ、やがて情報の軽視が始まったのではないか? 『孫子』がいうように情報を成果が見えにくいので、最も手厚く報いなければならなかったが、その原則がわが国には確立できなかったのではないか?  

 この点、織田信長が今川義元を桶狭間で破った時、信長は、功名第一は、「義元、ただいま、田楽狭間に輿(こし)をとどめ、昼食中」と義元の居場所を伝えた梁田政綱(やなだまさつな)、第二は義元に一番槍をつけた服部小平太、第三は義元の首をとった毛利新助(義勝)とした。奇襲のお膳立てをした梁田の諜報・謀略を最も重視したのである。 すなわち、我が国は日本史から学ぶ貴重な戦訓も忘れて、日清・日露の戦争にうかれた。  

 ソ連はKGB出身者が大統領になる国である。そこには、民族と地勢、そして宗教が複雑に交錯した国境線を持ち、内乱や革命を経験した情報重視の伝統が生き続けている。しかるに、わが国のような島国国家にはなかなか情報重視の気風は育たない。

 この弱点を真に認識し、国家上層部が真にインテリジェンスの重要性を理解し、情報重視の気風を育て、人材育成に予算を重点配分しなければない。でなければ、どのような時代に中野学校、いや第二の中野学校ができようとも、たいした影響はないのだと考える。  

 中野学校のスーパー性を風潮することで満足して、本質を忘れて、思考停止に陥ってはならないのである。

▼中野学校に関する曲解が横行  

 戦後になって中野卒業生がわが国において暗殺や毒殺、拉致などを働いたなどの記事が書籍や雑誌に掲載されることは多々ある。誤解ならぬ、意図的な曲解である。  

 たとえば、元公安調査庁第2部長の菅沼光弘氏の著書『ヤクザ説妓生(キーセン)が作った大韓民国-日韓国戦後裏面史』(2019年2月、ビジネス社)には、中野学校出身者が金大中拉致に関わった旨が書かれている。 しかし、これには根拠といえるようなことはなにもない。  

 また、2015年4月の雑誌『ムー』(学研パブリッシング)に「陸軍中野学校極秘ファイル:終戦直後、スパイが画策した恐るべき謀略 禁断のマッカーサー暗殺計画」と題する斉藤充功氏の記事が掲載されが、これも信憑性に欠ける。  

 さらに過去に遡れば、わが国の帝銀事件や下山事件などの歴史的事件にも、中野学校出身者の関与を匂わせるような文脈があるが、これも説得力はない。これらに対しては、すでに中野学校関係者などによる論駁がなされているので、ここでは詳細は避けたい。

▼曲解の第一は、中野学校に対する認識不足  

 こうした事件や謀略に対する中野学校の関与説を振り回す原因を考えてみれば、第一に中野学校に対する認識不足があげられる。 中野学校は秘匿された存在であったので、のちに中野学校の映画が制作された際、中野学校に隣接する憲兵学校出身者が自分たちのことを世間が中野学校出身者だと信じ込んで、撮影のアドバイザーになったとの、笑えない“笑い話”もある。  

 中野学校はまず謀略機関ではないし、たとえ中野学校出身者が特務機関に配備されたとしても、その行動の主体は特務機関であって中野学校ではない。これに関しては、当時の陸軍の軍事制度や教育制度に対する認識不足を改める必要があろう。  

 また、中野学校において“007的”な技術教育が行なわれたことも事実ではあるが、これまで述べたとおり中野学校で最も重視されたのは「誠の教育」であった。  

 筆者は、中野学校を研究して創設者の秋草氏などの思想の一端に触れ、国体学を教育した吉原教官の思想に思いを馳せるようになって、中野卒業生が、安易に謀略に手を染めたなどは信じられなくなったし、また信じたくもない。  ただし、「やっていない」ことを証明することは「悪魔の証明」といって不可能であるので、そこに勝手解釈なストーリーが蔓延ることになる。  

 そして、戦後の映画などに登場した盗聴器、マイクロカメラ、隠しインクなどの秘密戦器材や、時限式爆弾、毒ガス、開錠、暗号解読、変装などの秘密戦技術を使用した訓練状況などが、観客を引き付けるストーリー性を持った。 このことで中野学校=スパイ学校、さらには秘密戦実行機関、中野学校卒業生=スパイという認知が短絡思考によって行なわれた。  

