わが国の情報史(41) 秘密戦と陸軍中野学校(その3) 陸軍中野学校の学生選抜と教育方針

▼はじめに

 さて、今回は「秘密戦と陸軍中野学校」編の第3回である。中野学校の学生選抜と教育方針について解説することとする。

▼入校学生は5種類に分類

 1938年7月の後方勤務要員養成所の入所(入校)者(1期
生)の主体は民間大学など高学歴の甲種幹部候補生出身将校から
採用することとし、各師団や軍制学校からの推薦を受けた者を選
抜した。これは、秘密戦士には世の中の幅広い知識が必要である
との配慮による。

 なお、所長の秋草自身も陸軍派遣学生として一般大学(現在の
東京外国語大学)を修了している。

 また、2期学生からは下士官養成も開始し、陸軍教導学校での
教育総監賞受賞者や現役の優秀な下士官学生(乙種幹部候補生出
身)を採用した。さらに中野学校が正規の軍制学校になってから
は陸軍士官学校出身将校をも採用し、戦時情報および遊撃戦の指
導者として養成された。

 1940年8月制定の「陸軍中野学校令」では、入校学生は甲
種学生、乙種学生、丙種学生、丁種学生、戊種学生に分類された。
これは前回述べたとおり、1941年10月には、学校の所管が
陸軍省から参謀本部に移管されて参謀本部直轄校となり、甲種学
生が乙種学生に、乙種学生が丙種学生、丙種学生が戊種学生とな
った。

 では上述の区分にしたがって各種学生を順番に紹介することと
しよう。

(1)甲種学生 
 後方勤務要員養成所および「陸軍中野学校令」(1940年8
月)の乙(陸軍士官学校出身)および丙種(甲種幹部候補生出身
将校)の学生課程を経て、一定期間に秘密戦に従事した大尉、中
尉が対象となった。修業期間は1年間。
 しかし、これは制度として存在したのみであり、中野学校が短
期間で終了したために活用されず。
 なお、この学校で1甲、2甲と称せられた学生は「陸軍中野学
校令」制定前に陸軍士官学校出身者で中野学校に入学を命じられ
た学生の呼称である。
(※注「1甲、2甲」は「陸軍中野学校令」制定後、参謀本部直
轄前の入校)

(2)乙種学生
 陸軍士官学校を卒業した大尉および中尉を主体として、そのほ
か現役の各種将校を推薦により乙種学生として入校させた。修業
年限は2か年、当時の情勢で1年ないし8か月に短縮。1942
年に入校の1乙より、45年入校の5乙まで存続した。卒業生総
数は132人。

(3)丙種学生
 甲種幹部候補生出身の教育機関である予備士官学校の学生から
試験を行なった後に採用した学生であり、修業年限は2か年、当
時の情勢で1年ないし8か月に短縮。中野学校の幹部学生の大半
を占めて基幹学生ともいうべき存在。
 後方勤務養成所創設時に入校した1期生、その次に入校した乙
I長および乙I短(いわゆる2期生)、それ以降の乙II長およびと
乙II短は丙種学生である。
 遊撃戦幹部要員としての二俣分校学生、遊撃および情報の臨時
学生は、ともに丙種学生の範疇に属する。
 卒業生総数は本校学生が900人、二俣学生が553人。

(4)丁種学生
 中野学校を卒業した下士官を将校にするための課程学生である。
制度として存在したのみで、実際には活用されず。

(5)戊種学生
 乙種幹部候補生出身や陸軍教導学校において教育総監賞などを
受賞して卒業した下士官学生であって第2期生から採用され、陸
軍中野学校の下士官学生の基幹となった。卒業生総数は567人。

 以上のとおり、中野学校の主体をなす学生は民間大学等高学歴
の甲種幹部候補生出身将校の丙種学生と、陸軍教導学校などを卒
業した下士官学生である戊種学生とが大半であった。

 そのほか必要に応じて遊撃戦の幹部将校を養成するために臨時
に入校を命ぜられた遊撃学生、司令部で情報分析等に勤務するた
めの将校を養成するために臨時に入校を命ぜられた情報学生がい
た。(以上、『陸軍中野学校』より要点を抜粋)

▼卒業生の選抜

 中野学校の基幹をなす丙種学生の選抜要領は以下のとおりである。

1)陸軍省より、師団、予備士官学校、各種陸軍学校に対し漠然
と秘密戦勤務に適任と思われる学生の推薦を依頼する。
2)師団、予備士官学校等において、中隊長等がそれとなく適任
と思われる成績優秀な学生を選び、本人の意思を尊重して、相当
数の学生を選出して報告する。中野学校職員が説明に出向くこと
もあった。
3)中野学校において右報告書に基づいて書類選考し、受験させ
る者を決定し、予備士官学校に通知する。
4)受験者に対し、陸軍省、参謀本部、中野学校職員からなる選
考要員が、それぞれの予備士官学校等(1期生は九段の偕行社)
に出張し、各地における選考の結果を総合して採用者を概定し、
1人あたり1時間の口頭試験を行ない、身体検査する。
5)各地における選考の結果を総合して採用者を概定し、これに
対し憲兵をして家庭調査をさせる。その結果に基づいて採用を決
定する。
6)採用予定者を中野学校以外の東京のとある場所に招集して、
再度本人の意思を確かめ、さらに身体検査をして採用を決定した。

 選抜に際しては、受験生に対して中野学校での勤務内容を秘匿
することと、本人の意思に反して入校強要しないことの2点が留
意された。

▼学生に対する教育および訓練の特色

 中野学校では秘密戦士として必要な各種の専門教育が行なわれ
た。

 秘密戦の特性上、「上意下達」の一般軍隊とは異なり、単独で
の判断が必要となる場面が多々予測される。そのため幅広い知識
の付与と、新たな事態に応じた応用力の涵養を狙ってカリキュラ
ムが組まれた。

 また「謀略は誠なり」「功は語らず、語られず」「諜者は死せ
ず」など、精神教育、人格教育などが徹底された。さらにはアジ
ア民族を欧米各国の植民地から解放する「民族解放」教育もなさ
れた。

 経年的にみるならば、1938年7月の開所からの約3年間は、
海外における秘密戦士(いわゆる長期学生)を育成することを狙
いに教育が行なわれた。しかしながら、1941年末の太平洋戦
争の勃発(開戦)により、卒業後の任地は作戦各軍に赴任するも
のが多くなり、教育内容も次第に戦時即応の強化に重点が指向さ
れるようになった。

 そして開戦後の2年間までの学生は、いまだ戦場になっていな
い関東軍方面要員についての多少の例外があったが、南方地域を
はじめとする支那方面およびその他の地域において、占領地域の
安定確保、民族解放のための政治的施策などをはじめとして、将
来の決戦にそなえる遊撃戦要員としての特技が強く要求されるに
いたった。

 1944年以降は、遊撃戦の教育および研究に最重点がおかれ、
それも外地作戦軍地域内における遊撃戦にとどまらず、本土決戦
に備えて、国内において遊撃戦を敢行するための各種の訓練が開
始された。

▼中野学校が目指した教育方針

 上述のように、中野学校の教育内容は国際情勢の趨勢とわが国
の戦況によって変化した。ただし、中野学校が当初目指した教育
の主眼は、“転属のない海外駐在武官”の養成であった。

 秋草中佐は後方勤務要員養成所の開所にあたって、1期生に対
して「本所は替らざる駐在武官を養成する場であり、諸子はその
替らざる武官として外地に土着し、骨を埋めることだ」と訓示し
た。

 当時、秘密戦の中核ともいうべき軍事情報の収集は、各国とも
に主として海外駐在武官がこれに当たっていた。そのため、武官
には広範な良識と特殊な秘密戦技能を持つことが要求された。