 映画などでも「誠の教育」については強調しているが、視聴者はどうしても、わかりやすい、短絡的思考による認知へと向かわざるを得なかった。 ようするには、誠の精神教育の存在を無視して、上述のような点ばかりに注目して表層的かつ断定的な判断をしていては、なんらの教訓を得ることもできないのである。

▼中野学校を封印したことも原因  

 第二に、書籍など販売数を上げるための商売主義や、あるいは自分に注目させる売名行為から、意図的に中野学校を面白おかしく語る輩もいる。これについてあまり触れたくもない。  

 第三に、「中野学校関係者は黙して語らず」を信条として、さまざまな誤解や風説に異議を唱えてこなかった。  戦後は自虐史観が蔓延り、たとえば自衛官でも堂々と身分を名乗ることも躊躇される時代が続いた。ましてや秘密戦という、崇高であるものの、その一方で残虐性を帯びた任務に従事した秘密戦士について語ることが憚(はばか)れたのも致し方のないことである。 しかし、世の中が情報化社会になるにつれ、誤った情報は氾濫するし、容易に入手できる。他方、真実の情報は、結構、「なんだ、そんなことか!」というのが多いので、面白さに欠けてなかなか伝わらない。  

 情報化社会のなかでは、黙っていては負ける。たとえば、中国や韓国が声を大きくして嘘も喧伝したとする。それに反駁しなければ、嘘は真実になる。沈黙は金、ではないのである。

▼筆者の認識不足を大いに反省する  

 筆者は2016年に『戦略的インテリジェンス入門』を上梓した際、佐藤優氏と高永喆氏の共著『国家情報戦略』を引用して以下の記述を行なった。

「終戦後、北朝鮮は現地に残った中野学校出身者を利用してスパイ工作機関を設立していたという。これに関しては、元韓国軍の情報将校であった高永喆は佐藤優との対談において『国防省の情報本部にいた時、北朝鮮のスパイ工作機関が優れた工作活動をしているのは日本帝国時代の陸軍中野学校の教科書を使ってスパイ活動のノウハウを覚えたからだ、と教育されたことがある』との逸話を紹介している」  

 その後、中野学校出身者の親族から構成される「中野二誠会の代表者の方から、筆者は次のメールをいただいた。

「大戦後の中野学校出身者と北朝鮮との関係を結びつけるような事実はいっさい確認できていません。中野学校では教科書を使う授業の際には授業後すべて回収していたと聞いています。しかも敗戦前夜までにすべて焼却したようです。戦後、間違えて卒業生の実家宛のコオリに混入していて見つかった例や、陸軍省のある人物が隠し持っていた教本が出てきた例があるのみです。つまり『陸軍中野学校の教科書』なるものは存在しません」(増刷本では訂正した)  

 高氏がどのような根拠で上述の話をしたかは定かではないが、今日は、中野学校に対する誤った風説があまりにも多く流布している。 筆者も、そうした誤った風説を拡散してしまった。元陸上自衛官で情報に従事していた者として恥ずかしいし、中野学校関係者のみならず、さまざまな読者にご迷惑をおかけし申し訳ないと思っている。  

 「中野学校は黙して語らず」によって恣意的な中野文書が氾濫している。それに対する批判が対外的に行なわれなかったことが曲解を野放しにしていることの原因でもあろう。 慶応義塾大学の「慶応義塾大学メディア・コミュニケーション研究所」の都倉研究会の現役学生が、「陸軍中野学校の虚像と実像」という調査研究を行なっている。その論考集における学生の真摯な研究態度と客観性に配慮した分析は称賛に値する。こうしたテーマに関心を持つ学生諸氏と指導教官に深甚なる謝意を送りたい。  

 最後に申し述べたい。 「わが国の情報史」の連載は、これをもって終了するが、筆者が最も伝えたかったことは、由緒正しき日本の文化、伝統、誠を愛する日本人としての良質なDNAが、明治、大正、昭和、平成、令和へ、戦争のあるなしにかかわらず連綿として伝えられているということである。  

 日本を愛する、愛国心をすててしまったら、真実は見えなくなる。  そして情報、すなわちインテリジェンスを軽視する国は亡ぶ。だから、国家、国民のインテリジェンス・リテラシーを高めることが必要である、ということだ。  そのためには歴史勉強が必要である。その際には、さまざまな説を受け入れる柔軟な思考力と、それを批判的に論駁する二律背反的な思考力を常に持たなければならない、ということである。(おわり)

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