 当時、欧米の場合は情報謀略要員が長年の間、一定の地に留ま
って情報活動を行なうのが通例であった。しかも階級も年功や功
績によって少尉から将官まで順調に昇任したという。

 これに対して、日本の陸士、陸大出身の在外武官は階級を上げ
るためにポストを替えなければならないので、3年もすれば栄転
というかたちで転属するほかなかった。こうした官僚制度により、
在外での秘密戦の効果が妨げられたようである。

 この改善こそが、甲種幹部候補生出身将校による、長期にわた
る在外での情報勤務であったわけである。ある意味、昇任・出世
を捨てて、国家の捨て石としての存在を幹部候補生に求めたとい
える。幼年期から軍人として育てられた陸士出身者ではそれは補
えず、危機対処能力、形に捉われない柔軟な発想力こそが幹部候
補生の強みであった。

▼1期生の教育

 中野学校の当初の教育方針が「替らざる武官」、すなわち海外
勤務に長期間にわたって従事する長期学生の育成にあったこと、
そして1941年から太平洋戦争が開始され、「戦わずして勝つ」
の追求が困難になったことに着目する必要がある。

 つまり、中野学校の教育の原点は、1期生と第2期の長期学生
(乙I長)および乙II長(開戦間近に繰り上げ卒業)に対する教育
への思いであったことを軽視してはならない。

 1期生の教育カリキュラムはしっかりと定まったものではない。
いや、試行錯誤を前提としたものである。ただし、それゆえに関
係者の思いが凝縮しているのである。

 そこで1期生の教育課目についてみてみよう。

(1)一般教養基礎学
 国体学、思想学、統計学、心理学、戦争論、日本戦争論、兵器
 学、交通学、築城学、気象学、航空学、海事学、薬物学
(2)外国事情
 ソ連(軍事政略)、ソ連(兵要地誌)、ドイツ、イタリア、英
 国、米国、フランス、中国(兵用地誌)、中国(軍事政略?)、
 南方地域(軍事)
(3)語学
 英語、ロシア語、支那語
(4)専門学科
 諜報勤務、謀略勤務1、謀略勤務2、防諜勤務、宣伝勤務1、
 宣伝勤務2、経済謀略、秘密通信法、防諜技術、破壊法、暗号
 解読
(※謀略勤務1と2があったのではなく異なる教官により教育で
あったので、筆者が番号はふって区分した)
(5)実科
 秘密通信、写真術、変装術、開緘術、開錠術
(6)術科
 剣道、合気道
(7)特別講座、講義
 情報勤務、満州事情、ポーランド事情、沿バルト三国事情、ト
 ルコ事情、支那事情、支那事情、フランス事情、忍法、犯罪捜
 査、法医学、回教事情
(8)派遣教育
 陸軍通信学校、陸軍自動車学校、陸軍工兵学校、陸軍航空学校
(9)実地教育(往復は自由行動、終わって全員学習レポートを
 提出)
 横須賀軍港、鎮守府、東京湾要塞、館山海軍航空隊、下志津陸
 軍飛行校、三菱航空機製作所、小山鉄道機関庫、鬼怒川水力発
 電所、陸軍技術研究所、陸軍士官学校、陸軍軍医学校、陸軍兵
 器廠、大阪の織物工場、その他の工場、NHK、朝日新聞、東
 宝映画撮影所、各博物館等
(以上、校史『陸軍中野学校』より抜粋)

 ざっと教育課目を眺めるだけで、どのような教育が行なわれた
のか察することができるが、次回はもう少し、教育内容をかみ砕
いて、その特色など説明することとしよう。

投稿者:

atsumori

元防衛省情報分析官。1960年広島県生まれ。退職後、ほそぼそとインテリジェンス・リテラシーの普及活動を開始。著書、『情報戦と女性スパイ』『中国戦略“悪”の教科書』、『中国が仕掛けるインテリジェンス戦争』、『戦略的インテリジェンス入門』など。その他、講演、雑誌投稿など。

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